創価教学研究室 (Tommyのブログ)  

一壮年部が作成した御書講義・創価教学研鑽のためのブログです。

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注記
1 第13巻(0691~0895)は本来一冊の本ですが、御書全集のページに従ってカデコリを作成しているため前(0691~0700)後(0848~0853)に分割します。
2 守護国家論講義録は三冊(1巻上・中・下)になっていますがひとつのカデコリにまとめてあります。
3 同様に開目抄上・下二巻をひとつにしてあります。
4 聖愚問答抄も上下の区分はしていません。
5 御義口伝上・下は単独で「品の大事」とたてたものと、2~4品でまとめたものがあります。
6 以下の御書は資料不足のため、現代語訳のみのもの、全編または一部未編集となっています。
  現代語訳のみ
   四信五品抄(0338~0343)
  全編未編集
   御講聞書(0804~0847)
   本因妙抄(0870~0877)
   産湯相承事(0878~0880)
  一部未編集
   唱法華題目抄(0001~0016)
   百六箇抄(0854~0869)
   

「会則の教義条項改正に関する解説」創価学会教学部

創価学会則

 

釈尊に始まる仏教は、大乗仏教の真髄である法華経において、一切衆生を救う教えとして示された。末法の御本仏日蓮大聖人は、法華経の肝心であり、根本の法である南無妙法蓮華経を三大秘法として具現し、未来永遠にわたる人類救済の法を確立するとともに、世界広宣流布を御遺命された。初代会長牧口常三郎先生と不二の弟子である第二代会長戸田城聖先生は、1930年11月18日に創価学会を創立された。創価学会は、大聖人の御遺命である世界広宣流布を唯一実現しゆく仏意仏勅の正統な教団である。日蓮大聖人の曠大なる慈悲を体し、末法の娑婆世界において大法を弘通しているのは創価学会しかない。ゆえに戸田先生は、未来の経典に「創価学会仏」と記されるであろうと断言されたのである。牧口先生は、不思議の縁により大聖人の仏法に帰依され、仏法が生活法であり価値創造の源泉であることを覚知され、戸田先生とともに広宣流布の実践として折伏を開始された。第二次世界大戦中、国家神道を奉ずる軍部政府に対して国家諫暁を叫ばれ、その結果、弾圧・投獄され、獄中にて逝去された。牧口先生は、「死身弘法」の精神をご自身の殉教によって後世に遺されたのである。
 戸田先生は、牧口先生とともに投獄され、獄中において「仏とは生命なり」「我、地涌の菩薩なり」との悟達を得られた。戦後、創価学会の再建に着手され、人間革命の理念を掲げて、生命論の立場から、大聖人の仏法を現代に蘇生させる実践を開始された。会長就任に当たり、広宣流布は創価学会が断じて成就するとの誓願を立てられ、「法華弘通のはたじるし」として、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」「創価学会常住」の御本尊を学会本部に御安置され、本格的な広宣流布の戦いを展開された。戸田先生は、75万世帯の願業を達成されて、日本における広宣流布の基盤を確立された。
 第三代会長池田大作先生は、戸田先生の不二の弟子として、広宣流布の指揮をとることを宣言され、怒濤の前進を開始された。
 日本においては、未曾有の弘教拡大を成し遂げられ、広宣流布の使命に目覚めた民衆勢力を築き上げられた。とともに、牧口先生と戸田先生の御構想をすべて実現されて、大聖人の仏法の理念を基調とした平和・文化・教育の運動を多角的かつ広汎に展開し、社会のあらゆる分野に一大潮流を起こし、創価思想によって時代と社会をリードして、広宣流布を現実のものとされた。
 会長就任直後から、全世界を駆け巡り、妙法の種を蒔き、人材を育てられて、世界広宣流布の礎を築かれ、1975年1月26日には、世界各国・地域の団体からなる創価学会の国際的機構として創価学会インタナショナル(SGI)を設立された。それとともに、世界においても仏法の理念を基調として、識者との対談、大学での講演、平和提言などにより、人類普遍のヒューマニズムの哲学を探求され、平和のための善の連帯を築かれた。池田先生は、仏教史上初めて世界広宣流布の大道を開かれたのである。
 牧口先生、戸田先生、池田先生の「三代会長」は、大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現する使命を担って出現された広宣流布の永遠の師匠である。「三代会長」に貫かれた「師弟不二」の精神と「死身弘法」の実践こそ「学会精神」であり、創価学会の不変の規範である。日本に発して、今や全世界に広がる創価学会は、すべてこの「学会精神」を体現したものである。
 池田先生は、戸田先生も広宣流布の指揮をとられた、「三代会長」の師弟の魂魄を留める不変の根源の地である信濃町に、創価学会の信仰の中心道場の建立を発願され、その大殿堂を「広宣流布大誓堂」と命名された。
 2013年11月5日、池田先生は、「大誓堂」の落慶入仏式を執り行なわれ、「広宣流布の御本尊」を御安置され、末法万年にわたる世界広宣流布の大願をご祈念されて、全世界の池田門下に未来にわたる世界広宣流布の誓願の範を示された。
 世界の会員は、国籍や老若男女を問わず、「大誓堂」に集い来り、永遠の師匠である「三代会長」と心を合わせ、民衆の幸福と繁栄、世界平和、自身の人間革命を祈り、ともどもに世界広宣流布を誓願する。
 池田先生は、創価学会の本地と使命を「日蓮世界宗創価学会」と揮毫されて、創価学会が日蓮大聖人の仏法を唯一世界に広宣流布しゆく仏意仏勅の教団であることを明示された。
 そして、23世紀までの世界広宣流布を展望されるとともに、信濃町を「世界総本部」とする壮大な構想を示され、その実現を代々の会長を中心とする世界の弟子に託された。
 創価学会は、「三代会長」を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、異体同心の信心をもって、池田先生が示された未来と世界にわたる大構想に基づき、世界広宣流布の大願を成就しゆくものである。

創価学会会則第2条 
この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする。


学会は世界宗教として大きく飛翔

 「会則の教義条項改正に関する解説」創価学会教学部

 

「世界広布新時代」――創価学会が、いよいよ世界宗教として、大きく飛翔する時を迎えました。世界宗教としての一層の発展に備えて、昨年11月、「創価学会 教義条項」が改正されました。これについては、全国総県長会議において会長の趣旨説明がなされています(本紙2014年11月8日付掲載)。

ここでは、教学部として、今回の教義条項改正の意義を確認するとともに、若干の補足解説を行います。

 

大聖人御図顕の御本尊は全て「本門の本尊」

はじめに

 

過日、創価学会の会則の第1章第2条の教義条項が「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」と改正された。

この改正について原田会長は、「今回の改正は、『魂の独立』(1991年)以来の世界広布の進展に鑑み、創価学会の宗教的独自性をより明確にするとともに、『世界広布新時代』にふさわしいものにするために行われた」と説明した。

「創価学会の宗教的独自性」は、会則に「各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」とあるように、三代会長の指導のもと、各人が自行化他の実践で人間革命を成就し、仏意仏勅である世界広宣流布を事実の上で実現するための不惜の実践を貫く教団であるという点にある。

その自覚と使命感に立つ以上、学会が「生きた宗教」として、時代の変化や広布の伸展の段階によって、現実的な課題として現れてくる事態や将来起こりうる課題に責任を持って対応していくことは当然である。

事実、三代会長なかんずく池田名誉会長はこれまでもさまざまな課題に対応し、広宣流布の道を切り開いてこられた。一例を挙げれば、 昭和45年(1970年)の本部総会で、名誉会長は「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります」と語った。

そして、あらためて、それまで日蓮正宗の一部で唱えられていた「国立戒壇」という表現は用いない、戒壇建立は純粋な信徒の総意、すなわち民衆によるものだとの立場を内外に表明し、「信教の自由」を定めた日本国憲法下で、国内の広宣流布を進めていくうえでの無用な社会的摩擦を生じないような対応を行った。

また同47年(72年)から連載された『私の釈尊観』『私の仏教観』などの著作では、学問的な成果を踏まえ、釈尊の事跡、法華経の成立年代などに言及し、人間釈尊の生涯を通して、仏教の源流の実像に迫った。

ここでは法華経の成立を紀元1世紀と推定する学問的研究を受け入れたうえで、仏教の正統な系譜を考察されている。

こうした事例に示されるように、世界を舞台に広宣流布を推進する教団として、その伸展とともに新たに生じた課題に対応して、教義解釈の見直しを行うことは、当然のことである。むしろ、世界の文化・思想を視野に入れ、実証的研究も取りれながら、現代における人類救済の思想を発信していくことこそが、真に世界広宣流布実現のために前進している教団としての使命であるといえよう。

日蓮正宗のように古色蒼然たる教義解釈を墨守して事足れりとし、現実の広宣流布の伸展には責任も関心もないという立場とは全く違う。

今回の改正は、「魂の独立」から23年、世界広布の伸展の時代的要請に応えるため、日蓮大聖人の仏法の本義に立ち返って、従来の教義解釈を整理し直したものである。したがって、教義の変更ではなく、教義の解釈の変更と位置づけられるものである。

また『私の釈尊観』からも40年余がたち、仏教学の実証的研究もさらに進んでおり、今回の改正を機に、そうした仏教学の学問的な成果等も視野の入れながら、日寛教学や、相伝書等についても、慎重に研究を重ね、より普遍的な創価学会教学の構築へ一層の前進を図りたい。

 

1 三大秘法について

(1)「三大秘法」

 

日蓮大聖人は、如来滅後に天台・伝教等の残した秘法とは、「本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(御書336頁)と示され、「国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(同338頁)と仰せられている。

大聖人は、悪世末法の一切衆生の救済のために、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明かされ、それを三大秘法として具体的に顕わされた。それが、本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇である。

今回、三大秘法についての解釈を、次のように明らかにした。すなわち、末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、ずべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく「本門の本尊」である。また、「本門の本尊」に唱える南無妙法蓮華経が「本門の題目」であり、その唱える場がそのまま「本門の戒壇」となる。これは、末法の一切衆生の救済という日蓮大聖人の仏法の本義に基づいた解釈である。

したがって、「本門の本尊」としては、「弘安2年(1279年)の御本尊」も含まれるが、それのみが「本門の本尊」だとするものではない。まして、「弘安2年の御本尊」に繋がらなければ、他の本尊は一切力用を発揮しないなどとする宗門の独善的な本尊観は、大聖人の仏法に違背するものであることは明白である。

 

2)「出世の本懐」について

 

これまで、創価学会は、日蓮正宗の解釈に基づき、「弘安2年の御本尊」を日蓮大聖人の出世の本懐としてきた。その根拠は、「聖人御難事」の「余は二十七年なり」(同1189頁)の一節であった。しかしながら、この両者を結びつける解釈は、古い文献にはなく、あらためて「聖人御難事」そのものを拝して、大聖人が教示されている出世の本懐の意味について考察をしておきたい。

まず、「聖人御難事」を拝すると、本抄の趣旨は次のように整理することができる。

 一、大聖人御自身が、本抄において、直接、「弘安2年の御本尊」について一言も言及されていない。

 一、本抄は、「仏」(釈尊)と、「天台大師」「伝教大師」を挙げて、それぞれの出世の本懐を遂げるまでの年数を示し、そのうえで、「予は二十七年なり」と言われて、この27年間、御自身が大難に遭われたことを強調されている。これに続く御文の内容もことごとく難について述べられている。

 一、弘安2年10月1日の御述作である本抄において、大聖人は、農民信徒の捕縛の後、彼らが不惜の信仰を貫いているとの報告を聞いて、門下一同へ、とりわけ法難の渦中にいる門下へ、種々の厳しい信心の御指導と最大の励ましを送られている。

 したがって、この 「二十七年」 という 「時」 と、本抄の 「難」 への言及の本意は、熱原の法難で、農民信徒が不惜身命・死身弘法の姿を示したことを称賛されることにあるといえる。

 一、大聖人の御生涯における出世の本懐とは、三大秘法をもって、末法万年の民衆救済の道を完成したことである。

「報恩抄」には、「末法のために仏留め置き給う」正法として、一に「本尊」、二に「本門の戒壇」、三に「南無妙法蓮華経」の題目を示し、この三大秘法の確立によって、「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり」(同329頁)と、ご自身の誓願成就を示されている。

一、こうした大聖人の御生涯全体を拝したときに、本抄に「二十七年」と強調されているのは、大聖人が立宗以来、三大秘法の仏法を弘通することによって生じた大難の中、27年目にして、三大秘法を受持し、不惜の信仰を貫く農民信徒が出現したことを鮮明にするためであると拝される。

一、その意味で、「出世の本懐」の本義は、大聖人の御生涯において、末法万年の一切衆生の救済のために三大秘法を確立されたこと、それとともに、立宗以来27年目に、熱原の法難において、農民信徒たちが大難に負けない不惜身命の信仰を示したことによって証明された民衆仏法の確立である。

大聖人が、「弘安2年の御本尊」を御図顕されたことも、この三大秘法の確立と民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える。

  末法万年にわたって全世界の人々を救うという大聖人の出世の本懐は、三大秘法の確立とともに、「日蓮と同意」「日蓮が如く」との精神で、それを担いゆく不惜の門下が誕生してこそ初めて成就する。そこに民衆仏法の真の実現がある。

「聖人御難事」に仰せの「猶多怨嫉況滅度後」の大難を受けながら、大聖人の根本目的を継承し、世界に弘めてきた創価学会の使命と役割は、ますます重要になるのである。

 

三代の師弟に連なり

世界広布の大願成就へ

1 三大秘法について

(3)「一大秘法・六大秘法」について

 

日蓮正宗では、「一大秘法」は「弘安2年の御本尊」であり、それを「三大秘法」に開いており、「本門の本尊」は「弘安2年の御本尊」、「本門の題目」はその本尊に唱える題目であり、本尊所住の処が「本門の戒壇」となると説明している(「三大秘法を合する則んば但一大秘法の本門の本尊と成るなり、故に本門戒壇の本尊を亦三大秘法惣在の本尊と名づくるなり」<依義判文抄>など)。

今回の改正により、「三大秘法」の定義を「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものり、等しく『本門の本尊』であり、『本門の本尊』に唱える南無妙法蓮華経が『本門の題目』、その唱える場がそのまま『本門の戒壇』となる」とした。

  会長の会則改正の趣旨説明に「大聖人は、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされました。そしてそれを、末法の全民衆の成仏のために三大秘法、すなわち、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇として具体的に顕されたのであります」とあるように、「宇宙と生命に内在する根本の法」すなわち南無妙法蓮華経が根本であり、三大秘法はそれを具現化された法門である。

これまで日寛上人の教学に基づいて、「一大秘法」「六大秘法」ということを使用してきたが「一大秘法」「本門の本尊」であるという日寛上人の解釈は、御書にはない。

  御書に「一大秘法」と教示されているのは、「曽谷入道殿許御書」のみである。そこでは、「妙法蓮華経の五字」(御書1032頁)を一大秘法として明かされている。

 以上のように、日寛上人が用いられている三大秘法を合した「一大秘法」、また、三大秘法を開いた「六大秘法」という表現は、御書そのものには説かれていない。

これまで学会では、日蓮正宗の教義解釈を尊重し、「弘安2年の御本尊」を根本の本尊とする、との日寛上人の解釈を採用してきた。

日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺の法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。日蓮正宗が完全に大聖人の仏法に違背した邪教と化した今、学会は正統の教団として、世界宗教にふさわしい教義の確立という立場から見直しを行っていく。その意味で、日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない。

なお、こうした立て分けを行い、日寛上人の教学を見直していくという立場をとったとしても、「日寛上人書写の御本尊」を受持することには何の問題もない。なぜならば「日寛上人書写の御本尊」も根本の法である南無妙法蓮華経を具体的に現された「本門の本尊」であるからである。

これに関連して、「日寛上人書写の御本尊」を受持しながら、「弘安2年の御本尊」を受持しないかといえば、「日寛上人書写の御本尊」も「弘安2年の御本尊」も等しく「本門の本尊」であるが、「弘安2年の御本尊」は、大謗法と化した他教団の大石寺にあるから、受持の対象としないということである。

 

 「広宣流布のための御本尊」を学会が弘通

 2 創価学会に御本尊を認定する権能

 

いずれの宗教教団も、独立した教団である以上、その教団の本尊、聖典、礼拝施設等を決定する権能を有するのは当然である。仏意仏勅の広宣流布を推進する創価学会は、受持の対象としての御本尊を認定する権能を有する。

ここでいう「受持」とは、創価学会が認定する御本尊に、自行化他にわたる題目を唱えることを意味している。すなわち、「受持」は、「実際に目の前で拝む対象」にするという意味を持つが、このような外形的な行為にとどまるだけでなく、当然、積極的な意味での信心が含まれる。

これまで創価学会本部並びに各会員の家庭に授与されている御本尊はすべて学会認定の御本尊であり、具体的な信心の活動としては、これまでと変わりがない。

御本尊の本義は、「広宣流布のための御本尊」である。大聖人は仰せである。

「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん。竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通のはたじるし・として顕し奉るなり」(同1243頁)

池田名誉会長は、この一節をこう講義しています。

「この虚空会の儀式として顕された『本門の本尊』は、釈尊の滅後は、正法・像法二千年間は顕れず、また顕すことができる人もいなかったと教えられます。そして、まさに日蓮大聖人が、この御本尊を末法二百年の時に、『法華弘通のはたじるし』として顕されたことが示されています」

  「私たちは、日蓮大聖人が顕された御本尊を奉じて、この苦悩と争いの絶えない娑婆世界にあって、万人の幸福を実現し、平和の楽土を築くために、立正安国論と広宣流布の旗を掲げて勇んで出現した地湧の菩薩です。その先駆けとして不惜身命の大闘争をなされた日蓮大聖人が顕された御本尊は、この私たちの崇高な使命を呼び覚ます『広宣流布のための御本尊』なのです」(『勝利の教典「御書」に学ぶ』第11巻「日女御前御返事」講義)

大聖人が多くの門下のために御本尊を御図顕されたのも、全て「法華弘通のはたじるし」としての意義を持つことは言うまでもない。

この「広宣流布のための御本尊」を弘通してきた教団が創価学会である。学会出現以前、当時の日蓮正宗に御本尊流布の実践がなく、本格的な御本尊流布は、牧口初代会長、戸田第2代会長から始まったことは歴史の示す通りである。

そしてまた、受持即観心の本義に照らせば、御本尊を正しく拝する信心があってこそ、釈尊の因行果徳の二法を具足した妙法蓮華経の功力を現実に顕すことが可能になる。

 「観心の本尊」は、「信心の本尊」でもある。この信心を私たちに教えてくださったのが創価の三代会長、なかんずく池田名誉会長であることも言うまでもない。

したがって、「広宣流布のための御本尊」を弘通し、「信心の血脈」を受けた創価学会が、御本尊を認定し、授与することは当然であり、御本尊は等しく「本門の本尊」であるが、学会員はあくまでも、学会認定の御本尊を受持し、無限の功力を現して、広宣流布に邁進していくのである。

また、三代会長の指導は全て私たちに御本尊の本義と信心を教えてくださるものであるから、僧俗和合時代の歴史的文脈で言われた発言も、その本質は大聖人の教え、精神と私たちを結びつけるためである。その真意を正しく捉えていくのは弟子の責務である。

 

 3 「広宣流布大誓堂」と「創価学会常住の御本尊」について

 

日蓮大聖人の御遺命は「法華弘通」即ち「広宣流布の大願」である。

この御本仏のお心のままに「広宣流布の大願」を成就することを誓って立ち上がった、三代会長の死身弘法によって築かれたのが今日の創価学会である。
 そして、牧口初代会長の魂を受け継いだ、戸田第2代会長が広宣流布の指揮を執られた原点の地・信濃町に、師弟不二、広布の本陣として、「広宣流布大誓堂」を建立され、まさに「法華弘通のはたじるし」としての「大法弘通慈折広宣流布大願成就」とお認めの「創価学会常住」の御本尊御安置申し上げた。
 「広宣流布大誓堂」の勤行会に参加する意義は、池田名誉会長が「まさしく法華経さながらに、全世界から地涌の菩薩が勇み来り、広宣流布の御本尊と境智冥合して、久遠元初の大誓願の生命を、昇りゆく旭日のように光らせ、生まれ変わった息吹で出発する黄金の会座であります」と述べられているように、その座に列なり、永遠の師匠である三代会長と心を合わせ民衆の幸福と繁栄、世界平和、自身の人間革命を祈り、ともどもに広布の推進を誓い合う集いなのである。
 誓願は、日蓮大聖人の仏法の根幹である。

  大聖人は、立宗の時に、「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」(御書200頁)と立てられた誓いを生涯貫かれ、大難の佐渡にあって、「我日本の眼目とならむ、我日本の大船 ならむ等と、ちかいし願やぶるべからず」(同232頁)と宣言された。

そして、師弟不二の精神で後継の門下が誓願に立ち上がるべきことを、「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(同1561頁)と教えられた。

「大法弘通慈折広宣流布大願成就」とは、この大聖人の誓願を受け継ぎ、広宣流布に立ち上がった地涌の教団である創価学会の使命を明確に物語っている。

私たちは、どこまでも日蓮仏法の本義に基づいて、学会教学の旗を掲げ、人間主義の大道を前進し、万人の幸福と平和の実現へ邁進してまいりたい。

   聖教新聞 2015年1月29日・30日 掲載記事

0001~0016 唱法華題目抄 序論

00010016 唱法華題目抄 序論

 

第一章 本章の位置付け

 

第一節 写本と対告衆

 

 唱法華題目抄は、末尾に「文応元年五月二十八日 日蓮花押 鎌倉名越に於て書き畢んぬ」と記されている通り、立正安国論上呈の約2ヵ月前にあたる文応元年(1260528日、鎌倉名越松葉ヶ谷の草庵で著された書である。

 本抄の御真筆は現存しないが、古来、真撰として扱われ、真偽について論議されたことはない。

 写本については「御書全集」の目次の「年代写所在」の項に「日興 東京 由井一乗」とある通り、日興上人の写本が東京の由井家に伝わっている。由井家は、日興上人の母方の家系に当たり、日興上人の化導で大聖人の信徒となったとされている。南条時光の館に近いところにあった関係から、南条兵衛七郎殿の御真筆も一部所有している。

 「唱法華題目抄」との題号は日蓮大聖人自身が付けられたもので、この点についても古来異論はない。「唱題抄」「唱法華抄」などとも略称されている。

 また、対告衆については、行学院日朝著「唱法華題目抄事」および健立日諦著「本化高祖年譜」には南条兵衛七郎の賜書、六牙院日潮著「本化別頭仏祖統記」には大学三郎の賜書としているが、いずれも根拠は明確でなく、それらの説には従い難い。

 本抄には、特定の対告衆を想定されている内容は全くみとめられず、15に及ぶ問答を通して示されておるテーマが複雑多岐あることから考えるならば、むしろ本抄は、大聖人が御自身の法門を明確にするための第一歩として執筆された著述であって、特定の対告衆に与えられた書ではないかと考えるべきであろう。

 日興上人は、富士一跡門徒存知の事に「具に之を註して後代の亀鏡と為すなり」(1604:06)として十大部として挙げられるなかで、

  「一、唱題目抄一巻。

  此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に爾なり。」(1605:10

 と記されてる。

 「常途天台宗の義分を以て且く」と述べられているように、まだ大聖人の本義には踏み込まれておらず、「爾前法華の相違」すなわち権実相対をもって、爾前経を依経とする諸宗の破折に力点を置かれている。

 特に、十大部のうち佐渡御流罪以前の書は、本抄と立正安国論の二編のみであり、しかも、本抄が立正安国論御執筆のほぼ2ヵ月前に著されたという事実に留意したい。この事実は、本抄が立正安国論上呈による国主諌暁と極めて密接な関連があることを推定せしめる。そこで本抄と立正安国論との関連について考察し、本抄の位置付けを明確にしておきたい。

 

第二節 立正安国論の関連

 

 日蓮大聖人が立正安国論御執筆を決意される契機になったのは、立正安国論奥書に

  「文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。

 去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う、其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり、」(0033:01

 と述べられているように、大聖人36歳の正嘉元年(12578月に起こった大地震であった。

 このような転変地夭が起こる根本原因と、その解決方途を経文に照らして明らかにするため、翌正嘉2年(1258)、駿河国岩本実相寺の経蔵に入って大蔵経を閲覧される。そこから大聖人は、国主諌暁を目指して着々と準備を重ねられていくのであるが、39歳での立正安国論成立まで、その過程において著作された御抄の中で、国主諌暁に関わると思われるものは、

    一代聖教大意(正嘉2年 1258

    一念三千理事(正嘉2年 1258

    十如是事(正嘉2年 1258

    一念三千法門(正嘉2年 1258

    守護国家論(正元元年 1259

    念仏者追放宣旨事(正元元年 1259

    十法界事(正元元年 1259

    爾前二乗菩薩不作仏事(正元元年 1259

    災難対冶抄(正元2年 1260

    十法界明因果抄(文応年 1260

    唱法華題目抄(文応年 1260

 の11編が数えられる。

 したがって、唱法華題目抄のもつ意義は、国主諌暁に至る過程のなかに位置付けることによって、初めて明らかになるといえよう。そこで、立正安国論に至るまでの各御抄の内容を、教判・宗・旨・行法・得益の視点から概観しつつ、唱法華題目抄の特徴を考察することにしたい。

 

一代聖教大意(正嘉2年 1258

 釈尊50年の説法を天台大師の教判である「化法の四教」と「五時」によって立て分け、法華経が諸経に勝れていることを明かさすとともに、法華経こそ末法の衆生に最も適した経であり、しかも、その法華経流布の国土は日本国であることを「法華翻経の後記」「慧心の一乗要決」等を引いて明らかにされている。

 更には広く法華の法体を明らかにするために、第一に妙法蓮華経の五字の深義を釈され、第二に十界互具、一念三千の法門を示して皆成仏道の妙理を明かし、第三に相待・絶待の二妙を示して法華開顕の妙用を明らかにされている。

 最後に、浄土宗の徒が法華経の正意を理解しようとせず、「経はいみじけれども末代の機に叶わず」として法華経を誹謗している誤りを破折されている。

 このように本抄は、釈尊一代聖教の大意を述べつつ法華経が釈尊出世の本懐でることを明かした書で、その意味から前半では教判、後半では宗旨を示されているといえるが、その結論が法然の浄土宗の破折になっていることがうかがえるように、本抄の元意は、立正安国論の中心テーマでもある法然の浄土教に対する破折を、釈尊一代聖教の検討を通して本格的に用意されたところにあると拝することができよう。

 

一念三千理事(正嘉2年 1258

 大きく三つの部分からなっている。すなわち「十二因縁図」「一念三千理事」「三身釈の事」である。

 「十二因縁図」の部分では、三界六道の迷いの因果を釈尊が明かした無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死の十二因縁の名称と意義について次第に従って記し、次いで三世両重の十二因縁を説き、更に十二因縁の流転と還滅の次第を明かされている。

 次に「一念三千理事」の部分は、三千の法数を構成する十如是・三世間・十界の関係を明かし、それが百界千如・三千世間を成就していくことを示されている。更に、天台大師の摩訶止観・妙楽大師の止観輔行弘決・法華玄義釈籤・法華文句記等の文を引いて一念三千の法理を明らかにされている。

 最後の「三身釈の事」の部分では、天台大師の釈文を用いて法身・報身の二身の意義について説かれているが応身についての釈は欠けている。

 以上のように、本抄は一念三千の法理について原理的に確認されたもので、今後の御述作のための資料として記されたものと推定される。その内容は、全体にわたって「宗旨」に関わるものとなっている。

 

十如是事(正嘉2年 1258

 法華経方便品の十如是の法門に基づいて、我々衆生がもともと三身即一身の本覚の如来であるという法理を明かされ、行ずる者に、上・中・下の機根があっても、必ず一生の間に成仏することができると述べられている。

 そして、妙法蓮華経の法体が「我が心性の八葉の白蓮華」であることを挙げられ、題目を一遍唱えることは法華経一部を読誦したことになると説かれ、これを固く信じる人が如説修行の人であると締めくくられている。

 この書は、妙法蓮華経の法体の意義を確認されるために、先の一念三千理事と同様に、資料的な意味で著されたものと拝せられる。

    

一念三千法門(正嘉2年 1258

 法華経が余経に勝れている所以は、一念三千の法門が説かれていることであるとされている。そして、一念三千の法門は法華経方便品の十如是を三転読誦するのは、我が身が法身・般若・解脱の三徳究竟の体、三身即一身の如来とあらわれるとの意義を込めてであると説かれている。

 更に十界互具は仮諦、千如は空諦、三千は中諦であることを明かされ、十如に約して仏と凡夫に差別はなく、本末究竟等の関係にあることを明かされている。そして仏は我ら衆生の所生の子であると述べられて「妙法蓮華経と唱うる時・心性の如来顕る」(0415:08)として唱題行が成仏への要の「行法」であることを示され、「此の娑婆世界は耳根得道の国なり」(0415:13)、「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し」(0416:01)と妙法の「得益」を述べられている。

 このように、一念三千の法門は主に十如是・十界互具の視点から一念三千の法理の意義を述べられた書であり、「宗旨」が中心となっている。「行法」「得益」は若干見られるが「教判」についてはほとんど示されていない。

 なお、同年に説かれた一代聖教大意に「一念三千は別に委く書す可し」(0403:17)と記されているところから、大聖人は一念三千の法門については本格的に明らかにするお考えをもっておられ、これまでの一念三千理事(正嘉2年 1258)・十如是事(正嘉2年 1258)・一念三千法門(正嘉2年 1258)更に後で述べる十法界事(正元元年 1259)・爾前二乗菩薩不作仏事(正元元年 1259)・十法界明因果抄(文応年 1260)は、そのための準備資料として記されたものと推察される。

 

守護国家論(正元元年 1259

 本抄は「予此の事を歎く間・一巻の書を造つて選択集謗法の縁起を顕わし名づけて守護国家論と号す」(0037:04)と仰せのように、日本浄土宗の開祖・法然の著した選択本願念仏集を徹底的に破折された書である。

 構成は次のようになっている。

    第一に、如来の経教に於いて権実二経を定むることを明かす

    第二に、正像末の興廃を明かす。

    第三に、選択集の謗法の縁起を明かす

    第四に、謗法の者を対治すべき証文を出す

    第五に、善知識並びに真実の法に値い難きことを明かす

    第六に、法華涅槃による行者の用心を明かす

    第七に、問いに随って答える

 このように、守護国家論は、選択集が謗法の書である所以を全編を通して詳細に明らかにするとともに、法華経が最勝である根拠を述べられており、その意味で「教判」の書であると考えられる。

 

念仏者追放宣旨事(正元元年 1259

 正式には「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」という。この題号通り、念仏追放に関する南都と叡山からの勘文と、それを受けて朝廷等から出された宣旨等の要文を集めた資料集である。ただし冒頭に大聖人は前文を書かれている。

 ここに収められた奏状、宣旨、御教書等の文書は、法然の専修念仏破折のための準備として用意されたものと拝せられる。

 大聖人は、これらの資料の裏付けとして、立正安国論の第六問答におおて「去る元仁年中に延暦興福の両寺より度度奏聞を経・勅宣・御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ其の門弟・隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流せらる、其の後未だ御勘気を許されず豈未だ勘状を進らせずと云わんや」(0026:09)と記されているのである。

 

十法界事(正元元年 1259

 大聖人独自の仏法の立場と理念を、特に中国・日本の天台宗の教義との対比と関連の上から明らかにされたもので、一代聖教大意、一念三千法門などの系列に入る御抄である。

 内容は4つの質問と3つの答えからなる。ここでは、大聖人が法華経の本門、なかんずく文底観心を根底にしてこそ真実の出離・得道があるとする立場に立たれるのに対し、天台宗は法華経を最勝の経典と認めつつも、爾前経でも分々の得益はあるとするところに相違点があることを明確にされており、教判・宗旨を述べられた御書であるといえる。

 この時期における大聖人は、天台附順の立場に立たされており、いまだ独自の法門を示されているには至っていないと理解が広く行われているが、十法界事においては、天台宗を超越した大聖人の文底肝心の法門が明確に示されており、そうした見方が正しくないことが明らかである。

 なお、本抄も特定の弟子檀那に与えられたものではなく、後の御述作のために準備された資料という趣が強い。

 

爾前二乗菩薩不作仏事(正元元年 1259

 大きく2つの問答から成り、初めの問答では、二乗不作仏の経教で菩薩の成仏は許されているかとの問いに対し、爾前権教では二乗の成仏がなければ菩薩の成仏もないことを示され、第二の問答では、二乗作仏がなければ菩薩の成仏もないことを示す正しい証文はあるかとの問いに対して、涅槃経・一乗要決・慈恩の心経玄賛・慈覚の速証仏位集から引用文をもって答えられている。

 本抄も法門に関する覚書として認められた趣が強く、特定の人に与えられたものでないことが明らかである。

 

災難対冶抄(正元2年 1260

 冒頭に示されている通り「国土に大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病・大兵乱等の種種の災難の起る根源を知りて対治を加う可きの勘文」(0078:01)である。ここでいう「勘文」とは、時の為政者に対する大聖人の諌暁書という意味である。

 本抄はこの主題に則った十七の問答からなっている。まず、当時の種々の災難に対し種々の祈請が行われているのに何の効果も現れないのは、仏語が虚妄になったのではないか、との疑いから始まる。

 これに答えて、当時の災難は人々が法華経を捨て去っている故に起きていることを示し、仁王経・法華経の文を引用して、人々が悪比丘の言葉を信じていることが、災難の原因になっていることを指摘されている。

 そして、その「悪比丘」とは法然であり、その選択集の流布が原因であることを示し、その他、問者の様々な角度からの疑問のひとつひとつ明確に解答されている。

 そして第14問答・第15問答には災難を止めるためには、まず謗法を治することが不可欠であることを涅槃経の文を引用して示されている。

 最後に御自身の立場に言及され、法然をこのようにまで強く責める理由として、謗法のものを見て置いて責めないのは、仏法の中の怨であるとの涅槃経の文を引きつつ「予此の文を見るが故に仏法中怨の責を免れんが為に見聞を憚からずして法然上人並に所化の衆等の阿鼻大城に堕つ可き由を称す」(0085:14)と述べられている。

 このように本抄は、災難の原因は、人々が法然の悪法を信じていることにあることを示しており、その意味で災難興起由来と併せて、立正安国論の趣旨の原型が本抄に基づいて示されているといえる。なお、本文では「勘文」とされているが、実際には対外的に提出されたものではない。本抄も立正安国論の準備的著述と考えられる。

 

十法界明因果抄(文応年 1260) 

 法華経の法師功徳品第十九で耳根の功徳を説いた部分のうち、声聞、阿修羅声・地獄声・畜生声・餓鬼声・比丘声・比丘尼声・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声の十種の声を十法界の名目を示す文証とされ、十法界各界の因果を詳細に明かされている。とくに仏界については爾前経と法華経の戒の違いを立て分けられ、法華経こそ二乗七逆の者を含めた一切衆生を、一生のうちに成仏せしめる教えであることを論じられている。

 このように本抄では一念三千の基礎となる十界論の考察が展開されており、一念三千の「宗旨」と法華経の「得益」を述べられた書となっている。

 

 以上、大聖人が岩本実相寺で一切経の閲覧に入られてからの著述について概観してきたが、続いて唱法華題目抄について見ることにする。

 本抄は全体で15の問答から成っている。ここで各段の内容を答者の立場から要約すると次のようになる。

 第一段 法華経の文義を弁えずとも、法華経を信じて謗法を犯さない者は悪道には堕ちない。

 第二段 念仏者が「法華経は末代の機根に適わない」と主張しているのは謗法にあたる。

 第三段 念仏の者は謗法の故に無間地獄に堕す。

 第四段 法華経を誹謗しながら世間から智者として尊ばれている者こそ悪知識である。

 第五段 その文証として法華経勧持品に「三類の強敵」が説かれている。そしてこの悪知識のために謗法の衆生が国中に充満している故に諸天善神は国を去り災難が起きているのである。

 第六段 あなたは世間で智者とされている人間に惑わされやすいから、私のいうことを疑って信じようとしないのである。

 第七段 仏法は依法不依人と説かれているように、人師の言葉ではなく経典に従うべきである。また了義経によるべきで不了義経に依ってはならない。法華経こそが了義経であり、諸経は不了義経である。

 第八段 念仏でも往生できるという「諸行往生」の主張は権実雑乱の大謗法である。

 第九段 天台は法華経と爾前経の関係について約部・約教の二判を立てたが、約部判における爾前を斥けるべきことは当然・約教判における「爾前の円」も斥けるべきである。

 第十段 法華経を信ずる人は法華経八巻一巻一品あるいは題目を書いて本尊とすべきであり、行儀は本尊の前では坐立行であり、常の所行は南無妙法蓮華経と唱えるべきである。

 第11段 法華経は諸経すべてを一経に収め、諸仏悉く妙法に収めており、妙法蓮華経を唱える功徳は莫大である

 第12段 諸宗の「智者」は「相手の機も弁えず折伏すると相手が地獄に堕ちる」というが、それは不軽菩薩が杖木瓦石の難を受けた例を挙げて反問すべきである。

 第13段 末法においては相手が謗じようとも逆縁をもって法を弘めるべきである。

 第14段 仏滅後、竜樹・天親は阿含・権大乗・実大乗の義を述べ、天台は一代聖教を大小・権実に分けたが、その他の人師は権実の区別を知らず、また権大乗の趣を出ていない。

 第15段 法の正邪は法門の内容をもって判断すべきであり、利根や通力によるべきではない。

 このように各段の概要を見ると、全体は大きく三つから成っていることが分かる。すなわち第一段から第五段までは、念仏が謗法であることを指摘し、念仏の邪義の横行が災難の元凶であるとして、浄土教への破折を加えている部分である。この部分の趣旨のほとんど立正安国論の論師に重なりあっている。

 次に第六段から第11段は、本抄の中心的な部分で、依法不依人、依了義経不依了義経、ないしは約教・約部の二判に照らして法華経を根本とすべきことを明かされ、次いで立てるべき本尊と修行、更にその功徳を述べられている。

 更に第11段から第15段までは、末法の弘通の在り方と滅後の人師の正邪を判定する基準について示されている。

 このように本抄の中心部分には、教判・宗旨・行法・得益の四つがすべて備わっていることが分かる。しかも、その四つが各別に説かれるのではなく、有機的な関連をもって示されており、その論旨の展開から、まさに本抄は、大聖人の法門を体系的に示された書であることがうかがえるのである。

 正嘉2年(1258)一代聖教大意から文応元年(1260)の立正安国論に至る諸御抄に見るかぎり、釈尊一代聖教の整理や一念三千の法理の確認、あるいは法然への浄土教への詳細な分析など、教判・宗旨・行法・得益のそれぞれについて部分的に示されることはあっても、教判・宗旨・行法・得益のすべてを示された体系的な著述は、本抄を除いては見られない。ここに唱法華題目抄の顕著な特徴があると拝することができる。

 大聖人は、一代聖教大意から唱法華題目抄に至る過程を踏まえて立正安国論を完成されたのであるが、そこで安国論の概要を概略するならば、安国論では法然の浄土教の謗法が災難の元凶であることを指摘されるとともに、その解決の方途を示されるところにその元意があると拝される。それ以上のこと、つまり、立てるべき正法が何であるかということについては、安国論では「実乗の一善」と示されるにとどまり、その内容まで立ち入って示すことは敢えて控えられている。

 そこで、唱法華題目抄が教判・宗旨・行法・得益を含んだ総合的・体系的著述であるかを考えるならば唱法華題目抄こそ立正安国論では示すことを控えられた正法の実体を示された書であるということができよう。いわば安国論が「破邪」の書であるのに対し唱法華題目抄は「顕正」の書である。その意味で本抄は、立正安国論と表裏一体の関係にあるといえる。

 北条時頼に対する国主諌暁は、立正安国論の上呈によって行われた。それに対し、実際には時頼側からの応答は示されなかったのである。しかし、安国論を上呈した場合、その諌暁に応えて、それでは大聖人のいう「正法」とは何かという「質疑」や「応答」が時頼側から返ってくる可能性も考えられたわけである。

 大聖人がおかれては、安国論上呈に対して、幕府側からの質疑や応答があった場合に備えて、何の用意もされなかったとすることはむしろ不自然であろう。このように考えるならば唱法華題目抄をもって、大聖人が国主諌暁の重要部分として、時頼の応答に備えて用意された著述であると推定することもあながち不可能ではなかろう。

 ともあれ、日興上人が佐前の御書の中で安国論と本抄を十大部として指定された事実は、本抄が第一回国主諌暁当時の大聖人の法門を代表する重書であるとともに、安国論と表裏一体の意義を持つことをうかがわせるのである。

 

第三節 「本門の題目」説示の書

 

 本抄の成立時期と内容が立正安国論と極めて密接な関係にあることはこれまでに述べてきた通りであるが、その上で唱法華題目抄の意義を考えるならば、何よりもその題号が示すように、三大秘法の中の「本門の題目」を示された書であるところに、最大の意義があるといわなければならない。

 三大秘法の展開という観点から大聖人の御化導を拝するとき、本門の題目・本門の本尊・本門の戒壇という次第によってなされていることはいうまでもない。そのうち本抄は、末法適時の修行が自行化他にわたる南無妙法蓮華経の唱題であること、すなわち「本門の題目」について、その法理を説示されている御書ということが重要である。

 三大秘法抄に、

 「題目とは二の意有り所謂正像と末法となり、正法には天親菩薩・竜樹菩薩・題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさて止ぬ、像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり、末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(1022:12

 と仰せのように、大聖人が弘通された「題目」は、正像のような自行のためののみの「理行」の題目ではなく、自行化他にわたる「事行」の題目である。

 教行証御書に、

 「当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(1276:06

 と明示されているように、南無妙法蓮華経の題目は単なる経典の題名ではなく、下種の法体そのものである。

 その題目を唱えるということは、一切の諸仏を仏にならしめた根源の法体を、直ちに自身の生命に刻んでいく実践に他ならない。もちろん「本門の題目」といっても、その体は「本門の本尊」であり、本門の本尊を信受して唱える題目であって初めて本門の題目となりうるのであるが、それを前提とした上で、諸仏成道の本因である下種の法体を万人に対して開き、その法体をすべての人が直ちに行ずるという修行形態を、大聖人は初めて明確に示されたのである。

 南無妙法蓮華経の唱題行を広く説き示すことは古今未曾有であり、それ故に当時の人々にとっても容易には信受できない実践であった。

 そのことは曾谷入道殿御返事に、

 「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり、かかるいみじき法門なれども仏滅後・二千二百二十余年の間・月氏に付法蔵の二十四人弘通し給はず、漢土の天台妙楽も流布し給はず、日本国には聖徳太子・ 伝教大師も宣説し給はず、されば和法師が申すは僻事にてこそ有るらめと諸人疑いて信ぜず」(1058:08

 と示されている通りである。

 この未曾有の唱題行は、諌暁八幡抄に「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり」(0585:01

 と仰せのように、立宗以来、生涯を通じて弘通されたのである。

 「本門の本尊」を否定して「本門の題目」は成り立たないことはいうまでもないが、唱題思想が立宗の当初から御入滅の時まで、大聖人の御化導を貫く根幹の法門であることは誰人も否定できない事実である。

 本抄は、この「本門の題目」の法門を初めて本格的に論じられた書であり、その意味で文底下種仏法の骨格を示された重書と位置づけられる。

 

第二章 本抄の大意と構成

 

 ここで、本抄の全体を把握するために、問いの内容も含めて各問答の大意を示すことにする。

第一問答

 問い。世間の道俗の者が、それほど法華経の文義をわきまえていなくても、法華経の一部一巻・四要品や自我偈の一句などを受持し、あるいは自らも読み書き、また人をして読み聞かせ、あるいは経に向かって合掌礼拝し、また他人が行ずるのを見て随喜の心をおこすなどわずかなことだけで、常に人天に生を受け、ついには法華経を心得る者となって浄土に往生し、またこの娑婆世界で成仏することができるであろうか。

 答え。かりそめにも法華経を信じて少しも謗法を犯すことがない人は、悪道に堕ちるとは思われない。ただし、わずかに権教を知る者が、法華経はわれわれの機根には適わないというのを真実と思って法華経以外の経に心を移し、法華経に帰らない人は悪道に堕ちることもあるだろう。

第二問答

 問い。三千塵点劫の時に、大通智勝仏の16人の王子が法華経を説いた際、法華経を信じなかった者が迷いのままに三千塵点劫を輪廻したが、この16人の王子に結縁した衆生について、天台・妙楽は名字観行の位の人であると釈している。名字観行の位とは、一念三千の義理を弁えた人のことである。また五十展転の人というのも、天台・妙楽は初随喜の位としている。下劣の凡夫のことではない。ところが末法のわれわれは一分の義理も弁まえていないので、機根が浅く、深い教えには耐えられない。それ故に、われわれはただ阿弥陀如来の名を称えて西方極楽浄土に往生し、そこで阿弥陀如来や観音などが法華経を説くのを聞いて悟りを得る以外にない。

 そのうえ、法華経結縁の功徳は三悪道に堕ちないというだけであるのに対し、念仏の法門では阿弥陀如来の名を称えれば浄土に往生できるというものであるから、念仏の方が遥かに法華経よりも尊く思われる。

 答え。あなたの言うことには不審がある。天台・妙楽は、大通結縁の者も五十展転の者も名字即の位と定められているからである。また、あなたの言うことは謗法に当たる。なぜならば、法華経は末法の機根に適わないと主張することは、法華経を行じようとすることを妨げるからである。法華経誹謗の者になったならばいかに念仏を称えようとも往生はできない。また、阿弥陀の名を称えれば往生できるというのは、どの経論を証拠としてそのように言うのか。

第三問答

 問い。大通結縁の者も五十展転の者も名字即の浅位であるという釈はどこにあるのか。また念仏を称えて往生できることは、浄土三部経や善導和尚のなどの釈に明確に示されている以上、どこに疑いの余地があろうか。

 答え。大通結縁の者を名字即であるとするのは、天台の法華文句の三、妙楽の法華文句記の三に示されている。また五十展転の者を名字即とするのは文句記の第十にある。天台・妙楽の意は、法華経が下根下智の者のための経であることを示すところにある。それ故に天台は、法華経の最下の功徳が外道・小乗・権大乗に勝ると釈しているのである。ところが善導は法華経を千中無一といい、法然は祖父の履や群賊に譬えて法華経を誹謗しているが、このようにいう師もそれに従う弟子も、ともに阿鼻地獄に堕ちることになる。

第四問答

 問い。どのような姿や言葉をもってするのが法華経を世間に言い疎める者となるのか。

 答え。心には一代聖教を知ったと思っているが、実は権実二教の区別もわきまえず、小欲知足であるかのような姿をとって世間の人から尊い智者であると思われている者が、法華経を失う者なのである。

第五問答

 問い。その証拠はどうなっているのか。

 答え。法華経の勧持品には「三類の強敵」が説かれている。その中では第三の僭聖増上慢が最も甚だしいものである。当世の念仏者の、法華経は尊いが末代の愚かな機根の者には適っていないという言葉に心を動かされ、法華経を謗じる衆生が国中に充満している。そのために、守護の善神は国を捨て去ってしまい、その結果、悪鬼が働いて転変地夭や飢饉・疫病が広がっているのである。

第六問答

 問い。念仏を説く「智者」の主張は恐ろしいことを言っているようだ。一文不通のわれわれはどのようにすれば法華経に信をとることができるだろうか。

 答え。あなたは私の言うことも天魔・悪鬼が身に入って言うのだろうと疑って、信じようとしないだろう。

第七問答

 問い。そのようにすべてを疑っていたならば、我が身は愚者であるから、何も信ずることができず空しく一生を過ごしてしまうことになるだろう。

 答え。私は「依法不依人」と説かれているので、いかに尊い人であっても経の通りに説かない人の言い分を信用してはならない。また「依了義経不依不了義経」と説かれているので、了義経につかなければならない。一代聖教の中では法華経こそが了義経である。当世の学者が法華経は末法の機に適っていないというのを信ずるのは謗法の人である。法華経と似ている権教の義をもって法華経を遠ざける人にこそ、人はたぶらかされるのである。

第八問答

 問い。「智者」が言うには、四十余年の諸経と法華経では「成仏」については爾前が難行道、法華経が易行道であるが、「往生」については同じであり、阿弥陀の名を称えることこそ法華経などの余行よりも容易であるというのでるが、その意見はどうであろうか。

 答え。その義には不審がある。法華経の序分・無量義経には、爾前経と法華経では言葉は同じでも義は異なると説いている。成仏については別だが往生については同じであるなどとは説かれていない。浄土の三部経もまた「未顕真実」の教えである。

 法華経と観経を同じとして、また観経などの念仏往生が易行であると立てるのは権実雑乱の大謗法である。選択集の通りに諸経を抛てなどと人に勧める者は法華経誹謗の罪によって無間地獄に堕ちるという法門について、念仏者は初め不思議に思っていたが、それぞれ選択集を見てみるといかにも謗法の書であると思ったのか、千中無一の悪義をやめて諸行往生の義を立てるようになった。しかし、これは千中無一と主張する人よりも謗法の心が勝っており、念仏に誤りはないとして念仏を弘めようとする天魔の計りごとである。

第九問答

 問い。天台宗の人が言うには、天台大師が爾前経と法華経を比較して爾前経を退けたのは約部と約教の二義がある。約部では爾前経は麁として退けられているが、約教の方では爾前の円教は法華経と同じ法門であるといっているが、この意見はどうであろうか。

 答え。天台大師が蔵・通・別・円の四教を立てたのには四つの筋目がある。

 一つは、爾前経だけに四教を立てて、法華経には爾前に超越するというもの。

 二つは、爾前の円教と法華の円教を同じとして、蔵・通・別の三教だけを退けるもの。

 三つは、爾前の円を別教の中に入れて前三教であるとして退け、法華の円だけを純円とするもの。

 四つは、爾前の円と法華の円を同じとするが、法華経に説く相対・絶対の二妙のうち、爾前の円を相対妙にだけ入れて絶対妙には入れないもの。

 この四つの道理から考えれば明瞭であって、爾前の円は別教に摂して歴劫修行に入れられるものである。また伝教大師も爾前の円を直道、法華の円を大直道として、両者を区別している。

第十問答

 問い。法華経を信ずる人は、本尊・行儀・常の所行についてはどのようにすべきであろうか。

 答え。本尊は法華経八巻一巻一品を本尊とし、あるいは題目を書いて本尊とすべきであると法師品・神力品にはある。できる人は釈迦・多宝を法華経の左右に立て並べるべきである。行儀は本尊の前では必ず坐立行であるべきである。常の所行としては南無妙法蓮華経と唱えるべきである。できる人は法華経の一句一偈でもよむべきである。愚者の多い世であるから、初めから一念三千の観法をおこなうのは困難であろうが、志ある人は習学して一念三千を観ずるべきである。

11問答

 問い。題目ばかりを唱える功徳は、どのようなものであろうか。

 答え。法華経は四十余年の諸経を一経におさめ、また十方世界の諸仏は釈迦一仏に収まるから、妙法の二字に諸仏が収まるのである。それ故に妙法蓮華経の五字を唱える功徳は莫大である。諸経の題目は所開、妙法は能開と知って法華経の題目を唱えるべきである。

12問答

 問い。この法門を「智者」に尋ねたところで、次のように言っていた。「法華経が尊いことはいうまでもないが、末法の凡夫に向かって、機根も知らずに爾前経を遠ざけて法華経を行じさせることは、念仏も捨て、法華経の修行も成就しないことになって、どちらも中途半端になってしまう。また法華経を誹謗すれば必ず地獄に堕ちなければならない。だから釈尊も舎利弗に対して、法華経を信じられない無智の人にこの経を説くなと言われたのである」と。このような主張はどうであろうか。

 答え。「智者」がそのように言うのであれば、法華経には不軽菩薩が、すべての人に対しての礼拝行を行い、杖木瓦石の迫害を受けたと説かれているのを、どうして考えようとしないのか。と答えるがよい。

13問答

 問い。一つの経のなかで相違があることは、いかにも理解しがたい。その理由を詳しくうかがいたい。

 答え。方便品では機根を見て説けといい、不軽品では誹謗してきても強く説くべきであるとしている。一経の前後でその趣旨が水火のように異なっている。天台大師の釈によれは、本已有善の者にはその機根を整えながら法華経を説くべきであるが、法華経の本末有善の者には強いて法華経を説き聞かせて毒鼓の縁となすべきで、弘教の在り方は時によって異なるのである。

14問答

 問い。中国の人師の中には、ただ権大乗にとどまって実経に入らなかった者がいるが、いかなる理由であろうか。

 答え。法華経方便品では、仏がもし法華経を説かなければ慳貪の罪になるといい、嘱累品では諸菩薩に仏滅後に法華経を説くよう遺嘱している。それを受けて竜樹・天親・天台は法華経の義を説いたのである。しかし、その他の人師は権実を区別していないか、あるいは区別しても言葉だけのことで心は権大乗を出ていない。

15問答

 問い。中国の人師の中でも慈恩大師は牙から光を放ち、善導和尚は口より仏を出した。その他の人師も通力を現じ、徳をほどこし、悟りを得た人の多いのに、どうして彼らは権実二経を区別して法華経の所詮といわなかったのであろうか。

 答え。神通の有無によって智者か愚者かを判断すべきではない。法門によって正邪を正すべきである。利根や通力の如何によって判断しなければならない。

 以上のように各問答を辿って大意を確認してみると、本抄は、前説で述べたように、多きく三つに分かれていることがわかる。

 第一の問答は第一問答から第五問答までで、ここでは念仏宗の立場から法華経を論難する者に対してその誤りを指摘し、念仏こそ法華経を論難するものに対してその誤りを指摘し、念仏こそ謗法の教えであり、災難の原因になっていることを示されている。「神天上の法門」も含めて、ここで示されている趣旨は立正安国論の論旨とほぼ同様であるが、本抄では「理深解微という、念仏側から法華経批判に対して詳細に破折されていることと、「僣聖増上慢」という正法誹謗の具体的な態様を示されていることが、安国論には見られない特徴といえよう。

 この第一の部分では、問者はまだ念仏に執着している段階であるが、第六問答以降の問者は念仏の誤りに気付き、法華経に信伏する立場に変わっており、それ以降の各問いは、法華経の信心を求める立場からの質疑になっている。

 この第二の部分は、先に述べたように、教判・宗旨・行法・得益の四つがすべて説かれており、第一回国主諌暁当時の大聖人の法門を総合的に提示された内容になっている。

 すなわち「依法不依人」「依了義経不依了義経」という宗教批判の基準を示された第七問答、「四十余年見顕真実」を依文として随自意・随他意の相違から権実の勝劣を示された第八問答、「四つの筋目」の上から「爾前の円」と「法華の円」の勝劣を論じられた第九問答は、諸経と比較して法華経が第一であることを示された「教判」の部分に当たる。

 また、本尊・行儀・常の所行を示された第十問答では、宗旨と法行を明あされており、また「妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり」として唱題の功徳莫大なり」として唱題の功徳を示され第11問答は、まさに得益を明かされた内容になっている。

 第12問答から終わりまでの第三部分は、末法における弘通の在り方を論じられている。

 そのうち第12問答と第13問答は、末法における弘通が摂受か折伏か、という問題を取り上げたものである。ここでは問者が法華経の弘通は摂受によるという立場であるのに対して、大聖人は天台の釈を用いて末法弘通の在り方が折伏であることを論証されている。

 第14問答と第15問答は、釈尊滅後、法華経を宣揚した人々について論じられている。第14問答では竜樹・天親・天台が滅後に法華経の義を宣揚した正師であることを示され、第15問答では人の正邪は利根や通力によるのではなく、あくまでも法門によるべきであるという判断の基準を示されて本抄全体を結ばれている。

 このように本抄は、いわば「序分」「正宗分」「流通分」ともいうべき体系的な構成を備えている。このことからも、大聖人が、周到な構想と思索のもとに本抄を執筆されたことが拝察される。

0001~0016唱法華題目抄 0001:01~0001:06 第一問

00010016唱法華題目抄 0001:010001:06 第一問

 

本文

 

唱法華題目抄    文応元年五月    三十九歳御作   於鎌倉名越

  有る人予に問うて云く世間の道俗させる法華経の文義を弁へずとも一部一巻四要品自我偈一句等を受持し或は自らもよみかき若しは人をしてもよみかかせ或は我とよみかかざれども経に向い奉り合掌礼拝をなし香華を供養し、或は上の如く行ずる事なき人も他の行ずるを見てわづかに随喜の心ををこし国中に此の経の弘まれる事を悦ばん、是体の僅かの事によりて世間の罪にも引かれず彼の功徳に引かれて小乗の初果の聖人の度度人天に生れて而も悪道に堕ちざるがごとく常に人天の生をうけ終に法華経を心得るものと成つて十方浄土にも往生し又此の土に於ても即身成仏する事有るべきや委細に之を聞かん、

 

現代語訳

 

 ある人が私に問い、次のように言った。

 世間の在家・出家の人が、それほど法華経の意義が分からなくても、法華経の一部・一巻・四要品・自我偈・一句などを受持し、あるいは自らも読み、書写し、もしくは他人に読ませ、書写せしめ、あるいは自らも読み、書写しなくても、法華経に向かい奉って合掌礼拝し、香華を供養し、あるいは以上のように行ずることがない人でも他人が法華経を行ずるのを見て、わずかでも随喜する心を起こし、国中に法華経の弘まることを喜ぶ。こうしたわずかなことによって世間の罪にも引かれず、法華経の功徳に引かれて、たとえば小乗教の初果の聖者が生まれるたびに人界や天界に生まれて悪道には堕ちないように、常に人界・天界に生を受け、終には法華経を身となって十方の浄土にも往生し、あるいはこの娑婆世界においても即身成仏するということがあるであろうか。詳しく聞きたいものである。

 

講義

 

 序論で述べたように、第一問答から第五問答までは、念仏に執着して、破折内容になっている。第一問答は、その議論の前提をなす部分で、法華経の文義を理解していない者とその功徳を挙げられている。

 まず、ここで示される無解の行とは、

   ①受持

   ②読

   ③書写

   ④合掌礼拝

   ⑤香華の供養

   ⑥他人の修行に対する随喜

 の6つである。

 このうち①から⑤までは法華経法師品第十に説かれている。「是の諸人等、未来世に於いて、必ず作仏することを得んと。何を以っての故に、若し善男子、善女人、法華経の、乃至一句に於いて、受持し、読誦し、解説し、書写し、種種に経巻に、華香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・繒蓋・幢旙・衣服・伎楽を供養し、合掌恭敬せん。是の人は、一切世間の、応に膽奉すべき所なり」

 ここで説かれる受持し、読持・読・誦・解説・書写の五種の修行のうち、解を前堤としない①受持・②読・③書写が挙げられるほか、合掌恭敬は④合掌礼拝として、華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・繒蓋・幢旙・衣服・伎楽の十種の供養については⑤香華の供養を代表として挙げられている。

 ⑥他人の修行に対する随喜することについては、法華経法師品第十・分別功徳品第十七・随喜功徳品第十八で説かれる。「法華経に対するわずかな随喜の功徳」に基づいて示されたものと推察される。

 ここで「自らもよみかき 若しは人をしてもよみかかせ」と言われているのは、安楽行品第十四に、

 「亦大衆の、而も来って聴受し、聴き已って能く持ち、持ち已って能く誦し、誦し已って能く説き、説き已って能く書き、若しは人をも書かしめ」

 分別功徳品第十七に

 「若しは自らも書き、若しは人をも書かしむること有らん」

 と説かれていることを受けて述べられたものと拝察される。

 このように第一問に示されている法華経の修行は、いずれも法華経の文そのものに示されている内容であることが分かる。

 次に、

   ①世間の罪に引かれず、常に人界・天界に生を受ける

   ②十方の浄土に往生できる

   ③此の土においても即身成仏できる

 の三つの功徳が示されている。先に挙げた法華経の行により、これらの功徳があるかどうかを問うているのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0001:06~0001:10 第一答

00010016 唱法華題目抄 0001:060001:10 第一答

 

本文

 

  答えて云くさせる文義を弁えたる身にはあらざれども法華経・涅槃経・並に天台妙楽の釈の心をもて推し量るにかりそめにも法華経を信じて聊も謗を生ぜざらん人は余の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず、但し悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん、

 

現代語訳

 

 答えて言う。日蓮はそれほど法華経の文義をわきまえている身ではないが、法華経・涅槃経ならびに、天台大師・妙楽大師の釈の意からおしはかると、法華経を信じていささかも謗法を起こさない人は、謗法以外の悪があったとしても、その悪が原因となって悪道に堕ちるとは思われない。ただし、悪知識といって、すこしばかり権教を知っている人が、智者らしく見せて、法華経が末法われわれの機根にあわないという主張を和らげて述べているのを真実であると思い、今までに法華経を随喜していた心を捨て、法華経以外の教えに移ってしまい、一生そのまま法華経に帰ってこない人は、悪道に堕ちることもあるだろう。

 

講義

 

 第一答では、「自分はそれほど経の文義をわきまえているわけではないが」と謙遜しつつ、法華経や涅槃経の経文、そして天台や妙楽の釈に照らして考えると、かりそめにも法華経を信じて聊も謗を生ぜざらん人」すなわち信心は浅くても謗法の罪を犯さなければ、謗法以外の罪があったとしても、このために悪道に堕ちることはないと答えられている。

 ここで、先に整理された三つの功徳のうち、①のみで、②の十方に往生、③の此土での即身成仏、については答えられていない。これらについては第二問答以下において詳述されている。

 なお、ここで指摘されているのが、「智者」のような形をとって法華経を末法の機には適はないと主張する悪知識の存在である。この欺瞞の「智者」が、当時の念仏僧であることは明らかである。こうした念仏の邪義に惑わされて法華経から離れ、正法に目覚めないまま一生を終われば悪道に堕ちることもあろう、と答えられている。

 なお、この冒頭の問答で「法華経の無解の行」が問題にされていることが重要であろう。なぜならば、法華経の一切衆生皆成仏の教えは、無解有信を前提としているのであるが、天台宗において説かれる法華経の修行は、法華経の整理に対する「有解」が前堤とされていたからである。

 すなわち天台大師が「魔訶止観」で説いた止観修行は四種三昧と十乗観法に分けられるが、その関係は四種三昧によって妙解を開き、その智慧によって一切諸法の妙理を体得する十乗観法に進むのである。また十乗観法は一心三観の観法であり、一念の心の中に空仮中の三諦が相即していることを観ずるのであるから、少なくとも三諦の法理を理解していることがその修行の前堤となる。

 このように、伝統的な天台宗の立場における法華経の修行には一定の解が必要なのであり「無解の行」は本来、初めから問題にならなかったといっても過言ではない。それに対し、本抄の冒頭で「無解の行」の功徳が論じられていることは、大聖人の立場がすでに天台宗の枠組みから出ていることを示すものといえよう。一般に、本抄は天台附順の書とされているが、しかしそれは、本抄の基本的立場は、すでに大聖人の域をでていることを看過したものといわざるをえない。本抄において、すでに天台宗の枠組みを超えて法華経の原点に還り、更に大聖人独自の法門を明らかにしようとされているお姿が拝されるのである。

 法華経の修行に解を必要とするのか否かという問題は、後の問答に見られるように、基本的な法華経観の相違となって現われてくるのであるが、とくに末法の衆生は高度な法理を理解する機根をそなえていないという立場から、念仏宗では法華経の理が深いことを直ちに解の必要に結びつけて、法華経の修行は、末法の修行には適合しないという、いわゆる「理深解微」の主張をたてたのである。こうした念仏のいう「理深解微」の教義が天台宗の法華経観を前提にしたことは否定できない。

 それに対して大聖人は、法華経そのものに戻って「無解の行」を強調されたのである。法華経を行ずるのに「解」を必要としないということになれば、「理深解微」の理論の前提が否定されることになる。

 まさに、本抄における念仏破折の柱の一つは「理同解微」という念仏の教義が成り立たないことを示されるところにある。その詳細は、第二章以下に展開されるのである。

 

00010016 唱法華題目抄 0001:100002:03 第二問①

 

本文

 

  仰せに付いて疑はしき事侍り実にてや侍るらん法華経に説かれて候とて智者の語らせ給いしは昔三千塵点劫の当初・大通智勝仏と申す仏います其の仏の凡夫にていましける時十六人の王子をはします、彼の父の王仏にならせ給ひて一代聖教を説き給いき十六人の王子も亦出家して其の仏の御弟子とならせ給いけり、大通智勝仏法華経を説き畢らせ給いて定に入らせ給いしかば十六人の王子の沙弥其の前にしてかはるがはる法華経を講じ給いけり、其の所説を聴聞せし人幾千万といふ事をしらず当座に悟をえし人は不退の位に入りにき、又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり其の人人・当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり、其の間又つぶさに六道四生に輪廻し今日釈迦如来の法華経を説き給うに不退の位に入る所謂・舎利弗・目連・迦葉・阿難等是なり猶猶信心薄き者は当時も覚らずして未来無数劫を経べきか知らず我等も大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん

 

現代語訳

 

 今、あなたの言われたことについて疑わしいことがある。あなたのいうことは本当なのだろうか。法華経に説かれている内容であるとして、念仏宗の智者は次のように言っている。

 むかし三千塵点劫の当初に大通智勝仏という仏がおられた。その仏がまだ凡夫であられたとき十六人の王子がおられた。その父親である王が出家して仏となり、一代聖教を説かれた。十六人の王子もまた出家してその仏の弟子となられた。大通智勝仏は法華経を説き終わって禅定に入られたので、出家して沙弥となっていた十六人の王子は、入定した大通智勝仏の前で交互に法華経を講説された。王子たちにその講説を聞いた人は幾千万とも分からないほどであった。その講説を聴いてその場で悟りを得ることができた人は不退の位に入った。また、法華経を不十分にしか理解できず、結縁しただけの人々もいたが、その人々は法華経の講説を聞いた場でも、また釈尊在世以前の中間の期間も、不退の位に入らないで三千塵点劫を経てしまった。その人々は、この三千塵点劫を経る間に、つぶさに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を卵生・胎生・湿生・化生の四生によって輪廻し、今日在世に釈迦如来が法華経を説かれるのを聴いて不退の位に入ったのである。舎利弗・目連・迦葉・阿難などがその人々である。その人々よりも更に信心が薄い人々は、釈尊在世でも悟ることができずに未来無数劫を経過しなければならないのであろうか。それは分からないが、われわれも大通智勝仏の十六人の王子に結縁した者であろうか。

 

講義

 

 問者は、末代の衆生が法華経では救われない衆生であるとする念仏宗の「知者」の言い分を挙げる。そのなかで、法華経化城喩品第七の「大通覆講」を挙げて、末法の凡夫がこの救済に漏れた衆生であることを主張するのである。

 三千塵点劫の昔、大通智勝仏の十六王子による法華経の講説を聴いた衆生は第一類・「不退」、第二類「退大取小」、第三類「未発心」の三種類に分かれる。すなわち、

 第一類・不退・発心し、退転せず得道した者。

 第二類・退大取小・発心はしたが途中で大乗から退転して小乗の修行に堕ちたことによって悪道を流転し、釈尊在世に再び法華経に還って得道した者。

 第三類・未発心・十六王子の法華経の説法を聞いても発心できないで悪道を流転してきた者で、一部は釈尊在世に法華経を聞いて得道するが、他は以後も悪道を流転する者。

 大通結縁の衆生に三類あることについて、天台大師は、法華経化城喩品の「仏、諸の比丘に告げたまわく、是の十六の菩薩は、常に楽って、是の妙法蓮華経を説く」以下の文を受けて、法華文句で次のように述べている。

 「仏告諸比丘十六の下、第二に中間に常に相逢値することを明す。逢値に三種有り、若し相逢遇して常に大乗を受くれば、此の輩中間に皆已に成就して今に至らず。若し相逢遇して其の大を退するに遇て仍ち接するに小を以てせば、此輩中間に猶故に末だ尽きず、今還て大乗の教を聞くことを得、三に但小に遇うことを論じて大に遇うことを論ぜず。則ち中間に末だ度せず。今に亦尽くさず、方に始めて大を受く、乃至滅後得道の者是なり」

 つまり三千塵点劫の時に大乗を信受した者は中間において仏道を成就して釈尊在世に現れないが、大乗を値遇しながら退転して小乗に落ちた者は、中間では成仏できずに釈尊在世に生まれて法華経を聞いて得脱する。さらに小乗に執着して大乗に信受できなかった者は、中間では当然成仏できず、在世に於いて初めて大乗を聞き、釈尊滅後に大乗を受けて得道するとされている。

 本文をこの三類にあてはめれば次のようになる。

 第一類・不退・「当座に悟をえし人は不退の位に入りにき」。

 第二類・退大取小・「又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり其の人人・当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり、其の間又つぶさに六道四生に輪廻し今日釈迦如来の法華経を説き給うに不退の位に入る所謂・舎利弗・目連・迦葉・阿難等是なり」。

 第三類・未発心・「猶猶信心薄き者は当時も覚らずして未来無数劫を経べきか」。

 このように大通結縁の衆生に三種類があることを受けて、念仏者は「知らず我等も大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん」として、我々末法の凡夫が、この大通結縁の第三類に入るのではないか、と言うのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0002:03~0002:07 第二問②

00010016 唱法華題目抄 0002:030002:07 第二問②

 

本文

 

  此の結縁の衆をば天台妙楽は名字観行の位にかなひたる人なりと定め給へり名字観行の位は一念三千の義理を弁へ十法成乗の観を凝し能能義理を弁えたる人なり一念随喜・五十展転と申すも天台妙楽の釈のごときは皆観行五品の初随喜の位と定め給へり博地の凡夫の事にはあらず然るに我等は末代の一字一句等の結縁の衆一分の義理をも知らざらんは豈無量の世界の塵点劫を経ざらんや是れ偏えに理深解微の故に教は至つて深く機は実に浅きがいたす処なり

 

現代語訳

 

 この大通結縁の人々を、天台大師・妙楽大師は名字即と観行即の位に当てはまる人々であると定めている。その名字即や観行即の位に当てはまる人というのは一念三千の義理を理解し、十乗観法の修行を実践して法華経の法理を十分に理解している人である。

 また法華経随喜功徳品に説かれる、五十展転の最後の五十番目一念随喜する人というのも、天台大師・妙楽大師の釈によれば、観行即の五品のうち最初の初随喜品に当たると定めている。決して下劣の凡夫を指しているのではない。

 ところが我々は、末法において法華経の一字一句に結縁しただけの衆生であり、少しの義理をも理解できない者なのだから、どうして無量の世界の塵点劫を経ないということがあろうか。その理由はひとえに「理深解微」の故で、法華経の教えがいたって深いにもかかわらず、我々の機根があまりにも浅いためなのである。

 

講義

 

 この大通結縁の者について天台・妙楽は名字即・観行即に相当する人と定めている、と念仏者は主張する。

 名字即・観行即は、天台大師が摩訶止観の巻第一下で法華経を修行する人の位を六段階に配立した「六即」のうち、第二と第三にあたる。

 第二の名字即とは、止観に「或は知識に従い、或は経巻に従いて上の説く所の一実の菩提を開き、名字の中に於いて通達解了して、一切法は皆是れ仏法なりと知る、是を名字即の菩提と為す」とあるように、善知識や経典・論書などの言葉を通して、一切はみな仏法であると了解し、正法を信受する位をいう。

 第三の観行即とは、止観に「心観妙了にして理と慧と相応じ、所行は所言の如く、所言は所行の如くすべし」とあるように、法華経の教えを受けて教え通りに正しく修行する位をいう。

 念仏者はこのように、一念三千の義理を弁へ十法成乗の観を凝し能能義理を弁えたる人」であるから、そのような理解力のない末法の凡夫は法華経の結縁で救われる衆生ではありえないとするのである。

 また、念仏者は、法華経随喜功徳品に説かれる五十展転の一念随喜についても、天台・妙楽は皆「観行五品」のなかの最初の位である初随喜品の位と定めている、と主張する。

 「阿逸多、如来の滅後に、若し比丘、比丘尼、優婆即、優婆夷及び余の智者、若しは長、若しは幼、是の経を聞いて、随喜し已って、法会より出でて余処に至らん…是の諸人等、聞き已って随喜して、復行いで転教せん、余の人聞き已って、亦随喜して転教せん。是の如く展転して、第五十に至らん。阿逸多、其の第五十の善男子・善女人の随喜の功徳を、我今之に説かん」

 すなわち仏の滅後に法華経を聞いて随喜して人に伝え、伝え聞いた人が随喜してさらに他の人に伝え、このようにして50番目の人に伝え聞いた人は、随喜の心も薄くなっているが、それでもその人に絶大な功徳があると説くことによって、法華経聞法の無量の功徳を示す趣旨である。

 「観行五品の初随喜」とは、六即の中の観行即を天台大師が分別功徳品をもとに五位に立て分けたうちの第一・随喜品のことである。「観行五品」は「現在の四信」に対して「滅後の五品」といわれ、①随喜品・②読誦品・③説法品・④兼行六度品・⑤正行六度品の五つをいう。

 念仏者は、天台・妙楽の釈によると随喜功徳品で説かれる「五十展転の一念随喜」は観行五品の最初の随喜品の初随喜の位であり、六即のなかの「観行即」にあたるから、これも博地の凡夫には当たらないと主張する。

 要するに念仏の「智者」は、法華経を行ずる者は高い境地の者であるとされているから、末法下種の衆生は法華経を行じても功徳は得られないというのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0002:07~0002:15 第二問③

00010016 唱法華題目抄 0002:070002:15 第二問③

 

本文

 

  只弥陀の名号を唱えて順次生に西方極楽世界に往生し西方極楽世界に永く不退の無生忍を得て阿弥陀如来・観音勢至等の法華経を説き給わん時聞いて悟を得んには如かじ然るに弥陀の本願は有智・無智・善人・悪人・持戒・破戒等をも択ばず只一念唱うれば臨終に必ず弥陀如来・本願の故に来迎し給ふ是を以て思うに此の土にして法華経の結縁を捨て浄土に往生せんとをもふは億千世界の塵点を経ずして疾法華経を悟るがためなり法華経の根機にあたはざる人の此の穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さざるは法華経の証は取り難く極楽の業は定まらず中間になりて中中法華経をおろそかにする人にてやおはしますらんと申し侍るは如何に、其の上只今承り候へば僅に法華経の結縁計ならば三悪道に堕ちざる計にてこそ候へ六道の生死を出るにはあらず、念仏の法門はなにと義理を知らざれども弥陀の名号を唱え奉れば浄土に往生する由を申すは遙かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞え侍れ、

 

現代語訳

 

 末代の凡夫たるわれらは、ただ阿弥陀仏の名号を唱えて、生を受けるたびに西方極楽世界に往生し、西方極楽世界で永久に退転することがない無生忍を得て、阿弥陀如来や観音菩薩・勢至菩薩などが法華経を説かれる時、それを聞いて悟を得ることにまさるものはない。

 ところが阿弥陀仏の本願によれば、智慧があるかないか、善人であるか悪人であるか、戒律を持っているか破っているか等を問わず。ただ一度だけでも阿弥陀仏の名号を唱えるならば、臨終の時には必ず阿弥陀仏がその本願の故に来迎してくださるのである。

 このことから考えるならば、この娑婆世界において法華経の結縁を捨てて浄土に往生しよと思うのは、億千世界の塵点劫という長大な時間を経ることなく速やかに法華経を悟るためなのである。法華経を行ずる根機に適合しない人が、この穢土で法華経の修行に時間をかけて少しも念仏を唱えないのは、法華経の証果は得がたく、西方極楽浄土へ往生する業は定まらず、どっちつかずになり、かえって法華経をおろそかにしている人ではないのか。

 このように念仏の智者がいっているがどうであろうか。

 その上、ただいま承った話では、少しばかり法華経に結縁しただけであれば、その功徳は、三悪道に堕ちないというだけで、六道の生死の苦しみから逃れられるということはできない。これに対し、念仏の法門では、その義理・法理を知らなくても、弥陀の名号を唱えさえすれば浄土に往生できることを述べており、これは法華経よりも弥陀の名号のほうがはるかにすばらしいものに聞こえるのである。

 

講義

 

 ここでは念仏の「智者」が主張する往生・成仏観を示されている。これを要約すると次のようになる。

 ①法華経の教えは深く、末法の衆生の機根は浅いので、末法の衆生そのままでは法華経の信解に適合しない。

 ②そこで末法の衆生は、まず阿弥陀の名を称えて西方極楽浄土に「往生」し、そこで無生忍の境地を得た上で阿弥陀如来等が法華経を説くのを聞いて「成仏」する。

 ③現世で法華経から離れて浄土への往生を目指さすのは法華経の否定ではなく、むしろ法華経を悟るためにするのでる。

 ここで念仏の「智者」とは、往生が最終目的ではなく、法華経による成仏が最終目的であるとしている。すなわち釈尊の仏法においてはあくまでも法華経を聞いて成仏することが最終的な救済であるという前提に立って論を展開することが注目される。

 日本浄土宗の開祖・法然は、選択集において「捨閉閣抛」を唱えて浄土三部経の教えを排斥したのであるが、今世における修行として、法華経を斥けるのは、浄土往生ののち法華経を行ずるためである。と言い訳しているのである。法然自身、もとは天台仏法を学んでいたから法華経が成仏の法であることを知っていたのであろう。

 だが一見、法華経による成仏を尊重するような形をとりながら、実際には末法の衆生は法華経を行ずる機根ではないとして、法華経を行ずることを制止していることに変わりはない。その意味では、正面から法華経を誹謗することよりも、一段と巧妙な正法破壊をしているといえるのである。

 法然が専修念仏を開創したのが安元元年(1175)、選択集を著したのは建久9年(1198)であり、大聖人が唱法華題目抄を著された文応元年(1260)まで、浄土宗開宗から80余年、選択集著述から60余年が経過しているが、その間に浄土宗にもさまざまな流派に分かれ、その教義にも変遷があった。

 この点は、後に詳しく論ずるが、要約していえば、浄土三部経以外の諸経を否定した専修念仏は、既成宗教側からの激しい反発と迫害を引き起こしたため、排他的な専修念仏の立場を捨て、既成仏教との妥協・融和を図りながら念仏を弘めようとする立場を、法然自身、存命中からとっていた。これを更に進めて極楽浄土に往生する因は念仏に限定されるのではなく、念仏以外の諸々の修行によっても往生しうるという「諸行往生」の説を主張したのが覚明房長西の流派である。

 長西の弟子、道教は関東地方に進出し、鎌倉では新善光寺・浄光明寺を拠点に「諸行往生義」を弘め、文応元年(1260)当時の鎌倉では長西流の念仏が勢力を伸ばしていたのである。そこで、唱法華題目抄における念仏破折は、法然の専修念仏よりも、むしろ長西流の念仏に力点が置かれている。本抄に登場する念仏の「智者」も法然を根本に置きながらも、更に諸行を主張する長西流念仏に置かれて設定されたと考えられる。

 さて、問答は、答者の言葉には法華経をかりそめにも信じて謗ぜなければ三悪道に堕ちないとあるだけで六道を出られるのではないと指摘し、それに対して念仏は弥陀の名号を称えるだけで浄土に往生できるのでるから、その功徳は法華経よりもまさっているのではないかと主張するのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0002:15~0003:03 第二答①

00010016 唱法華題目抄 0002:150003:03 第二答①

 

本文

 

  答えて云く誠に仰せめでたき上智者の御物語にも侍るなればさこそと存じ候へども但し若し御物語のごとく侍らばすこし不審なる事侍り、大通結縁の者をあらあらうちあてがい申すには名字観行の者とは釈せられて侍れども正しく名字即の位の者と定められ侍る上退大取小の者とて法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたりと見えたる上正しく法華経を誹謗して之を捨てし者なり、設え義理を知るようなる者なりとも謗法の人にあらん上は三千塵点無量塵点も経べく侍るか、五十展転一念随喜の人人を観行初随喜の位の者と釈せられたるは末代の我等が随喜等は彼の随喜の中には入る可からずと仰せ候か、

 

現代語訳

 

 答えて言う。あなたがいわれることは誠に立派な内容であり、その上、智者のいわれたことでもあるので、その通りであるとも思われるが、ただし智者が言われる通りであるならば、少し不審な点がある。

 大通結縁の者を大まかいに六即に当てはめて名字即と観行即の者である、と解釈されているが、天台大師や妙楽大師は正確には名字即の位の者であると定められているのである。それに加えて大通結縁の人々が三千塵点劫を経たのは退大取小の者といって、法華経を捨てて権教に移り、後には悪道に堕ちた者と見えるからには、まさしく法法華経を誹謗して権教に移り、後には悪道に堕ちた者と見えるから、まさしく法華経を誹謗して法華経を捨てた者である。たとえ法華経の法理を知っているような者であっても、謗法の人である以上は、三千塵点劫、更に無量塵点劫も経なければならないだろう。

 また五十展転・一念随喜の人々を観行五品の初随喜の位であると釈されているのは、末法の私たちが法華経を聞いて随喜することは五十展転・一念随喜の人々の随喜の中には入らないと言われるのであろうか。五十展転・一念随喜の人々を天台・妙楽は初随喜の位と釈されているとあなたは言われているが、それは、天台・妙楽が名字即の位とも釈されているのを捨てるということであろうか。

 

講義

 

 まず初めに、問者は大通結縁の者を天台・妙楽は「名字・観行即の位」と定められたとしているが、答者は、その見解は厳密にいえば正しくなく、正確には天台・妙楽には「名字即の位」と釈しているとする。この問題は詳しくは第三答で論じられており、ここでは結論を示すにとどまっている。

 また大通結縁の第二類について問者は、観行即・名字即の位にあって、一念三千の法理を弁まえるほどの高い機根の衆生と位置づけている。そのように高い機根の大通結縁の第二類ですら法華経には耐えられず退転したのだから、まして末法劣機の衆生が到底法華経を行じうるはずがない、というのが問者の主張である。

 それに対して答者は、大通結縁の第二類を名字即とするのが天台・妙楽の義であるとするとともに、さらに踏みこんで、第二類の衆生の本質が法華経誹謗にあることを強調している。

 すなわち、第二類の彼等でさえ耐えられなかったという問者の言い分を打ち返して、法華経を捨てたがゆえに三千塵点劫もの間、悪道を流転したことを指摘する。このことは、今世では法華経を捨てるという念仏の輩は永劫に悪道に流転しなければならず、往生浄土は不可能であることを意味する。

 また問者は、法華経随喜功徳品に説かれている五十展転・一念随喜の人を観行即の最初である初随喜の位であり、末法の凡夫からはかけ離れた高位の者であるのに対し、答者は、それでは一念随喜の者を名字即の位とする天台・妙楽の釈を無視するのか、と反論している。

 この点についても天台・妙楽の釈を引いての詳しい論述は第三答に展開されており、ここでは、端的に問者の主張を退けることにとどめられている。

 問者が五十展転・一念随喜の人を高位に位置づけることも、大通結縁の場合と同様に「理深解微」を主張するための前提であることはいうまでもない。答者は、その位置づけに対し、名字即とする天台・妙楽の釈を示し、先の引用と矛盾しているではないか、と問者を破折しているのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0003:03~0003:10 第二答②

00010016 唱法華題目抄 0003:030003:10 第二答②

 

本文

 

  是を天台妙楽初随喜の位と釈せられたりと申さるるほどにては又名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか、所詮仰せの御義を委く案ずればをそれにては候へども謗法の一分にやあらんずらん其の故は法華経を我等末代の機に叶い難き由を仰せ候は末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無き事なりと仰せらるるにや、若しさやうに侍らば末代の一切衆生の中に此の御詞を聞きて既に法華経を信ずる者も打ち捨て未だ行ぜざる者も行ぜんと思うべからず随喜の心も留め侍らば謗法の分にやあるべかるらん、若し謗法の者に一切衆生なるならばいかに念仏を申させ給うとも御往生は不定にこそ侍らんずらめ又弥陀の名号を唱へ極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは何なる経論を証拠として此の心はつき給いけるやらん正くつよき証文候か若しなくば其の義たのもしからず、

 

現代語訳

 

 結局、あなたが言われた教義を詳しく考えてみるならば、恐縮ではあるが、謗法の一分ではないだろうか。その理由は、法華経をわれわれ末法の衆生の機に適さないといわれるのは、末法の一切衆生はこの穢土において法華経を修行しても無益であると言われていることになる。

 もしそうであるならば、末法の一切衆生の中には、あなたのそのお言葉を聞いて、既に法華経を信じていた者もこれから法華経を行じようとは思わなくなってしまうであろう。このように法華経による随喜の心をとどめるならばそれは謗法の分になるのではないだろうか。もし、一切衆生が謗法の者になるならば、いかに念仏を称えようとも往生はできないのである。

 また、阿弥陀仏の名号を称えれば西方極楽浄土に往生できる旨をいわれているのは、どのような経論を証拠としてこうした考えを言われているのか、確かな証拠となる経文があるのか。もし無ければ、念仏往生の義は信頼できるものではない。

 

現代語訳

 

 結局、法華経は末法の衆生の機に適っていないという念仏者の言い分は、現世において法華経を行じても無益であるとし、人々を法華経から遠ざけているのであるから、法華経への謗法に当たり、往生もかなうわけがないという主張が第二答の骨子である。

 そして、阿弥陀如来の名号を称えれば西方極楽浄土に往生するというのが浄土宗の教義の骨格であるが、そもそもいかなる経論にその根拠があるのかと逆に問いただされているのである。

 もとより、この点については、このあと詳しく論じられるように、観無量寿経に説かれる法蔵比丘尼の四十八願のうちの第十八願「念仏往生」の誓願にある。もちろん観無量寿経そのものが、法華経からみれば方便権教であって、仏の真実を明かした経典とは言えないのであるから、そこに説かれた内容は真実の根拠になり得ない。しかし、それは別として観無量寿経だけを見ても、第十八願には「誹謗正法と五逆の者を除く」とあるのであるから正法である法華経を誹謗する者が往生することはありえなということが、大聖人による浄土教破折の要点といえる。

 この第二答はすでにその基調が鮮明に現れており、念仏の教義が実際に人々の法華経信仰を破壊している以上、謗法以外の何ものでもないとする「念仏=謗法」という確固たる断定から本抄の念仏破折が展開されていることが拝せられる。

 そのうえで答者は、ここで問者に対し、阿弥陀による極楽往生について経論の証拠を求められているのである。それは彼らの依拠としているのが仏自身によって「四十余年未顕真実」と打ち破られた権教であることを明確にされるための布石の意味があると拝せられる。ゆえに第三問で念仏者が依拠とする経論を挙げるのを受けて、第三答と第八答で破折されるのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0003:10~0003:12 第二答③

00010016 唱法華題目抄 0003:100003:12 第二答③

 

本文

 

  前に申し候いつるがごとく法華経を信じ侍るはさせる解なけれども三悪道には堕すべからず候六道を出る事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか、但し悪知識に値つて法華経随喜の心を云いやぶられて候はんは力及ばざるか

 

現代語訳

 

 先程も言ったように、法華経を信じる人は、それほどの理解がなくても三悪道に堕ちることはない。六道を出ることについては一分の悟りがない人には難しいということであろうか。ただし悪知識に値って法華経随喜の心を壊された人は、三悪道に堕ちないという法華経の力も及ばないであろう。

