今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

2022年10月

山形、盛岡、そして弘前


 一泊二日の山形の旅から帰ってきた。東北自動車道・山形自動車道と乗り継いだ車の旅だった。行きも帰りも、同じ会派を組むTa議員が運転してくれて、僕は助手席に座っていただけなので、とやかく言える立場にはないのだが、やっぱりそれでもけっこう疲れた。
 山形市は、初めてではない。かつて、書店経営をしていた頃、書店関係の仕事で一度、中心商店街に建てられた立体駐車場の視察に一度行ったことがある。どちらも七日町商店街を訪ねた。 
 七日町商店街と言えば、その頃は百貨店が複数並び立っていた東北地方でも有数の繁華街だった。羨ましいくらい人で溢れていた記憶がある。
 山形それが、昨日の午後1時過ぎに到着した辺りは、写真のような寂しさだった。日曜日の昼下がりなのにである。ご覧の通り、歩道と車道の間には、自転車専用レーンも設けられている。が、自転車で往来する人もほとんど見かけなかった。
 ブログで紹介した「カラフルパレード」も、この商店街で行われた。参加者は170人と発表されたが、沿道で見ている人はまばらだった。
 もっとも、七日町は、かつての県庁の前から延びる商店街である。今も山形市役所が通りの端にある。それを考えれば、日曜日より平日の方が賑やかなのかもしれない。
 夜の街も歩いた。やはり人通りは多くない。でも、2軒入った居酒屋は、どちらも混んでいた。それこそ日曜日の夜だというのに・・・。
 古くからの中心商店街と繁華街(飲食店街)は、隣接しているケースが多い。銀座がその最たる例だ、と商店街の大先輩が言っていた。そして、商店街の元気が無くなれば、段々と飲食店街に侵食されていくと、金沢市の片町と香林坊を視察に行った時におっしゃっていた。確かに、今の土手町を見ていても、飲食店の進出が目立つ。
 今日、弘前に帰る途中、盛岡南インターで、一旦高速道路を降りて、ロードサイドの大型ショッピングセンターに立ち寄った。中には、中華やパスタ和食等の、10店ほどの専門飲食店が軒を(?)並べていた。平日の午後だというのに、大勢のお客様で混み合っていた。定額での”食べ放題”という掲示が目立った。
 飲食店の力は大きい。味・値段・サービス・ネームバリュー。中心商店街の活性化策を考える際には、そういったことを考慮にいれるべきだろうと、999円(税込み1099円)食べ放題というヤムチャ店の中で考えた。(12299)
 

10人何色?


    山形市に来ている。視察でも研修でも調査でもない。かと言って行楽でもない。まぁ、何というか成り行きだ。「やまがたカラフルパレード」なるものを見にきたのである。
    場所によっては「レインボーパレード」とも言う。いわゆる性的少数者(LGBT)のパレードだ。
    これまでも色々な場面で活動を共にしてきた無所属の方Na議員が、以前からこのことに積極的に取り組んできた。市議会でも提案をし、その結果、弘前市では、東北で最も早く「パートナーシップ宣誓制度」が実施された。そのNa議員から誘われたのだ。根っからの尻軽人間の僕は、誘われればどこへでもついていく。幼少の頃、よく誘拐されなかったものだと思う。
    予め、断っておくが、僕自身は性的多数者である。正直言って、LGBTの気持ちは、よく理解できない。自分には縁の薄いものだと思っている。
    なにしろ「巨人の星」世代だ。星飛雄馬から男の根性を学び、花形満から男のクールさを学び、伴宙太から男の純情を学んで来た。その割に、男らしさとは疎遠に育ってしまった。
    星明子からは、女性の優しさと強さを教えられた。が、そういう女性が、世の中には決して多くないことも、大人になるにつれ、少しずつ教えられた。要するに、現実はともかく、建前上は、男は男らしく、女は女らしくと教育されてきたように思う。
    一方で、LGBTを頭から否定するわけでは決してない。感情や感覚は人それぞれなので、各自が生きたいように生きればいいと思う。生存権、教育を受ける権利、参政権は、憲法で保証されている。どうぞご随意にと言えば、投げやりのように聞こえるかもしれないが、誰も、その生き方を咎める権利はない。
    ただ、一部の人たちだけだろうと思うが、政治利用をしようとしているきらいもあるようで、それは懸念している。例えば、誰か政治家が、彼らとは違う価値観で何か失言をする。すると、鬼の首でも取ろうかいう勢いで非難をし、謝罪を求め、糾弾する。声高に自分の権利を主張して、相手の思想の自由を封じ込めようとする。 多様性という言葉を使いながら、自分たちと異なる立場の考え方を認めない。そこが気になる。まぁ、もっとも、「生産性がない」などという思慮不足の発言をする政治家も政治家だが・・・。
    今日のロゴマークには虹が真ん中にデザインされていて、一色一色の間には、はっきりと境界線が引かれていた。でも、本来、虹の色いうものには境目が無いはずだ。一つの色がだんだんと隣の色と溶け合うように混ざっていって変化する。今日の主催者の一人も、グラディエーションという言葉を使っていた。
    人間の、考え方、価値観もまさしくそうだ。それぞれの生き方そうだが、ひとりの人間だって、決して一つだけの色ではないはずだ。「10人10色」とはいうものの、世の中は、10人15色、20色、いや、もっとあるかもしれない。いずれにしても、そのプラスαの部分を、互いに認め合える世の中にはならなければと思う。(6103)

