昨日のブログで「議論のプロ」という言葉を使ってしまった。勿論、今の僕が、“プロ”と呼べるような代物ではないことは自覚している。ただ、議員である以上、研鑽を重ね、プロに近づいていきたいと、漠然と考えている。
そこで、今日は、「議論のプロ」になるために、最近に呼んだ本を三冊紹介したい。
① 「ことばでたたかう技術」 加藤恭子著 (文藝春秋)
アメリカで長く暮らし、フランスにも留学した経験をもつ著者が、日本人と欧米人の”議論”に対する認識の違い(パーセプションギャップ)を中心に、ことばで伝えること、ことばで説得することの必要性を説いた一冊。
欧米では、小学生の頃から、教育課程の中で、ディベートのトレイニングを行い。論理的な弁論の技術を教えているらしい。今年から、日本では、小学校でも英語が必修となったようだが、この本を読むと、単に英語が喋られるだけでは、国際人とはなり得ないことがよくわかる。
僕は、予てから、小学生への英語必修化には反対だった。まず母国語(日本語)をもっともっとみっちりと教えるべきだ。日本人は、書くにしても、話すにしても、そして聞くこと読むことも含めて、正しい日本語を使えるようにならなければならないと思う。母国語で自分の考えを正確に伝えることができないうちに、他国の言語を学ぶなんぞ、本末転倒も甚だしい。
・・・・と、中学・高校時代に、英語に苦しめられたことを思い出しながら、一人憤慨しているのである。
②「わが記者会見のノウハウ」 佐々淳行著 (文藝春秋)
記者会見というのは、正確には議論とは呼ばないのだろう。ただ、わずかな矛盾をも聞き逃さず質問してくるプロの記者と、それに的確に答えなければならない会見する側は、まさしく言葉のリングで戦っている。大相撲よりも真剣勝負なのだ。
この本では、記者会見の成功事例はもとより、記者への対応を誤ったばかりに、企業の信用を失墜させたり、政治生命を失ったりしたような失敗事例も数多く紹介されている。
今の僕の立場で、記者会見などということは、ちょっと想像できないが、そのような場面に立たされたら、もう一回この本を読んでみようと思う。
③「弁論術」 アリストテレス (筑摩書房 世界古典文学全集第16巻)
難しかった。さっぱりわからなかった。ほとんど頭に入っていない。本を読むにしても、分相応のものを選ばなければならない。高校時代の友人が、関西の大学で哲学を教えているらしい。よくやるものだと、改めて感心した。
ごく僅かな記憶をさぐれば、この中で、“弁論術”が必要となる主な場面として、法廷と議会がとりあげられていた(・・・ような気がする)。アリストテレスの昔から、やっぱり議員は「議論のプロ」でなければならなかったのだと、冒頭の決意を新たにした。それだけでも、読んだかいがあった(・・・ような気がする)。
それにしても、難しかった・・・。
そこで、今日は、「議論のプロ」になるために、最近に呼んだ本を三冊紹介したい。
① 「ことばでたたかう技術」 加藤恭子著 (文藝春秋)
アメリカで長く暮らし、フランスにも留学した経験をもつ著者が、日本人と欧米人の”議論”に対する認識の違い(パーセプションギャップ)を中心に、ことばで伝えること、ことばで説得することの必要性を説いた一冊。
欧米では、小学生の頃から、教育課程の中で、ディベートのトレイニングを行い。論理的な弁論の技術を教えているらしい。今年から、日本では、小学校でも英語が必修となったようだが、この本を読むと、単に英語が喋られるだけでは、国際人とはなり得ないことがよくわかる。
僕は、予てから、小学生への英語必修化には反対だった。まず母国語(日本語)をもっともっとみっちりと教えるべきだ。日本人は、書くにしても、話すにしても、そして聞くこと読むことも含めて、正しい日本語を使えるようにならなければならないと思う。母国語で自分の考えを正確に伝えることができないうちに、他国の言語を学ぶなんぞ、本末転倒も甚だしい。
・・・・と、中学・高校時代に、英語に苦しめられたことを思い出しながら、一人憤慨しているのである。
②「わが記者会見のノウハウ」 佐々淳行著 (文藝春秋)
記者会見というのは、正確には議論とは呼ばないのだろう。ただ、わずかな矛盾をも聞き逃さず質問してくるプロの記者と、それに的確に答えなければならない会見する側は、まさしく言葉のリングで戦っている。大相撲よりも真剣勝負なのだ。
この本では、記者会見の成功事例はもとより、記者への対応を誤ったばかりに、企業の信用を失墜させたり、政治生命を失ったりしたような失敗事例も数多く紹介されている。
今の僕の立場で、記者会見などということは、ちょっと想像できないが、そのような場面に立たされたら、もう一回この本を読んでみようと思う。
③「弁論術」 アリストテレス (筑摩書房 世界古典文学全集第16巻)
難しかった。さっぱりわからなかった。ほとんど頭に入っていない。本を読むにしても、分相応のものを選ばなければならない。高校時代の友人が、関西の大学で哲学を教えているらしい。よくやるものだと、改めて感心した。
ごく僅かな記憶をさぐれば、この中で、“弁論術”が必要となる主な場面として、法廷と議会がとりあげられていた(・・・ような気がする)。アリストテレスの昔から、やっぱり議員は「議論のプロ」でなければならなかったのだと、冒頭の決意を新たにした。それだけでも、読んだかいがあった(・・・ような気がする)。
それにしても、難しかった・・・。