 

講義

 

 まず法華経に対する信があれば、法華経への理解がなくても地獄・餓鬼・畜生といった三悪道には堕ちないとされ、その上で「六道を出る事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか」と述べられている。

 ここでその意味が問題となる。この御文について、本抄が天台附順の書であるとの理由で、少しの悟りも無ければ六道を出ることはできないという意味であると解釈する向きもあるが、それは本文の末尾に「か」という終助詞があることを無視しており、また、本抄全体の趣旨から考える場合、それは妥当ではないと思われる。

 なぜなら、本抄の第11問答では「妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり」として、法華経の題目を唱えることには六道を出るどころか「成仏」の功徳があることが明かされるからである。すなわち、悟りが無ければ法華経を行じても六道を出ることができないと解したのでは、第11問答の結論と矛盾することになる。

 したがって、この第二答の段階では、解がなくても三悪道に堕ちないということだけを結論されて、六道を出るために「一分のさとり」が必要かどうかという点は、問題として提示するにとどめて結論を保留されていると解するのが自然であろう。

 「有り難く侍るか」の「か」は、国語学的には体現または活用語の連体形に接して末文に置かれる終助詞で、①詠嘆の意を表す、②疑問を表す、③問いを表す、④反語を表す、⑤相手の同意を求める、などの意味があるが、この場合、先に述べた理由から、疑問を表す趣旨であると解せられる。

 すなわち、第二答末尾の意味は、法華経を信じたならば解はなくても三悪道に堕ちないことは間違いないが、六道を出るためには「一分のさとり」が必要であるかも知れない。とされ、ただし悪知識に縁して法華経随喜の心を破られた場合は三悪道に堕ちないということも叶わない、という趣旨になろう。

 また、後の第11問答において唱題による成仏の功徳を強調されるにも関わらず、第二問答の段階では六道を出るためには「一分のさとり」が必要か否かという点を疑問のままにされているということの意味は、後には大聖人独自の立場を明確に示されるにしても、ここではやはり、法華経の行には法華経の教理に対する理解が必要であるという天台の立場を一応は尊重され、それを直ちには否定しないという御配慮であると拝せられる。

0001~0016 唱法華題目抄 0003:12~0004:01 第三問

00010016 唱法華題目抄 0003:120004:01 第三問

 

本文

 

  又仰せに付いて驚き覚え侍り其の故は法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を智者申されしかばさかと思い侍る処に只今の仰せの如くならば弥陀の名号を唱うとも法華経をいゐうとむるとがによりて往生をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るはゆゆしき大事にこそ侍れ、抑大通結縁の者は謗法の故に六道に回るも又名字即の浅位の者なり又一念随喜五十展転の者も又名字観行即の位と申す釈は何の処に候やらん委く承り候はばや、又義理をも知らざる者僅かに法華経を信じ侍るが悪智識の教によて法華経を捨て権教に移るより外の世間の悪業に引かれては悪道に堕つべからざる由申さるるは証拠あるか、又無智の者の念仏申して往生すると何に見えてあるやらんと申し給うこそよに事あたらしく侍れ、雙観経等の浄土の三部経・善導和尚等の経釈に明かに見えて侍らん上はなにとか疑い給うべき、

 

現代語訳

 

 また、あなたのいわれたことに驚きを覚えた。なぜなら、法華経は末法の凡夫の機根に適さないと、念仏の智者が言われたので、そうかと思っていたところが、ただ今あなたが言われた通りであるならば、阿弥陀仏の名号を唱えても法華経を嫌う罪によって往生できないばかりか、悪道に堕ちるとうかがったことは容易ではない大事である。

 そもそも、大通結縁の者が謗法の故に六道に輪廻するとしても、名字即という浅位の者であり、また一念随喜・五十展転の者が名字即・観行即の位であると述べられている釈はどこにあるのであろうか。詳しく承りたいものである。

 また法華経の法理も知らないでいる者、わずかに法華経を信じている者が、悪智識の教えによって法華経を捨てて権教に移らない限り、それ以外の世間一般の悪業に引かれて三悪道に堕ちることはないと言われているのは証拠があるのか。

 また「無知の者が念仏を称えて往生するとはどこの経論に説かれているのか」と言われることこそ、まったく世にも珍しい質問である。雙観経等の浄土三部経や善導和尚などの経釈に明らかに説かれているからには何を疑われるのか。

 

講義

 

 この第三問で、念仏に執着する問者は次の諸点を主張する。

 ①智者は法華経は末代の機に適いがたいといわれているのに、法華経に背けば念仏しても往生できず、悪道に堕ちるとの話は信じ難いことである。

 ②大通結縁の者は名字即であり、五十展転・一念随喜の者は名字即・観行即であるとの釈はどこにあるのか。

 ③法華経を信ずる者は、法華経の義理を知らなくても悪知識に触れて法華経を捨てない限り悪道に堕ちない、というには証拠があるのか。

 ④無智の者が念仏を称えて往生するとはどこにあるのか、という質問は珍しい疑いである。浄土三部経や善導の釈に示されているから疑いの余地はない。

 このうち①は、先に答者が「法華経を嫌うならば念仏の信仰に励んでも無益である」と断じたことへの衝撃を示すものであり、答者に対して提示されている実質的な質疑・論難は②③④に限られる。しかし、これに対する応答も、この第三答では②と③に限定されており、④については後に譲られてここでは論じられていない。

 すなわち④については「依法不依人」「依了義経不依不了義経」の法理を論じられた第七段が解答になっている。つまり、浄土三部経は法華経に対比すれば不了義経であるから、そこに何が説かれていようとも、よりどころとしてはならないという論旨が、④への破折として展開されているのである。

 この第三問の④の論旨に見えるように、浄土三部経こそが念仏信仰の依処となっているのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0004:01~0004:07 第三答①

00010016 唱法華題目抄 0004:010004:07 第三答①

 

本文

 

  答えて曰く大通結縁の者を退大取小の謗法・名字即の者と申すは私の義にあらず天台大師の文句第三の巻に云く「法を聞いて未だ度せず而して世世に相い値うて今に声聞地に住する者有り即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給いて侍るを、妙楽大師の疏記第三に重ねて此の釈の心を述べ給いて云く「但全く未だ品に入らず、倶に結縁と名づくるが故に」文・文の心は大通結縁の者は名字即の者となり、又天台大師の玄義の第六に大通結縁の者を釈して云く「若しは信若しは謗因つて倒れ因つて起く喜根を謗ずと雖も後要らず度を得るが如し」文・文の心は大通結縁の者の三千塵点を経るは謗法の者なり例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしが如しと釈す

 

現代語訳

 

 答えて言う。大通智勝仏に結縁した者について、大乗を退転して小乗を取った謗法の者で名字即の位に当たるということは私の勝手な主張ではない。天台大師は法華文句第三の巻で「(大通智勝仏の十六人の王子が聞いた)法を聞いても未だ悟ることができず、その後、生まれるごとに師に会いながら、釈尊在世になってもまだ声聞の位にいる者がいる。これらは大通智勝仏の十六人の王子が法華経を説いた時の結縁衆である」と述べているのを、妙楽大師はこの天台大師の釈の本意について疏記の第三で「末だ五品に入っていない。いずれも結縁衆と名付ける故である」と述べている。

 これらの文の意は、大通結縁の者は名字即の者である、ということである。

 また、天台大師は、法華玄義の第六で大通結縁の者について「信じた者も謗じた者も共に悟りを得た。それは地によって倒れたものは地によって起き上がるように、勝意比丘が喜根菩薩を謗ったけれども後に必ず度脱したようなものである」と述べている。

 この文の本意は、大通結縁の者が三千塵点を経たというのは謗法の者のことであり、例えば勝意比丘が喜根菩薩を謗じたのと同様である、ということである。

 

講義

 

 これ以降は、第三問に示された「抑大通結縁の者は謗法の故に六道に回るも又名字即の浅位の者なり又一念随喜五十展転の者も又名字観行即の位と申す釈は何の処に候やらん委く承り候はばや」という質問の答えである。

 初めに大通結縁の者が名字即の位であることを、天台大師の法華文句とそれを釈した妙楽大師の法華文句記を引いて示され、また、大通結縁の者が、退大取小の謗法を犯したけれども逆縁によって救われることを、天台の法華玄義を引用して述べられている。

 「法を聞いて末だ度せず而して世世に相い値うて今に声聞地に生ずる者有り即ち彼の時の結縁の衆なり」との天台大師の釈は、法華経序品第一の「爾の時に世尊、四衆に囲繞せられ」と説かれる四衆に比して釈した文の一節である。この文の前の部分から引用するならば、次のようになっている。

 「類せば大通智勝仏の時の如し。王子の覆講は即ち彼の時に発起衆なり、法を聞き道を得るは即ち彼の当機衆なり、法を聞いて末だ度せず而して世世に相い値うて今に声聞地に住する者有り即ち彼の時の結縁の衆なり」

 ここで天台大師は、大通智勝仏の時に法華経に結縁しながら、その後、三千塵点劫のあいだ輪廻した者は大通智勝仏の時の発起・当機・結縁・影響の「四衆」の中の「結縁衆」に当たるとしている。

 この天台の法華文句の文を、更に重ねて釈したのが妙楽大師の法華文句記の「但全く末だ品に入らず、俱に結縁と名づくるが故に」の文である。ここでいう品とは、観行五品の位をさす。すなわち三千塵点劫流転の人々は、観行五品の最初の位である初随喜品に入っていない。それは「結縁衆」と名付けられる故である、ということである。

 それでは初随喜品の位とはいかなる位であろうか。天台大師は法華経分別功徳品第十七の文をもとに信心修行の段階に「現世の四信」と「滅後の五品」があることを説いている。四信は在世の弟子、五品は滅後の弟子に約したものである。滅後の五品のうち最初の随喜品を初随喜品という。その依文は「又復、如来の滅後に、若し是の経を聞いて、而も毀謗せずして随喜の心を起さん。当に知るべし、已に深信解の相と為す」である。すなわち初随喜品とは、法を聞いて誹謗せずに、随喜の心を起こす位をいう。

 さてそれでは、大通の時に結縁しながら退転した者はいかなる衆生であろうか。先ほどあげた文句の文の前に次のようにある。「力は引導撃動の能無く、徳は伏物鎮巌の用に非ず、而して過去の根浅く、覆漏汚雑し、三慧生ぜず、現世に見仏聞法すと雖も四悉壇の益なし、但だ未来得度の因縁を作る、此れを結縁衆と名く」と、要するに彼等は、ただ未来得度の因縁をつくっただけで、仏を見たり聞いたりはしたが、随喜の心を起こさず、それ故に退転して、三千塵点劫を悪道に展転したのである。このように法華経を聴聞して随喜の心を起こすこともできなかった者であるから、観行五品の最初の位である初随喜にも入らないことは明らかである。観行五品に入らないということは観行即には当たらず、法を聞いただけの位である名字即の者であるということである。

 先の法華文句の文で「若しは信」とは大通智勝仏の十六王子から法華経を聞き、その座で悟りを得た第一類を指し、「若しは謗」とは法華経を聞いて信を起こしても後に法華経を捨てた第二類、あるいは法華経を聞いても信ぜずに誹謗した第三類を指す。「因って倒れ因って起く」とは、大通結縁の第二類、三類は法華経誹謗の罪によって地獄に堕ちるが、法華経に縁したという因によって最後は成仏していくことをさす。

 また「喜根を謗ずと雖も後要らず度を得るが如し」と述べられている勝意比丘と喜見菩薩の説話については、諸法無行経に次のように説かれている。

 喜根菩薩が大衆の前において、少欲知足細行独処を称讃せず、衆生即是仏性を説いた。このとき勝意比丘は喜根菩薩を誹謗して地獄に堕ちたが、この逆縁によって成仏することができた、と。

 ここに引用されている天台・妙楽の文によれば、大通智勝仏の十六王子によって法華経に結縁しながら退転して三千塵点劫を流転した者は、観行即ではなく名字即の者であり、また正法誹謗の者であることは明瞭である。これによって「結縁の衆をば天台妙楽は名字観行の位にかんひたる人なりと定め給へり」とする問者の主張を破折されているのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0004:07~0004:10 第三答②

00010016 唱法華題目抄 0004:070004:10 第三答②

 

本文

 

  五十展転の人は五品の初めの初随喜の位と申す釈もあり、又初随喜の位の先の名字即と申す釈もあり疏記第十に云く「初めに法会にして聞く是れ初品なるべし第五十人は必ず随喜の位の初めに在る人なり」文・文の心は初会聞法の人は必ず初随喜の位の内・第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり。

現代語訳

 

 五十展転の人は五品の初めの初随喜の位であるとの述べている釈もあるし、また、初随喜の位の前の名字即であるという釈もある。法華文句記の第十には「五十展転で初めて法会において法華経を聞いた人の位は初随喜品であり、五十人目の人は、必ず随喜品の前の位の人である」と述べている。これは、最初に法界で法華経を聞いた人は必ず初随喜の位の内・第五十人は初随喜の位の前の名字即であるという釈である。

 

講義

 

 まず「五十展転の人は五品のうちの初めの初随喜の位と申す釈」については、法華文句に次のようにある。

 「第五十人は是れ初品の初めなり、初めは但だ一念の理解有り、但だ一念の慶己慶他有りて末だ事行有らず、恩は人に及ばず、獲る所の功徳を如来は巧に喩えたまふに功は無学を蓋ふ、況や復最初に会に於いて聞く者をや」

 この釈の意は、五十展転の説法は、第五十番目に法華経を伝え聞いた人をも初随喜品の位にあるとしてその功徳の大きさを示し、いわんや会座にて第一番目に法華経の説法を聴聞した人の功徳は絶大なものであるとして、法華経の功徳を強調するところにある、ということである。

 次に「初随喜の位の先の名字即と申す釈」について、本抄で例として引用されているのが、法華文句記第十の「初めに法会にして聞く是れ初品なるべし第五十は必ず随喜の位の初めに在る人なり」の文である。この文の意は、最初に法華経を聞いた人は初品すなわち初随喜の位であり、展転して五十番目に伝え聞いた人は初随喜の位の前、すなわち名字即の位にあたるというものである。

 このように天台・妙楽の釈には、五十番目に法華経を聞いた者について、初随喜とする例と、名字即とする例の両方がある。したがって、その一方だけに限定するのは偏った理解であり、天台・妙楽の釈を正しく認識しているとはいえない。それ故に問者が第二問で「一念随喜・五十展転と申すも天台妙楽の釈のごときは皆観行五品の初随喜の位と定め給へり博地の凡夫の事にはあらず」と、天台・妙楽の釈の一面しか見ない偏見と言わざるを得ない。そこで答者は問者に対して、「名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか」と、五十展転の者を名字即であるとする天台・妙楽のもう一方の見解を無視してはならない、と反論しているのである。

 つまり、この第三答の部分は、先に示された第二問答の議論を裏付ける内容になっているといえよう。

0001~0016 唱法華題目抄 0084:11~0004:15 第三答③

00010016 唱法華題目抄 0084:110004:15 第三答③

 

本文

 

  其の上五種法師にも受持・読・誦・書写の四人は自行の人大経の九人の先の四人は解無き者なり解説は化他後の五人は解有る人と証し給へり、疏記第十に五種法師を釈するには「或は全く未だ品に入らず」又云く「一向未だ凡位に入らず」文・文の心は五種法師は観行五品と釈すれども又五品已前の名字即の位とも釈するなり、此等の釈の如くんば義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も経文の一偈・一句・一念随喜の者・五十展転等の内に入るかと覚え候、

 

現在語訳

 

 そのうえ、天台大師は法華経法師品の五種法師について法華文句で五種修行の中の受持・読・誦・書写の四人は自行の人、涅槃経に九品の位を立てているうち前半の四品の人であり、五種法師の中の解説の人は化他の人、涅槃経の九品の位の内後半の五品の人は解のある人であることを明らかにしている。

 妙楽大師は、法華文句記の第十で「五種法師は全く未だ観行五品に入っていない」あるいは「五種法師は一向に未だ凡位には入っていない」と述べている。この文の意は、五種法師を観行五品と解釈しているが、また、観行五品の前の名字即の位であるとも解釈しているのである。

 これらの解釈によるならば、法華経の教義や法理を知らない名字即の位の凡夫が法華経で随喜するなどの功徳も、法華経の経文の一偈・一句を聞いて一念随喜する人々、および五十展転の人などの功徳の内に入ると思われる。

 

講義

 

 前に述べたように、第三問は、以下の四つの内容からなっている。

 ①智者は、法華経は末代の機に適いがたいと言われているのに、法華経に背けば念仏しても往生できず、悪道に堕ちるとの話は信じ難いことである。

 ②大通結縁の者は名字即であり、五十展転・一念随喜の者は名字即・観行即であるとの釈はどこにあるのか。

 ③法華経を信ずる者は、法華経の義理を知らなくても悪知識に触れて法華経を捨てない限り悪道に堕ちない、というのに証拠があるのか。

 無智の者が念仏を称えて往生するとはどこにあるのか、という質問は珍しい疑いである。浄土の三部経や善導の釈に示されているからには疑いの余地はない。

 これに対し第三答では②③に回答されているが、この段以降は③に対する回答となっている。

 その内容を整理すれば、次の論点から成る。

 一、五種法師は名字即の位である。

 二、経文に説かれている一念随喜・五十展転の功徳の中に、末法の凡夫の法華経随喜の功徳も含まれる。

 三、法華経に説かれる様々な違背の罪、随順の功徳は、末法の凡夫のために説かれたものである。

 四、そのことについて天台・妙楽は、法華経に説かれる一念随喜とは聖人の振る舞いのことであると釈す者は謗法であると定めている。

 五、「五十展転」が説かれたのは、末代の無智の者がわずかでも随喜する功徳さえ、いかに偉大であるかを示すためである。

 六、法華経を行ずる者に対して、念仏の善導・法然らが「雑行」「群賊」などと誹謗していることは、阿鼻地獄の炎を招く所行である。

 以上の論点を順を追って考察していくことにしたい。

 この段では天台・妙楽の釈を通して、五種法師が妙字即の位であることを示されている。

 五種法師とは、法華経法師品第十に説かれる受持・読・誦・解説・書写の五種の妙行を修行する法師のことで、①受持法師、②読経法師、③誦経法師、④解説法師、⑤書写法師の五師をいう。

 天台大師は法華文句巻八上に「此の品に五種の法師あり、一に受持・二に読・三に誦・四に解説・後に書写なり…別して論ずれば、四人は是れ自行、一人は是れ化他なり、大経に九品を分つ、前の四人は解なければ是れ弟子の位、後の五人は解有れば是れ師の位なり」と述べ、五師法師のうち受持・読・誦・書写の四人を自行とし、解説を化他としている。また涅槃経第六の四依品に説かれる九品について、先の四人を解なき人とし、後の五人を解ある人とするのである。

 涅槃経四依品に説かれる九品とは次の通りである。

 一品、若し衆生有りて、煕連河沙の諸の如来の所に於て菩提心を発さば、乃ち是の悪世に於て、是の如き経典を受持して、謗法を生ぜざらん。

 二品、一恒河沙の諸の如来の所に於て菩提心を発さば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜず、是の典を愛楽せんも、人の為に分別して広く説くこと能はじ。

 三品、二恒河砂の諸の如来の所に於て菩提心を発さば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜず、正解し、信楽し、受持し、読誦せんも、亦復人の為に広く説くこと能はじ。

 四品、三恒河砂の諸の如来の所に於て菩提心を発さば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜず、受を持し、読誦し、経巻を書写せん。他の為に説くと雖も末だ深義を解せじ。

 五品、四恒河砂の諸の如来の所に於て菩提心を発さば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜず、受を持し、読誦し、経巻を書写し他の為に広く十六分の中の一分の義を説かん。復演説すと雖も亦具足せじ。

 六品、五恒河砂の諸の如来の所に於て菩提心を発さば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜず、受を持し、読誦し、経巻を書写し他の為に広く十六分の中の八分の義を説かん。

 七品、六恒河砂の諸の如来の所に於て菩提心を発さば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜず、受を持し、読誦し、経巻を書写し他の為に広く十六分の中の十二分の義を説かん。

 八品、七恒河砂の諸の如来の所に於て菩提心を発さば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜず、受を持し、読誦し、経巻を書写し他の為に広く十六分の中の十四分の義を説かん。

 九品、八恒河砂の諸の如来の所に於て菩提心を発さば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜず、受を持し、読誦し、経巻を書写し、亦他人に勧めて書写を得せしめ、自ら能く聴受し、復他人を勧めて聴受し、読誦通利し、擁護堅持することを得せしめん。世間の諸の衆生を憐愍するが故に、是の経を供養し、亦他人を勘めて其をして供養し、恭敬し、尊重し、読誦し、礼拝せしめん。亦復是の如く具足して能く解し、其の義味を尽くさん。

 以上の九品のうち、一品から四品までは、受持し、読み、誦し、書写するが、末だ義理を解して他人に説くことはできない。ゆえに「自行」といえる。五品から九品までは受持・読・誦・書写にとどまらず義理を解したうえで他のために説くので「化他」となる。

 この涅槃経に説かれる九品とは、仏滅後正法を護持し弘通して人々のよりどころとなる四種の人格の行を示したのである。天台大師は、涅槃経に説かれる四依と法華経法師品で説かれる五種法師について、いずれにも「解無き者」が含まれるとして、教理の理解がなくても仏法を行じ得ることを示したものである。

 また、妙楽大師は五種法師については「或は全く末だ品に入らず」「一向末だ凡位に入らず」と釈しているが、その現文は法華文句記第十の釈法師品にある次の文である。

 「問う此の品、既に是れ随喜の果を云う。法師の名は何を以て前を指すか。答う、弟子は初後に通ず。法師は唯、二三義に亦後の二を兼ぬ。或は全く末だ品に入らず。何者ぞ。若し五品を以て六根の中に入るれば、五師は但だ六根の因と為すのみ、縦えば五品を以て六根の外に在りとせば、五師は観行を修すとは云わず。…若し具に位に約して之を簡べれば、一向末だ凡位に入らず

 この文を釈せば、次のようになろう。

 問うていうには、この法師功徳品は法華経を随喜する果を説いている。何をもって法師という名は前品を指すというのか。

 答えていういは、弟子というのは観行五品の初品から第五品までのすべてに通ずる。法師は第二・第三の義で、そこに第四・五品を兼ねている。あるいは全く観行五品には入らないのである。その理由は、もし観行五品をもって六根清浄の因となるだけであり、もしも観行五品が六根清浄の功徳の外にあるとすれば、五種法師の位を述べるならば、品位に入らないのであり、名字即となるのである。

 このように天台・妙楽は、法華経に説かれる大通結縁・五十展転・五種法師等を、すべて名字即の位であると釈している。したがって、法華経は決して高位の人のために説かれた経典ではなく、むしろ解を十分に持たない凡夫のための経典でることが明確となる。答者は、この点を強調することによって、法華経が高い機根のための経典であるから末法の凡夫には相応しくないとする念仏者の主張を破折しているのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0004:15~0005:02 第三答④

00010016 唱法華題目抄 0004:150005:02 第三答④

 

本文

 

  何に況や此の経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬喩品に委くとかれたり持経者を謗ずる罪は法師品にとかれたり、此の経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり謗法と申すは違背の義なり随喜と申すは随順の義なりさせる義理を知らざれども一念も貴き由申すは違背随順の中には何れにか取られ候べき、又末代無智の者のわづかの供養随喜の功徳は経文には載せられざるか如何、其の上天台妙楽の釈の心は他の人師ありて法華経の乃至童子戯・一偈・一句・五十展転の者を爾前の諸経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば謗法の者と定め給へり、

 

現代語訳

 

 まして、法華経を信じない謗法の者の罪業は譬喩品に詳しく説かれている。また法華経の持経者を誹謗する罪は法師品に説かれている。更に法華経を信じる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説かれている。

 謗法というのは、正法に違背するという意味であり、随喜というのは、正法に随い順ずるという意味である。法華経の教理がそれほど分からなくても、法華経が貴いことを少しでもいうことは違背と随順の中ではどちらに取るべきであろうか。また、末法に無智な者がわずかに供養し随喜する功徳は経文で説かれていないということであろうか。

 

講義

 

 その上、天台大師や妙楽大師の釈の本意は、戯れに砂を集めて仏搭を作り、指で仏像を描く童子、法華経の一偈・一句をきいて随喜する者、五十展転の者について、爾前諸経に見られるような機根の勝れた聖者の修行であると解釈しているのを、謗法の者と定められたのである。

 ここで、正法への誹謗と随順という行為がもたらす罰と功徳が法華経の中に明確に説かれていることを挙げられ、そうした罰と功徳は末法の衆生にもあてはまることを述べられている。

 最初に、法華経を信じない謗法の罪について説かれているものとしては譬喩品、同じく法華経を謗ずる者の罪については法信品、また法華経を信ずる功徳については分別功徳品と随喜品があることを指摘されている。

 譬喩品第三では法華経を信ぜず誹謗する罪について、次のように説かれる。

 「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則一切、世間の仏種を断ぜん、或は復顰蹙して、疑惑を懐かん、汝当に、此の人の罪報を説くことを聴くべし、若しは仏の在世、若しは滅度の後に、其れ斯の如き経典を、誹謗すること有らん、経を読誦し書持すること、有らん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん、此の人の罪報を、汝今復聴け、其の人命終して、阿鼻獄に入らん、一劫を具足して、劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん、地獄より出でては、当に畜生に堕つべし」

 更に譬喩品は、法華経を誹謗した者が畜生あるいは人と生まれた場合の罪報の姿を述べ「斯の経を謗ぜん者、若し其の罪を説かんに、劫を窮むとも尽きじ」と、その罪がいかに深く大きいかを強調している。

 次に法師品には法華経の行者を謗ずる罪について次のように説かれている。

 「若し悪人有つて、不善の心を以つて、一劫の中に於いて、現に仏前に於いて常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。若し人一の悪言を以つて、在家出家の法華経を読誦する者を毀訾せん、其の罪甚だ重し」

 更に偈においては次のように説かれる。

 「若し一劫の中に於いて、常に不善の心を懐いて、色を作して仏を罵らんは、無量の重罪を獲ん、其れ、是の法華経を読誦し持つこと有らん者に、須臾も悪言を加えんは、其の罪報彼に過ぎん」

 以上の二つの文とも、不善の心をもって一劫という長遠の間仏を罵しる罪よりも、法華経を持つ者に瞬時の間でも悪言を加えた罪の方が重いとして、法華経の行者を誹謗する罪の重さを説いたものである。

 また、分別功徳品第十七で説かれる法華経を信ずる者の功徳としては、現在の弟子に約した「五品」がある。

 「四信」とは、一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成であり、「五品」とは、初随喜品、読誦品、説法品、兼行六度品、正行六度品でる。

 現在の四信の最初の一念信解については、次のようにある。

 「其れ衆生有つて、仏の寿命の長遠是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量有つこと無けん。若し善男子・善女人有つて、阿耨多羅三藐三菩提の為の故に、八十万億那由他劫に於いて、五波羅蜜を行ぜん。檀波羅蜜・尸羅波羅蜜・・提波羅蜜・毘梨耶波羅蜜・禅波羅蜜なり、般若波羅蜜をば除く。是の功徳を以つて、前の功徳に比ぶるに、百分・千分・百千万億分にして其の一にも及ばず。乃至算数・譬喩も知ること能わざる所なり」

 一念信解とは、法華経の法理を聞いて一念に信解を起こすことで、信心修行の最初をいうが、その一念信解の功徳であっても、これを八十万億那由他劫の間、布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五波羅蜜の功徳は一念信解の功徳に対して百千万億分の一にも及ばないというのである。

 次に、滅後の五品のうち最初の初随喜品については次のように説かれている。

 「又復、如来の滅後に、若し是の経を聞いて、而も毀訾せずして随喜の心を起さん。当に知るべし、已に深信解の相と為す」

 随喜品とは、法華経を聞いて随喜の心を起こすことであり、その境地はすでに深く信解した相になると説かれている。

 現在の四信の初位の一念信解も、滅後の五品のはじめの初随喜も、ともに法華経を信じたというだけの位であるが、その功徳は無量無辺であると述べられているのである。

 更に随喜功徳品第十八に説かれる法華経を信ずる者の功徳とは、いわゆる「五十展転の功徳」である。

 五十展転については次のように説かれている。

 「世尊滅度の後に、其れ是の経を聞くこと有つて、若し能く随喜せん者は、幾所の福をか得為き、爾の時に仏、弥勒菩薩摩訶薩に告げたまわく、阿逸多、如来の滅後に、若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び余の智者、若しは長、若しは幼、是の経を聞いて、随喜し已って、法会より出でて余処に至らん。若しは僧坊に在り、若しは空閑の地、若しは城邑・巷陌・聚落・田里にして、其の所聞の如く、父母・宗親・善友・知識の為に、力に随って演説せん。是の諸人等、聞き已って随喜して、復行いて転教せん。余の人聞き已って、亦随喜して転教せん、是の如く展転して、第五十に至らん。阿逸多、其の第五十の善男子・善女人の随喜の功徳を、我今之を説かん、汝当に善く聴くべし」

 このように仏の滅後に法華経を聞いて随喜して人に伝え、第五十番目に伝え聞いた人の功徳について随喜功徳品では、

 「我今分明に汝に語る、是の人、一切の楽具を以つて、四百万億阿僧祇の世界の、六趣の衆生に施し、又、阿羅漢果を得せしめん。所得の功徳は、是の第五十の人の法華経の一偈を聞いて、随喜せん功徳には如かじ。百分・千分・百千万億分にして其の一にも及ばじ。乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり。阿逸多、是の如く第五十人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚無量無辺阿僧祇なり」

 と説かれている。

 すなわち、一切の娯楽の具をもって無数の世界の六道の衆生に施し、そしてまた小乗の最高位である阿羅漢果を得せしめることによって得る功徳さえも、法華経を五十展転して伝え聞き、わずかに随喜する功徳に比べ百千万億分の一にも及ばないというのである。

 このように法華経では法華経を誹謗する罪と、その反対に、行じて随喜する功徳がいかに大きいかが説かれている。しかも、これらの罰と功徳は果報として現実相の上に顕われるとされる。寿量品において釈尊の本国土は現実の「娑婆世界」であると説き、また薬草喩品で「現世安穏・後生善処」と現世の功徳を強調いていることからも明らかなように、法華経はあくまでも仏法の正邪が現実の上に「実証」として顕われるものと見ているのである。

 次に「謗法と申すは違背の義なり随喜と申すは随順の義なり」の御文では「謗法」と「随喜」の本質を示されている。

 「謗法」とは「誹謗正法」の略で、正法を信ぜずに誹謗することをいう。妙楽大師が法華経譬喩品の文をもとに「十四誹謗」を分類して示しているように、謗法の態様はさまざまであるが、要するに謗法の本質は「法に背く」ことにある。すなわち、浅はかな己義や劣る法に執着して、正法に背を向けて信受しないことが謗法の本質といえる。

 逆に「随喜」は、身心ともに正法に随順することである。御義口伝に「随順とは信受なり」(0739:第十四随順是師学の事)と仰せのように、浅はかな己義や劣る法に執着するのではなく、正法を信受し、これに随順することで、それにより、その生命は歓喜に満たされていくのである。

 人が正法に接する場合、そこに生まれる態度としては、根本的には「随順」か「違背」かのいずれかに分かれる。それ故に答者は問者に対して「させる義理は知らざれども一念も貴き由申すは違背随順の中には何れかに取られ候べき」と、ほんの一瞬でも法華経を賛嘆する行為は違背・随順どちらに当たるのかと、詰め寄っているのである。

 次下の「又末代無智の者のわづかの供養随喜の功徳は経文には載せられざるか如何」の御文の本意は、いうまでもなく、法華経に説かれる功徳と罰の法理が、普遍的な法理として末法においてもあてはまることを言われるところにある。それは、念仏宗では、末代の衆生は法華経では救われないとして「理深解微」などと言っているが、法華経では、そうした「解」を持たない無智の者がわずかに供養・随喜するだけでも偉大な功徳があると説かれている事実を取り上げられることによって、念仏宗の言い分を打ち破り、法華経が本来“義理を知らない名字即の凡夫”のための経典であることを示されているのである。

 次に、法華経方便品で説かれる童子戯、あるいは法師品に説かれる一念随喜や分別功徳品で説かれる五十展転は聖人の修行であると解釈して、末代の凡夫にはあてはまらないなどと言う人師は謗法であると天台・妙楽が定めていることを明かされている。

 この「童子戯」は方便品に次のように説かれているのを略したものである。

 「童子の戯れに、沙を聚めて仏搭と為れる 是の如き諸人等皆已に仏道を成じき」

 「童子の戯れに、若しは草木及び筆、或は指の爪甲を以って画いて仏像を作せる。是の如き諸人等、漸漸に功徳を積み 大悲心を具足して、皆已に仏道を成じき」

 また「一偈・一句」とは法師品に、

 「仏薬王に告げたまわく、又如来の滅度の後に、若し人有って、妙法蓮華の、乃至一偈一句を聞いて、一念も随喜せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く」

 と説かれているのを指す。

 これらの経文はいずれも、法華経が偉大であるがゆえに、わずかな「善行」も成仏への因となることを説いたもので、したがってこの童子戯、一念信解などについて「上聖の行義」と位置付けること自体、いかに経文の趣旨を歪曲した邪説であるかが明らかである。それ故に、天台・妙楽は、そうした説をなす人師を謗法の者と破折しているのである。

 この「天台・妙楽の釈」は法華文句にあり、方便品の童子戯の文について地論宗の人師の釈を破しているところである。

 「地師解して云く、童子は是れ童真地にして、二乗凡夫の二辺の欲心無し、砂を聚めて搭と為す。砂は是れ無著、搭は是れ衆行なり、積集して正覚の心を含蔵すと、彼は謂く、義は無生に会す、以て深詣と為すと、今謂く文に乖き豎狭なり、何となれば登地は自ら応に成仏すべし、修羅の海を渡るが如し、何ぞ奇と為すに足らん、今童稚の戯砂の乱心の歌詠、微を指すに即ち著なるを以て、凡夫の海を渡るが如く不可思議なり。

 「地師、童真地と言うは、地に童真の名を立つ。但古人の云く住を能住と為し、地を所依と為す。故に住の名を以て地と名づく…故に今謂くの下、責して文に乖くというは文中に但童子という故なり」

 ここで、天台大師が地論師の説を「文に乖く」ものであると一言に打ち破っているように、まさにこの地論宗の解釈は法華経の文意を恣意的に歪曲したものである。謗法の本質は正法への違背であることから、童子戯を高位に位置付ける説は謗法と断定されるのである。

 天台大師が「謗法」と断じて破折したのは地論宗の人師であったが、大聖人がここでこのことをとりあげられている本意は、「理深解微」を理由に法華経は末法の衆生には適合しないと主張している念仏宗を「謗法」と断じられることにある。

 ここで法然がよりどころとした、中国浄土宗の大成者とされる善導について若干触れておきたい。

 善導は三論宗の吉蔵、法相宗の玄奘などと同時代に、唐王朝の最盛期に活動した人物である。法然が「偏へに一師に依る」と述べているように、日本浄土教は教義的基礎をほとんど全面的に善導の教義に依処した。「千中無一」の言葉に象徴されているように、念仏一行の「専修」を説くとともに観想念仏にたいして称名念仏を強調したことがその主張の大きな特徴で、法然はその所説に依存したのである。

 善導は「観無量寿経」などの浄土教典をその所説の基盤にしたが、その場合、経文を改ざんしたり、恣意的な経典解釈をしている。例えば、善導は称名念仏を強調するために観無量寿経で説かれる法蔵比丘の誓願の中心となる第十八願を書き換えている。

 すなわち、経典の原文は「もし、われ仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽して我が国に生まれんと欲して乃至十念せん。もし生れずば、正覚を取らじ、唯五逆と正法を誹謗するものとを除く」であるが、これを善導は次のように書き換えている。

 「もし、われ仏を成ぜんに、十方の衆生、我が国に生まれんと願い、わが名字を称して下十声に至らん、我が願力に乗じて。もし生まれずば正覚を取らじ」

 すなわち、善導は「専念」「称念」「十声」「一声」「口称」など、経文の原文にはない言葉を経文の中に挿入し、原文の意味を恣意的に曲げて解釈している。しかも「唯五逆と正法を誹謗するものとを除く」の部分を削除してしまったのである。

 こうした経典の改ざんは、善導だけでなく善導の師・道綽にも見られる態度であるが、いずれにしても、自らの主観的な立場を経文の客観的な意義よりも優先される。極めて自分勝手な在り方といわなければならない。近年の学者からも「彼等の尊重する経典そのものに対しても、近年の学者からも「彼等の尊重する経典そのものに対しても、彼等みずからのこととしても、極めて不忠実な、恣な、また甚しく不用意な、しわざであったことには違ひない」と批判される所以である。したがって善導の所説は、彼が依拠する「観無量寿経」などの経典解釈からしても「己義」に満ちたものになっているのである。

 善導が客観的な文証よりも自身の主観を重視したことは、いわゆる「夢中見仏」を強調することにも現れている。『観経疏』の末尾には善導が霊験を求めて、夢の中で仏を見た体験を述べているが、自らの「夢」を教義を裏付ける根拠にしているところに、客観的な裏付けを無視して、自らの主観に埋没した基本的態度がうかがわれる。法然はこうした善導をさして「三昧発得の人」と崇拝したのであるが、善導が得たと称する「三昧」の内実は、要するに単なる「夢」に過ぎず、仏の悟りとはおよそかけ離れたものだったのである。

 また、善導の所説の大きな特徴は、人間の罪業の深さを強調したことである。善導は「決定して、深く自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と述べて、凡夫の罪悪の深さを繰り返し説き、その救済は仏の慈悲にすがる以外にないとする他力本願へ導いたのである。

 ただし、法然に比べれば、まだ観想・懺悔の重要性を認めており、称名念仏の一行に徹してはいない。例えば『観経疏』の「定善義」では、太陽を通して観想する際に自身に罪障を感じたならば、過去より作った十悪・五逆・謗法・闡提などの罪を深く懺悔し、雨のように涙して骨を切るほどに自らを責めなければならないと説いている。

 更に善導は、現世の人間世界を「苦界」「魔郷」として、そこからの逃避を強調した。その著作には、次のように、現実世界を偽りと悲嘆に満ちた世界とする言葉が続いている。

 「娑婆は苦海なり、雑悪同じく居して八苦相焼動して違反を成ず。詐り親しみて笑を含む、六賊常に随いて三悪の火抗臨々として入りなんと欲す。

 「魔郷には停まるべからず…至る処に余楽なく、唯愁歎の声のみを聞く」

 このように人間の罪業を強調し、現世の醜悪を説いた善導の言葉は、現実社会の苦しみにあえぐ当時の中国民衆の心を巧みにとらえた。

 こうして善導は、人々に現世での幸せを諦め、死後の浄土への往生を願わせたのである。そして、そのため、読誦・礼拝・懺悔などの儀礼・行法を整理するなど、従来の浄土教の枠を超えて、民衆階層に食い込むことに力を注いだ、その結果、善導は、首都・長安を中心に多くの信者を獲得することに成功した。善導の教化活動を見聞した立宗の開祖・道宣は『続高僧伝』にその様子を「既に京師に入りて広く此の化を行ず。弥勒経数万巻を写す。士女の奉ずる者、その数は無量なり」と述べている。

 ただし、民衆への布教は、人々を現世へと絶望と逃避に駆り立てる類いのものであったから、信者の中には浄土往生を憧れるあまり自殺する者が跡を絶たず、特に阿弥陀の名を念じて死ねば浄土に生まれると善導から言われた信者が、その直後に寺の前の柳の木で縊死しようとして墜落死した事件は、当時の政府にまで知られたといわれ、後にはこの事件が善導自身のこととして伝えられ、そのように理解するのが一般的となった。大聖人もこの説を用いられている。

 このように民衆の現実への絶望感に迎合して多くの帰依者を得た善導は、一方で、政府当局とも深く結びついていたと推側される。それをうかがわせるのは、洛陽の龍門石窟の大仏造営に関わったことである。当時の皇帝・高宗と皇后の発願による国家事業である大仏造営に、善導は検校僧として重要な役割を担っていた。また善導が長安の都を代表する大寺院・慈恩院に居住することを許されていたこと、あるいは皇帝・皇后・皇太子の長命を願う願文がその著『法事讃』の末尾に記されていることなどは、国家体制に順応・妥協することを基本とした善導の姿勢を示しているといえよう。

 次に日本の法然も本抄に「智慧第一の法然上人は法華経等を行ずる者をば祖父の履或は群賊等にたとへられたり」と述べられているように、善導を受け継いで念仏専修を主張し法華経の信仰を排斥した。

 「群賊」とは、観経疏のいわゆる「二河白道の譬喩」で、念仏以外の教えを行ずる者を譬えた言葉である。すなわち観経疏で善導は「群賊等喚び廻すと言うは、則ち別解別行悪見の人等、妄りに見解を説いて迭に相惑乱し、及び自ら罪を造りて退失するに喩うるなり」と述べている。法然は、この善導の言葉を受けて選択集に「一切別解・別行・異学・異見等と言ふは、これ聖道門の解行・別行・異学・異見等と言ふは、これ聖道門の解行学見を指すなり」と。法華経を含めて念仏以外の行を勘める者を「群賊」に当たるとしたのである。

 なお、「祖父の履」の言葉は法然の言ではなく、守護国家論に「或は祖父が履に類し聖光房の語」(0047:17)とあるところから、法然の弟子の聖光房の言葉であると考えられるが、出処は明らかではない。

 大聖人はこのように法華経を誹謗し法華経の信仰を排撃するのはまさに法華経譬喩品の「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば」に当たる故に、この譬喩品に断じられているように無間地獄に堕ちると警告されたのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0005:02~0005:11 第三答⑤

00010016 唱法華題目抄 0005:020005:11 第三答⑤

 

本文

 

  然るに我が釈を作る時機を高く取りて末代造悪の凡夫を迷はし給わんは自語相違にあらずや故に妙楽大師五十展転の人を釈して云く「恐らくは人謬りて解せる者初心の功徳の大なる事を測らず而して功を上位に推り此の初心を蔑る故に今彼の行浅く功深き事を示して以て経力を顕わす」文・文の心は謬つて法華経を説かん人の此の経は利智精進・上根上智の人のためといはん事を仏をそれて下根下智末代の無智の者のわづかに浅き随喜の功徳を四十余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事を顕わさんとして五十展転の随喜は説かれたり、故に天台の釈には外道小乗権大乗までたくらべ来て法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり、所以に阿竭多仙人は十二年が間恒河の水を耳に留め耆兎仙人は一日の中に大海の水をすいほす此くの如き得通の仙人は小乗・阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫には百千万倍劣れり、三明六通を得たりし小乗の舎利弗・目連等は華厳・方等・般若等の諸大乗経の未断三惑の一通もなき一偈・一句の凡夫には百千万倍劣れり華厳・方等・般若経を習い極めたる等覚の大菩薩は法華経を僅かに結縁をなせる未断三惑・無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由釈の文顕然也、

 

現代語訳

 

 しかしながら、念仏の諸師が、法華経を釈する時に、これらの者の機根を高位に取って解釈し、法華経は末法の衆生の機根に適さない教えであるとして、末法の悪業を重ねている凡夫を迷わしているのは、末法の凡夫を救おうと自ら言っていることに矛盾しているではないか。

 それ故に妙楽大師は、五十展転の人を釈して、次のように述べている。

 「恐れるべきは、法華経を誤って理解した人が、法華経の初心の功徳の大きいことを理解できずに法華経の功徳は上位の者のためにあるとして、この初心の者を侮ることである。このゆえに仏は五十展転の功徳を説いて、初心の者の行が浅くても功徳は深いことを示し、これによって法華経の力の絶大なることを顕したのである」 

 文の意は、法華経を誤って説く人が「法華経は、智慧に優れ精進に励む機根の優れた人のために説かれたものだ」と主張することを仏が恐れて、機根も低く智慧もない末法の衆生が、法華経を聞いて、わずかに浅く随喜した功徳でさえも、四十余年の諸経を修行する智者の功徳に勝ることを顕そうとして五十展転の随喜の功徳を説いた、ということである。

 それ故に天台大師は、外道から小乗権、権大乗経までを順に比較し、法華経の最も低い功徳が、それらの教えの功徳よりも勝れていることを述べたものである。

 すなわち外道の阿竭多仙人は十二年の間ガンジス川の水を耳に留め、耆兎仙人は一日で大海の水を吸い干したというが、このような通力を得た仙人であっても、小乗経である阿含経を修行する三賢という浅い位の、一つの通力もない凡夫に比べると百千万倍も劣っている。

 また三明六通という通力を得た小乗の舎利弗や目連などは、華厳経や方等経・般若経などの諸大乗経を修行しても三惑を末だ断じることができず、一つの通力も持っていない諸大乗経の一偈・一句を修行しているだけの凡夫に比べて百千万倍も劣っている。更に、華厳経や方等経・般若経を習い極めた等覚位の大菩薩であっても、法華経に少しばかり結縁しただけで、未だ三惑を断ぜず、造らない悪業はないといった末法の凡夫に比べて百千万倍も劣っているのである。

 以上の趣旨が、天台のこの釈に明確に述べられているのである。

 

講義

 

 本文に示されているように、天台・妙楽は、法華経随喜功徳品の五十展転について、法華経が下根下智の衆生のための経典であることを示すために、法華経の経力の絶大であることを説あれたのであるとしている。

 随喜功徳品は、前品の分別功徳品を受け、分別功徳品に説かれた「四信五品」の功徳のうち、五品の第一である「初随喜」の功徳を詳説した品とされる。初随喜は、滅後の五品のうちの最初の段階であるから、その最初の功徳の偉大さを示すことによって、第二品以降の功徳の更に大きいことを示すことによって、第二品以降の功徳の更に大きいことを示すことにその趣旨があったのである。品名の「随喜」はサンスクリットの「アヌモダナー」の訳語で、教えを聞いて心に喜びを感ずること、または他人が善行を修めるのを見て喜ぶことをいう。

 この品は冒頭で、弥勒菩薩が仏に対し、「世尊、若し善男子、善女人有って、是の法華経を聞きたてまつりて随喜せん者は、幾所の福をか得ん」と、法華経を聞いて随喜する功徳がどれくらいであるかを質問し、それに答えて説かれているのが、いわゆる五十展転の功徳である。

 その文は先に挙げた通りであるが、そこに明らかなように、五十展転の説法は単に聞法の功徳だけを説くものではない。その前提には「転教」とある通り、他に対して法を説く「弘通」の行動が強調される。しかも、その弘通の担い手は、男女・僧俗・年齢などの立場を超えて法華経の法理を信受するすべての人であり、また、弘通の場は「城邑・巷陌・聚楽・田里」とあるように民衆の生活の舞台そのものであある。いわば、五十展転の説法は民衆自身による民衆への実践が、その前提と陌あっている。

 また、随喜功徳品で説かれる「功徳」も、極めて具体的で分かり易い。すなわち、法華経という経典を共に開こうと他者に呼び掛け、わずかの間でもその教えを聞いた人は、以後の生において「利根にして智慧」ある身となり「唇・舌牙歯、悉く皆厳好ならん。鼻修く、高直にして、面貌円満に、眉高くして、長く、額広く、平正にして、人相具足」した完璧な容貌・容姿に恵まれると説かれている。

 このように卑近な具体的な功徳が示されているところにも法華経の民衆性がうかがえる。

 法華経が高位の衆生のための経ではなく、むしろ民衆に開かれた経典であることを、法華経自身が証明しているのである。この法華経の民衆性を意図的に無視して、法華経は高位の衆生のための経典であると主張して末代には無用であるとしたのが浄土宗の勢力であった。大聖人は、この浄土宗と同じ主張をした地論宗を打ち破った天台・妙楽の釈を引かれて浄土宗を破折されているのである。

 また、天台大師は法華文句巻十上で、次のように外道・小乗経・権大乗経を順に対比することによって、法華経を聞いて一念随喜する人の功徳が優れていることを示している。この趣旨を大聖人は分かりやすく述べられているが、文句の文を挙げると次の通りである。

 「外道の五通を得る者は能く山を移し海を竭す、而れども見愛を伏せず、煖法の人に及ばず、二乗の無学は子果俱に脱するも、猶涅槃の縛を被りて、其因果俱に権なるを知らず、通経の人は修因は功なりと雖も、発心は五百由旬を識らず、得果は止だ四住を除くのみ、別人は二乗に勝ると雖も、修因は則ち偏にして其門又拙し、仏の讃する所に非ず、皆初随喜の人に及ばず」。

 すなわち、神通力を持つ外道が山を動かし海を竭らすことができても煩悩を消すことができず煖法の人に及ばない。また二乗を極めた者は涅槃にしばられて、その因果が仮の教えであることを知らない。通経の人は大乗を修めても仏の悟りが五百由旬という長い道程であることも知らず、得果は四住の煩悩見思惑を除くだけである。菩薩である別教のひとは二乗に勝るとはいえ、修めた因は偏頗であって、その門は拙く、仏が賛嘆するものではない。以上、いずれも法華経を聞いて随喜した人にはまったく及ばない、というのである。この天台の釈を、大聖人の御文を対比させると次のようになる。

 すなわち「阿竭多仙人・耆兎仙人等の得通の仙人」は「外道の五通を得る者」、「小乗・阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫」は「煖法の人」にあたり、「三明六通を得たりし小乗の舎利弗・目連等」は「二乗の無学」、「華厳・方等・般若の諸大乗教の末断三惑の一通もなき一偈・一句の凡夫」は「通教の人」にあたる。さらに「華厳・方等・般若経を習い極めたる等覚の大菩薩」は「別人」、「法華経を僅かに結縁をなせる末断三惑・無悪不造の末代の凡夫」は「初随喜の人」にあたる。

 五十展転の五十番目の人こそ「法華経を僅かに結縁をなせる」人であり「初随喜の人」である。御義口伝では「五十人とは一切衆生の事なり」(0799:随喜品:02)と仰せられ、第五十人とは特定された人をさすのではなく、妙法を聞いて、一念随喜するすべての衆生でるとされている。

 このように法華経最下の功徳であっても外道や小乗・権大乗を最高度に修めた人の功徳よりもはるかに大きいのは、行ずる「法」自体の高低が、それだけ大きいということである。

0001~0016 唱法華題目抄 0005:11~0005:17 第三答⑥

00010016 唱法華題目抄 0005:110005:17 第三答⑥

 

本文

 

  而るを当世の念仏宗等の人我が身の権教の機にて実経を信ぜざる者は方等般若の時の二乗のごとく自身をはぢしめてあるべき処に敢えて其の義なし、あまつさへ世間の道俗の中に僅かに観音品・自我偈なんどを読み適父母孝養なんどのために一日経等を書く事あればいゐさまたげて云く善導和尚は念仏に法華経をまじうるを雑行と申し百の時は希に一二を得千の時は希に三五を得ん乃至千中無一と仰せられたり、何に況や智慧第一の法然上人は法華経等を行ずる者をば祖父の履或は群賊等にたとへられたりなんどいゐうとめ侍るは是くの如く申す師も弟子も阿鼻の焰をや招かんずらんと申す。

現代語訳

 

 ところが、今の世の念仏宗などの人々は、自分自身が権教の機根で実経を信じられないのであるから、方等経や般若経の時に仏から訶責された二乗のように自分自身を恥じて当然であるのに、全くそうした姿はない。

 そればかりか、世間の出家者や在家者の中に少しばかり法華経の普門品の偈や自我偈などを読んだり、たまたま父母の孝養などのために一日経などを書く人がいると、その人に対して、言い妨げて次のように言うのである。「善導和尚は念仏の修行に法華経を混ぜるのを雑行と言い、百人修行する時はまれに一人か二人、千人修行する時はまれに三人か五人が得道できるかどうかであり、あるいは千人修行しても一人も得道できないと言われている。まして智慧第一の法然上人は、法華経などを修行する人を祖父の靴を履く者、あるいは群賊などに譬えられている」と。このように言って法華経を疎んじているのは、このように言っている念仏の師匠も弟子も共に無間地獄の炎を招くであろうと、私は言うのである。

 

講義

 

 この個所は、第三問の「弥陀の名号を唱うとも法華経をいゐうとむるとがによりて往生をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るはゆゆしき大事にこそ侍れ」に対応しており、念仏者がどのように「法華経をいゐうと」めているのか、その主張を具体的に挙げて破折されている。

 本文に示されている通り、平安・鎌倉時代における法華経信仰の実態として、観音品・自我偈の読誦、あるいは大勢の手によって一日で法華経一部を書写する「一日経」の行事などが行われていた。

 観音品とは観世音菩薩普門品第二十五のことで、普門品ともいい、法華経四要品の一つとされる。観音品の特徴は、観世音菩薩がもたらす現世利益と観世音菩薩がさまざまな姿を現じて衆生を教化することが明快に説かれているところにある。

 すなわち観世音菩薩の名を持つ者は、火難・水難・羅刹難・刀杖難・悪鬼難・枷鎖難・怨賊難の七難を免れ、淫欲・瞋恚・愚癡の三毒を離れることができるとする。また男子・女子を産みたいと思うなら、それも思い通りになるとする。

 例えば、この品の偈には次のように具体的にさまざまな現世利益が説かれている。

 「仮使害の意を興こし、大いなる火抗に推し落さんに、彼の観音の力を念ぜば、火抗変じて池と成らん…或は王難の苦に遭いて刑せらるるに臨んで寿終わらんと欲せんに、彼の観音の力を念ぜば刀尋いで段段に壊れなん」

 また普門示現については、観世音菩薩は仏・辟支仏・声聞・比丘・長者・少年・大将軍・居士・夜叉など三十三身を現じて衆生を度脱させると説かれる。それを示す個所には次のようにある。

 「善男子、若し国土の衆生有って、応に仏身を以って、得度すべき者は、観世音菩薩、即ち仏身を現じて為に法を説き、応に辟支仏の身を現じて為に法を説き…応に執金剛神を以って得度すべき者には、即ち執金剛神を現じて為に法を説く。無尽意、是の観世音菩薩は、是の如き功徳を成就して、種々の形を以って、諸の国土に遊んで衆生を度脱す」

 このように観世音菩薩の現世利益と普門示現が力強く説かれているように観音品は、古来、民衆の幅広い信仰を集め、法華経二十八品の中でも別して観音経と称して読誦することが行われてきた。いわゆる観音信仰紀元1世紀ごろ、すでにインドで始まっており、仏教が中国に伝来してからも、中国で盛んに観音像が制作・信仰された。観音信仰は日本においても奈良時代から盛んになり、平安時代には観世音菩薩の三十三身にちなんで観音の三十三ヵ所を巡る巡礼が各地で行われるようになった。

 その実態は多くの記録や文学作品に記されている。例えば、法然の専修念仏を批判して「興福寺奏状」を執筆した解脱上人貞慶は、当時の観音信仰について、都から辺地まで、高山、深谷、霊験があるといわれる所の多くは観音の霊場であり、遠近から、高貴の人も庶民も多数が集まり、立錐の余地もないほどの混雑であると、その隆盛を伝えている。

 また、法華経如来寿量品第十六に説かれる自我偈も、法華経の肝心である寿量品の内容を要約した偈として広く読誦された。自我偈の唱える功徳について大聖人は「自我偈の功徳は唯仏与仏・乃能究尽なるべし、夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす、自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ、其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり、下涅槃経四十巻の中に集りて候いし五十二類にも自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか、されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等・雲の如くに集りて候いし大集・大品の諸聖も大日経・金剛頂経等の千二百余尊も過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして三五の塵点を経しかども今度・釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして爾前の経経を縁として得道なると見えたり。されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う」(1049:15)と仰せられている。

 すなわち、大聖人の仏法においては当然、その文底の奥義の上からとくに重んじられているが、一般的にも自我偈は古くから尊ばれたのである。

 また「一日経」とは、多数の手によって例えば法華経一部を一日で書写することである。

 これは東大寺の法蔵が、母の追善供養のために法華経を一日のうちに写したことに始まるとされる『東鑑』には源頼朝のために、南御堂において法華経を頓写して供養したことがみえ、『二中歴』にも一行十七字詰め二十七行を一枚として、30人で一日に書き終わったという、一日経の分配、支度等が記されている。この「一日経」で書写されたのは般若経などのこともあったが、法華経が最も多かったようである。

 日本においては、未来の天台宗の依経が法華経であったことから、幅広い法華経信仰が行われてきたが、法然は専修念仏を立て、念仏以外の諸経を否定することによって、法華経信仰を排撃したのであった。そこで、ここでは法然の理論的前提となった善導の言葉、また法然自身の主張を具体的にとりあげて破折されている。

 本文では「善導和尚は念仏に法華経をまじうるを雑行と申し百の時は希に一二を得千の時は希に三五を得ん乃至千中無一と仰せられたり」と示されている。そこで、善導の主張についてみておきたい。

 善導はその著書「観経正宗分散善義巻第四」で次のように述べている。「行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り、一には正行二には雑行なり。正行と言うは専ら往生の経に依りて行を行ずるは是を正行と名づく…又此の正の中に就いて復二種有り。一つには一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥の時節の久近を問わず念念に捨てざるをば是れを正定の業と名ずく。彼の仏願に順ずるが故に、若し礼誦等に依らば則ち名づけて助行と為す。此の正助二行を除いて已外の自余の諸善をば悉く雑行と名づく」

 すなわち善導は、極楽寺浄土の往生を説く経以外の読誦を「雑行」として斥けたのである。そして、結論として「若し後の雑行を行ずれば、即ち心常に間断す。廻向して生ずることを得べしと雖も、衆て疏雑の行と名くるなり」と、雑行を行えば仏に対する心は得難しとなり、種々の道を廻向して往生することはできても直ちに浄土へ往生はできない。ゆえに疎雑の行と名づけるのである。

 また『往生礼讃偈』には「若し専を捨てて雑行を修せんと欲する者は、百の時に希に一二を得、千の時に希に三五を得。何を以ての故に、乃ち雑縁動乱し正念を失するに由るが故に、仏の本願と相応せざるが故に、仏語に順ぜざるが故に…余此頃諸法の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑異有り。もし専を意と作す者は、十は則ち十生ず。雑を修して不至心の者は、千が中に一無し、此二行の得失は先に弁ずるが如し」と述べている。

 このように善導は、念仏を行ずる者は十人が十人とも往生できるが、念仏以外の雑行を行じた場合には千人の中でも一人として往生することはできない、と念仏以外の修行を排斥したのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0005:18~0006:04 第四問答

00010016 唱法華題目抄 0005:180006:04 第四問答

 

本文

 

  問うて云く何なるすがた並に語を以てか法華経を世間にいゐうとむる者には侍るや・よにおそろしくこそおぼえ候へ、答えて云く始めに智者の申され候と御物語候いつるこそ法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ、末代に法華経を失うべき者は心には一代聖教を知りたりと思いて而も心には権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯し或は阿練若に身をかくし或は世間の人にいみじき智者と思はれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべしと見えて候。

現代語訳

 

 問うて言う。どのような姿、言葉をもって世間の学者の人々に法華経を疎んじさせようとするのか。ほんとうに恐ろしいことである。

 答えて言う。初めにあなたが「智者が言ったこと」と話していたことこそが法華経を疎んじさせる悪知識の語葉である。末法に法華経を失わせる者というのは、心では釈尊一代の聖教を極め尽くしていると思っているが、しかも心は権実二経の区別を弁えていない。また身は三衣一鉢を帯して静かな山寺などにこもり、世間一般の人に素晴らしい智者だと思われている。しかも法華経をよく知っていることを人々に知ってもらおうとして、世間の出家・在家の人には三明六通の神通力を身につけた小乗経の智者のように貴ばれて、法華経を失うと経文に見えるのである。

 

講義

 

 ここでは、どのような「姿」「言葉」をもって法華経を誹謗するのか、という問いを説けられている。それに対する答えでは「智者の申され候と御物語候いつるこそ法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ」と、問者が「智者」としてきた念仏者こそ法華経を誹謗する悪知識であると指摘されている。

 この第四問答以前に、本抄では「但し悪知識に値って法華経随喜の心を云いやぶられて候はんは力及ばざるか」さらに「謗法と申すは違背の義なり、随喜と申すは随順の義なり」と述べられている。すなわち悪知識とは「法華経随喜の心」をさまざまな形で破る働きといえる。

 この段で特に重要なのは、悪知識について「身」と「心」の両面からとらえている点である。すなわち本文には「末代に法華経を失うべき者は心には一代聖教を知りたりと思いて而も心には権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯し或は阿練若に身をかくし或は世間の人にいみじき智者と思はれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべし」と述べられている。ここに悪知識の本質が明確に示されている。

 「心」におけるその特徴は、

   ①身が仏法に精通していると錯覚している。

   ②実際には権実二教すなわち仏法の勝劣の区別を判断できない。

   ③法華経をよく知っているように人に思われたいと願望する。

 という諸点である。

 また「身」における特徴は、

   ①三衣一鉢を帯びること、すなわち僧侶の立場である。

   ②阿根若に住する。

   ③世間の人には神通を得た阿羅漢のような貴い智者と思われている。

 などの点が挙げられる。

 すなわち、内実は仏法に無智でありながら、外面的には宗教的権威を保とうとする矛盾に悪知識の本質があるといえよう。

 この第四問答では、これまでの問答を受けて念仏の「智者」が法華経誹謗の悪知識であることを確定した上で、宗教的権威を繕う悪侶こそが悪知識であることを指摘し、末法における謗法の具体的な形態を明かされている。その内容は、第五問答において三類の強敵を明かして念仏が堕地獄の業であることを示すための前提・導入となっている。

0001~0016 唱法華題目抄 0006:05~0006:05 第五問

00010016 唱法華題目抄 0006:050006:05 第五問

 

本文

 

 問うて云く其の証拠如何、

 

現代語訳

 

問うて言う。その証拠は何か。

0001~0016 唱法華題目抄 0006:05~0007:01 第五答①

00010016 唱法華題目抄 0006:050007:01 第五答①

 

本文

 

  答えて云く法華経勧持品に云く「諸の無智の人悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし」文妙楽大師此の文の心を釈して云く「初めの一行は通じて邪人を明す、即ち俗衆なり」文文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり、経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い我慢の心充満せん」文・妙楽大師此の文の心を釈して云く「次の一行は道門増上慢の者を明す」文・文の心は悪世末法の権教の諸の比丘我れ法を得たりと慢じて法華経を行ずるものの敵となるべしといふ事なり、経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賤する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説き世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如くならん是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮りて好んで我等が過を出さん而も是くの如き言を作さん此の諸の比丘等は利養を貪るを為つての故に外道の論議を説き自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑す名聞を求むるを為つての故に分別して是の経を説くと、常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん」已上妙楽大師此の文を釈して云く「三に七行は僣聖増上慢の者を明す」文経並に釈の心は悪世の中に多くの比丘有つて身には三衣一鉢を帯し阿練若に居して行儀は大迦葉等の三明六通の羅漢のごとく在家の諸人にあふがれて一言を吐けば如来の金言のごとくをもはれて法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために国王大臣等に向ひ奉つて此の人は邪見の者なり法門は邪法なりなんどいゐうとむるなり。

 

現代語訳

 

 答えて言う。華経勧持品に「仏法に無智な多くの人が罵ったり、また刀や杖で迫害したりする者があるであろうが、我々はこれに耐え忍ぶであろう」とある。妙楽大師はこの経文の意味について「初めの一行は通じて邪人を明す文である。即ち俗衆である」と釈している。妙楽の文の意は、この一行は在家の男女が権教の僧侶にたぶらかされて法華経の敵になることを示しているというのである。 

 また経文には「悪世の中の僧侶は邪智の上に、心がねじまがっていて、まだ悟ってもいないのに悟ったと思い、慢心が満ち満ちている」とある。妙楽大師はこの文の意味について「次の一行は道門増上慢の者を明かしている」と釈している。この妙楽大師の文意は、悪世末法の権教の諸の僧侶が、自分こそ仏法を得たと慢心を起こして法華経を修行する者の敵となことを言っているのである。

 さらに経文には次のように説かれている「あるいは俗世間を離れた静かな場所に僧衣をまとって住み、自ら真の仏道を修行する者であると思って人間を軽んじている者がいるであろう。この者は自己の利益に貪著する故に俗人のために法を説き、世間の人から尊敬されることはまるで六神通を得た阿羅漢のようであろう。この者は悪心を持ち、常に世俗のことを考えていて、静かな場所にいることを利用して我らの過失を好んで作り出そうとする。その上に次のようにある。『この僧侶等は利益を貪る故に外道の論義を説き、自らこの経典を作って世間の人を迷わせる。名誉を求める故に思案をめぐらしてこの経を説くのだ』と。この者はいつも大衆の中にあって、法華経を修行する我々を毀ろうとするために、国王・大臣・婆羅門・居士・僧侶に向かって我々を誹謗し、我々に悪があると説いて『この者は邪見の人で、外道の教えを説いている』と言うであろう」と。

 妙楽大師はこの文を釈して「三にこの七行は僣聖増上慢の者を明かしている」と述べている。

 経文ならびに妙楽の釈の意は次の通りである。悪世には多くの僧侶がいて三衣一鉢を身に帯し、人里離れた静かな場所に住み、その振る舞いは大迦葉等の如き三明六通を得た阿羅漢のように在家の人々から尊敬され、一言、法を説けば、その言葉が仏の金言であるかのように思われている。その僧たちが法華経を行じている人を悪口し、傷つけるために国王や大臣などに対して「この人は邪見の者であり、その法門は邪法である」などと誹謗するのである。

 

講義

 

 第五問答ではまず、法華経勘持品第十三に説かれる、いわゆる三類の強敵が挙げられている。

 三類の強敵とは、勧持品の末尾に説かれる二十行の偈の内容を妙楽大師が法華文句記で整理し、法華経の行者に迫害を加えてくる三種の悪知識の相を明確にしたものである。

 勘持品二十行の偈の全文は次の通りである。

  ①唯願不為慮 於仏滅度後 恐怖悪世中 我等当広説   唯願わくは慮いしたもうべからず 仏の滅度の後 恐怖悪世の中に於て 我等当に広く説くべし

  ②有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍   諸の無智の人 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者あらん 我等皆当に忍ぶべし

  ③悪世中比丘 邪智心諂曲 未得謂為得 我慢心充満   悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん

  ④惑有阿練若 納衣在空閑 自謂行眞道 輕賎人間者   或は阿練若に 納衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂うて 人間を軽賎する者あらん

  ⑤貪著利養故 與白衣説法 為世所恭敬 如六通羅漢   利養に貪著するが故に 白衣のために法を説いて 世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん

  ⑥是人懐悪心 常念世俗事 假名阿練若 好出我等過   是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮つて 好んで我等が過を出さん

  ⑦而作如是言 此諸比丘等 為貪利養故 説外道論議   而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は 利養を貧るを為ての故に 外道の論議を説く

  ⑧自作此経典 誑惑世間人 為求名聞故 分別於是経   自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す 名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説くと

  ⑨常在大衆中 欲毀我等故 向国王大臣 婆羅門居士   常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士

  ⑩及余比丘衆 誹謗説我悪 謂是邪見人 説外道論議   及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん

  ⑪我等敬仏故 悉忍是諸悪 為斯所輕言 汝等皆是仏   我等仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん 斯れに軽しめて 汝等は皆是れ仏なりと謂われん

  ⑫如此輕慢言 皆当忍受之 濁劫悪世中 多有諸恐怖   此の如き軽慢の言を 皆当に忍んで之を受くべし 濁劫悪世の中には 多くの諸の恐怖あらん

  ⑬悪鬼入其身 罵詈毀辱我 我等敬信仏 当著忍辱鎧   悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱せん 我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし

  ⑭為説是経故 忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道   是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜む

  ⑮我等於来世 護持仏所囑 世尊自当知 濁世悪比丘   我等来世に於て 仏の所嘱を護持せん 世尊自ら当に知しめすべし 濁世の悪比丘は

  ⑯不知仏方便 随宜所説法 悪口而顰蹙 数数見擯出   仏の方便 随宜所説の法を知らず 悪口して顰蹙し 数数擯出せられ

  ⑰遠離於塔寺 如是等衆悪 念仏告勅故 皆当忍是事   塔寺を遠離せん 是の如き等の衆悪をも 仏の告勅を念うが故に 皆当に是の事を忍べし

  ⑱諸聚落城邑 其有求法者 我皆到其所 説仏所囑法   諸の聚落城邑に 其れ法を求むる者あらば 我皆其の所に到って 仏の所嘱の法を説かん

  ⑲我是世尊使 処衆無所畏 我当善説法 願仏安穏住   我は是れ世尊の使なり 衆に処するに畏るる所なし 我当に善く法を説くべし 願わくは仏安穏に住したまえ

  ⑳我於世尊前 諸来十方仏 発如是誓言 仏自知我心   我世尊の前 諸の来りたまえる十方の仏に於て 是の如き誓言を発す 仏自ら我が心を知しめせ

 この二十行の偈について、天台大師は法華文句で、衣座室の三軌の視点から次のように釈している。

 「偈に二十行有り、経を護持せんことを謂ふ。復細に分たず。文を尋ねて解す可し。前の十七行は忍衣を被て経を弘む、次に第二に一行は室に入て経を弘む、次に第三に一行は座に坐して経を弘む、次に第四に一行は総括して知らしめたまうと謂ふ」

 つまり天台大師は二十行の偈を衣座室の三軌に立て分け、最初の一行から十七行までは「忍衣を被て経を弘む」、第二に十八行目は「室に入て経を弘む」、第三に十九行目は「座に坐して経を弘む」、第四に二十行目は「総括して知らしめたまうと謂ふ」である、としている。

 天台大師が四つに分けた中で、第一の「忍衣を被て経を弘む」の十七行を妙楽大師は法華文句記第八で更に細分し「初めの一行①は総じて時節を論じて以って著衣を明す。有諸下九行、②~⑩は別して所忍の境を明す。三に我等七行、⑪~⑰は著衣の意を明す」として三つに分けている。

 そして更に所忍の境を明すの九行を三分し、ここに三類の強敵が説かれているとするのである。

 すなわち前の文に続けて「次の文に三あり。初めの一行②は通じて邪人を明す。即ち俗衆也。次の一行③は道門増上慢を明す。三に七行④~⑩は僭聖増上慢を明す」と。更に続けて「此の三の中、初めの者は忍ぶ可し、次なる者は前に過ぐ。第三最も甚し。後者の者は転識り難きを以っての故に」として、俗衆よりも道門、道門よりも僭聖増上慢が最も忍び難いとしている。その理由として、僭聖増上慢は誰も知りがたい、すなわち一見、仏法を悟り極めた智者のようで、それが“悪知識”であるとは見抜くことが難しいからであるというのである。

 次に三類の強敵のそれぞれについて考察する。

 初めの「俗衆増上慢」は「諸の無智の人悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」と説かれる。妙楽大師が「俗衆」と示した通り、これは在家の者を指し、「無智」すなわち仏法の正邪を判別する能力を持たないことが第一の特徴となる。

 その迫害の手段は「悪口罵詈」と「刀杖」である。「悪口罵詈」は、法華経の行者を直接罵る。いわば言葉の暴力である。また「刀杖」とは、言葉ではなく物理的な暴力をもって、法華経の行者の生命・身体を損なおうとする行為である。「刀杖」の言葉は、法華経の行者への迫害が、生命そのものにまで及ぶものであることを示しているといえよう。

 第二の「道門増上慢」は「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん」と説かれている。

 その特徴は、まず比丘すなわち出家者であること、そしてその心が「邪智」「諂曲」であり、「未だ得ざるを為れ得たりと謂」う慢心を懐いていることである。

 「邪智」「諂曲」とは前の無智とは異なり、仏法にある程度通じているにも関わらず、ねじ曲げて理解していることをいう。無智とは分別する力のない愚かさであるのに対して、邪智・諂曲とは正邪・勝劣の相違を分別する力を持ちながら意図的にそれをねじ曲げる不正直の態度である。

 道門増上慢についてサンスクリットの原文に「不正直な輩、心の凶悪な輩」と説かれているのも、それを裏付けている。仏法の道理にやや通じながら、正法に従おうとせず、逆に正法の弘通者を迫害するのであるから、「無智」の俗衆増上慢よりも悪質な存在であるといえる。

 そしてこの道門増上慢は、仏の悟りを何ら体得していないにもかかわらず、自分は仏法を悟っていると錯覚しているところにもその特徴がある。それは、自らの境地を見詰めようとする真摯な自己省察と求道の姿勢を持たず、わずかな知識を得ただけでも、もう全てを悟り究めたかのように思い上がっている姿といえよう。

 二十行の偈では第三の「僭聖増上慢」について最も多くの言葉を費やして述べている。即ち、第一・俗衆増上慢、第二・道門増上慢がそれぞれ一行に過ぎないのに対して、第三・僭聖増上慢は七行にわたって記述されている。そのこと自体、三類の強敵の中でこの第三類がもっとも重視されていることを示している。

 その特徴としては以下の諸点が挙げられる。

 ①家者の修行の場とされる阿練若に住み、納衣を着する。

 「阿練若」とは、人里をほどよく離れた閑静な場所をいう。阿練若に住することは十二頭陀行の第一に挙げられ、出家し修行する場として極めて重視された。いわば阿練若に住することは修行の要件であり、僭聖増上慢は、それを自己の神秘化のために利用するのである。また「納衣」を着することも頭陀行の一つであり、それを着することは正統な修行者であることの要件となる。すなわち阿練若に住み納衣を着するということは、さも世俗の欲を超越して高い精神的境地に住しているように世間の人々に思いこませるためなのである。

 ②自ら真の道を行じていると思い、他の人間を軽賤する。

 この部分についてサンスクリット原文では「おのれの智慧を誇示する」とある。自分だけが仏の悟りを得たと考え、自分以外の者は悟りに達していないとして他者を軽蔑していく態度である。道門増上慢の場合は自分だけが悟りを得ているとまで考えていないので、道門増上慢以上に甚だしい慢心といえる。

 ③利養に貪著するが故に、在家から供養を得る目的で法を説く。

 先のように外面は世欲的欲望を超越するように装いながら、内心は「利養に貪著」し、衆生を救済するためではなく、信徒の歓心を買い、供養を取る利養に貪著するために法を説くのである。この部分についてサンスクリットの原文では「美食にあこがれ心奪われて」とある。

 ④聖者のように世間から尊敬を受ける。

 僭聖増上慢は、単なる出家者ではなく、悟りを獲得した高僧として社会的にも評価される存在であるということである。実態は聖者とは程遠い存在でありながら、聖者であるかのように装っているところから「僭聖」と称されるのである。

 ⑤世間に向かって法華経の行者を誹謗する。

 僭聖増上慢は、阿練若に住む正統の修行者であるという「権威」を利用しながら、現実社会の中で正法を説き広める法華経の行者を誹謗するのである。「名を阿練若に仮つて」とはその意を示している。その誹謗の内容は、法華経の行者が(1)外道の論議を説く(2)勝手に経典を偽作している(3)利養を貧り、名利を求めて利養を貧いる(4)邪見の人である、というのである。

 僭聖増上慢はこれらの誹謗を直接投げかけるのではなく、世間に向かって発することにより、法華経の行者のマイナスイメージを造り上げ、法華経の行者を社会的に抹殺しようとする。しかも、これらの非難の内容は実は、全ての自分に当てはまることなのである。

 ⑥社会的権力に接近している。

 「国王大臣 婆羅門居士 及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて」とあるように、僭聖増上慢は国王・大臣をはじめとする権力者、あるいは婆羅門たちに語り得る立場にある。「婆羅門」とは現代社会にあっては学者・思想家「居士」とは社会的有力者といえよう。

 ⑦法華経の一切衆生皆成仏道の法理と法華経の行者を軽蔑する。

 これは二十行の偈の十一行目に「斯れに軽しめて 汝等は皆是れ仏なりと謂われん」と説かれる個所で、法華経の行者は一切衆生が成仏しうるとする法華経の一仏乗の教えを説くのであるが、僭聖増上慢はそれに対して、法華経の行者を軽蔑し“お前たちのような下賤の者でも仏になるというのか”と言うだろうとの意である。

 「汝等は皆是れ仏なり」とは、僭聖増上慢から法華経の行者に投げかけられる嘲笑の言葉なのである。法華経は一切衆生が等しく成仏しうるという「平等の論理」を示すのに対して、僭聖増上慢は「自分だけが悟っている」と潜称しているのであるから、これを否定する「差別の論理」に立っているのである。

 このように勧持品二十行の偈は、三種類の迫害者を挙げ、法華経の弘通者に対して加えられる迫害の様相を極めて具体的に説いている。それは、法華経を信奉する教団が当時の他の仏教勢力から加えられた迫害の事実を反映したものと考えられるが、しかし、経典において、その迫害が現在のそれではなく、あくまでも未来の弘教者に加えられる迫害として説かれているということが重要であろう。

 観持品二十行の偈は、未来の迫害を予言した経文であり、それ故に、未来においてその経文を自らの実践の上で受けとめる人が出現して初めて真実の意義が顕れるといえる。

 なお、勧持品の末尾に示されているこの二十行の偈は、八十万億那由佗の不退の菩薩による滅後弘教の「誓言」として示されたものである。すなわち、二十行の偈の直前には次のように説かれている。

 「爾の時に世尊、八十万億那由他の諸の菩薩摩訶薩を視す。是の諸の菩薩は、皆是れ阿惟越致にして、不退の法輪を転じ、諸の陀羅尼を得たり。即ち座より起って、仏の前に至り一心に合掌して是の念を作さく、若し世尊、我等に此の経を持説せよと告勅したまわば、当に仏の教の如く、広く斯の法を宣ぶべし。復是の念を作さく、仏、今黙然として告勅せられず。我当に云何がすべき。時に諸の菩薩、仏意に敬順し、並びに自ら本願を満ぜんと欲して、便ち仏前に於いて、師子吼を作して、誓言を発せり、世尊、我等如来の滅後に於て、十方世界に周旋往返して、能く衆生をして此の経を書写し、受持し読誦し、其の義を解説し、法の如く修行し、正憶念せしめん、皆是れ仏の威力ならん。唯願わくは世尊、他方に在すとも遥かに守護せられよ。即時に諸の菩薩、倶に同じく声を発して、偈を説いて言さく」

 二十行の偈が、八十万億那由佗の不退の菩薩の誓いとして説かれるということは、二十行の偈に示されたような忍難の弘通は、菩薩の中でも不退の境地に達した菩薩であって初めて成し得る行為であることを示している。

 しかし、この八十万億那由佗の不退の菩薩の申し出に対して、「仏、今黙然として告勅せられず」とあるように、釈尊は応答を与えない。それは、八十万億那由佗の不退の菩薩でさえも滅後の弘教には耐えられないことを意味している。つまり八十万億那由佗の菩薩も滅後弘教の担い手ではなく、真実の弘教者は湧出品で出現する地涌の菩薩以外にないことを示唆しているのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0007:02~0007:10 第五答②

00010016 唱法華題目抄 0007:020007:10 第五答②

 

本文

 

 上の三人の中に第一の俗衆の毀よりも第二の邪智の比丘の毀は猶しのびがたし又第二の比丘よりも第三の大衣の阿練若の僧は甚し、此の三人は当世の権教を手本とする文字の法師並に諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の法師並に彼等を信ずる在俗等四十余年の諸経と法華経との権実の文義を弁へざる故に、華厳・方等・般若等の心仏衆生・即心是仏・即往十方西方等の文と法華経の諸法実相・即往十方西方の文と語の同じきを以て義理のかはれるを知らず或は諸経の言語道断・心行所滅の文を見て一代聖教には如来の実事をば宣べられざりけりなんどの邪念をおこす、故に悪鬼・此の三人に入つて末代の諸人を損じ国土をも破るなり故に経文に云く「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん乃至仏の方便随宜所説の法を知らず」文・文の心は濁悪世の時比丘我が信ずる所の教は仏の方便随宜の法門ともしらずして権実を弁へたる人出来すれば詈り破しなんどすべし、是偏に悪鬼の身に入りたるをしらずと云うなり、されば末代の愚人の恐るべき事は刀杖・虎狼・十悪・五逆等よりも三衣・一鉢を帯せる暗禅の比丘と並に権経の比丘を貴しと見て実経の人をにくまん俗侶等なり。

現代語訳

 

 以上の三類の強敵の中で、第一の在家による毀りよりも第二の邪智の僧侶による毀りのほうが、なお忍びがたい。また第二の僧侶よりも第三の大衣を身につけ、静かな山寺などに住む高僧などのほうが甚だしい。

 この三人は、当世でいえば権教を手本として文字にこだわる法師であり、また諸経論に説かれる言語道断の文を信じて盲目的に禅を修行している法師であり、更に彼らを信ずる在家の人々である。この者たちは四十余年の諸経と法華経との権実の文義をわきまえないために、華厳・方等・般若等で説かれている「心仏及衆生」「即心是仏」「往生十方西方」の文と、法華経で説かれている「諸法実相」「即往十方西方」の文とが、語が同じであることから、その法理が異なっていることを知らないのである。あるいは、諸経に「言語道断・心行所滅」と説かれている文を見て、一代聖教には仏の真実の悟りは書かれていないなどという邪念を起しているのである。それ故に、悪鬼がこの三種類の人々に入って末法の人々を損じ、国土をも破っているのである。

 故に法華経勘持品では「濁劫悪世の中には多くのさまざまな恐怖があるであろう。悪鬼がそれらの人々の身に入って我ら法華経の行者を罵り辱めるであろう。(乃至)また彼等は仏が方便随宜として説いた法を知らない」などと説かれている。

 文の意は、濁悪の世においては、僧侶は自分の信ずる教えが仏の方便随宜の教えであるとも知らずに、権実の違いを弁えた人が現れるとその人を詈って破ろうなどとする。これはひとえに悪鬼が自分の身に入っているのであるが、このことを本人は知らないのである、ということである。

 

講義

 

 末法において、法華経の信仰を破壊する者を予言した文として、前段では法華経勧持品の文と、それについての妙楽大師の文を示された。

 ここでは、それがどのように大聖人御在世において現れているかを指摘されている。すなわち、それは①「当世の権教を手本とする文字の法師」と、②「諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の法師」、更に③「彼らを信ずる在俗」であるとされる。勧持品の文が挙げられている三類の強敵のうち、俗衆増上慢は在家であるから、③が俗衆増上慢に、①と②は出家である道門増上慢、僭聖増上慢に当たることになる。

 「文字の法師」と「暗禅の法師」という呼称は、摩訶止観に天台が述べたものを用いられている。すなわちその巻五上に「暗証の禅師・誦文の法師の能く知る所に非ざるなり」とあるほか、巻七には「九意は世間の文字と法師と共ならず、亦、事相の禅師と共ならず、一種の禅師は唯観心の一意あり、或は浅、或は偽、余の九は全く無し、此れ虚言に非ず、後賢、眼有らんものは当に証知すべし」と説かれている。

 天台大師の時代既に、経典の解釈のみにとらわれて仏法の実践の重要性を忘れた「文字の法師」と、逆に法理を学び、把握する努力を怠り、やみくもに禅定の行に走る「暗禅の法師」の両者があったことがうかがえる。いうまでもなく天台は、どちらも誤りとして破折しているのである。大聖人は、天台大師当時と同じ仏教者の歪みが現れていたことから、その呼び名をそのまま用いられたのである。

 しかし大事なのは「文字の法師」とは単に文字にとらわれて実践をなおざりにしているというだけではなく「権教を手本」とし「四十余年の諸経と法華経との権実の文義を弁」えない者であるとされていることである。その特徴は、文字ずらだけにとらわれるため、爾前権教と法華経に類似の経文があるのを見て、両者を同類と思い込み、法理の相違を認識できないことにある。

 具体的に類似している文としてまず挙げられているのは、華厳経の「心仏及衆生是三無差別」般若三昧経の「即心是仏」と法華経の「諸法実相」である。

 「心仏及衆生是三無差別」は華厳経観十夜摩天宮菩薩説偈品の文で、「心」と「仏」と「衆生」は、「仏」と「衆生」も「心」をもって造る故に、この三つはいかなる差別もないとの意である。この文の直前に「心は工なる画師の種々の五陰を造るが如く、一切世界の中に法として造らざることなし」とあることからも明らかなように、「心」から世界の一切が生まれるという唯心論的世界観を表明したものである。この点においては般舟三昧経の「即心是仏」の文も同様といえる。

 華厳経の「心仏及衆生是三無差別」は、法華経の、十界互具と共通しているものの、その「心」が何であるかは華厳経では明らかにあれておらず、また法華経のように二乗作仏・久遠実成が明かされていないということにおいて法華経とは大きな相違がある。いわば、華厳経の説く仏と九界の無差別は抽象的観念の域を出ず、したがって二乗作仏・久遠実成という具体的な裏付けもない。それゆえに有名無実と評されるのである。

 それにも関わらず天台大師は一念三千を証明するために華厳経のこの文によって心を不可思議境と立てたのであったが、その意は日寛上人が三重秘伝抄で引かれている浄覚の「今の引用は会入の後に従う」との言葉通り、法華の立場から華厳経の文を会入して用いられたのである。天台が説明のために華厳経のこの文を用いたからといって、華厳経に一念三千の法理が説かれているということではない。

 また本抄では、爾前経と法華経の類似点として「即往十方西方」という言葉が挙げられている。念仏宗に執着する人々は、法華経にもこのように阿弥陀如来の浄土への往生が説かれているとして念仏思想の正当化に利用したのである。

 そもそも法華経に阿弥陀如来の名が登場するのは、次に示すように、化城喩品と薬王品の二ヵ所のみである。

 「諸の比丘、我今汝に語る。彼の仏の弟子の十六の沙弥は、今皆阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方の国土に於いて、現在に法を説きたもう。無量百千万億の菩薩、声聞有って、以って眷属と為り、その二つの沙弥は、東方にして作仏す。一を阿閦と名づく、歓喜国に在す…西方に二仏、一を阿弥陀と名づく、二を度一切世間苦悩と名づく」

 「若し如来の滅後、後の五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の、阿弥陀仏の大菩薩衆、囲繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。」

 とくに前者で明らかなように、法華経に阿弥陀仏が登場するといっても、それは十方の諸仏の一つとして挙げられているに過ぎず、また後者の、阿弥陀浄土の往生も、法華経受持の功徳の一つとして説かれているのであって、念仏によって往生するとは説いていない。それにもかかわらず、法華経に弥陀如来とその浄土への往生が挙げられていることだけをもって、法華経と浄土教典とを等しいとするのは愚かという以外ない。

 法理における爾前経と法華経の相違が天地雲泥であることは冷静に検討すれば明白であるにもかかわらず、両者における表面的、部分的な類似に引きずられて、あるいは自宗の正当化のため故意に、両者を同一視する邪義が「権教を手本とする」宗派の学僧によって唱えられたものである。それは奈良・平安の旧仏教各派においても、また新興の念仏宗においても共通していた。

