久しぶりに、何も予定の入っていない日曜日。一人っきりで、弘前読書人俱楽部にいた。来館者も誰も来なかった。
 こんな日は、溜まっているデスクワークをこなすに限る。いくつかの作業を終えたあと、依頼されていた現行の執筆に取り掛かるこおとにした。
 某団体の長が、とあるイベントで行う挨拶の原稿である。こんな感じでという概要を聞き取りしたのは、もう1ケ月も前だ。しかも、それを、録音したのではなく、僕の自己流速記で書き留めておいただけだ。数日もすれば、何て書いてあるのか、自分でも読めなくなってしまっている。
 いやはや苦労しながら書き始めたが、まだしっくりいかない。結局、今日のものにはならなかった。
 先日は、友人から、遠くに住む恩人が亡くなったとの報せがはいったので、取り急ぎ送るための弔意の手紙を書いてくれと頼まれた。今まで、たくさんの代筆は経験してきたが、これは初めてのケースだった。
 頼まれたはいいが、その人と恩人との詳しい関係がわからない。適当に書いてやったら、それでは違うと駄目だしがあった。それと、文章が硬いとも言われて、翌日書き直した。
 かように、代筆屋稼業も、楽ではないのである。
 いや、”稼業”というのは正確ではない。辞書で引くと”稼業”とは「生計を維持するための職業」とある。僕の場合、基本ボランティアだ。
 それが嫌だと言っているのではない。自分の持っている技術(?)が、誰かの役に立てれば、何より嬉しいだけだ。
 一方で僕は今、しがない年金生活者である。これから先20年以上は生きるとして、やはりまだまだ稼がなければならない。
 そこで自分自身を冷静に見つめた場合、今さら肉体労働もできないし、ITだかDXにもついていけないし、何か資格があるわけでもないし、結局、書くか喋るしか取り柄がない。こんなことなら、手に職をつけておけばよかったと後悔しても、後の祭りだ。
 まぁ、悔やんでみて仕方がない。どなたか、原稿なり代筆なりの注文はいただけないだろうか? 議員が登壇して読み上げる質問原稿からラブレターまで、場合によっては宇能鴻一郎ばりの文章まで、硬軟長短内容は問わない。勿論、仕事として引き受けたからには、このブログで散見されるような誤字・誤変換等がないよう、しっかりと推敲を行う。(ほんとかな?)
 今日は、先日の弔文のお礼だと言われて、居酒屋で一杯ごちそうになってきた。夕食代が浮いた。何だかんだ言って、立派な”稼業”になっている気がしないでもない。