2008年05月13日

西宮市瓦林の西宮道道標

西宮市瓦林の西宮道道標


JR甲子園口駅の北方約500mの辻に、道標を兼ねた小さな石仏があります。
地図はこちら

正面、右面、左面には仏像やご詠歌などが彫られ、裏面が道標になっています。
ブロックで囲まれているため、裏面を直接見ることはできませんが、すき間にカメラを挿入して撮影すると、「左に」と判読できます。
下部は土中に埋もれて隠れていますが、設置位置などから判断して、「左にしの宮」であったと推測されます。

この位置は、「伊丹街道」あるいは「塚口街道」と呼ばれる街道にあたります。
東に向かうと、すぐに武庫川に達し、「守部の渡し」(別名、武庫川の渡し)で対岸の守部に渡り、東富松で2方向に分岐して、一方は伊丹へ、もう一方は塚口方面に向うことができました。
「守部の渡し」は徒歩渡しで、大正9年までは舟渡しもありましたが、昭和3年に上武庫橋が架設されるに伴い廃止となりました。

梅田道

クリックすれば拡大されます。
関連の街道を含めた広域地図はこちらのサイトにあります。
阪神間の街道を歩く

まず、明治以降の状況を説明してから江戸時代に遡りたいと思います。

明治18年ころ、西宮伊丹間が「自伊丹経守部至西宮」の名称で県道に指定され、一般には「伊丹街道」と呼ばれていました。東富松で分かれて塚口に向う道は明治時代を通じて里道のままでした。

やがて、道路建設維持費の増大に耐えかねた政府は、大正元年、重要でない県道の指定解除による費用削減を都道府県に求め、その結果、「伊丹街道」は指定解除の対象として翌2年に里道に格下げされました。

ところが、大正9年に新しい道路法が施行され、都道府県と市町村の中間単位である郡の管理する郡道が設けられた際に、「伊丹街道」は西の起点を今津に変更のうえ、「今津伊丹線」として武庫郡、川辺郡の郡道に指定され、同時に東富松塚口間も「東富松塚口線」として川辺郡郡道に格上げされました。

しかし、わずか3年後の大正12年、行政機関としての郡が廃止され、郡道は県道あるいは市町村道に振り分けられることになり、「今津伊丹線」は「伊丹今津線」の名称で再び県道に格上げされ、併せて「東富松塚口線」も西の起点を西宮に変更のうえ、東富松以西の大部分を「伊丹今津線」と重用し、「塚口西宮線」として県道に指定されました。

やがて、昭和に入り、阪急電車の開通や新設道路の整備に伴って街道としての役目を終えて県道指定を解除され、戦後の区画整理等のため一部で道が途切れましたが、今でも大部分はその跡をたどることができます。

ここで、江戸時代に戻ります。
地域により、道の主な用途や名称が異なります。

西の起点の西宮では、各種町絵図にこの道筋が描かれていますが、いずれも名称や行き先が書かれていません。

この道標のある旧瓦林村では、地域に残る江戸時代中期の2種の絵図に「塚口海道」および「西宮より塚口神崎へ通道」と記入されており、塚口に至る道との認識の方が強かったと推測されます。
また、「瓦木村誌」に「この道路は、古昔の神崎街道である。神崎道は・・・」との記述があります。同書は戦後の刊行ですが、地域に残る1次資料を駆使して執筆されており、なんらかの根拠に基づく名称であると思われます。

尼崎市域に移り、富松地区では、富松神社に残る江戸後期の絵図に「古銘吹田海道」の名前が見えます。
江戸時代には、西宮市域や尼崎市域と吹田との交流が結構盛んであったようで、塚口を経由して吹田まで至る街道としてこのように呼ばれていたと思われます。
ちなみに、江戸中期に刊行された「五畿内誌」のうち「摂津誌」に、西宮と吹田を結ぶ街道として「津戸中道」が挙げられており、郷土史家の中には、この道標前を通る道を指すとの説がありますが、その説が誤りであることは、機会を改めて説明したいと思います。
なお、近年の聞き取り調査ですが、「もっと知りたい中世の富松城と富松」によると、この道は「えびす道」とも呼ばれていたそうで、「えびす」は西宮を指すと思われます。

塚口では、北西に向う有馬道との分岐点に「右昆陽中山 左西の宮」と記した古い道標が現存し、西宮と塚口を結ぶ街道であったことが確認されます。

一方、伊丹に目を写すと、明治時代とは状況が一変します。
伊丹および周辺に残る町絵図や村絵図類に、この道筋が描かれていることは描かれているのですが、いずれも伊丹と近辺の南野や御願塚を結ぶ道としか扱われていません。
また、富松地区には伊丹街道の伝承が残っていますが、江戸時代に遡れるかどうかに関しては不明です。

