光信公弘前藩の藩粗は津軽為信公。その先祖が大浦光信公。安東氏への守りを固めるため、南部藩久慈より、兵30余騎を引き連れて、現鰺ヶ沢町種里に入部した。今年は、それから530年という節目の年にあたる。
 今日は、その530年祭に係わる行事が行われた。津軽厚志会の一員として、朝早く弘前を出発して、それらに参加してきた。
 一つは、廟所の柵の再建築工事竣工式である。津軽厚志会が施工主となって建て直したものだ。鬱蒼とした、熊も出るという森の中で、真新しい柵だけが、異様に目立っていた。
 続いて、光信公の館前で執り行われた、光信公の慰霊祭。495年祭なのだそうだ。これには鰺ヶ沢町長・弘前市長の他に、久慈市長・横手市長も参列をされていた。
 久慈市との係わりは、冒頭に記した。そもそもが久慈から来た家なのである。光信公を大浦姓を名乗った初代とするならば、その5代目にあたる為信公もまた、久慈南部からの養子だと言われている。だから、久慈市と津軽は、もともと深い関係にある。
 ならば、横手市は何故? その答えは、今日、横手市長が挨拶の中で詳しく触れてくれた。それによれば、光信公の2代先祖が、横手の金沢柵の城主だったのだそうだ。小野寺氏との戦いに敗れ、久慈に逃げ帰ったという。メモを取りながら聞いていたわけではないので、多少は誤りがあるかもしれないが、ご勘弁いただきたい。
 つまり、津軽家のルーツをたどれば、横手市⇒久慈市⇒鰺ヶ沢町⇒弘前市となる。弘前藩からは、黑石津軽が分家をしている。
 僕らは、「卍の城物語」というドラマリーディングをシリーズ化して公演してきたが、そのスタートは、為信による石川城攻略の場面からであった。だけど、その遙か以前から、津軽家の歴史は脈々と繋がれてきていたことを、改めて思い知らされた感じだ。
 今朝の地元紙には、その津軽氏ゆかりの5市町村が、「歴史・文化に関する交流を宣言した」と報じられていた。とても面白い試みだと思う。具体的に何を行うのかはまだわからないが、例えば教育旅行などにも、その交流は活かせるのではないかと、咄嗟に考えた。
 藩政時代の歴史の接点に端を発した、他市町村との交流は、弘前市では既に、北海道斜里町と群馬県太田市(旧尾島町)と長年行ってきている。鰺ヶ沢・黑石はもよより、久慈だって横手だって、斜里や太田に比べれば遙かに近い。より密接な関係を築けるのではないかとも思う。
 僕は、久慈市にも横手市にも、今まで1回しか行ったことがない。久慈市は家族旅行で、横手市は青年会議所の大会で、どちらも滞在時間は僅かであった。青年会議所に至っては、夜に大曲の花火を見て、横手に移動して一泊して、翌朝すぐに帰ってきたという有様だ。
 これを機会に、ゆっくりと訪れてみたい。そんな旅情をそそられた一日であった。(5028)