「謙譲の美徳」という言葉がある。相手を立てて自分は控えめでいるという行為を讃えた言葉だ。あるいは、常に謙虚な姿勢でいることが大切だと教える言葉と言ってもいい。
例えば、僕がいかに美男子だからといって、「今泉さんって見れば見るほどハンサムですね」と
言われて、「はい、その通りです」と答えてしまえば、もう僕の人格は地に落ちてしまう。そこは「いえいえ、そんなことはありませんよ」と謙遜するのが美しい行為なのだ。そのことは、常に心掛けてきたつもりだ。
ところが、そんな僕にも世の中に、絶対に謙遜したくないものがいくつかある。その一つが、弘前公園の桜だ。「弘前公園の桜は見事ですね」と言われれば、素直に「はい、そうです」と答える。そればかりか、別に全国の桜の名所を見比べたわけでもないのに、「日本一だと思います」なんて言ったりすることもある。それくらい、公園の桜は素晴らしいと自信を持っている。
でも、年々、公園からは足が遠ざかっている。車で行けば渋滞に巻き込まれる。近くまで辿り着いても駐車場を探すのに手間がかかる。お金もかかる。かといって歩いて行くのは億劫だ。
それに、独りで行ってもつまらない。一緒に花を愛でる相手がいるのならまだしも、老人が1人公園を散策するのはどうもピンとこない。徘徊と間違われても困る。
加えて、以前のように、大人数が集って、桜の下で酒盛りということに、段々と距離を置きたくなっている自分がいる。呑むなら自宅か安い居酒屋で、ゆっくり時の流れに身を任せていたい。
・・・要するに身も心も高齢化してきているのだ。
今、弘前市役所では、外堀の桜を上から観賞できるようにと、本館の屋上を開放している。前市長の時から始めた試みだ。

何がいいと言って、岩木山だ。今日は天気も良かったので、山頂からのびる稜線がくっきりと見ることができた。借景に岩木山があるのとないのとでは、景色が全然違ったものになる。改めてそんなことを感じた。
同じことを、林檎でも言われたことがある。青年会議所時代、長野県の小布施町を訪ねたときのことだ。まちづくりのリーダー格だった老舗和菓子店の社長が、しみじみと「長野県の林檎が、弘前の林檎に絶対に勝てないものがある。それは岩木山をバックにした林檎畑に風景だ」と語ってくれた。
僕は、言われてみれば、確かにその通りかもしれないと、いたく得心した。だから30年以上経った今でもしっかりと記憶に残っている。
「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と詠んだのは石川啄木である。岩手山の歌だ。
啄木がもし弘前に生まれていたなら、岩木山のことをどのように詠んだのであろうか。僕だったら「市役所の屋上の縁に佇みて、山に吸われし70の心」と詠みそうだ。(5275)