俺:
> いつの時かに新しい「考え方」や「見方」を自分の頭の中に取り
> 入れることを諦めて、頭の中がいつの時代かで止まっています。
> その代わり時代に置いていかれてるような気だけはするらしく、
> 新しい「モノ」にだけは時々興味を示します。
これ、何でなんだろうな、と思ってたんですよ。
新しいモノ好きなくせに自分は新しいモノや未知(数)なモノはやらないやりたがらない。チャレンジって言葉に置き換えてもいいカモ。
何でも一貫して保守的ならまだわからないでもないけど、そうじゃなくて、何か知らんけど新しいモノはやたら気になるらしいんですよ。
・・これって、多分恐らく、興味や好奇心はいつもある一定程度は持ってるってことなんですよね。
でも同時に、新しいことを体験しようとするとそれに伴うしんどさやメンド臭さもある程度勝手に想像してる。
と、考えると、
興味 > 想像的メンド臭さ → やる
興味 < 想像的メンド臭さ → やらない
というとっても単純な式になりました。
そんでこの式をそれよりも若干具体的な例を挙げると、
新しいサービスを受ける: 歓迎
新しいことを自分がする: 嫌
ってことになるんですかね。
あと誰かがレールを敷いといてくれないと何も出来ない、やらない、とか。酷い場合は敷いてくれてもまだやらないとか。それ、どんだけ坊ちゃん嬢ちゃんなのか。
俺?俺はいつもいつも「世間的に」新しいモノなんか全くと言っていいほど興味がありません。殆ど好奇心もゼロ。どうでもいいです。ツイッターもFacebookもiPadもクラウドもえーとあと何だ、まぁええわ。何しろ興味がありません。そこにそういうツールがある、便利だったり楽しかったりしたらそらまぁ俺も使うと思いますよってだけの話。
そんな流行り廃りみたいなものにいちいち興味はないけど、結果として色々やってることはあります。「自分にとって」知らないこと新しいことは普通に日常的にやってるから、時々結果的に勝手にそうなってます。
でもねえ、動き続けて何かしら得続ける人間と、それをしない(興味はあるけど受け身でしかない)人間、10年も経ったらえらい違いになってますよね・・多分。
古くても新しくても誰かがやっててもやってなくてもそれとは関係なくイイものはイイ。必要だったり良いと思えることはやる。そうでないものはそうでない。そんだけの話なんだけど。
> いつの時かに新しい「考え方」や「見方」を自分の頭の中に取り
> 入れることを諦めて、頭の中がいつの時代かで止まっています。
> その代わり時代に置いていかれてるような気だけはするらしく、
> 新しい「モノ」にだけは時々興味を示します。
これ、何でなんだろうな、と思ってたんですよ。
新しいモノ好きなくせに自分は新しいモノや未知(数)なモノはやらないやりたがらない。チャレンジって言葉に置き換えてもいいカモ。
何でも一貫して保守的ならまだわからないでもないけど、そうじゃなくて、何か知らんけど新しいモノはやたら気になるらしいんですよ。
・・これって、多分恐らく、興味や好奇心はいつもある一定程度は持ってるってことなんですよね。
でも同時に、新しいことを体験しようとするとそれに伴うしんどさやメンド臭さもある程度勝手に想像してる。
と、考えると、
興味 > 想像的メンド臭さ → やる
興味 < 想像的メンド臭さ → やらない
というとっても単純な式になりました。
そんでこの式をそれよりも若干具体的な例を挙げると、
新しいサービスを受ける: 歓迎
新しいことを自分がする: 嫌
ってことになるんですかね。
あと誰かがレールを敷いといてくれないと何も出来ない、やらない、とか。酷い場合は敷いてくれてもまだやらないとか。それ、どんだけ坊ちゃん嬢ちゃんなのか。
俺?俺はいつもいつも「世間的に」新しいモノなんか全くと言っていいほど興味がありません。殆ど好奇心もゼロ。どうでもいいです。ツイッターもFacebookもiPadもクラウドもえーとあと何だ、まぁええわ。何しろ興味がありません。そこにそういうツールがある、便利だったり楽しかったりしたらそらまぁ俺も使うと思いますよってだけの話。
そんな流行り廃りみたいなものにいちいち興味はないけど、結果として色々やってることはあります。「自分にとって」知らないこと新しいことは普通に日常的にやってるから、時々結果的に勝手にそうなってます。
でもねえ、動き続けて何かしら得続ける人間と、それをしない(興味はあるけど受け身でしかない)人間、10年も経ったらえらい違いになってますよね・・多分。
古くても新しくても誰かがやっててもやってなくてもそれとは関係なくイイものはイイ。必要だったり良いと思えることはやる。そうでないものはそうでない。そんだけの話なんだけど。