今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

2022年11月

歳末(猫)助け合い


 寒い。雪が降ってきた。慌てて冬用の靴を出して外出した。犬は喜び庭駆け巡るんだろうけど、猫たちにとっては辛い季節がやってきた。
 僕が保護猫活動を始めたことは、これまでも何度かブログに書いた。お陰様で、いくらかは浸透してきているようで、例えば、飲み会の二次会を断っても、先方から「あっ、猫ちゃんが待ってるんですよね」と 、理解を示してもらえるようになってきた。
 さて、僕の議員在職15年祝賀会を開いていただいた日曜日の午前中に、実は、「保護猫の会」を起ち上げていた。その日はダブルヘッダーだったのだ。僕と、市長選挙で「ペットと共生できる街」を公約の一つに掲げたEさんが中心となって、約10名の活動家が集った。
 最初に、参加者一人一人から、現在の状況と困っていることなどをお話してもらった。中には、30匹も保護しているという人もいた。また、駅裏に何十匹と住みついていた野良猫を、根気よく一匹一匹ずつ捕まえ、避妊・去勢手術をした上で譲渡し、今ではほとんどみかけなくなったという事例を話してくれた人もいた。
 皆それぞれに課題を抱えている。手術や治療等の医療費や餌・砂等の費用、近所の人たちの無理解、保護しても保護しても一向に減らない捨て猫の現状、自分が入院したり施設に入ったりした場合の猫の引き取り手云々。他にもまだまだ、数え上げたら切りがないくらいだ。
 そうした悩みや問題を、一人で抱え込まずに、大勢で共有しながら、一緒に解決の道を探ろうというのが、この会設立の狙いの一つだ。「喜びは人に話すことで倍になり、苦しみは人に話すことで半分になる」と、ラジオの「テレフォン人生相談」で、加藤諦三先生もおっしゃっていたような気もする。
 もう一つの狙いは、一人の声は小さいけれど、仲間が集れば、その声も大きくなり力を持つだろうということだ。毛利元就の”三本の矢”などと大袈裟なことまでは言わないが、「ひとりの手」という、ちょうどいい歌がある。リンクを貼ったので聞いてみてほしい。
 結局、個人個人でできることは限られてくる。行政や関係機関に要望なりお願いなりをしなければならないことだって少なくはない。そんな時、組織として声を上げられた方がいいだろうということだ。
 まだ出来たばかりである。具体的に何をやろうというのは、次回の会合からの話だ。取り敢えずは横の連絡を密にして、協力し合えることは協力しようというところから始めたい。
 今日は、ある議員から、「飼っていた猫が死んで、餌や砂が余っているので貰ってもらえないか」ともちかけられ、有難く頂戴してきた。重かったっけど、とても助かった。
 こういう形で、ご家庭で不要になった猫用消耗品が出た時に、ご寄付いただき、それを会員で分配するというのだって、事業計画の一つにあげてもいい。頂戴した餌や砂を家の中に運び入れながら、そんなことを考えた次第だ。そうだ、歳末助け合い・猫バージョンでも始めようか。(4225)
 
 

届かなかった葉書


 もし、お時間があれば、先週の金曜日から昨日までのこのブログを読み返してみていただきたい。議会報告会、トークイベント出演、議員在職15年の祝賀会、そして昨日は二つの会合の梯子と、夜の行事が続いていた。 僕は勝手に、怒濤の4日間と呼んでいる。
 正直言って、疲労は蓄積している。”心身ともに”とは言わない。”心”の方は、達成感や安堵感・充実感、そして感謝の気持で充たされている。
 が、”身”は大変だ。胃も肝臓も悲鳴をあげかけている。そこで、今日は久々に完全休肝日とした。家で食事を摂るのは何日ぶりだろう?
 さて、日曜日に開いていただいた祝賀会の後日談である。お一人、出欠の返事をいただいていなかった友人が来てくれた。聞けば、出席に丸をつけて葉書は出したという。でも、席を用意していなくて、大変失礼なことをしてしまった。
 その葉書が、昨日届いた。消印を見れば、11月24日になっている。市内なのに4日もかかったということだ。友人にその旨をメールしたら、「アンカレッジ経由だったんでしょう」と洒落た返事が返ってきた。
 それにしても、ちょっと前までだったら、投函の翌日には届いていた。それがこの有様である。土日を休配にするというなら、せめて平日のスピードは維持するような努力はできないものなのだろうか。遠方への宅急便でも、早ければ次の日には届く時代なのにである。
 はっきり言って郵便事業は明らかに後退している。顧客サービスを疎かにしていると言わざるを得ない。
 これでは益々郵便離れに拍車がかかる一方だ。E-mail、Facebook、Line等の方が早くて安くて、しかも簡単だ。
 お年玉付年賀葉書だってそうだ。「2023年元旦」と書いた葉書が1月5日に届いたりしたら洒落にもならない。
 そんなことなら、いっそのこと、年賀葉書も含め、事業を全部止めてしまってはどうか! というくらい僕は腹を立てているのである。
 今日は、議会報告会へ来てくれた人と、祝賀会に来てくれた人、それぞれへの礼状を作成し投函した。差し出し日は「11月吉日」としたのだが、これが12月5日過ぎに先方に届けられるようなら、今度こそ僕は、郵便局に怒鳴り込んでやる。「責任者出て来ーい!」
 ・・・というほどの度胸は、実はない。(5240)

