今泉昌一の 私事時事

弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

時代おくれ 今日の一般質問から

 
 いやはや大変な時代になった。僕らの世代の常識が通用しなくなった。
 例えば”いじめ”問題である。今日の一般質問で、若手のKi議員が採り上げた。
 質疑の中で、”いじめ”とは、「相手が嫌がること、苦痛と感じること」という定義が示された。ふざけ半分で身体をぶつけることも、軽い気持ちでからかうことも”いじめ”なのだそうだ。教育委員会の答弁では、そういった”いじめ”の初期段階を見逃さないよう、細心の注意を払っているとのことだ。
 誤解のないように、はっきりと断っておくが、僕は決して”いじめ”を肯定するものではない。”いじめ”による自殺などという悲惨な事件は絶対に起こしてはならない。
 と、態度を明らかにした上で、昔を振り返る。僕らが子どもの頃だって、身体をぶつけたり、からかったりなんてことは普通にあった。明らかに”いじめ”と思われる行為だってあった。
 でも、いじめられた子も、いじめた子も、翌日には一緒に仲良く遊んだものだ。それが子どもの世界であった。
 昔の子どもは、人間関係形成力が強かった。と感じるのは、僕が時代遅れのせいなのだろうか。
 例えば”不登校”である。今日の質疑の中で教育委員会は、「学校は誰にとっても居心地のよい場所でなければならない。そういう魅力ある学校づくりをめざす」と答えていた。それは正しい姿勢だとは思う。
 ここでまた、昔を思い出す。僕らが子どもの頃は、居心地が良かろうが悪かろうが、学校へは行くものだと教えられた。実際に僕は、学校ではないが、首に縄を付けられるようにして幼稚園に連れて行かれた記憶がある。小学校に入ると、毎朝親から尻を叩かれて、嫌々登校した。少なくても、僕の周りには、「学校が好きで好きでたまらない」なんて友達はいなかった。
 でも、行けば行ったで楽しかった。先生に叱られても、友達と諍いを起こしても、病気以外で長期に休む子はいなかった。
 昔の子どもは、環境順応力が強かった。と感じるのは、僕が時代遅れのせいなのだろうか。
 例えば昨日は、”置き勉”の話題も出た。児童・生徒の通学時の荷物が重すぎるので、その日、家で使う予定がない教科書や教材を、学校に置いていけるようにするというものだ。教室の机やロッカーを自分の本棚代わりに使うことになる。
 児童(小学生)はともかく、生徒(中学生)までとなると、果たしてどうだろう。自分のことを棚に上げれば、予習・復習はしなくてもいいのだろうか。それで確かな学力は身につくのだろうか?
 また昔話だ。僕らが中学の頃は、英語や国語の授業がある日は、教科書の他に、英和辞典・国語事典も鞄に入れて持っていった。給食なんてなかったから、弁当箱も詰まっていた。鞄はパンパンに膨れていた。
 昔の子どもは、基礎体力があった。と感じるのは、僕が時代遅れなのせいなのだろうか。
 繰り返すが、”いじめ”や暴力は根絶しなければならない。一方で、子ども達の強い心も育てなければならないと強く願う。困難に立ち向かう心、嫌なことから逃げない心、そして何より、命を大切にする心をだ。
 社会に出れば、決して居心地の良い場所ばかりとは限らない。嫌いな人、苦手なこととも付き合っていかなければならない。
 学校で過ごす時間は、そんな社会に飛び出す助走期間のようなものだ。と考えるのも、やっぱり僕が時代遅れなんだろうな、やっぱり。(2885)

 追伸
 タイトルは、ご存じ、河島英五の名曲である。いい曲だ。この歌詞のように生きたいとも思う。ただし、「一日二杯の酒を飲み」とか「一年一度酔っ払う」という箇所は、僕には無理だ。それで済むはずがない。

