今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

2019年02月

恋に陥ちて


 「恋に堕ちて」。なんて意味深なタイトルであろう。だけど、残念ながら、これは僕自身の話ではない(本当に残念だ)。同い年の友人のことである。叶わぬ恋に悩んでいる。
 今夜は、その相談を受けていた。飲み放題1180円の居酒屋でのことである。
 断っておくが、これは、極めプライバシーの問題であり、現在進行形のことでもあれば、当の本人の名前はいざしらず、安易にイニシアルすら書くわけにもいかない。ましてや相手の素性など、例え知っていたにせよ、 間違っても明かすことはならない。
 でも、考えてみれば、63歳にもなって、恋に陥ることができるということは、良い意味にせよ、悪い意味にせよ、驚嘆に値する。それなりに、家族もいれば、社会的な立場もあるのにも係わらず、
自分の恋心を、赤裸々に告白出来る人は少ない。それなりに、彼は真剣なのだ。
 ただ、彼は相談する相手を間違えた。僕に恋愛相談だなんて、180度のお門違いだ。
 何せ、いろいろな本は読んできたが、最も苦手なのは”恋愛小説”だ。渡辺淳一や村上春樹ですら、途中で読み進められなくなってしまった。
 結局、最初の居酒屋では、単に飲んで彼ののろけとか愚痴を聞いたに過ぎなかった。
 でも、次に行ったスナックでは、そこのママが、彼の言い分を、真摯に聞いてくれた、それだけでも、彼にとっては幸せだったのだろうと思う。
 はてさて僕には、誰かに打ち明けたくなるような、心の底からほとばしるような、恋の悩みというものがあるのだろうか? 「無い」わけでもない。だけど、「ある」とも公言できない。そんな話を書き始めれば、いくらでも筆が進みそうな気がする。でも、何せ選挙前だ。女性票を失っても困る。今日は、ここいらでストップしよう。(6090)

 追伸
 小林明子の「恋におちて」は、不朽の名曲だと思う。が、今日、2次会に行ったカラオケスナックで歌ってみた。散々の出来であった。もう二度と歌うことはないだろう。
 








 

議員には出来ないお仕事


 今年は、選挙の年なのである。4月には、青森県議会議員選挙と弘前市議会議員選挙、6月には知事選挙、そして7月には参議院選挙が予定されている。ひょっとしたら、衆議院も突然解散して、総選挙ってこともあるかもしれない。
 選挙となると、もの凄い数の人が動く。 立候補者は勿論のこと、それぞれの候補者の周囲には、応援する人、選挙を手伝う人がたくさんいる。いなければ当選は覚束ない。
 言うまでもなく、投開票の実務にも、大量の人が動員される。電子投票なんてことも一部では進んでいるようだが、まだまだ手作業に拠る部分の方が、圧倒的に多い。
 そんな選挙に係わる仕事の一つに、”投票立会人”というものがある。投票所の一角に椅子を並べて、一連の投票手続きが間違いなく行なわれているかどうかを見守っている方々だ。最初に、投票箱が空っぽであることを確認し、最後に、きちんと施錠されて、各投票所から開票所に向けて運び出されるのを見届けるまでだから、丸半日以上、投票所に居続けなければならないという、ある意味、過酷な仕事だ。
 僕は、正直に言って、この投票立会人が、投票所周辺の各町会の持ち回りであることを、つい最近まで意識したことはなかった。いや、それまでだって、投票に行けば、自分の町の町会長や、隣町の知人の姿が必ずあったので、薄々気がついてはいたが、まさか、自分が当事者になるとは思ってもいなかった。
 最初に、その現実を突きつけられたのは、去年の市長選挙の時である。町会長になって2年目を迎える直前であった。
 町会長宛に選挙管理委員会から手紙が届き、開けてみたら、立会人を推薦してくれという内容だった。自薦でもいいという。
 僕は少し食指が動いた。確かに、朝7時~夜8時までという過酷な(退屈そうな?)仕事ではあるが、一度やってみてもいいかなと考えた。
 そこで、選管に訊きに行った。自分の選挙ではないのだから、僕が立会人になってもいいのかと。
 すると、選管の担当者は、困ったように言った。法に触れるわけではないが、これまで先例が無いのだそうだ。暗に、「やっぱり、まずいんじゃないですか」といった表情に見えた。市長選挙の立会人を市議会議員が務めることには、無理があるようだ。
 僕は諦めて、他の町会役員を探した。幸いにして、引き受けてくれる人がいた。
 今年も同じ手紙が来た。4月7日に行なわれる、県議会議員選挙の立会人の推薦依頼だ。これで2回連続となる。
 市長選挙同様、県議選も、僕らの市議選と投票日が近いため、何かと微妙にリンクしてくる部分もある。今回は、最初から自薦は考えなかった。
 さすがに、去年お願いした人には頼みづらかった。何とか別の人を見つけることができた。明日が締切りなのだが、今日、推薦書を、選管事務局に持参してきた。
 その時、改めて尋ねた。けっこう早いペースで回ってくるものらしい。次は、今年の知事選か参議院選挙になるかもしれないとのことだ。
 そうなると僕は、全くの無色透明だ。今度は自薦してみようかとも思う。もし何か問題があるようだったら、覆面をつけて出てもいい。そっちの方が、大問題か?(10019)
 

