2006年02月22日
年頭所感
開業して一年。勤務医時代とは比べものにならないくらい精神的に疲れました。特に職員の人間関係などソフト面でのごたごたには時間を大きくさかれたような気がします。ほんとつかれるなぁ〜と何回ぼやいたかしれません。まことにストレスフルです。ストレスといえばその発散に毎年趣味であるスキューバ・ダイビングによく行っていたものですが、去年はとんとご無沙汰してしまいました。ウ〜ンもぐってみたい!
ところで、私は、研修医の2年は大学の医局に居りましたが、医局の雰囲気になじめず、3年目に飛び出してしまいました。入った先は、徳洲会。一から各科を回るスーパーローテイトをし、医師4年目に離島医療教育なるもので、鹿児島・与論島にやってきました。
以後、院長と喧嘩してやめるまで、なんと1年と6ヶ月この島で過ごすことになるのですが、当時はすぐ本土に帰るつもりでおり、実際若い医師は3ヶ月ももたないといわれておりました。鹿児島・与論島!地図を開いてもらえればわかるのですが、沖縄が本土復帰を果たす70年代初頭まで日本の最南端でありました。鹿児島市から約560km。人口6千人あまりで島の周囲は車で20分あまりで一周できる。産業は農業と漁業中心で一戸あたりの年収は200万もいかないとか。1980年ぐらいまでは離島ブームで観光で栄えたこともあり、一万人近くいたことがあったそうですが、その後過疎化が進み今日に至ったそうです。まずしい島です。唯一の娯楽施設は小さいしなびたパチンコ店ぐらい。しかし、島の人々はそれを吹き飛ばすにあまりある明るさを持ち、ちょっと海へ、といってはリーフに囲まれた遠浅の沖縄本土をはるかに上回るエメラルドグリーンの海で素もぐりにて、たこや熱帯魚(これがうまい!)をとってきては黒糖焼酎片手に砂浜で宴会をやる。のんびりと流れる時間のなかで穏やかな一生を送っているように、私には見えた。そんな島の暮らし、島の人々に見せられたのか、なんやかんやで思わぬなが滞在となってしまいました。
もうひとつ、はまってしまったのが、そう!ダイビングです。ここで国際ライセンスの免許をとり、週末には必ずもぐった!。もぐった!。もぐった!。常に透明度は15メートル以上を保ち、海底は山あり砂漠あり洞窟あり。はたまた沈船やグランドキャニオンよろしく冒険心そそる穴場あり。当然カラフルな熱帯魚は24億匹以上共存。そう、知る人ぞ知るダイビングのメッカだったのです。この島に来るダイバーはリピーターが多いとのこと。この島のもうひとつの人気の秘密は、20以上のダイビングポイントまで船で15分以内という手軽さがある。とにかく滞在した1年と6ヶ月。南の島の生活を存分に楽しんだものでした。
ながながと書いてしまいましたが、もう少し御付き合いください。それは与論の医療人類学的、民俗学的エピソードです。この島ではじめに味わった終末期医療のひとコマです。それは、75歳の成人T細胞性白血病の患者の臨終の際のできごとでした。(少し、島での私の医師としての仕事振りを少し書きます。与論病院には1人の外科、内科2人がおり、私は内科系を担当。しかし、時間外では内科各科小児科皮膚科はいうに及ばず、外科、整形外科、泌尿器科、はたまた産婦人科領域の患者までみておりました。また重傷度もまちまちで軽いのから喀血を伴う肺臓損傷の外傷やら指切断、血圧低下の不安定狭心症、幼児の重症喘息、性格異常から見つかった慢性硬膜下血腫などなどあとから考えると冷や汗たらたらの症例をみていました。)いざ、そのときをむかえて家族を呼び、もはや心電波形がフラットとなろうとするせつな、その患者の奥さんが「うちのひとを自宅につれて帰ってくれ」とういう主旨のことを与論方言で言ってきた。その方がいいという地元の看護師の勧めもありしぶしぶと病院の救急車で患者を連れて帰る。自宅の床の間に寝かされた患者の周囲には30人近い人だかり。その中でいつものせりふを口にする自分。朝5時50分がそのときであった。頭がボーッとする中でぼんやりとその患者との出会いから入院、いままでののことを考えていた。約30分もすぎただろうか。いざ帰ろうとふと柱時計をながめると5時50分。えッ、と思い腕時計は6時25分。また、その家の別の時計をみるとやはり5時50分となっていた。後で知る事となったが、与論島では独特の死生観がある。死者は自宅で葬るもの。病院でなくなるとその魂が残ってしまう。