部活で人間力は養えるのか 今日の一般質問から


 教員の長時間労働が問題になっている。今日から始まった、弘前市議会の一般質問でも、早速、S民党のKa議員が採り上げた。
 中でも、部活動にとられる時間が負担になっているらしい。毎日の放課後の遅くまでの練習、土日の旅に行なわれる対外試合等、超過勤務・休日出勤の元凶とも、一部では言われている。
 実際に某中学校で運動部の指導をしている先生と、酒の席で話をした。少ない手当で毎週のように休みがつぶれるとこぼしていた。もっともその先生は、生徒達の活躍を楽しそうに話してくれた。なんだかんだいいながら、部活動が嫌いなわけでもないみたいだ。
 が、しかし、そうでない先生もいる。重荷に感じている先生も少なくはないだろう。ましてや、クラスの生徒一人一人と向き合う時間が奪われる、授業の準備が充分に出来ないともなれば、本末転倒だ。
 そういう状況を解決するため、学校外から人材を登用する、部活支援員という制度が進められている。その費用は、国・県・市が、三分の一ずつ負担をするのだそうだ。大変な時代になった。
 ん? 待てよ。趣旨は異なるが、僕は、議員になりたての頃から、学校図書館へ専任司書を配置して欲しいと訴えてきた。その度に予算がないと断られた。知り合いの県議会議員に話しても、県教委は頑固でねと言われるだけだった。
 教員の働き方改革のためとは言え、部活の指導者の予算はあっても、司書の予算がない。教育上の必要性からいったら、どちらも同じくらい重要なものではないのか。
 一体、部活の意義は何なんだろう。同じ目的に向かって切磋琢磨することで、チームワークを身につける。友情を育む。あるいは、厳しい練習に耐えることで、克己力や忍耐力や根性を養う・・・といったことが挙げられようか。
 僕は、自慢じゃないが、中学生時代、部活は一切やっていなかった。入学間もない頃、一時、社会科部に入ったが、考えていたものと違っていたので、すぐに辞めた。
 テニスやサッカーに汗を流す同級生を横目に、比較的早く家に帰った。家に帰って何をしていたかというと、本を読んだ。家業が本屋だったことをいいことに、とにかく漁るように本を読んだ。人生の中で、読書欲も読書力も、最も旺盛な時期であった。
 さっきの部活の意義に話を戻そう。では僕は、チームワークが苦手な人間かと言えば、そうではないと自分では思っている。友情を育めなかったのかと言われても、それも違う。友達は多い方だ。まぁ、克己力とか忍耐力とか根性となると、まるっきり自信はないが、それでも社会の中で普通に暮らしている。
 つまり、部活の経験と、その後の人間形成とは、あまり関係がないのではないか。などと、今日の質疑を聴きながら、ふと感じた次第なのである。
 高校では、山岳部に入った。一応、運動部である。毎日(?)トレーニングをした。弘前公園までロードワークを行ない、兎跳びや手押し車で石段を上り下りし、警備員の目を盗んでは、ロッククライミングの真似事よろしく、石垣をよじ登った。最後の仕上げは、本丸の芝生でプロレスの技の練習だ。
 そんなことをしているうちに、いつしか、上る対象が、山からリングへと変わってしまった。それが今でも・・・。
 やっぱり、部活と人間形成は、深い結びつきがある!?(11289)
 

1,2,3 ダァー!!