 本来、法華経の最勝を宣揚すべき立場にある天台宗も、真言密教に同化してしまった結果、爾前経と法華経の相違を曖昧にし、まさに「権実雑乱」の事態が出現していたのである。日蓮大聖人が立宗以来、一貫して法華経の最勝を主張し、爾前権教を厳しく破折されたのは、如説修行抄に「一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し」(0503:15)と仰せのように、まさしく「権実雑乱」の時代状況の中で、人々が正義を見失っており、この迷いから目覚めさせることが救済の第一関門だったからである。

 次に大聖人は三類の強敵として「諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の法師」を挙げられ、それについて「諸経の言語道断・心行所滅の文を見て一代聖教には如来の実事をば宣べられざりけりなんどの邪念を起こす」と述べられている。

 「言語道断・心行所滅」とは、瓔珞経、大智度論、中論などにある文で、仏の究めた世界の真実相は言語で表現できず、心の働きを超越したところにあるとの意である。この文は仏の究めた真理の深さを述べたもので、言語や思惟の意義を否定しているのではない。しかし禅宗の徒は、この文の意を言語あるいは理想的思索の意義を否定したものと曲角し、“一代聖教には仏の本当のことはのべていない”として、座禅観法のみが正しく、経典を読んだり学んだりすることは無駄であると主張したのである。経典を否定する禅宗のこうした立場を端的に示しているのが「教外別伝・不立文字」の言葉である。

 その結果、禅宗の言う「悟り」は法理の裏付けのない、主観的・恣意的ものとならざるを得ない。自分が悟ったと思えば、それが「悟り」になってしまうのである。仏説を記した経典をも自分の主観を基準として恣意的に判断していくため、仏教を破壊する「天魔」となり、自らを高しとして他を軽んずる増上慢に陥っていくのである。

 このような禅宗に対して大聖人は、立宗まもない時期からその誤りを厳しく破折されている。例えば建長7年(1255)に著された蓮盛抄では、自身の主観に居直る禅宗の徒の慢心に対して「禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(0152:07)と断破されている。また、経典否定に対しては、同じく建長7年(1255)に記された諸宗問答抄に「汝仏祖不伝と云つて仏祖よりも伝えずとなのらばさては禅法は天魔の伝うる所の法門なり」(0379:18)と破折されている。

 大聖人御在世当時、禅宗は新興の仏教宗派として、とくに武士階級の中に急速に勢力を拡大しつつあった。鎌倉時代の禅宗の担い手として今日、広く知られているのは栄西と道元であるが、両者に先立って禅を弘めた人物として達磨宗を称した大日能忍がある。大聖人の御書の中に栄西・道元の名は見られないが、大日能忍については「法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して」(0958:08)「建仁より已来今に五十余年の間・大日・仏陀・禅宗を弘め」(0441:08)「建仁年中に法然・大日の二人・出来して念仏宗・禅宗を興行す」(0236:05)と、大日能忍をもって禅宗の代表とされている。

 能忍は摂津国に三宝寺を創建して禅を弘めた人物であるが、特定の師を持たず、独自の禅を唱えたところから、当時の既成仏教の正統に属さない、一種の「聖」と目されている。

 能忍は自分に欠けている正統性を手にいれるため、1189年に弟子を宋に派遣し、南宋禅の徳光から印可を得させた。それによって立場を強化した能忍は盛んに禅を弘めたが、その主張は戒律と経典を軽視するためであったため、旧仏教勢力が危険視され、1194年、比叡山延暦寺が弘教停止を訴え、それを受けて同年7月に出された太政官宣旨をもって弘通を禁止される事態となった。逆にいえば、旧仏教勢力が政府を動かして禁止しなければならないほど、能忍の達磨宗は急速に広がっていたといえよう。

 また、大聖人御在世当時の禅宗の担い手としては、蘭渓道隆・兀庵普寧・大休正念・無学祖元などの外来僧がある。道隆は北条時頼の招きで1246年に来日し、1253年臨済宗の本山・建長寺の開山となったことで知られている。

 禅は当時、中国で流行していた最先端の思潮であり、鎌倉幕府は京都における朝廷の文化的伝統に対抗する意味もあって積極的に禅僧を招聘した。その結果、幕府権力の保護を受けて禅宗は鎌倉に定着することになった。

 日蓮大聖人は、これら外来の禅僧に対しても厳しく破折され、例えば蘭渓道隆に対して「禅宗は天魔の所為」(0173:03)と断じられている。唱法華題目抄において大聖人が、禅僧を道門増上慢、僭聖増上慢に位置づけて破折されている背景には、当時既に禅宗が幕府権力と癒着して勢力を拡大していたという事情があったからである。

0001~0016 唱法華題目抄 0007:10~0008:04 第五答③

00010016 唱法華題目抄 0007:100008:04 第五答③

 

本文

 

  故に涅槃経二十二に云く「悪象等に於ては心に恐怖する事無かれ悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ何を以ての故に是悪象等は唯能く身を壊りて心を破ること能わず悪知識は二倶に壊るが故に乃至悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至らん」文此文の心を章安大師宣べて云く「諸の悪象等は但是れ悪縁にして人に悪心を生ぜしむる事能わず悪知識は甘談詐媚巧言令色もて人を牽いて悪を作さしむ悪を作すを以ての故に人の善心を破る之を名づけて殺と為す即ち地獄に堕す」文、文の心は悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり、総じて涅槃経の心は十悪・五逆の者よりも謗法闡提のものをおそるべしと誡めたり闡提の人と申すは法華経・涅槃経を云いうとむる者と見えたり、当世の念仏者等・法華経を知り極めたる由をいふに因縁・譬喩をもて釈しよくよく知る由を人にしられて然して後には此の経のいみじき故に末代の機のおろかなる者及ばざる由をのべ強き弓重き鎧かひなき人の用にたたざる由を申せば無智の道俗さもと思いて実には叶うまじき権教に心を移して僅かに法華経に結縁しぬるをも飜えし又人の法華経を行ずるをも随喜せざる故に師弟倶に謗法の者となる。

現代語訳

 

 それ故に涅槃経二十二には「悪象等に対しては心に恐怖を懐くことはない。悪知識に対しては恐れる心をもつべきである。なぜかといえば、悪象等は身を壊ることはあっても心を破ることこはできない。しかし、悪知識は身と心の二つを倶に壊るからである。(乃至)悪象の為に殺されても三悪道に至ることはないが、悪友のために殺されるならば必ず三悪道に至るのである」と説かれている。 

 この文の意について章安大師は「諸の悪象等はただの悪縁であって、人に悪心を生じさせることはできない。しかし悪知識は甘い言葉や偽りや媚びを使い、また巧みな言葉や人当たりのよい顔をもって人をひきずって、悪を行わせる。そして、悪を作させることをもって人の善心を破る。この善心を破ることを名づけて殺というのである」と言っている。

 この章安大師の文の意は、悪知識とは甘い言葉で語りかけ、偽りあざむいて媚びをうり、言葉巧みに愚癡の人の心を奪って善心を破るというのである。全体としてこの涅槃経の文意は、十悪や五逆の者よりも謗法や一闡提の者を恐れるべきであると戒められているのである。

 一闡提の人というのは法華経・涅槃経を口に出して忌み嫌う者のことと思われる。当世の念仏者等が、法華経を究めつくしたということを示そうとして、因縁や譬喩を使って巧みに解釈し、本当によく法華経を知っているかのように人に思わせておいて、その後、法華経はあまりに貴い教えであるから末法の機根の低い者には手が出せないということを言い、強い弓や重い鎧は力のない人の役にはたたないようなものだといえば、仏法に無智な僧俗はなるほどと思って、本当はまったく役にたたない権教に心を移し、わずかに法華経に結縁していたのに、それも心を飜し、また他人が法華経を修行しているのを見ても随喜しないので、師弟ともに謗法の者となるのである。

 

講義

 

 ここでは、三類の強敵が人々の正法の信を破り、悪道に陥れる悪知識であることから、悪知識の害を指摘し戒めた涅槃経および章安大師の涅槃経疏の文を引かれている。

 ここで引用されている大般涅槃経の第二十二の光明遍照高貴徳王菩薩品の文は原文次の通り。

 「菩薩摩訶薩の、悪象及び悪知識を観ずること、等しうして二有る無し。何を以ての故に、俱に身を壊するが故なり、菩薩摩訶薩は悪象等に於て心に恐怖無垢く、悪知識に於て畏懼心を生ず。何を以ての故に、是の悪象等は唯能く身を壊して、心を壊する能はず。悪知識は二つ俱に壊するが故に、是の悪象等は唯一身を壊し、悪知識は無量の善身、無量の善心を壊す。悪象に殺さるるも三悪に至らず、悪友に殺さるれば必ず三悪に至る。是の悪象等は但身の怨と為り、悪知識は善法の怨と為る。是の故に菩薩は常に当に諸の悪知識を遠離すべし」

 涅槃経と涅槃経疏の文に明らかなように、悪知識を恐れなければならないのは、それらが「善心」即ち正法への信を破壊するからである。

 顕謗法抄に「不信とは謗法の者なり」(0455:15)と仰せのように、正法に対する不信こそ謗法の本質であるから、本抄において大聖人は、涅槃経・涅槃経疏にゆう「悪知識」の最たるものは正法への信を破る者即ち「法華経・涅槃経を云いうとむる者」とされているのである。前段に挙げられた勧持品の三類の強敵は、法華経の弘通者を妨害するための悪口、暴力、権力による弾圧等を加える者であった。それに対し、ここでは法華経の行者の化導を受ける人々の正法への信を妨げるため、甘言、巧みな理屈を弄する悪知識の姿を指摘されている。

 次に「当世の念仏者」以下の部分は、当時の念仏者の法華経誹謗の悪賢いやり方について述べられている。

 すなわち、念仏者は、法華経を真っ向から否定する言い方を避け、むしろ法華経を因縁や譬喩をもって巧みに解釈し、人々に、この法華経をよく理解している学者であると思わせ信頼させた上で、法華経はすばらしいが末法の衆生には無益であると説いたのである。

 実際に専修念仏を創始した法然は、元来、天台宗の学僧であり、「智慧第一」の異名をとるほど法華経の文義に精通していた人物であった。その弟子たちも天台宗の出身者が大半であり、その多くは法然と同様、法華経に関する知識を具えていたと考えられる。

 すなわち、当時の念仏者は、仏教界における社会的秩序から完全にはみ出したアウトロー的存在ではなく、むしろ、天台宗出身者という意味で既成の伝統的権威をある程度担っていた、まさに彼等は「世間の人にいみじき智者と思はれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られ」る存在であった。その権威に立脚した上で彼等は「理深解微」の論理を主張しそれによって人々の法華経への信仰を切り崩していったのである。そこに当時の念仏者が「僭聖増上慢」の一分に当たっている側面をいることができる。

0001~0016 唱法華題目抄 0008:05~0008:08 第五答④

00010016 唱法華題目抄 0008:050008:08 第五答④

 

本文

 

  之れに依つて謗法の衆生国中に充満して適仏事をいとなみ法華経を供養し追善を修するにも念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来て法華経は末代の機に叶い難き由を示す、故に施主も其の説を実と信じてある間訪るる過去の父母夫婦兄弟等は弥地獄の苦を増し孝子は不孝謗法の者となり聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属となる、日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず

 

現代語訳

 

 これによって、謗法の衆生が国中に充満し、たまたま仏事をいとなんで法華経で追善供養しても、念仏などを行じている謗法の邪師の僧が来て、「法華経は末法の人々の機根にあわない」という。そのため、法華経で追善供養しようとしている施主も邪師の説を真実であると信じて、法華経を捨ててしまうので、弔われる亡父母・夫婦・兄弟などは、さらに地獄の苦しみが増し、追善供養をする孝子も不孝・謗法の者となってしまう。そして邪師の説法を聴いた者は邪法を随喜して悪魔の眷属となるのである。日本国中の人々は仏法を行じているように見えて、実は仏法を行じていないのである。

 

講義

 

 ここでは念仏者が「智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申」して法華経によって故人を追善しようとしている人々を法華経から念仏者へとすかし落とした結果、追善供養を志す者も謗法となり、また追善供養を受ける死者も地獄の苦を受けることが述べられている。

 追善供養とは、先亡者の成仏を願って生存者が行う供養をいい、追善とは先亡者の衆苦を除いて、菩提の道を得さしめるために善根を修することである。供養とは『供給奉養』の義で、報恩のために真心から仏の前で経文を読んだり、諸物をささげて回向することである。

 この追善供養について、日蓮大聖人はあくまでも法華経の正法によらなければならないことを御書の随所に強調されている。

 たとえば光日上人御返事には「烏竜と云いし者は法華経を謗じて地獄に堕ちたりしかども其の子に遺竜と云いし者 ・法華経を書きて供養せしかば親・仏に成りぬ」(0933:18)と仰せられ、また盂蘭盆御書には「目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う」(1430:03)と述べられている。

 そして、乗明聖人御返事に「但真言・禅宗・念仏者等の謗法の供養を除き去るべし」(1012:07)と仰せのように、謗法による供養を禁止されている。

 ここで述べられているように、本抄御執筆当時、専修念仏が急速に勢力を拡大しつつあり、「理深解微」の邪説によって、人々の法華経信仰が堀り崩されていく状況が顕著に見られた。こうして法華経を離れて念仏に走る人々に対し、大聖人は「不孝謗法の者」「悪魔の眷属」として、地獄に堕ちることを深く哀れんでおられるのである。

0001~0016 唱法華題目抄 0008:08~0008:17 第五答⑤

00010016 唱法華題目抄 0008:080008:17 第五答⑤

 

本文

 

  適・仏法を知る智者は国の人に捨てられ守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ利生を止此の国をすて他方に去り給い、悪鬼は便りを得て国中に入り替り大地を動かし悪風を興し一天を悩し五穀を損ず故に飢渇出来し人の五根には鬼神入つて精気を奪ふ是を疫病と名く一切の諸人善心無く多分は悪道に堕つることひとへに悪知識の教を信ずる故なり、仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん其の王別えずして此の語を信聴し横に法制を作りて仏戒に依らず是れを破仏破国の因縁と為す」文、文の心は末法の諸の悪比丘国王大臣の御前にして国を安穏ならしむる様にして終に国を損じ仏法を弘むる様にして還つて仏法を失うべし、国王大臣此の由を深く知し食さずして此の言を信受する故に国を破り仏教を失うと云う文なり、此の時日月度を失ひ時節もたがひて夏はさむく冬はあたたかに秋は悪風吹き赤き日月出で望朔にあらずして日月蝕し或は二つ三つ等の日出来せん大火大風彗星等をこり飢饉疫病等あらんと見えたり、国を損じ人を悪道にをとす者は悪知識に過ぎたる事なきか。

現代語訳

 

 たまたま仏法を知る智者がいて国の人から捨てられ、守護する諸天善神は法味をなめることができない故に威光を失って人々を利益しなくなり、この国を捨てて他方の国土へ去られた。悪鬼がそれにつけこんで国中に入り替わり、大地を動かし暴風を吹かせ、天下を悩ませ五穀を損なうのである。その結果飢饉が起こり、人の五根にも悪鬼が入って精気を奪う。これを疫病というのである。一切の諸人は善心を失って、その多くが三悪道に堕ちる。これらはひとえに悪知識の教えを信ずるために起こるのである。

 仁王経にはつぎのように説かれている。

 「諸の悪比丘の多くが名声と利益を求め、国王・太子・王子の前で自ら仏法を破る教えを説く。それを聞いた王は仏法の正邪を弁えず、悪比丘の言葉を信じ、道理に背いた法制を作って仏の戒めを無視していく。これを破仏法・破国の因縁とするのである」と。

 この文の意味は、末法の諸の悪比丘が国王や大臣の前で国を安穏にさせるようなことを言って最後には国を滅ぼし、仏法を弘めるような姿をして、かえって仏法を破るであろう。国王や大臣はこの道理を深くわきまえずに悪僧の言葉を信じてしまうため、国を破り、仏教を失うことになる、というのである。

 このような時には太陽や月の運行も乱れ、季節も狂って、夏に寒く冬は暖かくなり、秋には暴風が吹く。また赤い太陽や月が出たり、日蝕・月触が起こり、二つ三つ等の日が出たりする。また大火や大風、彗星などが起こり、飢饉・疫病などが現れると仁王経に書かれている。このように、国を滅ぼし、人を悪道に堕とす者として悪知識以上のものはないのである。

 

講義

 

 ここでは人々が正法に背く結果、善神が法味に飢えてこの国を捨て去り、それに替わって悪鬼・魔神が入って種々の災難をもたらすという、いわゆる「神天上法門」が述べられている。

 神天上法門は、本抄や立正安国論だけでなく、晩年の弘安3年(1280)に著された諌暁八幡抄にも「今日本国を案ずるに代始まりて已に久しく成りぬ旧き守護の善神は定めて福も尽き寿も減じ威光勢力も衰えぬらん、仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに仏法の味は皆たがひぬ齢はたけぬ争でか国の災を払い氏子をも守護すべき」(0578:06)と述べられているように、大聖人が生涯にわたって堅持された法門である。特に立正安国論が有名で、そこでは神天上の法門について次のように示されている。

 「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017:12

 「天下世上・諸仏・衆経に於て捨離の心を生じて擁護の志無し、仍て善神聖人国を捨て所を去る、是を以て悪鬼外道災を成し難を致す」(0020:11

 そして立正安国論では、その根拠として、次のように金光明経・仁王経などの文を引かれている。

 「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて 涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」(0018:03

 「若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」(0019:07

 この経文に明らかなように神天上法門は、大聖人は独自に主張されたものではなく、仏説に基づいて主張されたものである。

 唱法華題目抄の第五問答に示されている趣旨は、立正安国論に示されている内容と同一である。ここに引用されている経文も立正安国論の第三問答において引用されているのと同じである。

 序論において、唱法華題目抄が立正安国論と表裏一体の関係にあることを明らかにしたが、神天上法門などの法理が共通して示されていることは、まさにこの二つの御述作の密接な関係を裏付けるものといえよう。

 神を仏法の守護者とする考え方は、インド仏教において広く見られる。

 インドにおける神観念は極めて複雑であるが、まずさしあたり古代インドの神は、その起源は自然神とされるが『リグ・ヴェーダ』によれば、海・川・雨・大地など、一切の自然現象は神の働きによるものと考えられ、太陽・川・雨・暴風・雷・大地など、それぞれの自然現象を司る神が存在すると信じられていた。それらの神々に対して、酒などを捧げて祈禱する祭祀礼儀を行ったことが『リグ・ヴェーダ』などに記されている。

 その祭祀を職業として実行されてきたのがバラモンといわれる聖職者階層である。そして、規定に厳格に則って祭祀を行うことにより神々を動かすことができると考えられた。

 「すなわち祭式に潜在する力が神々を強制するものである。したがって、人生の苦しみを除去するためには、聖典の規定どおりに祭式を実行しさえすればよいのである。神々に対する信仰は問題とされないのである。その意味で神よりも祭祀の規則のほうが上位の位置を占めると考えられていた。このように神を絶対至高の存在としないことはインド仏教一般の傾向といえる。

 仏教は、バラモンによって担われた宗教、すなわちバラモン教が支配する社会のなかで誕生したが、神より上位にある「法」のとらえ方においてバラモン教と同一ではない。すなわち仏教の明かした「法」とは、単に祭祀の規則といった表面的・形式的なものではなく、より普遍的であり、更に端的でいえば生命と万物を貫く法理なのである。この究極の法を覚知したのが「仏」であるのに対し、「神」は人間にない巨大な力をもっていても、「法」の覚知には至らず、法のもとに服すべき存在に過ぎない。

 すなわち、神も迷いの衆生であり、仏よりも遥かに低い位置にあって仏に仕え、仏法を守る働きをするのである。インドの宗教において神を意味する言葉は「デーヴァ」であるが、この言葉は漢訳された場合「天」と訳される。すなわち、十界の衆生の中で神は「天界の衆生に過ぎない」というのが仏教の基本的な神観念である。

 しかも、仏法の「法」は万物を貫くのであるから、「神」もまた仏法の「法」を源泉として、その働きを顕す。故に正しい仏法が行われない世界においては「神」はその善の活力を失う。このように「神」がこの世界における善の活力を喪失することを「神天上」と表現したのであり、金光明経などに示される「神天上法門」は、仏教の基本的立場から出ているものといえる。

 なお、これまでの部分では、社会一般の人々が悪知識に誑かされて謗法に堕すことを述べられてきたが、仁王経に引用されたこの部分では、とくに国家の権力者・指導者階層が悪知識に誑かされ、国中が謗法化することによって、現実世界に種々の災禍が生じてくるのである。

 すなわち、ここでは権力と仏法の関係に触れられているが、この点についての詳しい展開は立正安国論に委ねられているのである。

0001~0016 唱法華題目抄 現代語訳のみ

00010016 唱法華題目抄 現代語訳のみ

 

0008:180009:02 第六問

 

本文

 

  問うて云く始めに智者の御物語とて申しつるは所詮後世の事の疑わしき故に善悪を申して承らんためなり、彼の義等は恐ろしき事にあるにこそ侍るなれ一文不通の我等が如くなる者はいかにしてか法華経に信をとり候べき又心ねをば何様に思い定め侍らん、

 

現代語訳

 

 問うて言う。初めに、智慧者が語ったと言ったのは、所詮、後世のことが疑わしいために、善と悪を述べて理解しようとしたのである。かの教義は恐ろしいことであるが、理解力に乏しい私たちのような者は、どのようにして法華経を信じたらよいのか。また、心根をどのように思い定めればよいのか。

 

0009:020009:04 第六答

 

本文

 

  答えて云く此の身の申す事をも一定とおぼしめさるまじきにや其の故はかやうに申すも天魔波旬・悪鬼等の身に入つて人の善き法門を破りや・すらんとおぼしめされ候はん一切は賢きが智者にて侍るにや。

現代語訳

 

 答えて言う。この私の申しあげることも確かなことと思われないであろう。

その理由は、このように申し上げても、天魔や波旬[人間を殺したり、善を妨げる悪魔]・悪鬼等が私の身に入って、人が善いという法門を破折しているのだと思われるからである。すべて賢いことが智慧者であろうか。

 

0009:050009:06 第七問

 

本文

 

  問うて云く若しかやうに疑い候はば我身は愚者にて侍り万の智者の御語をば疑いさて信ずる方も無くして空く一期過し侍るべきにや、

 

現代語訳

 

  問うて言う。もしそのように疑われるならば、我が身は愚か者である。万の智慧者の言葉を疑い、信じる方法も無くして、空しく一生を過ごしてしまうのか。

 

0009:060010:03 第七答

 

本文

 

  答えて云く仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か、又依了義経不依不了義経と説かれて候へば愚癡の身にして一代聖教の前後浅深を弁えざらん程は了義経に付かせ給い候へ、了義経不了義経も多く候阿含小乗経は不了義経・華厳・方等・般若・浄土の観経等は了義経、又四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経・法華経は了義経、涅槃経を法華経に対すれば法華経は了義経・涅槃経は不了義経、大日経を法華経に対すれば大日経は不了義経・法華経は了義経なり、故に四十余年の諸経並に涅槃経を打ち捨てさせ給いて法華経を師匠と御憑み候へ法華経をば国王・父母・日月・大海・須弥山・天地の如くおぼしめせ、諸経をば関白・大臣・公卿・乃至万民・衆星・江河・諸山・草木等の如くおぼしめすべし、我等が身は末代造悪の愚者・鈍者・非法器の者、国王は臣下よりも人をたすくる人父母は他人よりも子をあはれむ者日月は衆星より暗を照らす者法華経は機に叶わずんば況や余経は助け難しとおぼしめせ、又釈迦如来と阿弥陀如来・薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏菩薩は我等が慈悲の父母此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとどまれりとおぼしめせ、諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕わさずとおぼしめせ法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍り、而るを当世の学者・法華経をば一切経に勝れたりと讃めて、而も末代の機に叶わずと申すを皆信ずる事豈謗法の人に侍らずや、只一口におぼしめし切らせ給い候へ所詮法華経の文字を破りさきなんどせんには法華経の心やぶるべからず、又世間の悪業に対して云いうとむるとも人人用ゆべからず只相似たる権経の義理を以て云いうとむるにこそ人はたぼらかさるれとおぼしめすべし。

 

現代語訳

 

答えて言う。

仏の遺言に「依法不依人」と説かれているので、経のとおりに説かないのであれば、どんなに立派な人であろうとも信用してはいけないようである。

また、「依了義経不依不了義経(了義経[仏の道理を説いた経]を根拠とし、不了義経[仏が衆生の機根に合わせて説いた経]を根拠としてはならない)」と説かれているので、愚かな身で、釈尊一代の聖教の前後や浅深を分別できないなら、了義経に付くことである。

了義経・不了義経にも多くある。阿含小乗経は不了義経で、華厳・方等・般若・浄土の観経等は了義経である。また四十年余りの諸経は、法華経と比較すると不了義経であり、法華経は了義経となる。涅槃経と法華経を比較するならば、法華経は了義経となり涅槃経は不了義経となる。大日経と法華経を比較すれば、大日経は不了義経で法華経は了義経である。

したがって、四十年余りの諸経並びに涅槃経は捨てて、法華経を師匠としなければならない。法華経を国王・父母・太陽や月・大海・須弥山・天地のように思いなさい。諸経は関白・大臣・公卿から万民・衆星・江河・諸山・草木等であると思いなさい。

 私たちの身は、末法の時代に悪を作る愚か者であり、鈍者・非法器の者である。国王は臣下よりも国民を助ける人である。父母は他人よりも子を哀れむ者である。太陽や月は多くの星より暗闇を照らすのである。法華経が機に叶わないというのであれば、余経はなおさら助け難いと思いなさい。

また釈迦如来と阿弥陀如来・薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏・菩薩は、私たちの慈悲の父母である。この仏や菩薩が衆生を教化する慈悲の極理はただ法華経にのみとどまると思いなさい。

 諸経には悪人・愚者・鈍者・女人・根欠[成仏の機根がかけている者]等の者を救う秘術はいまだ説き顕わされていないと思いなさい。

 法華経はすべての経よりも勝れている。理由はただ以上のことによる。

それを今の時代の学者は、法華経はすべての経より勝れているとほめていながら、末法の時代の機には適応しないと言う。このことをすべての者に信じさせていることが、どうして謗法の人とならないことがあろうか。ただ一口に思い切りなさい。所詮、法華経の文字を破ったり裂いたりなどしても、法華経の心は破ることはできない。

また、世間の悪業に対して、嫌われるように言おうとも、人々は信用してはいけない。ただ似たような権経の意味や道理をもって嫌うようにさせることに対して、だまされているのだと思いなさい。

 

0010:040010:08 第八問

 

本文

 

  問うて云く或智者の申され候しは四十余年の諸経と八箇年の法華経とは成仏の方こそ爾前は難行道・法華経は易行道にて候へ、往生の方にては同事にして易行道に侍り法華経を書き読みても十方の浄土・阿弥陀仏の国へも生るべし観経等の諸経に付いて弥陀の名号を唱えん人も往生を遂ぐべし只機縁の有無に随つて何をも諍ふべからず、但し弥陀の名号は人ごとに行じ易しと思いて日本国中に行じつけたる事なれば法華経等の余行よりも易きにこそと申されしは如何、

 

現代語訳

 

 問うて言う。智慧者の言われるには、四十年余りの諸経と、八年の間に説かれた法華経において、成仏については、爾前は難行道であり、法華経は易行道である。往生については、同じことであり、易行道である法華経を書いたり読んだりしても、十方の浄土・阿弥陀仏の国へも生れることができる。観経等の諸経に付いて阿弥陀の名号を称える人も往生を遂げる。ただ機縁の有無に随うのであって、何を争うことがあろう。ただし、阿弥陀の名号は人ごとに行じやすいと思って、日本国中に修行をいいつけた事であるから、法華経等の他の修行よりもやさしい、と言われていることはどう考えるか。

 

0010:080011:14 第八答

 

本文

 

  答えて云く仰せの法門はさも侍るらん又世間の人も多くは道理と思いたりげに侍り但し身には此の義に不審あり、其の故は前に申せしが如く末代の凡夫は智者と云うともたのみなし世こぞりて上代の智者には及ぶべからざるが故に愚者と申すともいやしむべからず経論の証文顕然ならんには抑無量義経は法華経を説くが為の序分なり、然るに始め寂滅道場より今の常在霊山の無量義経に至るまで其の年月日数を委く計へ挙げれば四十余年なり、其の間の所説の経を挙るに華厳・阿含・方等・般若なり所談の法門は三乗・五乗・所習の法門なり修行の時節を定むるには宣説菩薩歴劫修行と云ひ随自意随他意を分つには是を随他意と宣べ四十余年の諸経と八箇年の所説との語同じく義替れる事を定めるには文辞一と雖ど義各異るととけり成仏の方は別にして往生の方は一つなるべしともおぼえず華厳・方等・般若・究竟最上の大乗経・頓悟・漸悟の法門・皆未顕真実と説かれたり此の大部の諸経すら未顕真実なり何に況や浄土の三部経等の往生極楽ばかり未顕真実の内にもれんや其の上・経経ばかりを出すのみにあらず既に年月日数を出すをや、然れば華厳・方等・般若等の弥陀往生已に未顕真実なる事疑い無し、観経の弥陀往生に限つて豈多留難故の内に入らざらんや、若し随自意の法華経の往生極楽を随他意の観経の往生極楽に同じて易行道と定めて而も易行の中に取つても猶観経の念仏往生は易行なりと之を立てられば権実雑乱の失・大謗法たる上一滴の水漸漸に流れて大海となり一塵積つて須弥山となるが如く漸く権経の人も実経にすすまず実経の人も権経におち権経の人次第に国中に充満せば法華経随喜の心も留り国中に王なきが如く人の神を失えるが如く法華・真言の諸の山寺荒れて諸天善神・竜神等・一切の聖人国を捨てて去らば悪鬼便りを得て乱れ入り悪風吹いて五穀も成らしめず疫病流行して人民をや亡さんずらん、此の七八年が前までは諸行は永く往生すべからず善導和尚の千中無一と定めさせ給いたる上選択には諸行を抛てよ行ずる者は群賊と見えたりなんど放語を申し立てしが、又此の四五年の後は選択集の如く人を勧めん者は謗法の罪によつて師檀共に無間地獄に堕つべしと経に見えたりと申す法門出来したりげに有りしを、始めは念仏者こぞりて不思議の思いをなす上念仏を申す者無間地獄に堕つべしと申す悪人外道ありなんどののしり候しが念仏者・無間地獄に堕つべしと申す語に智慧つきて各選択集を委く披見する程にげにも謗法の書とや見なしけん千中無一の悪義を留めて諸行往生の由を念仏者毎に之を立つ、然りと雖も唯口にのみゆるして心の中は猶本の千中無一の思いなり在家の愚人は内心の謗法なるをばしらずして諸行往生の口にばかされて念仏者は法華経をば謗ぜざりけるを法華経を謗ずる由を聖道門の人の申されしは僻事なりと思へるにや、一向諸行は千中無一と申す人よりも謗法の心はまさりて候なり失なき由を人に知らせて而も念仏計りを亦弘めんとたばかるなり偏に天魔の計りごとなり。

 

現代語訳

 

答えて言う。仰せの法門は、そうであるかも知れない。また、世間の人も多くは道理であると思うかも知れない。

ただし私はこの主張を不審に思う。

その理由は、先に申しあげたように、末法の時代の凡夫には、智慧者という頼るものがない。頼るもののない時代には、誰も彼も上代の智慧者には及ばないため、愚か者といっても卑しんではならない。経や論の証文に顕然であるからには。

そもそも無量義経は法華経を説く為の序分である。したがって、釈尊が初めて説いた寂滅道場から、今の常在霊鷲山の無量義経に至るまでの年月や日数を詳しく数えたら四十年余りである。

その間に説かれた経を挙げると、華厳・阿含・方等・般若である。語られた法門は三乗・五乗・所習の法門である。修行の時期を定めれば、「宣説菩薩歴劫修行」といい、随自意・随他意を分けるなら、これを随他意と宣べ、四十年余りの諸経と八箇年の所説において、言葉が同じで意味が変わる事を定めるために、「文辞一といえども、意味はそれぞれ異なる」と説かれている。成仏の方は別にして、往生の方は一つであるとも思われない。

華厳・方等・般若・究竟最上の大乗経・頓悟・漸悟の法門については、「すべていまだ真実をあらわしていない」と説かれている。この大部の諸経すら「未顕真実」である。まして浄土の三部経等の往生極楽だけが、「未顕真実」でないはずがない。

そのうえ、経ばかりを出すだけではない。既に年月・日数を出している。したがって、華厳・方等・般若等の阿弥陀往生はすでに「未顕真実」であることは疑いない。観経の阿弥陀往生に限ってどうして「多留難故」の内に入らないことがあろうか。

もし、随自意の法華経の往生極楽と随他意の観経の往生極楽は同じであり易行道である、と定めて、しかも易行の中にとってもなお観経の念仏往生は易行である、とこれを立てられたならば、権実雑乱の罪・大謗法であるうえ、一滴の水が次第に流れて大海となり、一粒の塵が積って須弥山となるように、やがて権経の人も実経にすすまず、実経の人も権経におち、権経の人は次第に国中に充満するので、法華経を随喜する心も留まり、国に王がいなくなり、人も精神を失うように、法華・真言の多くの山寺は荒れ果てる。

諸天善神・竜神等・一切の聖人が国を捨て去ったならば、悪鬼が便りを得て乱れ入り、悪風が吹いて五穀も実らず、疫病は流行して人民を滅ぼすだろう。この七・八年前までは、諸行では永く往生することができなかった。善導和尚が千中無一と定めたうえ、選択集には諸行を抛てよ、修行する者は群賊に見えるなどと放語を申し立てたためである。

またこの四・五年の後は選択集のように、人に勧める者は謗法の罪によって師匠と弟子共に無間地獄に堕ちると経に見える、という法門が出来したので、初めは念仏者はこぞって不思議と思ったうえ、念仏を称える者は無間地獄に堕ちるだろうという悪人や外道がいると非難したが、念仏者は無間地獄に堕ちるだろうという言葉に智慧がついて、それぞれ選択集を詳しく見てみると、いかにも謗法の書であると見なした。そして千中無一の悪義を留めて、諸行往生の由を念仏者毎に立てた。しかしただ口で言うばかりで、心の中ではなおもとの千中無一の思いを持っていた。在家の愚かな人は、内心では謗法であることを知らずに、諸行往生の口に馬鹿され、念仏者は、法華経を誹謗しなかったが、法華経を誹謗する訳を聖道門の人が言うことは間違いであると思ったのであろうか。ただ諸行は千中無一であるという人よりも、謗法の心は勝っている。罪のない理由を人に知らせて、しかも念仏だけをまた弘めようとたぶらかす。ひとえに天魔の計りごとである。

 

0011:150011:18 第九問

 

本文

 

  問うて云く天台宗の中の人の立つる事あり天台大師爾前と法華と相対して爾前を嫌うに二義あり、一には約部
四十余年の部と法華経の部と相対して爾前は麤なり法華は妙なりと之を立つ二には約教・教に麤妙を立て華厳・方
等・般若等の円頓速疾の法門をば妙と歎じ華厳・方等・般若等の三乗歴別の修行の法門をば前三教と名づけて麤なりと嫌へり円頓速疾の方をば嫌わず法華経に同じて一味の法門とせりと申すは如何、

 

現代語訳

 

 問うて言う。天台宗の中の人が立てることがある。天台大師は、爾前経と法華経を相対して、爾前経を嫌うことに二つの理由があるといっている。

 一つには、約部四十年余りの部と、法華経の部とを相対して、爾前経は麤であり、法華経は妙であると立てる。

 二つには、約教では教に麤と妙を立て、華厳・方等・般若等の円頓速疾の法門を妙と讃嘆しながら、華厳・方等・般若等の三乗歴別の修行の法門を前三教と名づけて麤であると嫌った。円頓速疾の方を嫌わず、法華経と同じ一味の法門とするといわれたのは何故か。

 

0011:180012:11 第九答

 

本文

 

  答えて云く此の事は不審にもする事侍るらん然る可しとをぼゆ天台妙楽より已来今に論有る事に侍り天台の三大部六十巻総じて五大部の章疏の中にも約教の時は爾前の円を嫌う文無し、只約部の時ばかり爾前の円を押ふさねて嫌へり、日本に二義あり園城寺には智証大師の釈より起つて爾前の円を嫌ふと云い山門には嫌はずと云う互に文釈あり倶に料簡あり然れども今に事ゆかず、但し予が流の義には不審晴れておぼえ候、其の故は天台大師四教を立て給うに四の筋目あり、一には爾前の経に四教を立つ二には法華経と爾前と相対して爾前の円を法華の円に同じて前三教を嫌う事あり、三には爾前の円をば別教に摂して前三教と嫌ひ法華の円をば純円と立つ四には爾前の円をば法華に同ずれども但法華経の二妙の中の相待妙に同じて絶待妙には同ぜず、此の四の道理を相対して六十巻をかんがうれば狐疑の冰解けたり一一の証文は且つは秘し且つは繁き故に之を載せず、又法華経の本門にしては爾前の円と迹門の円とを嫌う事不審なき者なり、爾前の円をば別教に摂して約教の時は前三為麤後一為妙と云うなり此の時は爾前の円は無量義経の歴劫修行の内に入りぬ、又伝教大師の註釈の中に爾前の八教を挙げて四十余年未顕真実の内に入れ或は前三教をば迂回と立て爾前の円をば直道と云い無量義経をば大直道と云う委細に見る可し。

 

現代語訳

 

 答えて言う。この事を不審とする事は当然と思われる。

 天台大師や妙楽大師以来、今に至るまで議論のあることである。

 天台大師の三大部・六十巻、総じて五大部の章疏の中にも、約教の時は爾前の円を嫌う文は無い。ただ、約部の時のみ爾前経の円を押え集めて嫌われた。

 日本にも二つの義がある。園城寺では智証大師の釈より起こって、爾前経の円を嫌うといい、比叡山では嫌っていないという。互いに文や解釈があり、ともに料簡がある。しかしながら、今だ決着していない。

 ただし我が流の教えでは不審は晴れたと理解している。

 その理由は、天台大師が四教を立てられたことに四つの筋目がある。一には爾前の経に四教を立て、二には法華経と爾前と相対して、爾前の円は法華の円と同じとして前三教を嫌う事があり、三には爾前の円を別教に摂して前三教と嫌い、法華の円を純円と立てて、四には爾前の円を法華経と同じとするけれども、ただし法華経の二妙の中の相待妙と同じであり、絶待妙とは同じであるとしていない。

 この四つの道理を相対して六十巻を考えれば、狐疑の氷は解けるのである。一つ一つの証文は、一方では秘し、一方では繁多なためこれを載せていない。

また法華経の本門においては、爾前の円と迹門の円を嫌うことは不審のないことである。爾前の円を別教に摂して、約教の時は「前三為・後一為妙」という。この時は、爾前の円は無量義経の歴劫修行の内に入る。

 また、伝教大師の注釈の中に、爾前の八教を挙げて「四十余年未顕真実」の内に入れ、あるいは前三教を迂回と立て、爾前の円を直道といい、無量義経を大直道という。詳しく見るべきである。

 

0012:120012:12 第十問

 

本文

 

  問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、

 

現代語訳

 

問うて言う。法華経を信じる人は、本尊や行儀、並びに普段の所行はどのようにすべきか。

 

0012:120012:18 第十答

 

本文

 

  答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

 

現代語訳

 

 答えて言う。第一に、本尊は法華経八巻・一巻・一品あるいは題目を書いて本尊と定めるべきである、と法師品並びに神力品に説かれている。また、物足りない人は、釈迦如来・多宝仏を書いたり造ったりして、法華経の左右に立てて奉じなさい。またそれでも物足りない人は、十方の世界の諸仏・普賢菩薩等を造ったり書いたりして奉じなさい。

 行儀は、本尊の前では必ず坐立行である。道場を出たならば、行住坐臥を選ばない。普段の所行は、題目を南無妙法蓮華経と唱えなさい。物足りない人は、一偈・一句を読んで奉じなさい。

 助縁とするには、南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等を心に随えなさい。愚か者が多い時代であるから、一念三千の観を先とせず、その志がある人は、必ず習学してこれを観じるべきである。

 

001301001301 第11

 

本文

 

   問うて云く只題目計を唱うる功徳如何、

 

現代語訳

 

  問うて言う。ただ題目だけを唱える功徳は何か。

 

0013:010013:14 第11

 

本文

 

  答えて云く釈迦如来・法華経をとかんとおぼしめして世に出で・ましまししかども四十余年の程は法華経の御名を秘しおぼしめして御年三十の比より七十余に至るまで法華経の方便をまうけ七十二にして始めて題目を呼び出させ給へば諸経の題目に是を比ぶべからず、其の上法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり、天台大師・玄義十巻を造り給う第一の巻には略して妙法蓮華経の五字の意を宣べ給う、第二の巻より七の巻に至るまでは又広く妙の一字を宣べ八の巻より九の巻に至るまでは法蓮華の三字を釈し第十の巻には経の一字を宣べ給へり、経の一字に華厳・阿含・方等・般若・涅槃経を収めたり妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生・三無差別と立て給う、一切の諸仏菩薩十界の因果・十方の草木・瓦礫等・妙法の二字にあらずと云う事なし、華厳・阿含等の四十余年の経経・小乗経の題目には大乗経の功徳を収めず又大乗経にも往生を説く経の題目には成仏の功徳をおさめず又王にては有れども王中の王にて無き経も有り仏も又経に随つて他仏の功徳をおさめず平等意趣をもつて他仏自仏とをなじといひ或は法身平等をもて自仏・他仏同じといふ、実には一仏に一切仏の功徳をおさめず今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて十方世界の三身円満の諸仏をあつめて釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に一仏・一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり、故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり諸仏・諸経の題目は法華経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし。

 

現代語訳

 

 答えて言う。釈迦如来は、法華経を説こうと思われて世に出現されたのであるが、四十年余りの間は法華経の名目を隠そうと考えられた。御年三十のころより七十余歳に至るまでは法華経の方便をもうけ、七十二歳で初めて題目を呼び出された。したがって、諸経の題目とこれを比べてはいけない。そのうえ、法華経の肝心である方便品・寿量品の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字に収まっている。

 天台大師は、法華玄義十巻を著わされ、第一の巻には略して妙法蓮華経の五字の趣旨を述べられた。第二の巻より七の巻に至るまでは、また広く妙の一字を述べられた。八の巻より九の巻に至るまでは法蓮華の三字を解説され、第十の巻で経の一字を述べられた。経の一字に華厳・阿含・方等・般若・涅槃経を収めている。

 妙法の二字は、法華玄義では百界千如・心仏衆生の法門であり、摩訶止観十巻では一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生・三無差別と立てられた。

 一切の諸仏菩薩・十界の因果・十方の草木・瓦礫等で、妙法の二字でないというものはない。

 華厳・阿含等の四十年余りの経々・小乗経の題目には大乗経の功徳は収められていない。また、大乗経も往生を説くが、経の題目には成仏の功徳を収めていない。

また王であるけれども、王の中の王でない経もある。仏もまた経に随って、他仏の功徳を収めていない。

 平等の見地に立って一切衆生に説法したとき、他仏と自仏は同じであると説き、仏の身はいかなる姿を示すとも、すべて平等であり無差別であると説くとき、自仏と他仏は同じであると説く。

 実際には、一仏に一切仏の功徳を収めない。今、法華経は四十年余りに説かれた諸経を一経に収めて、十方世界の三身・円満の諸仏を集めて釈迦一仏の分身の諸仏と説くので、一仏とはあらゆる仏であり、妙法の二字に仏はすべて収まるのである。故に妙法蓮華経の五字を唱える功徳は莫大である。諸仏・諸経の題目は、法華経の所開であり、妙法は能開であると知って、法華経の題目を唱えなさい。

 

0013:150014:03 第12

 

本文

 

  問うて云く此の法門を承つて又智者に尋ね申し候えば法華経のいみじき事は左右に及ばず候但し器量ならん人は唯我が身計りは然る可し、末代の凡夫に向つてただちに機をも知らず爾前の教を云いうとめ法華経を行ぜよと申すはとしごろの念仏なんどをば打ち捨て又法華経には未だ功も入れず有にも無にもつかぬようにてあらんずらん、又機も知らず法華経を説かせ給はば信ずる者は左右に及ばず若し謗ずる者あらば定めて地獄に堕ち候はんずらん、其の上仏も四十余年の間・法華経を説き給はざる事は若但讃仏乗・衆生没在苦の故なりと在世の機すら猶然なり何に況や末代の凡夫をや、されば譬喩品には「仏舎利弗に告げて言わく無智の人の中に此の経を説くことなかれ」云云此等の道理を申すは如何が候べき、

 

現代語訳

 

 問うて言う。この法門を拝聴して、また智慧者に質問したところ、『法華経のありがたいことをとやかく言うつもりはない。ただし、ふさわしい人は、ただ自分の身だけがそうである。末法の時代の凡夫に向かってただちに、機根も知らないのに、爾前の教えを説明して遠ざけ、法華経を修行しなさいというのは、年来の念仏などを打ち捨て、また法華経にはいまだ功も入れず、有にも無にもつかないようなものではないか。

また機根も知らずに法華経を説いたならば、信じる者は非難しないであろうが、もし誹謗する者があれば、必ず地獄に堕ちるであろう。

 そのうえ、仏が四十年余りの間、法華経を説かれなかった事は、「若但讃仏乗・衆生没在苦(もしただ仏乗を讃めるならば衆生は苦に没在す)」という理由からである。釈尊が在世であった時の衆生の機根でさえこの通りであるから、末法の時代の凡夫はなおさらである。

 したがって、譬喩品には「仏が舎利弗に告げられた。無智の人の中においてこの経を説いてはならない」と説かれている。』などという。これらの道理を、どう考えるべきか。

 

0014:030014:06 第12

 

本文

 

  答えて云く智者の御物語と仰せ承り候へば所詮末代の凡夫には機をかがみて説け左右なく説いて人に謗ぜさする事なかれとこそ候なれ、彼人さやうに申され候はば御返事候べきやうは抑若但讃仏乗・乃至無智人中等の文を出し給はば又一経の内に凡有所見・我深敬汝等等と説いて不軽菩薩の杖木瓦石をもつて・うちはられさせ給いしをば顧みさせ給はざりしは如何と申させ給へ。

 

現代語訳

 

 答えて言う。智慧者の話を伺うと、所詮末法の時代の凡夫には、機根と照らし合わせてから説け、あれこれ考えず説いて人に誹謗させることのないように、ということであろうか。

 その人がそのように言われたならば、返事することは、そもそも「若但讃仏乗・乃至無智人中」等の文を出したのであれば、また経のなかに「凡有所見(およそ何でも見るところがあれば)・我深敬汝(わたしは深くあなたがたを敬う)等」等と説いて、不軽菩薩が杖や木や瓦石で、打たれたことを気にかけないのはどうしてか、と尋ねなさい。

 

0014:070014:07 第13

 

本文

 

  問うて云く一経の内に相違の候なる事こそよに得心がたく侍ればくわしく承り候はん、 

 

現代語訳

 

問うて言う。同一の経の中に相違することがあるのは、理解し難いので詳しくたまわりたい。

 

001407001511 第13

 

本文

 

  答えて云く方便品等には機をかがみて此の経を説くべしと見え不軽品には謗ずとも唯強いて之を説くべしと見え侍り一経の前後水火の如し、然るを天台大師会して云く「本已に善有るは釈迦小を以て之を将護し本未だ善有らざるは不軽大を以て之を強毒す」文・文の心は本と善根ありて今生の内に得解すべき者の為には直に法華経を説くべし、然るに其の中に猶聞いて謗ずべき機あらば暫く権経をもてこしらえて後に法華経を説くべし、本と大の善根もなく今も法華経を信ずべからずなにとなくとも悪道に堕ちぬべき故に但押して法華経を説いて之を謗ぜしめて逆縁ともなせと会する文なり、此の釈の如きは末代には善無き者は多く善有る者は少し故に悪道に堕ちんこと疑い無し、同くは法華経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁と成す可きか然らば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事諍い無き者をや、又法華経の方便品に五千の上慢あり略開三顕一を聞いて広開三顕一の時仏の御力をもて座をたたしめ給ふ後に涅槃経並に四依の辺にして今生に悟を得せしめ給うと、諸法無行経に喜根菩薩・勝意比丘に向つて大乗の法門を強いて説ききかせて謗ぜさせしと、此の二の相違をば天台大師会して云く「如来は悲を以ての故に発遣し喜根は慈を以ての故に強説す」文・文の心は仏は悲の故に後のたのしみをば閣いて当時法華経を謗じて地獄にをちて苦にあうべきを悲み給いて座をたたしめ給いき、譬えば母の子に病あると知れども当時の苦を悲んで左右なく灸を加へざるが如し、喜根菩薩は慈の故に当時の苦をばかへりみず後の楽を思いて強いて之を説き聞かしむ、譬えば父は慈の故に子に病あるを見て当時の苦をかへりみず後を思ふ故に灸を加うるが如し、又仏在世には仏法華経を秘し給いしかば四十余年の間等覚不退の菩薩名をしらず、其の上寿量品は法華経八箇年の内にも名を秘し給いて最後にきかしめ給いき末代の凡夫には左右なく如何がきかしむべきとおぼゆる処を妙楽大師釈して云く「仏世は当機の故に簡ぶ末代は結縁の故に聞かしむ」と釈し給へり文の心は仏在世には仏一期の間多くの人不退の位にのぼりぬべき故に法華経の名義を出して謗ぜしめず機をこしらへて之を説く仏滅後には当機の衆は少く結縁の衆多きが故に多分に就いて左右なく法華経を説くべしと云う釈なり是体の多くの品あり又末代の師は多くは機を知らず機を知らざらんには強いて但実教を説くべきかされば天台大師の釈に云く「等しく是れ見ざれば但大を説くに咎無し」文・文の心は機をも知らざれば大を説くに失なしと云う文なり又時の機を見て説法する方もあり皆国中の諸人・権経を信じて実経を謗じ強に用いざれば弾呵の心をもて説くべきか時に依つて用否あるべし。

 

現代語訳

 

  答えて言う。方便品等には、機根と照らし合わせてこの経を説きなさいとあり、不軽品には誹謗されたとしても、ただ強いてこれを説きなさいとある。一経の前と後では水と火のようである。

このことを天台大師は解説して述べている。

 「本と已に善がある。釈迦は小をもってこれを将護し、本にいまだ善がないならば、不軽は大をもってこれを強毒する」

 文の趣旨は、本来善根があって、今の世の内に覚りを得る者の為には、直ぐに法華経を説くべきである。しかし、その中でなお聞いても誹謗する機根があるなら、しばらく権経で機根を調え、その後に法華経を説くべきである。本来大きい善根もなく、今も法華経を信じないから、理由もなく悪道に堕ちるので、ただ無理にでも法華経を説いてこれを誹謗させて逆縁としなさい、と理解する文である。

 この解釈の通りであれば、末法の時代には、善の無い者が多く、善の有る者は少ないために、悪道に堕ちることは疑い無い。同様に、法華経を強いて説き聞かせて"毒鼓の縁"とするべきであろう。したがって、法華経を説いて誹謗されることによって縁を結ぶべき時節であることは論争するまでもないであろう。

 また、法華経の方便品に、五千人の増上慢の者がいると説かれている。「略開三顕一」を聞いて、「広開三顕一」の時、仏の御力をもってその場から立ち去らせた後に、涅槃経並びに四依の辺で今の世において覚りを得させられたとある。諸法無行経には、喜根菩薩が勝意比丘に向って大乗の法門を強いて説き聞かせて誹謗させたとある。

この二つの相違を天台大師は解説して述べている。

 「如来は悲をもっての故に追い出し、喜根は慈をもっての故に強説した」

 文の趣意は、仏は悲の故に後の楽しみを閣いてその時に、法華経を誹謗して地獄に堕ちて苦に会うであろうことを悲しまれて、座を立たせた。

 たとえば、母が子に病のあることを知っているので、今の苦しみを悲しんで、ためらわずに灸をすえるようなものである。喜根菩薩は慈悲の故に当時の苦しみを顧みず、後の楽を思って、強いてこれを説いて聞かせた。

 また、仏が在世のときには、仏は法華経を秘密にされたので、四十年余りの間、等覚や不退の菩薩の名を知らなかった。そのうえ、寿量品は法華経を説かれた八年の間にも名を秘密にされた。そこで最後に聞かされた末法の時代の凡夫にためらいなく、どのように聞かせたらよいかと思われるところ、妙楽大師が解説して述べられた。

 「仏の在世には当機の故にえらぶ。末代は結縁の故に聞かせる」

 文の趣意は、仏の在世中には、仏の一生の間、多くの人が不退の位にのぼったので、法華経の名義を出して誹謗させずに、機根を調えてこれを説いた。仏滅後には今の機根の大衆は少なく、結縁の大衆が多いので、多分に就いてためらうことなく法華経を説きなさい、という説明である。このような多くの品がある。

 また末法の時代の師の多くは機根を知らない。機根を知らない者には強いてただ実教を説くべきであろう。

 したがって、天台大師の解釈にこうある。

 「等しくこれを見なければ、ただ大を説いても罪は無い」

 文の趣意は、機根を知らなければ、大を説いても罪はない、という文である。また時の機根を見て説法する方法もある。国中のすべての人々が権経を信じて実経を誹謗し、強いて用いないならば、弾呵の心をもって説くべきであろう。時によって用いるか否かである。

 

0015:120015:12 第14

 

本文

 

  問うて云く 唐土の人師の中に一分一向に権大乗に留つて実経に入らざる者はいかなる故か候、

 

現代語訳

 

  問うて言う。中国の人師の中で、わずかにまたは全て権大乗のみに留まり、実経に入らなかった者がいるが、どういう理由か。

 

0015:120016:06 第14

 

本文

 

  問うて云く唐土の人師の中に一分一向に権大乗に留つて実経に入らざる者はいかなる故か候、答えて云く仏世に出でましまして先ず四十余年の権大乗・小乗の経を説き後には法華経を説いて言わく「若以小乗化・乃至於一人・我則堕慳貪・此事為不可」文文の心は仏但爾前の経許りを説いて法華経を説き給はずば仏慳貪の失ありと説かれたり、後に属累品にいたりて仏右の御手をのべて三たび諫めをなして三千大千世界の外・八方・四百万億那由佗の国土の諸菩薩の頂をなでて未来には必ず法華経を説くべし、若し機たへずば余の深法の四十余年の経を説いて機をこしらへて法華経を説くべしと見えたり、後に涅槃経に重ねて此の事を説いて仏滅後に四依の菩薩ありて法を説くに又法の四依あり実経をついに弘めずんば天魔としるべきよしを説かれたり故に如来の滅後後の五百年・九百年の間に出で給いし竜樹菩薩・天親菩薩等徧く如来の聖教を弘め給うに天親菩薩は先に小乗の説一切有部の人・倶舎論を造つて阿含十二年の経の心を宣べて一向に大乗の義理を明さず次に十地論・摂大乗論釈論等を造つて四十余年の権大乗の心を宣べ後に仏性論・法華論等を造りて粗実大乗の義を宣べたり竜樹菩薩亦然なり天台大師・唐土の人師として一代を分つに大小・権実顕然なり余の人師は僅かに義理を説けども分明ならず又証文たしかならず但し末の論師並に訳者・唐土の人師の中に大小をば分つて大にをいて権実を分たず或は語には分つといへども心は権大乗のをもむきを出でず此等は不退諸菩薩・其数如恒沙・亦復不能知とおぼえて候なり。

 

現代語訳

 

 答えて言う。仏は世に出現されて、まず四十年余りは権大乗・小乗の経を説き、後には法華経を説いて言われた。

 「若以小乗化・乃至於一人・我則堕慳貪・此事為不可(もし小乗をもってだれかある人を教化するならば、私はものおしみ・むさぼりに陥るだろう。このことはまったく誤りである)

 文の趣意は、仏がただ爾前の経だけを説いて、法華経を説かれなかったならば、仏には慳貪の罪がある、と説かれたのである。後に属累品に至って、仏は右の手を伸ばされて、三度諌められた。三千大千世界のほか、八方・四百万億那由佗の国土の無数の菩薩の頭を撫でて、「未来には必ず法華経を説きなさい。もし機根が絶えたならば、私の深法の四十年余りの経を説いて機根を調えて法華経を説きなさい」と。

 後に涅槃経に、重ねてこの事を「仏の入滅後に四依の菩薩が法を説くとき、また法の四依がある。実経をついに弘めなければ天魔と知りなさい」と説かれている。

 したがって、如来の入滅後、後の五百年・九百年の間に出現された竜樹菩薩・天親菩薩等は、もれることなく如来の聖教を弘められた。

 天親菩薩とは、先に小乗の『説一切有部』を著した人であり、そして倶舎論を著して阿含十二年の経の趣旨を述べ、まったく大乗の意味や道理を明かさなかった。次に十地論・摂大乗論・釈論等を著して、四十年余りの権大乗の主意をのべ、後に仏性論・法華論等を著してほぼ実大乗の教えを述べた。竜樹菩薩も同様である。

 天台大師は中国の人師として、釈尊の一代を分類し、大・小・権・実を明らかにした。その他の人師も僅かに意味や理論を述べているが、明確ではない。また証文も不確かである。ただし、末の学者や訳者、中国の人師は、大と小を分類し、大においては権と実は分類しなかった。あるいは、言葉では分類してはいたが、心では権大乗の趣きを出なかった。これらは「不退諸菩薩・其数如恒沙・亦復不能知(決して退くことのない多くの菩薩で、その数がガンジス河の砂の数ほどであるが、またまた仏智は知ることができない)」と思われる。

 

0016:070016:09 第15

 

本文

 

  疑つて云く唐土の人師の中に慈恩大師は十一面観音の化身牙より光を放つ、善導和尚は弥陀の化身口より仏をいだすこの外の人師通を現じ徳をほどこし三昧を発得する人世に多しなんぞ権実二経を弁へて法華経を詮とせざるや、

 

現代語訳

 

 疑って言う。中国の人師の中で、慈恩大師は十一面観音の化身と呼ばれ、牙より光を放った。善導和尚は阿弥陀の化身であり、口より仏を出した。このほかの人師も神通力を現じて徳をほどこし、三昧を発得する人は世に多い。どうして権・実の二経を分別して法華経を選択しないのか。

 

0016:090016:15 第15

 

本文

 

  答えて云く阿竭多仙人外道は十二年の間耳の中に恒河の水をとどむ婆籔仙人は自在天となりて三目を現ず、唐土の道士の中にも張階は霧をいだし鸞巴は雲をはく第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり通力をもて智者愚者をばしるべからざるか、唯仏の遺言の如く一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権経に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。

       文応元年太歳庚申五月二十八日日 蓮 花 押

     鎌倉名越に於て書き畢んぬ

 

現代語訳

 

 答えて言う。阿竭多仙人外道は、十二年の間耳の中にガンジス河の水を留め、婆籔仙人は自在天となって三つの目を現した。中国の道士の中においても、張階は霧をつくり、鸞巴は雲を吐いたという。第六天の魔王は、仏の入滅後に僧・尼・在家の男女・阿羅漢[声聞]・辟支仏[縁覚]の姿を現して、四十年余りの経を説いたといわれる。神通力をもって、智者か愚者かを知るべきではない。

ただ仏の遺言のとおりにすることなく、ひたすら権経を弘めて、実経を最後まで弘めない人師は、権経に宿習があって実経に入らない者か、あるいは魔にたぶらかされて神通力を現すのか。ただ法門で正邪をただすべきである。利根や神通力によってはならない。

       文応元年太歳庚申五月二十八日日 蓮 花 押

     鎌倉の名越で書きました。

0017~0033 立正安国論 0017:01~0017:14 第一段 災難由来の根本原因を明かす 0017:01~0017:09 第一章 災難の由来を問う 1

00170033 立正安国論 0017:010017:14 第一段 災難由来の根本原因を明かす 0017:010017:09 第一章 災難の由来を問う 1

 

本文

 

  旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩、既に大半に超え、之を悲まざる族、敢えて一人も無し。

  然る間、或は「利剣即是」の文を専らにして西土教主の名を唱え、或は「衆病悉除」の願を持って東方如来の経を誦し、或は「病即消滅・不老不死」の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め、或は「七難即滅・七福即生」の句を信じて百座百講の儀を調え、有るは秘密真言の教に因って五瓶の水を灑ぎ、有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄し、若しくは七鬼神の号を書して千門に押し、若しくは五大力の形を図して万戸に懸け、若しくは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て、若しくは万民百姓を哀んで国主・国宰の徳政を行う。

  然りと雖も、唯肝胆を摧くのみにして、弥飢疫に逼り、乞客目に溢れ、死人眼に満てり。臥せる屍を観と為し、並べる尸を橋と作す。観れば、夫れ、二離・璧を合せ、五緯・珠を連ぬ。三宝も世に在し、百王も未だ窮まらざるに、此の世早く衰え、其の法何ぞ廃れたる。是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤に由るや。

 

現代語訳

 

 旅客が来て嘆いていうには、近年から近日に至るまで、天変、地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛馬はいたるところに死んでおり、その死骸や骸骨が道路にいっぱいに満ちている。すでに大半の者が死に絶え、これを悲しまない者は一人もなく、万人の嘆きは、日に日につのるばかりである。

 そこで、あるいは浄土宗では「弥陀の名号は煩悩を断ち切る利剣である」との文を、ただひとすじに信じて念仏を称え、あるいは天台宗では「すべての病がことごとくなおる」という薬師経の文を信じて薬師如来の経を口ずさみ、あるいは「病がたちまちのうちに消滅して不老不死の境涯をうる」という詞を信じて、法華経の経文をあがめ、あるいは「七難がたちまちのうちに滅して七福を生ずる」という仁王般若経の句を信じて、百人の法師が百か所において仁王経を講ずる百座百講の儀式をととのえ、またあるいは真言宗では秘密真言の教えによって、五つの瓶に水を入れて祈禱を行い、あるいは禅宗では坐禅を組み、禅定の形式をととのえて、空観にふけり、さらにある者は七鬼神の名を書いて千軒の門に貼ってみたり、ある者は国王、万民を守護するという仁王経の五大力菩薩の形を書いて万戸に掲げ、あるいは天の神、地の神を拝んで四角四堺のお祭りをし、あるいは国王、国宰など、時の為政者が万民一切大衆を救済するために徳政を行っている。

 しかしながら、そのようなことをしているけれども、ただ心を砕き、夢中になって努力するのみで、ますます飢饉や疫病にせめられ、乞食は目にあふれ、死人はいたるところにころがっている。そのありさまはあたかも、うずたかく積まれた屍は物見台となしたようにみえ、道路に並んでいる死体は橋となしたように見えるのである。

 よくよく考えてみれば、太陽も月も星もなんの変化もなく、きちんと運行し、仏法僧の三宝も世の中に厳然とある。また、かつて平城天皇の御代に八幡大菩薩の託宣があって、かならず百代の王を守護すると誓ったというのに、いまだ百代にならないが、この世は早くも衰えてしまい、王法はどうして廃れてしまったのか。これはいかなる過失から生じたものであり、またいかなる誤りから、このような状態になってしまったのであろうか。

 

語釈

 

七難即滅・七福即生

 仁王経巻下・受持品第七に「其の国土の中に七つの難とすべき有り、一切の国王は、是の難の為の故に般若波羅蜜を講読せば、七難即ち滅し、七福即ち生じ万姓安楽にして帝王歓喜せん」とある。七難は仁王経、薬師経、金光明経等に説かれるが、仁王経の七難は①日月失度難(太陽や月の異常現象)②星宿失度難(星の異常現象)③災火難(種々の火災)④雨水難(異常な降雨・降雪や洪水)⑤悪風難(異常な風)⑥亢陽難(干ばつ)⑦悪賊難(内外の賊による戦乱)をいう。七福とは、これらの七難を滅すること。また仁王経疏巻下に説かれる悪竜・鬼を鎮める徳などの七徳をさす。

 

五瓶

 密教で災難を除くための祈禱を行う際、大壇の中央と四隅に置く五個の宝瓶で、五智・五部・五仏などを表示する。法門を師から弟子へ伝える儀式(灌頂)の際には、この五瓶に香水(各種の香を加えた清浄な水)を入れ、その水を受者の頭頂に智水として注ぐ。

〈五瓶の修法〉

 五瓶の修法は、壇の上に五瓶(白・青・赤・黄・黒)を置き、それぞれに五宝(金・銀・瑠璃・真珠・水晶)、五香(沈香・白檀・丁字・鬱金・薫陸または龍脳)、五薬(赤箭・人参・茯苓・石菖蒲・天門冬)、五穀(米・麦・粟・黍・豆)の二十種を混ぜ、五色の絹布で包んで瓶に入れ、これに水をそそぎ、花をさして行う。真言宗は、教義の探求や哲学的解明より、こうした呪術的な修法を本領とした。

 

七鬼神

 却温黄神呪経に疫病を起こすと説かれる七種の鬼神。同経には、①夢多難鬼、②阿佉尼鬼、③尼佉尸鬼、④阿佉那鬼、⑤波羅尼鬼、⑥阿毘羅鬼、⑦婆提梨鬼の七鬼神の名を書いて門に貼っておけば、鬼魔が近寄ることはなく、疫病や流行病を対治することができると説かれている。日蓮大聖人の御在世当時、災厄から免れようとして七鬼神の名を書いた紙を門に貼ることが行われていた。

 

五大力

 五大力菩薩のこと。国王が仏法僧の三宝を護持すれば、この五菩薩が国土の四方と中央で国王を守護するとされる。鳩摩羅什訳の仁王経巻下の受持品第七に説かれる仁王会の本尊である。中世には、五大力菩薩が天災地変や疫病などを除くという信仰が一般にも広がり、その図像が守り札として門戸に貼られるようになった。

 

四角四堺の祭祀

 陰陽道の攘災儀式の一つ。鎌倉時代においては、幕府の四隅で祭るのを四角祭、鎌倉の町の四堺にあたる小袋坂、小壷、六浦、片瀬で祭るのを四堺祭といった。

 

二離

 太陽と月のこと。「離」は明らか、並ぶ、連ぬの意があり、易の卦で「火」に配当され「明」である。ここから日月にあてられるようになった。

 

五緯

 五つの惑星、すなわち歳星(木星)、熒惑星(火星)、鎮星(土星)、太白星(金星)、辰星(水星)の総称。緯とは、天体のなかにあって、動くことをいう。

 

百王

 百代にわたる天皇、または百代目の天皇のこと。平安末期から鎌倉時代、天皇は百代で尽きるという一種の終末思想が広まっていた。これを百王思想、百王説という。「諫暁八幡抄」に「平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く『我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり』等云云」とあり、当時、百王を守護する八幡神に対する信仰が盛んに行われた。「立正安国論」御執筆当時の天皇は第九十代とされていた。

 

講義

 

 立正安国論は、日蓮大聖人の数多くある御書のなかでも、その最高峰にそびえる書である。それは、末法の全民衆救済の指南書であり、かつまた未来を映し出して曇りなき明鏡である。時代の変遷にかかわらず、未来永劫にわたる、国家の根本の書である。否、いかなる国家、民族にも通ずる、全世界、全人類に真実の幸福をもたらす偉大なる亀鏡である。

 そしてまた、立正安国とは王仏冥合論の別名であり、そこに脈打つ民衆救済の大精神は、実に日蓮大聖人の御一生の総体であり、これをおいてほかに、末法の法華経即日蓮大聖人の大仏法を信ずる行動はないのである。

 まことに、この一書こそ、苦悩に沈む民衆を救い、全人類の闇を照らす巨星といえよう。

 過去、幾度か、歴史に名を残す哲学者、宗教家、思想家等は、自己の畢生の書を世に問うた。しかし、その書によって、幾人の人間の幸福が、また全人類にどれほどの平和がもたらされたであろうか。相次ぐ混乱と動乱にゆさぶられている世界の現状は、まさにこれらの書に対する厳しい審判といえるのではないだろうか。

 しかし、ここに、ともすれば不安と絶望に流転されゆく人類の未来に、偉大なる光明を与え、希望と勇気をみなぎらせ、現実に、この地上から悲惨の二字を抹殺する力強き、生きた書こそ、この立正安国論なりと叫んでやまぬものである。

 立正安国論は、日蓮大聖人が御年39歳の文応元年(1260716日、幕府の役人の宿屋左衛門入道光則を通じて、時の権力者・北条時頼にあてた、第一回の国家諫暁の書である。そして、その形式は「旅客来りて嘆いて曰く」の冒頭で始まり、旅客と主人の十問九答の問答からなっている。

 ここに旅客とは、宗教の是非、曲直も知らず、誤れる宗教に執し、迷妄におおわれた一切衆生であり、別しては、時の国家権力たる北条時頼である。主人とは、一往、愚かな客に対して法華の正法を説き示す人であるが、再往は、実に日蓮大聖人が、日本国の、否、全世界の、一切衆生の主君であらせられることをあらわしているのである。すなわち撰時抄にいわく「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」(0256:11)と。

 国家諫暁は、たえず、時の最高権力者に対してなされるものだ。したがって、時には天皇に対してなされ、時には幕府に対してなされてきた。鎌倉幕府が滅び、京都に幕府が移った時に日目上人が天奏を行われたのも、その原理からである。されば、立正安国論の国家の対象たる客人の内容も、時とともに異なるのは当然である。

 この民主主義の時代にあっては、民衆に主権がある。さらには、権力者といえども、民衆より送り出された指導者であることも明瞭である。

 すなわちこの立正安国論は、現今においては、苦悩に沈み、絶望の淵に立たされた、日本の、全世界の人々に対してしたためられたものであり、別しては、日本の指導者、世界の指導者が、旅客にあたると拝すべきであろう。

 されば現今の心ある指導者よ、この果てしなき不幸を絶滅せんと心をくだく指導者よ、静かに日蓮大聖人の言々句々を拝せ。大聖人の燃ゆるがごとき、民衆救済の情熱よりほどばしり出る正義の言を聞け。されば、活路を切り開くことができることは絶対なりと、心より訴えるものである。

 旅客の最初の質問は、現在の世の中にはありとあらゆる災難が競い起こって、万人が嘆きのどん底にあえいでいるが、これは、いったい何の禍によるのか、なんの誤りによるのであるかとうい質問である。大聖人が、災難の由来、根本原因について説かれるための質問である。

 

当時の三災七難

 

 日蓮大聖人が、この立正安国論を著された当時の世相は、物情騒然たるものであった。大集経にいわく「我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には然定堅固・次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固・次の五百年には我法の中に老いて闘諍言訟して白法隠没せん」等云々。

 末法の初めは西暦1052とされている。釈尊滅後、年がたつにしたがって内容が失われ、ますます形式化した釈尊の仏法は、このころから不思議にも「闘諍言訟・白法隠没」の世相を出現するようになった。わが国では、当時摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある時代で、仏教の退廃は目をおおわしめるものがあり、天台宗ですら、慈覚・智証のために謗法と化し、叡山の僧は僧兵と化して東大寺、興福寺の僧兵とともに争い合う醜状を呈した。「中右記」長治元年(1104)の条に「近日叡山の衆徒乱る、東西の塔僧合戦す、あるいは火を放って房舎を焼き、あるいは矢二にあたりて身命を亡う、修学の砌、かえって合戦の庭となる。仏法の破滅已にこの時なるべきか」と嘆いている。1059年、あまり放火が多いので、諸門を警護、1082年、動乱の世を象徴するかのように富士山が噴火、1156年、保元の乱、1159年、平治の乱。これは天皇家、摂家の間で同族が争い合う姿であった。武家においても、保元の乱後、源氏の棟梁源義朝が、父・為義をはじめ同族の多くを斬らねばならないといった悲劇も生じた。仏教の慈悲の精神が約340年の間廃止されていた死刑も、末法にはいって信西入道によって復活した。このような時代の民衆は、あきらめと頽廃的な気分にひたり、それに乗じて浄土宗が広まり、自殺者を大量に出している。

 仏法の頽廃、政治の乱脈と、仏法も王法もともに尽き、人々の生命力は極度に弱まり始めた頃から、旱魃、飢饉、大火、地震、疫病の流行等、人々はいまだかって見たこともない幾多の災厄に遭遇したのである。

 1177年には、4月から延暦寺の衆徒の強訴が起こって半年以上も都を騒がし、428日には宵の口の午後八時ごろ、富小路の、ある病人の家から出火し、おりからの大風にあおられて、火は大内裏におよび、都の三分の一を失った。都はじまって以来の大火であった。

 右大臣藤原兼実は、その感想を「玉葉」に次のように書いている。

 「五条より南におこった火が八省司におよんだことは未曾有のことだ。このように延燃するのはただごとではあるまい。火災、盗賊、大衆の兵乱、上下の騒動、まことに乱世のいたりだ。人力のおよぶところではない」

 鎌倉初期の代表的な文学作品の一つといわれる鴨長明の「方丈記」には、この1177年の大火をはじめ、1180年の旋風、1182.83年間の全国的な大飢饉、1285年の大地震等天変地夭がきわめてリアルに叙述されている。

 「築地のつら、道のほとり、飢え死ぬるもののたぐひ、数も不知、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満て、変わりゆくありさまは、目もあてられぬること多かり…京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける、いはむや、その前後に死するもの多く、また河原、白河、西の京、もろもろの路地などを加へていはば、際限あるべからず。いかにいはやむ、七道諸国をや」

 「また、同じころかよと、おびただしく大地震のふること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出て、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとろには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず。或はくづれ或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙の如し、地の動き、家のやぶるる音、雷にもことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く、羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲に乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか」

 この方丈記等からも、時末法にはいり、人心乱れ、災厄が嵐のごとく、起きてきたことが伺われる。だがこれらの難も、これからの三災七難にすぎなかった。さらに、その後「悪世末法」の経文どおり、阿修羅のごとく、血みどろの葛藤が繰り広げられ、また災いは災いを呼び、三災七難は激烈をきわめ、大聖人が立正安国論を著される直前は、まさにその頂点に達したのである。

 平安末期よりも、鎌倉時代にはいって、いかに人心が乱れてきたかは、放火の件数と内容も明らかである。延久3(1071)から後白河天皇の保元元年の前年(1155)を平安末期とし、保元元年(1156)より分治元年の前年、(1184)までを過度期、文治元年(1185)より建長元年(1249)までを鎌倉前期とすると、鎌倉前期は平安末期よりも、放火事件は二倍にはね上がっている。また同じ放火であっても、平安末期には、怨恨に起因するものが多かったが、それ以降は、むしろ強盗略奪を目的とするものが多くなっている。また、平安末期、過度期においては、公卿や皇族の御所に対する放火が目立つが、鎌倉前期においては、寺院、一般庶民の家の放火が多い。承久3(1221)の月次記にも「近日放火往々不絶」とある。その後寬喜年間(122931)のころになると、一般住宅への強盗放火は甚だしく、刀傷殺害をともなう悪質な犯罪が横行した。いかに民衆の生活が逼迫していたか、これらでも想像できよう。寺院においては、尊勝寺、延勝寺、最勝光院、蓮華蔵院、法成寺等、院政の花やかであったとき営まれた寺院が凋落し、盗人の暴行に任せるのみであった。これらの寺院の末路こそ釈迦仏法隠没を象徴したものであった。

 

目をおおう惨状

 

 大聖人が文永五年にしたためられた立正安国論御勘由来には「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す.同二年戊午八月一日大風.同三年己未大飢饉.正元元年己未大疫病同二年庚申 四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033)とある。

 死ぬ人が大半以上におよんだことは、痛ましいかぎりではないか。死が影のごとく身に添い、あたりは屍臭がただよう。餓鬼・疫癘・殺剹のとりまく世界の人々の姿こそ、まさしく三悪道・四悪趣の姿ではないか。

 特に飢饉の惨状は、目をおおうものがある。領主の過酷な搾取をうけて泥と草に埋まっていた農民や、流亡のはてに都市の片隅に食を拾う貧民は、弱い者からつぎつぎに餓死に追いやられた。

 百練抄、歴代編年集成等によると、正元元年に、全国的な大飢饉と大疫病が襲ったときに、京都に死人を食う十四・五の小尼があらわれ、内野から朱雀大路を南に行きつつ、累々と横たわる、死人の上に乗ってその肉をむしり食い、目もあてられぬ様を出現したとのことである。いうまでもなく飢饉のために発狂したのであった。

 疫病の暴威にたいしても、なんらなすすべを知らなかった。そのころの医学では、赤痢などはなおす方法が見あたらず、ましてやそれ以上のコレラ、疫痢、ほうそう等にたっては、その猛威の衰えを待つばかりである。牛馬まで巷に倒れたとあっては、どれほど生物の生命力が弱っていたかわかる。ゆえに、「天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ」とは短い言葉であるが、いかに民衆が困苦の極みにあったのかがよくわかるのである。医療の方法もなく、貧民救済の手だてもない。骸骨は道いっぱいに横たわり、死ぬ者も民衆の大半を越え、苦難と絶望にうちひしがれ、身近き者の死を悲しまないものはなかった。まことに悲惨の極地である。

 時の指導者は、これに対して方法を講じないわけではない。全力をつくしたと思うが、いっこうに効果がないのである。念仏の輩は西方の阿弥陀仏にすがり、天台真言の徒輩は東方の薬師如来を信じたが東西の二仏共に効なく、また法華の妙文を唱えたり、仁王経を誦したりするも、釈尊の経力はまったくあらわれず、真言の者は、真言の儀式によって世を救わんとし、禅宗の連中は坐禅入定によっておのれを救わんとするも、教観ともに力なく、七鬼神および五大力の偶像を千戸万戸に貼るという遇像の権威もまったく地に落ち、なんの救いにもならない。陰陽道は天神地祇を祀り、国主国宰は徳政を行うといえども、二階から目薬というほどの慰めも人々に与えることさえできない。このように指導者は肝胆を砕き、頭を痛めるけれども、いよいよ飢饉、疫病は増長し、死人と乞食がふえる一方である。重なり合った屍は物見台のようであり、並んでいる屍は橋のように見える。いかに悲惨なことであろうか。この時の民衆の心を察すれば、神も仏も人も頼みにならないといった、あたかも太平洋戦争後の日本人が味わった心境のごときものか、あるいはそれ以上のものであったのか、まことに察するにあまりある。

 されば旅客は長嘆息していわく「天に日月あり、星道も乱れなし、世には三宝もいます。かつまた八幡大菩薩の百代の王を守護すとの託宣もいまだ八十九代より過ぎぬのに、なぜかくもこの世の中は衰え切ってしまったのか。なぜ王法もまた滅尽したのか。これはいかなる過失から生じたものであり、またいかなる誤りからこんな状態になったのであろうか」と。人々は、その誤りの根源を知らず、ただ嘆くのみであったろう。最高指導者たる北条時頼が、これを知らなかったということは、実に甚だしきものである。「前車の覆えるは後車の誡め」である。現代の指導者も深く心すべきであろう。

 

大法興廃の瑞相

 

 しかして、一方では、当時の人々は、このような苛烈な三災七難をうけ、真実に民衆を幸福にしきる大思想、大宗教を求めたのも必然であった。一方では貴族化し、廃退した既成仏教への不信と疑惑をいだきつつ、他方では、真に民衆に根ざした力ある宗教を人々は心の底より欲していたのだ。だが、無智のゆえ、あえぎ、あせり、念仏のごとき低級なる宗教を氾濫させてしまったことも事実である。

 されば、この三災七難の姿こそ、大仏法興隆の前相であり、大善の前の大悪であった。顕仏未来記にいわく「仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり、其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか、所謂仏生の時・転法輪の時・入涅槃の時吉瑞・凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり、仏は此れ聖人の本なり経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気・四方に遍くして夜も昼の如し仏御入滅の時には十二の白虹・南北に亘り大日輪光り無くして闇夜の如くなりし、其の後正像二千年の間・内外の聖人・生滅有れども此の大瑞には如かず、而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」(0508:11)と。

 文中「聖人生れたまわんか」とは、末法の御本仏、日蓮大聖人の御誕生である。「大法興廃の大瑞」とは、興るは大聖人の仏法、廃は釈迦仏法を意味し、当時の三災七難は、釈迦仏法では、もはや民衆を救うことができないという実証であり、大聖人の仏法興隆を示す御文である。まことに、日蓮大聖人のご出現、大白法たる大御本尊の顕現は、時のしからしむるのみとしかいいようがない。

 

世界史上の三災七難

 

 世界史のうえからは、また13世紀から15世紀にかけて、あらゆる面で大変動期であり、日蓮大聖人の大仏法出現と時を一にするのは、まことに不思議というべきである。なぜならば日蓮大聖人の大仏法こそ一閻浮提広宣流布、すなわち、全世界の民衆を救うべき大宗教なるがゆえである。

そもそも仏法は、キリスト教、イスラム教とともに、世界の三大宗教といわれ、また世界的宗教ともいわれる。世界的宗教とは国境、民族を越え、全世界に流布し、信奉され、全人類を救済しうる宗教である。

 それに反して、ある民族、ある国家においてのみ信奉され、普遍性を持たない宗教が民族的宗教であり、その典型が、ユダヤ教、インド教、そして日本の神社神道でなどである。

 しかして、東洋仏法の心髄、日蓮大聖人の仏法こそ、真実の仏教であり、全人類を救済すべき、最高唯一の世界的宗教なることは、すべての点からみて明白である。

 観心本尊抄にいわく「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254:08)と。三大秘法抄にいわく「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してフミ給うべき戒壇なり」(1022:15)と。

 聖人知三世事にいわく「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(0974:12)と。

 一閻浮提とは、全世界という意味である。日蓮大聖人の大仏法は、正しく国境、民族を越えて全世界に広宣流布し、全人類を救済せんとの一大宣言であられる。

 不思議にも、この世界的宗教の出現と時をおなじくして、世界は活発な文化交流時代に入り、しかも一大変動期を迎えたのである。すなわち、日蓮大聖人が立宗宣言された建長五年は西暦1253年、13世紀の半ばにあたり、大陸においては蒙古軍や十字軍の遠征等があり、海洋においても羅針盤の普及によって東西交流の一大発展期を迎えていた。

 13世紀後半、1279年に本門戒壇の大御本尊が建立され、法体の広宣流布は成し遂げられた。この13世紀を通じて、日本において、東洋において、西欧において、世界的に三災七難が競い起こった。そして、化儀の広宣流布に立ち上がった現在においても、まさに三災七難は、世界的規模において巻き起こっている。「三世各別あるべからず」と。七百年前も、現今も、ともに、世界の三災七難が証明となって、日本の広宣流布を推進させ、日本の三災七難が証明となって、全世界へ広宣流布を前進させるものといえよう。

 歴史は人間を変え、しかして人間を進める。人間の意志は、必ず歴史を発展させずにはおかない。世界広布の大思想は、実にわれらの強き一念で決定しゆくとの大確信に立って更に勇ましく前進しようではないか、

 西欧社会の黎明は、15世紀のルネサンスに始まるといえよう。しかしながら、日本の黎明、東洋の黎明は、それより2世紀も早い、13世紀に、すでに輝かしい第一歩を踏み出していた。これこそ、人間の自由・平等・尊敬をたたえた仏法民主主義、日蓮大聖人の大生命哲学の誕生である。

 

大聖人仏法の世界的意義

 

 ここで、世界史上由り見た三災七難の様相をとらえ、かつ世界的大変動を論じ、日蓮大聖人の仏法の世界史的意義を明らかにしたい。

 国際海洋学研究委員会の会長を務めたことのあるペターソンの研究によると、歴史時代に入ってから、北欧における苛烈な気候は、13世紀から15世紀にかけて起こっているという。アイルランドの古記録によれば、14世紀冬、狼の群れがノルウェーからデンマークへ、海の氷の上を渡って移動したとあり、そのころバルト海は隅から隅まで氷が張りつめていたことが伺われる。南欧でも、寒波がしばしば襲って来て、作物がとれず、飢饉が起こったと記述されている。

 また、前述のごとく13世紀という世紀は、欧亜世界の歴史のうえで、かってない恐るべきエネルギーが荒れ狂った時代であった。すなわち蒙古族の勃興、蒙古の欧州遠征、元の建国がそれである。13世紀の初頭、東北アジアの草原でモンゴルを統一したテムジンは、1206年、チンギス汗と称して、不敗の騎馬軍団をもって四方へ侵入、モンゴル兵の行くところ、都市も城も破懐しつくされ、人々は殺戮しつくされた。

 かくして、大空の中の一点の黒雲は、みるみるうちに欧亜全大陸をおおう暴風となり、チンギス汗からオゴダイ汗、グユグ汗、モンゲ汗、フビライ汗までのわずかの四・五代間に、アジア、ヨーロッパにまたがる空前絶後の大帝国が建設された。

 すなわち、西遼に代わったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、その西のトルコ系中央アジアの大国ボラズムを倒し、南ロシア方面を征し、西夏、金、南栄を滅ぼした。さらにアジアにおいては高麗を征服させ、雲南、安南、チャンパ、ビルマ、ジャワ、シャム、スマトラ、インド、チベット、カシミール等が次々と征服された。他方ヨーロッパ遠征軍は、アルメニヤ、ペルシャ、シリアを占領し、ロシアにいたってはモスクワ、キブチャク、キエフを征し、さらにポーランドを破り、モラヴィア、ボヘミヤを経てオーストラリアに攻め込んだ。オーストラリアの首都、音楽の都ウイーンには、現在も700年前の蒙古に備えて築いた城壁が残っているほどである。さらにハンガリーに侵入し、ドナウ左岸等を興廃せしめた。

 かくして、シリア以東のイランイラク地方を平定して、イル汗国、シベリア、南ロシア方面にはキプチャン汗国、外モンゴル西部にはオゴタイ汗国、中央アジアにはチャガタイ汗国、という四汗国がつくられた。ヨーロッパ諸民族は、これを黄禍として、恐怖におののき、なすところを知らぬありさまであった。

 フビライ干の時は高麗を屈服させ、さらに日本の攻略も試しみた。いわゆる文永の役および弘安の役である。この民族の大移動もまた、あの13世紀から始まる苛烈な気候を受けたからであるともいわれる。

 

大聖人の御一生と蒙古軍

 

 日蓮大聖人が御誕生の1222年には、蒙古軍がインドに迫っていた、インドは大聖人御誕生の16年前、1206年にはすでにイスラム教によって武力制圧され、仏教は全く尽滅していたのである。さらに、大聖人が16歳で出家された1237年には、蒙古軍は長駆、ロシアのモスクワやキエフを攻略しており、大聖人が立正安国論を上呈された1260年は、欧亜にまたがる大帝国を築いたフビライが即位した年でもあった。しかし、当時、日本一国あげて、蒙古襲来等は、だれ一人として、夢にも思わなかったことであった。

 日蓮大聖人は蒙古の世界侵略をもって、一応、一閻浮提の闘諍と申され撰時抄には、次のごとく仰せである。

 「今末法に入つて二百余歳・大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり、伝え聞く漢土は三百六十箇国・二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ華洛すでにやぶられて徽宗・欽宗の両帝・北蕃にいけどりにせられて韃靼にして終にかくれさせ給いぬ、徽宗の孫高宗皇帝は長安をせめをとされて田舎の臨安行在府に落ちさせ給いて今に数年が間京を見ず、高麗六百余国も新羅百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ、今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし闘諍堅固の仏語地に堕ちず、あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし、是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(0264:14)。

 

西欧の三災七難とキリスト教の堕落

 

