今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

2016年11月

11月の終わり


 11月が終わった。昨年より寒かったような気がする。雪も既に何回か降った。それでも、まだ、根雪にはなっていない。もって幸いとすべきであろう。
 反省の多い一ヶ月であった。
 まず、平均歩行数が、目標の7000歩には、遠く及ばなかった。寒かったから、なんて言えば、言い訳にしかすぎない。でも、事実、雪と寒さが、歩こうという意欲をそいだ。まぁ、根性が無かっただけではある。
 読書の量も減った。以前にもブログに書いたが、寝付きはそれほどではないが、明け方に熟睡するようになった。その結果、朝読の時間が少なくなった。
 そればかりではない。ここのところ、読書に対する意欲が減退しているように感じる時もある。列車に乗っても、本より先に、スマホを取り出してしまう。これでは、その辺りの、若者と一緒ではないか。大いに反省しなければならない。
 相変わらず、仕事も遅い。今日も、ようやく、締め切りぎりぎりの書類を、市役所に持っていった。実は、まだまだ、締め切りを過ぎた原稿やら書類がある。日々、あせるだけはあせっている。
 休刊日の日数も、思うようにはとれなかった。1回の酒量は押さえてはいるのだが、全く飲まない日も作らなければならない。
 その他にも、毎月のチェック事項として、このブログへのアクセス回数と、平均睡眠時間を、手帳に記録をしている。どちらも、自分の意思だけではどうにもならない事項だが、もともと統計好きの性格からか、手帳の端に書き留め続けてきた。
 お陰様で、ブログを読んでいただいている数は、前月よりも多いようだ。先日、mさんのコメントで、全国の議員ブログランキングのことを初めって知った。以来、 毎日、気にするようになった。何度も言うように、僕は俗人そのものなのである。
 それによると、毎日、第10位の前後をうろちょろしているようだ。どのようなカウントの仕方をしているのかは、さっぱりわからないが、ベスト10だと言われれば、素直に嬉しい。読者の皆様に改めて感謝を申し上げたい。
 睡眠時間は、以前に比べれば、だいぶ改善してきた。眠られず、悶々とする夜は、確かに減った。でも、僕としては、本当は平均8時間は眠りたいのだが、今月も、7時間半を切ってしまった。8時間以上と以下では、脳の働きにおおきな差が出る、というのが、中学1年の中間試験で、寝不足のため、その当時は考えられないような点数を取って以来の、僕の信条だ。
 かように悔いの多い11月が終わって、明日からはいよいよ、今年最後の1ケ月が始まる。寒かろうが雪が降ろうが、年度目標達成のためには、褌を締め直さなければならない。
 早速明日は、大学病院で、血糖値の定期検査の日だ。歩行数も少なく、休肝日も穫れなかった11月を振り返れば、いい結果が出ようはずもない。ドクターから叱責されるのを覚悟で受診しよう。(5629)

