今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

2024年06月

本の力 今日のブックトークから


 ブックトーク今日は、弘前読書人倶楽部の例会・ブックトークの日。今月の講話者は、M新報文化部長のMさんだった。
 Mさんのことは、彼がまだ駆け出しの記者だった頃から知っている。僕もまだ若手(?)書店経営者だった時だ。何度も、僕の会社に訪ねてに来ていた。
 その頃もてっきり文化部所属だったと思っていた。今泉本店ギャラリーで行っていた各種催事の取材のために来ていたんだろうと今日確認したら、実は報道部だったのだそうだ。じゃぁ、一体何しに来ていたのかと重ねて尋ねたら、商店街の活性化事業などのこととのこと。
 そういえば、あの頃は、古いアーケードを撤去して、明るく開放感あふれる街にしようと取り組んでいた時期だ。僕も、青年部長として販売促進イベントの旗振り役となったり、専務理事として街路整備の計画策定や、組合員間の調整に動き回っていた。
 商店街のイベント等では、新聞紙上で大々的に報道していただき、告知という面でとても助けられた。今でも深く感謝している。
 文化部長となられた今でも、いろいろとお世話になっている。文化関連のことで、記事にしてもらいたいことがあれば彼を頼っているし、僕が今M紙に連載させていただいている「文芸時評」も彼が担当だ。僕の相変わらずの誤字・脱字・誤変換に閉口しながらも、しっかりと校正していただいているものと思っている。
 そんなM部長のブックトーク。昭和30年代にM新報社で出版した「わがふるさと・新津軽風土記」や、同じく「つがるの夜明け」などを紹介しながら、それに感銘を受けた少年時代に、津軽一円の城巡りをした思い出などをお話いただいた。昨今、御城印集めなど、城を巡り歩くのが流行っているようだが、その最先端を行っていたみたいだ。
 あまり行動的ではなかった少年が、自分で自転車を漕ぎながら、津軽各地を城跡を探して動き回るようになった。自分の殻を破るきっかけになった。それが”本”の力だと、最後にまとめていただいた。
 M新報社は、今は、出版事業を行っていない。でも、かつてそういった名著を出していた歴史を思えば、地方新聞社ならではの出版に、また取り組んでもらいたいと思った次第だ。
 弘前市で広く読まれている地元新聞としては、もう1つT日報紙がある。こちらは全県紙で、ページ数も多い。政治・社会・経済等の分野では、情報量も多く内容も濃い。
 でも、少なくとも、津軽・弘前の”文化”という面では、M新報は決してT紙にひけを」とるものではない。むしろ地域に密着した取材姿勢とその記事は、他紙を凌駕していると言っても、決して過言では無いと言いきることができる。文化情報の発信の要として弘前に無くてはならない新聞だと、ここにもはっきりと書いておきたいと思う。(6961)
 

道先案内人


 弘前は、昨日に引き続いて最高気温が30℃を超えたらしい。まだ6月だというのにこんな案配だから、きっと今年も酷暑に見舞われるんだろう。あー、やだやだ。
 僕は今日も、太宰治まなびの家解説員のピンチヒッター。体調のせいもあるかもしれないが、昨日よりも暑さが堪えた感じだ。
 今は、JR東日本の「大人の休日倶楽部パス」で乗り放題の期間にあたるらしい。今日も、たくさんの県外からのお客様がいらっしゃった。
 ここは、駅からさほど近いわけでもない。バス停が近いわけでもない。表通りに面しているわけでもない。いわゆる観光施設としては、決して立地に恵まれているとは言い難い場所だ。それでも多くの人が訪ねてきてくれるのは、やはり”太宰治”という磁場の大きさによるものなのであろう。  
 反面、そういう立地であるがために困ることもある。ここから他の観光地への行き方を訊かれた時だ。特に弘前は、空襲にも遭わなかった古い城下町で、道が入りくんでいる。口頭で説明するのにはいつも難儀をしている。
 今日は、虹のマートへはどう行けばいいかと尋ねられた。これは割りと楽だった。「松森町キングパチンコの十文字を横断して真っ直ぐ進み、マクドナルドの十文字を左折する。ヒロロを右に見てさらに進み、セブンイレブンの手前を右折してちょっと行けば右側にあります」と説明した。多分間違いなく行けたことと思う。
 駅前地区は、比較的街区も整理されており、目印になる建物や店もあるのでいいが、問題は城下町の古い通りを案内する時である。昨日は、まなびの家から最勝院に行くには? と尋ねられた。富田大通りを突っ切って紙漉町へ抜けるのが最短だが、それを地図も無しに説明するのは難しい。最初僕は、松森町キングパチンコを目指して歩き、そこを左折して土手町を下っていき、一番町坂上を左折する王道を案内しようとした。かなり遠回りであるが、間違いようの無い道順である。
 そうしたら地図があるという。そこで急遽方針転換をして、地図を差しながら紙漉町ルートを案内した。ただ、そのルートには目印になる大きな建物が少ない。道も真っ直ぐではなく、無事に辿り着けたかどうか心配ではある。
 かつて書店を経営していた頃、懇意にしていたBG春秋社の役員が、「男は地図無しでも道を教えられるが、女にはそれが難しい」といったようなことを言っていた。今だと”女性蔑視”の問題発言となっていたかもしれない。
 その真偽はともかく、男であろうが女であろうが、誰でも簡単に観光地から観光地までの道程を教えることができるような仕掛けが、城下町弘前には必要だとつくづく感じた次第だ。(7731)
 
