弘前文学学校での授業を終えた。年に2回、好き勝手なテーマで、授業(?)を受け持たせていただいている。
 今日のテーマは「レトリック」。修辞学というやつだ。手元の明鏡国語辞典では「文章表現の効果を高めるための技法」、岩波国語辞典では「巧みな表現をする技法」、新明解国語辞典では「言葉を効果的に使って適切に(美しく)表現する言語技術」とある。
 例えば、
 「プロレスは人生に似ている」と言えば”直喩”という技法だし、「プロレスは人生である」と言い切ってしまえば、”隠喩”という技法になる。
 「強者が勝者になるとも限らないし、勝者が強者というわけでもない」は、いわゆる”対照法”だろうか。「弱者・敗者もまたしかり」と続けることもできる。
 「コブラツイスト、4の字固め、16文キック・・・、相手の協力がなければ決まらない技もある」と、具体的に技の名前を連ねるのは”列挙法”。
 「最も愛される者がチャンピオン、最も憎まれる者がチャンピオン、最も巧い者がチャンピオン。最もずるい者がチャンピオン・・・。プロレスのチャンピオンには、強いだけではなることが出来ない」と、”最も”や”チャンピオン”という言葉を繰り返す。これが”反復法”だ。
 「なんて奥が深いのだろう。プロレスは。」は倒置法だし、「プロレスの中に、人類の摂理を見るように感じるのは僕だけであろうか?」とまで書いてしまえば、これは”修辞疑問法”というのだそうだ。いや”誇張法”かもしれない。
 勿論、高邁なる弘前文学学校で、このような例文を使ったわけではない。たった今、僕が勝手に思い浮かべて綴っただけだ。
 授業では、予め提出いただいた生徒さんたちの作品をから、目に付いたレトリックを拾った。森鴎外や芥川龍之介、あるいは佐藤愛子などの文章をからも、一部引用させていただいた。
 その他にも、擬人法やオノマトペ(擬音・擬態法)、風変わりなルビ(添義法)など、御馴染みの技法もたくさんある。比喩にだって、直喩・隠喩の他にも、換喩や提喩、諷諭などもあるらしい。
 ただ、どれも、いかめしい名前はついているが、実際のところ、僕らが、無意識に使っているものがほとんどだ。メール、ブログ、ツイッター、ラブレター、日記等々。
 文学学校は、大学や研究機関でない。生徒さん達にも、無理矢理、そんな「〇〇法」だなんて名前を覚えろだなんて言うつもりはない。
 だけど、今まで無意識に使ってきたものを、ちょっぴり意識して使ってみる。何かを意図して言葉を選ぶ。言葉の順序を変えてみる。そのことで、文章の幅や奥行きが広がるのではないかということを伝えたかった。
 などと偉そうなことを言ったって、僕は相変わらず、このような駄文を毎晩書き殴っている。教えるは易し、行うは難し。僕のこのブログをも、反面教師にして貰えれば幸いである。