今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

2017年01月

反省、後悔、自己弁護


 自分でも、決して根性がある方だなんて自惚れてはいなかったが、これほどまでに自堕落な人間だとは 思ってもいなかった。年頭に立てた目標についての、1月の結果のことである。
 まずは歩行数。お気づきの方もいるかもしれない。今月は、2000歩台、3000歩台と、極端に少ない日が続いた。最後の最後になって、昨日と今日とで23000歩も歩いたのだが、時既に遅し、月平均では6438歩にしか到達していない。目標は、7100歩だった。
 休肝日も同様だ。1月は7回しかなかった。年間目標は150日。月にならすと、12回から13回。遙かに及ばない数字だ。
 今日だって、通夜に出て、市民劇場の打ち合わせに出て、呑まずに帰る予定であった。でも、市民劇場で、ちょうど夕食時でもあったし、ピザでも取ろうかということになった。フライドポテトも安くなるというので注文した。いざ、目の前にすると、ビールに合いそうだ。という、絵に描いたようなパターンで、呑んでしまった。
 目標として掲げなかったが、もう一つ、毎日計測している数値がある。睡眠時間だ。目安は一日8時間。中学生の頃から、8時間眠らないと、翌朝脳が活発に動かないと信じ続けてきた。
 それが、1月は平均6時間49分。どうりで毎日、頭に霧がかかったような状態だった。
 言い訳はたくさんある。寒かった、天気が悪かった。忙しかった。新年会が続いた。視察に睡眠導入剤を持って行くのを忘れたetc。だけど、どれも、言い訳にしか過ぎないことはよくわかっている。単に根性がないの一言に尽きる。
 どんなに反省しても、後悔しても、今さら始まらない。あと1時間ほどで、月が変わる。かくなる上は、来月から仕切りなおして頑張ろう。今年1年間の目標だ。まだ11ケ月もある。徐々に帳尻を合わせていこう。
 というような、切り替えとあきらめの早さには自信がある。
 競走馬には、逃げ・先行・差し・追い込みといった脚質がある。スタートと同時に先頭に立って、そのままゴールまで逃げ切るという戦法を得意とする馬も、スタートから後方にいて、最後の直線で、先行する他馬をごぼう抜きにしてゴールする馬もいる。
 人間にだって、細分化すればきりがないが、大雑把には少なくとも2種類あると思う。夏休みの宿題を、最初の3日間で仕上げてしまって、その後で遊ぶタイプと、最初は遊びまくって、最後の3日間で、泣きながらやるはめになるタイプだ。
 僕は間違いなく後者だ。競走馬で言えば”追込み馬”。思い出すのはミスターシービー。シンザンの次の三冠馬だ。
 でも、追込み馬が追い込めず、殿負けを喫することだってある。競馬用語でいう”後方儘”というやつだ。まさしく、今年の僕の目標は、それに当てはまりそうだ。(11760)

猫のいる風景


 親戚の家を訪問した。遅らばせながらの、新年のあいさつのようなものだ。
 そのお宅には、猫が3匹もいる。その猫ちゃんたちを見るのも、訪問の目的の一つであったりする。
 猫というものは、だけど、なかなか他人には懐かない。懐かないどころか、たまに、人間を見下したような表情を見せる。ジャレついてくる犬とは大きな違いだ。わがままな娘を猫に喩えるのは、何となくわかるような気がする。
 その家の猫も、夏場に行くと、めったに寄ってこない。撫でたり抱き上げたりしようとすると、すぐに逃げていく。それでも無理やり手をやると、爪をたてる。牙をむく。
 ところが、さすがに冬である。一匹は、ストーブの前で丸くなっていて、近寄っても逃げない。 顎の下をさすってやると、気持ちよさそうに身体を寄せてきた。
 もう一匹は、僕の足元に酔ってきた。しばらく背中を撫でてやった。最後の一匹は、さすがに近寄ってはこなかったが、テーブルの向こうで、物珍しそうに僕を見ていた。午後のひととき、ちょっぴりだけだったけど、猫のいる暮らしを堪能させていただいた。
 世の中の人間には、犬派・猫派というものがあるらしい。僕の身近にも、犬は大好きだが、猫は大嫌いという人も、確かにいる。
 僕には、その感覚がよくわからない。犬も猫も、どちらも大好きなのだ。「飼うなら、犬と猫とどっちがいい?」などと聞かれれば、迷わず「両方」と答える。もし、スペースと財力が許すのであれば、犬・猫に限らず、虎でもライオンでも飼育してみたい。
 馬はまた別である。飼育というよりは、馬主になってみたい。
 これまでの人生を振り返ると、本屋に生まれ育って、いろいろとあって、現在は議員を務めさせていただいている。本屋も議員も、自分には天職といえるくらい、やりがいのある仕事だと思う。
 でも、もし次に生まれ変わることができたなら、動物園の飼育員になりたいと思うこともある。勿論、とてもとても重労働だということは充分理解している。それでも、一日中、動物と接していられるという仕事に、なんとなく憧れを抱いている。
 でも、入園して3日目くらいに、「新入飼育員、象に踏みつぶされて重傷」なんて見出しが、新聞を賑わかしそうだ。 やっぱりやめておこう。(2532)