 

 

まなびの家は千客万来


 今日は、太宰治まなびの家の臨時解説員。31℃まで気温が上がるという予報だったが、窓も雨戸も襖も障子も開け放し、扇風機を回していたら、さほど暑さも感じず過ごすことはできた。
 が、それよりも、忙しいのなんのって、朝からひっきりなしに来館者が続いた。遠方からの人もいれば、市内の人もいる。
 もともと、ここではまとまった昼休憩時間などない。来館者の切れ目を縫って昼食をかっ込むのだが、今日はその暇も満足にとれなかった。パンを一口囓ったらお客様が来て、そのお客様をお見送りして二口目を頬張ると、また別のお客様が来る。そんな感じで、2個のパンを平らげるのに1時間近くもかかってしまった。
 それに、今日のお客様は、随分と熱心な方が多かった。一人一人(一組一組)と会話する時間が、いつもより長くかかった。
 開館一番のお客様は、船橋から来られたとのこと。太宰が船橋にも住んでいたことがあること、三鷹の桜桃忌や資料館にも行ったことがあるということなどを、蕩蕩と話されていった。
 電報札幌から来たというご婦人は、展示ケースを覗いて、僕に話かけてきた。「ここは藤田さんのお宅ですよね?」 どうしましたかと聞くと、ケース内にある金木の津島家からの電報の宛先が「フツ゛タトヨサブロ」になっている。これはおそらく、パソコンはおろかファクシミリも無かった当時、「富士山の”フ" 人力車の"ジ” 田んぼの”タ”・・・」などと電話で電文を伝えていた際に、”ジ”がなまっていたので、交換手が”ツ゛”と聞き間違えたのであろうと、二人で大笑いをした。
 秋田出身で弘前にもう60年近くお住まいの方は、縁側から庭を見て、「見事な春紅葉だ」と感心されていた。僕は植物に関しては全く無知なので、ただただ「はあ、はぁ」と聞く一方であった。
 そのお客様はまた、展示している資料の中に”慈善館”の写真をみつけ、懐かしがっていた。そして僕にも「知ってるか?」と質問をしてきた。閉館したのが確か昭和41年頃。僕はまだ小学生だったので、実際に中に入ったことはない。でも、閉館後もしばらく”慈善館通り”と道の名前は残っていたので知っていると答えた。
 極めつけは午後に来たカップルだ。最初僕は、元気よく「いらっしゃいませ」と声をかけた。「ここは太宰治が高校時代に下宿していた・・・」と説明しようとしてもキョトンとしている。もしやと思って尋ねたら、案の定中国人だった。まったく見た目ではわからない。
 幸いなことに、女性の方は、少しなら日本語が話せるという。僕は、日本語(津軽弁)と片言のジャパニーズイングリッシュとで、精一杯解説をした。通じたのかどうかはわからないが、僕が話し終わると、女性は男性に何やら中国語で説明をしている。多分、理解してもらえたものと、ここは安心じておくことにした。
 男性が鞄から本を取り出した。「人間失格・斜陽」らしきタイトルが書かれている。中を開けてみると、漢字(?)が並んでいる。中国で出版された物なのだそうだ。
 太宰は、中国でも読まれていて根強いファンがいる。そう言えば何年か前に、中国の雑誌社がまなびの家に取材に来たことがあった。そのことも手振り身振りと出鱈目な英語で伝えようとしたが、おそらく理解してもらえなかったのではないかと思う。
 あーあ、若い頃、もっと英語をしっかりと勉強しておけばよかった。(6742)
 
 

