
改めて店内を隈なく歩いた。確かにあらゆるジャンルの本が揃っている。改めて、この書店がなくなることに、一抹の寂しさと悲しさを覚えた。
5年前の紀伊国屋書店閉店の頃を思い出した。その時のことは、当然、このブログにも書いた。辿ってみたら3月26日と5月6日の2回採り上げている。
改めて読み返してみると、今回のジュンク堂と紀伊国屋の撤退では、僕にとっての重さが違っていることがわかる。ジュンク堂は、一顧客(?)としての寂しさだが、紀伊国屋の場合は、それだけでは片づけることはできない感情があった。2019年3月26日のブログには、「因縁の上では、猪木とタイガー・ジェット・シンのような関係だった」と書いてある。プロレスを知らない人には何のことかわからないかもしれないが、我ながら上手いことを書いたものだと、今になって自画自賛している次第だ。
ただ、紀伊国屋にしてもジュンク堂にしても、ものすごい物量作戦で進出してきて、その町の既存の中小書店を駆逐してしまう。それなのに採算が合わなくなればさっと撤退する。その後、地方書店が息を吹き返せるかと言えば、なかなかそういう風にはいかない。結局、いなごの大群が過ぎ去ったあとの畑のように、書店のない中心市街地が残されるだけである。
まぁ、もっとも、これは書店業界の話だけではないだろう。百貨店もスポーツ用品店も靴屋さんでもおもちゃやさんでも、同じようなことは起こっている。中央資本の大型店を安易に受け入れてしまう弊害はこんなところに現れる。
ジュンク堂閉店については、以前にもこのブログに書いたし、新聞の取材も受けた。月刊弘前にも拙稿を載せていただいた。だから改めて論評することはやめよう。今はただ、本と出会える機会がなくなることを嘆くしかない。
さしあたっては、昨日のブログにも書いた「文芸時評」のことだ。来月はもう決まっているにしても、6月以降、どこでどうやって本を見つけてくればいいのだろうか。(7260)