今泉昌一の 私事時事

前弘前市議会議員 今泉昌一の  私的なはなし、市的(?)なはなし

2025年03月

届けられた文庫本


 レターパックが届いた。中には文庫本が入っていた。
 著者は差出人のようだが、その名前に心当たりはない。巻末の著者プロフィールを見ると、どうやら小・中・高校の2年後輩のようだ。が、先輩にしろ後輩にしろ、同級生とは違い、顔と名前を一致して覚えているということはよっぽどでなければ無いに等しい。
 この一年、M新報に文芸時評を連載しているから、ひょっとしてファンレターを兼ねた書評の依頼かなと、一瞬自惚れそうになった。うーん、それは困る。僕は書評を書くのが苦手なのだ。が、当然のことながら、そういったことは無かった。
 本とは別に1通の手紙も入っていた。それでようやく少しわかった。
 最初に、僕のこのブログの読者だということが書かれてあった。時々、コメントも寄せてくれている方だ。そうなると、襟を正して読まなければならない。
 ふむふむ、以前、ある勉強会で遭遇したことがあること。僕のブログの中にイニシャルで登場する人物のこと。逆に本の中にイニシャルで書かれているA君は、僕もよく知っている人であることなどが、親しみやすい文章で綴られていた。
 それでも、どうして突然僕に本を贈ってくれたのかは、今一つわからない。ヒントになりそうなのは、同封されていた青森近代文学館で以前開催された「石坂洋次郎」展のパンフレットのコピー。そこには出品物提供者として、僕の父の名前が書かれてある。
 もう1枚の資料は、石坂洋次郎のお孫さんが国際生物学賞を受賞した時の挨拶文のコピー・・・どうやら、本の寄贈してもらったのは、石坂洋次郎が関係しているらしい。
 そう気がついて、目次を見る。「石坂洋次郎への極私的オマージュ」という章があった。「あとがき」には、石坂洋次郎の作品が”不当に評価されている”とあり、石坂文学を現代人に馴染んでもらうには、漫画にすればいいのではないかと書いてある。以前、弘前ペンクラブでは、石坂文学の復権のために、三浦雅士の講演会と映画上映会を行なったこともあったが、”漫画”ということまでは考えつかなかった。
 僕もかねがね石坂洋次郎の作品が消えてしまったことに寂しさを感じている。いま、「青い山脈」なり「若い人」を読もうと思えば、古書店を探すか、図書館から全集を借りてくるしかない。新潮文庫に多数の作品がラインナップされている太宰治とは大変な違いだ。(ちなみに、弘前読書人倶楽部には、わずかではあるが「石坂洋次郎コーナー」がある」
 著者の思いに大いに共鳴し、さっそく読破した、と書ければいいのだが、実は今朝、またまたギックリ腰をやってしまった。今度のはひどかった。立ってもも座っていても寝ていても痛い。どても読書どころではない。
 ということで、ちゃんと読むのは明日以降になるけれど、取り敢えずHaさん、有難うございました。(3114)
 
 
 

世界の太宰治


 太宰治は世界中で読まれている。その証拠に、太宰治まなびの家の当番をしていると、海外からのお客様が頻繁に訪れる。
 昨日は、台湾からのカップルが訪れた。というのは実は、後で、お客様に記帳して頂いている来館者記入表を見て知った。何せ、パッと見ただけでは日本人か台湾人か区別がつかないし、二人のうち一人は普通に日本語を話していたからだ。
 が、今日の午後に訪れたお客様は違った。 若い女性だったが、見るからに目鼻立ちが日本人ではない。でも、最近は外国人のような風貌をした日本人も少なくない。そこで思い切って訊いてみた。
 「どちらからいらしたんですか?」
 「イタリアです」
 僕は、イタリアの女性と言えば、ソフィア・ローレンかロザンナしか知らない。今日のお客様は、そのどちらとも雰囲気が違うが、何か理知的な印象を感じた。
 とにかく、日本語が通じたので少し安心し、また尋ねた。
 「日本語、わかりますか?」 
 「はい、少し。日本の文化を研究しているんです」  
 すっかり安心した僕は、津軽弁丸出しで、まなびの家について解説を始めた。太宰が使っていた文机と茶箪笥を紹介したら、目を大きく見開いて感嘆の声をあげた。よっぽど太宰ファンだったのであろう。
 先ほど、太宰は世界中で読まれていると書いたが、以前、弘前読書人倶楽部にケニアからの留学生が出入りをしていた。あるとき彼に、ケニアではどんな本を読んでいたのかを聞いたら、真っ先に返ってきた答えが太宰治であった。  
 また、もう10年も前になるだろうか。まなびの家で行なわれている「太宰治文学講座」の講師を務めた時のことだ。太宰の海外での人気をネットで調べているうちに、世界のベストセラーという資料に当たった。確か第一位が「二都物語」だったと思う。その50位の付近に太宰治の「斜陽」と「人間失格」を見つけた。日本人作家の作品では最高位。村上春樹よりも上にいた。もう一度、その時の資料を見たいと思い、色々検索をしてみたのだが、残念ながら、今は探し出すことができないでいる。
 このように世界的な作家である太宰治。生まれは金木町だし、中学校は青森市で、大学は東京だし、作家として活躍したのも主に首都圏で、弘前にいたのはわずか3年間だけだったが、その太宰が作家になる夢を大きく膨らませたのが、ここ弘前でありまなびの家だったということを、僕らはもっと誇りに思ってもいい。少なくとも、太宰治まなびの家のスタッフは、その気概を持って仕事に励んでいる。まだ来たことのない方は、是非一度お越し下さいませ。(4681)

