今泉昌一の 私事時事

弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

中途半端はやめて 今日の一般質問から


 弘前市議会平成28年第4回定例会は、今日から、一般質問が始まった。僕は、いきなり、初日の出番であった。 
 質問したのは、①先人の遺業をどう後世に伝えるか、②ひろさき卍学について、③いじめを未然に防ぐ教育について、そして④児童の通学の安全について の4項目であった。
 ①は、総論を述べたあと、個々具体的な案件として、津軽為信公の像を現在地から弘前城本丸に移せないかということ、高木恭造の詩碑が置かれている「まるめろ緑地」の整備について、弘前市が計画している美術館における郷土縁の美術家の作品の取り扱いについての3点を質した。偉大な先人は、いわば、都市の財産でもある。どうも、弘前市は、その財産を積極的に活用しようという姿勢に欠けている。と、そんな危惧を、日頃から抱いているからだ。
 ②は、そういった先人の業績をはじめ、弘前の歴史や風土などを、小中一貫教育の中で、子ども達に学ばせようと、市教育委員会が進めている独自の施策だ。僕は、大いに期待している。カリキュラムやテキストの作成など、今現在の進捗状況を訊ねた。
 ③は、最初、少々抽象的な話をした。いじめ対策ではなく、命の尊さを教える教育が必要なのではないかと訴えた。教育長の答弁は、道徳や生活科・理科等の授業で、取り組んでいるとのことであった。
 僕は、そういった授業時間で教えるのもいいが、授業以外の、学校生活全体の中で身につけさせることも重要だと思う。その一つが読書教育だ。
 普段から本に親しむことで、広い世界のことを知ることができる。様々な人の陣営に触れることができる。生きる勇気や目標を見つけることができる。読書は、人間の心を豊かにする、強くすることができる、と半ば信念のように考えている。いじめによる悲惨な事件が増えてきたことと、昨今の子どもの読書離れとは、決して無関係ではないだろうと思う。
 そこから発展して、学校図書室の問題ついて質問をした。事前にもらった学校別図書貸し出一覧によると、ほとんど図書室の利用状況に無関心ではないかと思われる学校が散見されたこともある。ところが、そこで、時間がかかってしまった。質問と答弁が上手く噛み合わなかったこともある。
 その時、後方の、日頃から親しくしていただいている先輩議員から「議事進行」の声がかかった。”いじめ問題”から”図書室問題”に、質問が通告とずれてきているという指摘であった。なんとなく中途半端な気分で、質問を中断せざるを得なくなった。
 でもまぁ、ちょうどいいタイミングだったかもしれない。あのまま図書室のことに突っ込んでいけば、それだけで間違いなく時間切れになっていた。僕はまだ、例えば、学校における小動物の飼育や、④の通学の安全についても、訴えたいことがあったのだ。お陰で、それらについても、短時間ではあったが言及することができた。してみれば、あの「議事進行」は、先輩からの、”制限時間〇分前”の心優しいアドバイスだったのだろう。
 それにしても、学校図書室の現状については、まだまだ改善してほしい点がある。それらは、来年の3月議会で、今度は、別個に項目を立てて続きを行おう。(3136)

 追伸、今日のタイトルは、奥村チヨのヒット曲からいただいた。お色気たっぷりなのだが、「恋の奴隷」や「恋泥棒」などに比べると、印象が薄い。奥村チヨの曲の中で一番好きなのは、ベタだけどやっぱり「終着駅」かなぁ。
 

どっちが先?


