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以下の文章は2013年2月6日に書いたものをコピーして掲載しています
多見、多聞、多書。どれも重要だが、多く書く経験によっていろいろなことを会得できる。書は線の造形芸術だという。その線を引く経験を重ねることによって、自分の思い通りの作品をつくることが出来る。
力の入れ具合、墨量や運筆の速度によるカスレ具合などは経験を覚えることにより、表現の幅は広がっていく。筆毛の長短、柔剛などによる変化もまた然りである。
同じ様な淡墨でも、全体を薄く磨るのと、濃く磨った墨に水を加えて薄くした墨ではニジミ方が違う。同じ墨を磨るのでも、硯の鋒鋩によって発墨の粒子の細かさが違い、ニジミ方に影響を及ぼす。
同じ宣紙でも製ったばかりのものと、50年寝かせたものとは書き味が違う。これ等の微妙な違いは言葉では表しにくく、自分の経験によって覚えていくしかない。若者がベテランにかなわないのは、この経験が少ないからである。
篆刻における印材も同じ。10000本も刻れば、市販されている壽山石、青田石、巴林石などの石は、見ればある程度の硬さや特徴もわかるようになる。また印刀を石に当てれば、この硬さの石ならこれくらいの力で刻ればよいとすぐわかる。
頭を使わず歳月のみを重ねても経験とは言わない。経験とは、思考や記憶を伴った体験でなければならない。
書道歴〇〇年と言う時、人によって内容にだいぶ開きがあるようだ。私が40年と言うのは職業として書や篆刻を始めてからである。ある人は小学校1年でお習字を始め、会社に勤めながらお習字をやっていても、書道歴40年という。
内閣総理大臣賞受賞といっても、お習字の展覧会では小学3年生でももらえるが、日展では日本で十指に入る書家でも受賞することは非常に難しい。
その展覧会の幹部審査員以外で賞をとるのは、初学者か中堅までで、その賞をつけているクラスの人がその書道団体に何百人もいるのである。賞をもらってやっと中堅ないしは将来に期待される人という程度である。
葛西臨海公園 湿原
コンビニで70歳位のお爺さんがタバコを買っていた。若い女の店員はこのお爺さんに 「20歳以上ですね?」 と確認ししていた。『見ればわかるだろ この〇〇店員 ! 』
コンビニに宅急便を出しに行った。ヤマト便のダンボールには 【6】 とか 【8】 とか印刷してある。これは60サイズとか80サイズのことである。つまり大きさ寸法を箱の外に書いてある。受付時この箱の寸法を測る店員がいる。『箱にもう寸法が書いてあるだろ この〇〇店員 ! 』
ヤマトの手提げ袋と郵便局の手提げ袋は大きさが一緒である。宅急便を受け付けるたびにこの手提げ袋の大きさを測る店員がいる。『一度計ったら覚えておけ この〇〇店員 ! 』
次から次とアルバイト店員を雇っているので、販売のプロ意識のない、頭をまったく使っていない店員をよく見かける。
タバコを買う人の年齢確認や宅急便の寸法を測れと指示されていても、店員がこんな〇〇なことをやっているのを見ている店長が、実は大〇〇である。
〇〇には自分が適当な文字を入れてください。
近所に咲いていた花
以上の文章は2013年2月6日に書いたものをコピーして掲載しています。
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以下の文章は2014年2月6日に書いたものをコピーして掲載しています
。
書道教育では臨書とともに鑑賞の重要性を教える。鑑賞は用具・用材を用意しなくても対象があればどこでも出来る。
昔に比べ勉強レベルが低下していることは何度もこのブログで述べている。専門書籍を購入して勉強する人が減っているのは書籍販売数で簡単にわかるが、肌で感じるのは鑑賞の内容である。
学生時代、中国文学科の主任をしていた石川梅次郎教授は、家に2万冊の蔵書があった。大学図書館の館長を兼務した時代もあり、私は卒業後も館長室に時々遊びに行っていた。石川先生は、今まで図書館の本は殆ど読んだことが無いと言っていた。読みたい本はすべて自分で購入していたのである。
私もこの主義で、若いころから読みたい本は買うようにしていた。東梨房に1万冊位しかないのは私の勉強不足を物語っている。自分の手元にあれば、必要な時いつでも調べることが出来る。今はネットで調べられるが、それは誰かが書いた解説で、原本を直接見るのとは雲梯の差がある。