 「 桜田市長になって、市役所の中は変わりましたか?」
 という質問を、毎日のように、色々な人から受ける。市長選挙の時に、現市長を応援したひとからも、前市長を応援した人からも、両方からだ。
 「さぁ、まだよくわかりませんねぇ」と僕は曖昧に答える。風見鶏になっているわけではない。実際に、役所の中の風通しがよくなったのかどうなのか、過剰な残業が減っているのか、職員の提案が受け入れられているのかなどは、風聞以外の何もしらない。
 施策や業務については、「変わるのはこれからでしょう」と答えている。今年度は、9割が、選挙前の議会で承認されている。新たな政策を打ち出すのは、来年度予算からとなるだろう。
 ただ一つ、一議員として、随分と変わったなぁと思うことがある。それは、市の職員の側から、積極的に説明を求めてくれるようになったことだ。提出した議案の事前レクチュアや、一般質問で通告した事項に対する摺り合わせなどだ。
 僕は、明日から始まる一般質問で、4つの項目を通告しているが、先週も1件、今日も1件、それぞれの担当課から連絡をいただいて、打ち合わせをしてきた。前市長の時も無くはなかったが、今年度に入ってから、その数は確実に増えているように思う。
 さきほど、”摺り合わせ”という言葉を使ったが、あるいは不適当かもしれない。なんとなく”八百長”を想起させるニュアンスがあるが、そういう意味ではない。
 僕は、一般質問には、2つのパターンがあると思う。
 一つは、最初から真剣で切り込んでいく場合だ。これは、提案された議案や、市が発表した計画や方針が、明らかに民意とかけ離れていると確信したときだ。その議案の不備な点、不適切な点、不誠実な点などをビシビシと撞いていく。こういう場合は、当然、手の内を明かさない。事前の打ち合わせなどはしない。
 僕のこれまでの質問で言えば、泉野に建設予定だったスポレク施設の件や、河川敷のゴルフ場の破綻に税金を投入した件、ヒロロのワンフロア高額買い取り件、最近では情報を開示しないまま進めようとした中核病院の件などだ。
 一方、市の課題を指摘して、役所も議会も一緒に解決策を考えようといった問題や、市民からの要望を訴えたいときなどは、ある程度の打ち合わせは必要だ、と最近思えるようになってきた。よりよい答弁、より前向きな答弁を引き出すためには、質問趣旨を充分に説明し、答弁しようとしている内容を聞き、その上で、こういう資料を用意しておいてほしい、追加でこんな質問をすうるかもしれない、というところまでは、手の内を晒しておいた方がいいかもしれない。
 この辺りは、プロレスと似ているかもしれない。プロレスにも、シュートと言われる、俗に言う真剣勝負がある。相手の技を受けない。最初から相手をぶちのめすことだけを考えて闘う。そういう場合は、得てして、殴る蹴るが主体となったり、勝負が一方的に終ったり、凄惨な結果になったり、あるいは、試合放棄やノーコンテストなど不透明な決着で終るケースが多い。
 それとは別に、相手の技を受ける。自分の技も存分に出す。目の醒めるような技の攻防を繰り返すといったプロレスもある。それだって八百長ではない。村松友視風に言えば、真剣を使った殺陣なのだ。流れるような剣さばきの中に、一歩間違えば死にまで至る危険を孕んでいる。
 その両方のプロレスを体現していたのが、アントニオ猪木だった。僕は、市議会のアントニオ猪木になりたい。1,2,3,ダァー!!(6250)

 