 岩木の、産直施設に隣接されたレストランでのできごとである。僕は、そこの味噌ラーメンが大好物なので、友人と一緒に足を伸ばした。 
 ちょうど昼食時だったせいか、入り口付近には、順番を待つ人だかりができていた。さすがに込んでるのかなと思って中を覗いてみると、これがそうでもない。けっこう席が空いている。ただ、前の人の食べ終わった食器が、片付けられないままになっている。
 ウェイトレス(とでも言うのであろうか)は、片付けより先に、新しく入ったお客様の注文をとり、また、できあがってきた料理を運んだりしている。また、レストランの外からソフトクリームを求めるお客様にも対応している。
 さてさて、これは如何なものだろう。僕の感覚では、一組でもお客様が出たら、まず片付けて、外で待っている人を、中に入れて席につかせる。次にまた食べ終えて出た人がいれば、またすぐに片付けて、外の人を入れる。出来るだけ外には長く並ばせない方が、好印象ではないかと思う。
 だって、外で立って待たされるより、中に入って取り敢えずは席に越を落ち着ければ、お客様の心理としては、安心できるはずだ。中で、料理が出るまで多少待たされようが、外であてどなく待つよりは、ずーっとましだ。
 それに、今日のように、席は空いているのに、中に入れて貰えないというのが、最も印象が悪い。一緒に行った友人も、周りで並んでいた人も、皆、寛容な人ばかりでよかったようなものの、電車に乗るときも並ばないと言われている某地方のお客様がいたら、一悶着が起こっても仕方が無い。
 ウェイトレス(とでも言うのであろうか)は、皆、一生懸命働いていた。彼女たちを責める気はしない。(甘いな)
 要は、システムの問題だと思う。例えば、テーブルの片付けに時間が取られるのであれば、食べ終わった食器を洗い口までお客様に運ばせている飲食店もある(大手うどん屋チェーン等)。 水やお茶をセルフサービスにしている店もたくさんある。
 いやいや、基本的には、繁忙時間には、もう一人でも二人でも人員を増やすことだって必要だ。接客サービスという面だけではない。稼ぎ時のランチタイムに、出来るだけ回転数を上げる工夫というのが、経営側には、当然求められるのではないか。
 まぁ、そういう経験はしたものの、僕はまた、何度でもこのレストランは利用するつもりだ。岩木に行くたびに寄ってもいい。だって、ここの味噌ラーメンは、本当に美味しいんだもん。皆様も、是非一度、どうぞ。(7111)

楽器への憧れ


 弘前市吹奏楽団の定期演奏会を聴きに行った。弘前市交響楽団は、僕も会員になっているし、以前演奏会にも行ったことがあるが、吹奏楽団は初めてだった。いや、その迫力というか、押し寄せてくる音のパワーに圧倒された。
 音楽を聴いて感動すると、自分でも何か楽器を演奏してみたくなる。会場を出たとき、一瞬そう思った。この心理は、プロレスを見ると、自分でも誰かに技をかけてみたくなる、あるいは、落語を聴くと、自分でも一席噺たくなる、ということに相通ずるものかもしれない。
 僕は、自分では、音楽の素養が、決して無いわけではないと思っている。カラオケだって、喉を傷める前までは、そこそこの点数を出していた。
 小学校の頃は、ピアノを習っていた(習わさせられていた)。ジャッキー吉川とブルーコメッツが流行っていた時、父親にねだって、フルートを買ってもらった。カラオケなんか無かった時代だ。「ブルーシャトウ」のイントロを吹いて、その後、歌っていた。
  だから、今からだって、何かを練習すれば、それなりに弾けるようにはなれるんじゃないかとも思う。ただ、ネックが二つある。
 一つは、指先が不器用なこと。もともと不器用だったのが、長ずるにつれて、益々動かなくなった。ヴァイオリニストにしろピアニストにしろ、あの細やかで速い指の動きを見ると、とても自分では出来そうにないと、観念してしまう。
 もう一つは、実はこちらの方が深刻なのだが、根性がないのである。自分で言うのもなんだが、何かに一心不乱に取り組むということが苦手だ。出来ないことを出来るようになるまで訓練するという向上心というか、克己心というか、そういうものが著しく欠けている。
 小学校の時のピアノもそうだった。課題曲を、家では一度も練習せず、いきなり教室に行って先生の前で弾かされていた。とてもスラスラいくものではない。先生から、「あなた、初見ができるのね」と、いつも皮肉たっぷりに言われていた。
 まぁ、そんな理由で、楽器を持ってステージに上がるということは、この先、一生なさそうだ。
 今日の演奏会には、知り合いも何人か出演していた。声をあげて応援したり、手を振ったりするわけにもいかず、黙って見ていたが、普段接するのとは違う、真剣な表情で、それぞれのパートに取り組んでいた。
 プロではない。でも、単なる趣味の範囲を超えた、ある種の”生きがい”というようなものが、その表情から見てとることができた思いだ。
 僕に、そのようなものがあるのだろうか? プロレス? 落語? 競馬?・・・、どうも何か違うような気がする。(13803)