 また14世紀から15世紀にかけても、英仏百年戦争、チムール帝国の制覇、オスマントルコのヨ―ロツパ侵入があり、気候の苛烈化と、それにともなう人類社会の変動は、まことに激しいものがあった。その社会の動乱はさらに、飢餓をもたらし、疫病を蔓延だせた。

 特に14世紀のペストの蔓延は、言語に絶する悲惨なものであった。アジアに発生したこの疫病は、東方通路を経て1346年南ロシアに侵入し、ヨーロッパ各地で暴威をふるい、1356年に終息した。死亡率はきわめて高く、ヨーロッパの総人口の三分の一は死亡したといわれる。

 ここで見落としてはならないのは、キリスト教会の乱脈である。キリスト教では、すでに末法にはいった1054年には、ギリシャ、ローマの二教会がまったく分離し、同じ年の74日には、星の大爆発があって、恐るべき大異変に人々は不安のどん底に陥っていた。さらに1095年のフランスのクレムリン宗教会議以来、十字軍の遠征が、およそ200年にわたって行われた。日蓮大聖人御誕生の一年前、1221年に十字軍は第五次を終了し、1248年(聖齢27歳)に第六次が起こされ、ついに1270年(聖齢49歳)の第七回をもって終わるのである。このころから、法王権が急速に衰え、法王庁内部でも分裂などがあり、教会は、腐敗堕落し、その乱脈ぶりは、目にあまるものがあった。しかしイスラム文化との接触によって、世界交流の道がひらかれるという結果を招いたのである。

 ペストが大流行した背後には、実にこのような教界の腐敗と、それにともなう社会の記風の乱れがあった。当時の教会がいかに堕落していたかは、オランダのエラスムスの「痴愚神礼賛」、イタリアのボッカチオの「デカメロン」、イギリスのチヨーサーが書いた「カンタベリー物語」等に、するどく指摘されているところである。

 これ自体、キリスト教がいかに無力であるかの証明である。これ以後、キリスト教は、衰退する一方であり、「アビニョンの幽囚」等の事件とともに、その命脈は断ち切れてしまったといえよう。事実、その後、キリスト教がかってのような隆盛を示したことが一度もなかったではないか。

 一方では、13世紀ごろから、新しきヒューマンニズムの胎動があった。やがてこれは文芸復興となり、中世の幕を閉じることになる。実に不思議なことである。真に、自由、平等、尊敬を、きびしき生命哲学をもって説き明かしたのは、仏法である。東洋に、そのなかでも日本に、今まさに真のヒューマンニズムに根ざした、日蓮大聖人の仏法が興隆するときに、西欧でもまたヒューマンニズムの胎動があったことは、偶然の一致か、さもなくば、時のしからしむるか。時とは不思議なものである。人間生命の奥底の流れが時をつくるのか。また国土のリズム、否、大宇宙のそれ自体が時を形成しているのか。

 

交通・通信の発達と仏法の伝播

 

 世界広布にあたって、重要な要素は、交通、通信の発達である。現在化儀の広宣流布の時を迎えて、全世界の交通、通信の発達は目覚ましいものがあり、全世界は恰も庭先のごとくになり、通信衛星によって、世界の出来事が、テレビ中継されるまでになったのである。しかして、七百年前の法体の広宣流布の時、すでに世界広布の萌芽が芽生えていたことも、また忘れてはならない。

 すなわち東西両洋にわたる陸路の交通は、早くから活発であった。漢の時代以前に、すでに中国と西域諸国を結ぶ、天山北道、天山南道が開拓され、仏教東漸と共に、中国とインドや西域諸国との交流は、いよいよ頻繁になった。漢の時代には、ローマとの交流も行われ、いわゆるシルク・ロードも開かれていった。唐の時代は、法華経を根底とする思想が流布し、中国が世界の中心の観を呈するほど隆盛をきわめ、遠くヨーロッパからも、唐の文化を摂取する動きは活発をきわめた。

 特に日蓮大聖人の御在世時代にはいると、蒙古軍のヨーロッパ遠征、さらには四汗国の建設等が、東西交流をいよいよ激しくした。蒙古族は欧亜にまたがる大国家をたてたが、全領土を元朝のもとに統一したのではなかった。フビライ汗のころは、中国本土、満州、モンゴルを直轄地、朝鮮、チベット、安南を直属地とし、キプチャク、イル、チャガタイ、オゴタイの四つの汗国は支配地固有の文化を重んずる統治方式をとった。たとえばキプチャク汗国は、南ロシアのトルコ、スラブ民族のうえにたてられたスラブ化、イスラム化し、ヨーロッパ諸国とも交流した。イラン、イラク方面のルイ汗国は東ローマ帝国やローマ教皇とも親しみ、のちにイスラム教に傾き、これらの四汗国はやがて元朝から離反する傾向を示した。

 西洋ではかってマケドニアのアレキサンダー大王が、ペルシャ、エジプト、中央アジアから、インドのまで進出し、ヘレニズム文化を生み出した。その後、日蓮大聖人の御在世時代に行われた、十字軍の七次ににわたる遠征は、地中海を中心として、東洋と西洋との交流を生じ、優勢なイスラム文化を摂取したヨーロッパ民族は、やがてルネサンスの黎明を築くことになった。

 特に特筆すべきは、日蓮大聖人の御在世時代から、海洋における交通がきわめて活発化したことである。インド、中国の海洋における活躍は、3世紀から10世紀にかけて、かなり名高かった。112世紀頃はアラブ人が活躍し、おそくとも1116年には、アラビア人によって磁石による羅針盤が発明されたともいわれる。また1137年に石に彫刻された地図が残っているし、1155年には地図は実際に印刷されていた。これらの発明は、海上交通に大威力を加え、12世紀後半から、東洋の航海学を学んだ西洋の海洋制覇がようやく始まるのである。

 1275年すなわち建治元年マルコ・ポーロはローマ法王の書簡をもって、今の開平に到着し、1295年にマルコ・ポーロは中国から航路ヨーロッパに帰った。マルコ・ポーロの「東方見聞録」は初めて日本をヨーロッパに紹介したもので、コロンブスも黄金の国日本というイメージに奮起して、日本をめざして海洋に進出し、アメリカ大陸を発見したものであるという。その後、スペイン人、ポルトガル人等の世界的海洋出進が顕著になった。1405年に中国の鄭和六十ニ隻の船と二万七千人の乗組員の艦隊をもって、ジャワ、シャム、セイロン、インド、ホルムズ等を訪問したことも有名である。これらの海洋における世界交流は、日蓮大聖人の御在世中に始められたことは、誠に意義深いというべきである。

 

日本に全人類救済の大宗教誕生

 

 次に宗教における闘諍について、キリスト教、イスラム教等については、すでに述べてごとくであるが、仏教はもはや日蓮大聖人の時代に、インド、中国において滅失していたのである。すなわち、インドにおいて、仏教はアソカ大王、カニシカ王、さらにハルシャ王等によって興隆し、平和文化国家を築く基盤となってきたのであるが、ついに8世紀には、イスラム教徒が「コーランか剣か」を合い言葉にインドに侵入し、12世紀には仏教興隆の中心地であったマカダ国も滅ぼされ、1206年、日蓮大聖人出現の16年前に、インドにイスラム帝国が築かれるにいたり、仏教はまったくインドから姿を消したのである。かくしてインドの地は、唯一神アラーを奉ずる低級なイスラム教と、カースト制度をしくインド教に蹂躙され、今日のごとき禍根をいまだに残しているのである。日蓮大聖人は顕仏未来記に「漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり」(0508:04)と仰せである。

 釈尊の「白法隠没」の金言に違わず、いわゆる釈迦仏法は、末法において全く減尽し去ったのである。しかして、末法の救世主、御本仏、日蓮大聖哲の大仏法が、いよいよ出現するのである。同じく顕仏未来記にいわく「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508:02)と。そして、法華経の行者、すなわち末法の御本仏は、ただお一人、日本に出現されたのである。

 ゆえに、顕仏未来記にまたいわく「五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや…仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり…而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか」(0508:01)と。

 ともあれ私は、この全世界の大変動、ならびに世界交流の姿こそ、大白法興隆の瑞相であり、日蓮大聖人の大仏法が、はじめから、一閻浮提に流布し、全人類を救済すべき生命をもって誕生した大宗教である証拠なりと確信するものである。

「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」の未来記をよくよく思い合わすべきである。

 

安国とは一往は日本、再往は全世界 

 

 されば、立正安国といえども、ただ単に日本一国にとどまるものではない。立正安国を仏法と王法に配するならば、立正とは仏法であり、安国とは王法になる。さらに立正の正とは、三大秘法と訳し、安国とは、一往は日本国、再往は一閻浮提である。

 日寬上人の安国論文段にいわく。「日我いわく『安国とは一閻浮提に通ずべし、しかも本門弘通の最初は日本国なるべし、本門日輪の行度これを思え』」と。

 この御文によれば、立正安国とは、世界の広宣流布であり、そのためには、まず弘通の順序として、日本の、すなわち、世界の真実の平和達成のためには、まず、日本の広宣流布を達成せねばならないとの仰せである。

 さらに立正安国論の最後に「三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」とある。

 これについて日寬上人は、同じく安国論文段に「文はただ日本および現在にあり、意は閻浮および未来に通ずべし」と仰せである。

 すなわち、大聖人のお心は、日本だけの立正安国ではなく、全世界の立正安国である。また、現在すなわち鎌倉時代の当時の立正安国ではなく、七百年後の今日、さらに未来永劫にわたって変わらざる立正安国の方程式なりと仰せである。

 また、諸法実相抄に「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(1360:09)と。

 これまた、大聖人御在世当時の活動、弘通の方程式が、そのまま未来永劫に伝えられていく、との意である。われわれの今日の実践活動が、大聖人の仰せそのままであるとともに、今日の姿が、そのまま未来に、全世界に行き渡っていくことは、いよいよ明瞭である。

 これらの御文に照らすならば、まさしく創価学会の今日の活動は、大聖人の御精神にかない、大宇宙のリズムに合致した、新時代の潮流であり、現今の不幸を絶滅し、この地上に絶対の平和楽土を出現する無限の力である。世界的、否、宇宙大の生命をもった日蓮大聖人の仏法は、ここに21世紀を迎えようとしている今日において、われわれの手によって、その開花が見事に成就されようとしているのである。

0017~0033 立正安国論 0017:01~0017:14 第一段 災難由来の根本原因を明かす 0017:01~0017:09 第一章 災難の由来を問う 2

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当時の宗教界

 

 当時の宗教事情は、平安末期から急速に深まりゆく世相の変化に、人々は生きる気力を失い、ただ法然の始めた阿弥陀仏の称名にはかない来世の浄土を期待していた。とりわけ、生きる希望を失った没落貴族たちは、ひとえにこの浄土宗に、巨万の富を与え、むなしい祈りをささげていた。また常の習いであるが、天変地夭の激しくなるにつれ、迷信が横行し、真言の加持祈祷が流行した。

  また、当時の仏教界の中心であった天台宗の腐敗、堕落も甚だしかった。伝教大師の時、桓武天皇の前で、南都六宗を打ち破り、比叡山に迹門の戒壇を建立し、輝かしい業績を残したのである。だが、第三代、第四代の慈覚、智証が、本師伝教の精神に背き、真言を取り入れ、いたずらに謗法を重ねて以来、天台宗は国家権力と結びつき、堕落してしまった。もはや叡山は、本当の意味での仏教界の中心ではなくなった。まさに腐敗と混乱の世相の反映であり、泥沼のごとき政争の場であった。

 院政期にはいると、座主の地位をめぐる門閥の争いは、激しさを増していった。そして座主の地位をめぐる争いは、直接、政治の動きと結びついた。たとえば、明雲は平氏の力を背景にして座主の地位を得たが、その後、政治の動揺にともなって座主を追われ、また復帰した。寿永二年(1183)には、彼は頼朝調伏のための法住寺に参籠中、義仲の軍にからめとられたうえ、首を斬られたことは、大聖人の御書に詳しい。典型的な真言亡国の還著於本人の現証である。

 上層部がこのような状態である。いわんや、一般にいたっては、興学の記風などさらになく、堂衆や寺領の兵士とともにただ暴徒と化していたのである。

 特に延暦寺の僧兵と法相宗の興福寺の僧兵との争いは激烈であった。彼らは、互いに寺院を放火しあい、また殺害しあった。時には、彼らの希望が叶えられないと、寺の鎮守神の神輿や神木を奉じて大挙入京し、朝廷や法皇に威嚇をもって直訴した。その度に、たえず血なまぐさい殺戮が繰り返された。

 永久元年(1113)の永久の強訴の時に、衆徒の鎮圧を祈願した、石清水八幡宮の宣命には、当時の僧兵の実態がえがかれている。

 「ここに頃年以来、神人は濫悪を先となし僧侶は貪婪を本となして、あるいは公私の田地を横領し、あるいは上下の財物を掠め取る。京畿を論ぜず、辺境をいとわず、党を結び群を成して、城をおおい郭に溢れる。ただ人民を滅亡するのみに非ず、兼ねて同侶同伴も鎮に合戦を成す。学をなげうって刀兵を横え、袈裟を脱ぎて甲冑を被る。梵宇を焼失し房舎を破壊す。弓矢を携えて左右の友とし、矢石を以て朝夕の玩びとす。勉学の室、これがために戦場と変じ、修行の場所、それによりて軍陣と成りたり」

 まことに大集経の「闘諍言訟・白法隠没」そのままの様相ではないか。

 

僧侶の堕落

 

 また、僧侶一般についても、あまりにも堕落していた。大宝律令の定めるところによると、僧侶は農民にとっていちばん苦しい課役を免除されていた。そのうえ僧侶になるには身分的制約もなかった。したがって、農民のなかには、僧侶になりたがる者が多かった。律令制がきびしいころは、一定の修行を積んで、国家の公認を得た者に限って出家が許され、国家の公認を得ない者は、私度僧といわれ、厳重に取締られた。だが、平安末期よりその体制はくずれ、俄坊主がふえてきた。その質の低下は、恐ろしいほどであった。0914年、三善清行が天皇に奉った「意見封事十二箇条」には「諸寺の年分度者および臨時の度者は、年間、二、三百人もありますが、その半分以上は邪濫の輩です。また諸国の百姓は課役を逃れ、租・調をのがれるために、自分で髪を剃りおとし、法服をまとっている者がこのごろ多くて、天下の三分の二は皆禿首の者です」また「かれらはみな家に妻子をたくわえ、口には生臭いものを食らい、形は沙門に似て心は屠殺人のごとし」と当時の僧侶の実態が述べられている。

 しかも寺院には貴族から寄進された多くの所領があり、貴族から絶えず祈祷の依頼があり、豊かな布施が集まった。寺院内での生活は楽であり、花やかであった。彼らは、生活のために僧侶となり、いきおい寺院に集まっていた。生活の利害関係にのみ鋭敏となり、やがて利害と利害の衝突は、激しい葛藤を生み、もはや僧侶は餓鬼界であり、修羅界であり、時には阿鼻叫喚で明け暮れた。

 涅槃経に「持律に似像して少し経を読誦し飲食を貪嗜して、其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐かに行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貧嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」と末法の比丘の姿を予言したが、まさに寸分の狂いもなく符合していることに驚嘆せざるをえない。

 僧侶と国家権力のいまわしい結びつきも、いよいよ盛んになってきた。それは災難を除くために為政者が、ただ僧侶の祈祷にたよるしかなかったために、とくに僧侶を重んじたことにも原因がある。また僧侶のほうも、民衆の無智につけこみ、外面では聖人のごとくふるまい、名声を得、また、巧みに権力者に取り入った。たとえば、禅宗の開祖として、禅宗の人々からもてはやされている栄西は、みずから大師の称号を得ようとして、賄賂まで使って運動し、結局は権僧正にしかなれなかったのである。慈円の「愚管抄」藤原定家の日記等にそのことが述べられている。

 さらには、念仏者の念阿、禅宗の道隆、律宗の良観等が政治権力を動かしわが世の春を謳歌していた。この時、大聖人が、唯一最高の正法を唱え、邪宗教の根源を明かし、四箇の格言を宣言されるや、彼らは、権力者と結託し権力を動かし、日蓮大聖人を迫害したのである。特に極楽寺良観などは、その最たるものであった。松葉ヶ谷の草庵の焼き打ち、伊豆の流罪を行った極楽寺入道重時の背後にもやはり良観の讒言があり、また、大聖人を竜の口の刑場に行かしめたのも、良観が平左衛門尉を動かしたからであった。

 

念仏への徹底破折

 

 日蓮大聖人は本抄において、念仏宗を特に折された。それは、当時、念仏者が最もひろまっていたからであり、しかもその害毒が最も人々の生命をむしばんでいたからである。昔から鎌倉武士は心身の鍛錬と実践を重んじたので、禅の気風とマッチし、禅宗が鎌倉武士におおいに支持されたかのように説かれているが、これは誤りである。たしかに建長寺道隆と北条時頼との結びつきもあって、時頼以来、武士のなかには参禅する者が、かなりあったことも事実である。だが、全体としては鎌倉武士もまた、ほとんど念仏を信じたのであり、鎌倉幕府滅亡のときも、たくさんの武士が、最後に念仏を唱えて死んでいったと伝えられている。

 大聖人は、浄土宗破折に焦点をしぼられ、これにいっさいの邪宗破折を含められたのであった。安国論をうかつに通読すれば、法然という悪僧が選択集を作って世間の人々を迷わしめ、今や念仏の哀音が一国に流布して、まさに亡国の兆があらわれたという点から、念仏を徹定的に破折されていると拝されるが、第一段において明らかにされているごとく、あらゆる宗教、あらゆる神々、あらゆる政治や道徳などが、すべて邪法の基としているがゆえに、災難が起こるのであるとして、これらの邪法を禁止して、正法を立ててこそ初めて国家は安泰になるのであると説かれている。

 

時代要求の大白法

 

 以上を結論すれば、当時の宗教界は、まさしく未曾有の混乱期にあったといえよう。人々の心は、次第に腐敗し形式化した既成の貴族仏教から離れ、民衆のなかに根ざした力ある宗教をもとめつつあった。だが、民衆の宗教に対する無智につけこみ、幾多の邪宗教、迷信が横行した。とりわけ、大聖人の立正安国論に「此の一凶」と指摘されたところの念仏宗が、疫病のごとく蔓延した。この未曾有の宗教の混乱こそ、民衆の既成の権威に対する動執生疑であり、新しき偉大なる宗教を求める人々の心の反映なのである。

 法華経には大正法樹立され、流布する時は、このような宗教界の混乱期であると予言している。法華経第七薬王品にいわく「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」と。すなわち白法隠没する末法において、大正法が広宣流布するのである。と。同安楽行品にいわく「後の末世の法滅せんと欲せん時」と。これらの類文は数多くあり、枚挙にいとまがない。これは経文ばかりでない。天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と述べ、妙楽大師も「末法の初め冥利無きにあらず」と断じ、伝教大師もまた「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」と叫んでいる。

 このように、釈尊、天台、妙楽、伝教の先哲が、ことごとく、絶対の確信をもって、第五の五百歳闘諍堅固の時代に、大白法が流布することを述べているのである。

 されば、日蓮大聖人の出現は、偶然ではなく、民衆の渇仰であり、時代の要求であり、歴史の必然なのである。

 しかして、それから七百年たった今日もまた、大聖人の時代よりもはるかに混乱せる宗教界の現状である。現在、日本における宗教法人の数は仏教のほかに、神道、キリスト教、その他の諸宗教を含めて約18万、宗教人口は約160,000,000(平成19年文科省によれば220,000,000)といわれている。一人で二つ以上の宗教をもっている人がいかに多いかを物語っている。

 また、念仏、禅、真言の既成宗教は、形骸化し、宗教としての残骸をとどめているに過ぎない。僧侶とは名ばかりで、信心もなければ、修行もない。一切衆生を救うべき慈悲とか、智慧などまったくない。ただ私利私欲にふけり、ただ葬式と法事と、墓場の番人をやりながら細々と生計を立てている状態である。まことに、七百年前の世相と符合しているではないか。

 戦後、迷信やいかがわしい宗教が氾濫した。もともと人間の心のなかには、意識するとしないにかかわらず、物質的、精神的悩みを解決したいという本然的な願い、欲求がある。これは人間の幸福を求める自然の心の発露である。これが、あるときは人間の弱点ともなり、また、あるときは人間のたゆまざる努力と研鑽となってあらわれるのである。人々が、迷信や邪教にとびつくのも、悩みを解決したい、幸福になりたいという素朴な感情からである。だが、いかんせん、宗教に対する無智は宗教の正邪、善悪も分かたず、邪宗教にとびつき、生命をむしばまれ、いぜんよりも不幸に落ち込んでいくのである。

 かくして、既成宗教の廃退と新興宗教の簇生生という現象は、七百年前と今日と、不思議にも一致しているかくれなき事実である。七百年前には、混乱と濁世のなかから蓮華の汚泥より生ずるごとく、大聖人の大仏法の出現があった。今日もまた、混乱の極みに達した現代の宗教界を覚醒すべく、宗教界ののろしを、わが創価学会があげたのである。

 

是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや

 

 この旅客の質問こそ、当時の心ある指導者のいつわらざる心情であり、この解決こそ、立正安国論の骨髄をなすものである。そしてまた、今日においても多くの人が、否厳密にいえば、あらゆる人がなげかける疑問なのである。

 病気を癒すのに、その原因、本体を解明し、そこから正しい処方に従って治療を施さねばならないことは誰でも知っているし、実践していることである。

 しかるに、社会、国家をおかす災厄に対しては、往々に、避けることのできないのも、除去することのできないものとして、抜本的対策が立てられない場合が多い。むしろ、ほとんどの場合、災害に襲われたあとで、その場をつくろうのがせいいっぱいという姿ではないだろうか。

 いやしくも、一つの社会、一つの国家の幸福と平和について責任を持った指導者であるならば、それを脅かし破壊する災害に対して根本的に究明すべきであろう。

 いわんや、民衆の苦しみをわが苦悩とし、社会の全体をわが身と自覚することのできぬ、私利私欲、党利党略の徒は、指導者たる資格がないと知るべきである。

 

防災技術と災害

 

 ある人は、当時の災害が、あれほど猛威をふるった原因として、科学技術の未発達をあげている。私もまったくそれには異論はない。たとえば旱魃の被害においては、かっての農業技術が、水量豊かなる大河川を灌漑に利用するにいたらず、耕地は大部分が谷川や溜池による劣弱な田畑でしかなかった。したがって、ひとたび早天が続けば稲はたちどころに枯れ、大飢饉となり、人々に甚大な被害を与えた。また、そのうえ、当時、交通が不便で輸送力がなく、豊作の地から飢饉の地に食量を円滑に運ぶことができなかった。これが人々に決定的な打撃を与えたのである。

 飢饉の場合は、たしかに交通が発達し、灌漑設備もあり、貯蔵力もある今日、その被害を、きわめて小さくすることはできる。ただし、それすら、もし悪政で、戦争に予算の大部分が費やされ、災害対策に本腰をいれなければ、きわめて大きい被害をもたらすことを忘れるべきではない。

 のちに述べるがごとく、20世紀の今日でも、インド、ソ連、中国においてすら相当数の飢饉による餓死者が出ているという惨事が起きている。今日のベトナムでも焦土作戦により飢饉が深まっている。あまりにも悲惨な現実をみるにつけ、かっては太平洋戦争中、我々はいかに飢餓に苦しんだかという事実を思い起こすにつけ、断じてその惨禍を遠くに考えてはならないと思うのである。さらに、現代における世界的な食料不足は、戦争や人口問題と関連して、きわめて深刻であり、飢餓は去ったというよりも、むしろますます広がりゆく感すらする。地震の場合は、むしろ今日のほうが危険である。大正129月の関東大震災では、全壊家屋128千戸あまり、半壊家屋126千戸あまりに達し、圧死や焼死した人、99千名あまり、傷者103千以上、行方不明48千名あまりに達するという、空前のものであった。

 (ちなみに1995117日阪神・淡路大震災の被害は死者:6,434名行方不明者:3名 負傷者:43,792名避難人数30万名以上、住家被害全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟、 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯 )

 (東日本大地震2011311日:死者15,894人『宮城県9,541人、岩手県4,673人、福島県1,613人、茨城県24人、千葉県21人、東京都7人、栃木県4人、神奈川県4人、青森県3人、山形県2人、群馬県1人、北海道1人』、行方不明者2,562人)

 ある気象台長のA博士は、次のように語っている。

 「大正の関東大震災は、正午ごろ起こった大地震で、あれだけの大事件となったのである。もし、あの大地震が夜中に起こったとしたら、災害は当然倍加したであろう。大地震となると必ず停電と断水が起こる、真っ暗のなかで逃げ惑うのは、文化生活になれた現在のほうが一層危険である…こう考えてくると、震災に対する対策はできていないのである。徳川時代よりも、また近くは大正時代よりも、現在では一段と恐ろしいものになってきている」

 また、飢饉に役立つダムもひとたびそれが決壊すれば、大洪水をもたらす危険がある。昭和34年(1959)にはフランスのマルパッセ・ダムが、昭和37年(1962)にも韓国最大の灌漑用ダムの一つが決壊している。もし、大地震によって決壊すれば、まさに決定的な打撃を与えることであろう。また、東京のように密集し低地の多い地域に、再び関東大震災のような大地震が起き、それが津波となったら、その悲劇はいかばありであろうか。

 風災害に対しても、いまだにその対策の見通しは、決して明るいものではない。特に、東京湾、伊勢湾、大阪湾、有明海および周防灘で頻発する高潮の被害は、絶大である。

 昭和34年(1959926日の夜、紀伊半島から上陸した伊勢湾台風は、中部日本に大風水害をもたらし、とりわけ、中京地区の海岸低地に驚くべき高潮が起こり、有史以来最大の水害となり、死者、行くえ不明を合わせて5098名の犠牲者を出した。

 それでは、疫病についてはどうか。たしかに、今日、医学の発達により、伝染病による死亡率はぐんぐん減っている。これは大きな成果であり、賞讃すべきことである。だが、病気それ自体はいっこうに減っていないのである。それそころか、薬品に対する細菌の耐性ができ、また多くの薬品投与のために、からだ自体が薬負けしてしまうという新しい事実に直面した。また農薬による奇病、さらに工場の煤煙による病気も増えている。1952年ロンドンでは、124日から9日まで続いたスモックで4000名の死者を出し、1962123日から7日までも750名の死者を出している。死因の大半は気管、心臓障害によるもので、工場の煙突や暖房用の家庭の石炭に含まれる亜硫酸ガスが冬の平均の10倍以上になって、この惨事を巻き起こしたのだった。また、工場から流される汚物によって、多くの原因不明の病気が起こっていることも事実である。サリドマイドの悲劇はいうに及ばす、今日でも、なお、薬品の中には、しばしばかえって有害をものすらあることも残念ながら事実である。

 しかもこのような、薬品の検査等の医療機関の問題は、現在山積し、未解決のままになっている。なお、原水爆の出現による放射能障害は、文明病の最たるものであり、これにより人類は滅亡すらしかねない。さらに、ガン、また遺伝子病、神経系統の病気等にいたっては、現代医学ではいまだまったく無力に等しい。されば、現代の医学者をして、原因不明で治癒できぬ病気があまりにも多いことを嘆かしめ、また「医学は、今のところ、毛一本生えさせることもできず、にきびのあとをきれいにすることすらできない」とまでいわしめているのである。

 さらに現代医学が、今や大きな壁にぶつかっていることは、見逃すことが出来ない事実のようだ。生命を、部分である器官の総合とし、生命全体を考えることなく、また病気を普遍化させるだけで、個人の特殊性を無視して治療にあたるといった態度が、むしろ医学を停滞させ、どうしようもない泥沼に堕ち込ませてしまうのではないかということも心配される。所詮、生命に対する正しい認識なき医学は、偏狭なる、むしろ有害な術に堕すことは必然である。

 

科学技術の限界

 

 以上のように、今日もなお災害なくならず、否、むしろ新しき災害に直面しているともいえよう。ましてや、戦争等の劣悪な政治のために災害対策を軽視すれば、災害はその虚をついて暴威をふるうことであろう。しかも、その危機にいつもさらされているのが、地球上の現状である。

 また、大宇宙の運行からみれば、これらの防災技術は、まことに微々たる力でしかない。今日、物理学等の科学の偉大なる進歩によって、幾多の発見がなされてきた。このままいけば、一切わかるように思う人がいるかもしれない。だが、科学者はそのような甘い考えは決してもっていない。科学の発達によって知ったことは、ますます宇宙の不思議がひろまるばかりであることだ。

 されば、これからますます科学技術が発達し、人間の英知と努力で、災害を克服していくだろう。それは、われわれの悲願であり、願望である。だが、それによってわかることは、いつも新しい災害にぶつかるという厳粛な事実である。しかも、災害はいつも意表をついて起き、のちになってさまざまな対策が論じられ、しばらくして、忙しさにまぎれて、忘れ去られてしまう悪循環にある。

 A博士は次のようにも述べている。「私たちは科学の進歩につれて、災害は克服できるかの如き錯覚を持つ。しかしこれは大きな間違いである。防災科学の進歩によって、ふるい型の災害は漸次軽減されていく。かって人間の住まなかった河海縁辺の低地にも、その土地の利用価値の故に、工場や家を建てたりするから、昔なかったような水害が発生する。新しい技術革新の風潮にのって、現れた構築物が、思いもうけぬ地震にあって、脆い実態をさらけ出す。…災害はいつの世になってもなくならず、繰り返しおこる。しかも人間は絶えず災害を克服しようと努力する。したがって、既存のかたの災害は軽減できるが、せちがらい社会にはまた新しい型の異常災害がおこる。そして、時としては、新しい型の災害が、最も猛威をふるうのである」。

 また、今日の科学技術は、必ずしも平和のために使われず、往々にして、いや、大部分が、戦争のために使われてきたし、また使用されつつある。悲しむべき現実ではないか。しかも、戦争それ自体が大いなる災害ではないか。されば、「是れ何なる禍により是れ何なる誤りに由るや」700年前の疑問は、時代移り、今日に至るも、依然としてあらゆる人々の疑問なのである。

 結論からいえば、この解決は、真実に、正しき生命観、社会観、世界観、宇宙観を説ききった日蓮大聖人の大生命哲学による以外に絶対にないということだ。私は、ここでなにも科学技術の発達を軽視しているわけでは絶対にない。いや、人類に対する貢献は絶賛すべきである。だが、科学技術だけで災害を克服できるというのは、科学を知らない人の発言である。私は、この科学技術を真に生かすためにも、また科学技術を越えた問題については、さらにこれから、一念三千の生命哲学、依正不二の理論等で解明することにして、本章では、科学技術だけで災害はなくならないと述べるにとどめておく。

 

悪政と災害

 

 次に、災害を防ぐためには、政治を正し、災害対策に万全を期すことが大事であることを述べる人がいる。これも、私のもっともとするところであり、否、それだからこそ、私は、政治は大衆福祉をめざすものでなければならぬと主張しているのでる。

 災害と政治の関係をさらにみていくならば、次のことは、歴史のうえからはっきりいえることである。それは悪政の時に、最も災難が猛威をふるうということである。すなわち、指導者が民衆を忘れ、自己保身にやっきとなり、互いに政争に明け暮れ、修羅闘諍を事としているときに、災害が最も大きくあらわれるという厳然たる事実である。または、独裁的な指導者の気ままな感情や、人間生命を蔑視する偏狭な、そして冷酷なる思想が、悪政をもたらし、そのはてに大災害に見舞われるという冷厳なる実相である。

 

大聖人の時代

 

 たとえば文永十年(1273)ごろから、諸国に飢饉が起こり、さらに建治三年(1277)の春以来、全国的に疫病が蔓延し、弘安元年(1278)に至るも猛威をふるっていた時代がある。

 このころの悲惨なようすを、日蓮大聖人の御書には、次のように描写されている。

 「日本国数年の間打ち続きけかちゆきて衣食たへ・畜るひをば食いつくし・結句人をくらう者出来して或は死人或は小児或は病人等の肉を裂取て魚鹿等に加へて売りしかば人是を買いくへり此の国存の外に大悪鬼となれり、又去年の春より今年の二月中旬まで疫病国に充満す、十家に五家・百家に五十家皆やみ死し或は身はやまねども心は大苦に値へりやむ者よりも怖し、たまたま生残たれども或は影の如くそいし子もなく眼の如く面をならべし夫婦もなく・天地の如く憑し父母もをはせず生きても何にかせん・心あらん人人争か世を厭はざらん、三界無安とは仏説き給て候へども法に過ぎて見え候」(1389:04)。

 「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき、しかれども又今年の寒温時にしたがひて・五穀は田畠にみち草木はやさんにおひふさがりて尭舜の代のごとく成劫のはじめかとみへて候いしほどに・八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし、去ぬる寛喜・正嘉にもこえ来らん三災にも・おとらざるか、自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす、民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく・僧尼は邪見にして狗犬とエン猴とのあへるがごとし、慈悲なければ天も此の国をまほらず・邪見なれば三宝にも・すてられたり、又疫病もしばらくは・やみてみえしかども・鬼神かへり入るかのゆへに・北国も東国も西国も南国も一同にやみなげくよしきこへ候」(1552:02)。

 この文にあらわれたるがごとく、その時の三災七難は、まことに苛烈であった。だが、それとともに、当時の政情がいかに不安なものであったかを見落としてはならない。この二つの御文のうち、あとのほうに「自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす」とあるが、このわずかな文のなかに、当時の政情が伺えるとともに、災害の根源があますところなく説かれている。「自界叛逆」とは、国のなかでの戦争であり、「他界きそひて」とは、他国との戦争である。

 文永9年(12772月、執権時宗の異母兄の時輔が、自分の正妻の子でないゆえをもって、家督を時宗にとられたのをうらみ、ひそかに謀叛を企てたのが発覚し、合戦となったのである。時宗は、すぐさま、大蔵頼秀らを遣わし、名越時章らを倒し、ついでに北条義時と合戦させ、これを滅ぼした。この事件は、人々の心に深刻な動揺を与えた。執権とその兄が争い合う醜い姿が、そのまま世相の鏡に映し出されたのである。この時の世情は、御書に次のように出ている。

 「相州鎌倉より北国佐渡の国.其の中間・一千余里に及べり、山海はるかに.へだて山は峨峨.海は涛涛・風雨.時にしたがふ事なし、山賊.海賊・充満せり、宿宿とまり・とまり・民の心・虎のごとし.犬のごとし、現身に三悪道の苦をふるか、其の上当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217:10) まことに「自界叛逆して盗賊国に充満し」の世情いかばかりであったろうか。今日においても、「自界叛逆」が民の心を疲弊させ、社会悪をもたらしていくことは、一貫して変わらぬ方程式である。

 さらに「他界きそいて合戦に心をつひやす」とは、蒙古軍の攻撃に備えて、幕府が大わらわとなり、九州に大軍を派遣することでいっぱであり、内政に力を注ぐ余力すらなかったことを示すものである。今日もまた同様である。それは平和産業を犠牲にし、軍需産業に総力をあげた、あの日本の国の味わった苦い体験にせよ、またスターリン治下のソビエトにおける極端な軍需産業のための、数次にわたる五カ年計画にもせよ、如実にそのことを示しているではないか。

 かくして悪政のために、災害が猛然と日本全国に覆い、民衆を塗炭の苦しみにおいやったことは、当時の明らかなる現象である。

 だが、なぜこのような劣悪なる政治にならざるをえなかったか。それを解決すべき道はなかったか。所詮、貪・瞋・癡の三毒に染められた人々の醜い権力争い、自らの保身にやっきとなり、大勢の民衆を忘れる愚かな姿ではなかったか。われわれは、その政治腐敗の現象のみにとらわれてはならない。その底流こそ大事であり、その源こそ窮めねばならないではないか。

 

室町中期・後期

 

 また、室町の中期、将軍足利義政の時代にはいって、悪政につぐ悪政、暴政つぐ暴政に呼応し、災害は続出し、いたるところで痛ましい惨事が繰り広げられた。

 長禄3年(1459)は、年のはじめから天候が異様であり、3月の田植え準備期にはまったく雨が降らず、そのうえ太陽が二つ見えたり、妖星が月を侵すといった異変があり、人心は動揺した。九月には大暴風雨が襲来、賀茂川が大氾濫し、京中の溺死者はおびただしい数となった。そのため京都への米の輸送がとまり、米値が暴騰し餓死者が続出、一揆も盛んに起き始めた。長禄4年(1460)春から初夏にかけては日照りが続き、田植え時に水不足、五5月末から一転してひどい長雨、異常低温、夏でも冬着を装う状態、近江では琵琶湖の氾濫のため水田が冠水、さらに悪疫が生じた。さらに秋となり大風、また天をも暗くする猛烈な蝗の群れに、稲が非常な痛手を受ける。

 やがて寬正2年(1461)正月から食料不足が全国的となり、2月に入り頂点に達した。正月から2月の終わりまで、京都の餓死者は82000に達したという。また、一連の飢餓による死人の数は、庶民の2/3におよぶと記述されている。ために、賀茂川が死体で埋まり、水の流れはふさがれ、屍臭はあたりに満ちたという。そのうえ、悪疫が流行し、飢饉とあいまって、毎日、300から6700と次々死んでいったという。

 京中はもとより国中が飢餓にせめられ、苦悩のどん底にあえいでいる時、幕府では大黒柱の畠山家で義就・政長の争いがあり、将軍の義政は、今参の局という貪欲で嫉妬ぶかい側室にふりまわされ、そのなすがままになり、あるいは、土木工事等で民衆をいためつけ、また、公家・武家の貴人たちと、花やかな行列を連ねては、花を見、遊楽にふけったのである。もはや、これでは政治家として失格者であるのみならず、人間としての失格者ではないか。

 すでに足利将軍の権威が地に落ちた天文9年(1540)にも大きな飢饉があった。天文年間といえば、義請が十二代将軍を継承したが、のちに権臣に逐われるといった時勢であり、世はまったく乱れ、この動乱のさなかの天文8年(15399年には、風水害のための飢饉がおこり、おびただしい死者が出ている。民衆の塗炭の苦しみは想像にあまりある。

 

江戸末期

 

 さらに江戸末期にいても、幕末の三大飢饉といわれる、天明の飢饉(178287)、天保の飢饉(183339)慶応・明治初期の飢饉(186669)も、江戸幕府の体制が崩壊し、指導者の横暴が過酷をきわめたときに起きたのである。西村真琴、吉川一郎編の「日本凶荒史孝」には、天明の飢饉については「弘前・八戸・盛岡の諸領最も凄惨を極め、餓苦し耐へずして人相食むに至る。超えて四年、この歳七八部の作、ところにより豊作の聞ありしも麦収を待つに能わず餓死するもの多く、去年九月より六月まで、津軽一郡のみにて87000余と数えられ流亡の民また少からず」等とあり、天保の飢饉については「東北諸国は天保初年より頻りに餓死し、この後も猶やまず、ために餓莩流民極めて多く、四年より十年に至る七ヵ年、津軽一郡のみの死者35600余、他郷に流離するもの47000余人を数えたり」とあり、慶応・明治初期の飢饉についても「慶応二年、この夏陰涼・秋風水の災ありて諸国登らず、これより先、安政六年我が五国通商以降国内の需給円滑ならず。加ふるに維新の変革を前にして天下じょう乱、ために穀路は閉ぢ、商旅通ぜず、去秋より諸物の価謄貴す。幕府仍ち酒造の量を減じ、或は外米の輸入を許可し以てその調整を計りたるも高騰、この秋に至って殆んど底止するころを知らず。庶民大いに飢窮す」等と、いずれも、その苛烈なる災害状況を伝えている。

 飢饉だけでなく、大地震も猛威をふるった。嘉永七年(1854)関東大震災に匹敵する大地震が、東海道、東山道、南海道に渡って起こり、倒壊流失家屋は83000戸、焼失家屋も300戸ほどあり、死者が10000名にも達した。その余震がさめやらぬ翌105日、再び関東大震災に比するほどの大地震が、伊勢湾から九州東部かけて起こり、特に土佐、阿波、紀伊の三国がひどかった。さらに安政2102日にも大地震があり、江戸市中の死者は7000人に達したという。これを世に安政の三大地震という。弘化四年(1847)324日の夜、善光寺で阿弥陀如来の御開帳があり、諸国から信者が多数集まってにぎわっていたときに、突如として大地震が起こり、出火が各所にあり、死者が12000という惨状を呈した。

 このほか、災害の例は数を知らず、コレラの大流行、火山の重なる大爆発、およそ明和、安永、天明、寛政以後、明治の初年に至るまで天下に起こった天変災厄は、わが国有史以来、恐らく絶無であろう。百数十か所にわたる百姓一揆、幕末の惨劇、黒船到来等による国内の騒乱、さらに戦乱、政変等もはや書き尽くすすべもないほどである。

 

軍閥時代の中国とスターリン治下のソ連

 

 さらに、世界的には、20世紀にはいった今日においても、想像もおよばないような大災害に見舞われている事実がある。

 たとえば中国、清朝滅亡後、軍閥が専横をふるい、互いに争い合っていた。そのため天災に対する対策は、まったく立てることができず、天災の被害は連年、まことに目をおおうような惨状であった。

 またスターリン治下のソ連においては、農業の集団化が強制的に行われ、それには多大の犠牲がともなった。1929年から32年に、少なくとも500万の農民がクラークという烙印を押され、財産は全部とられ、丸裸にされたうえ、食っていくすべも奪われた。この時に、約100万の農民が死んでいった。つづいて1933年の飢饉の犠牲者もまた実に多かった。どれくらい多くの農民が死んでいったか、300万から1000万まで、いろいろ計算されているが、いずれにせよ、おびただしい数である。さればもはや、人間として認められるのではない、あたかも虫けらのごとき扱いを受けたのである。

 風水害でも、旱魃でも、震災でも、人間が住んでおれば起こることなのである。砂漠や大洋の真ん中の、人の住んでいないところで、ひどい暴風雨があったとしても、災害は決して起きない。すなわち、災害は人間社会があればこそ問題になるのである。さらに、今日においては、人がわざわざ作っているむきも多い。いずれにしても、人間社会のあり方が、いかに災害に大きく響くかは当然の事である。

 天災も所詮、人災である。もし指導者が偉大であり、民衆が有智の団結をしていくならば、いかなる天災も、人間の叡智が解決することができるのである。

 

現代の最大の災害

 

 しかして、戸田先生が「今日においては三災七難が逆次に出ている」といわれたごとく、七難のうちでは他国侵逼難、自界叛逆難、三災のうちでは兵革の災いが先んじ、そのなかに他の難が起こっている観がある。

 すなわち、今世紀に経験した最大の戦争は、大二次世界大戦であった。この大戦で、もっともひどい被害を蒙ったのは、一般市民であった。第一次世界大戦では、一般市民の死者は、50万であったのに対し、第二次大戦では実に2000万人から3000万人と推定されている。空襲、集団虐殺、パルチザン戦、流浪などによる死者がその内容である。軍人の死者は、前大戦の1000万に対して、今回は1600万人である。しかもこのなかには、日中戦争における中国と日本の死者は含まれていない。

 さらに終戦後の惨状も言語に絶するものであった。ソ連も、イギリスも、ドイツ、フランスでも、その他直接戦場となった国々は焦土と化し、幾多の悲惨な現実が展開された。

 実にこの戦争で、日本国および日本国民がはらった儀牲は測り知れなかった。この戦争による死亡は軍民合わせて約300万、当時日本の全世帯のうち五世帯にほぼ一人の割り合いで、国民は肉親を失ったのである。これは空前のことであり、37年前の日露戦争の死亡者とは、ケタはずれの犠牲であった。

 戦後の苦悩も言語に絶するものがあった。経済的な危機、食べる物も着る物も、住まいもなく、路頭をさまよう人々の群、思想の対立の激化、血で血を洗う闘争の激化等々、これらをただ単に過去の悪夢であるとかたずけておいてよいのだろうか。

 太平洋戦争の無残な姿は、人々の心の奥底に、終生忘れがたい傷跡を残しているはずである。

 しかるに今日、われわれは、なんと泰平な生活にあることであろうか。「もはや戦後ではない」という言葉が、いまや常識化し、われわれの周辺には戦争の恐怖を叫ぶあの当時の悲痛な願いは、うたたかのように消え去っている。しかし、表面の繁栄をよそに、冷静にみつめていくならば、そこには依然として戦争の惨禍が潜んでいるのである。昭和20869日の二日にわたって投下された人類初の原爆の悲劇は、いまなお原爆症患者の姿にははっきりとでていることとを忘れてはならない。

 「今ここでペンを走らせているこの机も、その横にならぶ本も、父のものであったのだ。『お父ちゃんどうして死んだの』と聞く弟、父はどうして死んだのだろう、僕達をのこして。 原爆“原爆”この爆弾こそ父の命を奪った悪魔なのだ。ノーモア広島、ノーモア広島、原爆で死なれた人達は私達の犠牲になったともいえるであろう。この犠牲者たちは遠い犠牲であり、私達はこの遠い犠牲者たちに身守られて平和の進路を歩むべきである。

 これは、あの当時、九歳の小学生が、昭和22年に書いた手記である。この叫びを無にしてよいものか。

 「もう戦争はいやだ。もう戦争はいやだ。これは原爆体験者の悲痛な、心のそこからの叫びである。筆舌には及び難い平和欲求への真の絶叫である。たとえいかなる場合でも、あんな残酷な体験は、もう決して世界のいずれの人にさせないようにして欲しい。これを世界に向かって訴えたい。No More Hiroshimaという標語は、今日、国際情勢の上で、最も高く掲げられるべきものである。太田河畔平和塔の辺りに低く淋しくただよっているべきではない」

 この原爆被害者たちの悲痛な訴えを、今日心の底から受け止め、絶対に戦争なき平和な世界を出現するために、一身をなげだしている人が何人いるであろうか。

 しかもまた、目を世界に転ずれば、まだ戦火は続いているのである。泥沼のごときベトナム戦争の悲劇は、あまりにも悲惨であり、かつ残酷である。その他のアジア、中南米等は、絶えず、米ソ、米中の対立の場として、今後このような危機を迎えるかわからない。人類の身辺は、身に影のそおうがごとく戦争の危機がとりまいているのである。

 

世界的な飢饉

 

 さらに人類の生活にとって、最も大事なのは、衣食住である。衣類や住宅の欠乏も著しいものがある。特に恐るべきは、世界的な食料不足である。戦後20年といわれる今日において、このような不祥事は、まことに遺憾のきわみではないか。

 196011月、イギリスの生物学者で文明評論家のジュリアン・ハックスリー氏は、多くの研究者の署名を集めて声明書を発表し「世界人口の三分のニは栄養失調である」と警告した。また19615月、イギリス王立統計協会で行われたP.V.スカトメ氏の報告は、FPOのセン事務局長もほとんど誤差のない数字であると認めているが、それによれば、現在、32億の3分の1から2分の1、つまり10億から15億の人が、完全に飢餓と栄養不良に悩んでいると訴えた。1963年には、FPOは「世界30億の人口のうち、17億が飢餓線上にあえいでいる」とし、しかも「インドでは餓死する子供が問題だが、アメリカでは栄養過多による死亡がめだち、美容のための無栄養食に関心が集まる」と、食料不足と同時に、食料のアンバランスのひどさを追求している。

 前述のスカトメ博士は、FAOの調査部長でもあるが、彼によれば「現在、世界人口の五億近くは飢餓状態にあり、他の十億人は動物性蛋白質の不足による栄養不良状態なり、とくに日本と中国本土を除く極東地域では、人口の約四分の一が飢餓状態といえる」という。かくして、FAO1963年以来七年間にわたり、両世界に「飢餓撲滅運動」をすすめることになった。

 1963年の夏、ワシントンにおける「世界食糧会議」の席上、今はなきケネディ元大統領が、世界人口の半数以上が飢餓線上でおののいてる事実を認め、次の30年を期して、世界から飢餓撲滅の戦いを起こすべきことを提案したが、ベトナム戦争の暴挙によって、まったく望みは薄くなっている。現在は恐らく世界32億の人口のうち、18億が飢餓線上にあえいでいると思われる。しかも、人口は35年後の2000年には倍の60億を超すであろうと予想され(ちなみに2000年には61億人200968億人となった。)したがって、世界の食糧生産を1980年までに約2倍に、2000年までに3倍にしなければならないという重大な課題に直面している。

 ただし、これはまったく望みのないことではない。人類が戦争を起こさず、そして世界民族主義の立場に立って、地球の人類が同じ運命共同体の一員としての自覚において相互扶助の実をあげるならば、必ず食糧問題は解決されうるのである。ちなみに、アメリカのR.ブリテン博士は現在世界で耕作している農地の総面積は、可能耕作地のわずか五分の一であり、残り五分の四は未開発のまま放置されていると主張している。ゆえに世界各国が、いさぎよく人類の福祉のため、門戸を開放し、世界的食料不足を解決するような機運を盛り上げたいものである。戦争や病気の解決とともに、飢餓の救済こそ、まさに全人類の悲願と言うべきであろう。

 政治をとるのも人である。戦争を起こすも起こさないも人である。人類を飢餓から救うのも人である。今こそ、その「人間」」それ自体を解明し、これを指導する大思想、大哲学が樹立されなければならない。

 なぜかならば、いかに平和を愛する人といえども、善良なる指導者の心も、時としては鬼畜のごとき心に変ずる。されば、人間生命に内在するこのような悪心を解決すべき、力強き思想がなくてはならないのは、当然であろう。

 そしてこの政治をとるべき「人間」をつくり、一念三千の哲理により、国土も、否大宇宙をも、変えていくことを説ききっているのが仏法である。一人の人間に人間革命させるのも、社会の生命を浄化し、正しき社会観、人間観をもった人々が、協力しあい、励まし合う姿を築くのも、さらには、宇宙のリズムを正し、国土に、恵みと、うるおいをもたらすのも、日蓮大聖人の仏法以外になきことを、ここに断言するものである。されば、今日の指導者こそ、日蓮大聖人の仏法に理解を求めて「是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや」と問うべきである。

0017~0033 立正安国論 0017:01~0017:14 第一段 災難由来の根本原因を明かす 0017:10~0017:14 第二章 災難の根本原因を明かす 1

00170033 立正安国論 0017:010017:14 第一段 災難由来の根本原因を明かす 0017:100017:14 第二章 災難の根本原因を明かす 1

 

本文

 

  主人の曰く、独り此の事を愁いて胸臆に憤悱す。客来つて共に嘆く、屡談話を致さん、夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり。而るに今神術も協わず、仏威も験しなし。具に当世の体を覿るに、愚にして後生の疑を発す。然れば則ち円覆を仰いで恨を呑み、方載に俯して、慮を深くす。倩ら微管を傾け、聊か経文を披きたるに、世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還りたまわず。是れを以て魔来り鬼来り、災起り難起る。言わずんばある可からず。恐れずんばある可からず。

 

現代語訳

 

 主人のいわく、自分一人でこのことを愁いて、胸のなかに思い悩んでいたところ、客が来てともに嘆くので、いまこれについて、語り合おうと思う。

 いったい、出家して修行の道にはいる者は、正法によって成仏を期するのである。しかるに、いまや神術もかなわず、仏の威徳にたよっても、そのしるしがない。

 いまつぶさに現在の世の状態をみると、一般大衆は愚かで、後輩として疑いを起こすばかりである。それゆえ、天を仰いで恨みを呑み、地に俯しては深く憂慮に沈んでしまうのである。

 いま、おそれおおくも、わずかに眼を開いて、少しばかり経文を開いてみるのに、世の中は上下万民あげて正法に背き、人びとは皆悪法に帰している。それゆえ、守護すべき善神はことごとく国を捨てて去ってしまい、聖人は所を辞して他の所へ行ったまま帰って来ない。ために善神、聖人にかわって、魔神、鬼神が来、災いが起こり、難が起こるのである。じつにこのことは、声を大にしていわなければならないことであり、恐れなくてはならないことである。

 

語訳

 

円覆・方載

 円覆は天をいい、方載は地をいう。古代中国人は、大地を四角の平面、天はそれを覆う球面と考えた。天が万物を覆い、地が万物を載せることを、覆載という。

 

微管

 細い管のこと。ここでは狭い見解という意味で、謙遜の気持ちを込めて言ったもの。細い管で覗くと、広い全体が見えない。愚かな凡夫の狭い見方を譬えた言葉。

 

聖人

 儒教においての聖人は、堯と舜の二人の天子、歴代王朝の創業者である禹(夏王朝)、湯王(殷王朝)、武王(周王朝)、武王の弟の周公旦、儒学を大成した孔子を指した。日蓮大聖人は撰時抄に「外典に曰く、未萠をしるを聖人という。内典に云く、三世を知るを聖人という」と述べられている。仏法においては仏のことであるが、日本においては宗派の祖に対する敬称として用いられた。

 

講義

 

 この章は、人生の不幸三障七難の根源を示されたところであり、立正安国論の最も中核をなす部分である。なかんずく「世皆正に背き…」の一節は、最も重要であり、この真の意味を知るならば、宗教の正邪を分別し真実最高の宗教を求めねばならないことが明瞭となるのである。ここで、正とは三大秘法を示すことは当然である。しかして、災難の来由は具に三意を含んでいる。すなわち、一には背正帰悪のゆえであり、二には神聖去り辞す故であり、三には魔鬼来たり来り乱る故である。

 

夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり

 

 僧侶となる目的は、仏法を方程式どうりに修行して仏の境涯を悟ることである。との意である。仏の境涯とは永遠の生命を認識して、宇宙大の自己を見いだし、宇宙即我、我即宇宙の心境に立ち、永遠に破壊せられざる幸福境に住むことである。われわれが、日蓮大聖人の仏法を信ずるのも、その究極は成仏することにある。

 ここに「夫れ出家して道に入る者」とあるが、一往は、髪を剃り、世俗の事を捨てた僧侶であるが、再往は、在家の信者であっても「死身弘法」の強盛なる信心の人は、この言葉に含まれると考えてよい。大聖人の仏法は、一部の特別の人のための仏法ではない。全民衆を救済しきる大仏法である。したがって、御書のいたるところに「日蓮が弟子檀那等」と申されているのである。「檀那」とは在家の信者である。夫れ出家して道に入るといえども弟子・檀那は大御本尊の前には平等であり、大切なのは強盛な信心の確立があるか否かである。出家の者であっても、信心が弱ければ大聖人のお心に叶う夫れ出家して道に入ることはできない。逆に、在家であっても、信心が強ければ、大聖人のお心に叶い、成仏できる人といえるのである。

 十一通御書の弟子檀那中への御状にいわく、

 「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず 是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え」(0177:01)云云と。

 この御状は、文永5年(126410月、蒙古襲来が確実となった国じゅう驚愕の事態にあって、大聖人が幕府をはじめ諸寺に国諫あそばされた時の、御門下へのお手紙である。日本にとっても未曾有の国難であり、それを強諫することは、大聖人門下にとっても未曾有の迫害、弾圧を覚悟のうえであったのである。

 ここで申されている妻子眷属を憶わず権威を恐れぬ覚悟は、すでに真の出家である。しかるに、姿は出家でありながら、妻子眷属を養い、生計のために汲々とし、権威に媚びへつらう僧侶のごときは、真の出家ではない。それこそ、姿ばかり仏の眷属に似せた、天魔波旬の輩ではなかろうか。

 わが日蓮正宗門下における幾多の聖僧の不惜身命の戦い、また創価学会における初代牧口会長、二代戸田会長のあの毅然と戦い抜かれた姿、これこそ、大聖人の精神を、そのまま身に実践された尊き信心の鑑である。

 さらに、今日、われら同志が、身は在俗であっても、日夜、法を求め、死身弘法の活躍をしている。これまた、外面は出家でなくとも、その根本精神は、真の「出家」ではないか。

 もとより、大聖人の指導も、また私が創価学会員・同志に対して願うことも、一人一人が福運に満ちた一家和楽の生活を確立されることである。普段の信心、学会活動においても、和気あいあいと、喜びにあふれ、悠々たる戦いであってほしいと思っている。

 だが、その奥底には、この御状にあるような、勇気と確信と、偉大な覚悟がなくては真の仏道修行を全うすることはできない。しかして、いざという時には不自惜身命で護法のために戦う人こそ、大聖人のお誉めを戴くことができるのである。すなわち、成仏という最高にして絶対の幸福境涯を会得することができるのだ。

 実に、仏法を信じ、仏法を学んで、これを修行する究極の目的は、この「仏を期する」こと、絶対的幸福境涯を会得することにある。ある人は、あらゆる条件に恵まれ、幸福生活を楽しみながら、究極目標へ到達する場合もあろう。また、ある人は、あらゆる苦難を耐えながら、途中の中小目的はいっさい目もくれず、ただ成仏という究極目標へ進まねばならない人もある。しかし、いずれの場合も、その心の奥底には、真の出家としての強い強い信心と、いかなる困難をも乗り越えて進む大勇猛精進があって、初めて一生成仏を遂げることができるのである。

 

人生の目的と幸福論

 

 およそ、人生の目的は何かとの疑問は、洋の東西を問わず、常に哲学者、または真剣に人生と取り組む人々の頭をなやませてきた問題である。哲学の根本問題であるといっても過言ではない。

 古代インドのウパ二シャド哲学は、ブラフマンとアートマンとの合一を説いた。中国の儒教哲学は仁をもって理想とし、道教は人間性本来のあり方を無為となし、その自然の姿に徹することを説いた。

 西洋において、古代ギリシャのソクラテスは知を愛することを哲学の本質とした。プラトン等は国家社会の中に融合し、その発展に貢献することを理想とした。キリスト教は、唯一絶対、全知全能の神を想定し、その忠実なる僕となって、死後、天国に迎えられることを教えた。このキリスト教的人生観を弱者の哲学なりと弾劾し「神は死んだ」と叫んで、ゾロアスター教的な超人哲学を唱えたのが、ドイツのニーチェである。

 また、同じくキリスト教的人生観への反逆を試しみたマルクス・レーニンの思想は、人間生命の本質を物質の存在様式とみなし、プロレタリア独裁社会に貢献することと、物質的要求の充足を人生の目的とした。

 これらの思想は、いずれも人間生命の本質を解明しない、脆弱な砂地に建てたビルディングのようなものである。たちまちに傾き崩れてしまう。なかには、最初から蜃気楼のような思想も少なくない。

 これらの思想が、はたしてどれだけの人を救ったか。その人の主観にも生きる喜びと希望と勇気を与え、客観的に見ても幸福だといいきれるものを、一人の人間に対してすら、与えたであろうか。むしろ、誤れる思想、低級なる哲学は、これを信じて縋ってきた人々を、不幸におとしいれてきた。過去のあらゆる思想、宗教革命の途上、流された民衆の血が、これを厳然と証明しているではないか。

 われわれは、この教訓により、最高の思想、最も深い哲学、誤りのない理念をもって、人類の幸福と平和と繁栄を築かねばならない。

 今「人生の目的は何か」との問いに明確に答えられる人が、何人いるであろうか。否、現実の人生は何か、いかなるものかということさえ、明確でないのが現状である。ドイツの詩人ゲーテはいう「たとえ、どんなものであろうと、人生はよいものだ」と。しかるに、その大の親友であったシラーは「苦痛が人生である」と、まるで逆のことをいっているのである。

 いわんや、人生の目的という問題になると、各人各様の目的、希望、理想はあっても、万人の納得し、終極の目標として取ることのできる解答は、いまだかって明かされていない。

 「人生は絶え間ない前進でなければならぬ。既にあった事の単なる繰り返しであってはならぬ。最後の瞬間まで、毎日毎日が一つの創作であるべきだ」とドイツの哲人ヒルティはいった。

 この言葉は、たしかに一面の真理をいいきったものとして、首肯させる哲理を含んでいる。だが、創作といい、前進とっても、それは、行きつく目的のない航海に等しい。限りある人間にとっては、尊い人生の日日を、いかに価値あらしめるかが問題である。そのためには、目的が明らかにされねばなるまい。

 ある人は「金もちになりたい」というかもしれない。ある人は「科学者になりたい」と。また、ある人は「政治家になりたい」というであろう。またスポーツマン、音楽家、美術家、医師、教育者、ジャーナリスト、俳優、歌手等々、人によって、さまざまな目的観はあるであろう。あるいは「つつましい家庭を持ち、平凡であっても平穏に暮らせたらよい」という人もあろう。

 しかしながら、これらの目的は、いずれも人生の究極の目的というわけにはいかない。議員になりたいという人が、その目的を達して議員になったとき、それでわが人生、満てりと断言できるであろうか。おそらく、当選したその日から、次の選挙に勝つための活動を開始するにちがいない。今度は大臣になりたいという欲望が出てくるかもしれない。

 人間の欲望は限りなく発達する。一つの目的が達せられれば、必ずより大きい、新しい目的が生まれてくる。その欲望の充足に向かって、また新しい苦悩を繰り返していかなければならないのである。もとより、それは悪いことではない。それは、その人にとって、人間形成の貴重な糧であり、また、それがあってこそ、人間の文化の限りなき前進が存するからだ。

 しかし、人生の目的として論ずるには、これらの目的はいずれも中小目的であって、究極の目的ではありえないことが明らかである。かつ、人間一般に普遍できる哲学ともいえない。

 しからば、人間すべてに共通して論ずることのできる目的であり、しかも究極的な目的は何かと考えたときに、その答えを一言にして教えられているのが「成仏」すなわち、仏になることである。これを現代語に訳すと絶対的幸福ということである。

 

一般の幸福論

 

 人生の目的は、幸福になること、幸福の確立である。しかして、人世の目的は、幸福であることを示した哲学は少なくない、ウバニシャッド哲学の梵我一如も、儒教哲学の仁、道教の無為、ソクラテスの愛知も、それによって、ゆるぎなき人生の幸福境涯が樹立されると考えたがゆえに、提唱されたものである。

 ソクラテス、プラトンにおいては、国家をはなれて幸福は考えられなかった。したがって彼らが、国家との調和を保ち、国家に順応し、その発展に貢献することを理想としていたのは当然であった。ソクラテスが、逃げることを友人たちから勧められたにもかかわらず、国家の命であるといって悠々と毒杯を仰いで死んでいったのも、その意味からである。

 やがてアレクサンダー大王の遠征等にともなって、ポリス的な色彩はなくなり、一方では個人主義的な風潮が、他方では世界主義的な風潮が生まれた。

 個人主義的な哲学を代表するのは、エピキュロスの快楽主義である。彼は、快楽が、あらゆる生者の目的であると考え、さらに他人の生活に迷惑をかけないという社会的責任を考えるうえから、いわゆる、賢者の生活を示したのであった。

 その主義は、個人の救済と、人生における処世術にあった。他方、世界主義的な風潮としての思想は、ゼノンに代表されるストア哲学である。彼らは、禁欲を重んじ、そこに精神の自由があり、幸福があると考えたのであった。

 また、近代に至り、資本主義の発達によって、経済学が発達し、経済的な観点から幸福内容を考えるようになった。“最大多数の最大幸福”との言葉に示されているごとく、ベンサムや、ジョン・スチュアート・ミル等は、個人の幸福と人類の幸福は一致するという思想を展開している。

 またニーチェ等の思想では、人間の幸福とは、積極的には、人と生まれたことの楽しさ、生き甲斐であり、いいかえれば、あらゆる有限な人類が希求する、生命力の調和ある充実の状態であると考えたのである。ニーチェが、「超人とは超克されるべきなにものかである」と述べ、たえず自己脱皮し、人間形成することを目的としたのも、ここにあった。

 これらの哲学は、いずれも観念的には理解できても、あらゆる人が、自己の人生に実現しうる具体性をもったものでない。所詮、人間としての理想を描くことはできても、あくまで倫理的、道徳的抽象論にとどまらざるをえなかったのである。したがって、その理想に向かって努力していくこと自体が、善であるとしたのにすぎなかった。

 一方、マルクスを代表する唯物論の立場に立つ人々は、社会的条件下に束縛されている人間にとっては、“窮乏からの自由”こそ最大の幸福内容であるとした。彼らが人生の目的を物質的欲求の充足としたのも、その底流には、かかる幸福感があったからである。さらに、すべての不幸の原因は、社会的、階級的な矛盾から生じているのであり、この克服こそ幸福への最大要件であるとして、プロレタリア革命と共産主義社会の建設を唱えた、そして、人生の目的をプロレタリア独裁社会に貢献することであると説いた。

 しかしながら、これも一方に片寄った物の見方であり、一切の社会的要件が仮に解決したからといって、必ずしも、すべての人が幸福生活を実現しうるとは、断定できない。また、その社会改革が達成されるまでは、人は不幸でいなければならないという矛盾もある。しかも、理想現実のためには、犠牲もやむをえないという理論が展開され、スターリン治下のソ連で、あの一千万以上もの、不幸なる犠牲者を生じたのであった。もちろん、われわれは、社会的発展の意義を無視するわけではないが、同じく理想の幻影を追っているにすぎぬのではないか。このように、今日までの幸福論は、幸福の実体はなく、有名無実であり、根無し草のごとくはかない、ここに、仏法の色心不二の生命哲学によらねば、絶対に真実の幸福を実現でなきことを強く叫んでやまない。

 

仏法で説く幸福論

 

 一般に人々が求める幸福といっても、その意味するところは、実に千差万別である。卑近な例から考えてみよう。空腹の極にあった人が、おいしい食事によって満腹した場合、それを食べることと食事後の満腹感に幸福を感ずるであろう。しかし、この幸福は二時間・三時間たつと消えてしまい、五時間もたてば、再び空腹に陥ってしまう。

 家が欲しいとか、宝石が欲しいとかの欲望も、それを満たされた当座の幸福感はいかに大きくとも、月日の経過とともに薄れてしまうのである。しかも、いったん火災にあって家が焼けてしまったとか、宝石が盗まれてしまったとなると、逆に大きい不幸を感じないでいられなくなる。

 したがって、これらの幸福は、きわめて相対的である。相対的であるがゆえに、はかなく消えていくものである。そこに、絶対的の幸福を樹立しようとする宗教の根本目的がある。だが、真実の仏法が説くところと、仏教に名を借りて、勝手につくられた諸仏教、あるいはキリスト教等の諸宗教の説くところとは、本質的な相違がある。

 すなわち、前者は人間生命の奥底の真理に立ち、そこに確立された絶対的幸福が、具体的生活のすべての場面を通じて実証されるという、哲学性、合理性、実証的科学性に立っている。これに対して、後者は、哲学的な合理性の裏づけを否定して、むしろ非合理性を主張する。そして、修行の結果として会得されるという彼らの悟りの境涯は、なんら現実世界における実証性をもたない。また、たとえあっても、きわめて生活とは関係のない一般性もない。特殊で非常識な、いわゆる奇跡と称するものにすぎない。 それでは、仏法の生命哲学とは、いかなるものか。また、孝・不幸をどのように説いているのか、また、絶対的幸福とは等々についてみてみよう。これらを最もわかりやすく説いているのが十界論である。十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。

 観心本尊抄にいわく、

 「数ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず自面も亦復是くの如し如何が信心を立てんや、答う数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し」(0241:07)云云と。

 これ、地獄といい餓鬼といい、あるいは仏というも、われら人間生命の種々相にほかならぬとの、偉大な哲理を述べておられるのである。

 地獄とは、詳しくは顕謗法抄に八大地獄が説かれているように、苦悩、煩悶する境涯である。「瞋は地獄」と申されているのは、瞋りは修羅闘諍にも通ずるが、その結果、生活を破壊して苦悩に陥るゆえである。日常の肉体的、精神的苦悩から、端的な例をいえば、ナチスの弾圧を受けたユダヤ人や、今日の戦乱に明け暮れるベトナム民衆に至るまで、すべて地獄界といえよう。

 餓鬼とは、貧欲によって支配された状態で、満足することを知らないこと。

 畜生とは、十法界明因果抄に「愚癡無慙にして徒に信施の他物を受けて之を償わざる者此の報を受く」(0430:04)とあるように、愚かで目先の利益にとらわれるあまり、遠大な根本を忘れること、またこれを慙じようとせぬことといえよう。

 修羅とは、常に他人よりも勝ろうとし、自分一人が偉いように思うこと、止観にいわく「若し其の心、念念に常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて、下視が如し、而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり」と。この勝他の念にゆえに、いわゆる修羅闘諍というように、争いの姿となって現われる。「諂曲なるは修羅」とは、心がひねくれていることで、他人の好意を好意ととれず、冷酷で悪賢い生命を意味する。

 以上の地獄・餓鬼・畜生を三悪道、修羅を加えて四悪道という。

 次に、人界とは、いわゆる平らかな状態で、人間としてごく普通の平穏な生命の境涯である。今日、この状態が、どういう立ち場の人にとっても、むしろ稀で、多くは三悪道、四悪道に陥っている事実は、まことに悲しむべきことである。

 天界とは、欲しい物が手にはいったとか、自分の願いがかなったとかの満足感によって喜びを感ずる状態である。だが、その喜びは一時的であり、狭い分野におけるものであるから「五衰を受く」と説かれているごとく、時の経過とともに薄らぎ、他の条件の変化と共にあえなく崩れ去ってしまうものである。

 四悪道に人天の二道を加えて六道といい、大部分の人間の生活は、この六道を繰り返しているにすぎない。これを六道輪廻という。それに対して、努力と精進、研究によって得られる、より深く、より高く、より長い幸福境涯がある。それが声聞・縁覚・菩薩・仏で、三悪道や四悪道に対して四聖という。

 声聞とは、書物を読み、先輩の築いた業績を学び取って、知識を豊かにしたときに感ずる喜び、力の充足感である。縁覚とは、みずから思索し、試行錯誤し、あるいはある自然の現象を見て、求めていた真理の一端を得たときに感ずる喜びである。アインシュタインの相対性理論、ニュートンの万有引力説、ガリレオの振子理論、湯川博士の中間子理論、朝永博士のくりこみ理論等、合理精神の典型ともいうべき自然科学における偉大な発見が、多くは非論理的な一瞬の悟りによってなされていることは、きわめて興味深いものがある。だが、そこに至るまでに、着実な基礎の積み重ねと、深い思索とがあったことは論をまたない。芸術家の創作活動も、縁覚界の代表例である。

 菩薩とは、自己の徳性を発揮して、社会のために尽くす働きである。仏経典に出てくる勇勢菩薩は勇気、文殊菩薩は智慧、弥勒は慈悲をそれぞれ徳性とする働きの象徴化である。

 さて、最後の仏界とは、生命の永遠性を悟り、宇宙即我、我即宇宙の境涯に立って、一切を見て誤りなく、無限の生命力をもって人生を生きていくことである。それは、永遠の生命観に立つがゆえに、時間的に変化を受けることなく、宇宙即我の境涯のゆえに空間的に左右されることもない。絶対の幸福境涯である。この自我の確立を基盤として、誤りなく現実の諸問題に対処し、いかなる難関も、強い生命力をもって乗り越え、打ち破っていくことができるのである。

 人生の究極目的は、この仏界の生命の涌現、すなわち一生成仏にある。その方法は、道徳的な精神修養でもなければ、人間らしい欲望を無理に抑圧する戒律をたもつことでもない。ただ仏界の生命の当体である、三大秘法の大御本尊に境智冥合することによって、われわれの生命の内奥より涌然とあらわれるのである。すなわち、日蓮大聖人が、出世の本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕あそばされた、一閻浮提総与の大御本尊に帰命し、自行化他にわたる南無妙法蓮華経を唱えきっていくことに尽きるのである。

 

現世利益について

 

 よく創価学会のことを、現世利益を説くから低俗であり、仏法本来の精神からはずれているかのようにいう者がいるが、これは大いなる誤りである。

 現世利益とは、いいかえれば現実生活における幸福である。しかして、人間生活を詳細に分析してみるならば、その内容はすべて、幸福生活を求めて向上しようとするたゆまざる価値創造であることは明瞭である。大きくば、人類がここまで発展してきたのも、幸福をもとめ営々として築いてきた、何千年来の人々の努力と汗の結晶にほかならない。

 すなわち、「現世利益」を求めるのは、人間のあまりにも自然な心得である。これを否定し、認めぬことは、人間の本性を否定し、滅却するものであり、必ず矛盾にぶつかり、混乱を生じていくのである。

 古来、幾多の思想家、哲学者が、人間生活における幸福の問題と真剣に取り組み、この解明にいかに心をくだいてきたことか。もし、幸福を追求することを低俗だと軽蔑して、生活に関係なき空理空論をもてあそぶとすれば、それは観念論も甚だしい。のみならず、これらの古今の哲人、思想家をことごとく低俗なりと否定し去らなければならないであろう。

 いわんや仏法は最高の生活法である。単なる空想の哲学でもなければ、未来に事寄せて、現実をあきらめさせるような弱弱しい哲学ではない。事実、人々の心中に力強い生命力をわきたたせ、現実生活を打開する、たくましき実践力、生活力を奮い起す大宗教である。

 仏教=現世利益否定と公式化して覚えていることは、あまりにも愚直であり、仏法の何たるかを否定している教えであるがごとく、人人に鼓吹してきた。だが、これこそ、彼らの宗教がいかに無力であるかを証明するものではないか。

 むろん、仏法の説くところが、すべて現世利益をめざすものであるとするのは、間違いである。これらの利益は、大利益からみればわずかな部分にすぎない。

 だが、現実の祈りの叶わぬような力なき宗教で、どうして未来永遠の幸福が得られようか。一丈の堀を越えられぬものが、なんで十丈、二十丈の堀を越えられようか。

 いたずらに精神界のみを説くのが宗教であり、現実の生活からの逃避や、超越を説いて、宗教を美化して、それがあたかも深遠で高邁な教えであるかのごとく装うのは、民衆を欺瞞するも甚だしいといわなければならない。

 もし、創価学会を、現世利益を説くからといって非難するならば、汝自身の生活は、仙人のごとく霞を食い、いっさいの欲望を断絶しているのかと聞きたい。もし、かかる人間が存在するとすれば精神分裂症か、二重人格の偽善者であると断ぜざるを得ない。

 ましてや、知識人ぶり、したり顔をして、庶民の素朴な感情を愚弄するのは、あまりにも傲慢ではないか。やがて世の中の人々から見放され、忘れ去られる存在になることは絶対である。

 

現世の幸福は永遠の幸福の実証

 

 現世利益は、なにも創価学会の発明でもなければ、新説でもない。仏法の最高哲理では当然のこととして説かれている。遠くは釈尊も法華経において、近くは日蓮大聖人もまた、大確信をもって諸御書に現世の利益を断言しておられる。

 法華経の第五の薬草喩品にいわく「是の諸の衆生、是の法を聞き已って現世安穏にして後に善処に以って楽を受け、亦法を聞くことを得」と。

 いうまでもなく、この世において、仏法を正しく信ずることによって、現実の生活が幸福になり、安定しきった平和な生活を営むことができる。また、未来においても、幸福境涯で生まれてきて、生死ともに、三世にわたる永遠の生命のうえから、変わらない幸福生活を送ることができるという文証である。また、日蓮大聖人の御書を拝しても、現世における大功徳を、厳然と説かれているのである。

 撰時抄にいわく、

 「法華経の八の巻に云く「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至諸願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「若し之を供養し讃歎すること有らん者は当に今世に於て現の果報を得べし」等云云、此の二つの文の中に亦於現世・得其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば如来の金言は提婆が虚言に同じく多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世の諸仏もましまさざるか、されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ、」(0291:05)と。

 この文は、明らかに、法華経の経文を引いて、現世の大功徳を説き明かされた文である。われわれ、大御本尊を拝する者は、その指導どうりに正しく信心しきっていったならば、現実の生活のうえに功徳がでないわけがないとの御断言であり、そうでなければ、仏法はすべて虚妄であるとの、きびしき仰せなのである。

 その現実の証拠を無視しての仏法はありえないし、それを肯定し、断言しないような、力弱き宗教ではないのである。「現世に云をく言の違わざるを見て、未来を推せよ」(0957:17)と仰せられているごとく、仏法は道理であり、因果の法則のきびしき哲理である。「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468:16)と。

 このたくましい生活指導の大原理こそ、日蓮大聖人の仏法であり、そこに偉大なる人間革命・宿命打開の道が示されているのである。創価学会は、この仏法の原理を正しく実践しているにほかならない。今日、五百数十万世帯、一千数百万の人々が、御本尊の大功徳をあらゆる分野にわたって、現実の生活のうえに立証していることは、実に偉大なことではないか。

 歓喜に燃えて、功徳を感じている学会員の姿を見よ。病床にふしていた者が、元気に職場に復帰し、家庭不和に悩んだ一家が、だんらんの笑い声の絶えない家庭に改革され、和楽の生活を送っている事実を、誰が否定できようか。これ大御本尊の功徳といわずして何であろうか。

 かつまた大聖人は「近き現証を引いて遠き信を取るべし」と仰せられている。されば、この現実の証拠を見て、大御本尊様を信じた人々は、必ずや、大聖人が成仏の境涯として説かれた、永遠にして不滅の幸福境涯を会得できることを強く強く確信すべきである。

 

世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず

 

 この御文は、個人の不幸も、国土の三障七難もその根本原因は、邪宗邪義にあるとの仰せである。これは世間の人の予想だにもしなかった驚天動地のことであり、この師子吼ひとたび響いて、惰眠をむさぼっていた当時の宗教界はさぞやあわてふためいたことであろう。また邪宗邪義に迷わされたひとびとの驚愕もひとかたならぬものであったろう。さればそれはたちまちにして嫉妬、激怒に変わり、三類の強敵のアラシとなってあらわれたのである。この彼らの周章狼狽自体、おのれの本質がものの見事に見破られたことを示すものではないか。

 開目抄にいわく「此れを知れる者は但日蓮一人なり」と。誰もが無関心であり、誰もが無智であった宗教の正邪・善悪の分別こそ、幸・不幸の決定線であり、これを大聖人ひとり知られたのである。のみならず、日本の国から、また、この地球上から悲惨の二字を除き、幸福と繁栄とをもたらくのは、ご自身以外にないのであると。のみならず、日本の国から、また、この地球上から悲惨の二字を除き、幸福と繁栄をもたらすのは御自身以外にないのであると。またいわく「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232:01

 この巌のごとき民衆救済の大確信、全民衆を苦悩の底より救い出さんとの大慈悲「智者に我義やぶられずば用いじとなり」との大信念、これこそ、大聖人の立正安国論の精神であり、創価学会に一貫して流れている根本精神である。日本の国に、真に自己のエゴイズムを捨て、苦に没在せる民衆の幸福のために、また世界の平和のために一人立つ指導者がいるであろうか。もし、真実に、その心であり、日本の前途、世界の前途を憂うるならば、この日蓮大聖人の思想に耳を傾けるべきである。検討もせずして批判するのは指導者の名に恥ずるではないか。

 

生活とは生命幸福の発露

 

 人間生活を虚心にながめてみれば、それがことごとく幸福を求めての生活であることは前述のとおりである。それでは、その幸・不幸が宗教のいかんによって決まるとはいかなるわけか。

 それには、人間の生活そのものの検討がなされねばならない。結論からいえば、生活とは、生命活動のあらわれたる現実である。すなわち、瞬間瞬間の生命活動の発露である。

 しかして、この生命の奥底を支配するものが思想であり、哲学であり、宗教なのである。先に人間の生命活動を、十種類の範疇をもって説き明かした。いうまでもなく、十界論である。地獄は苦悩・煩悩の生命活動、餓鬼界はむさぼりの生命活動、畜生界は、動物等にみられるような弱肉強食であり、本能のままの生命活動、修羅界は勝他の念による闘諍の生命活動、人界は平らかな、あたりまえの生命活動、天界は喜び、声聞界は理論・真理を追究していくときなどの生命活動、縁覚界は名音楽などを聞いてうっとりし、あるいはまたピアニストがピアノを弾くことに専心し、それに徹して、一分の悟りを開く生命活動、菩薩界は、人を利益していこうとするところの慈愛の生命活動である。そして十番目の仏界とは、言葉をもって説明しがたいが、あえていえば、なにものにもくずされない絶対の幸福境、すなわち大宇宙のリズムと合致し、なんら障害のない自在の生命活動である。

 そして、この地獄界から仏界までの生命活動は、誰人といえどもこれを有している。怒る生命活動の欠けた人もいなければ、喜びの生命活動のまったくない人もいない。苦しむことを知らない人もない。それは万人共通の、本然の生命活動である。しかも、これらの生命活動は、ことごとく縁にふれてあらわれてくることも、すでに明らかにしたごとくである。

 

人間生活への思想・宗教の影響

 

 邪悪な思想、低級な哲学、したがって、誤れる人生観、社会観をもとにした生活をすれば、自己の生命は、地獄、餓鬼、畜生の三悪道、また修羅界を加えた四悪道のみ旺盛になり、貧・瞋・癡の充満するところとなる。それは、さらに生命にもはやぬぐいさりがたい濁りを生じ、一定の癖をもつようになる。濁り、癖を持った生命は、もはや宇宙のリズムと調和せず、生命力は極度に弱まり、宇宙の種々の事態に応じえず、生きることすら苦しくなり、不幸の巷を流転してゆくのである。また、生命の濁りは偏狭な人格を形成し、それらの偏狭な人格の人のみ多くなれば、衆生社会が濁り、そこに誕生する偏狭なる指導者は、狂気のごとく、国の前途を誤らせ、世界を混乱に導くのである。これ、人間の生命活動の動機ともなり、また、生命の内奥の世界を揺り動かし、支配し、リードしていくべき思想が、邪悪であり、低級であり、奸智に奸たけたものであり、また偏狭であるものにほかならない。

 なかんずく、宗教の影響は甚大である。もしも誤れる宗教でれば、しらずしらずのうちに人の生命をむしばんでいく、信仰という力関係によって、思想にあらわれた、あるいは本尊等の対境ににじみ出ている生命の波動が、強くわれわれの生命に伝えられるからである。

 われわれは、現実の低級宗教の害毒にむしばまれた人々の生活の無気力な姿、あるいはなにかにとりつかれたような気違いじみた姿、二重人格、畜生道、餓鬼道、また悲惨の二字そのものの地獄界の姿、残忍きわまりなき修羅葛藤の姿を眼前にし、あまりにも宗教が生活に影響するところの絶大さを知って慄然とするのである。ともに、日蓮大聖人の指摘に寸分の狂いもないことを知り驚嘆し、その指導原理の万古不変なるを確信するものである。

 誤れる思想、宗教がいかに恐ろしいか。西欧におけるキリスト教の例、ソビエト共産主義、ナチスの人種論、インド、中近東、東南アジアの宗教、最後に日本の宗教について概観してみたい。

 

西欧におけるキリスト教の影響

 

 西欧におけるキリスト教の歴史をみても、いかに思想、宗教の影響が大きいかがわかる。キリスト教は西暦0313年、ローマ皇帝によって公認され0392年に国教となって以来、不動の地位を築き、欧州世界に君臨するようになる。そして、やがて中世においては、教会の権限は絶対化され、国主すら法王にぬかずくにいたる。神学に合わない理論は、神への反逆であり、異端とされた。もはや、キリスト教は西欧人の心であり、唯一絶対の思想であった。法王がイスラム教徒に奪われた聖地の奪還を指令するや、人々は熱教的に十字軍に従軍し、遠征におもむいた。さらに、ルネサンス期を迎え、キリスト教の権威から脱皮しようとする人々があらわれ始めたときに、どれはどの既成の権威、宗教的ドグマがそれらの人々の心に重くのしかかっていたことか。

 教会の権威を脅かすと目された化学者たちは「無神論者」とか「魔術師」「マホメット教徒」とののしられ、迫害された。ジョルダーノ・ブルーノは焚刑に処せられ、68歳の老齢のガリレオ・ガリレイは、審問所に引きずりだされ、焚刑か、さもなくば地動説を捨てよと二者択一を迫られた。何と思想、哲学、宗教の誤りは、恐ろしいことか。

 やがて、教会の腐敗・堕落に対し、幾多の宗教改革が試しみられ、特にドイツのマルチン・ルター、スイスのジョン・カルヴァンの影響は大きく、多くの新教団が誕生するにいたる。以来、新旧の対立は凄惨をきわめた。フランスにては、1572年の聖パイソロミューの虐殺で、約5万人のユグノー教徒が惨殺された。また1618年から48年にかけて、ドイツを舞台として、大宗教戦争といわれる30年戦争が行われた。これはドイツの新旧教徒の争いに、デンマーク、スウエーデン、フランス等が参戦し、全ヨーロッパ的な長期の戦争となったものである。この戦乱によって、ドイツは殺戮と疫病の巷と化し、当時のドイツ人口は1800万から、実に半数以下の700万に激減してしまったといわれる。

 こうしてキリスト教の権威は失墜し、人々の心はしだいにキリスト教から離れていった。だが、いったん人人の心をとらえた思想が、そう簡単に抜けきれるものではない。18世紀の終わりにいたってすら、ジエンナーの種痘の発見がキリスト教徒によって「摩法」「無神論」と告発され「天そのもの 神の意志にすら戦いを挑むもの」「神の掟はその施術を禁ずるものである」と激しい迫害を受けた。もって、思想の及ぼす影響の深さを知るべきである。

 今やキリスト教は衰亡の一途を辿っている。だが、今なお西洋人の心を陰に陽に、キリスト教的な物の考え方が支配していることも見のがせない。

 こうしたキリスト教の歴史を見るにつけ、その底流に、恐るべき人間性の無視、抑圧があることを知るのである。キリスト教界は、表面では、あるときヒユーマニズムを唱え、あるときは、平和を唱え、時流にのって、その都度、美しき言葉を吹聴する。だが、いったい、彼らのいう”ヒユーマニズム”が、彼らの手によって一度でも叶えられたか。残念ながら、否、当然のことながら、彼らは、結果的に、戦争を助長し、人間性を抑圧してきたのである。あれだけ、キリスト教が深く流布していながら、なぜ欧米諸国は、植民地主義をもって、アジア、アフリカを苦しめてきたか。所詮、キリスト教によるヒユーマニズムは、きわめて根の浅い観念的なものである。その根底は、人間性に対する罪悪視であり、偏狭なる生命観である。

 

共産主義思想とスターリン治下のソ連

 

 一方「神なき宗教」といわれる共産主義もまた、それが行動化され、実銭化されたときに、多くの犠牲を生んだのであった。それはスターリン治下のソビエト社会に、最も殺伐とした形であらわれた。農業集団化にともなう、何百万、否、一千万以上の農民の大量虐殺、餓死については前章で述べたとおりである。スターリンは、独裁者の地に位つくとトロッキーやジノヴィエフ等の「左翼反対派」をけおとし、さらにはブハーリンやルイコフを片づけた。1928年から1932年にかけての第一次五カ年計画においては、多くの「反対派」党員の静粛があり、また、農民、旧インテリ、少数民族など、おびただしい数の、名もなく、よるべのない、無辜の民衆の犠牲があった。この時ゲーペーウーの名は死神の異名として恐れられ、流罪地シベリアは、絶望の地の果てと恐れられていた。

 1933年の初めに、スターリンは第一次五カ年計画の成果を誇らしげに語った。翌19341月から2月にかけて、第17回党大会を開いた。この大会は「勝利者たちの大会」と名づけられた。だがこれは“勝利者”ならぬ“犠牲者”の大会だったのである。