立てた! 立った!


 意味深なタイトルである。(って言わなきゃ、誰もわからないか?)
 しかし、当たり前だが、そういう意味では無い。(って、どういう意味?)
 看板他の政治家のものを、よく街角で見かけることも多いと思うが、僕も新しい看板を立てた。それだけの話である。
 こういった看板は、市議会議員や立候補予定者だと、12枚まで立てることができる。候補者個人用6枚と、後援会用6枚までだ。勿論、費用は、候補者または後援会の自己負担となる。
 僕は、最初に立候補をしようとしたとき、本当にお金の余裕が無かった。看板の1枚も立てられなかった。
 それを見るにみかねた方々のカンパで、ようやく6枚、立てることが出来た。そのお金は、当選後すぐに、お返しをした。
 2回目の選挙の前に、デザインを替えて、さらに6枚を立てた。その時は当然、自己資金である。
 しかし、その後、風雨で壊れたり、立てさせていただいていた家主のご都合で、どんどん少なくなっていった。でも、3度目の選挙の際は、1枚も新調しなかった。その結果、昨日まではわずかに4枚が残るのみとなっていた。まぁ、実際のところ、何枚であろうと、ほとんど気にもかけてこなかった。
 ところが、選挙が近くなるにつれて、他の候補の看板が目立ち始めた。特に新人候補の看板だ。有権者の皆さんにどう映っているかはわからないが、同業者の目には、やけに新鮮に見える、勢いとやる気が伝わってくる。正直いって、焦る。
 だからというわけでもないが、今日、新たに6枚の看板を立てた。既存の4枚に加えて、全部で10枚となった。
 前述のように、ルールでは、あと2枚は追加できる。でも、12年前と同じく、お金に余裕が無い。立てたくても立てられないのが現状だ。(うーむ、また、意味深になってきた・・・)
 それにしても、街で自分の看板を見かけることほど、恥ずかしいものはない。特に今回は、顔写真のアップもプリントされてある。目尻のしわまで、しっかりと映っているような感じである。
 明日からは、出来るだけ、自分の看板の前を避けて通りたい。どうしても通らざるを得ない時は、下を向いて、視線をそらして通過することにしよう。
 看板が、こと選挙に関して、どれくらいの効果があるのかはわからない。案外、気にしているのは、同業者同士だけなのかもしれない。
 かといって、何もしないのも考えものだ。ルールで認められていること、無理せず自分でできる範囲の最低限のことは、何でもやらなければならないと思う。
 だって、僕らの目的は、選挙に出ることではない。当選することだ。当選して、議場と言う公式の場で発言し、皆さんの声を、市政に反映することだ。そこを勘違いしている立候補者も、以前は、たまに見かけた。
 まぁ、なんだかんだ言っても、時計の針は、どんどんと進んでいく。看板を立てただけで安心はできない。・・・のだが、安心して、つい深酒をして、ブログの更新がこんな遅い時間になってしまった。我ながら、本当に困った性格だ。(3752)
 