本と競馬と血糖と


 一日に二つ以上の予定を入れれば、どこかで損をすることがある。そんなことは、だいぶ前からわかっていた。昨日は、既報の通り、忘年会に出るために、映画の後編を観られなかった。 
 今日も、正午から、弘前ペンクラブ事務局長のK君の結婚披露宴。3時から青森県知事によるブックトークと、2つの予定が入ってしまった。お陰で、披露宴のメインディッシュが出される前に、移動のために席を立たざるを得なくなった。茶碗蒸しにも手を付けられなかった。なんか、もの凄く損をしたような気がする。
 だけど、何せ、知事のブックトークは、弘前読書人倶楽部も後援に名を連ねている。代表として、遅刻するわけにはいかなかったのだ。
 知事とは、最初から、選挙や政治の話は一切しないという約束だった。あくまで”本”に関する話をしていただくということで協力させていただいた。知事もさぞやりにくかったであろう。
 それでも、さすがに頭脳明晰で知られる知事だ。「私の出会った作家たち」というタイトルで、ジャスト1時間、お話しをしていただいた。
 知事は、知る人ぞ知る、元、新潮社の編集社員だった。僕とほとんど同年代(僕が一歳年上)なので、僕が書店業につきたての頃、仕事で新潮社を訪ねた時に、ひょっとしたら、知事も同じ社屋内にいたのかもしれない。不思議なご縁を、勝手に感じている。
 話の内容は面白かった。さすがにマシンガントークで知られる三村知事である。東大文学部時代の奥様との馴れ初めや、新潮社入社時のエピソード、担当した作家たちとの想い出や裏話が、次から次へと口をついて出てきた。1時間の講演時間だったけど、中身は1時間半分もあったように思う。
 その中で、知事が競馬ファンだということを、今日、初めて知った。山口瞳の「日本競馬論序説」や野村晋一の「サラブレッド」を担当した関係で、競馬のことに詳しくなったのだという。
 この2冊は、僕も発刊された当時、購入した記憶がある。僕にだって、寺山修司に毒される前は、真面目に競馬に取り組んでいた時期もあったのだ。遠い昔の話だ。はてさて、これらの本は、今は何処へいったんだろう? 今度、本棚の奥を探してみよう。
 知事とは、政治的立ち位置や政策の方向は、必ずしも一致しているわけではない。むしろ正反対の点もある。と言ってもまぁ、僕のことなんか、鼻にもひっかけていないだろう。でも、少なくも”本”と”競馬”という共通のキーワードが2つもあれば、またいつか、話を聞く機会もあるに違いない。
 ブックトーク終了後の懇親会にも出席した。正午からの披露宴で、メインディッシュのステーキを食べられなかった悔しさをはらすため、こちらのほうでは、手当たり次第、バクバクと口に放り込んだ。明日朝の血糖値測定が怖い。(6556)

街中の映画祭


 中三デパート8階、スペースアストロで上映された「あゝ荒野」を観てきた。主催したのは、NPO法人harappa。日頃から色々と大世話になっていて、今月25日の「長部日出雄を偲ぶ会」でも、ご協力をいただいている。
 作品は、前編・後編合わせて5時間にも及ぶという大作だ。入場前に、後編の終了時間を尋ねたら6時10分頃だという。
 それは困った。実は6時からある社会福祉法人の忘年会にお招きをいただいていて、乾杯の発声を頼まれていたのだ。遅刻するわけにはいかない。かといって、後編の途中、しかもあと20分というところで、席を立って出てくるのも、周りに迷惑をかける。
 そこで、泣く泣く、前編だけを見て会場を後にした。前編だけでも充分に面白かった。後ろ髪を思いっきり引かれた。これ以上頭髪が薄くなったらどうするんだ!?
 久々に観た劇映画だった。以前にも書いたが、僕は、もう10年近く、映画館(シネマコンプレックス)なるものに行ったことがない。時間が無いというのが一番の理由だが、他に、自意識過剰のせいか、映画を観ているところを他人様に見られることに、なにか抵抗を感じている面もある。「議員というのは暇な仕事らしい」とか「あいつは仕事もしないで映画を観てる」なんて、陰口をたたかれることが怖いのだ。(やっぱり自意識過剰?)
 逆に、小さな会場で行なう自主上映会へは、年に数回は足を運んでいる。例えば、今日の上映会も、良質な映画を広めたいという本質的な目的の他に、土手町で開催することで商店街全体の活性化にも寄与したい、という狙いもあると、以前聞いた記憶がある。そういった趣旨・目的に賛同し、観客という立場で活動に参画している、といった気分を、密かに味わうことができるからだ。
 一般社団法人弘前芸術鑑賞会に話題を移す。ここでも、商店街及び周辺にあるホールやスペースを使って、映画や講演、ミニコンサートなどを多数開催し、商店街にお客様を呼び込みたい、といった企画を練っている最中だ。僕も、その一員として、事業に参加している。
 もはや、単なる買い物だけならば、郊外の大型SCやネット通販に凌駕されつつある。商店街が再び勢いを取り戻すためには、文化や生の情報が交流するスペースとならなければいけないのではないか。そんな都市像を描いて、議員としても、商店街OBとしても、一個人としても、活動を続けたい。
 今日は、映画のタイトルに因んで、”荒野”についても書こうと思った。人間到る処に青山あり。そして荒野もある、といった話を・・・。(7690)
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