猪木フォーエバー


 最近は、テレビでもラヂオでも、録画や録音をしていなくても、後から視聴できるようなアプリがあるようだ。「この番組をもう一度視たい方は・・・」なんてアナウンスをよく聞く。
 そんなアプリ(?)の一つに、NHKラヂオの「らじるらじる」がある。だいぶ前に、IT美少女のSさんに、スマホに入れておいてもらっていた。
 でも、正直言って、今まで一度も使ったことがなかった。だいたいにして、滅多に車を運転しなくなった今、ラヂオ聴くことなどほとんどない。新聞の番組表にも目をとおしていない。
 突然、そのSさんから今朝、LINEが届いた。10月23日に放送した「闘魂フォーエバー」という番組が、明日の14時55分まで「らじるらじる」で聴くことができるのだというのだ。
 実はまだ布団の中に入っていたのだが、すぐにアイコンをタップした。いきなり「猪木コール」が聞こえ、田中リングアナの入場アナウンスがあり、古舘伊知郎のしんみりしたナレーションがあった。悲しくなって最初の3分もせずに切った。この番組は、寝そべりながら聴いてはいけない。正座して聴かなければ・・・。
 朝食後、改めてアプリを開いた。今度は最後まで聴いた。
 古舘の軽妙な進行に、田中リングアナや、藤波辰巳等が加わって、猪木の知られざるエピソードを語り合っていた。猪木は駄洒落が下手だ。猪木は失敗した人に優しい。猪木と馬場は仲が悪くなかったetc。初代タイガーマスクや小川直也、全日本プロレスの和田京平レフリー等からのメッセージもあり、あっと言う間の1時間40分だった。多くの人が、猪木から勇気と元気を与えられて生きてきたということが、ストレートに伝わってきた。勿論、僕もその一人だ。「猪木寛二という人間は終えたが、アントニオ猪木というアイコンは人々に受け継がれる」いう言葉が印象的だった。
 まぁ、何を隠そう、正座して聴いていたわけではない。掃除をしたり洗濯をしたりしながら聴いていた。浴室の脱衣所にも持ち込んだ。
 なるほど、シャツの胸ポケットにスマホを入れて歩けば、何処ででも、何をしていってでも、途切れることなく聴き続けることができる。こいつは本当に便利だ。スマホと「らじるらじる」の力を見直した。
 夜に、もう一度聴いた。涙が出そうになった。
 猪木が死んでから、もう1ヶ月が経とうとしているが、僕はまだ猪木ロスの中にいる。
 八甲田山中の蔦温泉に猪木の墓があるという。今月は視察や会議が重なって時間がとれず、まだ行ってない。
 いつかは行かなくては。
 何をさておいても。
 雪に覆われる前に・・・(5836)
 