死ぬ時は


 弘前読書人倶楽部の大家さんの奥様が、交通事故の犠牲となって亡くなられたことは、6月23日のブログに書いた。今日は、そのお通夜の儀が、市内の葬祭ホールで執り行われた。僕も、読書人倶楽部を代表して参列してきた。
 世の中に陽気な葬儀などあるわけはないが、今日はことさらに沈痛な空気が漂っていた。特に、大家さんの顔には精気がなく、言葉もはっきりと聞き取れないほど、声が出ていなかった。23日に弔問したときは、もっと元気がなかった。
 やっぱり、交通事故死、それも即死というのはショックが大きいのであろう。さっき「行って参ります」と言って出かけた人が、冷たくなって帰ってくる。残された遺族の心中を思えば、かける言葉も思いつかない。
 同年輩の友人と、たまに、どんな死に方がいいか、なんて罰当たりな話をすることがある。僕は、半身不随だろうが寝たきりだろうが、できるだけ長く生きていたい。だから所謂”老衰”が理想だ。  
 一方友人は、寝たきりになって周りに迷惑をかけるよりなら、ポックリと死にたいと言う。意外とそう思っている人は多いようだ。  
 でも、考えてもみよう。そういう死に方は、却って家族や友人を悲しませるのではないか。家族や親友は、たとえ寝たきりになっても生きていて欲しいと願うものなのではないか。
 僕の父は、脳梗塞(厳密には違うのだが)で約10年間、闘病生活を続けた。左半身に麻痺が残り、車椅子の生活となり、晩年を施設と病院で過ごした。家族は一種懸命尽くした。秋田の病院まで何度も見舞いに行き、車椅子の患者を乗せられるような車も買ってドライブにも行った。
 女房は癌だった。余命1年と言われたのを、3年も頑張った。一緒に旅行にも行った。丸山ワクチンを打ちたいというので、二人で東京の大きな病院へも行った。それまでの二十数年よりも最後の三年間の方が、交した会話の量は多かったようにも思う。
 母も癌だった。発見された時はすでに手遅れの状態だった。それでも半年以上生きた。毎日のように入院先へ、母の好物の食品を届け、退院してきた時には、普段厨房に入ったことのない僕が、母のために料理を作った。
 これまで出来ていなかった親孝行・女房孝行の真似事を少しは出来たのかなぁと思う。そうしているうちに段々と心の準備(=覚悟)も出来てくる。最後の最後まで、濃密な思い出が残された人の心の中に蓄積されていく。だから僕は、ポックリ死ぬなんてことには反対なのだ。
 今日のご遺族の無念を思えば心が痛む。もっともっと生きていて欲しかったろう。心からご冥福をお祈りしたい。合掌。(3298)

怒りの効用


 今日6月26日は、48年前に、アントニオ猪木がモハメド・アリと闘った日である。当時僕は大学生だった。アルバイトで得たなけなしの1万円でチケットを購入し、日本武道館の2階席の最前列で観戦した。
 ご承知のとおり、この試合は、散々酷評された。猪木はリングに寝たままキックを出すだけ。アリはその周りをグルグルと回るだけ。大方の人が期待したパンチと投げ技の応酬は全く見られなかった。
 でも僕は、リングは遠く闘っている二人の表情などはさっぱり見えなかったが、喩えようのない緊迫感がひしひしと伝わってきて、ものすごく興奮したことを昨日のことのように思い出す。あれは名勝負だったと今でも断言することができる。
 その後時と共に、試合への評価も180度変った。現在隆盛の総合格闘技の礎として、6月26日は「世界格闘技の日」とまで認定されるに至っている。
 猪木が、無謀ともいえる、ボクシングヘビー級チャンピオンとの試合にチャレンジした原点は何か? それは”怒り”であったと僕は考える。誰よりも激しいトレーニングを積んで、”死”と隣り合わせの危険な闘いを繰り広げているのにも拘わらず、「プロレス? だってあれは八百長でしょ」と白眼視する世間。東京スポーツ以外では、スポーツ新聞にだって大きく採り上げられることの少ないマスコミ・・・そういったことに対する”怒り”が、彼を突き動かしたのだ。そう、”怒り”は、人間を行動に駆り立てる、そして社会を変革する原動力にもなる。  
 今日、6月23日のブログに書いた、交通事故の現場を通った時に違和感を覚えた。何か違う。それが何であるかを気付くのに、数秒は要した。  
 現場何と、事故の翌日見た時には、ほとんど消えかかった横断歩道の白線が、白くはっきりと引かれていたのだ。そこから10メートル先の横断歩道も真新しくなっていた。  
 事故があったのが6月22日。まだ4日しか経っていない。何だ、白線を引き直すって、こんなに簡単にできるのかと、その素早い対応に感心はした。
 と同時に、こんなに直ぐに出来ることなら、何故、もっと早くからやってこなかったんだろうという疑問も湧いた。そして、死亡事故が起こってからでないと対応しようとしない行政の怠慢に”怒り”すら湧いてきたのだ。ちなみに、その二つの横断歩道から更に大学病院寄りにある所は、まだ消えかかった白線が薄らと見えるだけである。
 もっとも僕のこの”怒り”は、人間を行動に駆り立てる力も、社会を変革する力もない。僕の中にフラストレーションとして溜っていくだけだ。どこかでガス抜きをしなければ・・・(9092)
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