今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

さよなら”ナッパ”先生


 人生で一番楽しかったのはいつの頃だろう? 高校時代も楽しかった。大学の4年間も楽しかった。書店の経営は苦しいことも多かったが、でも充実をしていた。議員生活も楽しんでやらせていただいた。今もけっこう楽しみながら生きている。
 でも、一番と言うと、中学生時代かもしれない。恋もした(一方的な片思いだったけど)。プロレスとも出会った。作文で日本一にもなった。本もこの頃が一番読んだかもしれない。  
 その中学校の時の担任の先生が亡くなられた。いただいた案内には、家族葬で執り行うので香典や供花は辞退しますと書かれてあったが、そういうわけにもいかない。取りあえず焼香だけでもさせてもらおうと、黒石の葬祭ホールまで車で行ってきた。  
 ”ナッパ”というあだ名だった。ほとんど本名で呼ばれることはなかったと記憶している。
 父の弟が亡くなった時、忌引きの連絡をするために、母が学校へ電話をかけた。事務員が電話をとったのだが、担任の本名が出てこない。思わず「ナッパ先生につないでください」と言ってしまったと、後に母から笑い話のように聞かされた。でも、それで通じるくらい、”ナッパ”は校内に浸透していた。  
 体育の先生だった。実技がからっきし苦手な僕が、通信簿で”5”をもらったことがある。ペーパー試験の点数がそこそこ(多分100点)だったせいもあるのだろうが、体育の”5”は、最初で最後の、僕にとっては偉業であった。
 バスケットボール部の顧問でもあった。先生が指導していた頃の、附属中バスケ部は、県内でも有数の強豪であった。ある意味、野球部やサッカー部よりも花形だったと言ってもいい。
 そのバスケ部出身のOBたちが、今でも”ナッパ会”というのを創り、交流を続けているという。それだけ生徒たちに慕われた先生だった。僕は、先日も書いたように”帰宅部”だったので会員でも何でもないが、今回の訃報も、ナッパ会の人から教えていただいた。
 初めて選挙に出た時には、先生の自宅を訪ねていった。一票が欲しいからではない。だって、先生が住んでいるのは、弘前市の隣村なのだ。当然、先生に投票権は無い。でも、色々と心配や迷惑をかけてきた悪童として、一応は挨拶をしておきたかったのだ。  
 ・・・そんな思い出が脳裏を駆け巡る。  
 これで、中学時代のクラス担任で、ご存命なのは、恩師のSa先生だけになった。教え子の僕たちももう古希を過ぎている。
 Sa先生には、いつまでも長生きをしていただきたいし、僕らも健康に気をつけて、余生を存分に楽しみたい。あの頃から60年近く経った。本当に歳は取りたくないものだ。(3892)

別離の場所


 長くお世話になっていた、俳句同人「千青」が休刊となった。主宰者兼事務局のS先生が高齢となり、継続が難しくなったためとのことだ。実際に、同人から俳句を集め、それをパソコンで打ち込み、人数分をプリントアウトし製本し郵送する。この作業を、わずかS先生はじめわずか数人で続けてこられたのだから頭が下がる。
 僕は7年ほど前から加わっていたと思う。兼題はなく、毎月5句を投句する。そうして集まった100句を超す俳句の中から、会員各自が、佳作10句と特選句1句を選ぶ。その結果が、翌月小冊子となって送られてくる、という毎月だった。僕はいつも締め切りに遅れて、先生から督促のメールをいただいていた。
 僕と俳句の出会いは、いきつけの居酒屋で行われていた句会に、先輩から誘われて連れて行かれた時からだ。行ってみたら、よく見知った面々が並んでおり、一回で打ち解けることができた。全くの初めてだったにも拘わらず、ちょっぴりだけど点数もいただいた。それ以来、毎月参加するようになった。
 コロナ禍の最中から、弘前読書人倶楽部でも句会が始まった。色々と制限されてどこへも出かけられないのなら、せめて屋内で皆で何かやろうということだった。
 最初は毎週だった。兼題2句と当季雑詠1句、計3区を投句し、集まった仲間の互選で、天・地・人を決めて楽しんでいた。さすがに毎週作句していると、少しずつでも上達していたように思う。
 でも、やがて2週間に1度になり、一月に一度となり、自然と消滅してしまった。
 そして「千青」が無くなったので、このままでいけば僕は俳句と全く無縁になってしまう。別のそれで困ることもないのだが、一抹の寂しさは拭えない。もう少し暇になったら、ライバルのN君が入っているという俳句会にでも顔を出してみようかと思う。
 昨日のブログでも触れたが、今日「千青」のさよならパーティーとでも言おうか、最初で最後の会食会が行われた。何せ誌上句会なのである。俳号しか記載されていない。初めて会う方もいれば、「あっ、あの俳号は貴方だったんですか」といった方もいる。初めて俳号と本名と顔が一致して、それはそれで面白かった。
 会食会が行われたのは、本町にあるS屋という料理店。昨年幕を閉じた弘前文学学校の最後の会食もここで行われた。2年続けて、別れの場所となった。
 確かに、ホテルの一室を借り切るのに比べれば遥かに廉価だし、20前後の小宴会にはちょうどいい部屋もある。でも、文芸関係のフィナーレに選ばれているのには、何か他に理由でもあるのだろうか? ちょっぴり気になった次第である。(
   

