今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

2024年05月

狂喜乱舞


 今日は弘前読書人倶楽部の当番の日。恩師のS先生がいらっしゃるので、倶楽部のデスクで少し早めの昼食を摂っていた。
 そこへ、電話が入った。見るとM新報からである。さては、文芸時評に苦情が殺到したのか⁉ 恐る恐る着信キーをタップした。
 手紙文化部長からだった。M新報社気付で僕宛に手紙が届いているという。はて? 僕はM新報の社員でもないし、M新報社と僕の係わりと言えば「文芸時評」のことしか思いつかない。やはり苦情の手紙なんだろうか? 
 とにかく受け取りに行かなければならない。読書人倶楽部とM新報社は、徒歩5分くらいの至近距離にある。S先生がお見えになったので、畏れ多くも倶楽部の留守番を頼んで、M新報社に向かった。
 受付で件の手紙を受け取る。弁護士のM先生からだった。益々不安が広がる。だって、M先生とは旧知の仲である。僕の住所を知っているはずだ。それをわざわざM新報社社気付にしたのは、どう考えても「文芸時評」のことに違いない。僕の書いた文章に盗作の疑いがかかったのか? はたまた誰かの名誉を棄損してしまったのか・・・?  
 倶楽部に持ち帰ってから開封した。A4サイズ1枚、11行ほどの短い手紙だった。
 それが、意外にもお褒めの手紙だったのだ。それも身に余る過分な誉め言葉が並んでいる。「テンポの良さ、意表を突く素材の選択、文章の運びの流麗さ、ウィットの数々・・・」とある。まるで自分の文章ではない。誰か違う人の文章のことを書いているのではないかと思ったほどだ。
 ちゃんと読んでいてくれる人がいる。それだけでも嬉しいのに、おだてられると天までも登っていくタイプの僕は、もう有頂天になってしまった。
 果たして僕に務まるのだろうかと、手探りで始めた「文芸時評」だけど、M先生からの手紙で俄然やる気が湧いてきた。早くも、3ヶ月先までの構想を練り上げた。しかし、構想はあくまで構想で、締め切りギリギリにならない(締切り日を過ぎない)と原稿にとりかからないのが、これまでの僕の悪い癖だ。  
 M先生の手紙は「今後とも素敵な書評を鶴首しております」と締められていた。たとえ一人だけだとしても、そうして待って下さっている読者のためにも、生まれて初めて締め切りを厳守しようと決意した次第だ。
 右の写真の切手をご覧いただきたい。サラブレッドがデザインされている。
 5月28日のブログにも書いたが、今月の時評で採り上げた本は「フェスタ」という競馬の小説だった。そんなところへも、先生の気遣いが感じられ、これまた感涙にむせんだのである。
 返す返すも、M先生、有難うございました。(6087)

  追伸
 
 あまりの嬉しさに、ついはしゃぎ過ぎてしまった。謙譲の美徳もへちまもあったもんじゃない。以後気をつけますから、今日だけは何卒ご容赦を。

しっかり食べるということ


 糖尿病の定期検診の日。いつものように、重い足取りで大学病院の玄関をくぐろうとした。ガラス戸には大きな「マスク着用」の貼紙がある。あっ、いけない。また忘れた。
 コロナが第5類に移行になってから1年が経つのに、医療機関にはいるには、まだマスクをつけないといけない。僕は、友人の開業医に行く時も、毎月の大学病院にも、必ずと言っていいほど忘れていく。頭の中が空洞化してきている証左だろうか。
 案の定、玄関先で、警備員の格好をしたおじさん(ぼくよりは若そう?)に呼び止められた。マスクをしろという。
 「はい、わかってます。自販機で買いますから」 ほとほと自分の健忘症に嫌気をさしながら、そう言って中に入った。
 マスクの自販機は玄関を入ってすぐ右側にある。100円で2枚入りの箱が出てくる。と、ここでふと考えた。あーやって、入り口に警備員が待ち構えて注意するくらいだったら、この自販機を玄関の外、「マスク着用」の貼紙付近に置いておけばいいじゃないか。すると、気がつく人は気がついてそこでマスクを買う。警備員の仕事も、かなり削減できるはずだ。
 そんなこともあって、もやもやっとした気持ちを抱えたまま、採血・採尿をした。体重を測り血圧を測定した。体重は増えていて、血圧はいつもより高目であった。  
 さて、いよいよ診察である。血糖値を示すHba1cは前回より悪化していた。  
 「どうしたんですか?」
 「はい。ここのところ、体調が優れず疲れが抜けないのです。で、疲れると、どうしても甘い物が食べたくなって、アイスクリームやケーキなどについ手が伸びて・・・」 
 これは噓でも言い逃れでもなく、本当のことなのである。特にここ数日は、毎日アイスクリームを食べている。
 「気持ちはわかるが、それはいけませんね」
 「それと、最近、夜の仕事を始めて帰宅が遅くなり、それに併せて夕食の時間も10時過ぎになったんです。その上、帰ってから支度する時間も無く、手っ取り早くコンビニ弁当が多くなって・・・」
 「コンビニの弁当は油が多いからね。そういうことなら、昼ご飯を少し遅めにしっかり摂って、夜は軽く済ませるようにしてはどうかな。とにかく甘い物は控えるように」
 「はい」
 とにもかくにも診察を終え、会計も済ませて外に出た。ちょうど昼食の時間だった。
 「よーし、しっかりと昼食を食べるぞ」 
 医師に言われたことを守るべく、茂森のT食堂に行って、味噌ラーメンの大盛りを食べた。二玉分の量だった。満腹になった。
 ・・・ん? なんか”しっかり”の意味を取り違えているような気がしないでもない。(6678)

