あれからもう一ヶ月が経つ。弘前市長選のことである。
選挙戦の最中、「前の市長は、箱物をたくさん建てて、税金の無駄遣いをした。Y候補とE候補はその時の副市長いわば腹心だった」といったようなネットへの書き込みをしていた人がいた。 現市長(その時はS候補)の支持者のようだ。
愚かな書き込みである。前市長の選挙でもあるまいし、だからなんだと言いたかったのか?それを言ったらS候補だって部長職だった。何らかの意思決定には係わっていたろうに。
と、市長選を蒸し返すつもりではない。今日は、その”無駄遣い”についての話である。
例えば、子どもの情操教育のために、思い切ってピアノを買ったとしよう。そのこと自体は無駄遣いでは無い。感性豊かな子になってもらいたい。ゆくゆくは音楽家に育てようなどという、親の夢があったのかもしれない。
が、その意に反して、子どもが全く興味も示さず、レッスンにもろくに行かず、数年後には、単なるインテリアならまだしも、物置台になり果てていたとしたら、それは結果として”無駄遣い”の誹りを免れ得ない。要は、当初の目的・目論見通りに、使われるか使われないかの問題だ。
確かに、前市長は、多くの公共施設の新築や改築を積極的に行った。実際に、そういう批判も多々あった。
でも、最初から無駄と思って建てたものはない。弘前市のため、市民のために必要だと考えたからこそ、投資に踏み切ったものだと思う。
だから、それを”無駄遣い”としないためには、市役所も僕らも、もっともっと有効活用をしなければならない。例えば野球場。年に一度のプロ野球だけでなく、二軍戦でもいい、ノンプロでもいい、大学野球の合宿でもいい、色々と誘致できないものか。野球以外の屋外イベントの招致・開催も可能なのではないか。なんてことを考える。
その意味で、今現在、弘前市の最大の無駄遣いは、弥生リゾート開発跡地だ。これまでも何度もこのブログで紹介してきたので詳細は省くが、破綻した三セクによるスキー場建設の跡地を、弘前市が約5億(だったと思う)もの税金で購入した。
それがもう20年余も、ほとんど利活用をされないまま、現在に至っている。わずかに年に2回、親子自然観察会が行われているだけだ。

一旦は木々が倒され山肌もそぎ取られた跡地に、今では青々とした樹木が育っている。ありのままの自然の生態が残っている。この場所を、子どもの自然学習の場や、市民の憩いの森として開放できないものかというのが、数年来の課題なのだ。
結果としての”無駄遣い”を批判するのは誰でもできる。”無駄遣い”に終わらせないための知恵や工夫を、一緒に考えたいと思う。
実は、部屋の片隅に、歳をとったら弾いてみようと思って買ったキーボードがある。6年間、箱に入ったまま、まだ開梱すらしていない。こういうのを究極の”無駄遣い”っていうんだろうなぁ、きっと。(4131)
自分の市長としての功績として、歴史に名が残る!と、おだてたら良いかもね。
久渡寺子どもの森の整備計画に当時の久渡寺の住職に掛け合う当時の市長。
やたらにやり過ぎ市長の批判があるK市長も、よく考えたら、今の弘前のために有益な事業をたくさん。
ヒロロ、市役所、博物館や市民会館や図書館、死ぬまでに見たい世界の素晴らしい絶景の花筏の実現、さらに、高岡歴史館の開設に直談判。
私の亡き叔父も、当時の福士市長の秘書として、弥生いこいの広場や第1回弘前城雪灯籠祭りの開始には大活躍。
叔父の姉たる私の母、私、叔父の家族と開始の時に自家用車で行きましたね。
子どもの私が遊んでいても、叔父は日曜出勤しながらも、来場者に楽しめる様に!と様々な気遣いや対応。
公務員の理想の姿を目の前で私は見ていたかもよ。
ちなみに日曜に母と遊びに行った、りんご公園のりんご花祭り。弘前市役所農政部りんご課のS課長さんは、農家さんの協力で作る、りんご箱やりんごのオブジェの記念写真スポットで自らシャッター係をしたり、来場者が楽しめる様に様々な気遣いや対応。
見ていたら、私の子ども時代の叔父の日曜出勤の時を思い出しました。
母も褒めてましたね。
姓名を聞いた母が(なんだか、聞いた名前だね。昔、勤務していた小学校の校長先生の息子さんでないかな。息子さんが市役所は聞いた事があるよ。もう、その校長先生は故人だけどね)
弥生リゾート跡地をいこいの広場や子どもの森みたいに整備したら、功績として歴史に残る!は是非におだてながら、話すべきかも。