今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

2022年08月

僕は高齢者?


 一泊二日の大宮への旅から帰ってきた。昨日も書いたように全くの私用である。
 往復とも新幹線を利用した。大宮までなら、空路を使って、弘前→青森空港→羽田空港→大宮と移動するのと、たいして時間差はない。乗り換えも少ない。それに何より、本を読む時間をたっぷりとることができる。
 と言うわけで、大宮駅から読み始めた本がこれ。”アントニオ猪木”本は、これまでも何冊も読んできたが、この本は「1976年のアントニオ猪木」に匹敵する面白さだった。
 例えば、心理学者の諸富祥彦が子どもの頃、両親の夫婦喧嘩が始まると、お母さんが猪木のポスターを指さして、「あんたの本当の父親はこの人なんやで」と言われたこと。猪木が北朝鮮で試合を行った時、金正日がこっそりと観戦していて「プロレスは凄い」と言っていたというエピソード。まだ、団体を違えて敵対していたある日、偶然に新幹線のホームで出会った坂口にかけた猪木の言葉。倍賞美津子とのラブストーリーetc
 多分これまでも雑誌やムックで細切れに紹介されていたことなのだろうが、1冊にまとめられていることで、猪木という人間の魅力と影響力を改めて知ることができる。と、ここまでは、プロレスに関心のない人には、チンプンカンプンかもしれない。ごめんなさい。  
 新書サイズで240ページ足らずの本。この程度のものなら、かつての僕なら、大宮新青森間で、楽に読破できただろう。ましてや大好きなプロレスの本だ。  
 ところが、めっきりと読書力が落ちた。集中力が無い。途中でスマホをいじったり、居眠りをしたり・・・結局、新青森に着いた時は、あと10数ページを残していた。
 まぁいい。新青森から弘前までの在来線の中で読み終えられる。そう考えたのが甘かった。
 時刻はちょうど17時半過ぎ。通勤通学の帰りの客で、座席はどこも空いていない。吊り革に捕まって立っている客もたくさんいる。
 そこで、ふと思った。考えてみれば僕は前期高齢者だ。シルバーシート(優先席)に座ったっていい歳だ。でもだれも席を譲ってくれようとしない。今時の若者は・・・。
 普段は、「年寄り扱いするな!」といきがっているくせに、都合のいい時だけ年寄りになりたがっている愚かな自分がそこにいた。79歳になって大病と闘う姿を公開して、勇気と元気を与え続けている猪木と比べ、我ながらなんて情けないんだろう。反省。(7369)
 

大宮の夜は更けて


  大宮にいる。全くの私用である。今、ホテルの一室で、このブログを書いている。
  20代の頃、浦和の書店で修行をしていた。北浦和に寮があった。だから大宮へは、しょっちゅうと言うほどではないが、年に2〜3回くらい遊びにきていた。が、宿泊するのは初めてではないか思う。
   その頃と比べて、当然のことながら、街の光景はすっかり変わっていた。特に西口は、昔はこんなに商業ビルなんか立ち並んではいなかったように記憶する。やはり交通の要衝という優れた立地の影響だろう。東北新幹線(山形・秋田・北海道も含む)、上越新幹線、北陸新幹線の分岐点となっている他、宇都宮線、高崎線、川越線、埼京線といったJR各線のほか、東部電鉄や埼玉新交通線などが大宮駅に集まっている。
   が、僕の乏しい知識と記憶では、東北新幹線の開通が、発展に拍車をかけたように感じている。というのも、東北新幹線は、開業当初は、大宮が始発だった。終点は盛岡。僕が浦和での修行を終えた翌年だ。
  だから、東京へ出張した際の帰りなんかは、大宮に出て、時間をつぶして新幹線に乗ったものだ。盛岡から弘前へは直通バス。2時間ほど揺られて県境の峠を越えて、弘前に辿り着いた。当時は、それでも、随分と便利になったなぁと感じていたものだった。
  話を戻す。大宮のことだ。確かに駅周辺の風景は変わった。平日の夕刻だと言うのに、歩道は大勢の、特に若い人たちであふれていた。
  が、街が醸し出す雰囲気には、40年前とあまり変わらないものもあった。大宮の人には申し訳ないが、一種の猥雑性とでもいおうか。隣の浦和市が持つ落ち着いた風格とは別の、怪しげだが奥深い街の魅力が残っている。
   今日も、駅からホテルまで歩く途中で、大通りに面した場所に、朝8時半から営業している立ち飲み屋を見つけた。「客引き禁止」という看板は立っているが、いかにも客引きが屯していそうな小路もあった。
   そんな街のど真ん中に泊まっている。つい、聞こえてくるはずのない客引きの声に釣られ、外に飛び出しそうになる。いやいや、こブログを更新しなければ・・・。
   さぁ、ブログを書き終えた。でも、もうこんな時間だ。明日も早いし・・・。
   こうして、大宮の眠られぬ夜は更けていく。(5011)