頑張れ!S君


 青年会議所の歴代理事長懇談会に出席してきた。毎年、この時期に行われる。いわば、次年度理事長・三役の御披露目式のようなものだ。
 僕が理事長を務めたのは40歳の時。あれからもう27年が過ぎた。数年前までは、この会に出ても末席を汚していただけなのに、今では、年齢順で数えれば上から4番目。随分と歳をとったものだと痛感する。
 さて、次年度理事長の予定者は、市職員のS君。長い弘前青年会議所の歴史の中でも、初の公務員理事長となる。これは画期的なことだ。
 僕らの時代は、青年会議所は、ともすれば「経営者の二世三世の集り」「ボンボンの集団」などと揶揄されてきた面もある。「そんなことはない。明るく豊かな地域作りを目指して、時間やお金をやりくりしながら頑張っているのに」と随分と悔しい思いもした。でも、実際に、確かに今でも、現役メンバーと名刺交換をすれば、僕等と同じ頃一緒に活動をした仲間のご子息というケースが多い。
 そんな中で、公務員のS君が理事長になる。このことの意義はとてつもなく大きい。青年として叡智と勇気と情熱があれば、会社経営者でなくても、JCのリーダーとして活躍できるということを、是非体現してもらいたいものだと願う。彼の決断と、彼を推挙したメンバーの勇気に、心から敬意を表したい。
 とは言え、決して安易なことではないと思う。経済的なことはともかく、一番大変なのは”時間”だ。理事長ともなると、365日ほぼ毎日なにかしらがある。主催事業の責任者としての職務も多ければ、市役所から充て職でふられる附属機関への出席もしなければならない。
 出張も多い。他市の青年会議所の行事に顔を出すことも必要だ。青森県内だけならまだしも、東北大会(今は名称は違うのだろうけど)、全国大会、アジア大会(ASPAC)あげくは世界大会等もある。斜里や太田市など、有効JCへの訪問、逆に先方が弘前に来たときの対応等々、数え上げればきりがないくらいの仕事が待っている。ある程度、時間を自由に使える経営者ならともかく、一公務員では、色々と支障をきたす場合がでてくるかもしれない。
 だからこそ、副理事長や専務理事そして事務局長等に、仕事と責任を上手く分担させなければならない。また、副理事長や専務理事そして事務局長等も、これまで以上に、ブレーンとして手足として理事長を支えていく覚悟が必要だ。それが出来てこそ始めて、「青年会議所はボンボンの集りだ」という世間の風評を払拭できるのではないかと思う。
 というようなことを、出席者一人一人に挨拶を求められた際に喋ってきた。そして、公務員理事長が誕生したのだから、数年後には市議会議員理事長も夢ではないとも付け加えた。そう、次年度事務局長は、議会で同じ会派を組むTa議員なのおである。
 とにかく、S君には、是非、一年間を全力で駆け抜けてもらいたい。「物心両面で」と言いたいところだが、”物”の方は心許ない。その代り”心”の方では、議員と職員と立場は違えど、27年前の理事長として、全面的に応援したいと思う。頑張れ! S君!!(7779)