浴衣の記憶


 「浴衣を貸して下さい」
 朝、突然、このようなLINEが届いた。何でも、明日の落語に使うのだそうだ。
 はて、困った。あるにはあるんだろうと思う。捨てた記憶はない。  
 ただ、どこにあるのか、さっぱりわからない。だって、浴衣を着るのはねぷたに出た時くらいだし、それだって、もう相当前の話だ。消防団に入ってからは、団の一員として、法被を着て錫杖を鳴らしながら参加していた。
 取りあえず、押入れの中から茶箱を出してみた。これまたもう何年も開けていない。パンドラの匣を開ける気分で蓋を外した。あー、良かった。煙も妖怪も出てこなかった。でも、浴衣も出てこなかった。
 次に、死んだ女房が使っていた寝具入れを見てみた。ここにもない。  
 最後に、駄目もとで、女房の着物箪笥を開けてみた。結婚する時に持ってきた和服が入っている箪笥だ。亡くなってもう15年になるが、まだ手をつけないまま残っているはずだ。それこそ、僕は今まで一度も中を覗いたことがない。  
 すると、その中に、懐かしい浴衣が、きちんと折りたたまれて収められていた。パリッと糊も効いている。女房が洗濯をしてしまっておいてくれてたんだろう。心の中で感謝をし、手を合わせた。  
 さて、その浴衣だが、3種類あった。”土手町”と大きく書かれている物。”下土手町”と書かれている物。そして紺の格子模様の物。  
 土手町の浴衣は、下土手町・中土手町・上土手町の3商店街が連合でねぷたを出すようになってからの物だ。僕も、下土手町の青年部長であったり専務理事として、毎年参加していた。  
 下土手町の浴衣は、さらにその昔、中三デパートはもとより、カネ長武田デパートや紅屋もあって、町に住んでいる人や働いている人がたくさんいたため、下土手町商店街単独でねぷたを出せていた頃の物だ。そんな時代もあったのだ。隔世の感がある。浴衣を見て、思わずため息をついてしまった。  
 僕としては、出来れば、そのどちらかを来て高座に上がってもらい、土手町商店街のPRに繋げたかった。が、残念ながら、名前の書かれていない紺の格子柄の浴衣が借りられていった。
  明日は、午前から昼にかけては俳句同人解散の会食会、午後からはTa議員との打ち合わせ、そして夜は「会派弘前さくら未来」の議会報告会と続くので、僕の浴衣の晴れ姿を観ることができない。はてさて、どんな噺をするのやら、お客様に受けるものやら、何かと気がかりではある。(3810)
 

