また、弘前城秋の大祭典の話題から書き始める。
 この補正予算案のことを、先週金曜日のブログに書いて以来、コメント欄や、Line、Eメール等で、何人かの方からご意見を寄せていただいている。中には、障がいを持ったお子様の母親から、コロナ感染拡大を心配する悲痛(?)な訴えもいただいた。同じ日に開催した会派合同議会報告会でも、話題の中心はこの問題であった。 
 今日は、Ta議員と一緒に、市の担当部門を訪ねて、そういった市民の声も踏まえながら、改めて開催時期や内容について、会派としての考え方を伝えてきた。これからも何度か、足を運ぶことになるだろうと思う。
 さてここで、”市民の声”という言葉を使った。僕らは普段、何の気なしに口にしているフレーズだ。曰く「市民の声を代表して」「市民の声に耳を傾けて欲しい」・・・。又、「市民は〇〇と言っている」「市民は必ずしもそういった方向を望んでいない」等々、”市民”を主語にして発言することもよくある。議員の常套句の一つと言ってもいい。
 が、先日、ある友人から、「議員の言う”市民”って、一体誰のことなの? ”市民の声”って、結局は”自分の意見”のことなんじゃないの?」と言われた。一瞬、返答に詰まった。
 いやしかし、僕の場合、自分の考えを述べる時には「僕は」と切り出す。議場では「私は」と言っている。僕が「市民は」という主語を使うときは、必ず、自分以外の誰かから言われたことを話す場合だけだ。・・・のつもりではいる。それも「誰と誰が」と固有名詞を出すわけにもいかないケースや、少なくない数の人達から言われた場合に限っている・・・・つもりだ。
 が、考えてみれば、それだって、当然のことながら”市民”の総意ではない。あくまで僕の耳に入ってくる声の主だけのことだ。
 その友人はこうも言った。「聞こえてくるのは、大概、”反対”の声だけだ。それも声の大きな人のものだけだ。物言わぬその他大勢の人達は、”賛成”もしくは”容認”というケースが多いのではないか」と。
 それを全て”是”とすることは出来ない。声なき人々の中には”無関心”も多く含まれていると思うからだ。
 ただ、一面では傾聴に値する部分もあると思う。僕ら議員が、”市民の代表”を自認するのであれば、”賛成””反対””その他””無関心”も含めて、サイレントマジョリティーの意見をも聞かせて貰えるような努力を、もっともっとしなければならない。その努力不足を、痛烈に突かれたような思いがした。
 そんなことも充分考慮した上で、「秋の大祭典」については、しっかりと調査・情報収集・提言を繰り返していきたい。明日も、この件で、Ta議員と活動を共にする予定だ。(8276)