会員減少に備えて 今日のある総会より


 人口減少の流れが止まらない。弘前市はとうとう16万人を割り込んでしまった。15万人台と言えば、僕が小学生の頃とほぼ同じである。平成の合併を経たにもかかわらず、60年前の水準まで落込んでしまったことになる。
 これは弘前に限ったことではない。日本全体の総人口が減っているのである。それなのに、東京圏への一極集中が進む。だから地方では自然減に加えて社会減も重なって、減少のスピードがより速まっている。
 人口が減るとどうなるか。税収が減る。インフラの維持が困難になる。学校の統廃合が進む。企業や商店の経営が立ちゆかなくなる。人口が増える、あるいは横ばいであることを前提につくられてきた街の姿が崩れていってしまう。
 そんな大きな問題ばかりではない。色々な団体・市民グループで今、会員数減少が深刻な悩みとなっている。
 例えば、青年会議所。現在の会員数は、僕が在籍していた30年前の3分の1程度だと聞く。当然、予算規模も縮小するし、マンパワーだって不足となる。そんな中で,今のメンバーはよくやっていると思う。
 さて今日は、津軽厚志会の総会であった。津軽家第15代当主の津軽晋様をお迎えして、かだれ劇場を借り切って行なわれた。
 弘前の礎を築いた津軽家の遺徳を後世に伝えることと、東京にお住まいの津軽家当主に代り、先祖代々の祭祀と廟所の管理を司るために設立された一般財団法人である。ここもまた、会員の減少という現実を迎えようとしている。
 ただ、この法人の場合、単に人口減に伴って入会者が減っているという問題ばかりではない。”人”を中心とした社団法人と違って、財産を核に置いた”財団法人”ということもあって、入会金を払えば誰でも会員になれるというわけではない。
 そもそもこの会は、明治37年、主旨に賛同した篤志家たちの寄附によって設立されたものであり、「本会の役員は寄付者及びその子孫により評議員会で選考推薦し・・・」とあるように、代々その子孫たちによって運営されてきた。つまり、新たに会員になる規定が不明確なのである。
 応分の寄付をしていただければ会員になれると解釈をしても、その”応分”が如何ほどのものかわからない。設立時の資産は、田畑・山林や株券の他、現金10850円とある。明治37年の1万円が現在では、どれくらいの値なのか、俄には見当がつかない。
 かと言って、設立時の寄附者の子孫だけでは、当然のことながら先細りしていく。このまま晩婚化・少子化が進行していくと、あるいは日本の家族制度が崩壊していったりしたら、家そのものが途絶えることだって起こりうると考えられるからだ。
 だから、会員増強は、ここ数年の深刻なテーマではある。なかなか有効な打開策を見いだせないでいるのが現状だ。
 そんな厚志会だが、今年、創立120周年を迎える。今日の総会では、会員増強の他に、記念事業や記念誌についても話し合われた。
 前回の「創立95周年記念誌復刻追補版」は僕が編集を受け持った。今年もまた記念誌を発行するとなると、またお鉢がまわってくるかもしれない。今から覚悟しておかなくては・・・。(5049)
 
 

