変換~IMG_0319  近所の寺の石仏
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日本の現代の書作品と、中国の書との大きな違いは文字の大きさである。日本の現代書作品の文字が大きいのは、子どもの頃から半紙いっぱいに文字を大きく書いていたからだろう。

  中国は子どもも紙に字を小さく書いて練習しているので、画仙紙に書くときも、日本人が書くより文字は小さい。どれくらいの大きさかというと、明・清や民国あたりの書と同じ程度の大きさである。

  中国は伝統的な大きさを今も維持している。日本の現代書は、習字教室の延長の人は文字が大きく、中国の書を専門的に勉強してきた人は、明・清、民国あたりの大きさと同じ、現代の中国とも大差はない。

  古典の名品を見ると、だいたいは書いてある行と同じくらい行間が空いている。王羲之の蘭亭序、空海の風信帖などを見ても行間は同じように空いている。

  半切に2行、七言二句の紙を書いたときの文字の大きさを見ると、今まで勉強してきた書の程度がわかるような気がする。 文字が大きい人の書には小学校お習字の雰囲気の残る未熟なものが・・・ 。

  古典の臨書で学ぶのは1字1字の形ばかりではない。半紙に4-6字書いて練習していると書く文字の形しか見ない人が多い。書にとって重要なのは、全体の構成や雰囲気を学ぶことである。行間や前後左右との響きあいなども見なければならない。

  文字を大きく書いている人は、この辺りを学ばなかったような気がする。

 近所に咲いていた花

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 同じ古典作品を臨書しても、人によって違う書き方をする。それは学習(臨書)者に個性があるからではない。臨書に個性など入れる必要はない。忠実に学習(臨書)するのがよい。

 臨書者によって違いが出るのは、学習能力の差に他ならない。造形識別能力が劣るから、長い線を短く書いたり、細い線を太く書いたり、まっすぐな線を抑揚させて書くのである。

 似ていない臨書を個性と言っている人は、自分の能力の欠如を個性という言葉を使ってごまかしているだけである。臨書は造形も線も、行間や全体の流れもすべて学ばなければならない。ということは古典とそっくりなものが最上ということになる。


変換~IMG_0321   近所の寺の石碑
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