 その年の12月にキ―ロフが暗殺されて以来、ソ連社会には「エジョフシチナ」の名で呼ばれる大量粛清のアラシが吹きすさぶのである。すなわち、スターリンによって内務人民委員に任命されたエジョフにより、まず、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ルイコフ等の、かってレーニンの側近だった人々が大粛清された。次いで、スターリンから不興を勝ったスターリン主義者の人たちが、つぎつぎと粛清されていった。第17回党大会の代表1965名のうち、1180名が「反革命の罪科」の名のもとに逮捕された。この大会で中央委員に選ばれた139名の中央委員とその候補のうち、その70%の98名が逮捕、銃殺された。かくして、党大会の80%が刑務所、強制労働収容所、処刑室に姿を隠していった。ましてや、平党員の何%が行くえ不明になり、生命を失ったかは、測り知れない。また数千の非党員も犠牲となった。

 また幾10万の市民が家庭と職場から連れ出され、強制労働所にほうりこまれた。しかも、その選び方はあまりにもばかげていた。時には、警官が街の一角を軒並みに歩き、気まぐれにドアのベルを鳴らしては、あちらで一人、こちらで一人というように、まったく罪のない人たちを車に乗せて運び去った。その目的は、労働力をふやすこと、燐人を恐怖におとしいれること以外に何もなかったという。軍の粛清も仮借なく行われた。1837年、ポーランドの戦争の英雄、赤軍建設の功労者であった参謀総長トハチェフスキー元帥以下8将軍が銃殺に処せられた。この時の粛清で、5名の元帥のうち3名、15名の軍司令官のうち13名、85名の軍団司令官のうち57名、195名の師団司令官のうち110名、406名の旅団司令官のうち220名が抹殺された。それよりも低い地位にある将校も5000名が反逆者として死んだのである。そのほか行政機関等の粛清もきわめて激しいものであった。

 また非ロシア諸民族に対する静粛も悲惨であった。1938年にはウクライナ共産党の第一書記になったフルシチョフによって、ウクライナの大粛清が行われた。またポーランドの共産主義者のほとんど全部銃殺、または投獄された。その他ユダヤ人等の多民族の粛清も行われた。そして、「エジョフチナ」の最後の犠牲者は、ほかならぬエジョフ自身であった。エジョフは1939年ポストを追われ、姿を消してしまった。その年の党大会で、スターリンは、もう大量粛清はやらないといった。しかし、全体主義体制の重苦しい空気、恐怖の世界は続いた。

 第二次世界大戦が始まり、ソ連国民は、まる四年間、ドイツ戦争で渾身の力をふりしぼり、ようやく戦争に勝つことができたが、その後にまちうけていたものは、またスターリンの圧政であった。再び国民の生殺与奪の権利は、スターリンに握られ、ぺリヤの秘密警官は、おびただしい血の粛清をやってのけた。「ぺリヤ警察はいつでも未明に訪れ、ドアをノックし、不幸な人を有無をいわさず連行していった。それっきり、その人の消息はようとしてわからない。ソ連国民はたえず未明のノックにおびえながら、見ざる、いわざる、聞かざるの生活を送らなければならなかった」

 これらの事実を知って、われわれは、その冷酷、残忍なのに驚くよりも怒りを催す。その底流に、生命を、物質の存在様式に過ぎぬとしか見ない、低級なる唯物論の生命観があったことを指摘せざるをえない。あのような強制的な生活の画一化、虫けらのごとく粛清するあの悪魔のごときふるまい、これらに一貫して流れるものは、人間の個性の無視であり、人間の自由の略奪であり、人間の尊厳の無視である。すなわち「人間」そのものを、唯物論的見地から見立てた、哀れなる結末ではなかったか。さらに、スターリンが、第二次世界大戦後、第三次世界大戦を予想して、重工業に力を入れ、国民に極度の耐乏生活を押しつけるなど、その底には、戦争は宿命的に避けられないという、レーニン以来のテーゼがあったこともいがめない事実である。ここにも、偏狭なる思想、低級なる理念が、いかに不幸をもたらすかが、如実にあらわれているではないか。

0017~0033 立正安国論 0017:01~0017:14 第一段 災難由来の根本原因を明かす 0017:10~0017:14 第二章 災難の根本原因を明かす 2

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誤れる人種観・民族観=ナチ・ドイツ

 

 また、第二次世界大戦中、ナチ・ドイツは、ユダヤ人の殲滅をめざして、六百万人ものユダヤ人を殺害した。なぜこのような暴挙にでたのか。

 ヨーロッパ諸民族のユダヤ人民に対する憎悪は、中世初期からの根深い伝統をもっている。その煽動者が「ユダヤ人はキリストを十字架にかけた悪魔だ」とするキリスト教会であった。

 ナチは、一方では共産主義の浸透を恐れる資本家の心を反共産主義で捉え、一方で、この反ユダヤ主義を唱えて、ゲルマン民族を至高とする民族感情を味方にしたのである。

 19334月、ナチ政権はユダヤ人商店に対するボイコットを出した。第一次世界大戦後の経済苦にあえぐドイツ国民は、たちまちこの作戦にのせられ、生活苦の根源はユダヤ人にあると思い込み、憎悪の念をかりたてられた。ユダヤ人商店襲撃が全国的な国民運動として繰り広げられた。

 ここまで、反ユダヤ感情がたかまったことが、ナチのユダヤ人殲滅を正当化し、推進する大きい力となったといえる。19421月、いわゆるヴァーンゼー会議がゲシュタボ長官ハイドリヒのもとに開かれた。そして、全ヨーロッパのユダヤ人を東ヨーロッパで強制労働に酷使したうえで絶滅させるという計画が立てられたのである。

 しかし、実際には、老人、子供、夫人の多くは強制労働に耐えられないので、すぐに殺された。アウシュヴィルツ、マイダネック、ヘルムノ、ベルゼック、ソビボール、トレブリヤンカ等の収容所がこのために設けられた。所長以下、少数の役人はナチ親衛隊で占められていたが、下級役人は政治犯や刑事犯が転用された。特に刑事犯が役人になったところでは残虐を極めたという。

 そうでなくても、本来、収容所の目的が、体力を弱らせ、病気にかからせ、絶滅することにあったのだから、その悲惨はいうまでもない。有名なガス室や死体焼きかまど、大量銃殺溝等々、すべて人間が人間を殺すために考え出された道具立てである。なんという残虐、なんとう冷酷、なんという狂気、そして、なんという人間性無視の悲劇であろうか。

 それは、偏狭なる人類観、民族主義が当時のドイツ国内のさまざまな不平不満と結びつき、さらに、それに指導者の征服欲、名誉欲、利害等が結合し、暴発的な感情となり、人々を狂信的な、ユダヤ民族殲滅の暴挙へとかりたてたのである。だが、この誤れる人種観、民族観が、直接的には結びつかずとも、キリスト教の「ユダヤ人は“陰険な、堕落した”民族であり、神を否定し、キリストを殺害したために、神に呪われている民族である」との思想に、淵源がなかったと誰が断定できようか。そうでなくとも、ナチにローマ教会が妥協したことは周知の事実である。そこにキリスト教の二重人格性が顕著にあらわれているのではないか。これまた、人間性を無視した偏狭なる思想が、権力と結びつき、戦闘化したときに、いかなる悲惨な現実が展開されるのか、そのよき証拠である。

 

東南アジアに見る宗教の害毒

 

 また、アジアにおける思想、宗教の影響性の一例として、インドとパキスタンの根深い対立がある。すでに1947年、両国が分離独立に際しては、650万のイスラム教徒が、インドからパキスタンに逃れ、逆に50万の非イスラム教徒がパキスタンからインドへ行ったという。この時、パンジャブ州を中心に両教徒の無差別殺戮が行われ、その犠牲者は、イスラム教徒だけでも、なんと50万に達したとわれている。

 彼らは、宗教に力がないために、それに政治の利害がからみ、力で訴えて解決しようと試みるのである。

 この両国間の対立を根本的に解消できることは容易ではない。またインドの内部におけるカースト制度は、現在、4000種にわたる階級があり、それがどれほどインドの近代化を妨げてきたことか。しかも、今日法律でカースト制が禁じられているのもかかわらず、きわめて固定化した形で存在している。これまた、ヒンズー教が、どれだけ民衆の中に浸透しているかを示すものであろう。

 また、小乗仏教国といわれる東南アジアの国々の民衆が、西欧の植民地の支配のもとに呻吟してきた無気力、惰弱、消極的風潮のなかに、宗教の害毒が、強く、はっきりとにじみ出ているのである。もともと小乗教では、この人生を、苦・空・無常・無我であると立て、煩悩すなわち人間の欲望を断じ尽くした境地を悟りとした。このために、比丘に二百五十戒、比丘尼に五百戒等の戒律を持たせようとした。ここに小乗教が戒律主義であるといわれるゆえんがある。

 だが、いったい、煩悩を断じ尽くすなどということができようか。また、それができたとしても、そんな人間は、もはや木石となんら変わらぬではないか。現実を否定し、無視し、他の世界に幸福を求めゆく思想である。これら小乗の教えは釈尊当時のインドの民衆の、享楽主義的風潮を打ち破るために、またバラモンの教えを破るための仮説にすぎない。このような、低級の教えを根本にすれば、当然、自由な人間性を疎外し、建設するたくましき生命力をむしばみ、無気力と偽善とを植えつけてしまうのである。

 思想とはまことに恐ろしきものである。一人の人間の人生を徹底的にきめてしまうことはもちろんである。だがそれが、いったん社会に流布し、全体の中に浸透したときに、思想は、最もその威力を発揮する。巨万の富を積もうが、その人一代限りで滅び去ってしまう場合もある。その興亡盛衰が、いかにきびしいかは、歴史が如実にこれを示しているではないか。

 だが、いったん社会の奥深く打ち込まれた思想は、その後何百年、いや何千年と生き残る。そして、その社会の歴史に一貫した宿命をもたらす。そうなれば、もはや、その社会に生きる人は、その思想自身では、信奉しいえいると思わなくとも、しらずしらずのうちに、その思想の影響を受けているのである。ひとたび、自覚して、これを打ち破らんとすれば、平穏な世界は再び変じて、いかに憎悪と怨嫉と迫害のきびしいかを知らされるのである。

 

太平洋戦争における神道

 

 わが国においては、低級な、邪悪なる思想、宗教がいかに国の前途を誤らせたかを顕著に示す例として、あの太平洋戦争における神道があげられよう。明治以来の神道思想は、天皇の神格化とともに、神州不滅の国家主義思想を形成し、戦争遂行の原動力となっていたのである。しかるに、神道そのものには、なんの指導理念もなく、いたずらに国民を精神主義にかたむけるばかりであった。一億の民に挙げて神社参詣することを強調した。国家権力によって、押しつけられたこと自体、すでに宗教に力のない証拠である。盲信とも、迷信ともいうべきであろう。その結果は、あの戦争中の神がかり的な神風思想となり、竹ヤリ主義の日本神道となり、シンガポール神社や朝鮮神宮等に見られる多民族への強調という愚劣な政策となって現われ、多くの破綻を生じたのである。また、思想の力は、あの客観的には、まったく勝ち目のない戦争を、最後まで皇軍必勝を信じさせたのである。だが、結果は、未曾有の大敗戦であった。終戦直後、幾多の軍閥関係が、皇居前広場で自決した。民間の極右翼の集団自決もあった。その信念の破綻から、悲しくも、みずからを死に追いやったのである。まことに恐ろしさは、言語に絶うるものがあるではないか。一片の思想が、かくも根強い国民感情を形成し、あの未曾有の大戦乱を巻き起こし、その破滅は、また多くの犠牲者をともなった。だが、このように思想に威力があるにもかかわらず、人々は、思想自体の高・低・浅・深・正・不正に対しては、あまりにも無関心であり、無感覚である。いわば思想の魔力というべきか。

 われわれは、これまで、西欧のキリスト教、ソ連の共産主義、インドのヒンズー教、東南アジアの小乗仏教、そして日本の神道等をみてきたが、これらの例をもってしても、思想宗教の高低、宗教の正邪を、あくまでも政治権力に左右されず、真剣に検討すべきであろう。われわれが、まず、宗教革命に立ち上がったのも、そのためであり、それ以外には断じてない。

 

現代の日本における邪宗教

 

 しかるに、現代の日本の宗教界には、キリスト教よりも、小乗教よりも、ヒンズー教よりも、神道よりも、恐るべき狂気の宗教が横行しているのである。特に宗教の根本とすべき本尊を誤れば、その人の生活は根底より破壊され、不幸の巷を流転するしかないのである。われわれは、身にまわれたキツネつきとか、あるいはヘビのようにのたうちまわる、むざんな姿を見たり、聞いたりする。狐狸を拝むものは狐狸の姿を現じ、蛇竜を拝めば、またその姿を身に現ずる。まことに不思議であり、かつ恐るべきことである。これ、われわれの生命の中に、本然的にそれらの生命の働きが備わっており、縁にふれてあらわれてくるという、仏法の方程式が正しいことを示しているではないか。

 このように、拝む対象の影響力は、われわれの身に重大な変化を起こす。現在、信仰の対象たる本尊は、きわめて多種であり、狐狸・男女の陰部・水火・太陽・山岳の自然者等、驚くべき数にのぼる。仏教中、釈尊を立てる宗教においても、小乗教の釈尊から寿量顕本の釈尊まで種々雑多であり、真言宗は大日如来を、浄土宗は阿弥陀如来を、日蓮宗は釈迦の立象、または日蓮大菩薩と呼称して大聖人の像を、あるいはにせ曼荼羅を拝むなど、みな思い思いに勝手な本尊を立てている。だが、これらの本尊が、いかに誤りの甚だしいか、文・理・現の三証からみても、五重の相対、三重秘伝等の宗教批判の原理に照らしても、また一念三千の法理のうえからも明白となるところである。これらの本尊をもとにした邪宗教は、人間の生命に深く食い入って、本質的にその生命をむしばむ悪鬼となり、悪魔となることは絶対である。妙楽大師は、正境に縁すれば利益多しと述べ、大聖人も御書のなかで幾多の正しき本尊の功力を強調されているが、その反対を考えれば、邪宗教の害毒、まさに恐るべきではないか。これを大聖人は「魔来り鬼来り災起り難起る」といわれたのである。

 魔も鬼も、その意味は、ともに、人の善心を破壊し、生命を濁らせ、不幸にする働きであり、根本的には、邪宗、邪義、邪智より起こるものである。「魔来り鬼来り」とは正報であり「災起り難起る」とは依報であり、この文は依正不二を示している。正法とは、自己の生命活動そのものであり、依報とは、環境のいっさいである。所詮、人間生命の濁りが、個人の生活を破壊し、さらに、社会全体をも混乱におとしいれ、国土にも災難をもたらすのである。

 

謗法の人の死後

 

 さらに永遠の生命観に立てば、もし邪宗教を信奉するならば、その人の生命の本質が破懐されるがゆえに、未来永劫に不幸の連続であり、生きては、苦悩にうちひしがれ、死しては無間の焔にむせぶのである。これ経文に明らかであり、大聖人の御書に歴然としているところである。

 法華経譬喩品には、邪宗教に迷い、正法に背いた人が、死後どのようになるかが説かれている。

「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或はまた顰蹙して疑惑を懐かん。汝当に、この人の罪報を説くを聴くべし、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、それ、斯の如く経典を誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん。この人の罪報を汝今復聴け。その人は命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して、劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して、無数劫に至らん。地獄より出でては、当に畜生に堕つべし。

 若し狗野干とならば、其の形は乞痩し、梨黮疥癩にして、人に触焼せられ、亦復、人の、悪み賤しむ所と為らん、常に飢渇に因しんで、骨肉枯渇せん、生きては楚毒を受け、死しては瓦石を被らん、仏種を断ずる故に、斯の罪報を受けん、若しは馲駝と作り、或は驢の中に生まれて、身は常に重きを負い、諸の杖捶を加えられん、但だ水草を念うて、余は知る所無けん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し。

 或は野干と作って、聚落に来入せば、身体疥癩して、又、一日無からんに、諸の童子の、打擲する所と為り、諸の苦痛を受け、或る時は死を至さん、此に於いて死に已って、更に蟒身を受けん、其の形は長大に、五百由旬ならん、聾騃無足にして、蜿転腹行し、諸の子虫の、接食する所と為りて、昼夜に苦を受くるに、休息有ること無けん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是のごとし。

 若し人と為ることを得ば、諸根は暗鈍にして、矬陋壁、盲聾背傴ならん、言説する所、有らんに、人、信受せじ、口の気、常に臭く、鬼魅に著せられん、貧窮下賤にして、人の使う所と為り、多病痟痩にして、依怙する所無く、人に親附すと雖も、人の意には在かじ、若し得る所有れば、尋いで復、忘失せん、若し医道を修して、方に順じて病を冶せば、更に他の疾を増し、或は復、死を至らん、若し自ら病有らば、一の救療すること無く、設い良薬を服すとも、而も復、増劇せん、若しは他の反逆し、抄劫し窃盗せん、是の如き等の罪は、横に其の殃に羅らん、斯の如き罪人は、永く仏、衆聖、之、王の、説法教化したまうを、見たてまつらじ、斯の如き罪人は、常に難処に生まれ、狂聾心乱して、永く法を聞かじ、無数劫の、恒河沙の如きに於いて、生まれては輒ち聾唖にして、諸根は具せざらん、常に地獄に処すること、園観に遊ぶが如く、余の悪道、在ること、己が舎宅の如く、駝驢猪狗、是れ其の行処とならん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し、

 若し人と為ることを得れば、聾盲瘖唖にして、貧窮諸衰、以て自から荘厳し、水腫乾痟、疥癩癰疽、是の如き等の病、以って衣服と為さん、身は常に臭処にして、姤穢不浄に、深く我見に著して、瞋恚を増益し、淫欲は熾盛にして、禽獣を択ばじ、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し。」

 この経文は観念でもなければ、虚構でもない。現実生活の実相なのである。日蓮大聖人は、法華経について「六万九千三百八十四文字悉く仏なり」と仰せられ、一言一句ことごとく真実であり、生命のきびしい実相を説き窮めていることを示されている。これはど恐ろしき邪宗教に、人はなぜかくも無感覚でいるのか。

 聖愚問答抄にいわく「悲しいかな痛しいかな我等無始より已来無明の酒に酔て六道・四生に輪回して或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ或時は餓鬼・飢渇の悲みに値いて五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生・残害の苦みをうけて小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う、或時は修羅・闘諍の苦をうけ或時は人間に生れて八苦をうく生.老・病・死・愛別離苦.怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり或時は天上に生れて五衰をうく、此くの如く三界の間を車輪のごとく回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇るも会遇たる事をしらず、迷へる事は羊目に等しく暗き事は 狼眼に同し」(0474:12

 この文は、明らかにわれわれが過去遠々劫より今日よりいかに不幸にさいなまれ、苦悩の巷を流転してきたか、そして、今日、われわれの生命のなかには、いかに多くの不幸なる宿命がひそんであるかを示されたものである。ここに「無明の酒」とは邪宗教である。このように邪宗教は、一人の人間の一生のみならず、測り知れないほど長きにわたって、生命の奥底を支配する。

 

この地上に展開される地獄絵巻図

 

 しかも、ここに示された姿はけっして、この地上とは別の幻想の世界にあるのではなく、20世紀の今日ですらこの地上に出現したし、また出現しているのである。大焦熱地獄とは、まさに広島、長崎の原爆の悲劇それではないか。一瞬にして火の海と化し、猛火に焼かれゆく人々の苦悩を、地獄と呼ばずして、何といおうか。また、紅蓮地獄とは、八寒地獄の一つであり、この地獄に落ちたものは、極寒のために皮膚が裂けて真っ赤になり、ちょうど紅蓮の蓮華の花に似ているところから、このように名づけられた。だが、これまた現実にあったのである。

 第二次世界大戦中、ソ連西部はナチ・ドイツの侵略を受けたが、オデッサの町でも徹底的な反ナチ主義者に対する弾圧が行われた。ナチの親衛隊は、町の広場に鉄の檻をすえ、捕えたパルチザンを裸にして入れて、絶えず水を浴びせた。極寒のために男たちの肉はむけ落ち、赤い花が咲いたようになったという。まさに、紅蓮地獄そのものではないか。

 その他、同じくナチがユダヤ人絶滅のために設けた強制収容所、ワルシャワのゲットーの悲惨な姿、また、日本軍がマニラをはじめ各地で行った捕虜虐殺、アメリカ軍とても、そうした行為がなかったわけではないし、いわんや原爆等によって、非戦闘員数十万を焼き殺したではないか。戦争は常に、かかる地獄絵図を描き、人々を、餓鬼界、畜生界、修羅界の狂乱にかりたてるものであろうか。

 戦争はすなわち兵革の災、自界叛逆、他国侵逼である。その原因は「世皆正に背き人悉く悪に帰す」ところにあるとの御断言であられる。

 

真の宗教による宿命打界

 

 もとより、戦争だけが、地獄、餓鬼、畜生界出現の根源ではない。むしろ、戦争そのものは、三悪道の生命に支配された人間の一念のあらわれである。ゆえに、その根を断つためには、正法による宿命打開、生命浄化以外にないことが明らかではないか。

 「宿命のこの暗黒な、底気味悪いが、しかし本質的な周律が生命の中に脈うっている。詩人は魅惑されて、学者は拱手して、哲人は絶望してこれをみている。身体の宿命、しかも最も不思議のもの」

 ドイツの医学者ハンスムフは、宿命についてかく叫んでいる。しからば、この宿命は打開されえぬものであろうか。多くの哲学、宗教は、宿命は定まれるものとなして、それを諦めさせようとする。そのなかでも、現在の多くの邪宗教は、因縁話で無知な人を鎖でつなぎ、奴隷のようにし、生命力を奪い、生ける屍とさせゆくのである。

 だが、人生の実相は、宿命との対決であり、事実、宿命打破へ、宿命打破へと人々の努力は向けられているのである。にもかかわらず、宿命にしばられ、宿命に流され、宿命に泣く人のなんと多きことか。それでも人々の努力は続けられる。単なる宿命説は、人間の本性を無視するものであり、力なき哲学であり、敗北の哲学である。ここに、邪宗教に迷い宿命打破の偉大なる宗教を見失えば、人々は再びまた、未来永劫にわたり、三悪道、四悪道、六道の暗黒の世界をさまようのみである。

 

“目に見えぬ敵”

 

 邪宗教はかくも恐ろしいものである。ある人いわく「目に見えぬ敵を恐れよ」と。まことに邪宗教こそ“目に見えぬ敵”であり、最も恐れなければならないのは、邪宗、邪義、邪智である。富木殿御書にいわく「智者は怨家・蛇・火毒・因陀羅・霹靂・刀杖諸の悪獣・虎狼・師子等を畏るべからず、彼は但能く命を断じて人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能わず、畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識となり決定して人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ」(0969:06)。

 この邪宗教の害毒を知ればこそ、われわれは、人に伝えぬわけにはゆかないのである。もし、人が不幸になるのを知って、ただ拱手して見ていたとすれば、その人は卑怯であり非人道であろう。開目抄にいわく「我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云」(0237:01)と。まことに「言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」である。

 

諸天善神と神天上

 

 人はよく「神は実在するかしないか」といった議論をする。だが「神は実在する」という人も、「神は実在しない」という人も、神そのものについては、きわめて、漠然とした、あいまいな考えしかもちあわせていない。一般に、人々が「神」を口にするとき、人類の未開時代にもった、アミニズムとシヤーマニズムの心霊概念を別にすれば、大きく三種類に分けられる。

 

三種類の「神」

 

 第一類の神は天地創造の神である。たとえば、ユダヤ教のエホバ、キリスト教のゴット、イスラム教のアラー、天理教の天理王命、金光教の天地金之神がこれに属する。およそ天地創造説が、幼稚な想像にすぎないように、この劇の主役たる神も、また想像の産物にすぎない。近代科学の発達にともなって、その幻影はことごとく打ち消されてしまった。

 これと共に、そのような神の神話的な面を否定しながら、思弁哲学という別の面で、神を想定した人々がいる。キリスト教神学の神秘主義が発展し、デカルト、スピノザ、さらにヘーゲルに至る観念論哲学である。彼らは、この世のあらゆる現象が、絶対的な神の意志によって動かされているとすることによって、自己の思弁の体系化を試みたのである。

 20世紀後半にはいった今日、唯物論哲学で教育されたソ連の青年科学者たちの間でも、自然界のあらゆる現象の奥に、人智の及ばない不思議の法があるとして、これを神と呼ぶ新しき宗教が芽生え始めているという。

 これらはすでに天地創造の神とは、まったく異なった神への発展であるが、その思惟方法は軌を一にしているのではないだろうか。彼らが表現できえないで、ただ概念的に想定しているその神とは、仏法の教えを求めて初めて明らかとなる。すなわち、南無妙法蓮華経の一法こそ、その本体であると断定できるのである。

 第二類の神は、氏族の先祖を神格化した氏神、あるいは、生前、功績のあった人を尊敬し、死後も名を残そうとした神社の御神体等の類である。前者の例として、日本の天神七代、地神五代をはじめ、バラモン教の梵天・帝釈、ゾロアスター教のアフラ・マツダ等、アジアその他各地の神々がある。天照大神は天皇家あるいは大和民族の先祖神であり、大国主命は出雲氏族の先祖神という。後者の例では八幡神社には応神天皇が祀られ、また乃木大将や東条元帥、明治天皇も神として祀られていることは、周知のとおりである。

 先祖や功労者を神とする宗教は、彼らを敬う民衆の心情を、為政者の営利にさとい連中が利用して、宗教にデッチ上げたものにすぎない。祖先に感謝し、功労者に敬意をいだくのは正しい。これは道徳の範疇である。だが、道徳上の尊敬と、宗教的な救済とはまったく異なる。祀られている先祖や功労者は、土地の開拓者として、あるいは、ある分野のことに関しては才能ある人として、偉大であったかもしれない。だが、人生の苦悩を解決したわけでもなく、永遠の生命を覚知して成仏したわけでもない。迷いの衆生にあることに変わりはない。その意味で、自身ですら救えなかった彼らが、死んで衆生を救う力が出てくるなどという不合理は、ありえないことである。

 第三の神は仏教に説かれている神である。信仰の対象ではなく、末法の世に正法を受持し弘法に励む者を守るという誓願を立てた諸天善神である。この神の働きは、実在の概念よりも、むしろ作用の概念をもってみるべきもので、日蓮大聖人の生命哲学をもったときに、その人を不幸から守り、あるいは迫害者から守る働きとして現われてくるのである。

 諫暁八幡抄にいわく「有る経の中に仏・此の世界と他方の世界との梵釈・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見乍ら聞き乍ら治罰せずして須臾もすごすならば必ず梵釈等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えずば梵釈・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈又かくのごとし、梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし、若し然らずんば三世の諸仏の出世に漏れ永く梵釈等の位を失いて無間大城に沈むべしと釈迦多宝十方の諸仏の御前にして起請を書き置れたり」(0578:11)と。

 また、治病大小権実違目にいわく「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:07)と。

 すなわち、諸天善神は、悪鬼神と表裏の関係にあって、十界互具の生命自体に、本来備わっている。宇宙全体を生命体とすれば、宇宙に諸天善神がある。世界を一つの生命体とすれば、世界の諸天善神の働きがある。戸田前会長が、一国謗法により敗戦の日本に信教の自由を打ち立てて、妙法流布の体制を整えたマッカーサーを梵天に相当すると教えられたのは、この諸天の謂である。

 天照大神、八幡等は、同様の原理にして、日本という一国の国土における諸天善神をいう。さらに、一人の人間革命についても、同じ原理による諸天の働きがあることはいうまでもない。しかして、一個の人間の諸天の働きが、一国、世界、宇宙の諸天をも動かす原動力となるのである。一国の繁栄も、世界の平和も、宇宙の平静も、強盛なる信心に立ったわれら妙法護持者の祈りによって、すべてが決定されていくことを知らなければあらない。

 

諸天善神について

 

 以上、神について三種類あることを示したが、さらにこのうち第三の諸天善神について述べてみよう。

 法華経序品では「爾の時に釈提桓因其の眷属二万の天子と倶なり、復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り、爾の眷属の天子と倶なり。自在天子、大自在天子、その眷属三万の天子と倶なり、娑婆世界の主梵天王、尸棄大梵、光明大梵等、その眷属二千人の天子と倶なり」と、天界の衆生が、法華経の会座につどうありさまが説かれている。天界の衆生ばかりでない。菩薩界の衆生も、声聞衆も、その他の雑衆としてあげられる衆生も、つどいきたり、それはまことにおびただしい数にのぼる。

 この序品の儀式は、いったい何を意味するであろうか。戸田前会長はこれについて次のように述べられている。

 「さて、この耆闍崛山に集まった第一類声聞衆・第二類菩薩衆・第三類雑衆の数をざっと数えてみれば、約三十万近いと思われる。それ以上であるか、それ以下であるか、若干百千とあるので、推測にまかせるいがいなはない。

 これだけの大多数の人間が、どうして集まれたかということが不思議になってくる。たとえ、集まりえたとしても、釈尊の音声がこれらの人へ、どうして聞かせたことか。仏は梵音声があるといって、梵音声の一相をもってこれを片づけるとしても、末代のわれわれ凡夫は信ずることができない。(中略)

 ことに雑衆中、帝釈天とか、自在天とか、大梵天とか、また、人にあらざる竜王とか、緊那羅とか、乾闥婆とか、迦楼羅とかにいたっては、どうしてこれを信ずることができようか(中略)

 ひるがえって、仏語を案ずるに、仏の言葉はいつわりではない。しからば何を意味するのか。法華経には当体蓮華、譬喩蓮華の義がある。

 当体蓮華とは、動かすことのできない真理の直接説明であり、譬喩蓮華とは、その真理を譬をかりて説明したものである。たとえば蓮華のことであるが、因果俱時の法それ自体を説く時は当体蓮華であって、因果俱時の法を蓮華の花をかりて、その花と実が同時にあることを示して、これを説明するのは譬喩蓮華である。

 この序品の三類の大衆の集まりは、すなわち譬喩蓮華であって、当体蓮華ではないのである。

 しからば序品の当体蓮華葉いかん。何万の声聞、何万の菩薩、何万の雑衆は、ことごとく釈迦己心の声聞であり、釈迦己心の雑衆である。妙法蓮華経は、釈迦の命であり、釈迦の心である。さればこそ、十界の衆生はことごとく釈迦の内証に住むというとも、なんの間違いもないのである」

 ここに示されたごとく、序品の儀式は、ことごとく一念三千の生命哲理をあらわしたものである。

 ここに、梵天とか、帝釈といった諸天善神は、なにも、あの絵にかかれたようなものが、どこかにいるのかではなく、生命の、本質に備わる働きにほかならないことが、さらに明瞭となろう。

 仏の生命にせよ、われわれの生命にせよ、ことごとく、これらの働きに備わっている。さらに、国土も、否、大宇宙それ自体が一個の偉大なる生命体である。そして、これらの働きは、大宇宙に遍満しているのである。では諸天善神とは、いかなる働きをさすか、それは、宇宙の働きのなかで、われわれの生活を守護する「働き」をいうのである。

 しかして、先に引用の治病抄の「元品の法性は梵天・帝釈と顕われ」の文のごとく、大御本尊によって、仏界が顕現したときに、われわれの生命のなかに、梵天・帝釈の生命の働きが活発となり、また、それに呼応して、大宇宙が、われわれに梵天、帝釈として働き出し、いかなる災難、いかなる圧迫にもおかされない、悠々自適の生活をしていくことができるのである。宇宙のさまざまな事物や現象、すなわち天体の動き、太陽の光り、星辰のまたたきであれ、雨や風であれ、山川草木であれ、動物であれ、人間であれ、すべてがわれわれの幸福実現へと動き働くのである。

 逆に、「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」の文のごとく、われわれが、邪宗教に迷い、心中に悪鬼、魔鬼の働きをなし、幾多の災難をもたらし、苦にさいなまれる人生となる。すなわち、世の中のあらゆる現象が、われわれの生活を不幸不幸へと導くのである。

 この関係について、日蓮大聖人は、法華初心成仏抄に次のように述べられている。

 「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ」(0557:06

 「籠の中の鳥」とは、わが心中の仏界であり、その梵天・帝釈の生命活動であり、「空飛ぶ鳥」とは、大宇宙の仏界であり、その梵天・帝釈の働きである。かくして、妙法を護持した一念にめざめ、またそこよりほとばしり出でるたくましき智慧の力により、宇宙の現象を、望ましい方向へと変化させていくことができるのである。さらに、法華経の授記品に「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」とあるごとく、魔の働きをも、変毒為薬し、諸天の働きになしゆくことができるのである。されば、悪魔のごとき人類を脅かす原爆水爆の原子核分裂や、原子融合の反応作用すら、われわれの一念で、人類のために、役立てることができるのである。

 このように諸天善神は、正しき人を守り、国土を守り、さらに邪なる人を罰する“生命の働き”であるが、さらに、これらの働きをする人も諸天善神である。日蓮大聖人が、伊豆の伊東へ流罪されたときに、大聖人を守り抜いた船守弥三郎夫妻に対し、船守弥三郎許御書に「法華経第四に云く『及清信士女供養於法師」と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし』」(1445:09)と述べられている。

 また、一国の、はたまた世界の正しき指導者は梵天・帝釈等といえるであろう。なぜかならば、その使命は、国を安穏に保ち、民衆を守ることだからである。だが、現代の世界の指導者は、梵天・帝釈のよき指導者の姿を現じているだろうか、残念なことに、兄弟抄に「此の世界は第六天の魔王の所領なり」(1081:15)とあるごとく、多くの場合魔の姿を呈しているのである。ヒトラーしかり、スターリンしかり、また現在、世界を戦争にかりたてる指導者もしかりである。

 

仏法における天照大神と八幡大菩薩の意味

 

 次に、第二の神すなわち氏神信仰の神である天照大神、八幡大菩薩が、大聖人の仏法において、正法護持の守護神として用いられているが、その関係についてはどうか。

 それは、先にも述べたごとく、神道では天照大神も八幡大菩薩も拝む対象となっているのに対して、仏法では拝む対象ではなく、妙法の働きとして、考えられているので、同じ名であっても、内容は全く違う。具体的にいえば、天照大神は、前述のごとく、もともと天皇家あるいは大和民族の先祖神である。だが、大聖人の仏法においては、もはや遠い過去の先祖神ではなく、日本民族を隆々と発展させ、日本の国土を守る“生命の働き”として説かれているのである。

 天照大神は日神ともいう。産湯相承事には「富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり、我中道を修行する故に是くの如く国をば日本と云い神をば日神と申し仏の童名をば日種太子と申し予が童名をば善日・仮名は是生・実名は即ち日蓮なり」(0879:09)とある。また諫暁八幡抄には「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ」(0588:18)とある。まことに日本国とは不思議な国である。御本仏出現の国であり、太陽のごとき赫々たる大白法 三大秘法流布の国であり、全世界へ大仏法が流布する発祥の国である、日本国には、日本民族にそれだけの下地があったといえる。この日本の国土、民族の底流にある、仏法を流布せしめる力、国土を繁栄させ、隆々と民族を発展せしめる力、これを天照大神と名づけたのである。されば天照大神とは、妙法の働きであり、それ以外はなにものでもない。妙法が邪宗・邪義・邪智のためにおおわれたならば、天照大神の働きがなくなるのも当然であろう。百六箇抄に「脱益守護神の本迹 守護する所の法華は本・守番し奉る処の神等は迹なり、本因妙の影を万水に浮べたる事は治定と云云。」(0857)と。

 また、八幡大菩薩とは神道においては古の日本の功労者、人王第15代の応神天皇を祀り、のちに、これを八幡神の化身として、このような称号を与えたものである。だが、大聖人の仏法においては、八幡大菩薩という特定の人をさすのではなく、八幡大菩薩という方程式、あるいは生命の働きをだしているにほかならない。

 本尊三箇相伝にいわく「八幡大菩薩の体即法華経なり、其の故は八とは法華八軸なり、幡とは篇は巾篇是れ則衣装の類なり、作リは米と云う字を上に書き下に田と云う字を書く、是れ則米穀の類なり、されば衣食二つ併ら八幡の御徳なり」

 この文を私に解釈することは恐れ多いが、少し思索したところを述べてみれば、「法華八軸」とは、妙法蓮華経である。そしてこの妙法蓮華経の力によって、衣食に困ることなく、平和に暮らしてゆけるのである。しかして、こうした働きをする人、すなわち民衆に不自由なき生活を送らせることのできる指導者もまた、八幡大菩薩の立場である。

 ところが、今や日本国の指導者にそのような心の持ち主は、ほとんど皆無になってしまった。正法に背いたがゆえである。かかる姿が、日本の敗戦を招いたのであった。

 

神天上の現証

 

 「神天上」とは、この御文にあるごとく、人々がことごとく正法に背き、悪法に帰依したがゆえに、守護の諸天善神は正法の法味に飢えて神威を失い、その国土を捨てて、天界に帰ってしまうがゆえに、その国、またその民衆の中に、悪鬼、魔神の生命がはいりこみ、数々の災難が起こってくるということである。

「神天上」については、これほど明確な大聖人の御文があるにもかかわらず、大聖人滅後、この正義を伝えたのは、日興上人お一人であった。他の五老僧は悉く正法に背いて伊勢神宮の参詣という大謗法を犯したのである。

 「富士一跡門徒存知の事」にいわく、

 「一、五人一同に云く、諸の神社は現当を祈らんが為なり仍つて伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企て精誠を致し二世の所望を願う。

 日興一人云く、謗法の国をば天神地祇並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず、故に悪鬼神・其の国土に乱入して災難を致す云云、此の相違に依つて義絶し畢んぬ。」(1602:02)と。

 この一事をもってしても、日蓮大聖人の正義、立正安国論の大精神を、純粋に守り、今日に伝えてきたのは、第二祖日興上人のみであることは明らかである。

 正法の法味とは、いうまでもなく妙法蓮華経である。諸天善神が法味をなめなければ、勢力がなくなり、その国土を去るとは、もともと諸天善神は妙法の働きである。その妙法が謗法によっておおわれてしまえば、その働きがなくなったからである。この「神天上」を現代的にいえば、もはや、国土に、そうした諸天の働きをする立ち場の人、すなわち民衆を守り、国土を安穏にすべき、よき指導者がいなくなったことをも意味する。

 神天上は、事実として明瞭である。太平洋戦争がなによりも雄弁にこれを物語っている。天皇を現人神と称し、国を神国日本と称え、国を挙げて天照大神への信仰をなさしめ、無謀な戦争をしたのである。国民は、最後まであの蒙古襲来の時のように、神風が吹くことを信じ込まされた。しかし、ついに神風は吹かず、国破れて、神道のいう神のいないこと立証されたのである。

 あの時国土の荒廃は何を意味するであろうか。また、当時の民衆の無知と貧困、かつ栄養不足のためにやせ衰え、路頭にさまよった姿は、一体何を示すのであろうか。さらに横暴なる軍部の指導者、またこれに仰合したジャーナリズム、学者等の、あの卑劣な姿は一体。なにであろう。

 まさしく国土にも、民衆の心に、指導者の生命の中にも清浄なる生命の流れは途絶え、福運のまったくなくなったことを如実に示しているではないか。

 また、終戦後の連合軍の矢継ぎ早の指令によって、神道の破滅は自白のもとに晒された、これこそ、仏法上からみれば、諸天善神が国を捨離し、他国の梵天・帝釈の治罰を被った姿にほかならないのである。一国謗法の総罰であった。

 

創価学会の前進と諸天の加護

 

 だが、この一国滅亡のなかに、広布の胎動があったのである。妙法の清浄なる法水はこの正法の滅せんとする時、戦後の焼け野原に一人立った地涌の棟梁こそ恩師戸田前会長であった。

 日本の再建は創価学会の再建と軌を同じくしていた。以来、創価学会は発展を続け妙法の功徳に浴する人は、五百数十万世帯(S41年)を数えるに至っている。それとともに、日本の興隆もまた著しいものがあった。指導者の無能にもかかわらず、また国論がいまだに四分五裂の険しい対立と葛藤をくりかえしているにかかわらず、今日までの飛躍的な大発展は、まさに奇跡にも等しい。これこそ、民衆の中に、閉ざされていた強靱なる生命力が発現しつつある姿にほかならない。これを仏法から論ずるならば、学会員が増えて妙法の音声に天照大神、八幡大菩薩の諸天も呼び覚まされ、活動を開始した現証といえよう。

 さらにまた、今日まで、米ソ・米中の谷間にありながら、日本民族が厳然とまもられてきたという事実、また二大陣営の核装備により、文字どおり火薬庫と化した世界にあって、これまでに、キューバ危機をはじめ、一触即発の危機が何回となくあった。さらに、フランス、中国の核武装、米仏、中ソの対立、民族主義の台頭等々、混乱と戦争の危機が増大するなかにあって、不思議と避けられてきたことは、まことに幸運であり、梵天・帝釈等の諸天の加護としかいいようがない。

 御書にいわく「日蓮がひかうれば今までは安穏にありつれ」と。蒙古の大軍の襲来に際して、日本民族が不思議にも守られたのは、御本仏、日蓮大聖人がひかえておられたがゆえであるとの御文である。同じく、今日まで日本が守られ、世界もまた第三次大戦を免れてきたのは、日蓮大聖人の仏法を奉持して、民衆救済に立ち上がった創価学会が厳然とひかえておればこそと叫んでやまない。

 だが、そのあとに「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」と仰せである。すなわち、現在に約せば、もし創価学会の主張を用いようとせず、広宣流布を阻止するならば、日本も世界も諸天の働きがなく、魔王魔民の充満するところとなり、滅亡の一途を辿るであろうとの御金言である。

 ゆえに、われわれは、瞬時たりとも、広宣流布の歩みをとどめることなく、日々、月々、年々に、信心を増し、真一文字に世界平和への大道を進みきる決意である。

 

偉大なる宗教の個人への影響

 

 すなわち、個人にあっては、偉大なる宗教は、第一に、偉大なる人間革命をもたらす。人間革命とは、精神革命であり、身体革命であり、生命力・生活力の革命であり、人間自体の革命であり、生命自体のレポリューションである。

 偉大なる宗教は、第二に、必ず各人の福運を増進させる働きを持つことである。いかなる悪運も、いかなる不運も最高の宗教は、三世の生命観に立脚した生命哲学によって、宿命を本源的に転換させ、福運を、良運を与えきっていくものだ。世に運命論者と称する人もあり、逆に運命それ自体を否定する人も多いが、いずれも誤りである。運命論者のいうごとく、人がうまれながらにして、定まれる運命があるとするならば、人生における努力や精進は、まったく無意味になってしまうではないか。事実は人生を思索すればするほど、運命の存在を肯定せざるをえない。

 良き運命は変える必要はない。そしてなお一層増幅したいものだ。しかし悪しき宿命は転換して、福運に変えていかねばならぬ。

 実業家の松下幸之助氏が、東北大学の講演で「私の実業界における成功は、努力もさることながら、本質的には運がよかったことに尽きる。わたし以上に努力した人でも、失敗に終わった人が大勢いる。私が少年時代、大阪で周航船に乗ったとき、誤って川に落ちたのに、不思議に助かった、その時も、私は運が良いと確信した」等と話したのは有名な話であるが、このような良運も、仏法を根底としないかぎり、いつかは尽きざるをえない。すなわち、本源的な宿命の転換は、大仏法によって、はかりうるのである。

 第三に、偉大なる宗教は、大いなる智慧を発揮させうるのである。以信代慧、すなわち信心を以て智慧に代えるとは、仏法の偉大なる哲理である。仏界を湧現させることが、大仏法の極到である。偉大なる御本尊を信ずることによって、まことにすばらしい仏智を湧現させうるのである。智慧は、人生を勝ち抜く要諦である。しかし、この智慧は、けっして単なる智慧やその集積でないことを付言したい。

 第四に、偉大なる宗教は、各人に偉大なる思想、哲学を与え、偉大なる社会観、人生観、世界観を身につけさせることである。近世フランスの大文豪、ビクトル・ユーゴーは「時を得た思想ほど力強きものはない」と喝破した。これは個人にあっても、国家・社会にあっても、不変の哲理であろう。パスカルは「人間は考える葦である」といったが、一面の真理を含むものである。

 動物すら、すべて食うために努力し、生活を戦い、眷属を養い、団体や種族の発展に、全力をあげている。もし人間として確固たる思想、哲学、人生観をたもちえないとしたならば、これ動物にも劣る存在といわざるをえない。

 しかも、思想、哲学といっても、偏狭で、非科学的な不合理なものであってはならぬ。道理正しく、科学的で、人類のすべてに普遍的であり、あらゆる人を成長させうるものでなければならない。われわれは、かかる優れた思想、哲学の根源こそ、偉大なる宗教であり、生命哲学であると主張するものである。

 第五に、偉大なる宗教を信ずる者は、諸天善神の加護を受けることができる。諸天とか善神とかいえば、現代社会にあっては、迷信のごとく感ずる人もあるかもしれない。しかし、それは仏法における生命哲学のなんたるかを知らぬ者の考えにすぎない。もちろん、われらは、絵像木像の神仏などをもって、諸天善神となすものではない。近代科学、あるいは科学的宇宙観等に照らしても、宇宙それ自体が、大いなる生命体であり、この地球もまた、その一生命体であることは、いよいよ明白にされつつある。この宇宙には、地球のごとく、生物が発生し生存する惑星が、何千億個も存在するだろうと推測されることは、もはや常識となっている。しかも、仏法においては真に根源的な生命観、宇宙観を説ききっているのである。そこで、このような生命哲学からみれば、偉大なる道理正しい宗教を奉ずる者こそ、人間的な健全な成長を、安心して生活していける働きを、一身に受けていくことがでよう。この宇宙にみなぎる働きをさして、われらは諸天善神の働きというのである。

 以上、偉大な宗教が、いかに信仰する個人に大いなる影響を与えるかを考察してみたのであるが、これは家庭にあっても、同じことがいえよう。人間革命しきった人が、家庭の中にふえれば増えるほど、この家庭は、明るく、平和に、充実しきっていくことは、当然であり、家庭そのものが、革命された姿になるのである。

0017~0033 立正安国論 0017:01~0017:14 0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引 0017:15~0018:01 第一章 災難由来の経証を問う

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本文

 

  客の曰く、天下の災・国中の難、余独り嘆くのみに非ず、衆皆悲しむ。今蘭室に入つて、初めて芳詞を承るに、神聖去り辞し、災難並び起るとは、何れの経に出でたるや、其の証拠を聞かん。

 

現代語訳

 

 客のいわく。

 天下の災難、国中の難については、自分が一人だけ嘆いているのではない。大衆が皆悲しんでいる。いまあなたの所にうかがって、初めて立派なご意見をうけたまわったところ、国土を守護すべき善神や聖人がその国を捨て去ってしまい、災難が相次いで起こるということであるが、それはいったいいずれの経文に出ているのか、その証拠を聞かせていただきたい。

 

語釈

 

蘭室・麻畝

 蘭香の室の意で、高徳の人、または佳人のいる所。香りの高い蘭のある室にいると、その香りが身体にしみてくることから、高徳の貴人、優れた人格の人と交われば、感化されて芳しい人格になるという譬えとして用いられる。

 

麻畝の性

曲がりがちなヨモギでも真っすぐ伸びる麻の畑に生えると、同じく真っすぐに伸びるように、環境によって悪が感化されて正されるという譬え。

 

講義

 

天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲む

 

 この一節は、自分一個の悩みではなく、一国の民衆が苦悩に沈んでいる現実を、なんとか打開しなければならないという指導者の切実な叫びではなかろうか。これ、一身一家ことのみ考える利益打算を捨て、国家の前途を憂え、民衆の苦悩を、わが苦悩とし、その解決のために全魂を傾け、心血を注ぐべき、指導者の要諦を示されたものである。

 戸田前会長は「一国の王法の理想は、庶民がその所を得て、一人ももるることなく、その業を楽しむのが理想である」と、政治の目的を明確に示されている。

 だが、現実は、あまりにも、その理想からかけはなれている。

 今日に至るまで、日本でも、世界でも、政治史をいろどるものは、多くの場合、残忍、冷酷という愚かなほど、一部の人々のために大多数の民衆の犠牲が払われてきた、幾多のいまわしき事実であり、指導者の多くは、私利私欲に明け暮れ、おのれの野心のために民衆を踏み台にしてきた。あるときは、残忍にも、虫けらのごとく、人間を扱ってきたのである。また、おのれの権勢欲、名誉欲、征服欲のために、人々を戦争にかり立て、多くの尊い人命を失わせてしまった

 そこに一貫して流れるものは「人間性」の否定であり、無視であった。

 たとえば、三千余年来つづいている、インドのカースト制のごときは、ヒンズー教を根本理念としてつくりあげた社会体制であるが、その底辺に奴隷があり、さらにその下には不可触賎民があり、その扱いは、人間ではなく、家畜以下であった。あの、民主主義政治が行われたとして、高く評価されている、古代ギリシァの繁栄も、その底には、不幸なる、奴隷の存在があった。西欧中世の封建時代においては、領主の繁栄の下には、悲惨な生活を強いられた農奴があった。また近世にはいって、絶対主義の国々においても、民衆は自由を奪われ、圧政のもとに苦しんだ。

 また、十六世紀から今日に至るまで、西欧列強の植民地支配もまた、イギリスのインドや南ア連邦におけるがごとく、ベルギーのコンゴ、オランダのインドネシア、フランスのインドシナ等に見られるごとく、あまりにも悲惨な、残忍な歴史がつづられた。さらに、第二次大戦においては、イタリア、ドイツのファシズム、ナチズムは、人間性無視の端的な例である。とりわけ、ナチは偏狭であり、迷信としかいいようのない人種論に立脚して、ユダヤ民族の絶滅をはかり、六百万にもおよぶユダヤ人の冷酷無残な大量殺戮を行った。これこそ、スターリンの大量粛清とともに、人間性否定の典型であり、狂気であり、悪魔であるといわざるをえない、わが軍部にもこの振舞いがあった。これがわずか二十数年前に起きたことを思うときに、ひとたびは驚きあきれ、ひとたびは激怒となり、さらに、今後絶対にこのようなことがあってはならない、否、断じてあらしめてはならないとの叫びが、胸奥よりほどばしり出るではないか。

 また、太平洋戦争中の、あの横暴なる日本軍部の独裁は、大半の民衆に犠牲を強い、ために、人々は、生活苦にあえぎ、生きた心地すらしなかったのである。さらに、戦争によって、多くの人命がむなしく露と消え、悲嘆に暮れた民衆の声は、いまだに瞬時たりとも耳朶からはなれない。

 第二次大戦で疲弊しきったロシアの国土について、あるジャーナリストは、次のように語っている。

 「物質面での損害がどれほど多かろうとも、人間の努力で復興できる。爆破された建物の廃墟、壁にきざみこまれた弾痕、大地を染めた血潮のあとも、いつかはかたづけられ、また新しい建物がたち、新しい樹木が生長し、新しい草花が咲きほこるようになる。だが、人間の魂に刻みこまれた戦争の傷あとは、永遠に癒えないだろう。いや、人間だけでなく、小川のせせらぎ、芦のささやきにいたるまで、ロシアの風土のすべてが、戦争から受けた汚職を嘆き、戦争を呪ってやまないだろう」

 これは、そのまま日本にあてはまる言葉である。あれから二十年、日本の国内の様相は一変した。まるで、二十年前に、あのようないまわしい戦争などなかったかのように、いったん人々の生命に刻み込まれた、戦争への憎悪、嫌悪の感情は、永久に消えるわけがない。心から平和への欲求、切実なる戦争絶滅への願い、これを、はかなく無に帰せしめてなるものか、創価学会が立ち上がったのも、まさしく日本の崩れざる繁栄、そして、世界の恒久の平和のため以外のなにものでもない。

 だが、道は険しく、けっして平坦ではない。たしかにわが国は、悲惨な原爆の体験を経て、敗戦の苦悩のなかに、民主主義国家として、自由と平和をめざして再出発したことは事実である。だが、政界は、民主主義の名のもとに、時流れを巧みに泳ぐ、無思想、無節操の政治家が軍部に代わって占領したにすぎぬではないか。醜い政権の争奪戦、党利党略の派閥抗争、政治のための政治に堕し、民衆不在の権力政治となって、その腐敗は、極に達している。この自界叛逆の姿が、やがて他国侵逼を呼び、かってない悲惨な現実が展開されないと誰が断定せきようか。

 

真の平和願う民衆

 

 目を世界に転ずれば、そこには、なお阿鼻叫喚の苦悩、餓鬼道のうめき、阿修羅の弩号がある。特に、二大陣営の谷間にある、東南アジア、中近東の懊悩、呻吟は、筆舌に尽くしがたい。インドネシア、ギリシァ等の政情不安もさることながら、特にベトナムの果てしなき、血を血で洗う戦いは、あまりにも悲惨であり、あまりにも残酷である。

 だが、この悲惨な現実が、いつ日本に起きないともかぎらぬ。事実、資本主義と共産主義諸国の対立の波は、この日本の国土にはたひたと押し寄せている。一方では、アメリカと結ぶ保守や、それを利用する反動の動き、また一方では、中国・ソ連と結ぶ暴力革命の共産勢力と、わが国も、いつのまにか、再び歴史の試練の前に立たされている。

 だが、民衆の心の奥底は、戦争なき平和を願っているのである。今こそ、すべてのものに優先して、人間の生存権、人間性の尊重に立脚しなくてはならぬ。されば、おのれの私利私欲にふけるのをやめ、民衆の幸福を第一義に考えるべきである。ここに、仏法の慈悲の精神が、政治に反映させねばならぬゆえんがあるのである。

 仏法は、誰一人を苦しめない。またあらゆる人に、真に喜びと楽しみと希望を与えていくことが、その根本精神である。これを「慈悲」というのである。

 仏法でいう「慈悲」とは、世間の人が「愛」と混同して考えているような観念的なものではない。そのようなもので人を救えるわけがないし、仏が一生かけて説くはずがない。それは事実のうえに衆生の苦を救い、楽を与えることであり、人々の心に巣くう悪を断ち、根底より救い切る厳愛の行為である。「慈悲」は愛よりも、はるかに深く強い。

 「愛」は、常に「憎」と相対する概念であり、「慈悲」は絶対性をもつ最高の生命の発露である。無理に修行して得るものでもなく、行動のなかに、心の働きのなかに、無意識に自然ににじみ出てくるものである。「愛」の理想を説きながら、激しい憎悪の葛藤を現実生活で行っている二重人格は、キリスト教徒によく見られるところであり、これとは、根本的に異なるものである。「親の子を思う、慈悲に似たり」とあるように、親の子を思う情すら、遠く慈悲におよばないのである。一切衆生を救う、崇高な仏の振舞いこそ慈悲であり、いっさいの根本に「慈悲」の大精神を置いてこそ、民衆を幸福にしきることができるのである。民衆の苦悩を解決し、復し生活を与えるのが、政治の目的である。ゆえに、政治に最も必要なのは慈悲であると断言してはばかりないのである。

 御書にいわく「涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(0578:08)と。仏の慈悲の広大を伺い知るとともに、政治の要諦はまさにこの一言に尽きるのである。されば現今の劣悪なる政治を打開する方途はこれしかないことを心に銘記すべきである。

 

災難をとどめる根本方程式

 

 さて客が、主人に天下の災い、国じゅうの災難が何によって起きたのかと、その原因をたずねたところ、その答えは、以外にも、善神・聖人が国を捨て去ったから、国じゅうの災難が並び起ったということであった。この答えは、仏法の知らざる人にとって、驚愕であったのである。そして、これは、今日においても、なかなか理解されがたい仏法上の方程式である。国じゅうが邪法であるがゆえに、諸天善神、聖人は国を捨て、所を去り、かわりに魔王・悪鬼が来て国じゅうに災いが起こることは、大聖人の絶対なる確信であらせられる。日蓮門下と称しながら、この大聖人の一大確信を、単に大聖人の一思想のごとく取り扱う邪宗の輩がいるが、大いなる誤りである。大聖人の真意も知らず、一念三千の仏法哲理も知らず、浅智をもって大聖人の仏法を推し測るのは、増上慢も甚だしいといわざるをえない。大聖人の民衆救済の根本大原理はこれであって、これを信じない者は、日蓮門下とは絶対にいいえないのである。されば、大聖人も、文証・現証を引いて、強くこれを述べられているのであって、客をして「何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん」と問わしめたのも、ゆえあるかなと思われるのである。

 大聖人の唱えられた、この原理は、きびしき一念三千の生命哲理によられた社会観、宇宙観であり、絶対の真理であることを確信する。ただ、神といい、魔といい、鬼といい、理解されないのは、それがあまりにも迷信化され、仏法本来の生命哲理が歪曲されたために、奇異に感ずるにほかならない。しかし、真実の仏法哲理にめざめるならば、その理論がいかに深く、かつ広いか、またいかに事実と符合しているかを知り、かつは、近代科学の最先端も、その範疇を少しも出ないことに気づき、驚嘆の叫びをあげるであろう。

 また、旅客が、主人の意外な答えを聞き、謙虚にその根拠を問うた。その質問の態度こそ、まことに人間として、なかんずく指導者の姿ではないか。

 われわれが折伏に行き、不幸の根本を指摘し、大御本尊の偉大なる力を説くや、「そんなばかな…」と耳を貸さない人、激怒し激しい憎悪を、顔面に、行動にあらわす人もいる。また創価学会の主張を、認識もせずして評価する愚かな人々も多い。

 だが、これは、あまりにも偏狭であり、感情論であり、みずからの既成智識にしばられた哀れな姿である。大聖人の偉大な確信、そして、われわれが幾多の実証のうえから確信しているところを、ただ一方的に否定し去るのは人間として恥ずべきである。いわんや知識人、または指導者として、人から尊敬されている人のとるべき態度ではない。真に偉大な人、心ある人であれば、未知の世界にはたえず謙虚であるべきである。

 まして、人類が、恒久平和か、滅亡かの岐路に立たされているときに、あらたなる方途を見いださんと努力するのが、為政者として当然であろう。ここに、われらの主張を、否定し去る前に、偏見を捨て、感情に流されず、心を澄まして、真なりや否やを検討すべきではないか。

 また、ここに旅客は、明かなる経文上の証拠を求めている。そして、それに対する主人の答えにおいても、またこれから出てくる主客の問答においても、大聖人は、ことごとく経文上の証拠、すなわち証文を示して答えられている。これに対し、法然の選択集にしろ、親鸞の歎異抄にしろ、まったく経文によらず、自分勝手な議論を立て、あるいは、師匠のいったことだからといって、盲信しているにすぎない。ここに、正邪の別はきわめて明瞭ではないか。日寬上人はその著「依義判文抄」に「文証無きは悉く是れ邪義なりと、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らざるは之を用ゆべからざるなり」と述べられている。

 三証・五重相対・四重興廃・三重秘伝等、すべては仏法は証拠主義である。文証もないような宗教が、どうして正しいといえるか、正邪を論ずる前に、宗教としての資格をすでに失っているといわざるを得ない。

 だが、驚いたことに、念仏宗、真言宗、禅宗等、既成仏教として、一般には相当伝統があると考えられている宗教が、ことごとく、経文によらず、まことしやかに、後になって作りあげたものなのでる。こういえば、奇異に感ずるかもしれないが、事実はあくまでも事実である。ただ、日蓮大聖人のみが、厳格に、経文によって義を立てておられるのである。

 さらに、今日、日蓮宗と称し、南無妙法蓮華経と唱え数々の宗派が乱立しているが、それがことごとく、大聖人の御書によらず、その教えに反し、師敵対の謗法を重ねている。ただ創価学会のみが、厳格に、御書を拝読し、その根本精神を寸分も狂いなく実践しているのである。

 ちなみに、日蓮宗のなかで、今日、真に立正安国論の精神を、この日本の国に実現しようとはかっている教団が、ただの一つでもあろうか。みな、おのれの利益のために狂奔しているのみではないか。この一事をもってしても、日蓮大聖人の、否、遠くは三千年来の仏法の正統が、今いずこにあるかは明白である。

 あまりにも仏法に似て非なる邪宗教が、横行していることを嘆かざるをえない。もはや大乗仏法の真髄は、インドにもない。中国にも、東南アジアの国々にも、むろんのことながらまったくない。ただわが創価学会のみが脈々と受け継いでいるのである。

 

立正安国論の理想

 

 立正安国とは、根本の思想、哲学、宗教を正すことによって、国家・社会を安泰にし、ひいては世界平和と人類の繁栄を実現するための理念である。

 偉大なる宗教は、個人にあっても、家庭にあっても、国家であっても、また世界の人類にとっても、必ずや、すばらしい発展と繁栄と平和の実現を約束するものである。

 

偉大なる宗教の国家社会への影響

 

 したがって、これが国家・社会を単位とした場合でも、まったく同じことが成立するわけである。私が、小説「人間革命」の執筆にあたって、第一巻の序文に「ともあれ、一人の人間における偉大なる人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にするのだ。これがこの物語の主題である」と述べたゆえんも、ここにある。すなわち、国家・社会にあっても、偉大なる宗教は、必ずや国家・社会を立派に革命し、正しく一国の宿命の転換をも成し遂げうることを叫んでやまない。

 これ正しく立正安国の精神であり、立正安国の理念である。前に偉大なる宗教の、各個人に及ぼす影響について申し述べたことが、実はそのまま、国家・社会にも、あてはまるのである。

 立正安国論には、念仏のごとき釈尊の仏説に反した非科学的な迷信邪教が、一国に弘まったとき、必ず一国に三災七難が起こり、民衆が苦しまざるをえないことが説かれている。また、偉大なる仏国土、すなわち平和で幸福な国家・社会を築くには、民衆各個人が、偉大なる宗教を信ずべきことを説ききっているのである。

 すなわち本抄にいわく「汝早く信仰の寸信を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可し崇む可し」と。

 およそ人間として、幸福と平和を望まぬ者はいない。しかも個人の幸福と繁栄のみを願う者は、また利己主義者であり、共に論ずるに足らない、真に大仏法を奉ずる者は、特に、国家・社会ひいては全人類、全世界の幸福と平和を熱願して、その達成をめざして前進を続けているのである。

 さて、日蓮大聖人は、如説修行抄に「天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を 各各御覧ぜよ 現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502:06)と仰せである。これ同じく立正安国の理念を申されたと拝すべきである。

 偉大なる宗教は、国家・社会を革命して宿命の転換をも成し遂げ、優れた思想、哲学、人生観をもつことによって人衆は向上し、しかも社会全体に叡智がみなぎってくることは、誰人も否定しえまい。特に、国家・社会における指導者層のいかんによって、民衆の幸・不幸が大きく左右されることは、大聖人が立正安国論に引用された経文に、国王とか賢王という名が多く出てくることで明らかである。

 しかし、宗教の正邪によって、三災七難、天変地夭の興起が左右されるということは、なかなか首肯し得ない人も多いに違いない。これは、いわゆる福運論、諸天善神論、依正不二論、詮ずるところは生命哲学論になっていく。立正安国論や如説修行抄に仰せられるような天変地夭・三災七難が起こっても、正法が国にあり、また人間革命され、社会革命された万全の国家・社会の見事なる体制が完成されていれば、これらは、ことごとく人災として、克服しうることは明らかであろう。

 しかし、社会体制の完備のみでは、もちろん邪宗謗法が満ちているような国家にあっては、社会体制の完備もありえないが、一国に謗法邪教がみなぎっていれば、不可抗力的な三災七難、天変地夭を免れるわけにはいかないということである。それは一面からいえば、いかに科学技術が発達しようと、数々の災害が絶えないどころか、かえって激増しているような最近の社会情勢、あるいは原水爆や核ミサイル等の人類始まって以来、この上といえるぐらいの恐怖感を考えれば、おのずから明白となることである。

 各個人にあっても、福運の有無や諸天善神の加護や治罰が論ぜざれるごとく、宇宙生命の一部たる地球、世界にあっても、同じく福運の問題、諸天善神の問題が論ぜられなければならない。そして、やがて、科学が進歩すればするほど、科学的にも解明しうる時はまさに近いことを確信してやまない。謗法邪教と三災七難の問題は、次の依正不二論において、本源的に論じなければならない。

 

三災七難と依正不二

 

 立正安国論においては、正法が隠没し、邪宗邪義がはびこるならば、三災七難が必ず起こることを金光明経等の四経の文を引かれて述べられている。すなわち、邪宗邪義により人間の生命が悪に染まるならば、社会が乱れ、さらには国土にも、天文現象にも異変を生じ、人々を奈落の底に追いやると説かれている。また本書の題号のごとく正法を立てるならば、三災七難をとどめ、一国は栄え、ここに絶対にくずれない仏国土が現出することが明かされている。

 そのなかに一貫して見いだされるものは、善にせよ悪にせよ、社会環境に影響を与え、環境を変えていくのは、ほかならぬわれら自身であるということである。これこそ仏法の根本であり、この原理を依正不二と明かされている。

 依正とは依報と正報のことである。まず正報とは、果報の主体の意であり、簡単にいえば、自己自身の生命である。依報とは、正報の所依の意であり、わかりやすくいえば、自己をとりまくいっさいの環境である。

 この依正が而二不二の関係にあるというのが依正不二である。今日まで、幾多の思想、哲学が、環境が先か、人間の心が先かを論じ、対立してきた。だが、仏法で説く依正不二論の立場からいえば、それらは、ともにある面を強調した部分観であり、ことごとく依正不二の生命観に摂せられるのである。

 瑞相御書にいわく「夫十方は依報なり.衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(1140:06)と。

 ここに明らかに「正報なくば依報なし」および「正報をば依報をもって此れをつくる」という二つの立ち場から、依正の密接不可分な関係が述べられている。

 

環境と自己の微妙な関係

 

 環境と自己とがいかに微妙に関係しているかは、科学の発達によってますます明らかにされつつある。たとえば、生命の起原に関しても、最近の学説では、地球の進化過程において、地球それ自体から生命が発生したという説が有力である。それはまず間違いないことであろう。今日、生物が存在しているということは動かしがたい事実である。しかも、地球成立当初の高温状態においてそのような生物が存在したとは考えられない。また、他の天体から生命体が降りてくるという仮定もなりたたないことは、もはや証明ずみである。このことを考慮すれば、地球の歴史のある段階に生物が誕生したと考えるほかないのである。このことにより、他の天体でも、条件さえ整えば、生命の発生も当然ありうることが明らかとなり、仏法の正しさが証明されつつあることは注目すべきである。

 また、今日において、生物が、その環境と密接不可分な関係を保って存在していることも厳然たる事実である。たとえば、われわれ人間をとりまく環境を考えても、空気、水、米、肉などいっさいがひとつの調和を保ちながら、われわれと不可分な関係を保持している。

 空気ひとつを取り上げても、われわれが生存していくためには、空気中の酸素および炭酸ガスの分圧は一定でなければならない。これが極度に変われば、われわれは死ぬしかない。

 そこまでいかなくとも、ある限度において、正体そのものが、それらの分圧に応じて変動する。すなわち、酸素の分圧に応じて、ヘモグロビンの含量は変わる。したがって、高地などにおいては、血液も、赤血球の製造元である骨髄も、その構造に変化をきたすのである。

 その他、食物にしても、水にしても、太陽光線にしても、また気温や湿度等、いっさいが見事なる調和を保ちながら、われわれと不可分な環境となっている。また潮の干潮と血液の循環とが関係があり、あるいは夜がくると自然に眠くなり、昼は活気づくのが普通である、ほんのわずかな環境の変化も、われわれ生命体に重大な変化をもたらすのである。

 また、物理学においても、すでに十七世紀において、ニュートンにより万有引力の法則が発見され、さらに近代においては、ファラデー、マクスウェル、アインシュタイン等により、「場」の理論が展開されるにおよび、この宇宙のいっさいのものが、互いに微妙に関係しあっていることが認められている。単にそれは目に見える物体間のみならず、空間においても、さまざまな現象が、互いに影響しあっているという発見こそ、物理学の面において、依正不二の原理を証明しているとはいえまいか。

 また、社会学の立ち場から考えてみても、われわれをとりまく社会が、いかなるものかによって、どんなにわれわれが影響を受けるか測り知れないものがある。したがって、環境は重要であり、これを無視して、個人の幸福は考えられないし、さればこそより良き環境を選び、また良き環境にしようとするのは、人間の当然の心であり、行動であり、姿である。

 

自己の一念が環境を変える

 

 だが、これらは「正報をば依報をもって此れを作る」という立ち場、すなわち環境が自己を形成していくことに着目した考え方であり、外界を対象として研究する科学の世界であり、制度、機構等を問題にする、政治、経済等の世界である。

 はたして、環境がわれわれを一切がんじがらめにしばりつけて、すべてを決定してしまうのであろうか。もし、そうでなければ、悪い環境に生まれた人は、それを宿命としてただあきらめる以外にないではないか。また、環境を変えようとするいっさいの努力は、ことごとく無意味なものとなろう。また、はたして人の幸・不幸は、環境がすべてを決定してしまうのであろうか。人間の内奥の世界を説かずして、問題にせずして、どうして、真実の幸福が樹立できようか。

 されば、仏法においては、環境が自己を形成することを認めつつも、また「正報なくば依報なし」と説いて、生命の奥底を説き、そこからいかに強き自己を築くべきか、また環境を変え、環境を支配する自己を形成すべきかを説いているのである。むしろ、幸・不幸という観点からすれば、この面が、はるかに重要であり、かつ根本的、本源的である。なぜかならば人間革命なき、環境の整備は砂上の楼閣であり、かつまた人間生命に内在する喜びや悲しみを抜きにして、幸福を語ることはできないからである。この人間の生命の内奥の世界を仏法では十界論で説き明かしている。

 しかして、この十種の生命活動は、環境と不可分であり、環境にその影響が微妙に波及していくのである。

 まずその人自身にとっては、たとえば地獄の苦しみに沈んでいるとき、どこへ行こうとあらゆる世界が地獄である。映画館に行こうと、どんなに美しい光景が眼前に展開されようと、生命それ自体に変化がない限り、その世界は暗黒である。

 また、修羅の境涯の人にとっては、すべての世界がいらだたしく、また「修羅は身の丈八万由旬」とあるごとく、他の存在が小さな、とるに足りないものに見えてくる。尊厳なる人間の生命をも奪い去ること、平然としてやってのけるのである。

 天界の人にとっては、どこへ行っても楽しい、嬉しい境涯であり、天にものぼらん思いであろう。

 すべて、これらの生命活動は、生命それ自体の変化であり、意識して変えられるものではないのである。されば、ここに、われわれの生命のなかに仏界を湧現するにはどうすべきか。意識して変えようとする、修行でだめならば、なにをもって顕現すべきなのか。これこそ重要のなかの最重要問題なのである。

 

全宇宙が十界互具の当体

 

 さらに、自分自身が十界の生命活動をしている当体であるとともに、他の人も同じく十界を具備し、刻々と縁にふれ、それぞれの境涯をあらわしながら、生活している当体である。したがって、自分自身の生命活動が微妙に他の人々に影響していくのである。たとえば、一家のなかに病気で苦しんでいる人がいれば、その家全体はなんとなく暗い。おのれの修羅界の生命活動は、他人の人々の修羅界をも呼び起こす場合もある。いま自分が喜んでいるとすると、その喜びは顔面にあらわれ、また、からだ全体が浮き浮きとなり、行動にも張りがあり、それらがことごとく他の人々にさまざまな影響を与えよう。

 仏法においては、自己の生命、さらに衆生全体の生命が十界互具の当体であると説くとともに、宇宙の森羅万象、否、大宇宙それ自体が、十界互具の当体であると説き明かしている。したがって、自己の生命の変化が、微妙に国土にも影響を及ぼしていくのである。国土というのも実に不思議といわざるをえない。たえず生育発展を続け、内には偉大なる力を備え、たとえほんのわずかな量の仏質でも、それが破懐されるときには多大なエネルギーを発散する。さらに、天体の運行、地球の自転、公転等、厳然とそこに法が存在するのである。十界互具の生命体たるわれわれが誕生したのも、ほかならぬこの国土からではないか。

 この国土にも十界がある。と説き明かしたところに仏法の偉大さがある。だが、これは難信難解のことである。なかんずく、国土それ自体に仏界の働きがあり、それが顕現されるならば、不滅の楽土となることは、難信難解中の難信難解である。

 観心本尊抄にいわく「問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、不審して云く非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何、答えて曰く此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り一には教門の難信難解二には観門の難信難解なり、其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て爾前の諸経には二乗闡提・未来に永く成仏せず教主釈尊は始めて正覚を成ず法華経迹本二門に来至し給い彼の二説を壊る一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん此れは教門の難信難解なり、観門の難信難解は百界千如一念三千・非情の上の色心の二法十如是是なり、爾りと雖も木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり、疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力」等と云云、釈籤第六に云く「相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金ペイ論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云」(0239:08

 たしかに住居でも、そこに住む人によって明るくもなれば暗くもなる。一国においても、そこに住む民衆の心がすさみ、疲弊しきっていれば、国土も荒廃する。国土もまた人間の心の反映であり、また価値創造のあらわれである。

 

環境と生命の関係

 

 ある科学者は、生命の起源をさらに推し進めて次のような論を展開している。

 まず最初に、生物でもなく環境でもない。ただ存在としかいいえないものが存在した。それは、生物、無生物の区別以前の混沌である。しかもこの混沌は、単なる混沌ではなく、一つの方向をもっている。それが、すなわち生命への方向である。換言すれば、最初の混沌は、単なる無生的なものではなく、それ自身は無生物であるにしても、生命への萌芽を内に蔵しているのである。それが時とともに生物としての自己をあらわしてくるのである。

 しかし、生物が生物として自己をあらわしてくるとは、他面、環境が環境としてその性格を明らかにすることでもある。この意味において生物が生物となる時、環境は環境となる。あるいは原子存在そのものが生物と環境に分化するといえよう。したがって、生物と環境が相互に適合するということは当然なのである。生物と環境を別々に考えるから、両者の適合に驚き目を見張ることもこるのであるが、われわれのように考えるならば、それが当然なのであり、むしろ生物と環境とが適合せぬことが不思議なのである。否、適合しなくては、生物も環境もないのである。この点、ドイツの生理学者ユクスキュールが生物と環境の関係を、切り抜かれた紙が、その空白にぴったり合うのにたとえられたのは、まことにもっともといわなければならない。

 生物は環境を原因として、自己を形成するのであり、他方、環境はその生物に応じて、しだいに生物的環境となるのである。生物そのものというものがないのと同じように、環境そのものというのも存在しない、人間はともすれば、一定不変の環境を考え、そこへすべての生物は置かれていると考える。しかし、人間には人間の環境があり、魚には魚の、また鳥には鳥の環境がある。そして、人間各自にとって、環境はそれぞれ異なるように、すべての生物には各自の環境がある。

 一言にしていえば環境は無数である。生物を離れて環境自体というものはどこにもない。生物が生物としてしだいに自己を生み出してゆくように、そして、それによってさまざまな生物がそれぞれの自己の形を明らかにしてくるように、環境もまた、しだいに生物から分離して環境となるとともに、それぞれの生物に対応する、さまざまな環境として自己を示しているのである。

 彼はさらにこの論を勧めて、生命を誕生せしめた環境は、いわば生命を、あるいは生命の方向を内に蔵する環境であり、結局、それは単なる無生の物質でもなければ、単なる環境でもなく、また明らかな生物でもない。環境と生物の両者末分の混沌であるという。さらに彼は結論していわく「宇宙そのものが生命の世界である」「結局、一切が生命なのである」と。

 ここに、科学の方向が、いかに依正不二に近づいているかを知るとともに、着目すべきは、環境は無数であるということである。魚には魚の、鳥には鳥の、人間には人間の環境があるということである。

 されば、同じ人間であっても、その人によって環境がみな違うのは当然であろう。また一人について論じても時々刻々と環境は移り変わっているのである。

 これは、仏法の眼を開いて見れば当然すぎるぐらいの当然のことである。日寬上人が三重秘伝抄に「地獄は赤鉄に依って住し、餓鬼は閻浮の下・五百由旬に住し、畜生は水陸空に住し、修羅は海の畔、海の底に住し、人は大地に依って住し、天は宮殿に依って住し、二乗は方便土に依って住し、菩薩は実報土に依って住し、仏は寂光土に住したもうなり」と述べられているのも、正報と依報との密接不可分な関係を示したものである。

 されば一社会に、貧・瞋・癡の三毒が充満し、人々の心が三悪道・四悪趣の境涯に陥っていれば、その環境もまた、すさみきり、人々を不幸へつきおとす働きが充満してくるのである。疫病が起こり、飢餓が人々を圧迫し、嵐は猛威をふるい、大地が動き、洪水も起こる。まさしく国土もまた三悪、四悪の姿となるのである。これまでの歴史をみても、人間の心が乱れたときに、必ずといってよいくらい、大災害が起きているのは、この原理の正しいことを裏書きしているのではないか。

 

妙法根底に楽土建設

 

 仏法では、いかにして、一人の人間の宿命を転換し、ここに仏界を涌現せしめるか、また、さらには、いかにしたら民族自体の宿命を変え、ここにくずれなき仏国土を築くことができるか、その方途を説き明かしている。

 すなわち、末法の今日においては、日蓮大聖人御建立の大御本尊に向かい、南無妙法蓮華経と唱える以外にないことを教えられている。

 南無妙法蓮華経にはとうていわれわれ凡愚には説ききれるものではないが、しいていえば、大宇宙の本源力であり、あらゆるものを変化せしめていく根本である。しかして、大御本尊はこの宇宙大の力の凝結であり、われらが、大御本尊に向かい、唱題するときに、われわれもまた一念に宇宙大の自己を見いだすことができるのである。すなわち、大宇宙のリズムに合致し、滞りなく、強い生命力が発現し、永久に生き詰ることなく、この一生を幸福に満ち満ちて前進していけるのである。同じく信心強き者の一念の結果は、民族を興隆させ、楽土を築き、世界平和をもたらすことができるのである。

 これは、ただ単に理論だけでわかるわけがない。科学がいかにさまざまなことを発見したとはいえ、ある科学者の述べるごとく「真理を生み出す何億という鼓動のうちのまったく小さな一つの脈搏」に過ぎない。科学の言葉で説明するには、仏法の世界にはあまりにも広くかつ深すぎる。もはやここにいたっては体験し、実証する以外にないのである。

 それでは、科学が発展していけば、最後には、仏法のすべてに到達するか、答えは否である。科学者が、科学の発達によって悟ったものは何か。それは、科学が進歩すれば、未知の世界がだんだんなくなるというのではなく、否、未知の世界が、ますます広がるばかりであるという厳粛なる事実である。科学は、あくまでも外界の物理化学現象の分析と綜合の学問であり、それは、われわれの窮めていく世界のほんの一部分である。

 しかしながら、科学が、仏法の説くところに次第に合致してきていることも事実である。これをもって、仏法の原理がいよいよ正しいことを確信されたい。

 世間の人々は、邪宗教によって、三災七難が起きたり、正法によって国土安穏になるということを聞けば、奇異に感ずるのは、その人のそれまでの常識とかけはなれたものであるからにほかならない。およそ常識というものは、往々にして、誤った認識である場合が多い。いったん頭のなかに特定の物の見方が固定してしまうと、なかなか新しい事実を、新しい目でみることができなくなってしまうものだ。

 

竜の口法難に見る不思議

 

仏法の眼開けて見れば、われわれの一念により、社会を変え、民族を変え、また国土をも変えていくことは絶対の事実である。

 されば、妙法を信ずれば諸天の加護があることも当然といえよう。諸天善神については、第一段第二章において詳論したところであるが、その本質は、大宇宙のそれ自体が、われわれに幸福をもたらす働きとして、作用してくるのである。

 種種御振舞御書には、大聖人が、竜の口に行かれる途中、若宮小路において八幡大菩薩を叱りとばす場面が描写されている。さらに竜の口の刑場のようすは、次のように述べられている。

 「いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし」(0914:01

 この現象を科学者であれば、いろいろと説明を加えるであろう。たとえば、その光り物は、いわゆる火球で説明されよう。火球とは隕石が地球に落ちてくるときに、大きく燃えているような球が、光った煙のような尾を引きながら、すごい速さで飛ぶ現象をいう。

 火球は、あたりを明るく照らし出す、その明るさは、時としては数十億燭光に達するといわれる。それが消えるときには、爆発か砲撃のような、猛烈な音がすることである。1908年に、シベリア北部に巨大な隕石が落ちてきた。見た人の言葉によると、朝の7時ごろに現れた火球は、太陽のようにあざやかに光っていたということである。隕石は、部落の近くにある密林に落ち、破裂し、そのために森林は広い地域にわたってなぎ倒されたとのことである。

 竜の口の現象も、あるいは「物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ」とあるからこの火球がそれであったのかもしれない。それならば、隕石が空中で燃えて火球になったもので、奇跡でもなんでもないではないかと人はいうかもしれない。なにもわれわれは奇跡とはいわない。科学的に説明できるのは当然と考える。ただ、大聖人が諸天善神に対して加護せよと叱咤したあと、しかも首を切られる寸前にこの現象があったという事実、そして幕府の役人たちが、大聖人の頸をついに斬れなかったという動かすことのできない事実、これは科学では説明できるわけがない。また科学の取り扱う分野でもない。科学の眼で見ることのできぬものである。これこそ仏法の眼によらなければ絶対に明らかにならないのである。

 さらに、死刑を脱した大聖人が、依智の本間六郎左衛門の邸宅において、再び諸天善神を叱咤された時にも、すぐさま不思議な現象が起きている。同じく種種御振舞御書に「いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし」(0915:12)と。

 これもまた流星であるとか、空気中の放電現象である等と説明されるであろう。だが、そのような説明は、分析と綜合による現象の物理化学的な面での説明であって、現象それ自体の説明ではない。大聖人の御生命が危機にさらされている時、しかも諸天を叱られたあとに、なにゆえこのような現象が起きたか。さらにまた、竜の口における現象とを合わせて考えるならば、このような現象が立て続けに二回起きるということは、確率のうえからいっても、それこそ何億分の一、何兆分の一であろう。これを単に偶然といってすまされるであろうか。この事実を明確に説ききれるものは、仏法の依正不二の原理以外にないのである。

 われわれは、依正不二の原理を説き明かし、そこから世の不幸の根源を示し、その解決を明示した立正安国論こそ、必ずや、日本一国はおろか、全世界の幸福を招来する力強き一書なることを、強く確信してやまぬものである。

 戸田前会長いわく「世上の識者の中には、立正安国論は、単なる日蓮大聖人の片寄った考え方であると見るむきがあるが、これは誠に浅はかな僻見であって、同論こそ厳格なる科学的理論と現象との一致を見た前人末踏の書であり、宇宙観、社会観よりして、寸分狂いなき正しき哲理なのである。また安国論をたんなる観念的な哲学論であると考える向きもあるが、もちろんこれもまた真実を認識しえない僻見にすぎない。立正安国論こそ、国家安穏、天下泰平の一国治術の大法則である」と。

0017~0033 立正安国論 0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引 0018:02~0018:12 第二章 経証の一 金光明経 1

00170033 立正安国論 0017:150020:13 第二段 災難由来の経証を引 0018:020018:12 第二章 経証の一 金光明経 1

 

本文

 

  主人の曰く、其の文繁多にして其の証弘博なり。

  金光明経に云く。

「其の国土に於て此の経有りと雖も、未だ甞て流布せしめず、捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず、亦供養し尊重し讃歎せず、四部の衆、持経の人を見て、亦復尊重し乃至供養すること能わず。遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして、此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ、甘露の味に背き、正法の流を失い、威光及以び勢力有ること無からしむ。悪趣を増長し、人天を損減し、生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん。

 世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯くの如き事を見て、其の国土を捨てて擁護の心無けん。但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも、皆悉く捨去せん。

 既に捨離し已りなば、其の国当に種種の災禍有つて、国位を喪失すべし。一切の人衆、皆善心無く、唯繋縛・殺害・瞋諍のみ有つて、互に相讒諂し、枉げて辜無きに及ばん。疫病流行し、彗星数ば出で、両の日並び現じ、薄蝕恒無く、黒白の二虹不祥の相を表わし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨・悪風時節に依らず、常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け、土地に所楽の処有ること無けん」已上。

 

現代語訳

 

 主人のいわく。

 一切経のなかには、そのような文はたくさんあり、その証拠は数えきれないほどある。いま略して明文を示そう。

まず金光明経には次のようにある。

 あるとき、四天王が仏に申し上げていうには、その国土に、たとえこの経があっても、国王がそれを流布させないで、むしろ、捨て離れる心を起こして聞こうともせず、身で供養することも、心で尊重することも、口で賛嘆することもせず、正法をたもつ四部の衆や持経の人をみて尊重も供養もしない。そして、ついには帝釈天や四天王、およびその他の無量の諸天に対して、この甚深の妙法を聞かせないようにしてしまい、そのために、諸天は食べ物としている甘露の味を得られず、正法の流れに浴さず、ついに諸天をしてその勢力、威光を失わせてしまう。その結果、国じゅうに地獄、餓鬼、畜生、修羅などの四悪趣を増長し、人界、天界の楽しみはそこなわれ、生死の河、すなわち煩悩、無明の苦しみの充満する世界に落ちこんで、涅槃の道すなわち成仏の道に背き、ますますそれから遠ざかってしまうのである。

 世尊よ、われら四天王並びにもろもろの眷属、および薬叉等は、国王が正法を流布せしめない、このような国王の謗法をみて、その国土を捨てて擁護しなくなってしまうであろう。そのうえ、ただわれら四天王がこの国土を捨て去るばかりでなく、かならず無量の国土を守護する諸大善神も皆ことごとく国土を捨て去るであろう。

 すでに、四天王をはじめ、諸天善神が捨て去ってしまうならば、その国には種々の災禍があって、まさに国位を失ってしまうであろう。いっさいの人衆は皆ことごとく善心がなく、ただ縛り合い、殺害し合い、争い合って互いに相手を讒言し、罪のないものを無理矢理に法をまげて罪に陥れるであろう。数々の疫病が流行し、空には彗星がしばしば出て、一度に二つの日が並んで現れ、日蝕や月蝕などの薄蝕がしばしばあり、黒白の虹が出て不祥の相を現し、流れ星が出、地震が起きて、井戸の中から異様な地鳴りがする。また、大雨や暴風があって風雨が時節どおりでなく、つねに飢饉がつづいて草木が実らず、多くの他国の怨賊が国内を侵略し、人民は諸の苦脳をうけ、国内にはいずれの土地も楽しく生活のできるところがなくなってしまうであろう。

 

語訳

 

金光明経

 この経が流布するところは、四天王をはじめ諸天善神がよくその国を守りその国を益し、災厄がなく人々が幸福になることを説いている。漢訳は五種三存で、北涼の曇無讖訳「金光明経」四巻、唐の義浄の「金光明最勝王経」十巻などがある。中国では曇無讖の訳が広く用いられ、吉蔵の疏があり、天台大師もこの経について疏釈している。日本では法華経・仁王経とともに護国三部経のひとつに数えられ、聖武天皇は義浄訳の金光明最勝王経を写経して全国に配布し、また全国に国分寺を建立し、「金光明四天王護国之寺」と称された。

 

薬叉

 梵名ヤクシャ(yaka)の音写。「やくしゃ」とも読み、夜叉とも書き、勇健・暴悪などと訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれる。仏教では八部衆の一つとされ、毘沙門天の眷属として北方を守護するとされた。