ルーツ


 今朝、電話がかかってきた。「あなたのお寺はどこですか?」・・・などと書き出せば、唐突に思われるかもしれない。怪しげな宗教の勧誘や、新手の振り込め詐欺と、誤解される方がいても困る。これには、ちゃんと、前段がある。
 昨日のことである。議会事務局からメールが届いた。愛知県に僕と連絡を取りたがっている人がいるとのことだ。早速、こちらから電話をしてみた。 新城市にお住まいのSさんという方だった。三河地方の郷土史を研究されているという。
 Sさんがおっしゃるには、ある村(申し訳ないが村名は失念した)の村史を読んでいたら、その中に、「同村の今泉伝兵衛が、紙漉き職人として、弘前藩の殿様に招かれて、村を出た」といった件が書いてあったそうだ。そこから、いろいろ調べていったところ、僕がその子孫にあたるのではないか、という問い合わせだった。
 その通りなのである。僕も、両親からは、我が家の先祖は三河出身で、紙漉き職人だったとは聞かされていた。でも、それが、三河地方の文献に残っていたとは、ビックリポンであった。
 しかも、僕は、そこから先の我が家の変遷はわからない。次に僕の知識の中に出てくるのは、明治25年、書店を開業したという辺りだ。約、200年ほど、間が抜けている。
 ところが、Sさんは、弘前に奉職した伝兵衛さんやその弟の、その後のことまで押しててくれた。紙漉き職人をやめ、一人は酒屋を始めたこと。弟の彦兵衛さんは、新田開発に取り組んだことなどだ。いやいや、恥ずかしながら、初めて聞く話ばかりであった。
 そういった昨日の出来事があっての、今朝の電話である。「勝岳院」ですと答えると、「あぁ、やっぱり」と頷いていた。(勿論、受話器の向こう側は見えないが) 先方では、そういうことも資料として残っているらしい。凄い。
 それにしても、その村史から、どうして僕まで辿り着けたかが不思議で、訊ねてみた。そしたら、やはり三河地方出身の博物学者 菅江真澄つながりとのことだった。
 Sさんは、三河の郷土史家として、菅江真澄を研究している。その足跡をたどって弘前にも何度か来たことがあるそうだ。そんな関係で、やはり弘前で菅江真澄を研究をされている方に、「弘前の今泉」を聞いてみたところ、何でも昔本屋をやっていたらしい、という情報を得た。そこで、ネットで調べて、僕のブログを読んでもいただいたりして、とうとう議会事務局に問い合わせてみたとのお話であった。凄い。そのご努力と、調査能力には、頭が下がる思いだ。
 今度、その村史の中の該当部分を、コピーして送って下さるとのことだ。今から、届くのが楽しみである。
 菅江真澄は、数年間ではあるが、弘前藩に召し抱えられていたこともある。その後、晩年は秋田県で過ごした。男鹿を旅行中には、あちこちで、「菅江真澄の歩いた道」という道標を見た。秋田県では、随分と、郷土縁の先人として大切にしているようだ。
 さてさて、我が弘前ではどうなんだろう?(4448)
 
 

 

政治はプロレスだ!? 


 県都青森市の、新しい舵取り役が決まった。官僚出身の小野寺氏だ。まだ若い。
 他所のまちのことなので、僕がとやかく言う立場にはないが、市議会議員の大多数が、選挙の際、応援したとのことだから、これからは、以前みたいに、議会との間がぎくしゃくすることはなくなるのだろう。でも、市長と議会がツーカーというのは、本来あるべき姿ではない。互いに緊張感を持って対峙すべき位置にあるものと思う。
 はてさて、停滞しているといわれてきた青森市。市長が若返って、これからどうなるのであろう。
 ここのところ、 ”政治と金”ならぬ”政治とプロレス”が、世間を騒がせている。いや、面白い。
 野党の国会での議論を、「田舎のプロレス」呼ばわりした、馬鹿な官房副長官は、すぐに謝罪したようだ。だけど、その謝罪は、 野党に向けられたもので、プロレスに対しては謝ってはいない。
 そうしたら、さすがプロレスファンの野党第一党の幹事長が、「プロレスは、肉体を鍛えぬいた人間が、相手の技を自ら受けるものだ」と反論したらしい。相手の技(野党の攻撃)を正面からまともに受けられない人間が、プロレス批判などとんでもない、といった意味だろうか。いやぁ、この攻防、まさしくプロレスだ。
 一方、その幹事長と同じ政党の国会議員が、政治資金を使ってプロレスを観戦したという記事も、数日前の新聞に小さく載っていた。なんでも、リング上から挨拶をさせてもらったので、これは政治活動だと、 事務所の人が判断したとのことだった。
 ひとことで言って、せこい。前都知事と同じくらいせこい。プロレスくらい、ポケットマネーで観なよ。僕も、昨年の選挙の際に、某団体(つがるプロレスじゃないよ)のリング上で紹介してもらったが、しっかりリングサイドのチケット代を自分の小遣いの中から支払った。当たり前のことだ。自慢することでもない。
 しかしまぁ、こちらの国会議員は、プロレスを”政治活動”とリスペクトしてくれている分、”田舎のプロレス”副長官よりはましだ。 今度、つがるプロレスのリングでも挨拶をしてもらう代わりに、政治資金で100枚くらいチケットを購入してくれないだろうか。
 いずれにしても、天下の国会議員がこれでは情けない。単に、場外乱闘を繰り返しているだけのように見える。
 元に戻って、青森市の話だ。新しく船出をする小野寺青森市長には、是非、市政というリングの上で、正々堂々と闘ってもらいたい。相手の技を受ける時もある。受けてもらう時もある。でも、観客(市民)から、「馴れ合いだ、八百長だ」と見透かされたら、プロレスラーは失格だ。
 相手は市議会野党ばかりではない。選挙で応援してくれた議員とも、知事とも、国政政党とも、かつて猪木が提唱し実践したような、ストロングスタイルのプロレスを展開していただきたい。
 だけど、小野寺さんの年代の人に、猪木が馬場が、って話をしても、きっとわからないだろうなぁ。(4555)
 