小さな一歩


 僕が、その親子の野良猫を発見したのは、昨年の10月中旬のことであった。我が家の裏側と接する
隣家の庭にいた。境界には柵も塀もない。いささか、こちら側が高くなっているだけだった。
 日に日に子猫たちは大きくなった。10日後くらいには、その段差を乗り越えて、うちの敷地にも行動範囲を拡げた。やがて、玄関前の陽だまりでくつろぐようになった。
 あっという間に冬になった。昨年のあの豪雪である。僕は、可哀想になって、縁側の戸を少し開けておいた。そしたら親猫がまず入ってきた。それに釣られて、子猫も次々と家の中まで来るようになった。
 僕は、夜の寒さを少しでも凌いでくれればいいくらいのつもりで、最初は戸を開けっ放しにしておいた。出たいときに外に出ればいいと考えていた。
 ところが、何人の方から、それは子猫にとって危険なことだとアドバイスを受けた。他の猫や動物に襲われる、交通事故に遭う、病気に感染する・・・。それで、戸を閉め切って家の中に置くことにした。それからもう、1年近くが経つ。
 実際にそうして保護猫活動の真似事をしてみて、つくづくその大変さがわかった。避妊・去勢の手術代や、餌・トイレの砂等々の経済的負担はもとより、毎日定時に世話をする心的肉体的負担だって馬鹿にならない。
 僕は、2年前くらいの議会の一般質問で、保護猫活動に対する市の見解を問うた。その時は、実践している人の訴えを聞いて、何らかの形で行政として手を貸せないものかという趣旨だった。残念ながら答弁は、「それは県の問題だから」という、きわめてそっけないものだった。
 でも、今はその時と違う。机上の空論ではない。わずか1年足らずだが、体験したからこそ、もっと切実にこの問題を捉えている。
 現実に、30匹も40匹も、個人の負担で猫を世話している人が、弘前には一人二人ではなく、たくさんいる。そういう人たちの献身的な活動があるからこそ、猫がゴミをあさったり、糞尿をまき散らして歩くと行った、地域内のトラブルを防いでいる面もある。何より、捕獲され殺処分になる運命だった小さな命が守られている。
 今日は、保護猫に係わっている3人の方と、4月の市長選挙で「ペットと共生できる街」を公約の一つに掲げて戦ったEさんとお会いした。まずは、個々別々に活動するよりも、横の連絡を密にして、出来るところから助け合えるような組織を作ろうということを改めて話し合った。
 この構想は実は、夏前にも一度あったのだが、コロナ蔓延等でストップしていた。が、今度は、11月下旬に、取り敢えず有志だけでも集って会合を開くことを決めた。何事もまず、少しでも動き出すことが肝要だ。
 この一歩は、人間にとっては小さな一歩かもしれない。でも、猫たちにとって大きな一歩になるよう、是非この運動はスタートさせたいと思う。(5523)
 

「ぼくは本屋のおやじさん」だった


 新聞今朝の地元紙、To日報の社会面に、「街の本屋 生き残り 必死」という大きな見出しが躍った。鰺ヶ沢町の菊谷書店のことが書かれてあった。
 僕が、書店経営をしていた頃、都市部の競争が厳しい環境より、町村部で、町に1~2軒しか本屋が無いようなところの方が、経営は楽かもしれないと、羨ましく思っていたこともあった。が、現実は、そうでもない。町村部の、本も教材も文具も教科書も一手に、ほぼ独占状態で扱っていた老舗書店も、次々と姿を消している。人口減少、ネット購買、電子書籍の流れは、大都会よりもむしろ、規模の小さい町の本屋に対する影響が強いとも言える。
 そんな中で、何とか活字文化を守ろうと奮闘しておられる菊谷書店さんの思いが伝わってきた。是非、頑張ってもらいたい。
 同じ記事の中に、青森県書店商業組合理事長の話も載っていた。それによると、県の組合加盟書店数は30店とある。
 僕が理事長を務めていた時代は120店近く、弘前市内だけでも20店を越す組合加盟の本屋があった。30年足らずの間に、約4分の一に減ってしまった計算になる。
 もっとも、これは、地元の書店が淘汰されたという数字で、中央から進出してきているナショナルチェーン店は、県の組合には入らない。だから、組合員数の減少幅よりは、本屋の数は減っていないということを、蛇足ながら付け加えておく。
 と、このような記事を目にして、感慨に耽っていた午後、市都市計画課と、弘前れんが倉庫美術館から電話をいただいた。11月に、弘前の本屋についてのトークイベントを行いたいので出演して欲しいという話だ。
 「敗軍の将に兵を語らせようというのか」と、思わず冗談を返してしまったが、本屋のことであれば語りたいこともたくさんある。一も二も無く引き受けさせていただくことにした。本屋の盛衰から見る、弘前の街や文化の歴史なんてことも話せるかもしれない。
 主催者側も、まだ、企画を練り上げている段階のようなので、正式に決まったら、このブログでもお知らせする。その際は、是非お越し下さいませ。(4346)

 追伸
 今日のタイトルは、1982年の早川義夫の著書からパクらせていただいた。
 けっこう売れた本だった。特に書店業界人は、こぞって買っていたような記憶がある。
 
 
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