従って、塚口ルートとは異なり、江戸時代は伊丹街道と認識されていなかった可能性があり、西宮から伊丹に向うには、少し遠回りでも西国街道を経由し、昆陽から昆陽道に入って伊丹に達する道筋が専ら利用されたのではないかと思われます。
その理由として、整備拡幅された西国街道に比べて、こちらは狭く未整備であったことも挙げられますが、併せて、通行運送の自由が無かった江戸時代、昆陽を通らない裏道とも言えるこちらの道筋は避けられたのではないかとも考えられます。
(2010年2月5日一部修正)



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2008年05月06日

大阪市中之島の梅田道尼崎道道標

大阪市中之島の梅田道尼崎道道標
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京阪中之島新線の工事がたけなわな中之島の、旧関電ビル南にポツンと一つの道標があります。
地図はこちら

道の表示は東向きの一面のみで、
  右ハ 梅田 十そう
     大仁 尼がさき
  左リ 安治川 やぐら迄
         十七丁程
とあり、右側面に建立年の記載があります。
  寛政十一巳未年八月建之 (寛政11年=1799年)

設置位置、向きが内容と一致していますの、元からここにあったと思われます。

周辺には大きなビルばかりで、民家も商店もほとんどないこのような場所に道標があることに違和感を感じられるかもしれませんが、江戸時代、ここは大阪旧市街西部から北は池田方面、西は尼崎方面に向かう交通の要衝でした。

梅田道
クリックすれば拡大されます。


市街から当時の筑前橋を渡り、あるいは中之島の西国大名の倉屋敷街から東に来て、この道標を過ぎ、北に向きを変えて田蓑橋を渡ると、そこは堂島新地で、曾根崎心中の舞台にもなった色街でした。
新地の北には、今は亡き蜆川が流れていて、梅田橋が架かっていました。
曾根崎心中のお初、徳兵衛と同様に梅田橋を渡り、蜆川沿いに東に進みます。
まもなく尼崎道(後の梅田街道)と合流し、北に向きを変えます。
ここから先、旧梅田墓所(別名、梅田三昧)まで、道は消滅しており、今では歩くことができませんが、国道2号線までの約30m程の斜めの道だけは奇跡的に残っています。

大仁、尼崎方面へは、梅田墓所の前で西に曲がります。
この尼崎道(後の梅田街道)は、江戸時代から明治40年ころまで、大阪から尼崎を経て西宮、兵庫に行くメインルートでした。
西国へのルートとしては他に、十三神崎を経由する中国街道があり、いわゆる参勤交代などに用いられていましたが、整備されているとは言え、なにぶん遠回りなので、一般の通行にはこちらの街道の利用する人の方が多かったようです。

十三へ向かうには、梅田墓所からまっすぐ北に向かう梅田道がありました。
ただし、明治時代以降は、中津街道や長柄街道と名付けられて大阪府の補助のもと整備が進み、現在では立派な道路になっていますが、明治初期までは曲がりくねって狭く不便な道でしたので、少し遠回りですが、一旦尼崎道を西に進み、山田街道を経由する方法も利用されていたようです。



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2007年10月24日

宝塚市安倉の小浜道道標



既に紹介した住吉神社境内の「尼崎道道標」のすぐ北にもう一つの道標があります。
地図はこちら

「尼崎道道標」が南に向かう道を示す道標であるのとは逆に、こちら北に向かう道を案内する道標です。
    右中山十八丁
    左小濱有馬三田
と書かれています。(「宝塚市大事典」の一覧表では「十八丁」の部分が漏れています)
下3分の1程は地面に埋れていますが、土を掘れば読むことができます。
私はあいにく掘る道具を持ちあわせておらず、落ちていた木切れで掘ったのですが、丁度季節が夏で、虫の大軍に襲われたため写真のような段階で断念しました。

この道標のある地点は、南から来た「中山道/尼崎道」(旧県道小浜尼崎線)が、中山方面と小浜有馬方面に分かれる分岐点にあたります。
現在、「中山道/尼崎道」は住吉神社からほぼ真っすぐ北に向かっており、分岐点はこの道標の少し南になっていますが、これは昭和に入って付け替えられた新道で、明治時代は住吉神社沿いに少し北西に回り込み、中山方面はこの道標の地点で右折するようになっていました。
写真で見ると道標の位置で右折できるように見えますが、実際は美容院の入口ですので先に進むことはできません。
ただし訪問時(2006年)には既に閉店されているようでした、