   追伸
   大宮や鉄道に関する記述は、僕の曖昧な記憶と憶測です。鉄道マニアのアスペルガー山ちゃん様、間違いがあったら、コメント欄で訂正していただければと存じます。


だからビールは止められない 今日の議会報告会から


 既報の通り、議会報告会を行った。コロナやその他の理由で、いつも来て下さっている人の中で、おいでいただけなかった方もいた。逆に、今日初めてご出席いただいた人も数名いらっしゃる。差し引きして、だいたいいつも通りの数の皆様にお越しいただいた。このブログを読んでいない人も多いかもしれないが、改めてこの場で心から感謝を申上げたい。
 実は、今日は特に、同業者の参加が多かった。県議会議員のTu議員。同じ会派を組むTa議員。新たに会派に加わったTo議員。To議員と同じくこの4月に当選したTa議員などだ。さらには、来春の統一地方選挙に立候補の意志をかためているOさんも来てくれた。僕は、分け隔て無く紹介した。
 この議会報告会を始めた最初の頃だから、もう15年も前の話だ。ある同僚議員が聞きに来てくれた。その時は、何の考えも無しに、特に紹介もしなかった。
 そうしたら、当時の後援会副会長から叱られた。わざわざ顔を出していただいたのに、紹介もしないのは失礼だと。確かにその通りだ。爾来、必ずご起立いただいて名前をアナウンスするようにしている。
 また別の人は「選挙になれば敵になる人の名前を売ってやる必要はないのでは」という。が、僕はそういう小さなことはあまり考えない。むしろ、選挙になれば競争相手になるやもしれない議員の報告会に、忙しい中時間を割いて来ていただけることに敬意を表する意味でも、紹介をしなければならないとすら考えている。
 僕も、情報が入れば、出来るだけ他の議員の報告会にも行かせてもらおうと思っているし、これまでも実際にお邪魔をしてきた。方法は勿論、市政に対する視点や主張は違っていても、聞いていて目から鱗が落ちることも少なくはなかった。そうやって互いに切磋琢磨して、よりよい議員活動ができるよう研鑽を積むことはとても大切なことだと考えるからだ。
 が、最近は、滅多に少なくなったようにも思う。この3年間は、同じ会派を組むTa議員の個人報告会以外は、出席したことがない。単に情報が入って来なくなっただけならいいが・・・。  
 今日、来てくれた新人のTa議員は、9月議会の後にでも開催したいという意向のようだ。楽しみだ。是非、聞かせていただきたい。同じ会派のTo議員にも、会派報告会とは別に、いずれ個人報告会にもチャレンジしてもらいたいと思う。  
 本当は、28人議員がいれば、8人がそれぞれにそういった会を開けばいいと思う。その上で理想は、議員全員で、公式に行う議会報告会だ。これまでも議員間の話し合いの場でも提案してきたが、力及ばす、未だに実現していない。今の任期も残り7ヶ月。何とか実施に向けた努力は続けたいと思う。
 報告会終了後、有志で打ち上げに行った。約75分間、喋り続けたあとの生ビールはまた格別に美味かった。(4647)