文学日和


 正午から、弘前文学学校の新年会にお招きをいただいた。事務局長のSさんのご自宅で、Sさんの手料理や、生徒さんたちの持ち寄ったおかずに、舌鼓を打ってきた。車を運転して行ったので。残念ながら飲めなかったが、泡盛を持ってきた男の生徒さんもいた。うーん、残念。
 いつも感じるのだが、ここの生徒さん方は、実に仲がいい。文学を学ぶ、創作をするという共通の目的の下、太い絆で結ばれているとでもいおうか。でも、文学愛好家同士、ちょっとした主観や解釈の違いが原因で、仲違いしているケースをよく見聞する。文学学校の皆さんには、そんな狭量の原理主義者にはなってほしくない。
 席上、2月から始まる合評会のスケジュールも決まった。 僕は、初っ端の2月12日に講師を務めさせていただくことになった。
 夕方からは、弘前読書人倶楽部のブックトークを開催した。講師は、弘前学院大学の、川浪亜弥子先生である。会員ではないが、副代表のKuさんの紹介で、 お越しいただいた。
 いや、僕も、満更知らない仲ではない。一度だけ、弘前三田会の会合でお会いしたことがある。それよりも、川浪先生のお父様に、高校時代、英語を教わった。と、そんな仲だ。”仲”と言えるのだろうか・・・? 
 お父様にはお世話になった。というか、ご迷惑をおかけした。
 顧問を務められていた演劇部が日本一になった直後の英語の授業のことである、予め黒板に大きく、日本一おめでとう、と書いておいた。クラス全員分、勿論先生の分も、コーラとお菓子を用意して、机の上に置いておいた。そして、先生が入ってくるなり、拍手で迎え、そのまま乾杯をし、あとはミニ祝賀会に突入して、授業をまるまる一時間潰したこともある。同じようなことが、2~3度はあった。真面目に授業を受けたいという生徒には、さぞや迷惑な話だったろうが、今にして思えば、先生もけっこうノリノリだったように思う。
 さて、今日の演題は、「シェークスピアにおけるレトリックの効果について」というものであった。久々に、生粋の文学トークだ。それも作品論ではなく、英語のレトリックの話だ。アカデミックだった。
 交差配列法、矛盾語法(自己撞着法)・・・などと聞くと、いかにも難しそうに聞こえるが、「ロミオとジュリエット」などの著名な作品から例文を示してお話いただいたので、とてもわかりやすかった。
 実は僕は、このレトリック(修辞学)というのには、とても興味がある。学問的な裏付けは無くても、交差配列法も矛盾語法も、これまでのこのブログの中でも使ってきたように、自分でも思っている。(単なる自惚れ)
 そうだ。これを機に、本格的に勉強して、来年度の文学学校の講義に加えてみよう。まぁ、講師としての首がつながっていればの話だが・・・。
 昼は文学学校、夜はシェークスピア。全くもって、文学的な一日あった。
  

会議の進め方


 弘前市が、全中学校区毎に進めている、「ゴミの減量化・資源化意見交換会」に出席してきた。今日は、総合学習センターで、東中学校区住民を対象にした会合であった。
 実は、僕の住んでいる所は、第一中学校区で、 昨日夜、ヒロロで開催されていた。でも、昨夜は、次期町会長を話し合うという大切な集まりがあって出られなかった。そこで今日、遠慮しながら、一番後ろの席で、皆さんの意見を拝聴させていただいた次第だ。
 参加者は、主催者も含めて、50人弱だったろうか。伝え聞く市民の関心の高さに比べると、心なしか少なかったような気もした。でも、まぁ、今日は2回公演(?)で、午後6時から、夜の部もおこなわれていたはずだ。昼の部に来られなかった人で、あるいは夜の部が満席だったのかもしれない。
 確かに、市民の問題の高さを反映してか、活発な質疑応答が交わされた。予定時間を10分ほどオーバーした。
 以前、議会の一般質問でも指摘したことがあるが、ただパブリックコメントを募集して、座して意見を待つより、今回のように、市民の中に飛び出して、直接意見を聞く方が、よっぽど多くの、そして本音に近い生の声に接することが出来る。そしてそれは、市の条例でも義務づけられている。
 どんな意見や質問が出てくるかわからない状況で、それに即座に対応する、市の担当か職員も、さぞや大変だろうとは察する。でも、今日に限って言えば(他は見ていないから)、適切に受け答えをしていたように思う。なかなかの答弁能力、対応力を発揮していたのではないかと感心した。
 ただ、会議の進め方には、やや疑問を感じた。あまりに時間割を細分化し過ぎていたように思う。
 具体的に書こう。最初に、全体を通した時間配分が発表された。先ずは、弘前市のゴミの現状と課題等について30分。次に、ゴミの減量化と資源化についての質問を受ける時間を15分。その次に、減量化と資源化についての意見を15分。それが終わると、今度は有料化について質問を15分。最後に有料化についての意見を15分というのだ。
 でも、実際は、意見を聞く時間に質問した人も、減量化の意見の時間に有料化についての意見を言おうとして、コーディネーターに中断された人もいた。
 考えてみれば、質問と意見を、明確に区別することは難しい。また、今日のテーマにおいては、減量化・資源化と、有料化を、はっきりと分けて考えることも難しい。普通に考えれば、人間の頭の中には混在してしまう方が自然だ。今日の会議を市がどういう意図で開催したのか、その真意はわからないが、何か結論を出すためでは奈久、広く意見を聴くための会議であれば、何でも自由に発言できるような雰囲気づくりも必要だったのではないかと思う。
 ただ、これは、今日の参加者がどうのこうのというのではなく、あくまで自分自身への戒めとして感じたのだが、時間は自分のためだけにあるのではない。今日のような会議では特に、出席者は主催者であろうが参加者であろうが、それぞれの貴重な時間を割いて来ているのである。だから、発言する前には、自分の頭の中を整理して、的確に核心をつかなければならない。その場で訊かなければならないことと、終了後にでも個人的に担当者に訊けば済むこととを峻別することも必要だ。少なくても、善し悪しは別として、進行役が定めたルールに従わなくてはならない。
 なんて偉そうなことを言えるような自分ではないことはよくわかっている。天に唾をする、頭上に蝋燭を立てるようなものだ。
 でも、僕ら議員は、議論のプロであるはずだ。会議の進め方には、内容と効率を両立させるという、高い見識を持たなければならない立場だと思う。
 あっ、また天に唾を吐いてしまった。(5517)
 

