今年も、赤い羽根共同募金が始まった。弘前読書人倶楽部が所在する町会では、一口500円だということで、今日、集金していった。
 そんな話をしていたら、倶楽部役員のSさんがいらっしゃった。Sさんは、かつて某粗役所に勤務しておられたことがある。
 Sさんは、毎年、この時期になると、たくさんの苦情が役所に寄せられていたという。いわく、「募金とは、本来、任意のはずなのに、一律、集金にくるのはおかしい」と。
 そこへいくと、我が徳田町町会は、総会で承認を得た上で、一括して町会で一定額を寄付している。町会員個人に、よけいな負担を負わせることはしない。町会長としては、各世帯に羽根を配るだけが仕事だ。
 そこへ、お隣りのF町在住のNさんも、珍しく顔を見せてくれた。Nさんの町会でも、会としてお金を納め、故人が支払うことはないとのことだ。
 小学生の頃は、何も疑わず、募金に応じるのがあたりまえだと思っていた。街で募金活動にでくわすと、小遣いの中から10円を投じて、羽根をつけてもらうのが、ある種、義務でもあった。むしろ、クラスの他の子ども達が、全員襟に羽根をつけていて、自分だけが付けていないのは、疎外感と罪悪感を感じたものだった。
 ある時期から、その感覚は変わった。善意の発露、福祉への貢献方法は、何も強制されなくてもいい。世間一般右倣えでなくたって、人それぞれのやりかたがあってもいいのではないかと。
 僕の愛読漫画に「寄席芸人伝」というシリーズがある。その中で、あるストーリーが頭に残っている。
 人情噺の名人と言われたある真打ちのところへ、学生が、恵まれない子ども達へのチャリティー寄席という企画を持ってくる。チャリティーなので、出演料は無料だという提案だ。ところが、その真打ちはこう語って、その話を断る。「学生さんよ。恵まれない子ども達のためというなら、落語家の上前をはねるような真似をしないで、自分たちで汗水流して働いて、その稼ぎを寄付したらどうなんだい」
 実は、その真打ちは、人知れず、孤児のために寄付をしていたり、若くして夫に先立たれた他の落語家の母子を支援していたということが、あとからわかる。
 僕は、この話が大好きだ。上に紹介した巻に出ていたかどうかは不確かだが、是非全館読んでみて見つけていただきたい。ここに描かれているとおり、他人を思いやる心、他人のために役立ちたいという心は、誰に見せるためのものではないはずだ。
 そういった意味では、NTV系列の「24時間テレビ」などという企画は大嫌いだ。善意や慈善の心をイベントにして視聴率を稼ごうという意図には、どうにもついていけない。だったら、スポンサーに莫大な制作経費の一部を負担させなくたって、番組内で美辞麗句を並べて視聴者に寄付を呼び掛けなくたって、自局と系列局の事業利益の中から、誰にも広言せず、ひっそりと寄付をすればいいのではないかと、ひねくれ者の僕は、つい感じてしまうのである。
 話を戻す。赤い羽根だ。色々な人との会話の中で、「最近は、あまり、付けている人を見なくなったねぇ」、「この時期、これ見よがしに襟に付けているのは、政治家が多いねぇ」という話も出た。
 少なくとも僕は、寄付はしたけれど、羽根を付けて外に出歩くなんて真似はしない。それが僕の男の美学(?)なのだ。(7280)