 

両の日並び現じ

 太陽が二つ並んで出現したように見える現象のこと。大気中に浮かぶ氷の結晶による太陽光の屈折や反射で生ずる「幻日」や「百二十度幻日」また「反対幻日」によって、あたかも太陽が二つあるように見えるものをいう。陰陽道では二人の王が並び立って世の中が乱れる凶瑞とした。

 

薄蝕恒無く

「薄」とは、もやや塵のため太陽や月の光が薄くなること。「蝕」は日食・月食が起こること。「恒無く」とは規則性がなく、薄蝕がしばしば起こることをいう。古来、日月の薄蝕の乱れは、帝王の権威が衰えたり、他国から侵されたりする凶瑞とされた。

 

黒白の二虹

 黒色の虹と白色の虹のこと。「黒虹」は急激な気象の変化によって生ずる悪気流のようなものと考えられる。「白虹」は幻日環のときに現れる光弧と考えられる。中国では白虹は革命や戦乱の前触れとして恐れられた。

 

井の内に声を発し

 地震のときに、短周期の地震波が空気を振動させることによって遠雷や大砲のような音響を発することがあるが、このような地殻の変動に関係して起こった音と思われる。

 

講義

 

 正法を捨てて邪法に帰すると諸天および聖人が、その国を捨て去り、災難がおこるという証文として、金光明経・大集経・仁王経・薬師経の四経の文を引かれたのである。

 

経証として爾前を引く理由

 

 さて、この四経は、ともに法華経以前に説かれた、いわゆる「爾前経」である。大聖人は諸御書で、無量義経の「四十余年末だ真実を顕わさず」、方便品の「正直に方便を捨てて但無上道を説く」等の幾多の経文を引かれて、爾前経を破折しておられる。

 では、いったいなにゆえに爾前経を破折しておきながら、しかもここに爾前の経々をひかれたのか。

 これについては大聖人が観心本尊得意抄に次のように明確に仰せられているごとくである。

 「一北方の能化難じて云く爾前の経をば未顕真実と捨て乍ら安国論には爾前の経を引き文証とする事自語相違と不審の事・前前申せし如し、総じて一代聖教を大に分つて二と為す一には大綱二には網目なり、初の大綱とは成仏得道の教なり、成仏の教とは法華経なり、次に網目とは法華已前の諸経なり、彼の諸経等は不成仏の教なり、成仏得道の文言之を説くと雖も但名字のみ有て其の実義は法華に之有り、伝教大師の決権実論に云く「権智の所作は唯名のみ有て実義有ること無し」云云、但し権教に於ても成仏得道の外は説相空しかる可からず法華の為の網目なるが故に、所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり、其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし」(0972:11)。

 すなわち、成仏得道の経は、法華経に限るが、それ以外のことについては、その他の経文に明らかにされている。されば、その実体を法華経なりとすれば、いっさいの経々はことごとく生かされてくるのと仰せです。

 さらに日寬上人は、安国論文段に、爾前の経を引証した理由は略して四あると仰せられている。

 第一には法華経は大網であり、爾前は法華経のための網目であるから、大綱のために網目を用いるのである。

 第二には文が爾前の経に出ているが、しかも義は法華にあるからである。

 第三には爾前の劣る経ですらこの通りであるから、まして勝れた法華経においてはなおさらのことである。

 第四には爾前の文を借りて法華の義を顕すのであり、開会の上であらゆる経文を用いるのである。

 まず第一の「爾前はこれ法華経の網目なるゆえ」という理由について、前にあげたごとく観心本尊得意抄に「所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり」(0973:01)とあり、妙楽大師の釈籖十には「唯大網を存して網目に事らず」とあり、同じく文句記の九の末には「円教の行理の骨目自ら成ず皮膚毛彩は衆典に出在せり」とある。

 第二の「文は爾前に在り義は法華に在りのゆえ」という理由については同じく観心本尊抄得意抄に「其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし」(0973:02)とあり、「種々の道を示すと雖もそれ実に仏乗の為なり」とある。また文句記三の上には「ゆえに外・小・権・迹を内・大・実・本に望むるに並びに名のみ有りて実無きなり、ゆえに仏・迦葉を斥けて汝昔し但涅槃の名を聞いていまだその義を聞かず」とある。

 第三の「爾前の劣を以って法華の勝を況するゆえ」という理由については、四条金吾釈迦仏供養事「当に知るべし日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり・彼の金光明経・最勝王経は法華経の方便なり勝劣を論ずれば乳と醍醐と金と宝珠との如し、劣なる経を食しましまして尚四天下をめぐり給う、何に況や法華経の醍醐の甘味を甞させ給はんをや」(1146:01)とある。

 また撰時抄にも「彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし、生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども六道・四生・三世の事を記し給いけるは寸分もたがはざりけるにや、何に況や法華経は釈尊・要当説真実となのらせ給い多宝仏は真実なりと御判をそへ十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦と指し示し…」(0265:02)とあるがごとくである。

 第四の「爾前の文を借りて法華の義を顕わすゆえ」というりゆうについては、十章抄には「止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり」(1273:08)とある。さらに成論の二如来、阿含の四処起塔等、これを思い合わすべきである。すなわち開会の後に文を借り義を顕すのである。

 

南無妙法蓮華経こそ一切経の観心

 

 また、同じ原理が日寬上人の三重秘伝抄に説かれている。すなわち天台大師が、一念三千を証明するために、華厳経の「心は工なる画師の種々の五陰を造るが如く一切世界の中に法として造らざることなし」の文を引いていることについて、次のように述べられてる。

 「問う昔の経経の中に一念三千を明かさずんば天台何ぞ華厳心造の文を引いて一念三千を証するや。

  答う彼の記小久成を明かさず何ぞ一念三千を明かさんや、若し大師引用の意は浄覚云く『今の引用は会入の後に従う』等云云、又古徳云く『華厳は死の法門にして法華は勝の法門なり』云々、彼の経は当分は有名無実なる故に死の法門と云う。楽天曰く『龍門原の上に土・骨を埋めて名を埋めず』と、和泉式部云く『諸共に苔の下には朽ちずして埋もれる名を見るぞ悲しき』云云、若し会入の後は猶蘇生の如し故に活の法門と云うなり」

 すなわち、華厳経それ自体としては、四十余年未顕真実の教えであり「死の法門」であるが、ひとたび、法華経の立ち場で用いれば、十界互具、一念三千の説明として生かされ「活の法門」となるのであるが、これは大集経等の場合についても同じであり、それ自体としては、名のみで実体もなく、けっして民衆の幸福を築く力ある経文ではなく「死の法門」である。だが、ひとたびそれを法華経の立ち場で用いれば、たちまち生命をふきかえし「活の法門」となるのである。

 以上のことに関連して、さらに大聖人は、なぜ釈尊の法華経にはもはや力がなくなったといわれながら、その法華経の経文を用いられている。

 まず、法華経に力がないことを示された御文は、上野殿御返事に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)、高橋入道殿御返事「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし」(1458:13)等、枚挙にいとまがない。

 だが、これもまた同じ原理であり、成仏得道の教えとしては、もはや法華経にも力がなくなってしまった。しかし、法華経の実体を、寿量文底下種の南無妙法蓮華経としたときに、ことごとく生かされることを知らなくてはならない。

 日蓮大聖人の仏法から立ち返ってみるならば、法華経二十八品ことごとく南無妙法蓮華経を明かさんとして説かれたものであり、南無妙法蓮華経こそ、一切経の根本であり、法華経の肝要なのである。

 曾谷入道殿御返事に「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058:08)云云と。

 三大秘法抄には「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023:13)云々と。

 したがって、法華経が、いかに釈迦仏法中、最高であったとしても、南無妙法蓮華経を根本としなければ、それは名のみあって実体なく「死の法門」にすぎないのである。今日、法華経が、釈尊一代五十年のなかで、最高の経文であることは、仏の金言に明らかであり、少しく仏法を知った人であれば、誰でもわかることである。だが、いったい、なぜ法華経が最高なのかについては、まったく知る人がいない。ただ文々句々に執し、それであたかも法華経を知ったかのような錯覚をしているのである。

 一代聖教大意には「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」(0404:03)と。また開目抄には「当世も法華経をば皆信じたるやうなれども法華経にては・なきなり」(0195:10)と。

 ここに、法華経にせよ、また釈尊一代の経々にせよ、ことごとく三大秘法の南無妙法蓮華経によって、初めて、生かされて「活の法門」となり、意味をもってくるのである。

 ゆえに、「其の国土に於いて此の経有りと雖も」とは、一応、文上から読むならば、ある国土に金光明経があって、この金光明経を流布もしない。しかも捨離する心を生ずるならば…等と読まれるのであるが、これではまったく意味がない。これは、仏法上の経相をとって、日蓮大聖人の読み方、すなわち観心の読み方ではない。大聖人の仏法においては、経文を文字に表わされたままに読み理解するのを経相の文上ともいい、大聖人の御真意を観心とも文底ともいうのである。立正安国論は大聖人の大確信であり、法華経の真髄であるから、金光明経とはいえ、観心文底において拝すべきなのである。

 

其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず

 

 されば、この御文を、日寬上人の文段によって、観心文底より拝すれば、次のようになる。「其の国土に於いて」の国土とは、日本国であり、「此の経有り」とは、本門の本尊、妙法蓮華経の五字、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経である。三大秘法とは、本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇の三つであり、三大秘法の南無妙法蓮華経とは、弘安2年(12791012日の御図顕の一閻浮提総与の大曼荼羅のことである。

 「未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず」の未だ甞て流布せしめずとは、いまだ一閻浮提に広宣流布せしめないことである。顕仏未来記の「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507:06)云云の文を思い合わすべきである。

 為政者が、この大御本尊を、いまだかって日本に流布せしめずして、またこのわれらが主師親と仰ぐべき本尊を、ただ、受持しないばかりでなく、捨離の心を生じて、この本尊を求めようとせず、この本尊のことを聞こうともしない。また、この本尊を身に供養せず、意に尊重せず、口に讃嘆しようともしない。また、文底受持の行者、すなわちこの大御本尊を持つ人を、尊重したり、供養したり、讃嘆したりすることは考えもおよばない。それであるから、「遂に我等及び余の眷属…」等と、梵天、帝釈、四天王、およびもろもろの諸天善神をして、この深秘の妙法、すなわち三大秘法の南無妙保蓮華経を聞くことができると嘆かせるのである。

 さらに、日寬上人は、文段に次のごとく述べられている。

 「ゆえに三箇の妙法の法味に飢えて三箇の秘法の水流に渇く、ゆえに『威光勢力あることなし』と云云。学者まさに知るべし、日本国中みなすでに毒薬邪法の飲食なり、諸天何んぞこれを受けんや、ただ我が文底甚秘の大法のみ無上の甘露正法なりしもこれを供養せずんば諸天の威光如何ん、すべからずこの意を了すべし、あえて懈ることなかれ」

 日蓮大聖人は、建長5年(1253428日の立宗宣言以来、罵倒と迫害の連続であった。特に文応元年(12607月に、この立正安国論を著わし幕府を諌言されるや、それはまさに怒濤となって押し寄せてきた、立正安国論の根本精神は三災七難の不幸の根源は、邪宗教にあり、もし、これに対してなお帰依を続けるならば、他国侵逼・自界叛逆の二難が必ず起こる、ということであった。「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」等の肺腑をえぐる全民衆救済の烈劣たる叫びに対して、悪酒に酔いしれる幕府の権力者たちは、松葉ヶ谷の草庵の焼き打ち、伊豆・伊東への流罪をもって遇したのである。

 はたして、文応元年より満七年、文永5年正月、蒙古より牒状が到来し、立正安国論の予言の的中が疑いなき事実となった。だが、幕府は、なお悪夢からさめず、諸社寺に蒙古降伏の加持祈祷をさせるなど、謗法を重ねていった。この国家存亡の危急に対して、日蓮大聖人は十一通の御書を認めて、幕府の迷妄をさますように、また時の邪宗教に対しては、公場対決をきびしく迫られたのであった。

 しかるに、幕府はこの至誠あふれる国諫を聞き入れないのみか、幕府の上﨟、尼御前たちに取り入った極楽寺良観、建長寺道隆等の邪僧の言葉に迷い、ますます激しい弾圧と迫害とを、大聖人およびその御一門に加えていったのである。

 かくして文永8年(1271912日、幕府の軍事警察権を一手ににぎって、絶対の権力をふるっていた平左衛門頼綱は、無謀にも大聖人を竜の口の刑場で、頸を刎ねんとしたのである。だが、所詮、いかなる大難も、その本仏の御境涯をこわすことはできなかった。その夜の不思議な現象に、頸斬り役人どもは恐れおののき、ついに処刑を断念してしまったのである。しかし、大聖人は念仏者等の陰謀のため、佐渡へと流罪され、そこで不自由な三ヵ年の生活を送られた。この間、時宗の兄、時輔の陰謀などがあって、自界叛逆の様相は、ますます深刻となってきた。文永11年(1274)、佐渡から鎌倉へ帰られた大聖人は、幕府を諌め、「今年は必ず蒙古の責めに会う」と断言、これも聞き入れられなかったので、故事にならい「三度諫めても用いなければ国を去る」と宣言され、身延の山へこもられたのであった。

 だが、大聖人は、ここで「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329:03)との御文のごとく、ひたすら末法万年尽未来際までも利益する大御本尊の建立の準備をされていった。ついに熱原法難の機に立宗より27年、弘安2年(12791012日、「余は27年なり」と申されて、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのである。

 

太平洋戦争は以北の遠因

 

 以上のように、大聖人の御一生をみるに、大正法が打ち立てられたのもかかわらず、この大法を日本の指導者を流布せしめなかった。まさしく、当時の日本国の実情は「末だ甞て流布せしめず」の感を深くするではないか。また、当時の権力者の横暴なふるまいは甞て流布、まさに「捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず」等の文にあたり、したがって諸天善神は国を捨て去り、日本の国は、福運をまったくなくしてしまったのである。他国侵逼難は、大聖人がおおせられればこそ、当時は、免れることができなかったが、ここに、すでに太平洋戦争の未曾有の敗戦の遠因がったのである。

 戸田前会長はこのことについて、次のごとく述べられている。

 「日蓮大聖人は御本仏にていませばせば、断じて未来を予言し、お言葉どうりに自界叛逆難があり、他国侵逼難が実現したのである。時の上下の人々が、この予言書を誠実な気持ちをもって信じて、大聖人の教えを一国に流布したならば、あの時代からいかに日本が栄たであろうか」、だが、それに反して、「大聖人世を去られて六百有余年、あれほど懇篤に未来の真の仏法、大良薬を奨められてあったにもかかわらず、まことに爪上の土の如く、極く少数の人のみに信じられて、大多数の人々はこれを信じなったがゆえに、実に七百年近い昔の予言が的中して、アメリカ軍による日本国土の占領という他国侵逼難があらわれたのである。

 およそ原因には二とおりある。近因と遠因である。近因とは、ある事件が起こった直接の条件、作用であり、遠因とは、それらの条件作用を必然とならしめる根本の因である。

 太平洋戦争を語るとき、そこには当然、軍部閣僚の無能が話されなければならないであろう。当時の軍部首脳部の民衆から遊離した政治感覚、派閥争いに終始したその官僚性、および科学に対する驚くべき無智は、日本の敗戦に直接つながるものとして、きびしく、批判されるべきであろう。しかし、われわれはここに一大亡国の姿を現じた根本原因は、実は“見えざる敵”にあったことを、肝に命ずべきである。すなわち、七百年近くにわたった、正法に対する敵対の総決算であり、大聖人の諫言を用いなかったがゆえの破滅であることを断ずるものである。

 根は深く、源は遠かった。大聖人滅後六百数十年、この間において、真実に民衆救済の大白法が、この日本の国にありながら、隠没され、人々から少しも顧みなかった。ただ邪宗教のみが跋扈し、乱脈を続け、また世欲的な権力と結びついて、人々に害毒を流しづづけてきた。

 阿鼻叫喚地獄の様相を呈しながら、悲惨な終焉を告げた鎌倉幕府の後にきたものは、室町時代であった。この時代においては、応仁の乱等社会の乱れに乗じて念仏がひろまり、特に蓮如を中心とする一派が、文化の発達しない地方への進出をはかり、かなりの信者を得て、ついに大阪に本願寺城を築き一向一揆の基となった。

 戦国時代にはいると、石山本願寺、比叡山、高野山などの諸宗の本山は、宗教よりも武力をもつ集団として、戦乱によって徹底的に蹂躙されたのである。

 最も悲惨をきわめたのは、比叡山であった。織田信長により、山上の全寺塔は焼き払われ、僧徒1600人が、焼き殺された。また本願寺も、信長、秀吉に攻められて、徹底的な打撃をうけた。まさに、この時代の宗教界は、修羅闘諍にふけり、利益にからんだ醜い権力との結託に狂奔し、その結果、戦乱の渦中に巻き込まれ、悲惨な姿を繰り広げた。そこには、仏法の精神はまったくなく、あるものは、ただ三悪道・四悪道のみであった。

 やがて徳川幕府が成立し、ようやく世の中も落ち着きをみせた。宗教界も、形式的には発展を示した。たとえば、天台宗の僧、天海が上野に寬永寺を建て、また浄土宗が家康の保護で芝の増上寺を建てる等である。

 だが、徳川幕府の封建制度下にあった仏教の内容は、堕落の一言に尽きるのでる。幕府は、キリシタン禁令を徹底させるため「宗門改め制度」を設け、それに仏教を利用し、庶民統制の組織をとったのである。これによって檀家制度が確立し、人々は出生、結婚、旅行、職人の雇い入れ、埋葬などすべて檀那寺の承認をえなければならなくなった。また、本寺、末寺、の関係を決めて、本山の統制力を強化し、その上に寺社奉行を置いて、封建的な秩序を保とうとした。当然、改宗なども強い制限を受けた。かくして、既成宗教は、幕府の御用機関となって骨抜きにされ、幕府の保護、檀家からの布施、寺領からの収入によって、安逸に流れ堕落していった。いわば、仏教は封建政策の道具と化したのである。

 この檀那制度の影響がいかに根強いかは、今日われわれが折伏にいったときに、痛感するところである。その寺がいかなる宗派で、いかなる教えを説くかなどは、まったく知らず、疑問ももたず、ただ墓場を掃除し、僧侶にお金でもあげておけば、先祖も喜び、自分も幸福になると思っている。

 明治以降、日本は政治上では形ばかりの近代化を遂げた。こうした民主に巣くう、封建制、事大主義、因習は、根強く残っていることを知らねばならない。

 

神道と国家権力の結託

 

 やがて、王政復古により、立憲君主制を政治的な理想とする明治維新の世となった。明治政権は、天皇主権の必要上、国民に天皇を信ぜしめるために、神道を用いた。天皇の神格化を最良の方法として考えたのである。この維新の政策は、政治的な改革であるとともに、禅、念仏、真言などの諸宗に再び決定的な打撃を与えたのである。

 明治2年「神仏判然令」が布告され、封建時代に優位に立っていた仏教は、神道とその所を入れ替えたのである。この神仏分離の政策は全国津々浦々に急速に、しかも徹底的に実施されていった。これまで押えつけられていた神官たちは、この時とばかりに仏像仏具、経巻などを壊し、焼き捨てるという運動を開始した。いわゆる排仏毀釈運動である。

 四国の土佐では400ヵ寺が廃止され、裏日本の富山では「一宗一寺の他はことごとく廃寺すべし」という「廃寺令」が出された。兵隊に大砲を引かせて巡回させて威圧し、廃寺を迫った。また明治4年(1872)には、社寺の領地を境内地のほかは全部返上させ、それにかわるものとして、禄米を支給し、さらに全禄に改められた。このことによって、寺院はその経済の大半を占めていた収入源を失って、衰亡へと大きく傾いていった。

 こうして、既成仏教を徹底的にたたいた神道は、国家の特別保護のもとに、一躍、国家的地位を得ることになった。

 天皇は絶対的権威として君臨し、神社は宗教ではなく国家の“宗祀”であると称えられ、神官は官吏としての待遇をうけた。伊勢神宮の祭主には皇族を、大宮司には勅任官をと、直接国家が司るようになった。さらに全国の神社は、それぞれ官幣大・中・小社、国幣大・中・小社、諸社としての社各の制度をうけて、いっさいの費用は官公庁から支給されるということになった。

 仏教もまた、弾圧を恐れて、神童との融和をはかろうとした。当時の仏教界は、ようやく排仏毀釈運動の打撃から立ち直ったものの、なんら神道を糾弾する勇気も情熱もなかった。

 やがて、田中智学を中心とする国柱会の日蓮主義が、完全に神道宣揚の結果を導くことになった。智学は、法華経の絶対性と天皇の神格化という当時の情勢を、なんとか結びつけようとしたのである。ここに、天皇の神格化を、法華経の絶対性から支援しようとした日蓮主義の妄説が生じ、神道のまえにあえなく屈服していった。

 また、この間の事情には、この機に乗じて政府が宗教団体を制定しいっさいの宗教を、大日本帝国の精神的支柱たる神道のもとに、強制的に結合させる力も大きかった。

 ここに、宗教界は、こぞって政府と神道の掲げる報国運動へと埋没していったのである。

 神道は、もともと、原始の自然宗教であり、上代の民の生活態度のなかに芽ばえたものが、大和朝廷の正統化という要望とあいまって、成長してきたものである。したがって、経理は、なんら哲学的な根拠もなければ、理念らしきものも、見当たらない。一般的には、祭祀を中心にするものにすぎなかったのである。

 この神道をもって、天皇絶対権の裏づけとし、政治力をもって国教化の方向をとったことは、大きな誤りといわざるをえない。もし、未開の古代社会の復元を本気で夢みたとするならば、時代錯誤も甚だしい。いかなる非合理な祭政一致や国教化は、所詮成功するはずがなかった。その破綻は、太平洋戦争の進行ととともに馬脚をあらわしたといえよう。

 

日蓮大聖人滅後の広布の戦い

 

 ひるがえって、大聖人滅後の日蓮正宗の歴史をみるならば、第二祖日興上人は申し状を捧げて鎌倉幕府をいさめ、第三祖日目上人も、42度の天奏を遂げられる等、惜身の布教活動はなされたものの、広宣流布の大願成就には到底至っていない。

 明治・大正・昭和に入っても、創価学会の出現以前は、広宣流布など思いもよらなかった。

 昭和における創価学会の最大の難関は、軍部の弾圧である。旧憲法には「日本国民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限リニ於イテ信教ノ自由ヲ有ス」とあった。これは形ばかりの信教の自由であり、特に「治安秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限リニ於テ」の但し書きは、いかようにも拡大解釈できたのである。事実上、国家神道を拝することを国民に義務化していた指導者にとって、神道否定の宗教の存在が許されるわけがなかった。よって、戦時中、さまざまな宗教に対する国家の干渉、宗教統合を権力によって行おうとする動きが見られたのである。その結果、神道を真っ向から否定した創価学会に対しては、猛然と国家権力をもって弾圧し、牧口初代会長、戸田二代会長をはじめ21名の幹部を投獄し、牧口会長を獄中にて没せしめたのである。

 大聖人の時代より700年、いまだ広宣流布せず、その歴史は、時に断圧の歴史であり、またそのなかで、ただひたすら時を待ち、創価学会の出現を待ち続けた正法は、そして当時の日本の姿は其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず」の御文のごとくであり、「捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず」の文のごとくであった。されば、諸天善神は勢力を失い、日本国から去り、「既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」のままに、一大亡国の姿を現じたのである。

 まったく、三千年前に説かれた経文に、寸分も違いのないことに驚くとともに、仏法が永久不変の宇宙の絶対の真理を説き明かしているのを事実をもって知らされるのである。

 されば恐るべきは邪宗教であり、悪思想である。邪宗教が根底となり、しかもそれが政治権力と結託するところに、亡国の姿を現ずるのである。

 日智蓮大聖人は、その根本原因を、ここに経文の明証をもって喝破されたのである。

 神国王御書にいわく「王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」(1521:07)と。

 この亡国の実相を思い起こすにつけ、二度と同じ愚を繰り返してはならぬと痛感するのである。

 なるほど、亡国という事実は、まことになげかわしい現実であった。だが、その根本原因にめざめなければ、またいつなんどき、このようないまわしき災難に見舞われないとも限らぬ。人々は、その原因を論ずるに、政治の劣悪、社会の体制を口にする。だが、それよりも、さらに根本的なものは、人間に出発し、人間に起因する問題である。すなわち、ありとあらゆる政治悪、社会悪をもたらすものは、所詮人間生命の濁りである。貧・瞋・癡の三毒強盛の生命こそ、常に変わらぬ、あらゆる腐敗、あらゆる悪の根源なのである。では、その衆生の生命の濁りは、どこに起因しているのであろうか。それこそ邪智、邪宗、悪思想に縁したがゆえなのである。まさに邪宗教こそ、個人の幸福を奪うのみならず、人類を滅亡に導く元凶であり、われわれ人類の敵であることに、世の人を気づかなければならない。

 貧弱な土壌からは、豊かな実りは生じない。創価学会がまず第一に、邪宗教の生命を断ち、悪酒に酔いしれる民衆を覚醒させるべく、宗教革命からの戦いを開始したのは、実にそのためである。そのうえに立って、新しき建設がなされるのである。すなわち政治であり、教育であり、経済であり、あらゆる文化の花が咲き誇るのである。これ第三文明である。第三文明の建設については、第十段で論じよう。されば、創価学会が今日、宗教革命に、力強く勇気と情熱をもって、邁進しているこの峻厳なる事実こそ、全日本の人人に、全世界の民衆に、全人類の歴史に、勇気と前進の光明とを与えてゆく、唯一の力なりと確信してやまない。

 

遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ

 

 この金光明経の文は、諸天善神と約すべきである。すなわち日寬上人の文段には「即これ諸天・甘露食味に向わず正法の水流を得ず、すでに飲食に飢渇す。ゆえに威光勢力あることなきなり。向背得失これを思い見るべし」とある。また、一説には「悪王・悪比丘が甘露の味に背き正法の流れを失い威光及以び勢力有ること無からしむ」と読むとあり、また一説には「甘露の味に背き流れを失い」を悪王悪比丘に約し、「威光及以び勢力有ること無からしむ」を諸天善神に約すと読むとある。だが、日寬上人は、文段に、この両説ともに適切ではなく、不可であり、ともに諸天善神に約すのが正しいと述べられている。すなわち、その理由として、金光明経の次上の文には「甘露味をもって我に充足す。このゆえ我等この王を擁護す」また下の文には「無上の甘露の法味を服することを得、大威徳勢力光明を獲」等とあり、いわんや所引の文相が諸天善神に約して解釈することが、もっとも穏便であると、述べられている。

 また日寬上人は「甚深の妙法」も「甘露の味」も「正法」も共に三大秘法のことであると、文段に次のように示されている。

 「初めに甚深妙法とは、もし迹門の意に約せば即これ諸法実相の妙法なり、経にいわく『甚深微妙の法我れ今已に俱得す』と云云、天台いわく『実相を甚深と名づく』等云云。もし本門の意に約せは本因本果の妙法なり、経にいわく『如来一切甚深之事』等云云。天台いわく『因果是深事』と文、宗祖いわく『妙法蓮華経の五字は迹門にすら尚之を許されず况や爾前に分絶えたる事なり寿量品に至って本因本果の蓮華の二字を説き顕わし上行菩薩に付属し給う』と云云。もし、文底の意に拠らば即三箇の秘法を含むなり、天台わく『此の妙法蓮華経とは本地甚深の奥義なり』云云。本地の二字は戒壇を顕わすなり、いわく本尊所住の地なり、ゆえに本地という。あに戒壇にあらずや。甚深の二字は本尊を顕わすなり、天台いわく『実相を甚深と名づく』と云云、妙楽いわく『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界』等云云。あに一念三千の本尊にあらずや。奥義の二字は題目を顕すなり、天台いわく『包蘊を蔵となす』と云云、いわく題目の一行には万行を包蘊す。ゆえに一行一切行というなり、あに題目にあらずや。今・甚深の妙法とは即これ本地甚深の奥義なり、ゆえに三箇の秘法を含むべきなり、文略して意周し、これを思い見るべし。

 次に甘露とは、妙楽いわく『甘露門とは実相常住、天の甘露のごとしこれ不死の薬なり』と文、一連にこれを釈すといえども二門の意を含む、初に『甘露門とは実相常住』とはこれ迹門の諸法実相を名づけて甘露となす、ゆえに実相常住というなり、『天の甘露のごとしこれ不死の薬』とはこれ本門の是好良薬を名づけて甘露となす、ゆえに不老の薬というなり、すでに寿量品に是好良薬と説き薬王品中に至りて『若人有病得聞是経・病即消滅不老不死』と演ぶるゆえなり、もし文底の意に約せば即三箇の秘法を含む。

 涅槃経北本の第八初にいわく『あるいは甘露を服し寿命長存を得るあり』と文。甘露の両字は本尊を顕わすなり、妙楽いわく『実相常住天の甘露のごとし』と云云、またいわく『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界』等云云、ゆえに知る事の一念三千の本門の本尊なり。服の一字は題目を顕わすなり、天台大師文の九に釈していわく『日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声も惜まず唱うるなり』等云云。『寿命得長尊』とは持戒の功能を顕わすなり、義例隨釈第一十紙に破戒罪を明かしていわく『法身を亡ぼし恵命を失う』等云云、ゆえに知んぬ、持戒の福は寿命長存することを得るなり、あに戒壇にあらずや。まさに知るべし、仏法を行ぜんとせばまさにこの戒壇の地に住すべし、自然と本門の本尊を信じ、自然と本門の題目を唱う、ゆえに自然と是名持戒の行者なり、例せば家語に『善人と居る・芝・蘭の室に入るがごとし、久しくその香を聞かざれども即これと化す』等というがごとし、恵心の歌にいわく『山里に住めばをのずと持戒なり・実なりけり依身より依処』と云云。

 三には正法とは『三種の邪正題号の下のごとし』と云云、但・正の字において三箇の秘法を含むなり、いわく正とは妙なり妙即妙法蓮華経、妙法蓮華経は即本門の本尊なり、本尊妙なるゆえに信また妙なり、信妙なるがゆえに行また妙なり、妙即正なり、ゆえに正字即題目なり玄二四十一にいわく『境妙なるをもってのゆえに智また随って妙なり、智・行を導くゆえに行妙という』と云云。およそ正とは一の止る所、ゆえに一止に从う。一は即本門の本尊、止は即止住、本尊止住の処豈戒壇にあらずや、具には題号の下のごとし」。

 

不老不死について

 

 さて、ここに甘露を不死薬とし、妙法は不死薬と説かれているが、これは具体的にはいかなる意味であろか。

 如説修行抄にいわく「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502:07

 この文のなかで「人法共に不老不死」の文を日寬上人は文段に「寿量品の説相これを思え、常住此不滅常住此説法と云云、御書七に云く日蓮が慈悲曠大は人なり、南無妙法蓮華経は万年の外・未来とは法なり、三世常住の利益なれば不老不死なり」と説かれている。

 すなわち、日蓮大聖人の仏法こそ、末法万年尽未来際に至るまでの衆生を救いきっているがゆえに、不老不死なりと仰せらるるのである。爾前経は無量義経で「四十余年未顕真実」と打ち破っているがゆえに、爾前経は老であり、死である。また、いかに法華経が一代聖教中最もすぐれているとはいえ、末法においては、力がなくなるから、老であり、死である。ただ、文底下種事行の一念三千の南無妙法蓮華経こそ不老不死なのである。まさに大御本尊こそ不老不死ではないか。

 しかして、この大御本尊を信じ、唱題する人は、不死薬を服しているがゆえに、やはり不老であり、不死なのである。その生命のなかに仏界が顕現して、諸天の働きが充満してくるのである。

 不老とは、たえず若々しき生命の躍動にみなぎり、一生涯、向上していく人生こそ、不老ではないか。初代牧口会長は、七十を越えた老齢でありながら「僕たち青年は…」と口癖のようにいわれ、最後まで死身弘法の姿であった。

戸田前会長もまた「青年時代に持った理想を、一生涯貫いていく人が、世の中で最も偉大な人である」と申されていた。

 思うに、青年とは限りなき発展、限りなき未来、たくましき建設をはらんだ旺盛なる生命活動である。なにものをも恐れず、なにものにも左右されず、大目的に向かって、全生命よりほとはしり出ずる血潮をたぎらせて進みゆく、清純な、力強き生命活動である。この大御本尊をたもった人のみが永久に青年であり、不滅の若さを誇りうるものである。これ、不老ではないか。

 不死とは、永遠の生命の覚知である。未来永劫にわたる絶対の幸福境を、ただ今の一瞬に開くのである。すなわち成仏の境涯を会得することである。これについて戸田前会長は「成仏の境涯をいえば、いつもいつも、生まれてきて、力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに、思うがままに活動して、その所期の目的を達し、誰もこわすことのできない福運をもってくる。このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万回と楽しく繰り返だれるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、可哀想というよりかにない」と述べられている。この幸福境は、他のいかなるものにもこわすことができないから不老であり、また、不死の苦縛にしばられず、永遠の幸福に生きるのであるから、不死である。

 また、衆生世界についても同様のことがいえる。衆生社会といえどもさまざまなものであろう。いまこれを民族を例にとり考えてみょう。再び戸田前会長の論文を引用する。

 「古代エジプト人は、かの偉大なピラミットを残して衰退し、興隆をきわめたバビロン王朝にしても、ペルシャにしても、インドにしても、ゲルマン民族にしても、幾多の衰亡興隆を重ね、幾多の変遷を重ねて今日にいたっている。しかして、今日、地球上に成長発展している民族は、数えるほどしかないのである。これは、ある一種の有力な民族が中心となり、各種の民族を包含して、一民族を形成するときには、その民族が若さをもち、あるいは若さをとり戻して、隆々と発展していくのである。

 中国の歴史をみても、中央の文化を形成している民族が古くなると、北方その他より、新進の民族が中央に進出して、諸民族を糾合して、新しい民族の若さを取り戻していくのである。今日、地球上において、最も繁栄をきわめているのはどこか? と問えば、誰しもアメリカ合衆国をさす。実にアメリカ国民は、建国以来、三世紀内のうちに、長足の進歩をきたし、世界の政治、経済、文化等、諸問題を中心として、発展向上しているのである。

 ここにおいて、私は、衰亡の一途をたどっている民族と、興隆をきわめている民族とを比較してみて、民族それ自体の力というものを発見するのである」。

 しかして、われわれ日本民族が、今後隆々と発展し、真に平和国家として、文化国家として、世界、人類に貢献してゆけるか否か、私は、もし、日本の人々が、真に、三千年来、悠久たる大河のごとく、東洋民族の心の奥底を流れてきた大乗仏法の真髄にめざめるならば、日本民族の発展は絶対に間違いないことを断言しておきたい。

 まさに、大聖人の仏法こそ不死薬であり、民族自体の生命を、最も強く、清らかにしていく本源であり、かつ、絶対に他から破懐されない福運を備える源泉であると確信するゆえに他の民族もまったく同じことでる。

 また、国土も同様である。妙法を根底にすれば、国土も常寂光土となり、五穀は豊かに実り、草木は繁茂し、美しき景観となり、雨、風、気温等もリズム正しく、そこに住む衆生に、力と若さと潤いを与えていく国土となる。

 立正安国論にいわく、「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」(0032:14)と。

 「仏国其れ衰んや」とは不老せあり、「宝土何ぞ壊れんや」とは不死である。すなわち、妙法広布の楽土こそ、実に不老不死なのである。この原理を、地球全体に及ぼすならば、いかに人類の前途は、明るく、光輝に満ち満ちたものであろうか。楽土日本の現出も、世界の恒久平和も、共に、不死薬たる妙法の力による以外にないのである。

 逆に、邪法が盛んになり、妙法をおおいかくすならば、われわれの生命のなかの諸天の働きも、衆生、社会の生命の諸天の働きも、国土を守護する諸天の働きも、ことごとくなくなり、あとに残るものは、残虐非道な暗黒の世界である。されば、日本国に、全世界に一日も早く、この大白法を流布し、全民衆を潤してあげたい気持でいっぱいである。

 

悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん

 

 悪趣とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅界等の不幸なる生命活動であり、その四悪趣のみが増大し、人間界、あるいは天上界の、平らかな、または喜びの生命活動は、ますます民衆のなかから損減していく、また民衆は、生死すなわち苦悩煩悶の六道の生活におちこみ、涅槃の路、すなわち声聞、縁覚、菩薩、仏等の四聖、真実の幸福生活から、ますます遠ざかっていくということである。

 誰しも十界の生命活動が内在していることは先に述べたとおりである。それは、信心をしていようと信心していなかろうと、変わらざる原理である。だが、邪宗教に迷う人は、三悪道、四悪趣の生命活動のみ旺盛となり、自分では自分をどう期することもできないのである。不自由、束縛の世界である。たまたま喜びがあっても、それは次の挫折により、あるいは破滅により、ますます、苦悩を増長するのみである。あたかも、地獄や、餓鬼や、畜生や、修羅が、その人の生命の本質のことごとくになり、他の生命活動、人、天、声聞、縁覚等の生命活動も、ことごとくその三悪道、四悪趣に帰していくのである。

 すなわちその世界が、その人の本拠であり、住所になってしまうのである。逆に、信心した人は大御本尊の仏界に照らされて、わが生命のなかに、清浄無染の力強い仏界の大生命が顕現するがゆえに、それが本拠となり、あらゆる九界の生命活動が、ことごとく帰していくのである。

 されば、いかに苦悩があろうが、それらは、ことごとく次の喜び、次の発展、次の輝かしき勝利の源泉となっていくのである。信心なき人の苦悩は、苦悩のための苦悩である。信心した人の苦悩は、煩悩即菩提・生死即涅槃の煩悩であり、生死であるがゆえに、幸福のための苦悩である。されば、常に歓喜と、希望と、確信の、しみじみとした幸福感を満喫しつつ、生まれてきた目的に対して、充分なる価値活動をなし、他も利益し、自在無礙の生活をしていくことができるのである。これ真の自由であり、真の解放である。

 こうした生命の変化は、生命それ自体の変化であり、意識して変わるものではない。克已等の道徳、精神修養によって変えられると思うのは間違いである。どんなに怒るまいと意識して平静を保とうとしても、どんなに嫉妬すまいと努力しても、そこにはおのずと限界がある。もとより、苦悩、怒り、嫉妬等は、人間本然の生命活動であり、それをなくすことはできない。また、いかに抑えても抑えきれるものではない。たちまちにして、それらの生命活動がムラムラと起き、百年の修行も一瞬にして崩壊し去るのである。克已は苦しく、人間性を抑圧し、しかもあらゆる人々の幸福の源泉にならないことは、明々白々であり、かっての儒教哲学の挫折が、これをなによりも、よく示しているではないか。

 されば、地獄、餓鬼、畜生、修羅等の境涯におちこむや、いかにあがき、もがいても、どうすることもできない。邪宗教の害毒により、さらに生死の河に溺れ、苦悩し、煩悶しつづけるのである。これを救いきるのは、いうまでもなく、生死を即涅槃と転換せしめる力強き大宗教でなければならぬ。

 

一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん

 

 いっさいの民衆は善心というものはなく、みな利己主義に陥って、他人のことなど考えるいとまなく、獸類のような集団生活が民衆のなかに起こる。罪人は多くなって、これを縛るのに忙しく、また巷には私刑があり、残忍な殺害があり、また、激怒と激怒がぶつかり、修羅闘諍を事とし、あるいは、互いに諂い合い、罪なき人を罪におとしいれるようになるとの意味である。まことに暗黒の恐怖の世界である。

 だが、この経文は、まったく大聖人の時代の世相に符合しているのである。承久の乱で朝廷方を破って、幕府権力を盤石にしたと思われた北条幕府も、内部には深刻な波乱を秘めていた。1224年、義時は謎の死を遂げている。それでも義時・泰時の代は、まだ平穏無事であった。泰時の死後、後継者問題をめぐって不穏な空気がただよってきた。泰時の跡をうけた経時は寛元4年(124623歳で若死、その原因についても、種々な風説がある。

 経時の死とともに事態は急展開し、以後2ヶ月間、鎌倉は、激しい政争と実力行使に明け暮れた。ついに経時の弟、弱冠20歳の時頼が権力を獲得、彼は、幕府の実権を奪おうとしていた、叔父・光時らの名越氏一族、後藤・千葉らの評定衆、問注所執事三善氏らの重臣の陰謀を打ち破り、光時を出家させて伊豆へ流し、その弟の時幸を自殺させたほか、関係者多数を処分した。さらに翌宝治元年(1247)には、北条氏と肩を並べる豪族・評定衆三浦光村を、あらゆる挑発・謀略を尽くして激闘に持ち込み、三浦泰村以下の一族五百余人を、ついにことごとく頼朝の墓所の法華堂に自殺させた。いわゆる「宝治の合戦」である。ついで下総の千葉秀胤も責め殺された。こうして北条氏は、次々と豪族を倒し、比較的安定な時期を迎えた。

 だが、こうした政争に明け暮れている間に、民衆は苦しい生活におちこみ、非人、乞食などが群をなして各地の河原・坂・宿にたむろしていった。しかも、立正安国の提出後に起きた災害は、極度に民衆を疲弊させ、ついに幕府は、人身売買の禁令をとかざるをえない現状となった。没落した農民は、つぎつぎと乞食の群に身を投じていった。さらにその後も天変地夭は相次いで起り、農民の不安と動揺はひとかたならぬものがあった。特に建長年間を中心に起った大飢饉や大疫病は、民衆を悲惨のどん底へ追いやった。さらに北条氏内部では、文永9年の2月、騒動等があり、また二度にわたる蒙古襲来に、人心は言語に絶するほど動揺し、錯乱した。まさに人々の生活は、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の巷を」さまようのみであった。ただあるのは、繫縛であり、殺害であり闘争であった。

0017~0033 立正安国論 0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引 0018:02~0018:12 第二章 経証の一 金光明経 2

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平左衛門尉頼綱の恐怖政治

 

 しかも、幕府の指導者たちの横暴は甚だしく、罪なき人を罪におとしいれた。真に民衆救済のために立ちあがった大聖人を、松葉ヶ谷で焼き打ちをはかり、伊豆の伊東へ流し、小松原で殺害しようとし、竜の口で頸を斬らんとして、佐渡へ流罪し、また、大聖人の弟子を、あるいは牢に入れ、あるいは所領を没収し、また流罪、死罪にしてしまったのであった。ついには、熱原の法難では、平左衛門尉が、諸宗の悪侶たちとたくらんで、ありもしない罪をつくりあげ、農民20数人を逮捕し、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人の首を刎ねてしまった。

 大聖人滅後、平左衛門尉は、ますます、絶大な権力で専横をふるい、弘安8年(128511月、政敵安達泰盛を討滅した。その時、安盛と嫡子の宗景は殺され、ついで上野・武蔵一帯の有力御家人500余人が、泰盛の与党として討たれた。しかも、この合戦で、刑部卿相範・三浦対馬前司・伴野出羽入道・足利上総三郎等は、泰盛与党でないのに殺されている。この合戦は、地方にまで及び、全国的な騒動となり、特に九州では、激しい合戦となった。泰盛の子盛宗は博多で討たれ、小弐景資も、筑前の岩門城で兄の少弐経資に攻められ、同族相食む合戦ののち、多数の御家人たちとともに滅んだ。

 以後八年間、頼綱による冷酷で疑い深い大殺戮が続けられ、鎌倉は恐怖の巷と化した。あたかも、彼はフランス革命後のロべスピエールのごとく、ファシズム時代の警視総監のごとく、スターリンあるいはエジョフのごとく、ベリヤのごとく、密国、弾劾、暗殺に狂奔した。その悪政のすえ、大地震が起き、鎌倉の山がくずれ、家々は倒れて死者は23024名におよんだという。

 その頼綱もやがて滅ぼされ、頼綱時代の不正な裁判への不満が高まった。さらに凡下、借上といった高利貸が幅をきかせるようになり、逆に御家人の貧窮はひどく、訴訟問題が雲霞のごとく起き、ついには血を血で洗う合戦まで起きる始末であった。「沙石集」には、「上代は君も臣も仁義あり、芳心あり、末代は、父子、兄弟、親類、骨肉、あだを結び、楯をつき、問注対決し、境を論じ、処分を諍ふこと年に随ひて世に多く聞ゆ」と、弘安のころからの世相を語っている。代官はあくどい支配や横暴を重ね、悪党が横行し、海賊、山賊が充満し強盗・殺人があたりまえのごとくなった。

 乾元元年(130212月、鎌倉に大地震、死者500名に達し、嘉元3年(13053月、京都に大地震、同月22日に貞時の邸宅が焼亡、翌日、連署の北条時村が突如襲撃をうけて殺された。こうして王の福運尽きた姿が、厳然とあらわれ、北条高時のごとく凡庸な執権が誕生し、また長崎高綱のごとく横暴な人物が、賄賂などを公然とやりとりし、専横の限りを尽くした悪政を重ね、ついに正中の変、元弘の乱を経て、元弘3年(1333)鎌倉幕府は、阿鼻叫喚のうちに、150年の幕を閉じた。足利尊氏は、六波羅蜜題を滅ぼし、新田義貞は鎌倉攻めを行ない、これに最後のとどめをさした。まもなく九州探題も滅びた。その最後の様は、あまりにも悲惨であった。

 昭和28年(1953)の夏、鎌倉の材木座の松林に囲まれた空地で、人類学者鈴木尚博士の指導のもとに、東京大学人類学教室の人々が、三回にわたって古い人骨の出る遺跡を発屈した。発掘された人骨が少なくとも910体あり、ほとんどが男子、しかも刀剣、刺創、打僕創がある青壮男子のものであったという。博士の報告による発掘資料によれば、鎌倉陥落の惨状がいかにすさましいものであったかがわかる。「太平記」がこの合戦の死者を「鎌倉中を考うるに、総て六千余人なり」と記しているように、戦死者、焼死者の屍は無慮数千、荒廃の街に累々と横たわっていたという。

 これらの姿を見るにつけ、まさに、ただ「繋縛・殺害・瞋諍」の暗黒世界であり、「互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」の暴政の連続であった。

 正法にそむいた日本の国には、事実、一度も「繋縛・殺害・瞋諍」なき平和な、明るい社会は誕生しなかた。その昔、平安時代に、天台仏法が栄え、その精神が浸透し、死刑が廃止されていた一時期があった。日蓮大聖人の大仏法は、それとすら比較にならないほどの高い生命の尊厳と絶対平和思想に立脚している大哲理である。だが、ついに数百年にわたり、その大法はいたずらに無視されてきた。

 

日は東より出ず

 

 しかし、あれから700年たった今日、いままさに日蓮大聖人の仏法が全世界広布を実現せんとしている。「繋縛・殺害・瞋諍」の終止符を打つのは、今日をおいてほかにない。日本はすでに、太平洋戦争の悲惨な経験をした。原爆の悲劇をいやというほど感じた、民衆の心に再び芽ばえたものは、人間の本然の欲求である。平和と幸福への願いである。

 だが、戦時中、牧口初代会長、戸田前会長を投獄したごとく、さらに戦後あの昭和32年(1960)大阪府警の横暴のごとく、あるいは幾多の非難と罵声を創価学会にあびせた言論界のごとく、またかって選挙の度ごとに、罪なき善人を戸別訪問のかどで逮捕した、官憲のごとく、再び創価学会に「枉げて辜無きに及ばん」ようなことがあれば、日本国は福運をなくし、「繋縛・殺害・瞋諍」のさらに悲惨な世界を出現するであろう。私は、それをはっきりと断言できる。またそうさせたくはない。さらに、他国をみれば、依然として、そこには、幾多のいたましい世界がある。たとえば、チベットがそれである。そこには「繋縛・殺害・瞋諍」しかないではないか。日本の歴史が、過去、いまわしい歴史であったと同様、世界もまた、今日まで、否、今日もなお、悲惨な歴史をつづっている。これに終止符を打つのは、絶対に、日本しかないし、その原理は、日蓮大聖人の仏法しかないことを、私は心から叫びたい。

 ジョージ・サートンいわく「結局、洪大な思想は偏狭な思想より永く生き残るであろう。また正義は不正よりも永く生きのこるであろう」と。日本の指導者にいいたい。自己保身に汲々とするのではなく、滔々と流れゆく世界の歴史を刮目してみよ。もはや、核兵器の誕生は、武力による解決がいかに非なるかを教えている。人類の求めるものは、幸福であり、平和ではないか。

 諫暁八幡抄にいわく「日は東より出づ」(0589:01)と。今まさに太陽のごとき光明をもった、大正法が、この日本の国にのぼりつつあるのだ。

 インドの詩聖タゴールは「私は、目を東のほうに向けている。日がすでに夜明けを迎え、アジアの最も東の地平線に太陽がのぼったのではないとだれがいえよう。私は祖先がなしたと同じように、全世界をふたたび照らすべき運命をになう東洋の夜明けに敬礼する」と。

 

星流れ地動き井の内に声を発し暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん

 

 これまた、なんと日蓮大聖人の時代の世相と一致していることか。まず「疫病流行」については、建長5年(1253)、正元元年(1259)、文応元年(1260)、建治3年(1277)、弘安元年(1278)等に、それぞれ大疫病が流行し、飢饉とあいまって、おびただし数の人が死んだことは、すでにしばしばふれたところである。

 

彗星の出現

 

 「彗星数ば出て」も、まったくそのとおりである。大聖人の時代には数多く出現しており、特に文永年間の初めのころが多かった。

 このうち、特に文永元年(126475日の大彗星は、空前の大きさのものであった。これについて日蓮大聖人は、安国論御由来に次のごとく述べられている。

 「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず、予弥よ悲歎を増長す」(0034:18

 また撰時抄には、正嘉の大地震および文永の大彗星が、いかなる意味をもつのかを、次のごとく説かれている。

 「問うて云く正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや答えて云く天台云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、問て云く心いかん、答えて云く上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり、問うて云く日本漢土月支の中に此の事を知る人あるべしや、答えて云く見思を断尽し四十一品の無明を尽せる大菩薩だにも此の事をしらせ給はずいかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの此の事を知るべきか、問うて云く智人なくばいかでか此れを対治すべき例せば病の所起を知らぬ人の病人を治すれば人必ず死す、此の災の根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか、あらあさましやあらあさましや、答えて云く蛇は七日が内の大雨をしり烏は年中の吉凶をしる此れ則ち大竜の所従又久学のゆへか、日蓮は凡夫なり、此の事をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん、彼の周の平王の時・禿にして裸なる者出現せしを辛有といゐし者うらなつて云く百年が内に世ほろびん同じき幽王の時山川くづれ大地ふるひき白陽と云う者勘えていはく十二年の内に大王事に値せ給うべし、今の大地震・大長星等は国王・日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたふどせらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり。」(0284:10

 大聖人は、ここに明らかに、文永の大彗星こそ、他国侵逼難、自界叛逆難の前兆と確信されたのである。やがて、文永9年(1271)の2月には、北条時宗と兄時輔と合戦があり、さらに文永11年(1273)および弘安4年(1281)には蒙古が来襲したのであった。しかもその間、文永10年(1272)の正月16日と同95日に彗星が出現している。

 また、鎌倉幕府が衰退し、国じゅう、修羅闘争がさかまくころも、しきりと彗星が現われている。

 

両日の出現

 

 「両日並び現じ」もまた、厳然たる事実である。大聖人の時代においては、文永年間だけで、文永5年(126858日、8年(1271811日及び13日、11年(1274123日と3回も出現している。

 この文永11123日は、大聖人が佐渡流罪中であり、日本史記と、この時の模様を法華取要抄に書かれた御書と一致している。

 「去ぬる正嘉年中の大地震・文永の大彗星・其より已後今に種種の大なる天変・地夭此等は此先相なり、仁王経の七難.二十九難.無量の難、金光明経.大集経・守護経.薬師経等の諸経に挙ぐる所の諸難皆之有り但し無き所は二三四五の日出る大難なり、而るを今年佐渡の国の土民は口口に云う今年正月廿三日の申の時西の方に二の日出現す或は云く三の日出現す等云云、二月五日には東方に明星二つ並び出ず其の中間は三寸計り等云云、此の大難は日本国先代にも未だ之有らざるか、最勝王経の王法正論品に云く「変化の流星堕ち二の日倶時に出で他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云、首楞厳経に云く「或は二の日を見し或は両つの月を見す」等、薬師経に云く「日月薄蝕の難」等云云、金光明経に云く「彗星数ば出で両つの日並び現じ薄蝕恒無し」大集経に云く「仏法実に隠没せば乃至日月明を現ぜず」仁王経に云く「日月度を失い時節返逆し或は赤日出で黒日出で二三四五の日出ず或は日蝕して光無く或は日輪一重二三四五重輪現ぜん」等云云、此の日月等の難は七難二十九難無量の諸難の中に第一の大悪難なり、問うて曰く此等の大中小の諸難は何に因つて之を起すや、答えて曰く「最勝王経に曰く非法を行ずる者を見て当に愛敬を生じ善法を行ずる人に於て苦楚して治罰す」等云云、法華経に云く・涅槃経に云く・金光明経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行われず」等云云、 大集経に云く「仏法実に隠没し乃至是くの如き不善業の悪王悪比丘我が正法を毀壊す」等、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起る」等、又云く「法に非ず律に非ず比丘を繋縛すること獄囚の法の如くす爾の時に当つて法滅せんこと久しからず」等、又云く「諸の悪比丘多く名利を求め 国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん其の王別まえずして此の語を信聴せん」等云云、此等の明鏡を齎て当時の日本国を引き向うるに天地を浮ぶること宛も符契の如し眼有らん我が門弟は之を見よ、当に知るべし此の国に悪比丘等有つて天子・王子・将軍等に向つて讒訴を企て聖人を失う世なり、問うて曰く弗舎密多羅王・会昌天子・守屋等は月支・真旦・日本の仏法を滅失し提婆菩薩・師子尊者等を殺害す其の時何ぞ此の大難を出さざるや、答えて曰く災難は人に随つて大小有る可し正像二千年の間悪王悪比丘等は或は外道を用い或は道士を語らい或は邪神を信ず仏法を滅失すること大なるに似たれども其の科尚浅きか、今当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは小を以て大を打ち権を以て実を失う人心を削て身を失わず寺塔を焼き尽さずして自然に之を喪す其の失前代に超過せるなり、我が門弟之を見て法華経を信用せよ目を瞋らして鏡に向え、天瞋るは人に失有ればなり、二の日並び出るは一国に二の国王並ぶ相なり、王と王との闘諍なり、星の日月を犯すは臣・王を犯す相なり、日と日と競い出るは四天下一同の諍論なり、明星並び出るは太子と太子との諍論なり、是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(0336:14)。

 歴史上、二つの太陽が出現したという例は、少なくない。二つの太陽だけではなく、三つ、五つ、まれには七つ等と、出現する場合もある。また太陽ばかりでなく、月も二つ三つ等と出現するのである。むろん一つがほんもので、あとは幻日といわれるものである。

 近年では、大正15年(1926816日の夕方のこと、和歌山市の西空白雲の中に火の玉現われ、天に二日の奇観を呈したという。昭和4年(1929131日の朝、熊本地方では太陽と並んで二つの光が現れ、あたかも三つの太陽を望むようであつたという。また昭和33年(1958)にも、長野県で二つの太陽が現われ、その写真が新聞に掲載されている。

 こうした現象は、外国にもあり、ソビエトの科学界説者ヴ・ア・メゼンツェフは、次のように述べている。

 「たとえば、1928年の春、スモレンスタ州のベールイ市で、珍しい暈が、実際に観測されたことがあった。朝の8時から9時頃、太陽の両側に、太陽の右と左、あざやかな虹の色に色どられた二つの太陽が見えたのである。19471128日、ポルタヴァ市で、複雑な暈が月のまわりに見えた。月は光輪の真ん中にあった。光輪の上には、右と左に、にせの月が、これは幻月と呼ばれているが、見えていた。左の幻月はとくに明るく光り、尾をもっていた」。

 これらの現象は、いったいどうして起るのか、自然科学的な立ち場では、次のように説明されている。

 まず、太陽や月にかかる暈と関係がある。暈は太陽または月の周囲に生ずる淡い光輪であり、最も普通には内暈と外暈とができる。こういう輪の中心に、コンパスの片足をすえ、ぐるっと輪をえがくと、内暈はコンパスの開き22度、外暈は46度ぐらいになる。この外に、日を貫いて地平線とほぼ平行になっているように見える白い光孤が現れる。これを幻日環という。この環と光輪の交差した場所にしばしば、強い光の斑点「幻日」や「幻月」ができるのである。

 暈は、太陽が、地上から約68キロメートルの高さに浮かんでいる。白く光る煙のような巻層雲におおわれたときに、空に現われるものである。この雲は、ごく細かい氷の結晶からできている。この結晶の形はさまざまであるが、いちばん多いのは、柱形か板形をしたものが六方体をしたものである。この氷の結晶は、気流のなかをのぼったり降りたりしながら、太陽と同じように反射させたり、プリズムと同じように屈折させたりするのである。そのなかにある結晶から反射させた光線が、われわれの目に落ちてくる。それが暈となって見えるのである。また、地平線と平行して現われる光孤はどうして起こるか。これもまた同じ原理で、太陽の光りが、まっすぐに立った形で大気中を浮遊している。氷の六方晶体の側面に反射したときに起る現象である。

 こうした結晶の反射によって、あたかも鏡のなかで電球の映像を見るごとく、太陽が実際ある場所とは違ったところに見えるわけである。

 このように経文に説かれている現象が、自然科学的な立場から説明される。だが、もとより、二つあるいはそれ以上の太陽が現われた、という事実をこれで全面的に説明できたと考えるのは誤りである。あくまでも、分析と総合という科学の目からみた説明であり、その事実のある面を説いたに過ぎない。

 仏法はこうした宇宙現象を、単なる孤立した現象としてのみとらえるのではなく、それと人間生命との関係性を説き、さらに大宇宙の十界を論じ、われわれの10界の生命との微妙な関係をあますところなく説いた。ここに仏法の偉大さがあり、全宇宙まで通じうる人間生命の尊さ、大きさ、力強さが説かれているのである。

 これについては、すでに第二段第一章において詳しく述べたとおりである。ここでは、あくまでも経文の原理が、架空のものではなく、厳然たる事実であることを述べるに止める。

 

薄蝕恒無く

 

 「薄蝕恒無く」とは、しばしば太陽や月が光を失い、日食や月食が並び起ることをいう。太陽や月が光を失うのは、もやがかかったり、塵挨が光をさえぎったり、また火山灰が成層圏中で薄い層をなして、光線を妨げたりする場合である。

 最年のではあるが、ペレー・サンタマリア・コリマの噴火のあった明治35年(1902)と、カトマイ噴火のあった明治45年(1912)に、太陽の光がさえぎられたり、ビショップ・リングなどが現われ、日照量が20%近く減少し、いずれも東北地方に凶作をもたらしている。また昭和37年(1962612日には焼岳が爆発して降灰させ、同629日には、北海道の十勝岳大噴火をし、多量の降灰を長時間にわたって降らせた。

 同年824日には三宅島が22年ぶりに大爆発し、噴煙は5000mに達し、同島北岸の観測所では降灰が1cmに達した。翌38年(1963317日には、バリ島のアグング火山が大爆発した。このためインドネシアでは、1500人もの人が、溶岩と熱い灰をかぶって死んだ。この火山灰が高く成層圏までのぼり、日射に影響を与えている。同年8月以降、アイスランド南西海岸近くでの地殻の割れ目に、海底からの火山爆発があり、このときの噴煙もかなり高度に達しており、高緯度地方の日射にかなり影響を与えたと考えられている。これらの一連の爆発が原因となり、昭和38年(19631月以来、数万年に一度といわれるような異常気象を示し、各地に被害を及ぼしている。

 

日食・月食

 

 次に日食や月食についてであるが、まず日食は太陽と地球の間に月が位置し、そのために太陽が欠けることによって起る。正嘉元年から文応元年までの間に日食があったと記録されているのは、正嘉元年(125751日と文応元年(126031日の二度である。ただし限られた文献から見いだしたものであり、これより他にもあったと思われる。文永年間には元年(125771日、211日、351日、3111日、451日、5101日、731日、881日、98月日、1011日と数多く来ている。「恒無く」の経文通り、異常なほどの発生数である。文永年間は、先にも太陽が二つ、三つ出現したとの例が頻発しており、また彗星も大彗星と呼ばれるような巨大なものが出現しており、あるいは、飢饉、疫病等が流行している。また、阿蘇山も2年(1258)、6年、8年と相次いで噴火しており、これによって異常な天候をもたらしたことも充分考えられる。

 また、月食は太陽と月の間に地球がはいり、月面が地球の陰に隠れることに起こる。正嘉元年(1257416日、同1016日、翌1016日、正元元年(1259415日などが記録されている。

 

黒白の二虹

 

次に「黒白の二虹不祥の相を表わし」とあるが、これはいかなるものであろうか。まず黒虹であるが、これは普通の虹ではなく、急激な気候の変化による悪気流によるようなものではないだろうか。その実例は不明である。ただ日本気象史料に「黒気」としばしばでてくるのが、あるいはこれにあたるのではあるまいか。

白虹については、宝治二年(1249)閏1216日(京都)、建長3年(12511016日(京都)、建長(12546810日(鎌倉)、弘長3年(126412日(京都)、弘安7年(128444日(鎌倉)、弘安9年(1286130日(鎌倉)、などがあるが、この記録は京都、鎌倉のみの記録で、国内の総数では、記録が不詳のため把握ることができない。

 こうした“日を貫く”とか“暈がともに出る”といった記述をみるとき、白虹というのは、いわゆる霧雨のような小さい雨滴に、太陽光線が反射してできる、いわゆる「白にじ」ではなくして、先に述べたあの「幻日環」ではなかろうか。さらにそれを証拠できるものとして、天徳3年(0960129日に京都に白虹が出現したとの記録があるが、それとともに、太陽が三つ出たとの記録もある。幻日環は、暈の一つで太陽を貫いて地平線に平行してできる光孤である。それと太陽をとりまく暈と交わったところに、しばしば幻日が現われることは、前述のとおりである。

 あるいは、さまざまな文献に「白気」というのがこれをいうのであろうか。「白気」とは、何であるか不明であるが、この中には悪気流のようなものではあるまいか。天保14年(184326日に江戸に「白気」があらわれたとあり、続徳川実紀、玉来雑記、続泰平年表では皆「白気」と記述しているのに対し、武江年表には「六日夜より、毎夜西南方の方へ白虹顕る」とあり、同じ現象を「白気」「白虹」と表現している。

 これから判断せれば、いわゆる一般の「白にじ」も白虹であり、「幻日環」も白虹であり、ときには「白気」と表現される、何か悪気流のようなものの白虹であるとして、あまり区分なく用いられたとも考えられる。

 

星流れ=流星

 

「星流れ」はいうまでもなく流星である。建長年間から文永年間に至る間に、この記述は極めておおいため、これを略す。

 

地動き井の内に声を発し

 

次に「地動き」とは、地震や地すべりのことである。これは正嘉の大地震等しばしば述べたところである。「井の内に声を発し」とは、地殻の変動に関係する現象と思われる。地震が起きると、井戸水や温泉の湧水量が急に増減したり、濁ったり、水温が変化したり、または、遠雷や大砲の音のような音を発することがある。こうした音は、短周期の地震波が、空気を振動させることによって生ずつものである。「暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」とは、第一段第一章において論じたごとくであり、まさにこの金光明経の文は、まったく、寸分も狂わず、大聖人の時代に現れているのである。ただ一回の流星とか、一回の彗星とか、そんなものではない。経文に説かれた、あらゆる悪相が、ことごとく並び起っているのである。経文は、けっして遠くの世界にあることを説いているのではない。現実のなかに、それはことごとくあることを確信すべきである。

 

仏法の予言

 

不思議なことである。釈尊と日蓮大聖人とは二千年間の隔たりがある。その経文と日蓮大聖人との間には、まったく隔たりがないのである。経文の文々句々は、ことごとく大聖人の身に、また大聖人の時代の思想に、厳然と現れている。これほど偉大なことがあろうか。これほどすばらしいことがあろうか、仏にあらずんば、誰人が、二千年後の未来を予言できるであろうか。いわんやそれを寸分もたがえず的中させうるであろうか。これ、仏法こそ生命の奥底の真実を説ききり、かつは、大宇宙の鉄則をあますところなく説き窮めた証拠なりと確信してやまない。

 およそ、科学の的中ほど、その法則なり、学説の偉大さを証明するものはない。ましてや、その予言、それが自然科学上の予言であれ、社会科学上の予言であれ、また生命の科学ともいうべき宗教的予言であれ、その根底には深遠な理解力と洞察力が必要なことはいうまでもない。

 その期間の長さといい、スケールの大きさといい、仏法で説かれた予言ほど偉大なものはない。西洋のキリスト教や、マルクス・レーニン主義などの予言は、みんな、ほとんど的中せず、仏法の予言には足元にもおよばないものである。

 

大集経に説かれている五五百歳

 

釈尊は、三ヶ月後の涅槃を知り、また付法蔵に予言したことも、ことごとく的中し、大集経の五箇の五百歳も、また、安国論に引用されている四経の明文に説かれた予言も、さらには、法華経勧持品、その他涅槃経に説かれた、御本仏出現の際の末法の世相も、寸分も狂いなく事実となって現われている。

 まず、大集経の五箇の五百歳についていえば、釈尊は、自分の滅後を次のように五百年ごとに区切っている。

第一の五百歳──解 脱 堅 固─┬─正法千年

第二の五百歳──禅 定 堅 固─┘

提三の五百歳──読誦多聞堅固─┬─像法千年

第四の五百歳──多造塔寺堅固─┘

第五の五百歳──闘 諍 堅 固───末法の初め

 この大集経の予言と、インド、中国、日本の三国における仏法流布の歴史とを照合すると、ぴったりとあてはまっているのである。

    ①正法前五百年(解脱堅固)

 解脱堅固の時とは、釈尊滅後五百年において、衆生が小乗経を修し、戒律をたもって解脱を求めた時代である。滅後正法千年は付法蔵二十四人が正法を弘通したが、摩訶迦葉から不法蔵第十の富那奢までは小乗経をひろめたのである。迦葉二十年、阿難二十年、商那和修二十年、優波崛多二十年、提多迦二十年の最初百年は、まったく小乗経のみをひろめ、弥遮迦、仏駄密多、脇比丘、富那奢等は、大乗経の法門は少しは含めたが、大部分は小乗経を表として弘通した。この解脱堅固の時には、四回の仏典結集があり、阿闍世王、阿育王、迦膩色迦王の守護のもと仏法が興隆した。

    ②正法後五百年(禅定堅固)

 この時代は権大乗がひろめられ、衆生は大乗を修して、深く三昧に入り、心を静めて思惟の行を行なった。付法蔵第十一の馬鳴から二十四の師子尊者に至るまで大乗をひろめたが、特に諸小乗を破し、大乗を宣揚した論師に、馬鳴、竜樹、無著、天親などがいる。馬鳴は仏滅後六百年ごろに出て、大乗起信論を著わし、滅後七百年ごろに出た、竜樹は大智度論百巻、中論四巻、十二門論一巻等を著わした。その弟子提婆も百論二巻を著わしている。滅後九百年ごろに出た無著・天親の兄弟は、無著は摂大乗論三巻、瑜伽師地論百巻等を、天親は千部の論師として摂大乗論釈、唯識三十論頌など小乗五百部、大乗五百部を著わして、大乗の教えをおおいに称揚したのである。

    ③像法前五百年(読誦多聞堅固)

 この時代で、まず特質すべきことは、後漢の明帝の永平10年(0067)に仏教が中国へ渡来したことである。これをきっかけとして、読誦多聞堅固の名を示すとおり、経典の本訳事業や講説、解釈などが盛んに行われた。バルチアの太子であった安世高、月氏国の支婁迦識や唐僧鎧、支謙など、本訳にたずさわる人がふえてきた。敦煌出身の竺法護は、優秀な助力者とともに正法華経等百五十四部三百九巻の経典を訳した。

 このようにして盛んになってきた経典翻訳は、鳩摩羅什にいたって頂点に達した。羅什はそれまでの誤訳、抄訳の多かったものとは比べものにならない完全な訳を数多く行ない、なかでも珠玉のごとき名訳といわれているのが妙法蓮華経である。羅什以後、法顕、仏陀跋堕羅、曇無識、真諦、玄奘などが出ている。

 この時代のおわりころ、538年、荊州で生まれた天台大師は、南岳大師に師事して法華の奥義を悟り、瓦官寺に八年間住して、大智度論などを講義した。その後、有名な文句、玄義、止観を講述して、理の一念三千の法門を立てた。読誦多聞堅固は、このように多数の翻訳と天台大師の現代に代表されるが、その他、仏図澄、道安、羅什などにより、おおいに仏教講義が行われた。

    ④像法後五百年(多造塔寺堅固)

 唐代にはいり、玄奘がインドから経典を持ち帰り漢訳した。以後、法相宗、三論宗、華厳宗、真言宗が中国全土にひろまり、多くの寺塔が建立された。そのため、この像法時代は形だけは正法時代と似ていたようだが、内容的には仏法は堕落していった。やがて唐朝は衰亡していった。北宋の時代にはいって、太宗は詔勅を出して廃寺を修治し、仏像の造立を許し、阿育大王の造塔にならって八万四千の塔を造立した。しかし、仏法の中心は日本に移り、この時代の特徴は、むしろ日本において顕著にあらわれている。

 552年、すなわち仏滅後1500年ごろ、人王30代の欽明天皇の代、百済の聖明王の使者により経論、釈迦像、僧尼等が献上された。仏教伝来以来、本格的に信奉されるようになったのは、聖徳太子の時からである。太子は勝鬘経、維摩経、法華経の義疏を顕わし、この三経を鎮護国家の法と定めて、篤敬三宝を根底とする十七条憲法を制定した。このころから造寺造仏が盛んになっている。崇峻天皇から推古天皇時代にかけて建立された飛鳥寺、太子建立の七大寺といわれる四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、峰丘寺、池俊寺、葛木寺などが有名である。

 その後、奈良時代にはいり、聖武天皇は仏教を重んじて諸国に国分寺、国分尼寺を建て鎮護国家の道場とし、総国分寺として東大寺を建立した。またこの時代に、苦労して来日した鑒真は小乗の戒壇を建立している。平安の桓武天皇の代には、伝教大師が南都六宗を公場対決で破って、812年に叡山に迹門の戒壇を建立した。

    ⑤末法始五百年(闘諍堅固)

 これについては、第一段第一章に詳論したとおりである。宗教界の乱脈、民衆の無智につけこむ迷信の横行、人心の極度の動揺、血なまぐさい殺戮につぐ殺戮の歴史、はては親兄弟同士が互いに戦い、殺し合う、三悪道、四悪道の巷、三障七難が荒れ狂い、呆然としてなすすべを知らぬ民衆、これが、末法の初めの五百年の世相であった。

 

末法の御本仏出現

 

しかしながら、この乱れきった時代にこそ、その衆生の闇を晴らすべく、末法の御本仏が出現し、太陽のごとき大正法が流布することも、法華経の厳然たる未来記である。勧持品の三類の強敵といい、あるいは神力品の別付属、薬王品の広宣流布の金言にせよ、ことごとく、大聖人の出現と大正法の流布への絶対の確信がこめられている。されば、像法出現の天台にせよ、妙楽にせよ、伝教にせよ、末法を恋い慕い、大正法にめぐり会えることを心から願求しているのである。もしも大聖人の出現がなければ、釈尊の未来記はことごとく虚妄となり、天台、伝教の言もむなしいものとなろう。

 大聖人は、仏の金言を証明しているのは、自分以外に絶対はきことを諸御書に経文を引き、釈を示し論をあげて、宣言されている。

 「疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」又云く「数数擯出せられん」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石をもつて 之を打擲す」又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云、此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し、時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん、難じて云く汝は大慢の法師にして大天に過ぎ四禅比丘にも超えたり如何、 答えて云く汝日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり、我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり、然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」(0507:10

 「而るに日蓮二十七年が間.弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1189:13

 これは、日蓮大聖人こそ、経文どおり出現した末法の御本仏であることを断言された、明らかな御文である。しかして、大聖人はいたるところで「一閻浮提第一の聖人」といわれ、下山抄には「教主釈尊より大事なる行者日蓮」と仰せられ、また、法華経その他で、釈尊を一劫の間、身口意の三業で供養するよりも、末法の法華経の行者である日蓮大聖人を、継母が継子をほめるがごとく、戯論の一言でも、ほめ、供養する功徳が百千万億倍すぐれているとまでいわれているのである。

 

大聖人御在世中における予言的中

 

 されば、日蓮大聖人の御予言は、在世中においても、滅後においても悉く的中しているのである。撰時抄にいわく「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり」(0287:08)と。聖人とは、将来に起るべきことを知り、それをどう対処すべきかの方途を知られた方であり、さらに、過去、現在、未来の三世を通暁して誤りなく、遠き未来を見通される方をいう。

 しかして、さらに「余に三度のかうみようあり」と述べられ、幕府に対し、三度にわたって国諫をなし自界叛逆と他国侵逼の二難の予言が的中したことをあげられている。すなわち、日蓮大聖人こそ未萠を知り、三世を知られた聖人であることは明白なのである。

 三度の高名とは、まず第一に、文応元年716日に立正安国論を北条時頼に奉った時に、宿屋入道に対し、自界叛逆と他国侵逼の二難を明言された。種種御振舞御書にいわく「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし」(0909:01)と。

 仏の未来記とは、いうまでもなく正像末の三時にわたる予言である。安国論はその「仏の未来記にもをとらず」と確言されているのである。また安国論奥書にいわく「此の書は徴有る文なり」(0033:06)と。

 第二に、文永8912日、竜の口の法難の際、平左衛門尉に向かって自界叛逆と他国侵逼の二難のあることを断言された。その時「遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし」(0911:11)と厳然と戒められたのである。

 その予言のどうりに、佐渡御流罪後、100日目の文永9年(1272211日に北条時輔を誅殺するという内乱が起き、同じく3年後、文永11年(127410月と、さらに7年後の弘安4年(12817月には、元の大軍が襲来し、大戦乱となったのである。

 特に自界叛逆について佐渡御書にいわく「宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、金光明経に云く「三十三天各瞋恨を生ずるは其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし 実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん」(0957:13)と。

 今年とは文永9年であり、いわゆる二月騒動である。日妙聖人御書にいわく「当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217:12)と。この合戦もまた同じ事件である。

 第三に文永11年(127448日平左衛門尉頼綱に面会のおり、頼綱が蒙古がいつ攻めてくるのかと大聖人に尋ねたのに対して、今年こそ攻めてくると断言され、そのとおり的中し、その年の11月に蒙古軍が押し寄せてきたのである。

 撰時抄にいわく「去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも 今年はすごし候はじと語りたりき」(0287:11)と。

 

滅後における予言の的中

 

 さらに日蓮大聖人の滅後においても、その予言はことごとく的中している。第四段第三章に詳論することにするが、大聖人をさんざんに迫害した平左衛門尉は、大聖人滅後12年にして一族が滅亡したのである。そのいきさつについてはここでは略すが、あれほど栄耀繁栄をほしいままにした平左衛門尉の末路はあまりにも悲惨であった。

 日寬上人は平左衛門尉が首を斬られたのは、日蓮大聖人の顔を打ったゆえである。最愛の次男が首を斬られたのは、大聖人の御頸を刎ねんとしたゆえである。長男が佐渡へ流されたのは、大聖人を佐渡へ流したゆえであると仰せである。

 大聖人は、すでに建治三年の下山御消息に「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散に蹋たりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(0363:01)と仰せられていたのだった。

 その頃の平左衛門尉の表面は権力絶大であり、華やかであった。だがその時の大聖人は、平左衛門尉の本質が、ただ滅亡に向かう生命の本質であることを見破っておられたのである。また、文永9年(12722月、鎌倉において、北条一門の同仕打ちがあったが、これを大聖人は華報とされ「実果の成ぜん時いかがなげかわしからんずらめ」と心配された。だが、大聖人滅後52年にして、元弘3年(1333522日、北条一門はことごとく滅亡し、鎌倉幕府はここに倒壊し去ったのである。

 さらに大聖人は末法の御本仏として広宣流布の未来記を厳然とのべられている。

 

日蓮大聖人の御本仏としての御確信

 

 しからば、その末法の御本仏の未来記いかん。顕仏未来記にいわく「問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508:10)と。

 すなわち、大聖人の仏法は、日本に広宣流布し、のみならず、日本より起こった、この仏法が、必ず西へ西へと滔々と流れてゆくことを予言されているのである。この顕仏未来記は、大聖人が佐渡の地において認められた。

0017~0033 立正安国論 0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引 0018:13~0019:03 第三章 経証の二 大集経

00170033 立正安国論 0017:150020:13 第二段 災難由来の経証を引 0018:130019:03 第三章 経証の二 大集経

 

本文

 

 大集経に云く「仏法実に隠没せば、鬚髪爪皆長く、諸法も亦忘失せん。当の時、虚空の中に大なる声あつて地を震い、一切皆遍く動ぜんこと、猶水上輪の如くならん。城壁破れ落ち下り、屋宇悉く圮れ圻け、樹林の根・枝・葉・華葉・菓、薬尽きん。唯浄居天を除いて、欲界の一切処、七味・三精気損減して余有ること無く、解脱の諸の善論、当の時一切尽きん。所生の華菓、味希少にして亦美からず。諸有の井泉池、一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、歒裂して丘澗と成らん。諸山皆嫶燃して、天竜雨を降らさず、苗稼皆枯れ死し、生いたる者皆死れ尽きて余草更に生ぜず。土を雨らし、皆昏闇にして、日月明を現ぜず。四方皆亢旱して、数諸の悪瑞を現じ、十不善業の道、貪・瞋・癡倍増して、衆生の父母に於ける、之を観ること獐鹿の如くならん。衆生及び寿命、色力・威楽減じ、人天の楽を遠離し、皆悉く悪道に堕せん。是くの如き不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊し、天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍する者、此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん」已上。

 

現代語訳

 

 大集経には次のように述べている。

 正しい仏法が隠没すれば、鬚や髪や爪を皆だらしなく伸ばし、世間の諸法もまた忘失するであろう。そのとき、空中に大きな声があって、地が震い、地上のいっさいのものがあたかも水車が回るがごとく動転する。城壁は破れ落ち、人家はことごとく破れ崩れ、また樹木の根、枝、葉、花びら、菓、それらに含まれる薬味がなくなってしまう。ただ浄居天という天界を除いて、色界・欲界のいっさいの七味・三精気が損減して生命を養うことができなくなる。人を悟りに導くもろもろの善論も、そのときにはいっさい失われてしまう。地に生ずる華果もごくわずかで味もまずく、あらゆる井戸や泉や池もことごとく乾いて、土地はすべて荒地となり、地割れがして、でこぼこになってしまう。諸山はみな焼けて雨は降らず、苗もみな枯死し、生ずるものはみな枯れ尽きて、余草もいっさい生じない。大風が吹いて、土を巻き上げてふらし、そのために空は暗くなって日月の光も見えない。

 かくて、四方は皆ひどい旱魃となり、もろもろの悪い瑞相が現れ、十不善業、なかでもとくに貪・瞋・癡が倍増して、人びとは父母に対しても、獐鹿のような恩知らずの行いをする。その結果、衆生の寿命も減じ、体力も威光も楽しみも損減し、人天の楽しみを遠く離れて、皆ことごとく悪道におちてしまう。このような不善業の悪王、悪僧がわが正法を破り、天界、人界の道を損減し、諸天善神の梵天、帝釈、四天王などの衆生を哀れむべき善王も、この濁悪の国を捨て皆ことごとく他方へ向かうであろう。

 

語釈

 

大集経

 大方等大集経の略。中国・北涼の曇無讖らの訳。六十巻。欲界と色界の中間にある大庭とされる大宝坊等に、広く十方の仏菩薩を集めて説かれた大乗の諸経を、一部の経としたもの。国王が仏法を守護しないなら三災が起こると説く。また、釈尊滅後に正法が衰退していく様相を五百年ごとに五つに区分する「五五百歳」を説き、これが日蓮大聖人の御在世当時の日本において、釈尊滅後二千年以降を末法とする根拠とされた。

 

鬚髪爪

 ひげ、かみ、つめ。「鬚髪爪皆長く」とは、風俗が乱れ、礼儀が廃れることを意味する。ここでは、三毒の増長を意味するのであり、髪は貪り、爪は瞋り、鬚は愚癡をあらわす。

 

樹林の根・枝・葉・華葉・菓、薬尽きん

 根、枝、葉、華葉、菓のそれぞれから採れる薬が、みな尽きてしまうこと。現代の化学薬品が出現する以前は、薬草が唯一のたよりであったから、その存在はもっとも貴重であった。仏法が隠没すれば、こうした薬味も尽きるのである。

 

浄居天

 天界の内の色界の最上にある天。

 

七味

 甘い・辛い・酸っぱい・苦い・塩っぱい・渋い・淡いの七種の味。

 

三精気

 大地精気(大地が植物を育む力)、衆生精気(自他を利し育む力)、正法精気(人々に得道させる力)。これらの三精気を盛んならしめる本源は妙法にある。

 

土地悉く鹹鹵し、歒裂して丘澗と成らん

 鹹鹵とは、塩分が強くて作物ができないことをいう。鹹は「しおからい」、鹵は「塩気を含んだ不毛の地」。歒裂とは、裂けて割れ目ができること。経文には「剖」とあるが、大聖人の御真筆には「歒」となっている。丘憪は、大地に高下ができることを意味する。丘は「小高い土地」、澗は「谷」「谷川」。

 

十不善業

 身口意の三業にわたる、最も甚だしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。身の三種、口の四種、意の三種、合計十種の悪業をいう。十悪ともいう。①殺生、②偸盗、③邪婬、④妄語、⑤綺語、⑥悪口、⑦両舌、⑧貪欲、⑨瞋恚、⑩愚癡、または邪見。

 

獐鹿

 鹿の一種で、この鹿は他のものに追われて身に危険が迫ったとき、自分だけ助かることを望んで、父母や仲間のことは少しも顧みないで逃げ去るといわれる。このことから、ここでは、父母のことを少しも顧みない不孝者の譬えに引かれているのである。

 

講義

 

 大集経においては、仏法が隠没すればいかなるとが起こるかが説かれている。

 仏法の乱れが、実に一切の乱れ、不幸の根源であるがゆえに、まず「仏法実に隠没せば」との文が最初にきているのである。

 

仏法実に隠没せば

 

 今日、日本および東洋をみるに、寺も多く僧侶の数も少なくない。宗派は多数あって、一見、仏法はまだ盛んであるかのように見える。しかし、これは、単に仏教の形骸が残っているにすぎない。僧侶は葬儀と法事にのみ必要なものであって、墓番といってもさしつかえないほど、仏法上、有名無実の存在である。社会的にもなんら貢献するところがない。みずから確固たる思想もないがゆえに民衆を指導し、救済する等ということは思いもよらない。一種の乞食であり、社会的には、社会の反対給付のない居候同然であり、さらにいえば寄生虫のごとき存在である。

 乞食といえば、本来は釈尊の時代に、乞食の行といって威厳のある行であった。民衆をして布施の志を起こさしめて、善根を植えしむるのであった。されば乞食の行をするときには衣を整え、威風堂々と師子王の歩みをなして家々を訪れ、あえて礼をとらず一鉢を差し出すのである。訪れた家では、その鉢へ食物を入れるのである。もし家人が振り向かないときは、錫杖を鳴らして気づかせるのである。食物の布施を受けても礼をいうこともなく、くるりときびすをめぐらして、威風堂々と帰るのである。

 そして、川辺に至って、手を洗い口をすすぎ木の下に帰って、飢饉の時にわが子の肉を食うがごとき思いをなして、量の多少、味の良し悪しを絶対に考えることなく、感謝して食するのである。かかる気持ちがあったとしても、乞食の行は釈迦時代の遺物があって、今日の仏法の修行ではない。しかし、この修行ですらできない悪侶の充満しているのが、今日の仏教界の状態である。自分の利益のみをむさぼるように追い求め、自己保身にやっきとなっているのである。ただ形式的に経を読み、寺があり、僧侶がいるというにすぎない。その経すら末法の民衆を指導し救済するものではなくて、むしろ邪道に堕するものである。いわんや最近では、観光化し、見世物化・営業化した寺院も少なくない。これ「仏法隠没」といわずして何であろうか。

 さらに、既成仏教の頽廃は、今日のごとき、いかがわしき邪宗教の氾濫を惹起したのであった。彼らは互いに利害のために手を結び、創価学会の折伏を必死になって食い止めようとしている。だが所詮、彼らの策動は、あたかも大風の前の塵のごとくはかなきものであり、あがけばあがくほど、還著於本人の方程式どおり、自分自身を必死に追いやるのは必定である。

 まことに仏法の真髄は創価学会にしかない。その活動をはばむようなものがあれば、それこそ仏法を破滅させる魔の姿であり、もし、かってのごとくあえて国家権力をもって、阻止しようものならば、終戦後のように「仏法実に隠没せば」の経文が、たちまちに眼前に展開され、民衆の苦悩の深淵のなかへと進ませる結果となろう。やがて、再び国は滅び、悲惨の極地に至ることも、経文に照らし、大聖人の御文に照らし、あまりにも明らかである。

 

鬚髪爪皆長く

 

 これは、風俗の極度の紊乱を意味する。およそ色法と心法とは不二である。風俗の乱れは、実に人々の心の乱れである。人間が身だしなみを整えることは、自然の姿である。だが心が阿修羅のごとく、餓鬼道のごとく、また地獄の苦悩に沈むとき、それ相応の姿となる。まさに鬚髪爪皆長くという姿は、古来、法滅の相としているゆえんである。

 日寬上人の文段には、これは、三毒を増長をたとえるものであるとして次のように仰せである。

 「問うていうには、この鬚髪爪の三つの表示はいかなる意か。答えていうには、一義には、これは三惑増長を表わす。すなわち髪とは見思惑。鬚とは塵沙惑。爪とは無明惑。真言ではこれを三妄執という。すなわち麤妄執、細妄微、微妄執である。今いわく、もし当分にあたっては、恐らくは、鬚髪爪皆長くとは三毒増長を顕すか。すなわち髪は貪を表わす。見て愛を生ずるゆえである。爪は瞋を表わす。堅利なるゆえである。鬚は癡をあらわす。要覧上には次のようにある。『その好形を毀ち鬚髪を剃徐する。過去の諸仏は即ち発願していうには、今落髪ゆえ、願わくは一切衆生の煩悩を断徐せんと、今この鬚髪を彼の煩悩にたとえる』等云云。いま下の経文にいうには、貧瞋癡倍増して等と云云。これ思うべきである」と。

 かくのごとく、一義には髪は見思、鬚は塵沙、爪は無明の三惑をあらわすといい、また一義には、髪は貪り爪は瞋り、鬚は癡の三毒をあらわすともいう。本来、髪や鬚や爪は、おしゃれのポイントであり、これらを極端に飾りたてることは、仏弟子にあらざる妄執である。逆に、これらをだらしなく伸ばすことも、また風俗の乱れ、心の乱れにほかならない。ゆえに、鬚髪爪をもって、三惑、三毒にたとえられたのである。