嵐の予感


 4月21日には、弘前市議会議員一般選挙が行われる。今日はその「立候補予定者説明会」が行われ、スタッフのNさんと出席した。
 凄い人数だ。100人以上は入ろうという広いホールが、ほぼ7割方埋まっている。後で聞いたら、現職25、元職1、新人11の、37陣営が参加していたのだそうだ。1陣営から平均2人として、全部で74人ほど。さっきの目算と合致する。
 いやいや、これは大変だ。定数28に対して37人の立候補となると、今までにない大激戦となりそうだ。
 会場を見回すと、見知った顔がちらほらといる。「あいつは僕を応援しているとばかり思ってたのに」「先日会った時には『頑張って下さい』って言ってくれてたのに」「今度の選挙ではあてにしてたのに」なんて人の顔を見つける度、不安がむくむくと頭をもたげてくる。
 でもまぁ、よくよく考えてみれば、この小さなまちで、37人も立候補するのだ。どこかで、誰彼となく、人付き合いが交錯するのも仕方がない。遠い親戚だ、高校の同窓だ、かつての仕事仲間だ、ロータリーだ、ライオンズだ、PTAだとなどと・・・。
 そんな中で、どうしたら自分を選んでいただくことができるのかと言えば、やはり日頃の行いしかない。僕が最も苦手とする部分だ。
 今日は、立候補届け出に必要な、様々な書類を貰ってきた。選管のみならず、警察・法務局・郵便局からも、諸注意事項の説明があった。
 僕も、今度、立候補すれば4度目である。書類の書き方とか、各種の手続きの方法とか、いい加減、頭に入っていてもよさそうなものだが、何せ4年に一度のことだ。すっかり忘れてしまっている。
 それに、毎回、思うことがある。もう少し手続きを簡素化できないものだろうか。そうすれば、もっと立候補する人が多くなって、選挙が盛り上がるのではないだろうか・・・?
 ん? 片方では、今日の参加者が37陣営と聞いて、嵐の予感に怯えている僕がいる。もう片方には、立候補者が増えることで、選挙が活性化することを期待している僕もいる。どっちが本当の僕だろう?(4198)
 
 

昌ちゃん式文章読本  今日の文学学校より


 午前中、弘前文学学校の合評会の講師を務めた。毎年、夏前に発行する作品集「文学いちば」に掲載する、生徒さん方の作品を、事前に皆で批評し合う会だ。
 以前にもこのブログでも紹介したかもしれないが、もの凄い緊迫感の中で行なわれている。それぞれの作品に対して、生徒同士が、遠慮会釈ない感想を述べ合う。誰もがお互いに、作品の瑕疵や表現の祖語を指摘する。時には、ここまで言ってもいいのかと心配になるくらいの厳しい意見も飛び交う。皆、仲間の作品を、より良いものに仕上げようと、真剣なのだ。
 僕はと言えば、今さら言うまでもなく、プロの物書きではない。かといって、熟練の読み手でもない。大体にして、”文学”なんてものとは疎遠の生活をしている。「生きることの意味」とか「愛とは何か」などとまともに考えたこともないし、そんな難しい命題は、むしろ意識的に遠ざけてきた。だから、個々の作品の内容そのものには、口を挟む資格は全く無い。
 では、僕が文学学校に行って、何を指導しているのか? まぁ、昨日のブログでもないが、臆面もなく、分も弁えず、恥ずかしげもなく、作文の技術を専らにべんちゃらしている。
 例えば、僕は、文章のリズムを大切にしたいと思い、冗長なセンテンスよりも、むしろあまり多くない文節で、適度に句点を入れる方が望ましいと考えているのだが、世の中には、一文一文が長い方が上級だ、あるいは美文だと勘違いしている人も多いらしく、時に、4行5行にもなる文を見かけることもある。
 と、上の一文だ。かなり無理をして書いた。読む方にも無理があるだろう。
 「僕は、文章のリズムを大切にしたい。冗長なセンテンスよりも、むしろあまり多くない文節で、適度に句点を入れる方が望ましいと考える。ところが、世の中には、一文一文が長い方が上級だ、あるいは美文だと勘違いしている人も多いらしい。時に、4行5行以上にもなる文を見かけることもある。」と書いた方が、メリハリもあって、よっぽど読みやすいのではないかと考える。
 同じような視点では、読点「、」の打ち方も指摘した。意味のかたまり、息継ぎのタイミングを見計らって、適度に「、」を打つというのも、文章表現上、とても重要なポイントだと思う。
 その他、短い間隔での同一後の重複を避けるとか、語尾に変化を持たせるなどと、随分と偉そうな講釈をたれてきた。このブログが、こんな有様なのに・・・。  
 それにしても感心するのは、生徒さん達の、学ぼうとする態度だ。自分の作品に、かなり辛辣な意見を言われても、皆、素直に聞いている。何人からもの批評を真っ正面から受け止め、作品をブラッシュアップしようという姿勢が、ありありと見える。僕だったらきっと、反発して口論になるか、傷ついて創作を諦めようとするかどちらかだろう。
 有り難いことに、また、来年度も、講師を依頼された。さて、講座のテーマは何にしようか?
 断るまでもなく、そんなに引き出しが多いほうではない。年に2回程度とはいえ、10数年も続けてくれば、ほとんど文学的知識は枯渇している。でもまぁ、人に教えるということは、同時に自分で学ぶということでもあると開き直って、今からでも勉強に勤しみたいと思う。
 さしあたっては、先日、図書館から借りてきた本でも読んでみよう。
 あっ、またプロレス小説だ!?。(5203)
   
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