本と同じで、50年位前に勉強している人はいろいろな書や文物を自分で持っていた。私の知人にも、呉昌碩や趙之謙、王鐸や何紹基の書を持っている人は結構いる。いま若い人はこれらをたまに博物館でみるだけであろうが、私が若いころは、買って収蔵し、よく鑑賞していた。
行草を得意とする人は、明清の書を持っており、篆刻をやっている人は古銅印や呉昌碩の印を持っている人が結構いた。師匠や友人が持っているということは、遊びに行ったとき簡単に見せてもらうことも出来た。ガラス越しに遠くから鑑賞しなくてもよかったのである。
東梨房にも少しはある。20代に集めたのが多い。日展審査員や書道の大学教授の書いたもの(落款印を捺した作) が30-40点くらいはある。(現代人のもので買ったものはほとんどない。みな頂戴したもの)
拓本も乙瑛碑や高貞碑(40年前に北京と上海で購入。結構精拓)、九成宮醴泉銘、蘇孝慈墓誌銘、龍門二十品、瓦当(50種)などは持っていたので、折に触れてみていた。いくら印刷本の拓が良くても、原拓は受ける感動の度合いが違う。
銅印も15顆位、封泥や原鈐印譜も何種かあり、自由に見ることが出来る。師匠の保多孝三先生の刻った印も50顆位、落款印を捺した書作品も10点位、画も5-6点あるので、いつでも師匠の作を見ることが出来る。(手本はほとんどない)
書籍と同じで、鑑賞するものを手元に置くことにより、いつでも頻繁に鑑賞できる環境を作る努力をしてきた。もちろん個人で持てるものは微々たるものなので、中国に50回位見に行ったり、友人の持っているものを見せてもらいに行ったりしてきた。
このように勉強している人は私の周りには何人もいた。いま目につくのは、公募展に入賞のためにせっせと練習する人、ネットやマスコミを利用してやたらとハデな活動をしている人である。
私は今、若い人との交流はまったくないので、勉強している人を知らないが、市場で売買されている書籍、文物の動向をみる限り、50年前に比べると質ははるかに低下しているように思える。
書や篆刻が芸術・学問から、技能・感性重視の薄っぺらな芸に代りつつあるように感じる・・・ 自分の眼を高めるのは良いものを鑑賞するのが一番である。古典や名品を見続けている人の眼と、付き合いでその辺の展覧会を見て回っている評論家や書家の眼は、長い間にまったく違うものになるかも・・・
近所に咲いていた花
以上の文章は2014年2月6日に書いたものをコピーして掲載しています。
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2023年2月6日
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一日一刻 彭不去 【篆刻】
一日一作 今城昭二 【書】も毎日掲載しています。見てください。
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力の入れ具合、墨量や運筆の速度によるカスレ具合などは経験を覚えることにより、表現の幅は広がっていく。筆毛の長短、柔剛などによる変化もまた然りである。
同じ様な淡墨でも、全体を薄く磨るのと、濃く磨った墨に水を加えて薄くした墨ではニジミ方が違う。同じ墨を磨るのでも、硯の鋒鋩によって発墨の粒子の細かさが違い、ニジミ方に影響を及ぼす。
同じ宣紙でも製ったばかりのものと、50年寝かせたものとは書き味が違う。これ等の微妙な違いは言葉では表しにくく、自分の経験によって覚えていくしかない。若者がベテランにかなわないのは、この経験が少ないからである。
篆刻における印材も同じ。10000本も刻れば、市販されている壽山石、青田石、巴林石などの石は、見ればある程度の硬さや特徴もわかるようになる。また印刀を石に当てれば、この硬さの石ならこれくらいの力で刻ればよいとすぐわかる。
頭を使わず歳月のみを重ねても経験とは言わない。経験とは、思考や記憶を伴った体験でなければならない。
書道歴〇〇年と言う時、人によって内容にだいぶ開きがあるようだ。私が40年と言うのは職業として書や篆刻を始めてからである。ある人は小学校1年でお習字を始め、会社に勤めながらお習字をやっていても、書道歴40年という。
内閣総理大臣賞受賞といっても、お習字の展覧会では小学3年生でももらえるが、日展では日本で十指に入る書家でも受賞することは非常に難しい。