 今日の風俗の乱れは、まことに目にあまるものがある。目的観の喪失、既存の体制、既存の道徳に対する不信と疑惑は、人々に深刻な精神的動揺と混乱をもたらしてしまった。多くの人は、あせり、あがき、そしてやがてその心を紛らわさんがために、刹那主義に流れ、ほんのわずかな時間の亨楽にふけるのである。あらゆる人間の作品は、人間の心の所作である。されば今日の文学にせよ、絵画にせよ、音楽にもせよ、そうした民衆の心を強く反映しているのである。文学も、今後数百年にわたって、民衆の心の中に流れゆくような生命をもった作品は皆無に等しく、いたずらに民衆のあせり、あがき、頽廃的な風潮に迎合し、それをむしろ助長するがごときである。いわんや一般の言論界の悪幣はいうまでもない。絵画は、神経質な、また錯綜し、混乱した人間感情のあらわれのごとく、音楽もまた、民衆に喜びと希望と潤いを次への建設の力を与えるものではなく、ただ、本能的興奮や焦燥と頽廃のリズムにひたり、または亡国の哀音をかなでている。

 御書にいわく「音の哀楽を以て国の盛衰を知る詩の序に云く治世の音は安んじて以て楽しむ其の政和げばなり乱世の音は怨んで以て怒る其の政乖けばなり亡国の音は哀んで以て思う其の民困めばなりと」(0088:17)。

 

諸法も亦忘失せん

 

 これは、思想の乱れ、道義の頻発、国法の乱脈である。すなわち、民衆の心を先導すべき確固たる思想もなく、また、民衆の道義は、もはや地に落ち、心は極度に疲弊し、不安と焦燥と頽廃のムードが一国にまなぎっている。そして、国法においては、戦争否定の平和憲法は、いたずらにふみにじられ、また、幾多の悪法の樹立を試しみる、陰険な策謀等等、善法を骨抜きにし、悪法を横行させんとする動きがあるではないか。これ、民衆の幸福を奪い、民主主義を略奪する以外なにものでもない。

 ここに、真に正しき思想を民衆の心に植えつけ、人間革命を教え、善法を擁護し、悪法を挫くのでなければ、いかなる世相が現出するであろう。けっして過去の悪夢を忘れるべきでなく、また悲惨な諸外国の民衆の苦悩を遠くに思うべきではない。

 

当の時虚空の中に大なる声あつて地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん・城壁破れ落ち下り屋宇悉く破れ圻け樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽きん

 

 この文について日寬上人は次のように述べられている。

 「註にいわく『天雷地に徹してその輪転ずることなお水草のごとし』と云云、健にいわく『昔・天狗流星というもの響き亘りてありけり』と云云、弘の五の中三に『天狗流行し地数ば振動す』と文、健の意はこの文に依るか、この義大旨に応うなり」

 すなわち、ここに「天狗流星」、「天狗流行」とあるが、これは、あるいは隕石ではあるまいか、先に火球としてしめしたのがこれであるとも考えられるのである。

 ロシアの昔話では、火球を「空をかけるゴルイヌイチという火をはく巨大な竜」として語られている。一例あげると、1091年の年代記には「…空から巨大な竜が落ちてきた。人は皆ふるえあがって驚いてしまった。その時、大地にぶつかる大きな音がとどろきわたり、多くの人々の耳をつんざいた」と書かれてあるとのことである。

 中国では、これを天狗と考えたのではあるまいか。

したがって「天雷地に徹し」とは、火球が落ちたことを意味するのであろう。また「虚空の中には大なる声あって」とは、前述のごとく火球が消えるときに、爆発が、砲撃のような強烈な打撃音が起こり、雷鳴を想わせるような轟きが聞こえるが、このことではあるまいか。この時、地震のように、大きく大地がゆれ動くことは事実である。

 先に1908年にシベリア北部の森林に火球が落ちた例をあげたが、その時に森林は、広い地域にわたってなぎ倒され、破懐されてしまった。落下地点の近くにいた人々は、爆風ではねとばされたのである。また大地は、全世界にわたって地震のように感じられたほど、大きくゆれ動かされた。爆発の音は1km以上離れたところでも聞くことができたとのことである。

 遠き古代においては、きわめて巨大な隕石が盛んに落ちたとも考えられる。中国等においても、その隕石が発屈されている。

 だが、今日では、この一節はむしろ地震のことであると考えてよかろう。なぜならば、今日に至るも、否、今日さらに地震はきわめて恐ろしいものである。

 この場合「虚空の中に大きな声あって」とは、しばしば遠雷のような地鳴りがすることは、各地で体験されているが、このことと考えてよかろう。

 最近では、昭和40年(1965)から長野県・松代町で起こっている一連の地震に際して、無気味な地鳴りが絶え間なく響き、住民を不安におとしれたことが報道されている。この立正安国論を勘え始められる動機の一つとなった、正嘉元年(1257823日の大地震について、吾妻鏡は、次のように記している。「二十三二日、乙已、晴、戌刻、大地震、有音…」と。また、翌21216日の地震については「天晴、寅を雷鳴と勘違いして、このように記されたものとも考えられるのである。「地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん」とは、きわめて大きな地震である。関東大震災のごときものか。あるいは、さらにその倍も、三倍も激しいものであろうか。いずれにせよ凄惨な光景である。

 地震があると、眼前にすさまじい光景が展開される。石の山に変わった家、山くずれ、土砂で埋められた河底、大地の深い亀裂、あらゆるものを灰にしてしまう火事、被害者の死骸等々と。また津波の被害も大きく1755年にリスボンでは、30mあまりの高さの津波が岸を襲い、60000人の人を水に沈め、何百という建物を崩壊し去ったのであった。

 また、地震や風水害等の天変でなくとも、最悪の人災たる戦争により「城壁破れ落ち下り屋宇悉く破れ圻け樹林の根.枝・葉.華葉・菓・薬尽きん」という惨憺たる様相となる。第二次世界大戦における、あの目もあてられぬような、破懐し尽くされ、焦土と化した欧亜の世界、また、原爆直下の広島、長崎の、地獄絵図、これらのかっての事実は、まさしく文のとおりではないか。

 

唯浄居天を除いて欲界の一切処の七味・三精気損減して余り有ること無けん

 

 これは、一切の民衆が楽しむべき生活がなくなるということである。今日、物価は上昇の一途を辿っているにもかかわらず、一般の人々の所得の上昇は、それに追いつけず、相変わらず、苦しい生活を続かているのは、まことに嘆かわしい。日本はまだしも、インドや東南アジアの国々の一般民衆の生活にいたっては、乞食同然である。また、太平洋戦争中の極度に追い詰められた生活は、この文のとおりであった。それに比較すれば、現在はまだ、無事平安ともいえよう。だがもし「仏法実に隠没せば」再び、われわれは、楽しみも、潤いもない、殺伐たる時代へと没入し、あるいは飢餓の死線をさまようことにもなりかねない。まことに恐ろしいことではないか。

 「唯浄居天を除いて」の浄居天とは、大集経に説かれているが、法華経の立場からいえば「大火所焼時、我此土安穏」の仏国土と考えるべきである。

 「三精気」とは、衆生精気、地精気、法精気のことである。まず衆生精気とは、人間、社会それ自体の生命力であり、一国の興亡、民衆の盛衰を決する、根本の生命力である。その生命力が極度に衰えてしまうというのである。これ、方便品に「五濁」とあるなかの衆生濁にあたるものである。この衆生社会全体の生命力の損耗は、実に一人一人の人間生命の濁りによるものである。私利私欲にふけり、また我慢執着の念にかられ、そこにおのずと醜い闘争が繰り広げられるであろう。政治は乱れ、生活は破懐され、社会全体は停頓し、民族は興隆の息吹がなく、やがて亡国の憂き目にあうのである。

 地精気とは、国土それ自体の生命力である。もしも、国土それ自体の生命力が、真に旺盛で、リズムに適ったものであれば、五穀は豊かに実り、木々の緑は、人々に新鮮な空気と希望と潤いを与え、水は清く、美しい、草花は、芳香をただよわせ、あたりはさながら楽園となるのである。総勘文抄にいわく「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す」(0574:14)と。まことに、真の仏国土であれば、国土それ自体が慈悲の姿を現ずるのである。国土もまた十界の当体である。天台大師は「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・想・性・体・力」等と述べているのである。しかして、この国土自体の生命力を真にたくましく清浄に、かつリズム正しくする本源は妙法以外にないのでる。されば、もし「仏法実に隠没」するならば、国土それ自体の生命力は衰え、地獄・餓鬼・畜生・修羅の「相・性・体・力・作」等を現じ、リズムはこわれて、疲弊し、大地は激震し、河川は氾濫し、大海は怒り狂い、風雨は常なく、時に大暴風雨を、時に大旱魃をもたらすのである。

 法精気とは、世間法、国法、より本源的には仏法の力である。世間法、国法については「諸法も亦亡失せん」のところで述べたとおりである。思想の混乱、道義の頽廃、国法の弱体化、または濫用等と、所詮これらは人間生命に巣くう偏見、邪見の産物であり、すなわち人間生命の濁りにほかならない。しかして、その底流はこれを善導すべきはずの仏法が頽廃したがゆえなのである。仏法に、民衆を救済する力なく、国法は乱れ、世間法は乱脈のきわみに達する。これ、今日の姿であり、法精気を奪われた姿ではないか。所詮、真実の仏法が隠没されたがゆえの結果である。

 

解脱の諸の善論当の時一切尽きん

 

 これは、民衆を指導するよき指導原理がなくなるということで、政治にもせよ、文化にもせよ、経済にもせよ、ことごとく行き詰りの感ある日本の現状は、これをよく示しているではないか。ここに解脱とは、苦縛を離れた悟りの境涯のことであるが、これは決して小乗経の、灰身滅智し、煩悩を離れた無余涅槃の境地をいうのではなく、煩悩即菩提であり、すなわち、われわれの立ち場でいえば、現実生活のなかに築く、真実の幸福境涯である。

 されば、解脱の善論とは、別して妙法しかないことは明瞭であるが、ここでは総じて民衆を幸福に導く、一切の指導原理をさすと考えるべきであろう。

 

所生の華菓、味希少にして亦美からず。諸有の井泉池、一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、歒裂して丘澗と成らん。諸山皆嫶燃して天竜雨を降さず苗稼も皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず

 

 これは大旱魃のことである。昔は、この被害が、民衆に決定的な打撃を与えた。だが、今日では、雨が降ったとき大きな貯水池で水をためておくため、一応、昔のように日照りによって大飢饉が起こるようなことはまずなくなっている。しかし、水に対しては飲料水としてだけではなく、工業用や発電用として、ますます需要が高まってきている。今や、水はいくらあっても足りない状態になっていることも事実である。国土それ自体は、時としては考えられないような異常なことが起こりうる。もしも、この文のごとく、大地が引き裂かれ、割れ目ができたり、さらに激しい起伏が生じるという、いまだかってないような破懐的大旱魃がおこるならば、工場の機能はまったく麻痺し、人々は水を求めて餓鬼道のごとくになるに違いない。

 さらに、それが貯水池の水も役立たないほど、相当長期にわたるならば、草木が皆枯死し、大飢饉が起こるという可能性もけっしてないわけではない。ましてや、悪政のために内政が極端におろそかになり、はては戦乱に巻き込まれるようになれば、おそらく、大旱魃は、その時とばかりに猛威をふるうであろう。いまだ日本には、このような大旱魃は起きていないが、もし真の仏法が弘まらなかったり、これを弘めるものを軽蔑し、愚弄し、これをはばむならば、必ずやこの大苦難を受けなくてはならぬのは当然である。

 

土を雨らし皆昏闇に日月も明を現ぜず四方皆亢旱して数ば諸悪瑞を現じ

 

 「土を雨らし」とは、大地が乾ききるため、土が風に舞い上げられ、降ってくることである。砂漠地帯のサンドストーム、中国の蒙古風などは広く知られている例である。また、火山の爆発で上空に吹き上げられた灰が降ってくる場合もある。重い土は早くおりてくるので、「土を雨らし」という状態になる。

 土や灰が降り泥雨がふるという記述は多い。なお、竜巻などで巻き上げられたものが、降ってくるせいか、穀物が降ってきたり、魚が降ってきたり、毛がふってきたりする場合もある。たまには隕石と思われるような大きな石が降ることも記録されている。

 空中に舞い上がった土や火山灰は、こうして一方では「土を雨らし」という現象を引き起こすが、他方、非常に軽い細かい粒子の場合、長く空中にとどまり、日光をさえぎって冷害を引き起こすことが少なくない。この場合、太陽は赤く見えたという記述がある。これ「日月明を現ぜず」である。稀に青い太陽が見られる。

 満州でこれを発見したある科学者は、その光景を次のように伝えている。

 「朝から南西の強い風が吹き、大気は流れ来る黄色い砂のために空気自身の色が黄色になったと思われるように濁って来た。戸外に出て見れば、一面の黄色のほかほとんど景色は何も見えず、ただ近いところにある樹が灰色にぼんやり見える気味わるさである。昼ごろあたりは、室のなかも赤味を帯びて来たように思えるので窓から外を眺めると、確かに大気の濁りは黄色の上に朱のような赤味を加え、空を見上げると、これまた一面に赤味がかった褐色になっている。驚いたことには、中天に青空とも思える青い色をしたわずかの部分があり、その中央に太陽は蒼ざめて、めらめらと弱く輝いている不気味さである。ちょうど赤褐色の雲の中にわずかにその青空があり、青い太陽が見えるというようで、私はすぐにこれは夕焼けの色を反対にしたようだと思った」

 土が降ったり、日月が明らかでないというのが悪瑞相であるとは、まことにもって当然至極の道理である。すなわち、なにもなくて土が降ったり、日月が光りを失ったりはしない。その現象は、実に氷山の一角であり、その背景となるものは、火山の大爆発やあるいは異常な乾燥である。さらにその奥を考えれば、国土のリズム、宇宙のリズムに異常をきたしている証拠であり、災害は災害を呼び、一時にさまざまな悪現象が並び起こる前兆といえる。さらに、国土の変化は、人間の生命状態の変化に、微妙にかつ甚大な影響を与える。したがって、戦争等の人間の破懐的な営みの瑞相でもありうる。されば、仏法においてこれらをさして「諸悪瑞」といわれたのは、まことにゆえあることではないか。これらのことがわかってきたのは、科学が発達したからである。すなわち、科学の進歩が、仏法を証明するということは、厳然とここにあらわれてくるではないか。

 

十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん

 

 まことに殺伐たる社会である。十不善業の道といい、貪・瞋・癡といい、今日、それがますます倍増している感が深い。人々は思い思いに身は、殺伐と、邪淫と強盗にふける。口には、互いにウソをつきあい、飾り立てた虚偽をいいあい、また激しい憎悪を込めてののしりあい、また、二枚舌を使って人をたぶらかしあう。心は貪欲に満ち満ち、怒りと憎悪がみなぎり、また無気力と無智と怠惰の充満せる状態となるという。まことに経文そのままではないか。今日の人々の姿を映し出してあまりなきものである。

 このような一人一人の人間の身も口も心も、まったくすさみっきり、くさりきってしまったがゆえに、それが昂じてくると、常識では意外とおもうようなことが、まるで当然であるかのごとく平然と行われるのである。

 はては、肉親同士が、あたかも他人のごとくこれを見捨てて願みなくなる。否、時としては他人以上に、激しい憎悪と嫉妬と怒りで、醜い闘争に身をついやすことさえある。はては、親を殺すなどということはあってはならないことなのに、感情にまかせて親を殺したり、また利害のうえからこれを危めたりすることは、残念ながら事実であり、ときおり、そのいまわしいニュースが報告される。これ、三世にわたって正しき真の仏法が、隠没した結果である。

 この、あまりにも非人間的な社会が現前しているのに、世の識者はこれをいかなる思想で、方途で解決できると確信しているのか。

 あるいは、いかなる実践を現実にやっているのか。世の頽廃を嘆くのは易しい。だが、いったい、だれが、これを打開するのか。

 仏法は、一人一人の人間の生命を奥底より変革する。それは道理でもなければ修養でもない。貪・瞋・癡にむしばまれた生命の奥底にひそむ、最も力強い、清浄無垢な大生命力を泉水のごとくこんこんと湧現させるものである。この、いかんなき人間性の発揚をなさしめる大正法の確立がない限り、社会の濁りを是正する道は絶対になきことを、確信してやまない。

 

衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん

 

 これは人口が減少し、一切衆生の寿命が減り、生命力が弱まり、その肉体も衰え、楽しみも、希望も、勇気もなく、健全な生活は失われ、神経衰弱症のごとき人々となる。やがて、三悪道、四悪道に堕ちこみ、長くそこから抜ききれず、闇から闇へと流浪していくことをいう。生命力の減退は、個人にとっても、民族にとっても恐るべきであるが、今日の日本民族がこの道を歩みつつあることは、嘆かわしいことである。精神病患者はもとより、潜在的な精神病にかかっている人は、恐るべき多数にのぼっていることが確認されている。みな無気力となり、若き生命の躍動も、やがて、社会悪に巻き込まれ、刹那主義におちこみ、快楽を追って、肉体と精神を損耗しつつあるのが現実なのである。

 ひるがえって、わが創価学会員の生命力溢れ、若々しく希望に輝き、美しい清らかな目をもち、勇気りんぜんと活動している姿を見よ。これこそ、新しき時代を築く力であり、全民衆が心の底から待ちこがれていた。たくましき、清純なる息吹きであろうか。やがてこの息吹きが、日本をおおい、全世界をおおって、平和な時代が築かれていくことも必然である。否、それを築くのは、その息吹を知る人の使命である。

 

是くの如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊し天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍する者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん

 

 正法毀謗の罪によって不善業の業を積み、しかして、生命の弱りきった悪王や悪い僧侶が正法を謗り、その流布を止めているから、諸天善神も、善王も、その国を捨ててしまうのである。

 「不善業の悪王」とは、まさに今日の指導者であり、なかんずく政治権力者でないか。貪・瞋・癡の三毒のままに、私利私欲にふけり、派閥抗争に明け暮れ、不生を事とし、陰険であり、善人を迫害しようとする姿は、歴然としている。しかして、かかる指導者を誕生させたのは、いったい何が原因か、それは民衆の生命に巣くう封建性である。そこに、黒々とした民衆の生命の濁りを見いだすのである。これ邪宗教、悪思想の害毒以外なにものでもない。過去幾多の人間性を無視した邪宗教、悪思想が横行してきた。無気力と廃退と狂気の温床こそ、実に、民衆の生命にくいいる邪宗教であると断ずるものである。

 また過去においても、神道におかされた指導者の頭脳は狂乱の態を示し、太平洋戦争の無残な惨状をもたらしたのではないか。無気力な民衆、それを食いちらす狂気のごとき邪宗、邪義、邪智、さらに、そこから生まれる指導者、この三拍子がそろえば、まさに地獄の火焰は、猛威をふるうであろう。亡国の姿を現ずるは必定である。されば「不善業の悪王」は「不善業の悪比丘」とともに、いたずらに、民衆の幸福への方途を説ききった大正法を穏没し、諸天善神は、ことごとく濁悪の国を捨て去り、魔来たり、鬼来たり、災起こり、難起こり、ついに国が滅びると仰せられたのである。

 ここに「正法」とは、いうまでもなく、弘安2年(12791012日御図顕の大御本尊であり、今日においては、それを奉じて立つ創価学会をはばむ行為は仏教典に照らして、明らかに「正法隠没」の行為であることは絶対であり、それがいかに悲惨な結果にもたらすかを、あえて智者に忠告するものである。

0017~0033 立正安国論 0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引 0019:04~0019:08 第四章 経証の三 仁王経」

00170033 立正安国論 0017:150020:13 第二段 災難由来の経証を引 0019:040019:08 第四章 経証の三 仁王経」

 

本文

 

 仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る。賊来つて国を劫かし、百姓亡喪し、臣・君・太子・王子・百官、共に是非を生ぜん。天地怪異し、二十八宿・星道・日月、時を失い、度を失い、多く賊の起ること有らん」と。亦云く「我今五眼をもつて明らかに三世を見るに、一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍えしに由つて、帝王主と為ることを得たり。是を為て一切の聖人・羅漢、而も為に彼の国土の中に来生して、大利益を作さん。若し王の福尽きん時は、一切の聖人皆為れ捨去せん。若し一切の聖人去らん時は、七難必ず起らん」已上。

 

現代語訳

 

 仁王経にはまた次のごとくいわれている。

 国土が乱れるときは、まずその前に鬼神が乱れる。鬼神が乱れて万民を悩ますがゆえに、万民が乱れるのである。そのゆえにまた、他国の賊が国内を劫掠してきて、万民、百姓が殺害され、臣、君、太子、王子、官吏が互いに意見の不一致を起こして相争うであろう。また、そのときには、天地に常とちがった種々の怪しい現象が起こり、天の二十八宿、星の運行、あるいは太陽や月が常軌を逸し、国に多くの賊が起きて、人民は非常な苦しみをうけるであろう。

 また同じく仁王経にいわく。

 仏がいま、五眼をもって明らかに過去、現在、未来の三世をみるに、世のいっさいの国王は皆、過去世に五百の仏に仕えた功徳によって帝王となることができたのである。この功徳のゆえに、いっさいの聖人や羅漢が王の国土に生まれて来て国王を助け、大利益をなすのである。もし王が善根を積まないで福運が尽きてしまうときには、いっさいの聖人はその王の国土を捨て去ってしまう。もし聖人が去るときには七難がかならず起こるであろう。

 

語訳

 

仁王経

 後秦代の鳩摩羅什訳の仁王般若波羅蜜経 二巻と、唐代の不空訳の仁王護国般若波羅蜜多経二巻とがある。サンスクリット原典もチベット語訳も現存しておらず、中国撰述の経典とする見解がある。内容は正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。

 

二十八宿

 インド・中国に古くから用いられた天文説で定められた二十八種の星座のこと。月が天を一周する間に、西から東へ一日に一つずつ黄道付近にある星宿に宿していくとして定められたとされる。二十八宿経、摩登伽経、宿曜経などで説かれる。宿には星のやどりという意味があり、中国の史記にも「二十八舎、即ち二十八宿の舎る所なり」とある。宿曜経巻下によれば、インドでは牛宿を除く二十七宿であったという。

 

五眼

 物心にわたって物事を見極める五種の眼のこと。肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼をいう。

 

講義

 

 仁王経では、あらゆる混乱のはじまりは、鬼神の乱れからくるとしている。

 

国土乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る

 

 仏法でいう「鬼神」とは、「鬼とは命を奪う者にして奪功徳者と云うなり」(0749:第十二悪鬼入其身之事:02)と御書にあるごとく、生命自体を破壊し、福運を奪う働きをいうのである。魔が生命内在のものであるのに対し、鬼は、自然界、社会から生ずる働きをいう。たとえば社会全体をおおっている悪思想も〝鬼神〟といえる。

 また、この場合の「国土」とは、もちろん自然の国土という意味も含まれるが、より現代的にいうならば「社会」という言葉に近い意味をもっている。

 したがって、人間社会と自然をも含めた総体としての「国土」が乱れるときには、まず思想の乱れが根源となり、その結果、「万人」すなわちあらゆる人びとが狂乱の巷へと進み、やがてその国土は破滅の方向へひた走っていくのである。

 ゆえに、この「鬼神乱る」という思想の混乱を解決しない以上、国土の乱れを根本から直すことはできない、という結論になるのである。

 日蓮大聖人のご在世の時代は、まさにこの鬼神が乱舞しきった状態だったことはいうまでもない。また、この御文を亀鑑として現代社会をみるとき、鬼神乱るる様相が、いよいよ深刻の度を増しつつあることを、鮮やかに映し出されているのである。

 あらゆる分野の指導者たちが、一念を正すことが、いまほど緊急な時代はあるまい。それもたんなる反省とか意識改革などで変わりうるものではない。思想を支配するものが生命の働きである以上、より根源的なものを必要としている。すなわち、それは、仏法の真髄たる日蓮大聖人の教えによる以外にはないのである。

 

賊来つて国を劫かし、百姓亡喪し

 

 この経文どおりの事実が、当時の蒙古襲来と、七百年後に起きた太平洋戦争の敗戦である。

 文永の役の翌年、一谷入道御書のなかで、大聖人は「去る文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに宗惣馬尉逃ければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生取にし、女をば或は取り集めて手をとをして船に結い付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壹岐によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道・豊前前司は逃げて落ちぬ。松浦党は数百人打たれ、或は生け取にせられしかば、寄せたりける浦浦の百姓ども壹岐・対馬の如し」(1329:16)と、蒙古軍襲来のさいの対馬、壱岐、筑紫の民衆の惨状を述べられている。

 まさに、この経文そのままの姿ではないか。第二次世界大戦による民衆の被害については、いまさらいうまでもないところであろう。

 

臣・君・太子・王子・百官、共に是非を生ぜん

 

 これ、国内の実情ではないか。現在は主権在民の時代であり、臣、君、太子、王子、百官の別はない。これはさまざまな社会とすべきである。大きくは国家と考えてよい。また経済界、教育界、政治界等々ととることもできる。また小さくは、一家、会社、地域社会等と考えてもよいであろう。「是非を生ぜん」とは、人びとがそれぞれのエゴを発揮し、おのれの保身のために汲々として、相争うことである。たがいに意見を交換しあい、建設しあうための討論ではなくて、まったく対立し、憎悪し、激怒に燃えて戦うことをいうのである。

 一国を考えてみれば、左右の激突があるであろう。この対立は深刻であり、時としては、血なまぐさい殺戮すら行われる。これ「是非を生ぜん」ではないか。日本ばかりでなく世界各地で思想や民族の対立が、たえず流血の惨事を引き起こしている。これまた、人びとの生命にひそむ濁りであり、鬼神乱るる結果にほかならないのである。

 

天地怪異し、二十八宿・星道・日月、時を失い、度を失い

 

 すなわちこれは天変である。作今、とみに学者のあいだで、異常気象が叫ばれている。

 世界気象機関も、昭和五十一年(1946)六月に出した「気候変動に関する声明」のなかで、「気候が、いまとは別な型へと、長い間かかって自然に変化していくことを予想しなければならないが、いま、どのような方向へ変わりつつあるかを感知することはできそうにもない。なぜなら、異常気象が長期的な変動の傾向を、おおいかくしているからだ」と述べているのである。

 また、その原因についても、さまざまな学説があるが、太陽黒点が異常に増減したり、大気の内容や地磁気、地球の自転速度がわずかに変化するといった現象が関係していることは、よく知られているところである。まことに宇宙のちょっとした変化であっても、地上に大きな被害が生ずる。ましてや、この経文にあるごとく「二十八宿・星道・日月、時を失い、度を失い」という現象が、激しく起こるようなことがあれば、その人間社会におよぼす影響はどんなに大きいか、計り知れないものがあろう。ある場合には、人類の滅亡すらありうるのである。

 

多く賊の起ること有らん

 

 宇宙のリズムに異常があれば、人間社会が乱れて、一国のなかにおいて、たえず争いがあり、とくに国を滅亡に導くような人間が、数多くあらわれるのである。

 あの、昭和六年(1931)、九年、十年とつづけて起こった、日本気象史上おそるべき災厄の年を思い起こさずにはいられない。とくに昭和九年はひどく、この年から翌年にかけて、北日本を襲った冷害により、東北六県は目もあてられぬ大凶作に見舞われ、西日本にも異常な旱魃が起きた。さらに、史上最大といわれる室戸台風は、死者二千七百名、家屋の全懐三万九千戸におよぶ暴威をふるった。このころ、大量の人身売買が行われた。時あたかも、昭和初年の金融恐慌が吹きまくって、社会不安をよび、やがて二・二六事件を経て太平洋戦争へと向かっていったのである。

 今日においても、まさしく国を破滅に追いやるような賊人が、けっして少なくない。国土の生命力、衆生社会の生命力が弱まるところ、かならず、内部分裂し、それを利用して、ますます人心を動揺させ、おのれの利益追求に没頭する奸物が出ることは、いつの時代でも、いずれの社会でも、いずれの国でも同様である。これ、あたかも人間の生命力が弱まるところに蔓延する病原菌のごときものである。さきにも述べたように、もし今後において日本の国が再び滅びるようなことがあれば、それは内部からもたらされるのである。しょせん、日本の民衆が、民主主義と平和と幸福とを掲げて、強く有智の団結をし、しかも主体性のある、力強き平和外交を行い、行き詰まる世界をリードしていく以外に、日本の安泰も世界の平和も絶対にありえないと信ずる。

 

一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍えしに由つて……

 

 次に引用の仁王経の文は、指導者の福運論である。

 四条金吾殿御返事に「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず。果報つきぬれば所従もしたがはず」(1192:02)と。いかなる智慧者であろうと、いかに才能ある人であろうと、いかなる権力をもつ人であろうと、ひとたび福運を失えば、敗北の人生をたどるしかない。

 よく、人は「あの人は運がいい」とか「運が悪い」という。だが、彼らのいう運、不運は、あくまでも、偶然に支配されたもので、浮き草のようなものである。仏法の福運論は三世の生命観に立脚した、きびしい因果であり、生命の奥底に眼を向けて説ききったものである。この経文に「我今五眼をもつて明らかに三世を見るに、一切の国王は……」とあるごとくである。

 もし三世の生命を認めないとすれば、運、不運、幸、不幸の根本原因は、まったく不明のままになってしまうのである。ある人は、運、不運は問題ではない。人は、努力しだいで、幸、不幸が決まるのだという。むろん努力は大切である。努力のない人生は無意味である。だが、努力だけで幸福が築けると思うのは、錯覚である。人びとは、それぞれの立場で、なんとか現状を打開あるいは発展させようと努力しているのではないか。だが、その努力が成就しないところに、悲劇があるのである。

 いっさいが努力であるという人にいいたい。それでは、現在、不幸な人びとは、みな努力しなかったからなのか。否、むしろ不幸であればあるほど、それこそ必死になって努力しぬいているではないか。また、どんなに努力といっても、病弱であったり、いかにもがき、あせってもどうにもならぬ人がいるが、かかる人は、いかに幸福への道を切り開いていけるのか。もし指導者にして、かくも真剣に、かつまじめにがんばっている人を、おのれの地位から、努力なき人と断ずるは、民衆を侮蔑し、さげすむのもはなはだしいではないか。

 ある人は、環境決定論を唱え、環境がいっさいを決定するという説を唱える。だが、それも大きな誤りである。むろん環境の影響を無視したり、軽視したりするわけではない。だが、同じような環境に育った二人の人間が、時としては、まったく違った運命をになっているのは、どう説明するのか。

 さらに、環境が影響をおよぼすことは事実であっても、なぜそのような環境に住しなければならないのか。たとえば、貧乏な家に生まれたり、陰惨な家庭に育ったりしなければならないのはなぜか。さらに、生まれつき不具の人、生まれつき病弱な人は、なぜそうなったのか。

 それでも、ある程度までは科学的に、そこにいたるまでの過程は説明できるかもしれない。それでは、なぜそのような経過をたどらなければならなかったのか。ある人は、両親にその責任を負わせるかもしれない。では、なぜそのような両親のところに生まれなければならなかったのか。また、なぜ両親の責任を、自分が背負わなければならないのか。

 このように生命の物理化学的な現象のみを取り扱う科学では、解決できぬ問題があまりに多くひそんでいるのである。また環境でいっさいが決定するという、主体性なき哲学では、それを解決できぬことは、明瞭である。しょせん、三世の生命観およびそれに立脚した福運論にして、初めてこれらの疑問に対する解答を与えることができるのである。

 釈尊は、十不善業の業報を次のように説いている。この世で多病また短命である人は「殺」の報いである。貧窮で失財の人は「盗み」の報いであり、眷属不良で婦が貞実でない人は「邪淫」の報い、身に誹謗をうけ人に誑惑されるのは「妄語」の報い、親類に離れ、親友にも捨てられるのは「両舌」の報い、悪声を聞き訴訟を起こすのは「悪口」の報い、人に信じられないで、言語が明らかでないのは「綺語」の報い、多欲で足ることを知らずに、いつも不足を嘆くのは「貪り」の報い、人のためにすきをうかがわれ、あるいは殺されたりするのは「瞋り」の報い、邪見の家に生まれて心諂曲なのは「愚癡」の報いであると。

 また、日蓮大聖人は佐渡御書に「我人を軽しめば、還って我が身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報いを得。人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば、貧賎の家に生ず。正法の家をそしれば、邪見の家に生ず。善戒を笑へば、国土の民となり王難に遇ふ」(0960:03)と、般泥洹経の文を引かれているのである。

 逆に、この世に福運ある身として生まれてきたのも、過去の行業によるものであり、かくのごとく、国王としての福運を得るのも、過去世に五百の仏に仕えたがゆえであると説くのである。

 だが、日蓮大聖人は、このような因果の理法は、「是は常の因果の定まれる法なり」(0960:05)とおおせになり、きわめて当然のこととされているのである。たしかに、因果の理法は、誤りではなく、絶対の事実である。釈尊の仏法から、この考え、思惟を抜きとったら意味はない。だが、このような低き因果の理法をもって全体とするならば、運命はすでに抜きさしならぬように定められているのだから、この世で悪いことをしないように心がけ、あとは来世の幸福を願うしかないという、あきらめと消極的態度をつくりあげてしまうことになる。それでは、世の不幸な人を見て、それを救いきることができないではないか。悪しき社会、悪しき国、悪しき世界を改革することができないではないか。日蓮大聖人は、この普通の因果の理法のさらに奥底に眼を向け、いかなる権力者よりも、いかなる大智慧者よりも、いかなる富裕な人よりも、百千万億倍すぐれたる大福運を、この瞬間に開くことを教えられたのである。

 観心本尊抄にいわく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)と。

 すなわち、釈尊のごとく、過去に能施太子として、また儒童菩薩として、あるいは尸毘王、薩埵王子等と生まれ、三大阿僧祇、百大劫、動逾塵劫、無量阿僧祇劫、あるいは三千塵点劫等の長きにわたる修行を積まなくても、御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えることによって、あらゆる福運が具備されるのである。幸福というものは、なにか遠くにある特別な世界ではない。また、現在というものが、過去の因によって、がんじがらめに身動きができないように縛りつけられているものでもない。生命の奥底にある「因果俱時不思議の一法」たる妙法は、あらゆるものの根源であり、真に自由自在にして、かつあらゆるものを変えきっていくことができるのである。妙法を信じ、妙法を己の一身に顕現していくことが、過去のいっさいの宿命を打破し、未来永劫の大福運を、この一瞬に開いていく本源であることを訴えたい。御書にいわく「伝教大師云く『讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く』等云云」(0291:02)と。

 安明とは、須弥山である。御本尊を信ずる一念のなかに須弥山のごとき大福運がそなわるのである。したがって、信心してからの生活というものは、いっさいが価値創造であり、いっさいが変毒為薬であり、転重軽受である。宇宙の大リズムに適い、だれがこれを破懐しようとしても、金剛石のごとく、絶対に破懐することができないのである。

 信心に関係なくとも、たしかに福運ある人はいる。昔でいえば、国王となるのは福運である。また、現在でも、社会から、才能、力を認められ、指導者となるのも、その源流は福運である。だが、それは小さな福運であり、それにおごり、正法を破懐しようとする行為に出るや、指導者としての福運をなくすのみならず、いっさいの福運を根絶してしまう。むしろ、その福運が尽きたときは、いかなる人よりも悲惨であり、みじめである。いかに、そのときはよさそうにみえても、それはそれまでの福運の余韻であり、また、蜃気楼のようにはかなきものである。やがて「謗る者は罪を無間に開く」の文のごとく、挫折し、破滅し、ついには無間の焔にむせぶのである。

 妙法によって開かれた福運こそ、最高の福運であり、わが生命の宝である。いかなる財産も、いかなる地位も、名誉もすべて化城であり、いつかは崩れ去るものである。されば信心した人こそ、世界を一手におさめる大王より尊貴であり、日輪のごとき智者よりも偉大である。

 十字御書にいわく「今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」(1492:06)と。

 松野殿御消息にいわく「法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候へ。三界の主たる大梵天王・釈提桓因・四大天王・転輪聖王乃至漢土・日本の国主等にも勝れたり。何に況や日本国の大臣公卿・源平の侍・百姓等に勝れたる事申すに及ばず、女人ならば憍尸迦女・吉祥天女・漢の李夫人・楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候」(1378:07)と。

 

是を為つて一切の聖人・羅漢、而も為に彼の国土の中に来生して、大利益を作さん

 

 これは、妙法を根底にした指導者の福運である。この場合「国王」とは一国の指導者であり、「聖人・羅漢」とは、正法をもって一切衆生を救う人であり、仏法を根本にして社会を利益するのである。

 

若し王の福尽きん時は、一切の聖人皆為れ捨去せん。若し一切の聖人去らん時は、七難必ず起らん

 

 これは逆に、正法の流布しない社会である。国内は邪法、邪義のみ充満し、指導者の福運が尽きたときは、聖人は去り、かわって悪人のみ跋扈し、あらゆる七難が競い起こってくるのであるということである。あの、太平洋戦争当時、神道の力が日本全民衆を支配し、真の正法たる日蓮大聖人の仏法はまさに隠没の危機に瀕したのであった。これによって、指導者の福運は尽き果て、一国を指導すべき人材は影をひそめ、未曾有の亡国の姿を現じてしまった。日蓮大聖人の時には、末法の御本仏がおられたればこそ、防ぎ得てきたところの七難のなかの最後の難たる他国侵逼難が起こったのである。しかも、この他国侵逼難に前の六難はことごとく摂せられているのであって、「七難必ず起らん」とのこの文のとおりになったことを知らなければならない。

0017~0033 立正安国論 0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引 0019:09~0019:10 第五章 経証の四 薬師経

00170033 立正安国論 0017:150020:13 第二段 災難由来の経証を引 0019:090019:10 第五章 経証の四 薬師経

 

本文

 

  薬師経に云く「若し刹帝利・潅頂王等の災難起らん時、所謂、人衆疾疫の難、他国侵逼の難、自界叛逆の難、星宿変怪の難、日月薄蝕の難、非時風雨の難、過時不雨の難あらん」已上。

 

現代語訳

 

 また薬師経には次のようにある。

 もし、刹帝利・潅頂王のいわゆる支配者階級のものに災難が起こるときには、次のような七つの難がある。すなわち、人民大衆が伝染病等の流行に悩まされる難、他国から侵略される難、自国内で叛逆、同士討ちが起こる難、星宿の変怪する難、太陽や月が日蝕・月蝕など薄蝕する難、時期はずれのときに暴風雨のある難、時を過ぎても降るべき時節に雨の降らない難、以上七つの難である。

 

語釈

 

薬師経

 漢訳には四種が現存する。通常、唐の玄奘が訳した薬師琉璃光如来本願功徳経一巻をさし、日蓮大聖人もこれを用いられている。仏が文殊菩薩に対して薬師如来の功徳を説く。薬師如来に供養すれば七難を免れ、国が安穏になることを説いている。その内容から、日本では護国経典として尊重された。

 

刹帝利

 梵語クシャトリヤ(katriya)の音写。古代インドの身分制度における王族・武士階級。身分制度は英語でカースト、インドではバルナ(varna)といい種姓と訳す。四種姓の最上位は司祭者階級のブラーフマナ(brāhmaa)で「婆羅門」。第二位は王侯・武士階級のクシャトリヤで「刹帝利(せっていり)」。第三位は庶民のヴァイシャ(vaiśya)で「吠舎」。農業、牧畜、商業に従事する。第四位にシュードラ(śūdra)、「首陀羅」があり、隷属民のゆえに、上位の人々への奉仕を義務付けられた。だが時代の変遷とともに、ヴァイシャは商人を、シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な大衆を指すようになった。この四つの身分のさらに下に、チャンダーラ(caṇḍāla)すなわち「旃陀羅」がいる。はじめ四種姓のシュードラの範疇に加えられ、のちシュードラ以下の存在とみなされるに至った。現在のインドでは、一九五〇年に制定された憲法により、法的にカースト差別は禁止された。しかし、今なお不可触民といわれる人びとへの偏見や差別が根強く、インド社会の近代化をはばむ大きな障害となっている。

 

潅頂王

 大国の王をいう。古代インドでは、大国の王が位に登るとき、小国の王や群臣たちが四大海の水を汲んできて、その頂にそそいだことから、このようによぶ。

 

刹帝利・潅頂王等の災難

 薬師経に説かれる七種の災難をいう。七難は仁王経、薬師経、金光明経等に説かれ、内容は経典により異なるが、薬師経には①人衆疾疫難、②他国侵逼難、③自界叛逆難、④星宿変怪難、⑤日月薄蝕難、⑥非時風雨難、⑦過時不雨難の七難が説かれている。三災七難の起こる原因は、国に邪法が横行し、正法の行者を弾圧することにある。

 

講義

 

 ここに「刹帝利・灌頂王」とは、世の指導者を意味する。この指導者に謗法があるときには、いわゆる七難が起きるとの経文である。

 世に、指導者の誤り、とくに宗教に関する誤りほど恐ろしいことはない。指導者の誤りは、国内を騒乱させ、民衆を不幸のどん底に陥れてしまう。また、国を滅亡に導き、あるいは、民族をしてその後、何百年、何千年と悲劇の道をたどらせることにもなるのである。

 したがって、個人の幸福を説く仏法が、たんに個人にとどまらず、指導者と仏法の関係をとくに強調するのは当然のことである。仏教が、まるで、個人の救済のみを問題とし、しかも、現世とは遠く離れた、未来のことのみを説いていると考える人びと、またそう思わせる僧侶が多いが、仏法のなんたるかをも知らぬ者である。

 社会の幸福、また一国、今日ではとくに全世界の幸福なくして、どうして個人の幸福がありえようか。もしも個人の幸福のみを説き、社会の繁栄を説かないとすれば、それこそ矛盾であり、欺瞞であるとしかいいようがない。立正安国論に示された四経の文は、それぞれ皆、指導者こそ、正法をたもたねばならないことを教えている。

 

新時代の指導者論

 

 この段で、指導者の責務と使命の重大なることが説かれている。私は多くの機会に、新時代の指導者のあり方について述べてきたのであるが、ここに要約して、その一端を申し述べたい。

 新しい日本の指導者に望む第一点は、偉大なる思想、哲学、宗教をたもち、確固たる指導理念を確立すべきことである。いかなる指導者も、その理念のいかんによって指導者としての資格が定まることを知らなければならない。現在における指導者が、もし世界各国の指導者と、人類の将来、世界の未来等を論じ合ったとき、はたして彼らを説得し、彼らに指針を与える、いかなる理念をもっているであろうか。

 恩師戸田先生が、あるとき、もし東西の歴史上にあらわれた聖人賢人、たとえばソクラテス、キリスト、マホメット、釈尊、孔子、日蓮大聖人、マルクス等が、一堂に会して談合したとするならは、必ずや日蓮大聖人の偉大なる卓見に、一人残らず、その場で賛成したに相違ない、と述べたことがあった。

 世界各国の指導者と卒直に話し合う機会があれば、彼らはそれぞれ、マルクス・レーニン主義、プラグマティズム、実存主義、プロテスタンティズム、カトリック、イスラム教、各種のナショナリズム、儒教的道徳主義、分析哲学、科学万能主義等あらゆるイデオロギーをもって甲論乙駁してくるであろう。

しかして、日本の指導者として、彼らのイデオロギーを超える、民衆救済の大思想をもっていなければ、いたずらに彼らの説得に追いまくられるのみではないか。

 現在、日本の国内にも、イデオロギー的な対決ムードがあふれているが、旧来の資本主義や共産主義等が、新時代の指導理念たりえないことは、もはや明白である。より高い次元より、これらを指導し統一しうる指導理念こそ、東洋仏法の真髄たる色心不二の大生命哲学以外には絶対ないことを強く訴えて止まない。

 偉大なる指導理念と、卓越した識見、確固たる信念をもった優れた指導者が、堂々と民衆に同意を求め、その意思を結集して前進する時代がきたといえよう。さらに、同じく世界各国のあらゆる指導者に対しても卓抜した説得力、指導力を発揮しうる指導者が、数多く出現しなければならない。

 新時代の指導者の資格の第二点としては、あくまでも民衆の真実の見方として、民衆に真に幸福を与えきっていける指導者でなければならない。誤れる指導者が、いかに民衆を不幸にし、社会を滅ぼすものであるか、古今の歴史のよく物語るところである。

 中国古代において、周の代も終わり秦の世も末になった頃、項羽と劉邦という二人の英傑があらわれ、互いに覇を競った。力量は項羽のほうが格段に優れ、まさに百戦百勝の感があったが、最後に劉邦が垓下の戦いで大勝利をおさめ、ついに天下は劉邦のものとなった。劉邦が中国に平和と秩序をもたらしたゆえんは、民衆の信望と指示であり、それが劉邦に名をなさしめたのであった。

 あくまでも、真実の指導者は、民衆のなかに生き、民衆のために尽くして、民衆のなかで死んでいく決意がなければならない。それでこそ、民衆は心から信頼し、納得しうるのである。しょせん、新しい時代の指導者は、民衆の幸福を実現することに全力を傾注していく人でなければならない。

 第三に、指導者は、組織における卓越した統率力をもち、すべての人が充分に働けるように、調和できる人でなければならない。これからの新しい指導者は、個人プレーで独裁的にものごとを処理していく英雄型であってはならない。それが職場であるにせよ、国家であるにせよ、一つの社会の中で、全体の人びとが存分に力を発揮できるように、リードしていける人こそ、真に優れた指導者といえよう。

 また、人間性豊かな、包容力ある指導者として、つねに後輩の中に人材を求め、優れた後輩を数多く育成してゆく熱意がなくてはならない。いかなる人をも活かしきっていくという決意をもって、後輩を自分以上の人材に成長させていく聡明な人こそ、真の指導者といえよう。

 指導者はかならず優秀な後継者を育成するものであり、反対に独裁者は後輩を犠牲にして、後継者を育てるような雅量をもちあわせないものである。決して、独裁者となってはならない。

 第四に、指導者は、名聞名利にとらわれたり、栄誉栄達主義であっては、断じてならない。世の指導者といわれる人たちのなかに、いかに利己の人のみ多いことか、まことに残念の窮みである。いささかも毀誉褒貶にとらわれず、自己の成長とともに、民衆を救済しきっていく自覚と責任の持ち主こそ、真の指導者である。

 また有名人と指導者を混同してはならない。有名人かならずしも指導者たりえないものである。有名人といい、有識者といっても、自らの家庭的悩みすら解決しえないような人が多く、そうした人にどうして民衆を幸福になしうる指導者の資格があるであろうか。

 大聖人は「夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く」(0969:15)と述べられている。これ指導者の資格を論じたものといえよう。

 すなわち、一見、安泰のごとくにみえる社会にあっても、絶えずその未来に思いをはせ、その社会に兆す崩壊の危険性をいちはやく察知していく人こそ、賢人であるとのおおせである。逆に、その場かぎりのことしか考えようとしない口先だけの佞人は、社会の崩壊のまっただなかにありながらも、それに気づかず、見せかけの安寧に身を浸しているというのである。社会に責任をもつ指導者たるものは、けっして、佞人の行き方をしてはならないのである。

 いまや、新時代は、新しき指導者の輩出を要求している。世のため、社会のため、民衆のために、偉大なる多くの指導者の出現を、心から願ってやまない。

0017~0033 立正安国論 0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引 0019:11~0020:04 第六章 再び仁王経を挙ぐ

00170033 立正安国論 0017:150020:13 第二段 災難由来の経証を引 0019:110020:04 第六章 再び仁王経を挙ぐ

 

本文

 

  仁王経に云く「大王、吾が今化する所の百億の須弥、百億の日月、一一の須弥に四天下有り。其の南閻浮提に十六の大国、五百の中国、十千の小国有り。其の国土の中に七つの畏る可き難有り。一切の国王是を難と為すが故に。云何なるを難と為す。日月度を失い、時節返逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり。二十八宿度を失い、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百宦星、是くの如き諸星、各各変現するを二の難と為すなり。大火・国を焼き、万姓焼尽し、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。是くの如く変怪するを三の難と為すなり。大水・百姓を漂没し、時節反逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬、時に雷電霹靂し、六月に冰・霜・雹を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らす。江河逆に流れて山を浮かべ石を流す。是くの如く変ずる時を四の難と為すなり。大風、万姓を吹き殺し、国土・山河・樹木、一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん。是くの如く変ずる時を五の難と為すなり。天地・国土亢陽し、炎火洞然として百草亢旱し、五穀登らず、土地赫然して万姓滅尽せん。是くの如く変ずる時を六の難と為すなり。四方の賊来って国を侵し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊あつて、百姓荒乱し、刀兵劫起らん。是くの如く怪する時を七の難と為すなり」。

 

現代語訳

 

 仁王経には、また次のようにも説かれている。

 大王よ、自分がいま教化するところの百億の須弥に百億の日月があり、一つ一つの須弥に四天下がある。そのうちの一つ南閻浮提に十六の大国、五百の中国、十千の小国がある。その国土のなかに七つの恐るべき難がある。そのわけは、これをいっさいの国王は難となすからである。それではいかなることを難となすのであるか。それを説こう。

 まず太陽や月が運行の度を失い、寒暑の時節が逆になり、また赤日が出たり、黒日が出たり、あるいは一度に二、三、四、五の日が出たり、あるいは日蝕で太陽の光がなくなったり、あるいは太陽が一重、二、三、四、五重の輪を現ずるのが一の難である。

 次に二十八宿が運行する軌道を失い、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百宦星、等々の多くの星が、それぞれ異常な現象を起こすのを二の難とする。

 第三に、大火が国を焼き、万民を焼き尽くすであろう。あるいは鬼火、竜火、天火、山神火、人火、樹木火、賊火が起こるであろう。このように変怪するを三の難とするのである。

 第四に大洪水が起きて、民衆を押し流し、時節が夏と冬と逆になって、冬に多くの雨が降り、夏に多くの雪が降る。冬に雷が鳴り、暑い六月に氷や霜や雹が降り、赤水、黒水、青水を降らし、また土や石を山ほど降らし、砂や礫や石を降らす。河は流れが逆になり、山を浮かべ、石を流すほどの大洪水となる。このような異変を生じてくるのが四の難である。

 第五に、大風が起こって万民百姓を吹き殺し、国土、山河、樹木が一挙のうちに滅没し、時節はずれの大風、黒風、赤風、天風、地風、火風、水風が吹きまくるであろう。このように異変を生ずるのを五の難とする。

 第六に、天地、国土が大旱魃のため乾ききり、天地も国土も猛烈に暑く、大気は燃え上がらんばかりで、百草みな枯れて、五穀は実らず、土地は焼けただれて民衆は滅尽するであろう。そのように変ずるを六の難とする。

 最後に、四方の他国の賊が来て国を侵略し、国内にも賊が内乱を起こして、火賊、水賊、風賊、鬼賊があって民衆を荒乱し、いたるところで大闘争が起きるであろう。そのように異変を生ずるのを第七の難とするのである。

 

語釈

 

仁王経

 後秦代の鳩摩羅什訳の仁王般若波羅蜜経 二巻と、唐代の不空訳の仁王護国般若波羅蜜多経二巻とがある。サンスクリット原典もチベット語訳も現存しておらず、中国撰述の経典とする見解がある。内容は正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。

 

大王

 波斯匿王のこと。梵名プラセーナジット(Prasenajit)の音写。コーサラ国の王で波瑠璃王の父。初めは仏教に反対だったが、後に釈尊に帰依し仏教を保護した。大唐西域記巻六等によると、子の波斯匿王は、父王波斯匿と釈迦族の大名・釈摩男の婢女との間に誕生。長じて自身の出生について釈迦族から辱めを受けた。後、長行大臣と謀って父王を放逐、波斯匿王はマガダ国に逃げるも命尽きたといわれる。波瑠璃王は釈迦族を殺戮し、その数九千九百九十万人、血が流れて池となった。釈尊の九横の大難の一つ。それから七日後、河上に舟を浮かべ歓楽にふけっているさなか、火災が起き、火に包まれて死に、無間地獄に堕ちたという。

 

日月度を失い時節反逆し……

 仁王経に説かれる七難の第一、日月難のうちに、また①日月度を失い、時節反逆し(日月失度難)、②或は赤日出で、黒日出で(顔色改変難)、③二三四五の日出で(日体増多難)、④或は日蝕して光無く(日月薄蝕難)、⑤或は日輪一重・二三四五重輪現ずる(重輪難)の五難がある。

 

二十八宿

 インド・中国で古くから用いられた天文説で定められた二十八種の星座のこと。月が天を一周する間に、西から東へ一日に一つずつで黄道付近にある星宿に宿していくとして定められたとされる。二十八宿経、摩登伽経、宿曜経などで説かれる。宿には星のやどりという意味があり、中国の史記にも「二十八舎、即ち二十八宿の舎る所なり」とある。宿曜経巻下によれば、インドでは牛宿を除く二十七宿であったという。

 

輪星

 輪状に連なった星をいうものと思われるが、どの星をさすのか明らかではない。

 

鬼星

 カニ座の中央部に位置するプレセペ星団のこと。青白く、ぼうっと光って見え、鬼火にみたてられたところから鬼星と呼ばれたものと思われる。二十八宿の一つである鬼宿の中にある。

 

風星

 二十八宿の一つである箕宿のこととされる。箕宿は射手座にある四辺形の星座をいう。箕は穀物をふるって塵や糠を風で吹き飛ばす農具であることから、箕宿は風を司るとされた。

 

刁星

「刁」の形をした星座のことと思われるが、どの星をさすものか明らかではない。刁は昔、中国で炊事用の鍋と警戒のために打ち鳴らす銅鑼とを兼ねて、軍用に用いられた銅器をいう。なお、仁王般若波羅蜜経では「刀星」となっている。

 

南斗

「なんと」とも読む。二十八宿の一つである斗宿のこと。射手座の中央部にある斗の形をした星座をいう。南方の空に出て六つの星よりなっているところから、南斗六星ともいう。

 

北斗

 大熊座にある七つの星が斗状に並んでいる星座のこと。北斗七星。

 

五鎮の大星

 歳星(木星)・熒惑星(火星)・鎮星(土星)・太白星(金星)・辰星(水星)の「五星」のこととする説と、五星の中心に位置すると考えられた「鎮星」のこととする説がある。

 

国主星

 古代中国の星図において「帝」と名づけられた星のことと思われる。天球に、⑴紫微垣(小熊座を中心に大熊座やカシオペア座など天の北極周辺)・⑵太微垣(師子座・乙女座を中心にした部分)・⑶天市垣(ヘルクレス座・へびつかい座・へび座を中心にした部分)の三つの区域を設定し、それぞれの中に「帝」という星が定められている。

 

三公星

 古代中国の星図において「三公」と名づけられた星。三公は中国で天子を補佐する官職をいう。天に三つの区域を設定したなかの紫微垣と太微垣に「三公」という星が定められている。

 

百宦星

 ここでは「百宦星」となっているが、御真筆では「百官星」となっており、仁王般若波羅蜜経も「百官星」とある。百官星はもろもろの官名がつけられた星のこと。

 

鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火

 鬼火とは、衆生の乱れを鬼が怒って起こすと考えられた原因不明の火事をさす。竜火とは、竜の怒りによって起こされる火。天火とは、天の怒りによって起こると考えられた火災。山神火とは、神仙の怒りによって起こるとされた火災。人火とは、人の過失によって起こる火災。樹木火とは、日照りがつづいて空気が乾燥しているとき、樹木から自然に火が出て山火事になるもの。賊火とは、盗賊の放火等による火災。

 

刀兵劫起らん

 刀兵とは兵革の災のこと。劫は劫掠の略で、おびやかし奪いとること。民衆が命や財物を奪われ、おびやかされる戦乱がしばしば起きること。

 

講義

 

 星や日月の変動が、われわれ人類に影響があるとは、不思議に思えるであろう。だが、依正不二の原理、一念三千の哲理が明らかとなるならば、なんら不思議ではない。さらに、現代の最新の科学、なかんずく天文学は、これらのことを実証しつつあるのが趨勢である。

 まず、仁王経と薬師経の七難を比較すると次のようになる。

    仁王経            薬師経

 第一難は 日月失度難 ───── 日月薄蝕難(第五難)

 第二難は 星宿失度難 ───── 星宿変怪難(第四難)

 第三難は 諸火梵焼難  

 第四難は 時節反逆難 ──┬── 非時風雨難(第六難)

 第五難は 大風数起難 ──┘

 第六難は 天地亢陽難 ───── 過時不雨難(第七難)

 第七難は 四方賊来難 ──┬── 他国侵逼難(第二難)

              └── 自界叛逆難(第三難)

                  人衆疾疫難(第一難)

 

<第一難・日月失度難>

 日月度を失い、時節返逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり

 

 これらのことについては、これまでにしばしばふれてきたので省略するが、ただ、月や太陽の変化がわれわれにさまざまな影響をもたらすことは、厳然たる事実である。

 たとえば、太陽からの微粒子や紫外線のエネルギーは、太陽活動の変動によって大きく変化しており、これが超高層の大気に、大きな影響を及ぼしていることも事実である。ただしその影響は超高層であり、それがどのような過程で、またどのような地上の天候の変化や異常気象をもたらしているかは、まだ明らかでない点が多い。だが、その影響が非常に大きいことは充分考えられる。とくに太陽黒点数の変動と地球上のいろいろの現象と比較してみると、ある現象については、驚くほど一致していることがわかってきた。

 故藤原咲平博士は、太陽活動と凶冷について、その密接なる関係を力説し「凶冷の八十一年周期説」を主張した。さらに荒川秀俊博士は、これを再び取り上げ「天明の飢饉、天保の飢饉、慶応、明治初年の大凶作の三回の凶作群は、どれも太陽黒点数の十一年周期変化の極大値が非常に大きくなったときの極大年にはさまれて生じた」という事実をあげている。

 黒点の変化の他にさまざまな要因が加わって、地上に大小の影響を与え、異常気象や気候変動を起こし、国土と人間生命に微妙な変化をもたらすのである。

 また、太陽面でもっともすさまじいフレアーとよばれる現象がある。これは、太陽の彩層の一部が、急に明るさを増して爆発し、数時間後にもとに戻る現象のことである。

 フレアーが起こると同時に、地球大気上層の電離層に、デリンジャー現象の名で知られる短波の無線障害が起こり、少し遅れて、宇宙線の異常増加が起こる。その後約三十時間たって、オーロラ、磁気アラシなどが起こる。フレアーがさらに大気の循環に影響を与え、気圧の下降などを起こすことは確実とみなされている。日蝕もまた、さまざまな影響がある。まず太陽光線がそれだけさえぎられるのであるから、大気中に影響を与える。宇宙の変化、また引力の変化、さらにそれらのものが、地上の人間の生命活動に大きな影響をもたらすのである。

 また月の引力が、地球にさまざまな影響を与えることも、明らかになってきている。太陽の引力、月の引力、地球の引力等が、互いに影響し合っていることは事実である。そして、太陽、月、地球がどのような位置をとるかにより、したがって、月蝕などが起こることによって、地球にはさまざまな変化が起きる。潮の干潮、血液の循環、人間の生命活動に微妙な変化をもたらすことは明瞭である。

 また、赤い太陽、あるいは、二、三、四、五の太陽、また太陽に二重、三重、四重、五重の暈があらわれるということも、けっしてわれわれの生活と無関係ではない。こうした現象は、大気中に、塵、氷の結晶等の微粒子が多いときに起こるものである。これらは、太陽とわれわれの間に介在して、さまざまな影響を与えるのである。

 たとえば、乾燥した大地に、大風が襲って巻き上げられた埃や、火山がたびたび噴火し、高層の大気中まで舞い上がった火山灰が、日光をさえぎるために、赤い太陽があらわれる。これによって、冷害等が引き起こされることは前述のとおりである。

 また、暈とはまったく違った現象であるが、太陽にかかるビショップの環とよばれるものは、まことに不吉な前兆であり、日照量を減少させて、凶作をもたらすことがしばしばある。これは、高空にただよう微粒子の一次回折による現象で、内径は10度、外径は20度におよび、環の外側ほど赤く見え、またときには日の出から日没まであらわれている。しかも、これはふつう地上では塵埃や煙とかが、まったくない快晴の日によくあらわれる現象である。記録によればサンタマリア火山の噴火のあった明治35年(1902)と、カトマイ火山の噴火のあった明治45年(1912)に観測されており、これらの年は日射量が30%近く減少し、いずれも東北地方の凶作をともなったのである。

 しかも、こうした現象は、単にそれにとどまらず、さまざまな他の現象を内にはらんでいる。火山の爆発、あるいは大地の乾燥等は、またいろいろな宇宙の変化と関係している。したがって、一つの現象が、つぎつぎと他の現象に及んでいく。いわんや一時に多くの異常気象があらわれるということは、宇宙のリズムそれ自体に異常のある証拠であり、容易ならぬことである。

 このように、太陽や月の変化は、地上にいろいろな変化を起こす。もちろん、具体的にわかっていない面も多いが、人間もまた宇宙の構成物質でつくられている以上、太陽や月の変化が、気づかないうちにも、きわめて多くの、否、ほとんどすべてにわたり、人間生活に影響を与えていることは、絶対の事実であろう。

 

<第二難・星宿失度難>

 二十八宿度を失い、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百宦星、是くの如き諸星、各各変現するを二の難と為すなり

 

 ここに掲げられた星は、今日の天文学で、いったい、いかなる星をさすかは不明のものも多い。当時は、望遠鏡とてなく、しかも、今日と三千年前に見えた星が、かならずしも一致していないであろうし、また、地球の地軸自体も、多少変化している。したがって、昔の人が画いた星座と、今日のものがかならずしも一致していなくとも、なんら不思議ではない。だが、当時このような天文学があったことは驚くべきである。おそらく、このような天文学は、生活のなかからにじみ出たものであろう。宇宙の変化が、微妙に人間生活に影響を及ぼすことは、古代人も感じていたであろう。それが一方では、多くの迷信を生んだであろうが、また他方では、古代人の直観は、今なお万古不滅の力をもち、むしろ、今日の近代天文学が、それを裏づけている感すらある。

 しかして、たとえ星の名がどう変わろうと、星座の位置がどうなろうと、この経文にあげられた星のいくつかが、不明であろうと、そうしたことは問題ではない。個々の問題よりも、さまざまな星の変化が、人間生活に大きな影響をもたらすということは、変わらざる哲理であり、今日の天文学が、それをはっきりと説明するにいたっている。

 たとえば、彗星や流星の出現は、かつて戦乱等の不吉な事件の前兆とされた。だが、科学の発達は人びとに合理的な物の考え方を植えつけ、実証によらなかった古代人の考えを迷信であるときめつける悪弊も生じた。その風潮のために、彗星の出現と人間生活を結びつけていた古代よりの考え方をも迷信と決めつけてしまった。だが、現代の最先端を行く天文学では、彗星および流星が、人間生活に影響があるどころか、人類の運命をも荷っていることを明らかにしつつある。大部分の彗星は、太陽のまわりを、大集団となって回っている微粒子よりなる。彗星はときおり分裂する。彗星が分裂すると、粒子は太陽系が占める膨大な広がりのなかにまきちらされる。そのような粒子が、ときどき地球の大気のなかにはいってくると、流星となる。大きな粒子は明るい流星となる。見かけじょう、とるに足らないこれらの流星たちは、地球上の気候に重大な関係を持つことがある。イギリスの天文学者、ホイルは「彗星が空に現われると何か凶事が起るとは、昔からの迷信である。この迷信は正しいのかもしれない」と述べ、彗星の分裂により、流星塵が氷河時代を現出したとして、大略つぎのように述べている。

 氷河時代というのは、地球の大気の温室効果が破懐されたか、あるいはいちじるしく弱められたときに起こったにちがいない。これは大気中にあって、赤外線の放散をくいとめる役をしている水蒸気が、極端に減少したために起きることである。そこで、大気中の水蒸気の量が、とくに地上六千メートルあたりの水蒸気が、どうして減ったかということが問題になる。これを解決することが、氷河期のナゾに対する答えになる。

 大気中の水蒸気がときおり凝結して液体の粒になると、雨となって地面に降ってくる。これは、大気中の水蒸気の量を減らそうとするが、一方では大洋からの蒸発は、大気中の水蒸気の量を増やそうとし、この間に釣り合いが保たれている。

 ところで、大気中で、たとえば、地上六千メートルあたりには、水蒸気が大量にたむろし、雨となって降らずにいる。というのは水蒸気から大きな水滴となっても、相当大きな水滴でなければ雨として降れないからである。ここに大量の流星塵が上からやってくると、状況は大転換し、小さな水滴は流星塵のまわりに凝結する。もしその凝結が充分多量であれば、雨として降り、大気中の水蒸気の量はバランスを失い、きわめて少なくなり、温室効果が弱められ、ここに氷河期があらわれる、というのである。

 このように、天文学の最先端は、彗星や流星の微妙な影響に着目しはじめているのである。むろん、まだ、それらがいかなる影響を与えるかの決定的な結論は示されてはいないが、宇宙のきわめて小さな現象すら、われわれと関係ではなく、密接に関係し、影響があることは明らかである。さらに、宇宙のリズムがこわされ、星道が狂い、軌道に突然の変化でもあれば、いかなる災害が並び起こるであろうか。

 

<第三難・諸火梵焼難>

 大火・国を焼き、万姓焼尽し、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。是くの如く変怪するを三の難と為すなり

 

 ここに明らかなように、火の難には、鬼火、竜火、山神火、樹木火のように自然現象によるものと、人火、賊火のごとく人間の故意または過失によるものとがある。もし宇宙のリズムに、さまざまな異常をきたすならば、異常な乾燥あるいは落雷等も頻発し、また火山の大爆発による灼熱した溶岩の流出、降灰等で、都市全体が埋没した例があり、あるいはいまだ起きていないが、国を焼き、万姓を焼尽するような火の海と化することも考えられる。

 だが、今日においては、むしろ戦争による火の難がもっとも大きいであろう。第二次世界大戦における原子爆弾投下によって、火の海に化するのも諸火梵焼難であり、ベトナム戦争で、ナパーム爆弾等で焦土作戦がとられたのも、諸火梵焼難といえよう。もし、第三次世界大戦が起き、全世界が核兵器に焼かれるならば、人類の滅亡を招く最大の諸火梵焼難となるであろう。

 また、人心が動揺しているときには、火災が多い。狂気のごとく放火する人間もふえ、また嫉妬と憎悪のうずまく社会であれば、事はもはや重大である。また、劣悪な政治のために、水不足が大火を広げる結果にもなる。すなわち、今日においては、火災は自然的なものより、むしろ人間の問題に帰着するところが多い。

 

<第四難・時節反逆難>

 大水・百姓を漂没し、時節反逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬、時に雷電霹靂し、六月に冰・霜・雹を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らす。江河逆に流れて山を浮かべ石を流す。是くの如く変ずる時を四の難と為すなり

 

「大水・百姓を漂没し」とは、いうまでもなく大洪水である。

「冬雨ふり、夏雪ふり」とは、冬にさっぱり雪が降らず、夏に雪が降ることである。冬に雪がまったく降らなかった例は少なくない。

 冬に雷が鳴ることも、異常である。これまた、さまざまな文献に記されているところである。日蓮大聖人の時代においては、文永2年(1265120日に雷雨があったことが記されている。「雷雨雷光燿天、降雹動地也」と。江戸時代にはいっては、たとえば、享保9年(1724111日には、京都に数か所落雷があり、翌10年(17251111日も京都で落雷があり、農民の家が十軒ほど焼けたと記されている。また、宝歴四年(1754124日には、陸前国に、雷風があり、そのとき海に大波が起こり、三人溺死したとある。安永8年(17791025日にも、京都に大雷があり、享和元年(1280124日にも、雷火により四天王寺が焼け、文政10年(18271120日には、落雷があって、岸和田城の天守閣が焼けた。その他、天保7年(183618日に江戸で、慶応元年(18651125日には大阪で、落雷や雷鳴があったと記述されている。

 また「六月に冰・霜・雹を雨らし」という異常現象も数多く記録されている。

「赤水・黒水・青水を雨らし」とは、色の着いた雨が降ることである。

 慶長13年(1608)、南フランスのある小さな町に、鮮血を思わせるような暗褐色をした雨が降った。住民は、これを本当に血の滴りであると信じ、恐怖におののいた。迷信深い人は、死を覚悟していたとのことである。だが、雨は去り、赤い滴りは次第に蒸発し、そして人びとは、なにごともなかったことにほっと安心し、やがて恐怖から立ち直った。慶長13年(1608)の血の雨のような例は、他にもたびたびあった。日本においても、さまざまに記録されているが、わが国にかぎらず、昔から、いろいろな国でときどき降っている。フランス、イタリア、スペイン、およびトルコの住民は、この不思議な現象を一度ならず目撃しているとのことである

 文化10年(1813)に、イタリアに降ったこの種の雨について、目撃者は次のように語っている。

「人々は、海の方から近づいてくる厚い雲をみとめた。正午頃、雲は四方の山々をかくし太陽をおおいはじめた。はじめうすいバラ色であった雲の色は、火が燃えるように赤い色に変っていった。そしてまもなく、町はきわめて濃い闇につつまれ、家の中でランプをつけなければならないほどになった。……闇はますます濃厚となり、空全体は、灼熱の鉄からできているように見えたのである。やがて雷が鳴りはじめ、赤みがかった液体の大粒が落ちはじめた。これを、ある人は血と考えたし、他の人は溶けた金属と考えたのであった。夜になる頃に、空は晴れ渡り、雷や稲妻も止み、人々はほっとしたのである」。

 そして、この雨滴は、黄褐色の跡をいたるところに残しており、それを拡大鏡で見ると、ごくこまかな赤みがかった塵が、この跡の中に認められたとのことである。

 赤い色の雨だけではない。時には、オレンジ色、黄色、緑色の雨も、見受けられる。これらの雨は、暴風雨の風が、遠くの砂漠、乾燥した大地で、おびただしい量の赤土を空に舞い上げ、それを運んできたり、火山の爆発で火山灰が高空に吹き上げられたりした場合、それらのほこりや灰が、雨とまじり合って、着色した雨をふらせるのである。

 また、夏、池や沼のたまり水は、しばしば緑色、赤褐色、その他のさまざまな色を、ときには黒色を帯びることがある。すなわち水が色づくのである。これは、無数のいろいろな微細の微生物によるものである。ある微生物は緑色の群体をなし、他の微生物は黄色、アイ色、紫色あるいは黒色の群体をなし、水の中で急速に繁殖してゆく。

 こうした色づいた池や沼に、旋風が襲うとそこの水をまき上げ、それからどこか遠いところで、さまざまに色づいた雨として、地上に降らすのである。

 色づいた雨が降ると同様に、色づいた雪が降ることもある。日本の史上においても、幾つかの記録がある。

 最近では、昭和38年(1953115日と30日の二回、石川県白峰地方に「赤い雪」が降った。村役場の話によると、朝起きてみると赤い雪の原になっていて、約十㎝近く積もったときは、銀世界が夕焼けに映えたような景観だったという。この赤い雪の正体は、大陸の黄塵が運ばれてきて、雪とともに降下してきたものと推論されている。

 今日、世界的に赤い雪、その他さまざまな雪が確認され、その原因としてほこりや火山灰が、雪とともに降下する場合と、微生物の繁殖によってそうなる場合等が考えられている。

 つぎに「土山・石山を雨らし」とある。

 これは、土や石が数多く降ってきて山のようにうず高く積まれることか、あるいは土砂くずれをいうのか、いずれとも考えられる。土が降ってくる例は、すでに述べてあるとおりである。石が降るというのは、火山の大爆発、あるいは竜巻によると思われる。また、隕石とも考えられる。

 宇宙のなかには、星や遊星のような大きな天体のほかに、多くの微小天体――石、大小の塵、塵の集まり――がある。これがたまたま地球の大気の中に飛びこんでくると、空気の抵抗にあい、加熱され、発光しはじめ、燃焼してしまう。

 したがって、たいていの場合、隕石とよばれる物体は、きわめて小さな物であり、砂粒よりも小さいこともよくある。だが、微小天体が、多少大きいと、空気中で燃えきらずに地球の表面に到達する。このため大きな石が降ってくることもある。

 1492年、ドイツのエンジスハイム市付近で、多くの人の目の前で、空から大きな音をたてながら、大きな石が落ちてきたので、人々がびっくりしたのであった。

 土地の教会の神父は、これを利用し、空から落ちてきた石は、神によって贈られたものであるとして、教会に安置し、それがまた空に飛び去らないように、鎖で壁にしばりつけた。そして、この石を拝めば、病気が治るとか、その石にさわれば、罪滅ぼしになるのだといって、多くの人に礼拝させたとのことである。

「江河逆に流れて山を浮かべ石を流す」とはなにか。

 これは、大洪水であり、河川の大氾濫である。とくに「山を浮べ」とは、大洪水のため、平野全体が水中に没し、山だけが、あたかも水に浮かんでいるように見えるというような、ものすごい大洪水である。たとえば、延宝2年(1674613日に、中国、近畿一帯が大洪水となった時のもようが、次のように記されている。

「北河内郡、南河内郡等は堤防所々に決壊し遂に淀川の水と大和川の水との合するところとなり北は枚方より南は堺まで東は生駒山麓より西は大阪まで一面泥海と化した。殊に大阪福島を浸した濁水は翌日逆流して天満に入り、天満川の水これに合して天満、長柄から尼ケ崎に至る一円に氾濫し、草木も見えぬ程白波滔々と波立ったとある」。

 まことに「江河逆に流れて山を浮かべ石を流す」ごとき惨状ではないか。

 昭和34年(1959)の伊勢湾台風の時、低地一帯は完全に海の中に埋没してしまった。また、昭和40年(1955915日、台風20号がもたらした1000㍉を越す記録的な集中豪雨で、奥越の平和境といわれた福井県大野郡西谷村は、一瞬のうちにドロ沼の村となった。

「西谷村の災厄は九月十五日朝、突然にやってきた。ゴーッという音が前ぶれの山津波だった。黒いドロ水がまたたくうちに全村を包んだ。ドロの流れはみるみる腹から腰、腰から屋根までと高くなった。家具や衣類も持ち出すヒマはなかった。中心部の中島地区では総戸数一〇六のうち一〇〇戸まで倒壊、流失して全滅状態。村役場も小学校も、公民館もすべてドロの中に埋まっている。『父祖伝来の土地も安住の地ではない』と知らされた村民の一部は早くも離村をはじめている」。

 これまた大水の悲劇である。

 

<第五難・大風数起難>

 大風、万姓を吹き殺し、国土・山河・樹木、一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん。是くの如く変ずる時を五の難と為すなり

 

「大風、万姓を吹き殺し、国土・山河・樹木、一時に滅没し」とは、尋常の大風ではない。わが国においては、史上、いくたびか、猛烈な暴風に襲われ、しばしば大雨をともない、山崩れ、洪水等を引き起こし、ある一帯の地方をまるでちがった光景にしてしまった例も少なくない。たとえば、慶長9年(1604713日に土佐を襲った大風雨は、猛烈なもので、洪水をともない、徹底的な被害をその地方にもたらした。

「不時頓に大風吹来り洪水湧、山之竹林を吹倒し諸之作物根葉を枯し家微塵に吹なし、山は河となし淵河は山と埋れ、人之首も吹切るほどの大風なれば深山幽谷之民等土木におされて死ぬるもあり、或は半死半生の消息、風国土の人民、何千何万」。

 これには、多少の誇張はあるにしても、ものすごいものだったにちがいない。外国においても、猛烈な風害が記録されている。安永9年(1780)にアメリカの大西洋岸を襲ったハリケーンとよばれるすさましい嵐は、四万人の人命を奪った。また、安永5年(1776)、インド洋で起こった猛烈な暴風雨は、ベンガル州の海岸で、山のような波を引き起こし、35万人以上の人が、荒れ狂う水の中で生命を失った。竜巻もまた猛威をふるう。明治37年(1904)に、モスクワの南東にものすごい旋風が巻き起こった。家からはぎとられた屋根は、まるで軽い紙のように空に舞い上がり、古いアンネンゴフスカヤの森は、ほとんど全滅してしまった。太さ1㍍の大木も吹き倒され、さらに森のなかで遊んでいた牛は、風のために空中に吹き上げられ、数秒間も飛行したという。

 だが、経文のごとくであれば、さらに苛烈な大風が吹きすさぶことが考えられる。あまりの異常気象に、大竜巻のごとき現象が一時に頻発したらどういうことになろうか。人を吹き殺し、山河、樹木等をことごとく破懐される等と、まことに恐るべきではないか。

 また、「黒風・赤風・青風」も吹くとあるが、これは、巻き上げられた黒土、赤土の砂塵を含んだ風、あるいは、緑色の海草を含んだ風であろう。これがまた、黒色、赤色、緑色等の雨や雪を降らす原因であることは、前述のとおりである。

 

<第六難・天地亢陽難>

 天地・国土亢陽し、炎火洞然として百草亢旱し、五穀登らず、土地赫然して万姓滅尽せん。是くの如く変ずる時を六の難と為すなり

 

 これはいうまでもなく旱魃である。旱魃の被害については、しばしば述べてきたので、ここでは省略する。ただ、旱魃に対し、ダムを作り、水を貯えて、いざというときそれを使うことができ、あるいは、穀物の貯蔵もできる今日においても、もし、この経文にあるごとき、大旱魃が起これば、まことに甚大な被害を与えるであろう。あるいは「万姓滅尽せん」とあるごとき事実が、未来に起きないと断定することはだれもできまい。

 

<第七難・四方賊来難>

 四方の賊来って国を侵し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊あつて、百姓荒乱し、刀兵劫起らん。是くの如く怪する時を七の難と為すなり

 

 これは、薬師経の七難のうち、他国侵逼と自界叛逆の二難にあたる難である。この難についても、すでにしばしば論じておいた。また本章以後に、何回となくふれるべきことであり、ここでは、最後の「刀兵劫起らん」ということについてのみ言及したい。

 劫は劫掠、すなわちおびやかし奪いとる義といちおうは考えられるが、劫末の三災、とくに兵革の災が盛んなときを「刀兵劫」とよんだものと考えることができる。そこで、成・住・壊・空の四劫についてここで論じておこう。

 宇宙に存在するもののなかで、永遠に変化せず、そのままの姿でとどまっているものは一つもない。いかなるものも、必ず、誕生、存続、破懐、死滅を繰り返して、絶えず変化をつづけている。これを仏法では成・住・壊・空とよんでいる。

 成とは、一つの生命が誕生し、成長していく状態をいい、住とは成長が終わって爛熟期にはいり、それが存続していく状態をいい、壊とは爛熟期を過ぎて老衰期にはいった状態をいい、空とはある一定の生命活動が終わって宇宙のなかに溶けこんでしまった状態をいう。

 これを人間の一生にあてはめてみると、母の胎内に宿り、出生して成長する青少年時代は「成」であり、人生の爛熟期である壮年時代は「住」、老年期は「壊」、死んで生命が宇宙のなかに溶け込んだ状態を「空」ということができる。人間にかぎらず、アミーバのような下級動物から、机やコップなどの非情の生命にいたるまで、宇宙の万物は、すべてこの四段階を循環すると説いているのである。

 これを地球についていえば、地球ができた当初は「成」であり、ここに人間等の生物が生息し活動する期間は「住」であり、地球がだんだん老齢化し、崩壊しゆく段階は「壊」であり、ついに崩壊し尽くした状態になるのが「空」である。

 しかして、宇宙または一世界の成・住・壊・空と、その時間の長さを説くのに、仏法は「劫」という単位を用いている。

 この「劫」には、さまざまな説があるが、大別して小劫、中劫、大劫の三種類がある。顕謗法抄に「人寿・無量歳なりしが百年に一寿を減じ、又百年に一寿を減ずるほどに、人寿十歳の時に減ずるを一減と申す。又十歳より百年に一寿を増し、又百年に一寿を増する程に、八万歳に増するを一増と申す。此の一増・一減の程を小劫として、二十の増減を一中劫とは申すなり」(0447:08)とあるように、一小劫とは1,600万年より2,000年を減じた数にあたる。

 したがって、一中劫とはその二十倍の319,960,000年の長さをさすことになる。そして、この中劫を四つ合わせたものを一大劫といい、この宇宙の始終の長さとしている。そして、この四つの中劫とは、はじめが成劫、次が住劫、さらに壊劫、最後が空劫である。では現在の地球の状態はどこにあたるのかというと、俱舎論によれば、「住劫第九の減」に相当するという。すなわち、成劫すでに過ぎ、まもなく住劫の半ばに至ろうとしているのである。

 最近の天文学では、地球の年齢について「現在の地球は成立後約五十億年、生物ができてから三十億年を経過した壮年期の惑星である」という結論を出しているが、これは年の数こそ違うが、この成・住・壊・空の四劫の考え方と、一致しているのである。

 成・住・壊・空を繰り返すのは、地球ばかりではない。夜空に輝く無数の星にも生まれたばかりの星、若い星、年老いた星等の差別があり、さながら人生のさまざまな姿を見るようである。さらに、これらの恒星と同じく、その構成体たる銀河系宇宙のような星雲すなわち島宇宙も、また一個の大生命体として、成・住・壊・空の流転を繰り返しているのである。

 この大宇宙には、観測可能な範囲だけでも、一千億個の恒星を持つ銀河系宇宙のような島宇宙が、なんと数千億個もあるといわれている。これらの島宇宙が、ことごとく成・住・壊・空の四段階を流転しているのである。

 すなわち、この島宇宙を無数にかかえた大宇宙自体が、生命の法則にのっとって、巨大なエネルギーをたたえながら、悠久に変化を続けているのである。これまことに仏法で説く南無妙法蓮華経という生命の当体であり、無始無終に発展し変化する一大生命体といえようか。

 さて、ここに「刀兵劫」とは、大の壊劫においては、火災、水災、風災の「大の三災」が起こって世界が崩壊していくのであるが、各小劫の末においても、「小の三災」が起こる。これが、穀貴、疫病、兵革の三災で、刀兵とは兵革の災のことである。

曾谷殿御返事にいわく「三毒がうじやうなる一国いかでか安穏なるべき。壊劫の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり。又減劫の時は小の三災をこる。ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり」(1064:14)と。

 しかして、ここに「刀兵劫起らん」とは、正法が隠没すれば、劫末に起こるような、刀兵の難が現実にあらわれ、すさまじい破壊と、凄惨なる闘争が眼前に繰り広げられるであろう、との意とも考えられる。第二次世界大戦の惨禍、さらに全世界を破壊し尽くし、全人類を絶滅させるであろうといわれている核戦争は、まさにこの金言どおりではないか。

 

三千大千世界と現代の宇宙観

 

 この経文に「大王、吾が今化する所の百億の須弥、百億の日月、一一の須弥に四天下有り。其の南閻浮提に十六の大国、五百の中国、十千の小国有り」と。

 これ、まことに雄大な宇宙観ではないか。太陽、月、地球等をひっくるめた世界が、ただ一つではなく百億もあると説かれているのである。しかも、それぞれの世界に人の住むという南閻浮提があり、そこに国も形成されている、というのである。

 ここで、須弥山を中心とした宇宙観について一言したい。

 三千年前、釈尊出現当時、一般には須弥山を中心とする世界観、宇宙観が信じられていた。釈尊も、それを否定せず、いちおうは用いているが、あくまでも絶対的なものとしてではなく、衆生の機根にしたがったものであろう。それは須弥山を中心とした宇宙観が、もっとも低い小乗経に多く説かれていることからもうかがえる。おそらく釈尊は、生命の実相を説かんとして、当時のインド人の生活感情を考慮に入れ、それを生かして用いたにちがいない。  

 須弥山というのは、われわれの住む世界の中央にあり、その東面は白銀、西面は波璃、南面は瑠璃、北面は黄金であり、上と下の直径が大きく腰がほそい杵のような形をしていて、その高さは水面より八万四千由旬あるとされている。一由旬については、現在の距離に換算すると、34㌔、16㌔、9.6㌔など諸説があるが、いずれにせよ、800,000㌔から2,000,000㌔という巨大なものになる。そして、その頂上には、帝釈天をはじめ、三十三天が住むとされているのである。

 こうした表現からすれば、須弥山は古代のインド人が描いた一つの理想郷ともいえる。仏法以前のインドでは、開目抄に「所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し、上、色・無色をきわめ、上界を涅槃と立て、屈歩虫のごとく・せめのぼれども、非想天より返つて三悪道に堕つ。一人として天に留るものなし」(0187:14)とあるように、天上界に生まれることを理想としていたので、そうした思想を反映したものが、須弥山中心の世界観だったともいえる。

 この須弥山のまわりには、香水海があって須弥海といい、さらにその外側を七つの金山と、それと同名の七つの功徳海が囲んでいるという。おなじく開目抄に「或は冬寒に一日に三度・恒河に浴し」(0187:16)とあるように、インドでは川が神聖視されており、とくにガンジス河は聖地とされ、そこで、沐浴して祈ることが現在でも盛んに行われている。須弥山の周囲の香水海、功徳海という考え方も、そういう思想が反映したものであろう。

 いちばん外側の海は鹹水をたたえた大海で、さらにその外側を鉄輪囲山という山に取り囲まれている。この外界の四方に四つの大陸があり、東方を弗婆提、西方を瞿耶尼、南方を閻浮提、北方を鬱単越といった。南閻浮提の中央に阿褥達という池があり、その南に大雪山があり、さらにその南に天竺、東北に震旦、西北に波斯国があるとされている。これはいうまでもなく、ヒマラヤを中心として構成された、当時の世界地図なのである。現在では、地球上の全世界が閻浮提にあたると考えることができる。

 太陽も月も、この須弥山を中心に運行しているという。そして、この九山八海および太陽も月も含めて、一世界の最小単位と考え、これを小世界といったのである。

 むろんこうした世界観は、現在においてそのまま認めるわけにはいかない。戸田先生が「仏法において、須弥山中心の世界観は現在の地球上のみをもって考えることはできない。この国土観は、現在のことばをもってすれば、宇宙観ともいうべきでものである」と述べているとおりである。

 しかし、仁王経等の大乗教へくると、この須弥山を中心とした宇宙観は、巨大なスケールをもって説かれるのである。すなわち「百億の須弥、百億の日月」等と、こうした世界が百億もあるというのである。

 さらに、三千大千世界という、まことに膨大な宇宙像が示されていく。三千大千世界とは、太陽、月、四州、六欲梵天等を含むものを一世界とし、それを千あわせて小千世界、小千世界が千集まって中千世界となり、中千世界が千で大千世界、または三千大千世界という。また一説には、三千大千世界の最初の小千世界は、一世界が百億集まったものであるとする説もある。

「三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲・梵天を一四天下となづく。百億の須弥山・四州等を小千と云う。小千の千を中千と云う。中千の千を大千と申す」(1104:03)。

 これによれば、仁王経に説かれた「百億の須弥、百億の日月……」なども、三千大千世界のうち、ただの一小世界にすぎない。

 法華経の寿量品には「五百千万億那由陀阿僧祇の三千大千世界……」とある。すなわち、五×百×千×万×億×那由陀×阿僧祇の三千大千世界ということである。まず億とは、諸説があるが、十万と考えてよい。那由陀とは、これもさまざまな説があるが、現在の一千億にあたると考えられる。また阿僧祇とは、これまた諸説があり、定説がないが、倶舎論によると五十個の零がつく数とされる。

