「現金なもので、昨日病院に行ったら、膝の痛みが治まった 」と書き出すつもりで、”げんきん”を変換したら”厳禁”が出てきた。”へんかん”は最初、”返還”になった。
 これだから、パソコンに漢字を書かせようとすると、始末が悪い。あっ、また、”かんじ”が”感じ”になった。僕のブログにも、この誤変換が時折(しょっちゅう?)あるようだ。言い訳するようだが、全てパソコンが悪いのだ。(ちゃんと読み直さない僕が悪いって? そう言われれば返す言葉はない)
 ブログならまだいい。僕が恥をかけば済むことだからだ。これが、特定でも不特定でも、誰かに対する手紙だったら、大変な話になる。
 今日は、いくつかの原稿作成に勤しんだ。原稿と言っても、頼まれた原稿800字の他は、関係している団体の、お礼の手紙とか、案内状とかの類いばかりだ。
 弘前芸術鑑賞会は、僕が、流れるようなペン使いで書き殴った、自分でも後から読めなくなるような超くずし字を、事務局が翻案してパソコンに打ち込んでくれるから有り難い。打ち上がってきた物を、僕は校正するだけだ。
 ところが、読書人倶楽部や、町会、そして、僕が事務局を務めている市民団体は、そうはいかない。自分でパソコンに向かわなければならない。
 それぞれの団体毎に、雛形は出来上がっているとはいえ、決められたパターンでは満足できないのが僕の性格だ。同じことを表わすのにも表現を変えてみたり、余計なことを付け加えたりしているうちに、誤変換が発生する。
 今日も、講師の紹介をする文章で、「〇〇の中心として活躍され」と書いたつもりが、「衷心として・・・」となっていた。途中で気がついたからよかったようなものの、そのまま発送していたら、講師の方の逆鱗に触れていたに違いない。
 かようにパソコンという奴は、全く頭が悪い。前後の文脈で、「中心」か「衷心」か、はたまた「忠臣」か、わかりそうなものだ。
 この分だと、どんなにAIの時代が来ても、定型の事務的文書以外の分野では、こと文章作成に関しては、人間の仕事が奪われることはなさそうだ。そんな点では、絶対に人間が敵うはずのない計算力よりも、読解力、作文力、表現力を培うことに、教育の比重を移してもいいのではないかと、理科や数学の苦手だった僕は、自分勝手に考えるのである。
 さて、最初の書き出しはどうなったって? そうそう、厳禁なもので、今日は、階段もすたすた降りられるようになった。ん?