その展覧会の幹部審査員以外で賞をとるのは、初学者か中堅までで、その賞をつけているクラスの人がその書道団体に何百人もいるのである。賞をもらってやっと中堅ないしは将来に期待される人という程度である。
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コンビニで70歳位のお爺さんがタバコを買っていた。若い女の店員はこのお爺さんに 「20歳以上ですね?」 と確認ししていた。『見ればわかるだろ この〇〇店員 ! 』
コンビニに宅急便を出しに行った。ヤマト便のダンボールには 【6】 とか 【8】 とか印刷してある。これは60サイズとか80サイズのことである。つまり大きさ寸法を箱の外に書いてある。受付時この箱の寸法を測る店員がいる。『箱にもう寸法が書いてあるだろ この〇〇店員 ! 』
ヤマトの手提げ袋と郵便局の手提げ袋は大きさが一緒である。宅急便を受け付けるたびにこの手提げ袋の大きさを測る店員がいる。『一度計ったら覚えておけ この〇〇店員 ! 』
次から次とアルバイト店員を雇っているので、販売のプロ意識のない、頭をまったく使っていない店員をよく見かける。
タバコを買う人の年齢確認や宅急便の寸法を測れと指示されていても、店員がこんな〇〇なことをやっているのを見ている店長が、実は大〇〇である。
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書道教育では臨書とともに鑑賞の重要性を教える。鑑賞は用具・用材を用意しなくても対象があればどこでも出来る。
昔に比べ勉強レベルが低下していることは何度もこのブログで述べている。専門書籍を購入して勉強する人が減っているのは書籍販売数で簡単にわかるが、肌で感じるのは鑑賞の内容である。
学生時代、中国文学科の主任をしていた石川梅次郎教授は、家に2万冊の蔵書があった。大学図書館の館長を兼務した時代もあり、私は卒業後も館長室に時々遊びに行っていた。石川先生は、今まで図書館の本は殆ど読んだことが無いと言っていた。読みたい本はすべて自分で購入していたのである。
私もこの主義で、若いころから読みたい本は買うようにしていた。東梨房に1万冊位しかないのは私の勉強不足を物語っている。自分の手元にあれば、必要な時いつでも調べることが出来る。今はネットで調べられるが、それは誰かが書いた解説で、原本を直接見るのとは雲梯の差がある。
本と同じで、50年位前に勉強している人はいろいろな書や文物を自分で持っていた。私の知人にも、呉昌碩や趙之謙、王鐸や何紹基の書を持っている人は結構いる。いま若い人はこれらをたまに博物館でみるだけであろうが、私が若いころは、買って収蔵し、よく鑑賞していた。
行草を得意とする人は、明清の書を持っており、篆刻をやっている人は古銅印や呉昌碩の印を持っている人が結構いた。師匠や友人が持っているということは、遊びに行ったとき簡単に見せてもらうことも出来た。ガラス越しに遠くから鑑賞しなくてもよかったのである。
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銅印も15顆位、封泥や原鈐印譜も何種かあり、自由に見ることが出来る。師匠の保多孝三先生の刻った印も50顆位、落款印を捺した書作品も10点位、画も5-6点あるので、いつでも師匠の作を見ることが出来る。(手本はほとんどない)
書籍と同じで、鑑賞するものを手元に置くことにより、いつでも頻繁に鑑賞できる環境を作る努力をしてきた。もちろん個人で持てるものは微々たるものなので、中国に50回位見に行ったり、友人の持っているものを見せてもらいに行ったりしてきた。
このように勉強している人は私の周りには何人もいた。いま目につくのは、公募展に入賞のためにせっせと練習する人、ネットやマスコミを利用してやたらとハデな活動をしている人である。
私は今、若い人との交流はまったくないので、勉強している人を知らないが、市場で売買されている書籍、文物の動向をみる限り、50年前に比べると質ははるかに低下しているように思える。
書や篆刻が芸術・学問から、技能・感性重視の薄っぺらな芸に代りつつあるように感じる・・・ 自分の眼を高めるのは良いものを鑑賞するのが一番である。古典や名品を見続けている人の眼と、付き合いでその辺の展覧会を見て回っている評論家や書家の眼は、長い間にまったく違うものになるかも・・・
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