自分の中の小さな変化


  東北新幹線、はやぶさ33号の中にいる。大学時代の同期の友人を見舞った帰りだ。彼は今、重篤な病と闘っている。僕としては、ただただ快復を祈るしかできない。
  見舞いに行く前に時間があったので、いつもの通り、神保町を訪ねた。一昨日のブログにも書いたように、岩波ブックセンターは、確かに閉まっていた。ただそれだけで、風景も随分と変わったように思えた。
   街の印象だけではない。冷静に見つめれば、僕の行動パターンも、。間違いなく変わっている。
   例えば、以前だったら、時間に余裕があれば、どこかの店に腰をおろして、生ビールの一杯でも、キューっと飲ったものだ。今日だって、神保町までの途中、柳家喬太郎の落語に度々出てくる、さくら水産をはじめ、手頃な居酒屋の看板を、何軒も通り過ぎた。でも、アルコールを摂取しようなどという気は、ついぞ起こらなかった。肝臓や腸が、酒を拒否しているのだろう。これも時の流れなんだろうと、一人で納得した。
   いつもの古書店に入った。ここは、プロレス雑誌のバックナンバーが揃っている。上京の度に、何冊か購入していた。今日も、そのつもりで行った。
  所謂ビニ本になっているので、中は見ることができない。棚から抜き出して、表紙だけを見ながら記憶を辿り、最後に値札を見る。発行当時は、定価500円前後だったものが、1000円から、高いものでは3000円もする。
   そこで、懐具合と、古くからのプロレスファンとしての価値観を勘案して考える。と、ここまでは、毎回同じだ。
  でも、今日は、悩んだ挙句、一冊も買わずに、店を後にした。60歳を過ぎて、これから身の回りのものを整理しなければならなくなるだろうに、今更、雑誌を増やしてどうするんだ? という考えが頭をよぎったようにも思う。これも時の流れなのだろう。
  でも、その数軒先の古書店の店頭で、落語の本を見つけてしまった。迷わず買ってしまった。
  つまり、僕の中での興味の優先順位が、プロレスから落語へと変わりつつあるということだ。これもまた、時の流れの為せる技なんだろう。
   そんな自分の中の小さな変化に驚きつつ。東京日帰りの旅は終わろうとしている。と言っても、あと弘前駅着までは3時間半。やっぱり東京は遠い。(9209)

ギャンブラーにはならない

 
 久しぶりに、家に早く帰り着いて、NHK7時のニュースを見た。トップが、「カジノ法案」衆議院委員会通過のニュースだった。僕は愕然とした。ニッポンはどうなるのだろうと、その行く末が心配となった。
 ご承知の通り、僕は、競馬ファンである。毎週土日は、スポーツ新聞の競馬欄を見て予想し、月曜日は結果を読んで落胆する、と、そんな暮らしをしている。
 でも、今は、他のギャンブルは一切やらない。競艇も競輪も、パチンコもスロットも、麻雀も花札も、勿論丁半博打もやらない。
 競馬だって、毎週馬券を買うわけではない。予想をして楽しんでいることが多い。たまに買っても、せいぜい数千円単位だ。
 要は、一攫千金を夢見て馬券を買っているのではない。寺山修司風に言えば、運命の神様に自分が祝福されているかどうかを知るために、ほんの数百円の馬券があればいいのだ。だから、ギャンブルで身を持ち崩す人の気持ちがわからない。
 ところが、現実には、ギャンブルをやめられず、多額の借金を抱えてしまう人が、世の中には大勢いる。500万人以上なのだそうだ。青森県と岩手県と秋田県の全人口を足した数より多い。2014年の数字だが、厚労省の発表によれば、ギャンブル依存の有病率は、男性が男性が8.7%、女性が1.8%ということだった。総体では4.8%。これは、アメリカの1.6%や香港の1.8%を、遙かに上回っている。そしてまた、ギャンブル依存の数は、ネット依存やアルコール依存の数よりもずーっと多い。


 この本の中には、ギャンブルから抜けられず、借金地獄に落ちていった実例が、様々なケースに分かれてに書かれている。家庭を崩壊させ、社会からつまみ出され、最後は強盗・殺人にまで手をだしてしまうといった事件だって、決して少なくはない。
 著者は、著名な作家でもあるが、精神科医でもある。医師として、アルコール依存の患者と接し、その更正に努めてきた。それだけに、著者の鳴らし続ける警鐘には、切実なものがある。
 こんな日本に、カジノだなんて、火に油を注ぐようなものではないか。益々、悲惨な、陰惨な事件を増やすことには繋がらないだろうか。
 今日のニュースを見ていたら、推進派の言い分は、「経済成長を推し進める」「経済の活性化につながる」の一辺倒だ。いい加減、経済最優先ではなく、人間にとって何が幸福なのかという視点で、物事を議論すべきではないかと、僕は思う。
 断言する。カジノが出来ても、僕は絶対に行かない。(ホントかな?) それよりだったら、競馬場で丸一日遊んでいた方が、ずっと健康的だ。(6674)

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