街道全体の様子はこちらのサイトを参考にして下さい。
阪神間の街道を歩く

右折すると、約300mで伊丹あるいは塚口方面からやってきた有馬道と合流し、更に北進して小浜の東方で左折すると小浜に、そのまま直進すると中山に至ります。

この道標で右折せずに直進すると、小浜を経て有馬三田方面への近道となります。
古い集落の狭い道を抜けて国道176号線を渡り、「中ノ池」の南端を回り込んで宝塚ICのトンネルをくぐります。
明治時代の地図では、そこで右折して小浜の旧東門付近に至るように描かれ、今もその道は拡幅されて残っていますが、江戸時代の村絵図類にはこの道は描かれていません。
江戸時代の村絵図や明治時代の地図には、トンネルからまっすぐに西に向かい、小浜の旧南門に至る細い道が描かれていますので、こちらが古道だと思われます。
この道も拡幅されて現存します。

ちなみに、小浜の旧南門に残る道標には、
   右ハ西宮道
   左はの道(=左は野道)
とありますが、この「野道」が、今述べた古道にあたります。


imazukko at 01:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!宝塚市 

2007年10月21日

宝塚市安倉の尼崎道道標



宝塚市安倉の住吉神社境内に、「右尼ヶ崎」と記された自然石の道標があります。
地図はこちら

安倉は、有馬から小浜を経て伊丹方面に通じる、いわゆる有馬道本道と、塚口方面に向かう有馬道間道とが分岐する地点として知られていますが、もう一本、伊丹や塚口を経由せずに尼崎に至る道が安倉で分岐していたことはあまり知られていないようです。

この道は江戸時代の村絵図にも記載されており、武庫川左岸で最も西寄りの南北路として重要な街道であったようです。
宝塚市域では尼崎道と呼ばれていますが、伊丹尼崎市域では中山道、小浜道と呼ばれていました。
そのルートは、住吉神社の北方で有馬道から分岐し、神社前を通って武庫川とほぼ平行に南に向かい、現在の伊丹市の池尻でやや南東に向きを変えて寺本で西国街道に合流するものでした。
西国街道から尼崎へは、昆陽寺参道付近で西国街道から分岐し、東富松を経由して庄下川沿いに尼崎の中心部に至るもので、天保および元禄の摂津国国絵図にも記載されています。
寺本の中央付近で西国街道から分岐し、阪急武庫之荘の東を通って阪神出屋敷西方の蓬川で中国街道に合流するルートもありました。

街道全体の様子はこちらのサイトを参考にして下さい。
阪神間の街道を歩く

大正9年に道路法が施行され、寺本までの区間が小浜尼崎線として川辺郡の郡道に認定されました。
更にその3年後の大正12年には郡道制度が廃止され、同じく小浜尼崎線として県道に昇格しましたが、ルートが一部変更され、池尻で一旦西に分岐してから南に向かい、西武庫、守部を経て大庄で中国街道に合流するようになりました。
ところが、約20年後の昭和17年、それまで有料の自動車専用道であった尼宝線が県道として一般に開放されたため、入れ替わりに小浜尼崎線は県道指定を解除され、街道としての役目を終えました。

imazukko at 03:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!宝塚市 

2007年10月19日

伊丹市寺本の妙見道道標



伊丹市の西の端、西国街道の北側に昆陽寺があります。
その昆陽寺を中心に発達したのが寺本集落です。
寺本集落を貫き、北に延びる古い街道があります。
国道171号線からその街道を北に約100m進んだところにこの道標があります。

地図はこちら

この道は、伊丹市域の西端から北東に向かう唯一の街道で、昆陽池の北を通り、川西市を経由して猪名川を渡り、池田市に達します。

街道全体の様子はこちらのサイトを参考にして下さい。
阪神間の街道を歩く

池田に達する道と言うことで、江戸時代に描かれた沿道各村の村絵図には池田道と書かれていますが、更に北に進んで能勢の妙見さんに向かう参詣道でもあり、この道標が示すように妙見道とも呼ばれていたようです。なお、池田方面から見ると、昆陽寺に向かう道と言うことで行基道と呼ばれていました。また、西国街道を利用すれば西宮に達しますので、絵図によっては西宮道とも書かれています。

道標は道が若干食い違った箇所の曲がり角にあり、「左妙見道」とだけ書かれたシンプルなものです。一般の道標に比べて背が低いうえに、この付近の道沿いには他に多数の雑石がありますので、見逃さないように注意が必要です。
事実、私も一度目の訪問時には見落としてしまいました。

寺本では、あと2箇所に道標が現存しています。
それらも追って紹介したいと思います。

imazukko at 04:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!伊丹市