土手町おじさんになれなかったよ


 今日は、太宰治まなびの家の臨時解説員。今年度最後の土日ということもあってか、朝から県外からの来館者が続いた。
 そこへ、某民放レレビ局の記者が訪ねてきた。3月21日のブログでも触れたように、土手町のことで取材をしたいというのだ。
 何でも、県内の色々な街の風景を、昔と今とを対比させて、時代の移ろい行く様を紹介する番組なのだそうだ。”取材”というから、僕はてっきりカメラクルーも来るのかと思っていたら、残念ながらそれはなかった。せっかくの美貌がテレビに映ることはない。
 取材(?)はざっくばらんに進んだ。というか、僕が一方的に昔話をしていたようなものだ。
 まずは、角はの話をした。角はというのは、その昔下土手町にあった老舗百貨店のことである。当時の子どもたちにとっては、今の子どもたちの東京ディズニーランドに匹敵するくらいの”夢の世界”であった。臍に弾が当たると鬼が唸り声を上げる「角はの鬼」や、チキンライスの上に旗がたっていた食堂のお子様ランチの想い出なんかを語った。
 中三やカネ長・紅屋など、百貨店・大型店が次々に建った昭和40年代の話もした。カネ長デパートの最上階には、当時流行っていたボーリング場があって、毎週日曜日には開店前から長蛇の列ができていたことなども話した。おそらくあの頃が、賑わいという点では土手町のピークだったのではないか。
 昭和56年、東京及び埼玉での勉学(?)・修業(?)を終えて弘前に帰ってくると、駅前にイトーヨーカドーがどんと構えていた。幼少期の想い出がつまった角はは既に無く、代わりにその場所にはハイローザというファッションビルがあった。その後、中土手町にはルネス街、弘前駅にはアプリーズ戸、同系のテナントビルがオープンした。  
 土手町の衰退の要因を語るには、やっぱり私立高校の移転を抜きにすることはできない。下土手町は、弘前高校、中央高校、工業高校、東奥義塾、聖愛高校等の生徒たちが、放課後寄り道する場所として、ちょいうどいい位置にあったのだ。そこから東奥義塾と聖愛高校が消え、駅と弘前公園を真っ直ぐにつばぐ中央通りが拡幅されるにつれ、中央高校の生徒も土手町から離れていった。
 先日の市議会で、商売の経験のない某議員が「学生は購買力が低いから、土手町衰退にはあまり影響がない」などど訳知り顔で行っていたが、そんなことはない。街の賑わいを演出する上で、やはり若者、特に学生がいるといないとでは段違いなのである。
 等々、昭和30年代・40年代・50年代の想い出を、頭に浮かぶままに喋った。思うに、今、そんな60年以上も前からの下土手町の変遷を実際に経験して、若い人達に伝えることができるのは、ひょっとして、Ki薬局の会長以外では僕が最古参になってしまったのではないか。随分と歳をとったものである。
 ”土手町おじさん”と呼ばれる人たちがいる。商店街公認の呼称で、お笑い芸人とかレコードや店主、美術家などが名を連ねている。土手町をこよなく愛し、いつも往来していることが条件のようだ。  
 あるとき、僕も”土手町おじさん”に加えてほしいと、この制度の責任者に直訴したが断られた。さきほど挙げた3人の誰より土手町と長く深く係わり、実際に土手町のまちづくりにも参画してきたのに何故駄目なのか釈然としていなかったのだが、最近ようやく気がついた。僕はもはや、”土手町おじさん”ではなく”土手町おじいさん”だったのだ。(4998)

活字文化が消えてゆく


 朝一番で、悲しい知らせが飛び込んできた。45年の長きにわたり、弘前の文化を支えてきたと言ってもいい「月刊弘前」が、今年の5月号をもって休刊するというのだ。
 以下に、発行元の社長から届けられたメールの一部を掲載する。

 「・・・(前略)・・・弊社発行のタウン誌 月刊『弘前』ですが、このたび諸般の事情により、2025年5月号をもちまして休刊する運びとなりました。
45年という長きにわたり、関係各位の皆さまに支えていただいたことに、心より感謝申し上げます。
これまで弘前ペンクラブの皆様には、ご執筆を通じて紙面に彩りを添えていただきました。名残惜しさは尽きませんが、今は「やるべきことはやり切った」という清々しさも感じております。今後は地域文化の発信という原点を忘れず、新たな形での情報発信を模索してまいります・・・(後略)・・・」