フェスタ 今月の文芸時評より


 朝一番で、スマホが振動した。弘前ペンクラブ会長のS先生からの着信だ。「しまった!」 僕はてっきりお叱りを受けるのではないかと身構えた。
 というのも、以前にもお知らせしたように、先月から毎月一度、M新報社の「文芸時評」の原稿を書かせていただくことになった。その前任者がS先生だったのだ。昨日、その第2回目が掲載されたのだが、それを読んで、お腹立ちになったのではないかと、一瞬思ったからだ。
 前任者のS先生は、長く高校で国語の教鞭をとっておられた。また郷土文学研究の面でも第一人者である。  
 その先生が「文芸時評」で採り上げてきた本は、高尚で格調高いものが多かった(中には軽い読み物もあったが)。それに比べて僕は、2回目にして早くも「フェスタ」という競馬小説である。その落差に、S先生がお怒りになったとしても不思議ではない。
 ただ僕は、文学至上主義者ではない。純文学と中間小説と大衆小説の境界なんて実にファジーなもののように思えるし、大体にして無理やり分類する必要すらないのではないかとも考える。
 要は面白ければいいのだ。その小説から何を感じとるかは、あくまで読者一人一人によって違う。官能小説からだって、生きていく上での指針を得られることだってないとは言い切れない。(今のところ無いが・・・)
 と、そんな自己弁護を弄しながら、これからも、自分の感性で本を紹介していくことになるだろう。  
 さて、この小説は、小さな個人経営の牧場主が、世界最高峰のレース「凱旋門賞」を勝つことを夢見て、人生を賭けて作り出した競走馬と、それを取り巻く人々との壮大な人間(+馬)模様を描いた長編だ。競馬を知らない人でも、人が信念を持って行動することとはどういうことか、夢を追い続けることにどんな意義があるのか、なんてことを考えるきっかけになるだろうし、競馬を知っている人ならばの、さらに競走馬と周囲の人間との微妙な関係を楽しむことができるだろう。ぜひ、ご一読をお薦めする。
 とにもかくにも、昨日で2回目。何とか紙面に穴を空けることなく、原稿を書くことができた。次回は6月。締め切りは17日のあたりである。その前に掲載する本を決めて、新聞社に連絡しなければならない。何かに追われて行う読書。大変だけど、これはこれで面白いものなのである。
 で、今朝の電話だが、恐る恐る応答したところ、お叱りではなかった。6月2日開催予定の、ペンクラブ総会についてだった。あー、良かった。
 でも、先生は、「文芸時評」のことについては一言も触れられなかった。読んでいただいてないのだろうか? それとも論評するに値しないとでも思われているのか・・・? だとすれば、叱られるより哀しい。(8067)
 
 
 
 

小学生にとっての主権者教育とは?


 弘前大学のM先生の授業に参加してきた。”参観”の間違いではない。”参加”だ。
 M先生は、政治学が専門だ。教育学部の講師としては、主権者教育に力を入れて調査・研究・実践を行なっている。 このブログでも以前に紹介したことがあるが、「政治をいかに教えるか」という本も出版されている。
 先生が今取り組んでおられるのは、教員を目指す学生が、小学生に主権者教育をそのように教えたらいいかという課題だ。自分たちの意見や要望を実現させるにはどうしたらよいか? あるいは、自分たちの理想とする社会をつくるにはどういう手順を踏まなければならないかなどを、理論ではなく、楽しみながら子どもたち自らが考えるといった授業づくりを、学生達に考えさせている。  
 今日は、二人の学生さんのアイディアの、謂わばプレゼンテーションだった。ゼミの先輩、現職の小学校教員に混じって、僕とTa議員も、審査員として参加させていただいた。
 二つのうちの一つを更にブラッシュアップして、それを実際に小学校の授業で実践し、その成果をマニフェスト大賞に応募してみるという計画とのことだ。
 この試みは、昨年も行なわれていた。僕はその時も審査員として係わっている。その授業の参観にもご案内をいただいた。
 昨年は、公園を造ろうというテーマだった(7月10日のブログ参照)。大きい公園・小さい公園、遊具がたくさんある公園、遊具ではなく芝生やベンチでゆっくりできる公園・・・それぞれのメリット・デメリットや、必要とする予算などを勘案して、子どもたちが話し合い、理想の公園を完成させるといった授業であった。残念ながら授業時間の枠では収まりきれず、途中で終ってしまった感もあったが、子どもたちが活き活きと議論そていた様子が印象に残っている。
 マニフェスト大賞に応募したのかどうか、あるいは応募したのであればその結果はどうなのかはわからない。でも、僕個人としては、素晴らしい企画だと思ってみていたた。
 今年の二人のアイディアも、甲乙つけがたいくらい面白そうだった。今ここでネタばらしをするわけにはいかないが、感心したのは、二人とも、予算の原資は国民が納める税金であること。予算には限度があること。その限られた枠内でそれをどう分配していくのかが、政治及び政治家の役割だということなどを、しっかりおさえていることだ。それを踏まえた上で、どういう候補者に投票すればいいのか、あるいは候補者はどういう政策を公約に掲げればいいのかを、子どもたちに考えてもらおうという流れだったように僕は捉えた。
 ただ、気になったのは、果たして小学生に、その意図が正しく伝わるかどうかだ。同席していた現職の教師に、授業で税金のことをどの程度まで扱っているか尋ねたところ、それほど詳しくは教えてはいないという。果たして、国家予算が私たちが納める税金で成り立っていることを、子どもたちがどの程度認識できるのか、そこが気がかりだった。だって、僕自身、小学生の頃は、税金のことなんか、これっぽちも考えたことがなかった。
 えっ、案ずるより産むが易し。今の子どもたちは、昭和30~40年代の小学生より、ずーっと知識も豊かだし考え方もしっかりしているから大丈夫だって? 
 そっかぁ。うん、そうであって欲しいと切に願う次第だ。(5518)
 
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