「弘前市・斜里町友好交流の会」設立総会が行われた。弘前市と斜里町との交流の歴史は、もう30年にもわたる今頃何で?、という感がなきしにもあらずであった。
 でも今回、総会に出てわかった。30年来続いてきた交流を、記念碑という形で残したいというために、寄付集めようという集りなのだそうだ。そのような発想は、今まで形として現れることは無かった。
 そのこと自体にに異論は無い。ただ、公職選挙法上、議員が寄付を出来るかどうかは、きちんと調べなければならない。
 それにしても斜里には、格別の思い出がある。
 そもそも、斜里と弘前の関係は、1800年代初頭、露寇事件勃発に対して、津軽藩士が、オホーツク沿岸に北方警備の任にについた時から始まる。悲しいことに、その時派遣された大半の藩士が、極寒と飢えのため、冬を乗り越えることができず、命を落とした。
 そんな津軽藩士に対し、斜里の町の人々が、長い間、慰霊の行事を続けてきてくれていた。そのような史実に基づき、弘前市と斜里町は、昭和58年以来、友好都市として交流を続けてきた。
 毎年7月には、斜里町で、津軽藩士に対する合同慰霊祭が行われている。この日は、弘前市からも、市長はじめ、政財界のお歴々が出席している。弘前青年会議所理事長も、その正式参列者の一人だ。少なくともここ30年は、理事長たるもの、必ず慰霊祭には参列しているはずだ。たった一人を除いては・・・。
 その、たった一人が、僕なのだ。決して斜里町に行かなかったわけではない。慰霊祭の前の日には、斜里町に着いて、ねぷた運行に参加している。ただ、その前後は飲めるだけ飲んだ。だって、際限も無く接待してくれるんだもの。先方の誠意に応えるためには、ひたすら飲み続ける他は無かった。
 お陰で、専務理剤と二人ツインルームに泊まったのだが、二人とも、爆睡していた。どちらからともなく目を覚ましたら、もう慰霊祭の始まっている時刻であった。あわてて着替えをし、会場にかけつけた頃には、もう慰霊祭は終わっていた。これでは、何のために行ったかわからない。おそらく、こんな理事長は空前絶後であったろう。・・・っていうか、絶後でなければならない。
 それでも、斜里町の青年会議所の皆さんは、怒らずあきれず、その後、斜里から網走市周辺にかけての観光に案内してくれた。有難かったのだけれど、なにせ二日酔だ。意識も記憶も朦朧としている。斜里の思い出といっても、前の晩のものすごい接待と、当日遅刻したことと、そして翌日札幌で、ビールをかたむけながら専務理事と語り合ったことが、あまりに強烈過ぎて、他の出来事がかすんでしまっている。
 まぁ、恥ずかしいなら恥ずかしい、曖昧なら曖昧なりに、そんなことも、今となっては良き思い出だ。出来ることなら、もう一度、斜里を訪れてみたい。その時は、酒を押さえて、頭も身体もすっきりとした状態で、周辺の風景を愉しみたいと思う。










+