今子青佳

2018年10月

展示会のお知らせです!

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歌人中澤系の短歌を書いた作品を展示します。
彼は1970年に生まれ、早稲田大学第一文学部哲学科を卒業し、その後に短歌を作り始めました。1997年に未来短歌会に入会し、岡井隆氏に師事。1998年、連作『uta0001.txt』にて未来賞を受賞。2003年より進行性の難病である副腎白質ジストロフィーに冒され、2009年に亡くなりました。

彼の残した言葉は鋭く、突き放すような、それでいて世界を思考の中に包む込むような、引き込まれる言葉です。以前から好きだった彼の歌を、作品にします。

また、先日のクラウドファウンディングで皆様にご協力頂いたショートムービーも、こちらで放映する予定です。 

会場は白楽という駅が最寄りの、六角橋という場所です。中澤系が横浜の方で過ごしていらっしゃったとお聞きし、こちらの方面にしました。横浜とは少し離れるかな、と思っていたのですが、なんと、こちらに決めてから、中澤系の生まれた場所がこの六角橋だったということをお聞きしました。なんという奇跡…!!

どこかで、中澤系の何かが動いているのでしょうか。

出会うことのできなかった彼を、時間を超えて、繋がれると信じて、「時」を書き現します。
ぜひお越しください。

私は月曜に在廊する予定でおります。
皆様にお会いできることを楽しみにしています。 

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今子青佳書道展「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」
(中澤系歌集『uta0001.txt』より)


11月18日(土)~12月16日(日)
13:00~18:00
水曜・木曜定休

場所:あるcafe(神奈川県横浜市神奈川区六角橋1-10-11)
https://aru-cafe.localinfo.jp/

・お1人様1drinkご注文ください。
・入場無料

・作品を販売しております。ご希望の方は店員までお問い合わせください。 

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書の作品を発表する時点において考えると、それは絶対的に「完成された」ものになります。つまり、「作品が出来上がった」瞬間がある。

でも、時間が伴う作品は、そことは少し違う気がします。刻一刻と目まぐるしく変わって行くものだから、映像作品も、ショートムービーも、完成された瞬間は無いように感じます。

だから時間が羨ましくもあるのです。

例えば、録画した番組を繰り返し見ている場合、初めて見た瞬間の驚きは、何度も見ているその繰り返しの時には薄れて行く。でもあたかもそれを「初めて」見たように擬似体験できる。初めて見た時の私や誰かを、俯瞰することができる。ちょっと不気味。
結末を知っている私が、同じ映像を見ることができるということ。それを強制的にループしてゆくと、私たちはどうなるのでしょうか。

もうひとつ、時間があることの素晴らしさについて。
今は亡き人の映像を、この世にまだ生きている私たちが見ているという光景。私は桂枝雀という落語家が好きで、コピーできるくらい、何度も何度も見ているのですが、彼を知ったのは亡くなった後の事でした。
お会いしたかったと思いながら見ていると同時に、絶対的に会えない方に、画面を通して一方的に関わることができるという、愛する人を晒すような一方的なまなざしでもあります。回顧的にもなるし、何かを残してくれているようにも感じるのは、見ている私たちの勝手な妄想であって、彼は
「今」
何を思うのでしょうか。

誰かが過ごした過去も
可能性を秘めた未来も
同じ延長線でないと昔から感じています。
私自身の記憶の時系列も少しずつ違っていて、なんだかうまく繋がらないのです。 昨日の自分が今日や明日の自分と直結しない気がします。毎日見る夢もいつもリアルで、現実との違いがあまり使ないことの方が多くて、戸惑います。それはきっとおかしいことなのでしょうが、もうきっとこうやって付き合うことしかないので、日常の生活に支障が無ければ、良いなと思っています。

また、そういいながらも、昨日と今日の自分が少し違うからこそ、私として生きていける嬉しさもあります。

私の中の一貫性と
誰かの中の一貫性は違います。

やっとここまで言葉に出来るようになりましたが、それを改めて思うと、桂枝雀の落語を何度も何度も聞くことができるのは、登場する人物の短所を笑いにしてしまう、語り手のうまさと、真面目さと、優しさだったんだなぁと思います。

書あるいは何か「完成形がある」作品に時間が伴うことはできるのか、と考えてきましたが、今の私にとっては難しく、答えを見つけることができませんでした。
だからこそ、何が「違う」のか、その違う部分を極端に示した時に、何らかの効果が生まれれば、そんな嬉しい、楽しいことはないなと考えています。

近々、クラウドファウンディングの映像作品を含めた展示会のお知らせをします。その時に、テーマとしていた時間をどこまで考えることができるでしょうか。みなさんの時間に対する思いと、ぶつかるような、面白い作品を作りたいです。

東京都写真美術館で開催している「愛について」に行ってきました。
写真に写っているその人物の背景は別の場所でドキュメンタリーになっていたり、色反転した写真の上に説明文(日本語でない)が記されていました。つまり、その人の写真だけでは説明不十分だから、言葉で補われているんです。

作品には、どうしても文脈が必要でしょうか。

例えば、相田みつをの詩文を書いた作品は、今となってはそれだけでブランドとして確立されていますが、私が同じような字を書いても何も起きないと思うんです。彼が若いころに残した古典の作品があって、彼の字の素晴らしさがあったからこその作品だと思います。彼の字は本当に美しいです。きっと多くの人が心打たれる字です。ぜひ見てみてください。

だから、やはりその背景ありきで、新しい作品が生まれるものなんだろうと感じます。そうでない部分で、一目見て、心打たれる作品を作れたら、素晴らしいなとも思っていますが、それはそれで一発屋なような気がしています。だから、どちらも大事にしたいのが今の気持ちです。

でも、マルセル・デュシャンの便器の作品はそれだけで好きです。
どう考えても回しすぎたダクトとか。


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「愛について」というテーマだったので、関連してこちらも紹介します。

『愛情表現が時に侮辱を意味するのならば、それは世界共通ではないのだろう。言語のように翻訳され、学ばれなくてはならないのだろう。』キム・チュイ『小川』より

もうひとつ。
ロラン・バルトの『表徴の帝国』という本に、日本料理は中心がない、ということが書いてありました。コース料理ではない日本料理は、順序なくどこから食べてもいいし、お鍋料理のように、作っては食べ、作っては食べして「完成形」ではないことが、中心がない、ということらしい。

日本は、ある種の時間の流れだったり、経過だったり、周辺を嗅ぎわけるのがうまいのかもしれません。
それが奥ゆかしいのであれば、言葉を変えれば、
I love youという言葉は日本では浸透しづらい気がしています。

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