この間読んだヴァレリーの『テスト氏』の中に衝撃的な一文がありました。
「・・・わたしが、わたしの身体と呼んでいるものは、たくさんの発見が生み出した果実なのだ!」(エンマの日記より)
フランス人との魂をテーマにしたコラボレーションや、先日聞いた最上和子さんと押井守さんのトークイベントから、魂や身体の区別について考えているのですが、なんとなく、このヴァレリーの一文で納得がいきました。
私は大学生の頃に哲学科を専攻していたこともあり、卒業論文が新興宗教だったのですが、魂だとか意識についてかなり外側の、現代に生きている私たちの生き方といった部分で、以前から興味がありました。でも、やはり納得はいっていなくて、生きながら、それが何なのかを自分で悩みながら考えるしかないのだと思っていました。
それ以降はそのままでいたのですが、このヴァレリーの一文は、衝撃的であり、魅力的でした。
身体が果実であるのなら、魂のような種子は切り離せないし、まったく違うものでもなくて、近しいものであって、でも結局は別物。種子があるから果実はあって、果実があるから種子もできて、にわとりとたまごのような関係。どちらが先でもないから、結局はわからないのだけれど。
私は鏡で自分の姿を見ることが苦痛です。なるべく、見たくない。夜の電車の中ですら、車窓に映ってしまう自分の姿を、読んでいる本で隠しています。でも、他人の身体は別。素敵な姿だな、と見とれることもあります。
そこで出会ったこの「身体は果実」という言葉は、救われる思いでした。自分の体も、果実だと思うと、少しだけ前より愛せる気がする。愛してもらえる気がする。
他人の体を(たまに)「食べてみたい」と思う。それも合点がいく。
おかしいのかもしれないけどね。そういう人、きっとほかにもいるはず。
体を大事にしてあげようかな、と思った日の日記でした。

「・・・わたしが、わたしの身体と呼んでいるものは、たくさんの発見が生み出した果実なのだ!」(エンマの日記より)
フランス人との魂をテーマにしたコラボレーションや、先日聞いた最上和子さんと押井守さんのトークイベントから、魂や身体の区別について考えているのですが、なんとなく、このヴァレリーの一文で納得がいきました。
私は大学生の頃に哲学科を専攻していたこともあり、卒業論文が新興宗教だったのですが、魂だとか意識についてかなり外側の、現代に生きている私たちの生き方といった部分で、以前から興味がありました。でも、やはり納得はいっていなくて、生きながら、それが何なのかを自分で悩みながら考えるしかないのだと思っていました。
それ以降はそのままでいたのですが、このヴァレリーの一文は、衝撃的であり、魅力的でした。
身体が果実であるのなら、魂のような種子は切り離せないし、まったく違うものでもなくて、近しいものであって、でも結局は別物。種子があるから果実はあって、果実があるから種子もできて、にわとりとたまごのような関係。どちらが先でもないから、結局はわからないのだけれど。
私は鏡で自分の姿を見ることが苦痛です。なるべく、見たくない。夜の電車の中ですら、車窓に映ってしまう自分の姿を、読んでいる本で隠しています。でも、他人の身体は別。素敵な姿だな、と見とれることもあります。
そこで出会ったこの「身体は果実」という言葉は、救われる思いでした。自分の体も、果実だと思うと、少しだけ前より愛せる気がする。愛してもらえる気がする。
他人の体を(たまに)「食べてみたい」と思う。それも合点がいく。
おかしいのかもしれないけどね。そういう人、きっとほかにもいるはず。
体を大事にしてあげようかな、と思った日の日記でした。