 月刊弘前は、今から4年前の2021年に通巻500号を迎えた。僕は、我がごとのように喜び、その年の2月10日のブログでも紹介したし、弘前読書人倶楽部のブックトークにも編集長のSaさんをお招きしたこともある。500号には拙稿を載せていただいた。
 ただ、その少し前から心配なことがあった。Saさんが、何かの拍子に「500号までは何とか続けたい」などという弱気な発言をしていたのだ。僕は「そんなことを言わずに、ずっと頑張って下さいよ。いくらでも協力するから」と発破をかけるようなことを口にした。  
 それから2年経ち3年経ったが、何事もなかったように毎月発行されてきた。すっかり安心して、あの時のSaさんの言葉を忘れかけていた。
 「月刊弘前」休刊の噂は、実は数日前から聞こえてきていた。最初は、連載随想を執筆しているF君。先週のひこばえ塾であった時に聞いた。「えっ、嘘でしょ」と思わず言ってしまった。
 昨日は、友人と会食した居酒屋で聞いた。その居酒屋は、協賛店(スポンサー)になっていて、カウンターの脇に常に最新号を置いている。僕は、そこから貰って読むことが多い。
 執筆者と協賛店が言うのだから、これは冗談やデマではない。僕は昨夜は暗澹たる気分で布団に入った。
 そこへ届いた休館のお知らせだ。今日は一日中落ち込んでいた。  
 社長からのメールには「やるべきことはやり切った」と書かれてあった。となれば、今更何を言ってもどうしようもないのかもしれない。ただもう少し早くわかっていれば、どんな形であれ、継続に向けてのお手伝いをしたかったというのが、僕の偽らざる心境だ。もっとも、休刊の理由が財政上のことなのであれば、力になれる余地は全くない。
 昨年はジュンク堂書店、今年は「月刊弘前」。僕にとっての活字文化の象徴が次々に消えていく。弘前も段々と住みにくくなってきたようで寂しい。(7684)

友との会話


 中学校時代の友達2人と、久し振りに酒席を共にした。これまでも何度か「そのうち飲もう」と会話を交していたのだが、こういう場合の”そのうち”は、なかなか訪れることはない。そこで、先週のひこばえ塾であった時に、今日の日時を約束しておいたのだ。 
 1人はSi君。小学校1年から中学校3年までの9年間を通して同じクラスという、都市部の中規模校にしては類い稀な関係だ。
 彼の凄いのは、早くから自分の進路について強い意志を持ち続けていたことだ。まだ中学生の時だったか、ひょっとして高校1年生の時だったか、彼の家に遊びに行った時に、はっきりと「福祉の道に進みたい」と僕に話してくれた。その宣言通り、高校卒業後は福祉系の大学に進み、郷里に帰ってきてからは養護学校の教諭となり、最後は校長を務めた。退職後も、民間の就労支援施設で働いていた。僕がまだ議員時代、Ta議員と、就労支援の実態について、現場を訪れ教えていただいたこともある。
 文字通り、10代で立てた人生設計を実践したと言ってもいい。まるで大谷選手のようでもある。
 もう一人はNa君。彼とは中学・高校と一緒だった。父親同士が同級生とのこともあって、親しくさせていただいていた。
 彼は、高校時代、生物部であった。今だから言おう。僕は山岳部だったが、はっきり言って生物部の方が、数段山に行っていた。だいたいにして、僕ら山岳部は、決められた登山道を登るだけだが、生物部の連中は、珍しい昆虫を追いかけては、ブッシュを描き分け、道なき道を奥まで入っていく。そもそもの根性が違っていた。
 中学校の教員を定年で退職した後は、その山岳経験(?)を活かして、移ろいゆく自然やそこに棲む動物たちを撮影する写真家として活躍をしている。何度か個展も開催したし、弘前読書人倶楽部で、写真を見せてもらいながら、ブックトークをしていただいたこともある。  
 そんな二人に挟まれて話を聞いていると、いったい自分の人生って何だっただろうと、つい考えてしまう。二人とも、ブレず真っ直ぐと、自分の信じる道を歩み続けて今日に至っている。  
 それに比べて僕は、大学4年の時には東京スポーツに入社したいと思い電話をしたが断られ、書店を継いだはいいが倒産させてしまい、家庭教師で糊口をしのいだあとで市議会議員に当選させていただき、4期務めたあと県議会議員選挙に挑み落選し、今はこうして寂しい独居老人生活を送っている。  
 振り替えれば、我ながら起伏に富んだ面白いドラマを視ているような気もしないでもないが、彼らのように地に足のついた人生を送ってきた仲間と会話をしていると、忸怩たる思いが込み上げてくるのもまた事実なのだ。だけど、今更時計の針は前には戻せない。(4041)
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