古いお寺にただ一人


 後輩のお母様のお通夜。久々にお寺で行われた。最近は、弘前でも、葬祭専用ホールが使われることが多い。
 若い頃は、そのようなホールは無かった。お寺か、町会の集会所のような所で行われることが多かった。
 ホールだとそこの職員もいる。お寺や集会所だと、喪主が全て手配しなければならない。そんな訳で、青年会議所時代は、随分とお手伝いに駆り出された。受け付け、下足番、駐車場係り、司会、弔詞・・・それこそ、やっていないのは”仏様”だけといったくらいだった。
 中でも大変なのは下足番。お寺は土足では中に入られない。弔問客は本堂の入り口で靴を脱ぐ。僕らはそれを預かり下足札を渡す。預かった靴を、入り口の脇に置かれた下足棚に順番通りに並べる。雨が降っていれば、傘も預からなければならない。相当数の人員が必要になる。
 それでも、儀式が始まる前はまだ楽だ。が終わった後は大変だ。
 弔問客が一斉に出てくる。下足札を渡され、大きな声でその番号を読み上げる。すると下足棚係が、その番号の靴を持ってくる。手元の札と靴に付いた札の番号を確認して、お客様の足元に置く。その作業を次から次へと、間違わないように手際よく捌かなければならない。立って靴を受取り、しゃがんで靴を置く。何度も何度もスクワットを繰り返しているようなものだ。翌日、太股の筋肉が痛くなったこともある。
 そこへいくと、葬祭ホールはたいてい靴のままで式場に入ることができる。それだけで随分と楽になった。  
 参列する側だって、靴を脱がなくていいのは、簡単でいい。靴下に穴があいていたって気にしなくてもいい。
 それに、今でこそお寺でも椅子を用意しているが、昔は膝を折って座らなければならなかった。特に、一番前に座るはめになったりすると、安易に崩すこともできない。昔から膝の悪い僕にとって、あれは何よりの苦痛だった。  
 加えて、寒い季節だと、後の方のストーブの近くに座るために、少し早めに行ったりしたものだ。その心配も、葬祭ホールだと要らない。
 以上のように、市内にたくさんの専用ホールが出来て、多くの人は、便利になったと感じていることと思う。でも、今日、お寺に行って、本堂の仏像の前で焼香して、やっぱりホールとは違う”おごらみ”を感じた次第だ。
 場所は革秀寺。考えてみたら、毎年、藩粗為信公の法要で訪れている寺だ。だけど今日はまた、その時とも違った雰囲気があった。(6892)

 追伸
 今日のタイトル「古いお寺にただひとり」は、チェリッシュのヒット曲からいただいた。昨日、阿久悠のことを書いたから、よもやとは思って調べたら、これは山上路夫によるものだった。そう「瀬戸の花嫁」の作詞家である。
 

Mucha


 先ず、ご報告させていただく。インターネットに繋がらなくなっていた我が家のパソコンが復旧した。IT美少女Sさんのお陰だ。
 昨夜、Sさんに、別の件で電話をかけた。その時に、パソコンのことも訊いてみた。そしたらすぐにアドバイスをくれた。今朝、出かける前にその通りやってみたら、簡単に直った。患者の身体も見ず、触診もしないで、話を聞いただけで患部をみつける。的確にその治療ができるなんて、名医という以以外形容ができない。いや、僕があまりにも無知すぎるからだけのことかもしれない。
 という訳で、今日は久し振りに自宅のパソコンでこのブログを打っている。やっぱり使いやすい。だからと言って、誤字誤変換が少なくなるわけでもないことは、最初にお断りをしておく。  
 ミュシャさて、本題に入ろう。青森市で開催されているミュシャ展に行ってきた。New’sホールという所だ。前は通ったことはあるが、中に入ったのは初めてだった。
 何と言っても、作品の多さに驚いた。天井まで届きそうな装飾画から、劇場のポスター、クッキーの缶、商品のパッケージ、はては切手まで、展示されている物だけでも500点に上る。如何にミュシャが売れっ子だったか、大衆に支持されてれていたかが、手に取るようにわかったような気がした。
 僕は美術には門外漢なので、ミュシャが美術史上、どのような位置にいるのかはわからない。また芸術家としての評価も知らない。
 でも、おそらく彼は、”芸術”などという意識は無かったのではないか。クライアントから求められるがままに、膨大な作品を描き続けた。まさしくコマーシャリズムの先頭を走っていたのではないか、と勝手に想像する。
 その作品群を見て、僕は二人の日本人を思い浮かべた。西条八十と阿久悠である。僕は一昨年、ある同人誌に、「詩と詞」と題して、主に西条八十のことを書いた。その中で阿久悠にも触れた。
 二人は、日本歌謡史上に燦然と輝く大作詞家である。日本人なら誰でも知っていると言っても過言ではないような、時代を代表するヒット曲を連発した。でも、誰も二人を”芸術家”とは呼ばない。(西条八十は辛うじてひっかるかもしれないが)
 実は僕は、音楽でも絵でも小説でもスポーツでも、そういった物が好きなのである。少なくても”孤高”を気取った人物や作品よりも、大衆を意識した物の方が、僕の感性にはピッタリとくる。
 「ジャンルに貴賤無し」と言ったのは、村松友視である。例えば「クラシック」を”貴”とし「歌謡曲」を”賎”とする、あるいは「武道」を”貴”とし「プロレス」を”賎”とするような通念には、僕は与することができない。まぁ、早い話が、僕には芸術的センスが欠けているだけのことなのである。
 最後に、出来れば、こういった展覧会を弘前でも観たい。が、残念ながら、文化都市を標榜する弘前には、New’sホールのようなスペースがない。立ち並ぶ空き店舗を利用して、多彩な催しを開催できる施設を造れないものか。そんなことを考えた次第である。(5813)
 
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