
僕とカルチャロードとの係わりは深い。たくさんの思い出がある。
そもそも僕が青年会議所に入ろうと思った直接の動機がカルチャロードであった。
僕が学生の頃、父親が下土手町商店街の理事長を務めていた。その父に、銀座の歩行者天国の盛況を直にみてきた僕は、土手町も歩行者天国をやればいいのにと提案をした。そうしたら、下土手と中土手の商店街振興組合で、何度も警察にお願いをしたんだけで、首を縦に振ってくれないんだと話していた。
ところが、大学を卒業し、浦和での書店の修業を終えて帰ってきたら、土手町の歩行者天国が「カルチャロード」という名前で行なわれていた。聞けば、主催しているのは弘前青年会議所という団体ということだ。
僕は驚いた。だって、当時の土手町と言えば、弘前を代表する大店(?)が並んでいて、その店主達が陳情しても出来なかったことを、青年会議所という若者の団体が実現をさせた。なんという素晴らしい団体なんだろう。と、単純に感激したのが始まりだった。
それからというもの、自分が土手町に店を構えている関係か、青年会議所の中でも、色々な形でこのイベントに携わってきた。一方で下土手町商店街の青年部長という立場もあって、二股をかけるような格好でカルチュアロードと係わってきた。
青年会御所の最後の4年間は、3年間は担当副理事長、最後の1年は理事長としてカルチュアロードの運営に当たった。副理事長の3年間で、土手町商店街連合会青年部との共催という形をとり、理事長の年に移管を果たすことができた。
会議所とも商店街とも全く別に、僕個人として、みちのくプロレスの大会をカルチュアロード特設会場で行なったことも、懐かしい思い出だ。Kパチンコの駐車場にリングを設営したのだが、場外乱闘で、レスラーが体当たりしていって、パチンコ店のシャッターを壊したことも、今では笑い話だ。
悲しい思い出もある。青年会御所の広報委員として、カルチュアロードについて、土手町の商店主にアンケートを取って回った。そうしたら、一部の店から「却って売上が落ちるからあまり望んでいない」という回答があった。数ヶ月も前から、商店街活性化という目的もあって、汗を流して準備をしてきているのに、と悔しい思いをした記憶がある。
残念ながら、今でも、そのように考えている商店があるのだろう。今日も、シャッターを閉めたままの店が目立った。廃業してしまっているのなら仕方がない。でも、定休日だからなんて理由で閉めていたのなら、なんとも勿体ない。以前よりは少なくなったとはいえ、今でも、通常の日曜日の何倍もの人が街に出てくる。そのチャンスを活かそうとしない心構えに、失望を隠せなかった。
一本裏通りにあるG水食堂は、正午前だというのに、入りきれない人が外に並んでいた。普段は並ぶのが嫌いな僕も、せっかく街に出てきたのだから、噂のオムライスを食べるために列の後ろについた。15分ほど待ってようやく中に入れた。それから更に20分程でオムライスが前に出てきた。
なるほど、これが評判の味か。美味しいと思ったのは、決して長く待たされたせいばかりではないように思った。(6422)
追伸
今日のタイトル「思い出が多すぎて」は、高木麻早のヒット曲からいただいた。1974年の曲である。1974年も、猪木対小林はじめ、僕にとっては思い出の多すぎる年だ。
以上の事は前日の宮下知事の子育て世代だけに給付金にも当たります。地域に色々な世代が居なくてはいけないです。子育て世代の若い人だけ残す街ならばいずれ人口減少、街の財政はなくなります。