写文展


 「写文展」という催しを観に、百石町展示館に足を運んだ。市内外で活躍する人の人物写真と、その人を紹介するエッセイ風の文章が、一枚のパネルになって展示されている。数えてくるのを忘れたが、全部で20枚ほどは飾られていただろうか。
 中には、よく存じ上げている人のパネルもある。恩師のSa先生、お菓子屋の若旦那のYa君、ペンクラブ副会長のSeさんなどだ。写文が一体となったパネルではないが、最初の選挙の時からお世話になった、岩木山を考える会の故M先生の写真もあった。
 写真を撮ったのは、プロカメラマンのKuさん。Kuさんは元弘前市議会議員で、僕が3期目の4年間だけ、「無所属クラブ」という名の同じ会派を組んだ。  
 名前は実に曖昧だが、真剣に議員活動を行った。国民保険料値上げが議論の俎上に乗ってきたときには、一緒に市民グループの集会にでかけ、主に主婦層の意見を聞いた。市立病院と国立病院との統合問題の際には、知り合いの某公立病院の院長を招いての対話集会を開催した。会派で行政視察に出かけた時も、僕の立案した超強行スケジュールにもつきあっていただいた。権力に迎合することのない信念を持った議員の一人だった。
 文章を書いたのはSiさん。元M新報社の美人記者だ。現在も様々な分野で活躍をされている。
 Siさんについては、忘れられない思い出がある。と言っても、残念ながらロマンスではない。
 新聞の一面を飾るような大型倒産をさせてから2年後のことだ。ある日、Siさんが僕のところに取材に来た。「あの人は今?」のような狙いだったのかもしれない。僕は、愛犬と散歩をしながら取材に応じた。
 昨日、古い書類箱を整理していたら、その時(2002年8月24日)の新聞が出てきた。読み返しているうちに涙が零れ出てきた。僕が元気に、書店の仕事に携わっていることを、奇を衒うこともない素直な文章で紹介してくれている。
 倒産後は、何度か、僕が自殺したらしいという噂が流れていたようだ。ある時は、僕が電話に出たとたん「あゝ良かった。生きてた」と言われたこともある。そんな噂も、この記事が出てからは、あまり聞こえてこないような気がする。少なくとも、僕に直接生存を確認するような電話はかかってこなくなった。
 というご縁の深いお二人なのである。といった関係を抜きにしても、写真と文章が一体となったこの試みは、観ごたえも読みごたえもある素敵な展示会だ。このブログの読者の皆さんも、是非、足を運んでもらいたい。
 しまった。もらってきたチラシを見たら今日までだった。ごめんなさい。でも、”第一回”と銘打っているからには、二回・三回もあるに違いない。その際には、是非どうぞ。(5020)
 

あゝ 墓じまい


 という訳で・・・どういう訳かは昨日のブログに書いてある・・・、今日、一日遅れで、帰省してきている娘と墓参りに行った。
 空いている。道路も花屋も寺も・・・。一日ずらしただけで、渋滞でいらいらすることも、駐車スペースを見つけられなくて炎天下を歩くこともしないで済む。仏教の習慣かもしれないが、お盆の墓参だってもっとフレキシブルに考えてもいいんじゃないかと、信仰心の欠片もない僕は思った。
 位牌同を拝み、いざ墓地に足を向けた。何か広々と感じる。空き地が目立つせいだ。数年前までは、立錐の余地が無いほど墓石がひしめきあっていたのに・・・。
 思うにこれは、最近よく耳にする”墓じまい”の結果なのであろうか。血筋が絶える、あるいは遠方で別居しているために、お墓を守る人がいなくなる。そのために、先祖代々受け継がれてきたお墓を手放さざるを得ないというケースが増えてきているらしい。  
 今泉家の墓に着いた。見ると、隣に真新しい墓が建っている。我が家の墓の周囲には、比較的古くからの檀家の歴史を刻んだ墓が多く、その墓は異様に目立つ。僕の記憶ははなはだ曖昧だが、少なくとも、去年の秋彼岸に来た時にはなかった。さらにその隣にも、今流行の直方体ではない墓石が立っている。  
 つらつらと考える。以前あった隣の墓の持ち主も”墓じまい”をしたのだろうか。その跡地に新しく墓所を求め墓石を建てた人がいる。そう考えるのが最も自然だ。
 そう思って見渡すと、けっこう新しい墓が散見される。振興の墓地公園でもあるまいし、今までにない光景のように感じられた。
 しかしまぁ、我が家も”墓じまい”を真剣に考えなければならないかもしれない。この先、他家に嫁いだ一人娘に、墓の管理を一切合切任せるのは酷のようにも思う。
 だけど、墓じまいにも、多額の費用がかかると聞いた。今の我が家にはその余裕はない。まさかクレジットカードで分割はしてくれないだろう。まさしく「地獄の沙汰も金次第」ということか。 
 まぁ、僕が生きているうちは、最低限のことはしよう。でも、その後は,野となれ山となれ、なんていったら、またバチがあたるのかなぁ。 
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