臨終の時から二日間家中の時計を止めて、そのひとにゆかりのある人々―周辺地域含め200人〜300人―がとっかえひっかえやってきてドンちゃんさわぎをして死者と最後のお別れをして見送る、というものでした。確かに与論病院には霊安室がなかったのです。その宴のあとに本葬があり、また、200〜300人がやってきてお別れをする。えッ、香典料はすごい額になるねぇ、だって?島の掟で一律千円ときまっているとのこと。また、埋葬方法も死者が自然に還るという意味で最初の3年は土葬、その後は石棺とのことだが、最近の土地事情からその風習は、廃れてきているようです。また、こんな患者が居りました。47歳男性。酒を大いに好むが、子が3人いて子煩悩。90にもなろうとする母親をひとりもつ。
食欲がないと言って外来にきたが、診ると黄疸がバリバリ。エコーでは多発性の腫瘍が肝臓を占拠し、腹水が溜まっていた。末期がんという宣告を平静に受け止め、死んでいった。彼にあるとき、死が怖くないかと問うと、「怖くない。あの世の世界の暮らしが待っている。」と平然とこたえた。うそのような本当の話です。島の人たちは昔ながらの死生観の上に今を生きており、現代の社会風潮に左右されない生活を送っている。ガーンと、自分は打たれた思いでいっぱいだったことを思い出します。
その後、冒頭で書きましたが、当時喧嘩っ早い自分はあることで院長と喧嘩し島を離れることとなりますが、この島での出来事は私の人生の中で忘れられない思い出をいっぱい作ってくれたと感じています。―くそぅ、早くまたハリセンボンを追い掛け回してみたい!
―皆様にとっていい年でありますことをお祈り致します。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
ところで、私は、研修医の2年は大学の医局に居りましたが、医局の雰囲気になじめず、3年目に飛び出してしまいました。入った先は、徳洲会。一から各科を回るスーパーローテイトをし、医師4年目に離島医療教育なるもので、鹿児島・与論島にやってきました。
以後、院長と喧嘩してやめるまで、なんと1年と6ヶ月この島で過ごすことになるのですが、当時はすぐ本土に帰るつもりでおり、実際若い医師は3ヶ月ももたないといわれておりました。鹿児島・与論島!地図を開いてもらえればわかるのですが、沖縄が本土復帰を果たす70年代初頭まで日本の最南端でありました。鹿児島市から約560km。人口6千人あまりで島の周囲は車で20分あまりで一周できる。産業は農業と漁業中心で一戸あたりの年収は200万もいかないとか。1980年ぐらいまでは離島ブームで観光で栄えたこともあり、一万人近くいたことがあったそうですが、その後過疎化が進み今日に至ったそうです。まずしい島です。唯一の娯楽施設は小さいしなびたパチンコ店ぐらい。しかし、島の人々はそれを吹き飛ばすにあまりある明るさを持ち、ちょっと海へ、といってはリーフに囲まれた遠浅の沖縄本土をはるかに上回るエメラルドグリーンの海で素もぐりにて、たこや熱帯魚(これがうまい!)をとってきては黒糖焼酎片手に砂浜で宴会をやる。のんびりと流れる時間のなかで穏やかな一生を送っているように、私には見えた。そんな島の暮らし、島の人々に見せられたのか、なんやかんやで思わぬなが滞在となってしまいました。
もうひとつ、はまってしまったのが、そう!ダイビングです。ここで国際ライセンスの免許をとり、週末には必ずもぐった!。もぐった!。もぐった!。常に透明度は15メートル以上を保ち、海底は山あり砂漠あり洞窟あり。はたまた沈船やグランドキャニオンよろしく冒険心そそる穴場あり。当然カラフルな熱帯魚は24億匹以上共存。そう、知る人ぞ知るダイビングのメッカだったのです。この島に来るダイバーはリピーターが多いとのこと。この島のもうひとつの人気の秘密は、20以上のダイビングポイントまで船で15分以内という手軽さがある。とにかく滞在した1年と6ヶ月。南の島の生活を存分に楽しんだものでした。
