目頭が熱くなった。思わず、左手の親指と人差し指でまぶたを押さえた。でも、遅かった。その隙間から、一筋二筋と、涙が流れ落ちた。
 弘前市立第一中学校の卒業式のことである。卒業生代表の答辞が素晴らしかった。
 生徒は、一応は、原稿らしきものを持って、壇に上がった。でも、答辞を述べ始めると、時折それに目を落とすことはあっても、決して棒読みになることはなく、全て自分の心からの声として、堂々と、粛々と自分の3年間を語った。
 それも、ありがちな、一般論としての、修学旅行とか、文化祭とかの話では無い。生徒会長の選挙に出ようとしたときの父親からの言葉だとか、中体連の決勝と文化祭とが重なってしまったときの葛藤だとか、それを支えてくれた友達の言葉とか、自分自身の体験を切々と述べた。僕は、心の底から、感動してしまった。
 振り返ってみれば、僕自身、自分の卒業式で泣いたなんて経験はない。大体にして記憶も曖昧だ。
 決して、記憶の残らないような大人しい生徒ではなかった。中学でも高校でも、それなりに足跡(爪痕?)は残してきた。中学では、生徒会長の選挙に立候補したり、高校ではプロレス団体を起ち上げてチャンピオンを名乗ったり・・・。それなりに青春を謳歌してきたはずだ。
 でも、卒業式の思い出は無い。前日に思いを告げに来た女性も、思いを告げに行った女性もない。学生服のボタンを貰いにきた人も、上げた人もいない。
 それなのに今日の答辞で涙をこぼした理由は、ただ一つだ。挨拶している本人の気持ちがストレートに伝わってきたからに他ならない。原稿をただ読むのではなく、自分の思いを自分の言葉で伝えたいという、話者の強い意志が感じられたからだろうと思う。
 昨年秋も、この学校の、生徒会役員選挙や、生徒総会を傍聴させていただいた。選挙の際の演説も、総会での質問も、それに対する答弁も、皆誰も、原稿無しで行なっていた。素直に感動を覚えた。
 このような素晴らしい実践例があるのに、何故人は、長ずるに連れ、他人の書いた原稿に頼るようになるのだろう? 市役所の部長や課長にまでなりながら、想定問答集を読み上げるだけの議会答弁には、正直言って辟易することも多い。
 数値とかは別にしても、政策理念とか、自分自身の意欲の部分は、原稿に頼らず、誰に阿ることもなく、思いを堂々と述べてもらいたい、と思うのは僕だけなんだろうか? どうやら、僕だけらしい。(7813)