きょうは、贅沢をして、ホテルの2階のレストランから、祭り期間限定特別メニューを食べながらのねぷた観戦。弘前芸術鑑賞会の仲間たちと一緒だ。目と同じ高さから下を、ねぷたが通っていく光景も、たまにはいいものだ。
  ただ、本来ねぷたは、下から見上げて、大きさを実感するものだと、僕は思っている。おそらく、多くの絵の構図も、それを想定して描かれているのではないか。やはり、ねぷたの魅力の一つは、迫り来る、その質量感にあるのではないかと、個人的には考えている。
   その意味でいうと、道幅が広く、両側に大きなビルが立ち並ぶ駅前運行は、ねぷた自体が小さく見えるようで、僕はあまり好きではない。というのが、"土手町派"の僕の持論だ。
    だけど、思い起こせば、生まれた時から、2階が僕の、ねぷた観戦の指定席であった。
    幼稚園児の頃は、夜の8時になると、「子供はもう寝なさい」と、無理やり布団に入らされた。でも、ねぷたの囃子が気になって、とても眠られるものではない。そこで、こっそりと布団を抜け出して、通りに面した家の2階の窓から、親に叱られるまでねぷたを観た。
    僕が中学生の頃だったろうか。店がある商店街の歩道に、アーケードがついた。そこからは、そのアーケードの屋根に登って観戦するのが、毎年の楽しみとなった。
   大学時代には、ビールをもって屋根に上がった。飲みながら食べながら、仲間と一緒に、大いに盛り上がった。土手町の住人の、一種の特権でもあった。
   まぁ、さすがに、社会人になって、書店経営に携わるようになると、そういうわけにもいかなくなった。当たり前の話だが、商売最優先だ。店のシャッターを下ろした後も、店先で、「ねぷた速報ガイド」や、ビール・焼き鳥などを販売して、日銭を稼いだ。けっこう売れたものである。
   今考えれば、あの頃は、アーケードの屋根という、ねぷたの大きさを実感できる、かっこうの物差しがあった。両側のアーケードの軒先ギリギリまで広がる、ねぷたの横幅。屋根を遥かに上回るねぷたの高さに、僕らは感嘆の声をあげたものだ。
   そのアーケードを撤去したのは、僕が商店街の専務理事を務めていたときである。おかげで、街は、随分と明るく見通しがよくなった。
   その代わり、ねぷたの迫力が薄れたように感じているのは、僕だけなんだろうか? 多分、僕だけなんだろう。(13159)