 

男鹿の旅 Ⅱ


 昨夜は、徹夜で語り明かすつもりが、意外と早くダウンしてしまった。やはり、長距離(僕にしては)運転の疲れもあったのだろう。
 仲間の内の一人は、今夜、高校の同窓会があるとやらで、 朝早くに一人で帰京した。今日は、残った二人を乗せて、男鹿の旅を続けた。
 最初に訪れたのは、なまはげ館である。まだ9時半だというのに、既に、大型の観光バスが、三台ほど停まっていた。かなりの来館者数である。100体以上のなまはげが並ぶ、メインの展示室は壮観であった。
 隣の真山伝承館で、なまはげの実演を見た。大晦日に、「泣く子はいねがぁ、怠けているものはいねがぁ」と、一戸一戸訪ねて、酒を振る舞われて回るのだそうだ。その時の様子を、演者4人で一生懸命再現していた。
 だけど、地域の由緒ある風習だということは充分承知の上で、敢えて、不謹慎な感想を述べさせてもらう。
 一つは、実際のなまはげ(役の人)は、酒が強くなくては務まらないだろうということ。集落に何戸の家があるのかはしらないが、一軒で2杯飲んだとしても、相当の量になる。
 次に、もっと不謹慎な話だが、これは一種の門付け芸ではないか。いや、やっぱりこれは不謹慎だ。撤回しよう。
 更に、今日の実演の中に、なまはげが台帳を取り出し、子どもが勉強をさぼっているとか、嫁が毎晩カラオケに行っているとか言って、家の主人を諫めるシーンがあった。すると、主人は、「まぁまぁ、なまはげ様」と、言い訳をしながら、飲み干された盃にお酌をする。挙げ句の果てには、帰り際にお餅を持たせるという気の使いよう。これではまるで、家族のスキャンダルをネタに、なまはげが強請っているようにも見えた。
 いや、これも不謹慎だ。前言を撤回する。僕のようにひねくれていては駄目だ。素直に鑑賞しなければ。
 僕らが幼い頃にも、親の言うことを聞かなければ鬼が来る、などと言われて叱られたものだ。同様の記憶をお持ちの方も多いに違いない。確かに、ある年齢までは一定の効果があるのだろう。(僕の場合は無かったが・・・)
 そこで、新たな疑問がわいた、なまはげという風習が、半島全体に伝統として残っている男鹿半では、子どもの非行率は、他の地方に比べていかがなものなのだろう? 同種の風習が残っている地域も含め、一度、調査をしてみてはどうだろうか。
 その後、寒風山に登った。なまはげ館の賑わいとは正反対に、実に閑散としていた。もはや、風景だけを売り物にする観光は、成り立たなくなってしまったのだろうか。
 360度見渡すことのできる、そして遠くまで海岸線を見通すことのできる、その眺望は素晴らしいのだが、あまりの寂しさに、山頂の「世界三景」と刻まれた石碑が、なんとも空しく虚ろに感じられた。(4511)

男鹿の旅

  大学時代のサークル仲間三人と、男鹿半島の温泉に来ている。彼らは東京から新幹線、僕は弘前から車で出発して、半島の付け根の観光案内所で落ち合った。
  そこから、二台の車で、海岸線に沿ってドライヴ。男だけというのが残念だけど、晩秋の日本海の景色を堪能した。
  卒業して40年近くも経っているのに、しかも、東京と弘前と、離れて暮らしているのに、未だにこうして、親しく付き合ってくれてもらってる。有難い話だ。
   東京に住んでいる仲間は、年に何回かは、連絡を取り合って飲んでいるらしい。毎年、有志で旅行にも出かけている。必ず僕にも声をかけていただいているのだが、いつもなかなか参加することが出来ないでいる。
  そこで、今回のように、近場に来るときは、出来るだけ参加したいと思っている。前回は、2年前、嶽温泉に泊まった。その時のこともブログに書いた。
   今日は、この後、夜を徹して思い出話しに花が咲くだろう。還暦を過ぎても 、精神年齢は、皆、20歳の頃のままだ。
  明日は山手を横断して秋田まで送って行く。その後、一路弘前へ。天気が崩れると聞いているが、雪にだけはならないでほしい。(5774)
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