ながながと書いてしまいましたが、もう少し御付き合いください。それは与論の医療人類学的、民俗学的エピソードです。この島ではじめに味わった終末期医療のひとコマです。それは、75歳の成人T細胞性白血病の患者の臨終の際のできごとでした。(少し、島での私の医師としての仕事振りを少し書きます。与論病院には1人の外科、内科2人がおり、私は内科系を担当。しかし、時間外では内科各科小児科皮膚科はいうに及ばず、外科、整形外科、泌尿器科、はたまた産婦人科領域の患者までみておりました。また重傷度もまちまちで軽いのから喀血を伴う肺臓損傷の外傷やら指切断、血圧低下の不安定狭心症、幼児の重症喘息、性格異常から見つかった慢性硬膜下血腫などなどあとから考えると冷や汗たらたらの症例をみていました。)いざ、そのときをむかえて家族を呼び、もはや心電波形がフラットとなろうとするせつな、その患者の奥さんが「うちのひとを自宅につれて帰ってくれ」とういう主旨のことを与論方言で言ってきた。その方がいいという地元の看護師の勧めもありしぶしぶと病院の救急車で患者を連れて帰る。自宅の床の間に寝かされた患者の周囲には30人近い人だかり。その中でいつものせりふを口にする自分。朝5時50分がそのときであった。頭がボーッとする中でぼんやりとその患者との出会いから入院、いままでののことを考えていた。約30分もすぎただろうか。いざ帰ろうとふと柱時計をながめると5時50分。えッ、と思い腕時計は6時25分。また、その家の別の時計をみるとやはり5時50分となっていた。後で知る事となったが、与論島では独特の死生観がある。死者は自宅で葬るもの。病院でなくなるとその魂が残ってしまう。臨終の時から二日間家中の時計を止めて、そのひとにゆかりのある人々―周辺地域含め200人〜300人―がとっかえひっかえやってきてドンちゃんさわぎをして死者と最後のお別れをして見送る、というものでした。確かに与論病院には霊安室がなかったのです。その宴のあとに本葬があり、また、200〜300人がやってきてお別れをする。えッ、香典料はすごい額になるねぇ、だって?島の掟で一律千円ときまっているとのこと。また、埋葬方法も死者が自然に還るという意味で最初の3年は土葬、その後は石棺とのことだが、最近の土地事情からその風習は、廃れてきているようです。また、こんな患者が居りました。47歳男性。酒を大いに好むが、子が3人いて子煩悩。90にもなろうとする母親をひとりもつ。
食欲がないと言って外来にきたが、診ると黄疸がバリバリ。エコーでは多発性の腫瘍が肝臓を占拠し、腹水が溜まっていた。末期がんという宣告を平静に受け止め、死んでいった。彼にあるとき、死が怖くないかと問うと、「怖くない。あの世の世界の暮らしが待っている。」と平然とこたえた。うそのような本当の話です。島の人たちは昔ながらの死生観の上に今を生きており、現代の社会風潮に左右されない生活を送っている。ガーンと、自分は打たれた思いでいっぱいだったことを思い出します。
その後、冒頭で書きましたが、当時喧嘩っ早い自分はあることで院長と喧嘩し島を離れることとなりますが、この島での出来事は私の人生の中で忘れられない思い出をいっぱい作ってくれたと感じています。―くそぅ、早くまたハリセンボンを追い掛け回してみたい!
―皆様にとっていい年でありますことをお祈り致します。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
2005年12月30日
今年最後の診療を終えて
早いものでこの一年が終わろうとしている。開業して一年一ヶ月。
いろいろありましたが、なんか久しぶりにがむしゃらに生きたという感じがする。
勤務医のころは、ただ患者さんのことさえ目を配っておけばよかったが、開業はそうは問屋が卸さない。経営収支のこと、従業員のトラブル管理のこと、薬の在庫管理からその質的な選定、患者サービスの向上、医師会との付き合いなどなど雑多なことから大局的なことまでとにかく疲れた!って感じである。しかし、その反面すべては自分の意のまま、王様のごとくやり、すべては自分しだいでどうにでもなる世界である。来年からいかに院経営を展開していくか、むぅむぅむぅ、腕の見せ所でござる!
いろいろありましたが、なんか久しぶりにがむしゃらに生きたという感じがする。
勤務医のころは、ただ患者さんのことさえ目を配っておけばよかったが、開業はそうは問屋が卸さない。経営収支のこと、従業員のトラブル管理のこと、薬の在庫管理からその質的な選定、患者サービスの向上、医師会との付き合いなどなど雑多なことから大局的なことまでとにかく疲れた!って感じである。しかし、その反面すべては自分の意のまま、王様のごとくやり、すべては自分しだいでどうにでもなる世界である。来年からいかに院経営を展開していくか、むぅむぅむぅ、腕の見せ所でござる!