ガラスの物語


 昨日は、約束を違えて、美術館のことを書けなかった。酒のせいである。誠に不甲斐ない。
 今日も、次期町会長を決める重要な打ち合わせがあったりしたのだが、昨日の反省も込めて、富山で視察してきた美術館のことを書くことにする。
 ここは、日本でも珍しいガラス美術館である。「何でと富山にガラス?」と、僕は行く前から不思議に思っていた。おおかた、世界的に名高いガラス美術家が、富山市生まれか、あるいは縁があったのだろうくらいにしか考えていなかった。
 ところが、僕の浅はかな想像は外れた。もっと緻密な、地域に密着した、都市の魅力づくりのドラマがあった。
 富山市には、もともと”越中富山の薬売り”という産業があり、薬の容器としてのガラス作りは行われていた。しかし、それはあくまで容器でしかなく、文化や工芸という域までには達していなかった。
 一方では、お隣の金沢市の加賀友禅のような、全国に通用するような、伝統工芸品が無いことも、市の課題の一つであった。
 そこで、30年前から、もともと地場の産業として存在したガラス造りから、市を代表する伝統工芸品を創りあげよう。ガラス美術を富山から発信しよう、富山をガラスのまちとしてアピールしようという目的のもと、様々な施策に取り組んだ。
 若手を育成するためのガラス工芸に特化した学校の設立、そこで育った作家を支援するためのガラス工房の創設、作品をメインストリートに常設展示するスペースの設置等々だ。学校では、日本や世界を代表するガラス造形家を招いてのワークショップを開催し、学生のみならず、大人から子どもまで、ガラス工芸を体験するような企画も行ってきた。
 その街造りの集大成が、この美術館なのだそうだ。置き薬文化からガラス美術が生まれた。そして、富山からその美しさを発信しようという、壮大な物語りが流れている。
 翻って、弘前の美術交流施設には、そもそもの発想が見えない。どんな美術館を創るのかさえ、プロポーザルという名で、民間に丸投げにされているようにも思える。市としての確固たる理念が感じられない。
 もう一つ、感じたのは、弘前市の目算の甘さである。一昨日のこのブログでも紹介したように、富山市立ガラス美術館は、一年半で、累計24万人強の入場者数を記録している。繰り返し書くが、きちんと根拠のある数え方をした値だ。
 それに関連して、年間の収支を訊ねた。概算で5億円の出費に対して、収入は約5千万円。大赤字ですと、副館長は頭をかいていた。
 この5億円の中には、開館後3年間に限り、特別企画展用の1億円も含まれているそうだ。3年を過ぎれば、企画用の予算も削減される予定だ。
 僕らが視察した時も、「S・リベンスキー  J・ブリフトヴァ」展が行われていた。僕は、”〇〇スキー”と聞けば、キラー・コワルスキーとか、クラッシャー・リソワスキーくらいしか思い浮かばないような野暮天なので(あっ、マルゼンスキーも思い出した。ニジンスキーもいるぞ)、実はよくわからないが、世界的に著名なご夫婦のガラス造形家なのだそうだ。平日の昼下がりだというのに、かなりの数のお客様が来ていた。
 それくらいの予算をかけて大家と呼ばれる作家の作品展を開催しても、年に換算すれば17万人から18万人の来館者があっても、利用料収入は5千万円ほどなのだ。弘前の美術交流施設は、昨年夏に渡された資料によれば、6千万円の収入を見込んでいるらしいが、その根拠は一体何なんだろう。
 目的も、収支計画も曖昧なままスタートしようとしている、弘前の美術交流館計画。まだまだその動向に、注視が必要だ。(6352)
 
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