県内の書店で、「ミムラン先生のチャレンジ百人一首」という本が、軒並みベストセラーとなっている。著者は、三村三千代さん。弘前読書人倶楽部にも何度かお見えいただいたことがある。
今日は、その出版記念祝賀会が青森市で開催された。読書人倶楽部のメンバーと一緒に、ちょっと贅沢だが、弘前からジャンボタクシーに乗って参加してきた。
いやいや、電車代、青森駅からのタクシー代、それに電車の待ち時間、この寒さの中を移動する精神的肉体的負担等を考えれば、あながち贅沢とも言えない。むしろ、車の中で、わいわいと賑やかにお喋りをしながらの道中は、それもまた有意義であった。
さて「百人一首」である。小学生の頃は、家で遊んだ記憶がある。長ずるにつれて、縁遠くなっていった。和歌を嗜むなどといった優雅な青春時代とは、真逆の生活をしていた。
社会に出て、何かで、短歌や詩を諳んじれば、その筋の女性にモテる、なんてことを読んだ。そこで、一冊本を買って、俄勉強をした。
でも、ついぞモテた経験はなかった。だいたい、銀座のクラブならばいざ知らず、弘前の場末の酒場で短歌を詠んだところで、「何、この人? モツケじゃないの」と思われるのがおちだ。
憶えるのには、苦労をした。当時は、プロレスラーの名前や、歌謡曲の歌詞は、いくらでも暗記ができたのに、百人一首だけは(だけってこともないが)、なかなか記憶に定着しなかった。それが証拠に、モテないとわかったとたん、次から次へと忘れていってしまった。多分、動機が不純な上、そもそも歌の意味に共感を持てなかったせいでもある。
それが不思議なものだ。この歳になって、何故か、すらすらと頭に入ってくるような気がしている。
年齢相応の記憶力の低下はあるものの、歌の意味を素直に受け止められる。言葉の順番を憶えるのではなく、意味やリズムから、なんとなく歌が頭の中に浮かぶ。そんな感じだ。
大人になったからなのだろうか? あるいは、もはや、愛だの恋だのの現役を退き、客観的に他人の心情を理解できるようになったからなのだろうか。
帰りのタクシーの中は、そんな会話でも盛り上がった。
今日の祝賀会は、色々な趣向が凝らされていて、とても面白かった。特に、冒頭の競技カルタの実演には驚いた。段位を持つ若い女性二人が対戦したのだが、読み手が一音発しただけで、目にもとまらぬ速さで手が動く。まさに0.1秒を争う闘いだ。記憶力と反射神経、それに体力も要する格闘技だと思った。
僕も、もう少し(かなり?)若ければ、本格的にトレーニングをして参戦してみたかった。そうすれば、確実にモテていただろうに・・・(5852)