T女子大に行ってきた。いやいや、誤解しないで欲しい。若い娘を目当てに行ったのではない。えっ、誰も誤解しないって? それはそれで、少し寂しい気がしないでもない。
 まぁいい。実は、S教授の公開講座を聴きに行ったのだ。 
 S教授は弘前読書人倶楽部の会員である。数年前、やはり公開講座にお誘いを受けて、そのご縁で入会していただいたのだ。その後、ブックトークをしていただいたこともある。
 その時のテーマは「星の王子様」。今回は、180度変わって、漱石の「夢十夜」。いや、考えようによっては、180度も違わない。両方とも、虚構と現実の間の物語だからだ。
 この講座は、4月から始まっていたらしい。それは知らなかった。今日が2回目。この先、7月9月と日程が決まっていて、10月以降も続ける予定なのだそうだ。
 今回は「第六夜」が採りあげられた。
 運慶が、仁王像を彫っているという夢である。それを見ている群衆は、何故か明治時代の人。口々に運慶の技術を褒め称えていた。
 と、中の一人が、「運慶は、自分で目や耳や鼻を創っているのではない。木の中に予め存在している形を彫り出しているだけだから巧くいく」評した。それを聞いて合点をした男が、早速、家に帰って、薪を使って自分もやってみようとした。だけど仁王は現れない。何度も何度も失敗して、そこで初めて気が付いた。「明治の木には仁王は埋まっていないものだ」と・・・とそんなお話だ。
 S教授は、わずか3ページのこの掌編に、なんと52個もの脚注を振って、一語一語丁寧に解読していった。言葉の意味はもとより、時代背景や、漱石の他の作品との関連性などである。
 こうして読むと、漱石が、一つの言葉、一つの文章を編み出すのに、いかに緻密に、しかも大胆に思考を巡らせていたのかが、わかったような気がした。
 僕は、小説に、教訓めいた意味を無理やり持たせることは、あまり好まない。小説は、物語としての面白さを堪能できればそれでいいとも思う。
 でも、今日、S教授が最後にお話しされたことが、妙に印象に残っている。それは、自分のやりたいこととか、自分の生き方とかいったことだ。外にあるものを見つけてきてそれで創り上げていくのか、それとも、自らの内にあるものを彫りだしていくのか・・・といった内容だった。
 そう言えば、「持って生まれたものを深くさぐって強く引き出す」とは、我が母校の教育方針だったように思う。高校生の頃、さんざんに聞かされた記憶がある。
 はてさて、そうは言われても、僕が”持って生まれたもの”って何だったんだろう? 高校時代、そうやって引き出したものがプロレスだった。
 じゃぁ、63歳を目前にした今、自分の中に腕を突っ込んだところで、一体何を引っ張り出せるというのか。いまさら引っ張り出されたくなんかない、奥に仕舞いこんでおきたいものしか残っていないような気がする。(7762)

 追伸
 土曜日の夜、何も起こらなかった