
この小さな地方都市で、大きなスポンサーも持たぬタウン誌が、40年以上の長きにわたり発行を続けているというのは快挙だ。偉業と言ってもいい。僕は、我がごとのように喜び、500号となった2021年3月号に原稿を書かせていただいた。
僕以外にも、今日の参加者の中には、「月刊弘前」と縁の深い方が多い。例えば、今号だけでも、会員のKaさんとTa君が、特集に原稿を寄せている。同じく会員のSeさんの連載コラムは119回目を数えている。尊敬するTa先輩の川柳エッセイは217回とそれを上回る。
その他にも、特集に寄稿した川柳作家のSiさんも、見開きで連載を執筆しているKa君も、読書人倶楽部の会員だ。そう考えると、「月刊弘前」と弘前読書人倶楽部は、切っても切れない仲なのだと、勝手に自慢したくなる。自分で相合傘を書いて、片方に好きな女のこの名前を書いているようなもので、先方には迷惑な話かもしれないが・・・。
ともかく、「月刊弘前」は、弘前の活字文化のシンボルでもあり、弘前が文化都市を標榜し得る一つの証でもあると、僕は考えている。
実は、弘前には、今から100年前にも”タウン誌”があった。正確には”タウン紙”というべきか。
「茶太楼新聞」という。1920年から1940年まで発行された、地域の新聞である。
内容や編集理念は、「月刊弘前」とは、大きく異なる。ゴシップや暴露記事も多かったようである。芸妓人気投票なんてのもあったらしい。
でも一方で、権力に対する批判や、世相に対するアイロニーにも満ちていた。だからこそ、対象デモクラシーから大戦へと向かう不安定な時代に、読者から愛され、20年間も刊行を続けることができたのだろうと思う。
今日は、読書人倶楽部に出勤(?)する前に、百石町展示館に寄った。「和徳町アーカイブ」というイベントが行われていて、その中に。この「茶太楼新聞」の一部を複製したものの展示もあった。やはり、その中には、当時の弘前が映し出されていた。
弘前には、昔も今も、活字メディアが生まれ定着する文化的土壌があるのだ。そういう弘前が、僕は大好きなのである。(8120)