褒められ過ぎて


  今年の第2会定例議会の議場で、在職15年ということで、全国市議会議長会から表彰していただいた。賞状とバッヂをいただいた。
 そのことをチラッと後援会長にお話をしたところ、今日、祝賀会を開催していただいた。身に余る光栄である。
 コロナ感染が再拡大しつつ ある中、しかもWカップで、日本が予選を突破できるかどうかの大事な試合のTV中継がある日にもかかわらず、想定人数を超える皆様にお集まりいだいた。ただただ感謝あるのみである。
 来ていただいた方を代表して、お三方にご祝辞をいただいた。「誠実で行動力がある人だ」「市議会になくてはならない人だ」「頭が良くて成績が優秀だった」・・・。一体誰のことを言っているのだろうと不思議に思うくらい、分不相応なお褒めの言葉を頂戴した。
 僕は、これまでの人生で、そんなに褒められた経験はない。結婚披露宴の時だって、主賓からは「不可思議な人間だ」と評されたくらいだ。この調子だと、将来、僕の通夜での弔詞の中でも、何を言われるかわかったもんじゃない。
 そんなわけで、あまりに褒められ過ぎて舞い上がったためか、今日はちょっとの酒で、もうすっかり出来あがっている。2次会に行って帰ってきたら、もうこんな時刻だ。
 今日のブログは、些か短いが、これにて勘弁させて頂く。ごめんなさい。(8126)

本屋サミット 今日のレンガ倉庫美術館のイベントから


 10月27日のこのブログで紹介していた、弘前レンガ倉庫美術館のトークイベントに出演してきた。題して「本屋サミット2022」。
 しかしまぁ、何と皮肉なタイトルなんだろう。”サミット”とは頂上という意味だ。確かにほんの一時期僕は、青森県書店商業組合の理事長を務めさせていただいたり、書店未来研究会など全国の書店組織でも役員をさせていただいていた。が2000年の倒産で、その頂上から転がり落ちた人間である。そんな僕がサミットで話すことなんて・・・。
 と、グチグチ言ってはいても、内心は違う。「ゴホンと言えば龍角散」ではないが「ご本と言えば今泉」と思い出してくれる人がいることを、ちょっぴり、いやもの凄く嬉しく思っている。だから、今日のようなイベントから声がかかれば、ホイホイと喜んで出掛けて行く。
 サミットトークは、僕のところにも取材に来たKa君の卒業論文をベースに始まった。早速僕にマイクが振られ、弘前の本屋の歴史について聞かれた。しかしまぁ、歴史と言っても、僕はまだ67歳なのである。今泉本店が創業したのが明治25年(1892年)なのだから、そこを弘前における本屋の歴史の始まりとしても、もう130年が経っている。僕はそのうちの半分しか知らない。正確には、仕事に就いたのが1981年だから、三分の一と言うべきか・・・。
 だから、歴史なんて真面目な話はできない。もっぱら、かつて存在した本屋の思い出話に終始した。同年代の(に近い?)人も聞きにきてくれていた。ブックス花邑の話には、懐かしそうに頷いているように見えた。
 紀伊國屋書店が弘前に出店してくる時の、いわゆる”ブック戦争”のことも聞かれた。僕が、浦和での書店修業から帰ってきた昭和56年に勃発した話だ。当時としては規格外の面積での進出に、弘前の全書店が「死活問題だ」と言って反対した。一斉ストライキと称して、全ての書店が店を休んで、総決起大会を開いたりもした。これもまた、今となってはほろ苦い思い出話だ。
 後半は、これからの書店についての話題だ。こうなるともう、僕の出番は少なくなる。もっぱら、僕の大好きな「まわりみち文庫」店主のNa君や、若いKa君が熱い思いを語っていた。
 最後にフロアから、アマゾンや電子書籍にリアル書店が対抗するには? という質問があった。スピーカーを務めたNa君、Ka君、そして僕の3人とも、答えは一緒だった。目的買いならネットでもいい。でも本屋は、本に出会うための場所でもある。何のきなしに棚を眺めているうちに、思いがけない本に巡り会える。そんな魅力を一層磨いて発信していくことが、これからの本屋に求められることではないかと。
 聞いている人はどうだったかわからないが、僕は喋っていて、とても面白かった。他にもこういう機会があれば、是非呼んでもらいたい。やっぱり僕は、根っからの”本屋”なんだろうなぁ。(6404)
 
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