 この三千大千世界の考え方を、現代の宇宙についての常識で考えてみよう。一世界とは、太陽系のように一つの恒星を中心とした世界と考えられる。そうすると、小千世界は銀河系のような島宇宙をさし、中千世界ともなれば星雲団と考えなければならなくなる。そうなれば、大千世界は、現在知られている大宇宙全体の規模で考えることが必要になる。

 そして、法華経寿量品で、五百千万億那由陀阿僧祇の三千大千世界と説いているのは、宇宙の無限を、可能性として認めていることになろう。

 最近の天文学によれば、われわれの地球が属する、この銀河系宇宙は、太陽のような恒星を約一千億個も含む島宇宙で、銀河系外のアンドロメダ大星雲や大マゼラン星雲のような島宇宙とまったく同格の小宇宙であることがわかってきた。しかも宇宙全体には、このような小宇宙が、なんと数千億個も存在するというのである。しかも、銀河系宇宙のなかには局部恒星群のようなものが多くあり、また銀河系宇宙のような星雲が数万個集まって星雲団をつくり、つぎつぎに大きな集団をつくっていることが確認されている。

 この三千大千世界という考え方は、宇宙が無秩序の空間であることを否定しているところに大きな特色があり、一つの世界がより大きな世界の構成員となり、それはまた、さらに大きな世界を形づくっていくという、一種の「階層性」を示しているといえる。いくつかの惑星が太陽系を構成し、恒星の集まりが島宇宙となり、さらに星雲団となり、それが大宇宙であるという現在の宇宙観と、その発想は全く同じだといってよい。もちろん、何千年も前に説かれたものだから、科学的知識それ自体は古いとしても、宇宙の実像をとらえる当時の人たちの直観的な洞察力というものは卓抜していたといえよう。

 現代の宇宙観によれば、われわれの銀河系宇宙は、百億~百五十億年の歴史をもち、直径が約十万光年、中心部の厚さが一万五千光年ぐらいの凸レンズの形をした、一千億の恒星と莫大な星間物質の大集団で、渦状星雲といわれるものである。その全体を取り巻いて半径六、七万光年ほどの星と希薄なガスと球状星団があり、銀河系のコロナとかハローと呼ばれている。

 また太陽系は、銀河系の中心から三万光年ぐらい離れたところで、渦巻きの腕の一本の端のほうにあるといわれる。銀河系宇宙は二億年の周期で自転しており、電波で観測した結果では銀河系の中心部、半径二、三千光年のところで、さらに十倍ほど早い速度でまわっているという。

 しかも、太陽は、恒星としてはごくありふれた星で、恒星進化によって、何代も世代を経た恒星といわれる。それでは太陽という恒星の惑星である地球は、どのようにしてできたか。また、地球のように生物あるいは人類のごとき高等生物が住む天体が、ほかにこの宇宙にはあるのだろうか。また、あるとすればどのくらいありうるのだろうかという疑問が生ずる。

 いずれにしても、太陽はありふれた恒星であるし、地球のような惑星も宇宙のいたるところに無数に存在し、したがって、人類、否それ以上の高等生物の住む惑星も、現実に、この宇宙に数多く存在することが推測できるのである。しかし、法華経以外の権経で説く、西方十方億土の極楽浄土のごとき仮説は、もちろん論外である。

 法華経等で説かれる三世十方の仏土観は、まことにおもしろい。仏土というのは、生命論から考えれば、人間のような知的生物が存在する世界といえよう。もちろん、形とか、化学的構造などは、人間と異なるかもしれないことは当然だろう。十方というのは、四方八方と上下をいい、全方向をさすわけだから、十方に仏土ありとは、宇宙規模で仏土を考えていたことになるのである。これは、仏法がけっして閉鎖的なものではなく、世界に広がり、さらにいえば、全宇宙的広がりをもった教えであることを示している。この仏法の思想からするならば、宇宙のあらゆるところに、生命発生の契機が存在し、また生命が発生している星が数多くあるといっても、けっして不思議ではないのである。

 ここで、地球の生成について考えてみよう。いくつかの説がある。

 その一つは、太陽の誕生の過程で、地球なども自然にできたというものである。太陽のような恒星の母体は、星間物質という冷たいガスや微塵の巨大なガス雲であった。このガス雲が自転するうちに、中心は冷たい原始太陽となり、まわりの渦巻き運動のなかから、惑星や衛星が生じたとする。

 このような雲が、同じような二つのものに割れると連星となり、三つに割れると三重星になり、一方が大で一方が小さいと、小さい方はいくつかにも割れて惑星になるという。星全体の半分ほどが、連星であるという事実は、この説に有利である。具体的な過程となると、ジェラルド・カイパー、シュミット等の理論が、さまざまにあり、定説はないが、惑星は星間物質からできたとする点で、一致している。

 地球生成のもう一つの説は、フレッド・ホイルによって最近唱えられた説である。太陽と地球の組成はかなり違っているところから、地球は、太陽と連星になっていた巨大な星が超新星となって大爆発し、ガスとして吹き飛ばされた。そして、超新星の高温の恒星核には、すでにあらゆる原子核融合反応が行われ、現在の地球や惑星と同じような組成をもっていた。

 この恒星核が太陽から飛び去る前に、ガスの雲を噴き出し、太陽がこれを捕えた。このガス雲は太陽のまわりに拡がり回転する円盤の形をとり、惑星は、この円盤内の物質から凝結したとする。すなわち、地球の真の親は太陽ではなく、飛び去った不明の星ということになる。連星が多いことは、この説を有力にしている。

 しかし、天文学者たちも、こうした考えられうる説のすべては、明らかに人間には実証不可能な仮説を含んでいることを認めているのである。だが、いまあげた二つ説のいずれもが、地球のごとき惑星が、全宇宙に数限りなく存在しうることを示している点では共通している。すなわち、第一説にあっては、銀河系だけに限っても、一千億の恒星のなかに1%ないし10%が惑星系をもつとし、小さく考えても十億の恒星に惑星系があり、平均十組の惑星をもつとして百億の惑星が存在することになる。すなわち全宇宙では、数千億の星雲が存在しているから、百億×数千億の惑星があることになる。

 また第二説によっても、銀河系内で二百年ないし三百年について一回の割合で、超新星が爆発したことが、歴史上わかった。しかも、他の星雲で広範囲に捜索した結果、超新星の爆発は一つの星雲について、四百年ないし五百年について一回の割合で起こるという。ゆえに各星雲では百万個の惑星系、千万の惑星、したがって、全宇宙では千万×数千億の惑星があることになる。

 もちろん、こうした多数の惑星のなかには、地球に似たような状態の惑星や、地球よりももっと生命の存在に良い条件をもつ惑星が存在していると考えられる。その数の算出の仕方は、学者によって異なっている。いずれにせよ、算定する基礎資料が不足しているのだから、きめること自体が無理ともいえる。しかし、原理的には、太陽系や地球は、けっして特殊な存在ではなく、広い宇宙に、似たような星が少なからず存在しうることは予想できるのである。そして、そこに人類と同じ、また人類よりも高度の知能をもった生物が住むことも考えられるのである。

 惑星に生命が誕生して数十億年もたてば、人間のような高等生物、知的生物にまで進化しうる確率はかなり高いといえるであろう。しかして、それらの惑星においても、地球上と同じく、仏法律、仏法がかならず生命の哲理として価値をもつことは、最高の道理なるゆえに、疑いのないところであろう。

0017~0033 立正安国論 0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引 0020:05~0020:10 第七章 再び大集経を挙ぐ

00170033 立正安国論 0017:150020:13 第二段 災難由来の経証を引 0020:050020:10 第七章 再び大集経を挙ぐ

 

本文

 

  大集経に云く「若し国王有つて、無量世に於て施・戒・慧を修すとも、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、是くの如く種ゆる所の無量の善根、悉く皆滅失して、其の国に当に三の不祥の事有るべし。一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり。

  一切の善神悉く之を捨離せば、其の王教令すとも、人随従せずして、常に隣国の侵嬈する所と為らん。暴火横に起り、悪風雨多く、暴水増長して人民を吹き漂し、内外の親戚其れ共に謀叛せん。其の王久しからずして、当に重病に遇い、寿終の後、大地獄の中に生ずべし。乃至王の如く、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復是くの如くならん」已上。

 

現代語訳

 

 また大集経には次のごとく説かれている。

 もし国王があって無量世にわたって布施を行じ、戒律をたもち、智慧を修得しても、正法の滅するをみて、捨てて擁護しないならば、このようにして修行して植えてきた計り知れないほどの善根も、皆ことごとく滅し失って、その国に三つの不祥事が起こるであろう。その三不祥事とは、一には穀貴で民衆が苦しみ、二には兵革、すなわち戦争であり、三には疫病である。

 このようなときには、いっさいの善神がことごとくその国土を捨てて離れてしまうので、その国の王がいかに教令しても、いっこうに国民がそれに隨従しないばかりか、つねに燐国の侵略をうけるであろう。そのうえ、よこしまに猛烈な大火災が起こり、悪風雨があって河川が氾濫し大洪水となり、多くの人民を吹き飛ばし押し流す。そして、王の内親も、外戚も、ともに謀叛を起こすであろう。その王はまもなく重病にかかり、死んでのち大地獄のなかに生ずるであろう。王と同じく夫人、太子、大臣、城主、柱師・郡守、宰官たちも、みな王のように地獄へ堕ちるであろう。

 

語釈

 

三の不祥の事

 正法に背き、また正法を受持する者を迫害することによって起こる三つの災害。三災について大集経には①穀貴(飢饉などによる穀物の高騰)、②兵革(戦乱)、③疫病(伝染病の流行)が説かれる。

 

侵嬈

 侵略のこと。「侵」は侵すこと。「嬈」はなぶる、もてあそぶの意。

 

暴火横に起り

 暴火とは大火。「横」とは、道理にはずれていること。正しくないこと。

 

柱師

 村主と将帥のこと。引用した大集経には「村主将師」とあり、村の首長と将軍を意味する。

 

宰官

「宰」はつかさどる、「官」はつかえる、つとめるの意。前者が役所の長官等をさすのに対して、後者は一般吏員をさすと立て分けられる。合わせて官吏一般を通称したもの。

 

講義

 

 これは、三災を明かした経文である。さきに述べたごとく、三災には大の三災と小の三災があり、大の三災は、壊劫のとき起きる火災、水災、風災であり、小の三災とは、小劫の終わりに起きる、飢渇、疫病、合戦である。いま大集経では、飢渇を穀貴とし、合戦を兵革として、第一に穀貴、第二に疫病、第三に兵革としている。ともに同じ意味である。

 日本もかつて未曽有の兵革の難にあい、また終戦後も、物価の急上昇、疫病の蔓延、さらにアメリカ軍の占領下にあったことを思うときに慄然とせざるをえない。だが、今日においても、けっしてこの三災が去ったわけではない。否、むしろ、かたちを変え、しかもまた、さらに深刻に、この三災が起きつつあるし、また、将来に起こるやもしれぬのである。

 御義口伝には法華文句を引いて、これらの三災の起こる原因を、五濁のなかの劫濁の姿から、次のように説いている。

「相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり。瞋恚増劇にして刀兵起り、貪欲増劇にして飢餓起り、愚癡増劇にして疾疫起り、三災起るが故に煩悩倍隆んに、諸見転た熾んなり」(0718:02)。

 この文の意味は、こうである。――劫濁の相というのは、四濁がきわめて激しく、ある時代にあつまっていることなのである。瞋恚が激しくなれば、その国土に戦争が起き、貪欲が盛んなときは、飢餓が起き、愚癡が多いときは、伝染病が蔓延する。このように三災が起こってくると、人びとの煩悩はますます盛んとなり、諸々の邪悪な思想や宗教がはびこるようになるのである。――

 これと同様の御文が、曾谷殿御返事に「飢渇は大貪よりをこり、やくびやうは・ぐちよりをこり、合戦は瞋恚よりをこる」(1064:15)とある。この三災を起こす根源とされる貪瞋癡の三毒を、現代的に表現するならば、物質的欲望、社会的欲望、感情的衝動・愚かさ、といえよう。それは生命に本源的にそなわった特質であり、なくせるものではない。また、それは生命維持のために欠かすことのできない働きをになっているものでもある。しかし、それらの働きに支配されたとき、それによって生ずる結果は悲惨なものとなるのである。

 まず「瞋恚増劇にして刀兵起り」とは、戦争の本質をついたものである。戦争など狂人でない限り、だれ一人として望んではいない。これを望むような人があれば、まさに姿はどうであろうと魔であり、鬼であると断定せざるをえない。ではいったい、だれも望まぬにもかかわらず、なぜ戦争が起きるのか。核兵器が製造されるのか。第三次世界大戦の恐怖におびえねばならぬのか。これは、理性では絶対にわりきれぬものである。これ、ひとえに人間の生命に、本然的にそなわる瞋恚の生命に支配されるからにほかならない。平和を願う人が、ひとたび戦争の渦中に巻き込まれるや、殺人鬼のごとく殺戮に狂奔するのも、指導者の頭が狂い、まるで何かにとりつかれたかのごとく人びとを戦争をかりたてるのも、これまったく瞋恚からくるものである。

 次に「貪欲増劇にして飢餓起り」とは、人びとが、利己主義で、自分の利益を追求することのみに没頭し、あくせくしているならば、たまたまの旱魃が、徹底的に民衆に大打撃を与え、飢餓が起こるのである。とくに政治の劣悪は、インフレ、物価高を起こし、人びとの生活を苦悩のどん底へと追いやるのである。人びとは、他人をけおとしてまで、自己保身のために躍起となり、それがますます、飢餓を増していくのである。とくに指導者が貪欲にかられ、おのれ一身の利益追求のみにふけり、民衆を忘れたならば、民衆は塗炭の苦しみを味わわねばならない。これ、今日までの歴史が、あまりにも明確に物語っているではないか。

 さらに「愚癡増劇にして疾疫起り」とは、愚癡すなわち愚かであるために、病気が起こるというのである。すべての病気は、正しいリズムからはずれたときに起こる。すなわち病気とは、生命の不調和である。それは一時的、部分的、末梢的な不調和である場合もあるし、また永続的、全体的、根本的な不調和の場合もある。それによって、病気の軽重、治療の難易もわかれてくるのである。そしてそれは、外部から引き起こされる場合もあり、生命の内部から引き起こされる場合もある。後者は前者よりも重く、現代医学をもってしても解決できないものがほとんどである。だが、いずれにせよ、しょせんは、生命力の減退こそ病気の根本原因であると断ずることができる。もし、生命力に満ちている身体であれば、外部からの病原菌にも左右されず、少々の病悩も悠々と克服していくことができるからである。しかるに愚癡蒙昧にして、目先のことのみに目を奪われ、正しきことに積極的にならず、無気力となり、生命力が衰えると、そこに疫病が蔓延するのである。

「三災起るが故に煩悩倍隆んに、諸見転た熾んなり」とは、こうした、人びとの生命の濁りが原因で、刀兵、飢餓、疾疫の三災がおこるのであるが、この三災がまた原因となって、さらに煩悩や邪見を増すという悪循環を繰り返すのである。

 しかして、この貪・瞋・癡の三毒は、じつに、邪宗、邪教、邪智により盛んとなったものであり、また正法隠没とともに、わが身体の中にある妙なる生命もおおわれて、生命それ自体が三悪道、四悪趣のみ活発となったものである。この三毒は、時代とともに民衆の生命を支配し、一国を支配し、たえず三災の起こる基盤となったのである。ゆえに、曾谷殿御返事の次下の文にいわく「今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女、人人ことなれども同じく一の三毒なり。所謂南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば、人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にのり、せめ、流し、うしなうなり。是れ即ち小の三災の序なり」(1064:16)と。

 されば、今日の三災に終止符を打つ道は、その原因たる人間生命に内在する貪・瞋・痴の三毒を支配し、克服していける強い理念、精神的な支柱を確立する以外にはない。それは、現実の貪欲や瞋恚・愚癡に左右されるような低級な信仰であっては不可能であるし、またそれを排斥する観念的な信仰でもできえない。人間生命のありのままを認めつつ、そこに崇高な理念と使命感とを打ち立てて、昇華していく高等宗教でなくてはならない。これらの条件にかなった真実の世界宗教、高等宗教こそ、偉大な生命哲理に裏づけられた日蓮大聖人の仏法であり、大聖人の仏法による以外、確固たる人類共通の精神的基盤は、絶対に現出しないのである。

 近年、機械文明、物質分明の発達とともに、精神的なものの発達を、物質的発達と表裏一体のものとして必要であるという主張が、とみに盛んになってきた。また、アジア諸民族の健全な前進に、人類の未来を託そうという声も、多く聞かれるようになった。

 たとえば、フランスの評論家ジャン・バレーは「資本主義も共産主義も、いずれも人間を粉砕するために役立つだけの結果にすぎなかった。未来の究極の課題は、精神の文化、人間の進化、モラルの革命である」と説き、「二十一世紀初頭まで、人間が生存するならば、アジアの諸大国が進歩した力によって、人類を指導するだろう」と述べている。

 また、イギリスの政治学者E・H・カーは、歴史の進歩について述べたなかで、トックヴィルの「新しい世界には、新しい政治学が必要である」との言葉を引用し、これからの新しい歴史を築くべき、新しい理念の完成を待望している。

 近代最高の理論物理学者アインシュタイン博士は、はじめドイツより先に、アメリカで原爆を製造することを勧告しながら、のちに原水爆の恐怖を全世界に訴え、「人類の滅亡を防ぐには、偉大なる精神文明の台頭が必要であり、私はそれをアジアに期待する」と叫んだ。

 イギリスの著名な歴史家トインビー博士は「人類はいま、大量自殺行為をあえて犯すか、さもなくば人類全体の共存かの二者択一の決定を迫られている。共存共栄の唯一の道を選ぶには、文明が生み出した高等な宗教による人間の救済こそ最高の価値があり、そのもっとも優れた宗教は、アジアにおける大乗仏教である」と述べた。

 さらにロベルト・ユングは、機械文明を高く評価しながらも、同時に人間の将来について、根本的な指向、すなわち大規模な精神的変革の必要性を強調している。

 アメリカの文明批評家ルネ・デュボス博士は、私と対談したおり「共産主義、資本主義、民族主義など、これらのすべての主義というものは、もはや創造的な力にはなりえない。それは、これらの主義にみられる人間のとらえ方が、根本的に経済的、政治的であり、より基本的、普遍的な〝人間の欲求〟には目を向けていないからだ。つまり、すべてが他を攻撃することだけに終始して、あまりにも独善的になりさがっている。二十一世紀にわれわれがしなければならないことは、この基本的、普遍的欲求の原点たる人間というものを再発見し、それを満足させるかたちで、社会の制度をその人間の欲するもっともふさわしいように組織し直す必要がある」と語っていた。

 かく展望してくると、今後の世界は、新しい生命科学台頭の時代であり、科学文明と表裏一体のかたちで精神文明の興隆が強く望まれる新時代を迎えている。この要求に応えて、国家や民族という社会的な次元ではなく、より深く生命の次元から人間をとらえ、人間生命を開拓し、その尊厳性を裏づける日蓮大聖人の仏法こそ、世界の全人類共通の精神的基盤たりうるのである。この仏法の大地のうえに、人間文化が絢爛と花開いたとき、人類の心を一つに融合する理想的な平和世界が現出することを確信するものである。

0017~0033 立正安国論 0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引 0020:11~0020:13 第八章 四経の明文により災由を結す

00170033 立正安国論 0017:150020:13 第二段 災難由来の経証を引 0020:110020:13 第八章 四経の明文により災由を結す

 

本文

 

  夫れ四経の文朗らかなり。万人誰か疑わん。而るに盲瞽の輩、迷惑の人、妄に邪説を信じて、正教を弁えず。故に天下世上、諸仏・衆経に於て、捨離の心を生じて、擁護の志無し。仍って善神聖人、国を捨て所を去る。是を以て悪鬼外道、災を成し難を致す。

 

現代語訳

 

 以上のように、金光明経、大集経、仁王経、薬師経の四経の経文はまことにはっきりしている。だれびとたりとも、どうしてこれを疑うことができようか。しかるに、道理にくらく法の正邪の区別がつかない人や、邪正に迷っている者が、みだりに邪説を信じて正しい教えをわきまえず、ゆえに世間の人びとは、すべて諸仏や衆経に対して、捨て離れる心を生じて擁護の志がない。そのために諸天善神も聖人も、その国を捨てて他所へ去ってしまい、かわって悪鬼、外道が災難を起こすのである。

 

語釈

 

盲瞽 の輩

「盲」は、生まれてのちに視力をなくした者。「瞽」は生まれつき目が見えない者をいった。ここでいう盲瞽の輩とは、仏法の正邪が分からない人の意。

 

講義

 

 災難の起こる理由は、第一に、人びとがことごとく邪宗教を信ずること、第二に、そのために諸天善神がその国を捨て去ること、第三に、悪鬼が乱れ入って災難が起こること、の三つである。

 以上の道理を経文によって明らかに示されている。法然の撰択集は、もっぱら念仏の三祖たる曇鸞、道綽、善導の釈にもとづいて、自己の見解を述べているのに対し、日蓮大聖人はあくまで経文を第一とし、釈尊の仏教は、まず釈尊を根本に立てて判断しなければならないとされている。そうなれば、法華経が、仏法の真髄であり、かつ最高峰であることを知り、さらに法華経の文によって、末法には上行菩薩の再誕たる御本仏日蓮大聖人が、三大秘法をもって末法万年の外未来までの一切衆生を救われるということが、まさしく経文どおりであり、仏法の定理であり、大宇宙の鉄則であることが明瞭となる。されば、日蓮大聖人の仏法に帰依する以外に、真実の幸福への道はないことを知らざるをえない。

 以上のごとく、大聖人が経文を第一に引かれる深意を知らなければならない。

 また、このように大聖人ご在世当時に、釈尊の仏法は末法に用うべきでないと、断固破折されているにもかかわらず、いまなお禅宗、真言宗、念仏宗等が、大伽藍をもち、その形骸を保っているということによって、いかにいまの日本民族が、仏法に昧いかということが、はっきりとわかる。それにもまして奇怪なのは、日蓮大聖人の名をかたって、仏法の真髄を乱さんとする日蓮宗系の諸派の徒輩である。また、なんら大聖人の仏法を知らずして流行している新興教団は、仏敵といおうか、師子身中の虫であり、人心を荒廃に導く一大原因をなしているのである。

 なお「善神聖人、国を捨て所を去る」について、日寬上人は、立正安国論文段に「この論は、正しく法然に対するのである。ゆえに諸仏・衆経において捨離の心を生じ神聖捨て去るというのである。もし、その元意は釈尊・法華経において、捨離の心を生ずるゆえに、神聖捨て去るのである」云云と述べている。

 すなわち、本文には、諸天善神が国を捨て去るのは、法然が「捨・閉・閣・抛」の四字で、一切衆生をして「諸仏・衆教」に捨離の心を生ぜしめたからであるとあるが、その元意は、釈尊および法華経、さらに本因妙の釈尊、すなわち日蓮大聖人および下種の法華経、すなわち御本尊に捨離の心を生ぜしめたからであるとの仰せなのである。

0017~0033 立正安国論 0020:14~0021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0020:01~0020:16 第一章 仏法興隆をもって問難す

00170033 立正安国論 0020:140021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0020:010020:16 第一章 仏法興隆をもって問難す

 

本文

 

  客色を作して曰く、後漢の明帝は金人の夢を悟つて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構を成す。爾しより来、上一人より下万民に至るまで、仏像を崇め経巻を専らにす。然れば則ち叡山・南都・園城・東寺、四海・一州・五畿・七道、仏経は星の如く羅り、堂宇雲の如く布けり。鶖子の族は則ち鷲頭の月を観じ、鶴勒の流は亦鶏足の風を伝う。誰か一代の教を褊し、三宝の跡を廃すと謂んや。若し其の証有らば、委しく其の故を聞かん。

 

現代語訳

 

 客は顔色を変えて問い返した。

 中国・後漢の明帝は金人の夢を見、その意味を悟って、仏法をインドから求め、わが国においては聖徳太子が仏教に反対する物部守屋の叛逆を征伐して、仏教を興隆し、寺塔を建立したのである。それより以来、上は天皇から下は万民にいたるまで、仏像を造立して崇め、経巻をひもとき読誦してきた。

 したがって、比叡山、南都、園城、東寺をはじめとして、四海、一州、五畿、七道の全国いたるところに仏法はくまなく伝播して、仏像、経巻は星のごとく連なり、寺院は雲のようにたくさん建ち並んでいる。ゆえに舎利弗の流れを汲む人びとは、その観法を崇める立場を守り、あるいは付法蔵の第23祖である鶴勒の流れを汲む者は、その教法を尊ぶ伝統を今日まで伝えている。

 しかるに、釈尊一代の教えを破り汚し、仏法僧の三宝を廃し、仏法が隠没してしまった等とだれがいえようか。

 もし、その証拠があるならば、詳しくその理由を聞きたいと思う。

 

語釈

 

後漢の明帝

中国・後漢の第二代孝明皇帝のこと。中国に仏教が伝来したのは、孝明皇帝によると伝えられていた。「仏祖統紀」巻三十五には明帝七年の箇所に、帝は丈六の金人がうなじに日光を帯び、庭を飛行するのを夢に見て、醒めて群臣に尋ねた時、太史・傅毅が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人が出現し、その名を仏というと聞いていると進言した。そこで帝は、使者を遣わし西域に仏道を求めさせた。これら一行は大月氏国で摩騰迦と竺法蘭に会い、仏像ならびにサンスクリットの経典六十万言を得て、それを白馬に乗せ、摩騰迦と竺法蘭とともに、永平十年(0067)(和暦垂・仁天皇96)に洛陽に帰った。帝は大いに喜び、摩騰迦をまず鴻臚寺に迎え、次いで同11年(0068)勅令して、洛陽の西に白馬寺を建てて仏教を流布させたと伝えられる。

 

上宮太子

飛鳥時代の政治家。厩戸皇子・豊聡耳皇子・上宮王ともいう。聖徳太子のこと。用明天皇の第二皇子。叔母・推古天皇の皇太子、摂政となり、冠位十二階、十七条憲法を制定。小野妹子を隋に派遣し国交を開く。また四天王寺をはじめ七大寺を造営し、法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書である三経義疏を作ったと伝えられる。これらの業績が、実際に聖徳太子自身の手によるものであるか否かは、今後の研究に委ねられている。ただし、妃の橘大郎女に告げた「世間は虚仮なり、唯、仏のみ是れ真なり」という太子の言葉が残されていて、ここから仏教への深い理解にたどり着いた境地がうかがわれる。日本に仏法が公式に伝来した時、受容派と排斥派が対立したが、聖徳太子ら受容派が物部守屋ら排斥派を打ち破り、日本の仏法興隆の基礎を築いた。日蓮大聖人は二人を相対立するものの譬えとして用いられている。

 

守屋

物部守屋のこと。飛鳥時代の中央貴族。敏達・用明天皇の時代に大連となり、父の尾輿の排仏論を継いで、崇仏派で大臣の蘇我馬子と対立した。敏達天皇の時に疫病が流行したが、守屋はそれを仏法を崇拝したためであるとして、堂塔を壊し仏像を焼いた。用明天皇の没後,穴穂部皇子の即位を図ったが、皇子は馬子に殺され失敗した。用明天皇の同母妹で敏達天皇の皇后である額田部皇女と、その甥の厩戸皇子とを奉じた馬子や諸豪族のなかで孤立し、馬子らに攻められて敗死した。

 

叡山

 比叡山延暦寺のこと。滋賀県大津市にある日本天台宗の総本山。山門または北嶺とも呼ばれる。延暦4年(07857月、伝教大師最澄が比叡山に入り、後の比叡山寺となる草庵を結んだことを起源とする。同7年(0788)、一乗止観院=根本中堂を建立し薬師如来を本尊とした。唐から帰国した伝教大師は同25年(0806)、年分度者二名を下賜され、天台宗が公認された。ここに比叡山で止観業と遮那業を修行する僧侶を育成する制度が始まった。伝教没後七日目の弘仁13年(0822)、大乗戒壇の建立の勅許がおり、翌・同十四年(0822)、延暦寺の寺号が下賜され、大乗戒による授戒が行われた。

 

南都

 平城京、長岡京、平安京と遷都したなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。ここでは奈良七大寺のこと。すなわち東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の七か寺をいう。このうち、元興寺と大安寺は現存しない。

 

園城

 園城寺のこと。滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山。山号は長等山。三井寺ともいう。山門に対する寺門をいう。弘文天皇の皇子、与多王によって7世紀後半に建立されたと伝えられる。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので御井と呼ばれた。比叡山の円珍が貞観元年(0859)に再興し、同6年(086412月に延暦寺の別院とし、円珍が別当となった。しかし、円仁門徒と円珍門徒との間に確執が生まれ、法性寺座主が円珍系の余慶となったことをめぐって争うなど、双方の対立は深刻化する。そして正暦四年(0992)には比叡山から円珍門徒一千人余りが園城寺に移り、以降、山門と寺門の抗争が続いた。

 

東寺

 京都市南区九条町にある真言宗東寺派の本山。金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と称し、略して教王護国寺、また弥勒八幡山総持普賢院ともいう。延暦15年(0796)第50代桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門の左右に、左大寺・右大寺の二寺を建立した。その左大寺が東寺である。弘仁14年(0823)第52代嵯峨天皇が空海に下賜した。

 

五畿・七道

 古代日本の地方区分。五畿は山城、大和、河内、和泉、摂津の畿内五カ国。七道は東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海。五畿七道で日本全国を表す。

 

鶖子の族は則ち鷲頭の月を観じ

 鶖子とは、梵名シャーリプトラ(Śāriputra)の訳。音写して舎利弗、舎利子とも書き、身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。鶖子の族とは、観法を尊ぶ流派を総称している。鷲頭とは、王舎城の東北にある霊鷲山の頂との意。鷲頭の月を観じとは、観念観法により法華経の哲理を会得し、との意。

 

鶴勒の流は亦鶏足の風を伝う。

 鶴勒とは、鶴勒夜那の略。梵名ハクレーナヤシャ(Haklena-yaśa)の音写。鶴勒夜奢とも書く。付法蔵の第22粗。ここで鶴勒夜那の名前を出したのは、鶖子、鷲頭、鶴勒、鶏足と、鳥の名前によせて対句的に述べられるために、付法蔵二十四人の代表としてあげられたものであろう。鶴勒の流とは、観法に対して教法を尊ぶ流派の総称。鶏足とは、インドの伽耶城東南方にある鶏足山のこと。付法蔵の第一、摩訶迦葉が、この山の洞窟に入定し、如来の遺法と衣を奉持して、弥勒に授与するために、弥勒仏の出現を待っているという。鶏足の風を伝うとは、付法蔵第一の迦葉以来二十四人により正しく教法は伝えられ、いまなおその伝統はくずれないとの意。

 

講義

 

 この段では、たくさんの寺があり、数えきれないほど多くの僧侶があっても、正法を誹謗している、邪な宗教ばかりでは、けっして平和な社会、幸福な楽土を築くことはできない。のみならず、かえって災難が競い起こる旨を説かれるのである。

 まずはじめに「客色を作して曰く」とは、すでに前段で主人が四経の文を引き終わって、結して天下世上が諸仏衆経において捨離の心を生ずるといったため、客は顔色を変えて、そんなはずはないといって問難するのである。

 後漢の明帝の時を論ぜられたのは、中国に仏法が渡ったことを示し、上宮太子の時を述べられたのは、日本における仏法流布を明かされたのである。すなわち、これ仏法東漸の歴史を述べたものである。

 

上宮太子は守屋の逆を……

 

 仏教が、わが国に伝来したのは、およそ千四百年前であった。インドに発生し、釈尊によって説かれた仏教が、やがて中国、朝鮮を経由して、仏教有縁の国・日本に伝来したのである。

 仏教と神道が大きく相争ったのは、この仏教伝来時と、明治維新の王政復古のさいであったが、この両者とも、ほぼ百年足らずにして仏教の勝利に終わったことは、まことに不思議といわなければならない。

 わが国に仏教が伝来した年代については種々の説がある。もっとも一般にいわれているのは、日本書紀により第三十代欽明天皇の12年(0552)である。百済国の聖明王が、その年の冬10月、西部の姫氏達率怒唎斯致契等を遣わし、釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献じたことが、日本書紀に記載されているからである。

 同じく日本書紀によれば、欽明天皇は、おおいに喜ばれて、その使者に「朕は古より此の如き微妙の法を聞かず、然れども朕自ら、之を決すること能わず」とおおせられて、群臣を集めて諮問せられ、仏教を奉ずべきかどうか会議にかけられた。

 このとき、大臣蘇我稲目は仏教を信ずべきであると答え、物部大連尾興、中臣連鎌子は仏教を拝すべきでないと奏上した。欽明天皇は、仏教を蘇我稲目に賜って、試みに礼拝せよと命じたとある。これが日本書紀に伝える仏法渡来の記録である。

 しかして仏教伝来の年について、学者に、なお異説がある。すなわち0538年説がこれである。その第一の根拠は、奈良時代の作である上宮聖徳法王帝説に、欽明天皇の御世戊午の年(05381012日、百済国主聖明王が初めて仏像経教ならびに僧等を渡し奉ると記されている。これは欽明天皇の13年(0552)とは14年の差がある。ただし戊午の年は、日本書紀では、宣化天皇の三年であり、欽明天皇の時代ではない。

 その第二の根拠は、凝然の三国仏法伝通縁起に、宣化天皇即位三年歳次戊午年1213日、百済国より仏法伝来とある。

 さらに第三の根拠は、弘仁年間に伝教大師が比叡山に法華迹門の戒壇を建立することを奏請したのに対し、奈良の護命僧正が上奏して反対したが、そのなかに「欽明天皇歳次戊午、百済王、仏法を渡来し奉る」とある。これに対し伝教大師の反駁した顕戒論のなかには「天皇即位元年庚申、御宇正経33歳、謹案歳次暦都に戊午年は無し、元興縁起は戊午歳を取りて已に実録に乖く」といわれている。

 そして、伝教大師が顕戒論に引用した元興寺縁起は、正確には元興寺伽藍縁起流記資材帳といい、推古天皇21年に勅によって記されたものを本として記されたものである。この元興寺縁起のはじめに「斯帰島宮、天下治めす天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、天下冶めす7年、歳次戊午12月渡来、百済国聖明王時、太子像並びに灌仏之器一具及び説仏起書巻一筺」と記されている。すなわち欽明天皇の七年に仏教伝来とある。これらの文献は、それぞれ多少の違いはあるが、ともに戊午の伝来を伝えている。最近の多くの史家は研究の結果、仏教伝来を、欽明天皇の戊午の年(0538)説をとなえている。

 いずれにしても、これらの仏教伝来の年はあくまで公式に伝来した年であり、それ以前に、大陸との交通が開始されて以来、民衆主体の文化交流によって、あるいは帰化人等によって、仏教の信仰が逐次伝えられていたことは、多くの記録によって明らかである。すなわち扶桑略記などに、継体天皇の16年春2月に、漢人の案部村主司馬達等が、大和国の坂田原に草堂を構え、仏像を安置し帰依礼拝したと記されている。

 そのころの朝鮮半島では、百済と高句麗、新羅の三国が、覇権をめぐって激しく抗争していた。百済は日本と組んで、北の高句麗、東の新羅の両国と対抗していた。仏教は当時、とくに百済において盛んであり、中国古典の学術や仏書の研究や寺塔の建立等が隆盛を示し、欽明天皇の6年(05459月には、聖明王の発願で、丈六の仏像を造り、願文を作り、同盟国、日本の太平と天皇の祝福を祈ったとされている。

 百済国の聖明王が仏像経論等を献じたとき、欽明天皇は、群臣に仏教を奉ずべきかどうかを問われた。大臣蘇我稲目は、さっそく西方の諸国がすべて仏教を礼拝していることをあげて、わが国も仏教を信奉ずべきであると奏上した。これに反して、物部大連尾興、中臣連鎌子は、わが国には古来神道があり、天下に王と拝すべきは百八十神であると主張し、仏教を排斥した。

 蘇我氏は武内宿禰の後裔であり、大伴氏とともに進歩思想で、百済国と修交して新文化を採用しようと務めていた。しかるに物部氏、中臣氏は、保守主義で、新文化を締め出そうとはかったのである。

 欽明天皇は、やむをえず、仏像を蘇我稲目に賜り、試みに礼拝するよう命じた。蘇我稲目は、小懇田に仏像を安置し、さらに向原の宮殿を寺院とした。これが後の向原寺である。その後、一年を経て、疫病が流行した。神道を奉ずる物部氏、中臣氏は、これ幸いと「他国の神を礼する罪である」として圧迫を加え、はじめは、神道方が優勢であった。これ仏法に対する第一回の迫害である。

 その後、20余年、仏教を信奉し続けた蘇我稲目は、用明天皇、推古天皇に対し、いかなることがあっても仏法を捨てないことを懇願し遺言した。しかし蘇我稲目が死去するや、その翌年には、物部氏らは仏教の堂舎や仏像を焼いて難波の堀江に流した。これ仏法に対する第二回の迫害であった。

 その後、敏達天皇の11年(0582)に、向原寺は桜井に移され、桜井道場となった。仏法伝来に功あった司馬達等の女、島女等の三人は出家して、日本最初の尼となった。敏達天皇は仏法を嫌って再び圧迫し、大臣蘇我馬子などの仏教信奉者の仏像や堂塔を破却し、三人の尼も追い出した。これ仏法に対する第三回の迫害であった。

 用明天皇が即位されるや、蘇我稲目の遺言で仏法を信奉したので、ようやく仏法は明るさを取り戻した。蘇我馬子は厩戸皇子とはかって、勅許をえて、三人の尼をよび桜井道場を復活し、さらに豊浦寺をつくった。これはのちに元興寺となった。かくて、わが国の仏法は、はじめは、迫害されたが、用明天皇、推古天皇および用明天皇の皇子である聖徳太子の保護によって、隆盛に向かった。

 用明天皇の崩御ののち、蘇我馬子は、厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子等と共に、物部守屋を討って滅ぼした。泊瀬部皇子は即位し崇峻天皇となり、蘇我馬子は大臣としての地位を固め、厩戸皇子と組んで、日本の新文化を築くことになる。

 とくに聖徳太子は、第34代推古天皇の摂政として、おおいに仏教を興隆した。自ら法華経を講じ、法華経等の義疏を著し、仏教の精神を根本とした17条の憲法を制定し、国家統一の指導原理とした。聖徳太子の建立した寺院は、四天王寺、法隆寺はじめ七か寺といわれ、小野妹子をはじめ遣隋使を中国に派遣し、仏法とともに、多くの大陸文化を日本にもたらした。

 かくて、聖徳太子の時代になると、仏教と神道の争いも、ついに仏教の勝利に終わり、蘇我氏、物部氏等の争いを経た後、仏法は興隆、確立された。

 日蓮大聖人は以上の経過について、四条金吾殿御返事に次のごとく述べられている。

「此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば、天神七代・地神五代すぎて、人王の代となりて、第一神武天皇乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき。位につかせ給いて三十二年世を治め給いしに、第十三年壬申十月十三日辛酉に、此の国より西に百済国と申す州あり。日本国の大王の御知行の国なり。其の国の大王聖明王と申せし国王あり。年貢を日本国にまいらせしついでに、金銅の釈迦仏並びに一切経・法師・尼等をわたしたりしかば、天皇大に喜びて群臣に仰せて、西蕃の仏をあがめ奉るべしやいなや。蘇我の大臣いなめの宿禰と申せし人の云く、西蕃の諸国みな此れを礼す、とよあきやまとあに独り背かんやと申す。物部の大むらじをこし・中臣のかまこ等奏して曰く、我が国家・天下に君たる人は、つねに天地・しゃそく・百八十神を春夏秋冬にさいはいするを事とす。しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せば、おそらくは我が国の神いかりをなさんと云云。爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す。此の事を只心みに蘇我の大臣につけて、一人にあがめさすべし、他人用いる事なかれ。蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給いて、此の釈迦仏を我が居住のおはだと申すところに入れまいらせて安置せり。

 物部の大連不思議なりとていきどをりし程に、日本国に大疫病おこりて、死せる者大半に及ぶ。すでに国民尽きぬべかりしかば、物部の大連隙を得て、此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる。早く他国の仏法を棄つべしと云云。物部の大連御使として仏をば取りて炭をもってをこし、つちをもって打ちくだき、仏殿をば火をかけてやきはらひ、僧尼をばむちをくわう。其の時天に雲なくして大風ふき、雨ふり、内裏天火にやけあがって、大王並びに物部の大連・蘇我の臣、三人共に疫病あり。きるがごとく、やくがごとし。大連は終に寿絶えぬ。蘇我と王とはからくして蘇生す。而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。

 第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子、治十四年なり。左右の両臣は、一は物部の大連が子にて弓削の守屋、父のあとをついで大連に任ず。蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云。此の王の御代に聖徳太子生れ給へり。用明の御子、敏達のをいなり。御年二歳の二月、東に向って無名の指を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利掌にあり。是れ日本国の釈迦念仏の始めなり。太子八歳なりしに八歳の太子云く『西国の聖人、釈迦牟尼仏の遺像、末世に之を尊めば則ち禍を銷し、福を蒙る。之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む』等云云。大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く『蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す』等云云。又疫病未だ息まず、人民すでにたえぬべし。弓削の守屋又此れを間奏す云云。勅宣に云く『蘇我の馬子仏法を興行す。宜しく仏法を卻くべし』等云云。此に守屋、中臣の臣・勝海大連等の両臣と、寺に向って堂塔を切りたうし、仏像をやきやぶり、寺には火をはなち、僧尼の袈裟をはぎ、笞をもってせむ。又天皇並びに守屋馬子等疫病す。其の言に云く『焼くがごとし、きるがごとし』と。又瘡をこる。はうそうといふ。馬子歎いて云く『尚三宝を仰がん』と。勅宣に云く『汝独り行え。但し余人を断てよ』等云云。馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇めぬ。天皇は終に八月十五日崩御云云。此の年は太子は十四なり。

 第三十二代用明天皇の治二年、欽明の太子・聖徳太子の父なり。治二年丁未四月に天皇疫病あり。皇勅して云く『三宝に帰せんと欲す』と云云。蘇我の大臣詔に随うべしとて遂に法師を引いて内裏に入る。豊国の法師是なり。物部の守屋の大連等大に瞋り、横に睨んで云く天皇を厭魅すと。終に皇隠れさせ給う。五月に物部の守屋が一族、渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押し寄せてたたかう。五月・六月・七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ。第四度めに太子願を立てて云く『釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん』と。馬子願って云く『百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし』と云云。弓削なのって云く『此れは我が放つ矢にはあらず。我が先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なり』と。此の矢はるかに飛んで太子の鎧に中る。太子なのる、『此れは我が放つ矢にはあらず、四天王の放ち給う矢なり』とて、迹見の赤梼と申す舎人にいさせ給へば、矢はるかに飛んで守屋が胸に中りぬ。はだのかはかつをちあひて頚をとる。此の合戦は用明崩御、崇峻未だ位に即き給わざる、其の中間なり。

 第三十三崇峻天皇位につき給う。太子は四天王寺を建立す。此れ釈迦如来の御舎利なり。馬子は元興寺と申す寺を建立して、百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す。今の代に世間第一の不思議は、善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり。又釈迦仏にあだをなせしゆへに、三代の天皇並びに物部の一族むなしくなりしなり。又太子、教主釈尊の像一体つくらせ給いて元興寺に居せしむ。今の橘寺の御本尊これなり。此れこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ」。(11651167

 次に仏教が神道によって激しく圧迫されたのは、すでにふれたように、江戸時代から明治維新にかけてであり、それが陰に陽に第二次大戦時までつづいた。

 仏教は江戸時代末期になると、徳川幕府の保護政策によって惰眠をむさぼり、まったく堕落の極に達した。江戸時代に排仏論を唱えた主だった儒学者は、藤原惺窩より藤田東湖に至るまで、およそ40人を数えた。また国学者や神道家は、白井宗因などの12人、大名では徳川斉昭ら九人を数えた。

 とくに国学者、神道家の排仏論は、いたずらに浅薄な感情論にすぎなかったが、平田篤胤などは、仏教に対して悪罵のかぎりを尽くし、「出定笑語」などをあらわした。排仏論では、僧侶の腐敗堕落を論じたものがもっとも多かった。

 明治維新になると、さらに仏教排撃の性格が一変した。王政復古を遂げた明治政権は、天皇主権を強める必要上、天皇を神格化し、排仏毀釈の声は高まった。明治の欽定憲法は第一条に「天皇ハ神聖二シテ侵スヘカラス」と条文化して、天皇を神として、古来の神道に結びつけた。

 明治憲法には、近代国家としての対面を保つため、先進国の憲法にならって、信仰の自由を条文化する必要もあった。そして、神道のみをとくに保護して、他の宗教を弾圧する必要もあった。かくて生まれた明治憲法の条文は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」というものであった。事実は、これによって信教の自由は明白に束縛されつづけることになった。

 すなわち、明治憲法によって、いちおうは、江戸時代のキリスト教禁圧や、封建的なさまざまの宗教政策が撤廃され、正法に対する弾圧の歴史も、ひとまず終幕となった。しかし、一方、政府は神道のみに特別な保護政策をとり、神道はしだいに国教的な地位を確立していき、地方、仏教は王政復古の際の排仏毀釈の打撃から立ち直ったものの、しだいに神道の前に屈服していったのである。

 とくに、第二次大戦中の軍部政府の時代にはいると、神社参拝は国家的な強制を帯び、仏教のなかにも、田中智学を中心とする国柱会のごときは、あえなく神道に屈服して、完全に神道宣揚の徒になり下がった。政府は、この機に乗じて宗教団体法を制定して、いっさいの宗教を、大日本帝国の精神的支柱である神道のもとに、強制的に結合させるという暴挙に出た。

 このとき、断固として日蓮大聖人の大仏法を守り抜き、信教の自由の精神を貫いたのが、創価学会の初代牧口会長であり、戸田第二代会長であった。第二次大戦の終了とともに、神がかり的な宗教政策は一掃され、今日みられるごとく、信教の自由が、新憲法によって保障され、神道は国家の保護から解かれることになった。かくて、明治初期以来の神道による仏教の圧迫は、名実ともになくなり、仏教ははじめて、存分に興隆流布できる時を迎えたのである。

 いまや東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の大仏法は、西方を、否、全世界を照らす太陽の仏法として、流布すべきときを迎えた。はじめに述べたように、仏教が日本に伝来したのは、インドより中国、中国より朝鮮、朝鮮より日本へという経路を経た結果である。

 そして、今日、日蓮大聖人の大仏法は、御本仏の予言のままに、日本からアジアへ、さらに全世界へと流布されていくのである。

 

爾しより来、上一人より下万民に至るまで、仏像を崇め経巻を専らにす……

 

「爾しより来」以下は、日本の人びとが仏教を尊重している、すなわち、仏教が国内に弘まっている状況を示し、「然れば即ち」以下は、国内に寺あり、仏教を信ずる者多きことを示している。

 次に日寛上人の立正安国論文段には、「鶖子の族」等は通じて諸宗の磧徳をあげるといい、鶖子の族等は観を明かし、「鶴勒の類」は教を明かし、すなわち教観二門を明かすとしている。ゆえに第二章には「法師は諂曲にして」というのは、通じて諸宗をさすのである。「鶖子の族」以下は、各宗派が盛んであることを説いて、日本は一国全体に仏教なきがごとく論じたのを弁駁しているのである。

 この考え方は、現代においてもまったく変わらない。市町村に各宗派の寺があり、僧侶がおり、彼岸や、お盆に、寺に詣でる者も多く、日本は、いまもなお、仏教隆盛の国のようにみえる。しかるにその実情は、仏法の形骸のみであって、そこには真の仏法はない。

 ひるがえって、仏法発祥の国のインドに仏法があるであろうか。また、仏法がかつて流布した、中国、ビルマ、朝鮮等に仏法があるであろうか。いまなお寺院があり、僧侶もいるかもしれない。だが、それらの国にまったく生きた仏法がないことは明らかである。

 されば、日蓮大聖人は、日本以外に仏法なきことを、顕仏未来記に、次のごとくおおせになっている。

「疑って云く、如来の未来記、汝に相当れり。但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか、如何。答えて云く、四天下の中に全く二の日無し、四海の内豈両主有らんや。疑って云く、何を以て汝之を知る。答えて云く、月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す。仏法も又以て是くの如し。正像には西より東に向い、末法には東より西に往く。

 妙楽大師の云く『豈中国に法を失いて、之を四維に求むるに非ずや』等云云。天竺に仏法無き証文なり。漢土に於て高宗皇帝の時、北狄東京を領して今に一百五十余年、仏法・王法共に尽き了んぬ。漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く、大乗経は多分之を失す。日本より寂照等、少少之を渡す。然りと雖も伝持の人無ければ、猶木石の衣鉢を帯持せるが如し。故に遵式の云く『始め西より伝う、猶月の生ずるが如し。今復東より返る、猶日の昇るが如し』等云云。此等の釈の如くんば、天竺・漢土に於て仏法を失せること勿論なり」(0508:01

 インドに発祥し、中国、朝鮮、日本と東漸してきた北伝仏法は、つぎつぎと渡った国で栄えたが、やがてインド、中国、朝鮮、その他の国々では、仏法の精神が失われて、最後の日本の国において開花し、とくに奈良、平安初期の輝かしい仏教文化の隆盛をみたのである。以来、日本以外に仏法なく、他の国々は、その後、仏法は長く埋没し、まったく閉ざされてしまったのである。

 だが、この日本の国においても、平安末期より、仏法は、まったく形骸化し、経文に「白法隠没」とあるごとく、釈尊の仏法はことごとくその力を失ってしまった。だが、当時の民衆は、釈尊の仏法に力なきことを知らず、いまだ尊重の念を廃せず、むなしい祈りをささげていた。各宗派は、競って大伽藍を構え、僧侶は、わが世の春を謳歌していた。

 だが、その内容はまったくなくなり、仏法それ自体の力はなく、ただ世俗的な権威と結託し、民衆のうえに君臨していたにすぎなかったのである。その証拠は今日、厳然とあらわれている。当時、盛んであった、真言、禅、念仏、律、天台宗等は、居間は、まったく形骸化しているではないか。大聖人時代、まさに日の出の勢いであった建長寺、極楽寺、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺等、十一通御書に認められている寺院は、いまや見る影もないのである。世俗的な権威と利害で結びついていた寺院は、その政治権力の没落とともに、自身も同じ運命をたどった。

 だが、大聖人の「仏法まったく地に落ちたり」との叫びは、僧侶が尊重され、大伽藍が人びとの目を奪っていた当時には、理解されなかった。この客人の「誰か一代の教を褊し、三宝の跡を廃すと謂んや。若し其の証有らば、委しく其の故を聞かん」との質問は、当時の一般民衆の心をあらわしてあまりあるものがある。

 今日、既成仏教は、まったく頽廃の極に達している。だが、民衆の事大主義は、相変わらず根強い。そのうえ先祖崇拝または尊重の念も強く、また昔からの根強い慣習が残っている。また、死に対する恐怖は万人共通である。ここに、既成仏教は、必死にしがみつき、取り入り、細々ながら余命を保っているにすぎない。

 それは、正法の興隆によって、信者の数が減るのを、必死に食い止めようとはかった既成仏教の各寺院が、いかなる挙に出たかによって、ますます明瞭である。彼らは埋葬拒否という悪辣な手段を講じた。これは昭和三十二年(1957)ごろから激しくなり、その後、数年間にわたってつづけられた。これこそ、既成宗教が、まったく堕落しきった証拠であり、民衆の弱味につけこみ、必死に余命を保たんとしながら、はかなく没落しゆく姿であり、かつ日蓮大聖人の御金言の正しい証拠である。

 かくして、釈尊の仏法が、まったく隠没し去ったことは、経文に照らし、仏法の方軌に照らし、さらになによりも、末法にはいって今日にいたるまでの数百年の事実に照らし、火をみるよりも瞭々として明らかである。

 今日において生きた仏法は、まさに700年前に、この日本国に建立された、日蓮大聖人の大仏法しかないのである。だが、既成の権威の壁は厚く、700年ものあいだ、この大正法が日本にありながら、民衆が仏法に無智のゆえに、隠没されてきた。

 ようやく、今日、敗戦というきびしい現実を経験して以来、民衆の眼は徐々に開かれ始めた。既成の権威にとらわれず、新しい力を求めるにいたった。それらの人びとは、勇を鼓して自己の既成概念と戦い、幾多の障壁を打ち破って、日蓮大聖人の仏法を信仰しはじめたのである。それはまさに時の流れであった。

 今日、広宣流布への前進は、もはや、いかなる魔王、魔民たりとも食い止めることはできない。これあたかも、渓谷の水が一挙に大河にはいったごとく、乾ききったワラの中の火が、一時に燃え上がるごとく、日蓮大聖人の仏法によって、民家のなかに閉ざされていた、内奥の清浄なる生命が、そして智慧と勇気と力とが、ほとばしり出で、新世紀を、新時代を、新文化を築きゆく姿でなくして、なんであろう。

 ついに、日本に、太陽がのぼった。これからは、仏法西漸の歴史がつづられるのだ。ときあたかも、日本も、アジアも、世界も行き詰まっている。東洋は、全世界は、日本の行く手に刮目している。日本に期待するところは絶大である。

 ジョージ・サートンいわく「東と西との律動を記憶せよ。すでに幾度か吾々の霊感は東から来た。それが再び来ないといふ理由が何処にあらうか。恐らく偉大な思想は今後もなほ東から吾々に達するであろう。吾々は、それを迎へる心の準備をしておかなければならない」「新しい霊感は依然東洋から来るかもしれない、いや、なほ来てゐる。これを自覚すれば、吾々は一層賢明となるであらう」と。

 アインシュタインいわく「今日の社会は、あまりにも科学が発達しすぎた。いまこれを使いこなす精神文明が発達しなくてはならない。それを私は東洋に期待する」と。

 彼らが期待するのは、真実に、偉大なる思想によって潤された新しい東洋であり、なかんずくそれをリードする未来の楽土日本であり、それを築くのは、大聖人の仏法しかないことを確信するものである。

0017~0033 立正安国論 0020:14~0021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0020:17~0021:01 第二章 世人法の正邪を知らざるを喩す

00170033 立正安国論 0020:140021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0020:170021:01 第二章 世人法の正邪を知らざるを喩す

 

本文

 

  主人喩して曰く、仏閣甍を連ね、経蔵軒を並べ、僧は竹葦の如く、侶は稲麻に似たり。崇重年旧り、尊貴日に新たなり。但し法師は諂曲にして、人倫に迷惑し、王臣は不覚にして、邪正を弁ずること無し。

 

現代語訳

 

 客がいきり立ったので、主人はこれを喩していわく。

 たしかにたくさんの寺院が棟を連ね、経蔵も軒を並べて、いたるところに建っている。また僧侶も竹葦、稲麻のごとくたくさんいる。それらの寺院や僧侶を一般民衆が崇重するようになってすでに久しく、しかもこれを尊ぶ民衆の信心の誠は、日に日にあらたである。しかしながら、現在、国じゅうにあるいっさいの僧侶は心がひねくれて、へつらう心が強く、一切大衆をして人としてふみ行うべき道を迷わしめている。国王をはじめ臣下万民は無智のため、法の邪正をわきまえていないのである。

 

語釈

 

僧は竹葦の如く、侶は稲麻に似たり

「僧」は阿闍梨すなわち行学をまっとうした出家をいい、「侶」は伴侶すなわち伴僧のことで、導師につき従う僧。竹葦、稲麻は数の多いことのたとえ。

 

諂曲

 人に媚びて自分の心を曲げて迎合すること。「諂」は「へつらう、あざむく」の意。「曲」は「道理を曲げて従う」の意。日蓮大聖人は「観心本尊抄」で「諂曲なるは修羅」と仰せになり、修羅界の現れであるとされている。

 

講義

 

 現在の日本に仏教があるかないか。この点で主人と客の見解が食い違っている。

 客は仏教が伝来して以来数百年にわたり、多くの名僧が出現し、多数の寺院が建立されて、天皇、将軍をはじめ、万民がこれを信仰しているのではないか。にもかかわらず、どうしてこの日本の国に仏法がないというのか、と反問するのである。

 これに対し、主人は、そのように万人が信仰している宗派が、みなことごとく邪宗邪義であり、いま末法の時に適い、末法の衆生の機根に応じた正法が、まったく捨て去られている。しかも王臣ともに愚かで、無智で、仏法の邪正を見分けることができないから、ますます邪宗邪義が栄えているのだと喩されている。

 この主客の考え方の、根本的な違いは、客が、形式主義にとらわれているのに対し、主人は、実質を論じ、権威主義、形式主義を排して、仏法の邪正、高低、浅深という、問題の核心にふれていくのである。

 七百年前より今日にいたるも、一貫して変わらないことは、人びとは宗教を論ずるときにあまりに形式にとらわれ、宗教家と名がつく者はみな善知識だと決めてかかって、宗教の邪正、高低、浅深に、きわめて無頓着なことである。これが低級宗教の跋扈を許す根本原因である。

 この権威主義、形式主義にとらわれ、実質を見失うのは、人間の弱点である。かつて、西洋においても、キリスト教会の「宗教的ドグマ」「教会の権威」は、未知の世界を知りたいという人間の自然の心の発露を巨大な圧力でおしつぶし、また真実を叫ぶ偉大な知性をも、幾多葬り去ってきたではないか。思想の高低、浅深を論ずることを許さず、権威と形式でしばりつけた、いまわしい歴史である。

 また、日本においても、戦時中の、あの神道思想への、一国あげての傾注は、思えば、愚かしい、狂気の沙汰であった。神道思想の善悪、是非を論ずることを許さず、権威と巨大な軍部の圧力が、民衆のうえに重重しくのしかかった。

 しかも、それらの底流をみるときに、権威主義、形式主義は、民衆の生命の奥深くに根ざしていたのである。既成の権威のなかに閉ざされ、同調し、流されていく無気力と無智、そして自己保身に汲々となり、長いものにまかれろ式の事大主義、それらの風潮が、政治面においては、やがて、民衆に君臨する巨大な独裁権力を生むのである。宗教界においては、政治権力と利害で結びついた邪宗邪義を横行させ、それにより民衆の生命は、根底よりむしばまれてしまうのである。

 今日、われわれが仏法対話のさい、自分の信仰している宗教が、低級宗教であると指摘されるや「他の宗教をけなすとはとんでもない」といって、烈火のごとくおこりだすなどは、その典型である。自分の既存の知識、自分の既知の権威にしがみつき、必死に抵抗しようとする哀れな姿ではないか。

 日蓮大聖人は、こうした我慢偏執を捨て、真に宗教の正邪、善悪を検討することを教えられている。しかして、その実質を論ずれば、真実の仏法はまったく隠没し去り、仏法の形骸のみ残存していることが明らかとなると、論じられているのである。

 ここに「但し法師は諂曲にして、人倫に迷惑し」とは、当時の一般の僧のみならず、名僧、高僧とうたわれた極楽寺良観、建長寺道隆等の本性をえぐられたものであり、「王臣は不覚にして、邪正を弁ずること無し」とは、鎌倉幕府の為政者に真正面から切り込み、その愚迷を諌言された言葉である。まことに、この一句のなかに、権威を恐れず、民衆のためを思い、ただ一人決然と戦われる雄姿を見る思いがするではないか。

0017~0033 立正安国論 0020:14~0021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0021:01~0021:05 第三章 仁王経等により悪侶を証す

00170033 立正安国論 0020:140021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0021:010021:05 第三章 仁王経等により悪侶を証す

 

本文

 

  仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別えずして此の語を信聴し、横に法制を作つて仏戒に依らず。是を破仏・破国の因縁と為す」已上。

 涅槃経に云く「菩薩、悪象等に於ては、心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては、怖畏の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては、三趣に至らず。悪友の為に殺されては、必ず三趣に至る」已上。

 

現代語訳

 

 仁王経にいわく。

 諸の悪い僧侶が多く名誉や利益を求めて、国王、太子、王子などの権力者の前で、自ら仏法を破る因縁、国を破る因縁を説くであろう。その王はそれらの説かれた因縁をわきまえることができなくて、その言葉を信じ、道理にはずれた自分勝手の法制を作って仏戒によらない。これを破仏、破国の因縁となすのである。

 涅槃経にいわく。

 菩薩たちよ、狂暴な悪象等に対しては、なんら恐れることはない。正法を信じていこうとする人の心を迷わす悪知識に対しては、恐れなければならない。その理由は、悪象に殺されても三悪道におちることはないが、悪友に殺されては必ず三悪道におちるからである。

 

語釈

 

仁王経

 後秦代の鳩摩羅什訳の仁王般若波羅蜜経二巻と、唐代の不空訳の仁王護国般若波羅蜜多経二巻とがある。サンスクリット原典もチベット語訳も現存しておらず、中国撰述の経典とする見解がある。内容は正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。本抄に引用されたのは、仁王般若波羅蜜経の嘱累品の文である。

 

涅槃経

 釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。大乗では、中国・北涼代の曇無讖訳「大般涅槃経」四十巻、それを修訂した中国・劉宋代の慧観・慧厳・謝霊運訳「大般涅槃経」三十六巻、異訳に中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経」六巻がある。小乗では、同じく法顕訳「大般涅槃経」三巻等がある。大乗の涅槃経では仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提も成仏すると説いている。また小乗の涅槃経では、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。本抄に引用されたのは、北本の光明遍照高貴徳王菩薩品の文である。

 

悪知識

 誤った教えを説いて人々を迷わせ、仏道修行を妨げたり不幸に陥れたりする悪僧・悪人のこと。善知識に対する語。悪友ともいう。漢語の「知識」とは梵語ミトラ(mitra)の訳で、「友」とも訳され、友人・仲間を意味する。涅槃経には「菩薩は悪象等に於いては心に恐怖すること無く、悪知識に於いては怖畏の心を生ず。悪象に殺されては三趣に至らず、悪友に殺されては必ず三趣に至る」とある。この文は、修行者は凶暴な象に殺されるというような外的な損害よりも、正法を信じる心を破壊し、仏道修行を妨げ、三悪道に陥れる悪知識こそ恐れなければならないことを述べている。日蓮大聖人は、悪知識に従わないように戒められるとともに、悪知識をも自身の成仏への機縁としていく強盛な信心に立つべきであると教えられている。さらには、御自身を迫害した権力者や高僧たちを自身の真価を現すのを助けた善知識と位置づけられている。

 

三趣

 三悪道。悪業によってもたらされる三種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。

 

講義

 

 個人であれ、家庭であれ、不幸におとしいれるのは正法に背く邪義への信仰である。さらに一国を滅亡に導くのも、ほかならぬ人びとの邪法信仰であることを示された御文である。この御文こそ、大聖人ご在世当時にまったく符合しているのである。

 

 極楽寺良観と国家権力の結託

 

 日蓮大聖人の時代において、大聖人を陰に陽に迫害しつづけた元凶は、極楽寺良観という人物であった。

 彼の師匠は、奈良西大寺の叡尊であった。叡尊は、もと真言僧であったが、律宗の復興に没頭し、橋をかけたり、貧乏人、病人を救済する等の慈善事業で、行基菩薩の再来とあがめられた。その弟子・忍性は、関東へ来て、律宗をひろめ始めた。彼は、巧みに幕府の要路者に取り入り、徐々に基盤を固めていったのである。

 ここに、北条重時という人物がいた。重時は、前の連暑で、執権長時の父であったが、法然門下の証空の弟子、修観に帰依して入道していた。彼は、鎌倉深沢にあった極楽寺という寺に別荘を構え、極楽寺入道と称していた。彼の存在は、念仏者が幕府の権力と結ぶうえに、まことに好都合であった。

 また、立正安国論が著されたちょうどその年、やはり北条実時が、武蔵国金沢に、仏寺院である称名寺を建てた。これはいまも金沢文庫で知られているが、このように念仏は、幕府の周辺に強大な勢力を占めていた。

 日蓮大聖人が立正安国論を著し、念仏宗を「此の一凶」と断じられたのも、まさに念仏宗と権力者の緊密なる結託があり、亡国の道を歩んでいたからである。時頼は、これを完全に黙殺して、なんの応答もしなかった。時頼が安国論を採用しないことを知った念仏者たちは、一か月ほどのちに暗夜にまぎれて大挙して松葉ケ谷の草庵を襲撃し、乱入して大聖人の殺害をはかった。日蓮大聖人は、難をのがれて、いちじ下総の富木常忍の宅へ身を寄せられた。

 だが、謗法の諸宗に対する日蓮大聖人の破折は、さらに強く、きびしくつづけられた。いよいよ腹を立てた念仏者たちの策動により、大聖人は、ついに伊豆へ流罪されたのである。

 この松葉ケ谷の襲撃、伊豆流罪の黒幕であり、張本人であったのは、ほかならぬ極楽寺入道重時であった。自身尊敬していた法然の実態が究明され、選択集の邪義を破折されたがゆえに、なにかにとりつかれたように、大聖人の迫害に狂奔したのであった。

 忍性が、最も取り入ったのは、この重時であった。大聖人が立正安国論を認められた前年には、重時が極楽寺を再建するにあたり、忍性は寺地の選定に参画している。そして、その翌々年、重時が死ぬとその葬儀の導師となり、ついに鎌倉に居を移し、さらに権力者に取り入ることに専念し、その看板に慈善事業を掲げたのであった。

 彼は、まず、奈良から、当時有名であった師の叡尊を招く運動を起こし、ついにそれに成功した。ために忍性は、重時の子・業時はもちろん、時頼の招請もうけるようになった。これらは、大聖人が、伊豆へ流罪されていたあいだの出来事であった。

 文永四年(1267)、忍性はついに鎌倉にはいって極楽寺に住し、極楽寺良観と称されるにいたった。金沢の称名寺にも良観の息のかかった審海がはいった。さらに、これに前後して、忍性は、多宝寺の長老のほか、数か寺の別当になった。

 彼の慈善事業は、自分が二百五十戒を固くたもった聖者であると見せかける売名的な行為であった。また、幕府に取り入らんがための手段であり、名声欲、権勢欲にかられたものであった。しかも、彼の慈善事業の背景には、幾多の民衆の嘆きがあった。

 聖愚問答抄にいわく「我伝え聞く、上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り、行雲廻雪には死屍の想を作す。而るに今の律僧の振舞を見るに、布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす。教行既に相違せり、誰か是を信受せん。次に道を作り橋を渡す事、還つて人の歎きなり。飯嶋の津にて六浦の関米を取る、諸人の歎き是れ多し、諸国七道の木戸、是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり。汝見ざるや否や」(0476:12)と。

 飯嶋の津とは、鎌倉の東南の端、材木座海岸の東南、三浦半島のつけ根にあたるところに突き出しているのが、飯島崎で、その内側の海岸をいう。ここで、良観は、関米=通行税を取り、その金で、慈善事業を行ったり、橋をかけたりしていたが、そのために多くの人たちが苦しんだのであった。良観は、通行税を取るような権限を幕府から与えられ、多くの人の犠牲のうえに、売名的な慈善行為がなされたことが明らかである。

 余談になるが、慈善事業が、他の多くの人びとの犠牲をともなったことは、殺生禁断の場合にもあらわれている。寛元二年(1244)、大和の一荘官、結崎十郎入道が、叡尊に説法を請うために、その所領四郷の殺生禁断を誓ったために、どんなに荘民の生活が圧迫されたか計り知れないということが記されている。文永10年(1273)、北条実時が金沢郷六浦荘世戸堤の内の入江における殺生を禁断したが、これも六浦一帯の漁民の生業を奪い、塗炭の苦しみにおとしいれた。さらに弘安四年(1281)、多田院供養に先立ち、別当良観の計らいにより、幕命をもって本堂四方十町の殺生が禁断されたが、これが多田荘の住民の生業を奪い、大きな苦痛をもたらした。あまりの苦痛に耐えかねて、それに違反する者が多いので、その後再三にわたり厳命するという愚劣な挙に出たのであった。しかも、多田院の伽藍は、だんだん修造され荘厳を加えたが、そのために、年々の荘役の加重に、どんなに人びとは苦しんだことか。さらに慈善事業自体も、当時、餓死線上にあった民衆を本源的に救済しうるものではなく、たえず争いのタネとなっていた。すなわち非人たちは、施主に対して施物を強請するのが当然となり、はては非人宿同士の競争がこうじて、たえず争乱が繰り広げられた。

 しょせん、慈善事業は、小善にすぎない。民衆を本源的に幸福にする道に叛逆し、自己の売名のために小善をなせば、かえってそれは大悪となる。民衆の貪欲をそそり、はては、三悪、四悪の世界をかもし出し、ついには奈落の底につきおとしてしまうのである。しかも、その資金を得るために、他の人びとの犠牲を強要するにいたっては、慈善にあらずして偽善にすぎない。

 だが、当時の人びとは、良観の正体がわからなかった。名声はとみにあがり、幕府の権力者は、良観を重んじた。日蓮大聖人は、この良観こそ、権力者にこびへつらい、権力と結託し、民衆を嘆きのどん底に追いやる元凶なることを喝破され、生き仏のごとく、六通の羅漢のごとく尊崇されていた良観に対し、断固破折を加えられたのである。

 文永5年(1268)閏正月18日、蒙古国より「速く通好の使いを送り来れ、然らずんば兵を用いん」という牒書が幕府に到着した。大聖人の予言はいよいよ事実となった。じつに立正安国論の上書より九年目のことであった。

 しかし、幕府は、大聖人の教えをなんら用いようとしなかった。そこで、大聖人は、45日、法鑒房に「安国論御勘由来」を、さらに821日、宿屋入道光則に対して書状を与えられ、安国論の予言的中をあげ、諸宗の帰依をとどめ、法華の正法を用いよ、と強く叫ばれたのであった。

 その後も、やはりなんの沙汰もない。そこで大聖人は、その年の1011日、十一か所に痛烈な諌状と破折の書状を送り、公場対決を迫られた。これが、いわゆる十一通御書である。

 時の執権北条時宗に対しては、立正安国論の予言が的中したことをあげ、「日蓮は聖人の一分に当れり。未萠を知るが故なり」(0169:02)とご確信を述べられ、「諫臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し。国家の安危は政道の直否に在り、仏法の邪正は経文の明鏡に依る」(017001)と、熱誠あふれる諌言をされ、さらに「所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ、仏法の邪正を決し給え。澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り、闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり」(017009)と、公場対決を叫ばれた。

 また、実際に国家の権限をにぎっていた平左衛門尉頼綱に対しては、同じく立正安国論の予言的中を述べ「然る間重ねて訴状を以て愁欝を発かんと欲す。爰を以て諫旗を公前に飛ばし争戟を私後に立つ。併ながら貴殿は一天の屋梁為り、万民の手足為り。争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや、早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし」(0171:02)と諌言し、「御式目を見るに非拠を制止すること分明なり。争でか日蓮が愁訴に於ては御叙い無らん。豈御起請の文を破るに非ずや」(0171:08)と、幕府の理不尽な態度を指摘し、さらに、同じく公場対決によって宗教の正邪を断ぜよと呼号されている。

 このように、幕府の要路者への至誠の諌言をなされるとともに、当時の宗教界に君臨する、極楽寺良観、建長寺道隆等に対しては完膚なきまでに破折を加えられ、正々堂々と公場対決を申し込まれた。良観に対する書状を次に示そう。

「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候。日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候。此の事如何。長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし、早く日蓮房に帰せしめ給え。若し然らずんば人間を軽賤する者、白衣の与に法を説くの失脱れ難きか。依法不依人とは如来の金言なり。

 良観聖人の住処を法華経に説て云く『或は阿練若に有り、納衣にして空閑に在り』と。阿練若は無事と翻ず。争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり。併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり。僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定なり。聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し。

 此の趣き鎌倉殿を始め奉り建長寺等其の外へ披露せしめ候。所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず。即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん。蒙古国調伏の秘法定めて御存知有る可く候か。日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将為り『於一切衆生中亦為第一』とは是なり。文言多端理を尽す能わず。併ながら省略せしめ候」(174:01)。

 なんたる確信に満ちた大師子吼であろうか。あの、わが世の春を謳歌し、日本国全体の尊敬を一身に集めていた良観の実像は、ここに見事に浮き彫りにされた。しかも「長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし」と揶揄されるなど、悠々たるご境涯であった。しかも「三学に似たる矯賊の聖人」あるいは「僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定なり。聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し」等と、その破折は痛烈をきわめ、絶対の確信をもって、公場対決を迫られている。もとより、極楽寺良観は、仏法それ自体の研鑽に励んで、その智徳のために名声を得たのではない。慈善事業で人心をあやつり、幕府にたくみに取り入って、それまでの地位を築き上げたのであった。されば、大聖人より正面きった対決の書状をつきつけられたときの驚愕はいかばかりであったろうか。

 これに対し、このときの日蓮大聖人の、死をものともせず、国を救わんとの決意は「弟子檀那中への御状」のなかにありありと拝することができる。

 「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候。定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん。少しも之を驚くこと莫れ。方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり。日蓮庶幾せしむる所に候。各各用心有る可し。少しも妻子眷属を憶うこと莫れ。権威を恐るること莫れ。今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え。

 鎌倉殿・宿屋入道・平の左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺已上十一箇所。仍つて十一通の状を書して諫訴せしめ候い畢んぬ。定めて子細有る可し。日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給え」(0177:01)と。

 そのときは、なんの手応えもなかった。また、なんの波乱もなかった。しかし、それは表面上のことであり、その裏面では、極楽寺良観、建長寺道隆を先頭に、七大寺の僧たちは、困惑し、狼狽し、大聖人をなんとかして迫害し、なきものにしようと、その対策に狂奔したのである。

 文永6年(1269)、七年は無事に暮れた。そして、文永8年(1271)になった。

 その年の2月下句より6月まで、全国的な大旱魃がつづき、民衆は、飢饉のために苦悩のどん底に追いやられた。執権北条時宗は、関東諸国の地頭より、日照りがつづいて稲作が案じられるとの報告を受け取り、極楽寺良観に雨乞いを命じた。良観はなんのためらいもなく、満々たる自身をもって引き受け、鎌倉じゅう、否、日本国じゅうの上下万民も「生仏の良観さまが雨乞いをしてくれる」といって喜んだ。

 このことをいち早く知られた日蓮大聖人は、これこそ破折の鉄槌を加えるときと考えられ、「法華経の行者日蓮、対面を遂げ、申し入れたきことあり」という書状を持たせて、極楽寺へ使いを走らせた。

 これによって、極楽寺から周防房と入沢入道という二人の念仏者がやってきた。大聖人は、この二人を通して、良観に次のように申し入れをされた。

「七日の内にふらし給はば、日蓮が念仏無間と申す法門すてて、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし。雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし。上代も祈雨に付いて勝負を決したる例これ多し。所謂護命と伝教大師と、守敏と弘法なり」(1157:17

 これを聞いた良観は非常に喜んだ。これこそ、これまで苦汁をのまされてきた大聖人を思い知らせる好機だと思ったのであろう。また、かならず七日のうちに雨を降らせる自信があったからであろう。愚かにも、さっそく、このことを鎌倉中にふれまわってしまった。そして彼は「弟子百二十余人頭より煙を出し、声を天にひびかし、或は念仏、或は請雨経、或は法華経、或は八斎戒を説きて種種に祈請」(1158:05)するという盛大な修法を始め、肝胆くだいて祈禱したのだった。

 ところが、3日たっても、4日たっても雨は降らず、ただ「あせをながし・なんだのみ下して」(0912:10)ばかりであった。さらに彼は、数百人の僧を加えて必死になって祈禱をつづけた。だが「四五日まで雨の気無ければ、たましゐを失いて、多宝寺の弟子等数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに、七日の内に露ばかりも雨降らず」(1158:06)というありさまであった。

 これに対し、日蓮大聖人は、三度使いをつかわして催促された。ちょうど7日目の申の時、大聖人の使者は、「いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・ 持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う上人の数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて民のなげき弥弥深し、すみやかに其のいのりやめ給へ」(1158:08)と、大聖人の仰せどうり叫んだのであった。

 良観は、涙を流してくやしがった。弟子たちも歯ぎしりしてくやしがった。

 苦しまぎれにもう7日の猶予を願いたいということになった。ところがその結果も下山御消息に「今の祈雨は都て一雨も下らざる上二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事なし」(0350:10)とあるがごとく、良観の大惨敗に帰したのである。

 これによって、良観は大聖人に帰伏するどころか、ありとあらゆる策謀をめぐらした。また、彼が二百五十戒を持っていることなど、彼がこの敗北で約束をたがえたことによって、まったくの虚偽であったことが、青天白日のもとにさらされた。

 祈雨の法が終わってからまもない78日、良観は、配下の浄光明寺行敏をして挑戦状を送ってよこした。大聖人は、その背後にある陰謀を見抜かれて、しばらく動静を見られたのち「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か。然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か。此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候」(0179:01)と返事されて、あくまでも公場対決を要望された。

 そこで、良観もしかたなく、行敏に大聖人を問注所に訴え出させたのであった。これまた大聖人に、訴えの根拠となる条目をいちいち破折されて、再駁の状を出すことができず、そのままになってしまった。

 

平左衛門尉頼綱の横暴

 

 だが、良観は、手を変え、品を変え、裏面から幕府の権力者を動かして、大聖人を迫害しようとした。

 そのときのようすは、種種御振舞御書に「さりし程に念仏者・持斎・真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶わざれば、上郎・尼ごぜんたちにとりつきて、種種にかまへ申す」(0911:08)とあり、報恩抄には「禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人につき、或はきり女房につき、或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に、最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり、御尋ねあるまでもなし、但須臾に頚をめせ、弟子等をば又頚を切り、或は遠国につかはし、或は籠に入れよと、尼ごぜんたちいからせ給いしかば」(0322:12)とあり、また妙法比丘尼御返事には「極楽寺の生仏の良観聖人、折紙をささげて上へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく。諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひて、でんそうをなす」(1416:16)等とおおせられており、その光景がまざまざと見えるようである。

 そしてついに、良観は、平左衛門尉を動かした。平左衛門尉といえば、当時の執権の家司と侍所の所司を兼ねた、幕府の要路者中でも第一人者である。北条幕府の政務は、評定制であるが、最後の決定権は執権が握っていたので、執権の執事たる家司の政治上の権力は、絶大なものがあった。のみならず、侍所の所司として軍事、警察権をも握っていた。実質的には政治と軍事の大権を、みずからの手中におさめていたのである。しかも、祖父三代にわたってその任にあったので、頼綱の権威は、不動のものとなっていた。

 彼のライバルは、安達泰盛で、秋田城之介ともいい、大聖人も御書のなかで、平左衛門尉を「平等」といい、秋田城之介を「城等」といわれ、並び称されていた。この二人が、当時の鎌倉幕府を実質的に牛耳っていたのであり、執権時宗はこの二人の勢力の均衡のうえの存在であったといっても過言ではない。読売新聞社編「日本の歴史4」には、そのことが、次のように述べられている。

「……時宗ともっとも近い関係にある二人の重臣の勢力争いである。一人は前にも名前のでた安達泰盛であり、他の一人は時宗の家令の平頼綱である。安達氏は代々北条氏と姻戚関係を結び、北条氏を隆盛にすることによって、自分も勢力をのばしてきたような豪族であって、泰盛もその娘を時宗にとつがせており、評定衆、恩賞奉行、上野国の守護などを兼ねて、御家人中随一の名望家であり、また町石とよばれて、いまも高野山に残る里程標を建てたり、高野版と呼ばれる印刷経典を刊行したりするほどの富の持ち主でもあった。一方の頼綱はいわば北条氏の総支配人であって、もともと御家人よりは身分の低い武士であるが、北条氏の権力が強まるにしたがって、かれの発言力もしだいに大きくなり、政界の実力者にのしあがってきた。つまり泰盛と頼綱は、時宗を動かす陰の人物ということになるが、この二人がしだいにしのぎをけずる間柄になる。

 してみると、執権時宗の権力は実は泰盛と頼綱の勢力均衡のうえに、わずかな安定を保ったようなもので、幕府の対外政策がこのような激烈な政争を超越して、時宗個人の胆略とか意志だけで決定されたとは、どうしても考えられない」

 この二人の争いが、平左衛門尉の勝利に帰したことは、第二段第二章で述べたのでここでは省略する。

 ここに宗教界で名声、地位、尊崇をほしいままにした極楽寺良観と、絶大なる権勢、軍事力、警察権等を一手に握った平左衛門尉頼綱とが、利害のために結託し、大聖人を迫害するという挙に出たのであった。すでに、良観の祈雨を応援したのは平左衛門尉であった。やがて良観の策謀により、大聖人は、諸宗を誹謗し、武器を隠匿しているという罪状で告発された。

 文永8910日、日蓮大聖人は奉行所に呼び出された。平左衛門尉じきじきの取り調べである。だが、逆に裁く者が裁かれるごとく、平左衛門尉は、大聖人に徹底的に破折されてしまった。

 「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、奉行人の云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり。

 詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」(0911:04)。

 この大聖人の痛烈な破折、至誠の諌暁は、満場を圧した。その一言一句に、心打たれる者、うつつをぬかす者、激怒を含む者等々、だが大聖人ご御境涯は、悠々たる大海原にも似たるものであった。

 その翌々日の912日、逆上した平左衛門尉は、まるで謀反人を捕える以上に、ものものしく胴丸を着、烏帽子をかぶり、武装した数百人の武士を引き連れ、松葉ケ谷の庵室に乱入し、狼藉のかぎりを尽くした。そして、平左衛門尉の家来の一人、少輔房という人物が、大聖人のもとにつかつかと歩み寄って、法華経の第五の巻で大聖人の顔を三度さいなんだのである。このとき、日蓮大聖人は、大音声をもって、平左衛門尉を叱咤された。

 撰時抄にいわく「去し文永八年九月十二日申の時に、平左衛門尉に向つて云く、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候い了んぬ」(0287:11)と。

 それから、大聖人は、竜口の処刑場に向かわれる。だが、その夜の不思議な現象に、ついに処刑できず、しばらく相模国の依智にとどまられ、やがて佐渡の国へ流罪と決定されるのである。このときも、鎌倉に火つけや強盗殺人がしきりに起こり、これは大聖人の弟子がやったことだと、とりざたされた。これまた念仏者の謀略であり、その背後に、良観がいたことはいうまでもない。

 こうした良観の仕打ちに対し、大聖人は、次のごとく痛烈な破折を加え、良観の偽善の面をはぎとられている。

「法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座し候聖人を、頚をはねらるべき由の申状を書きて、殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候しは、良観上人の所行に候はずや。其の訴状は別紙に之れ有り。抑生草をだに伐るべからずと、六斎日夜の説法に給われながら、法華正法を弘むる僧を断罪に行わるべき旨申し立てらるるは、自語相違に候はずや如何。此の僧豈天魔の入れる僧に候はずや」(1157:07

 以上、良観の行動を中心に、当時の諸宗の悪侶たちが、いかに権力に取り入り、権力者と緊密なつながりをもっていたか、そして、正法の行者を迫害したかを見てきた。これこそ、仁王経の「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別えずして此の語を信聴し、横に法制を作つて仏戒に依らず。是を破仏・破国の因縁と為す」の文そのものではないか。「諸の悪比丘」とは、当時の念仏者・真言師たちであり、別しては良観である。「名利を求め」とは、まさに、当時の僧侶の実態であり、良観の実像である。「国王・太子・王子」とは、当時の指導者階級であり、その前で「破仏法の因縁・破国の因縁を説かん」とは、まさしく権力者に取り入り大謗法の教えを説き、あまつさえ、大聖人を死へと追いやらんとした、良観の行動そのものである。これ、国を滅ぼし、仏法を乱す元凶にあらずしてなんであろうか。「其の王別えずして此の語を信聴し」とは、当時の幕府の権力者たちが、みな彼らの甘言にだまされて、とくに平左衛門尉がなんら思慮分別もなく、大聖人の迫害に狂奔してきたことなど、その典型である。

「横に法制を作つて仏戒に依らず」とは、罪なき大聖人をおとしいれんとして、数々の罪状をデッチ上げ、あるいはにせの御教書を作ったりしたではないか。また、あの熱原の法難にさいして、多くの罪なき農民をありもしない罪状で告発し、理不尽な裁判をもって、ついには、神四郎等の熱原の三烈士の首を刎ねたではないか。

「是を破仏・破国の因縁と為す」とは、その後の鎌倉幕府の運命が、これを如実に物語っているではないか。また、その後の日本の運命も、まさに破仏、破国へと向かっていったではないか。これは、すでに前述のごとくであり、まことに、恐るべきは正法に背く邪悪なる宗教であり、もっとも忌むべきものは、この邪法の僧と権力者との結託である。

 太平洋戦争中は、かたちは変われども、まったく七百年前と同じことを繰り返していた。神道と国家権力との結託、またあらゆる宗教がことごとく妥協し、神道のもとに統一されるなど、さらに、その末期に近衛文麿が、日本がどうしても勝算がなくなったとき、高野山に祈禱を頼んだことなど、まさしく謗法の害毒を知らざる指導者の哀れな姿であった。これ破仏、破国の因縁であり、ついに国は滅び去ったのである。しかるに近年にいたって、神道の復活を夢みて策動したり、政治的に働きかけて、再び神道の国家保護を目論む者が出るなど言語道断といわざるをえない。

 

菩薩、悪象等に於ては……

 

 次に涅槃経の「菩薩、悪象等に於ては……」の文であるが、これは、いかに邪宗教が恐ろしいものであるかを明示したものである。悪象とは、釈尊の時代のインドにおいては、凶悪な象が、もっとも恐れられていたので、恐ろしいものの代表としてこれをあげたものであろう。悪象のために殺されるとは、今日においては、交通事故で不慮の死を遂げたり、強盗に殺害される等の横死を意味する。だが、これらの原因による死は、地獄、餓鬼、畜生の三趣に堕ちるとはかぎらない。だが、悪友のため、悪知識のために殺されるならば、かならず三悪道に堕ちるというのである。

 悪知識も悪友も、ともに邪智、謗法の者をさす。すなわち、謗法の邪信によって、生命を破壊されるならば、三悪道に堕ち、永久に苦悩に沈みゆくしかないとのことである。この原理にしたがえば、今日、いかなる核兵器よりも、いかなる大地震よりも、邪悪なる宗教が恐ろしいのである。

0017~0033 立正安国論 0020:14~0021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0021:06~0021:11 第四章 法華経を引き悪侶を証す

00170033 立正安国論 0020:140021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0021:060021:11 第四章 法華経を引き悪侶を証す

 

本文

 

  法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん。或は阿練若に、納衣にして空閑に在り、自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん。乃至常に大衆の中に在って、我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん。濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入つて、我を罵詈し毀辱せん。濁世の悪比丘は、仏の方便・随宜所説の法を知らず、悪口して嚬蹙し、数数擯出せられん」已上。

 

現代語訳

 

 法華経にいわく。

 悪世のなかの僧侶は邪智で心がひねくれて、仏法に不正直であり、いまだなにもわかっていないのに、自分は悟りを得ていると思い、自分の「我」を慢ずる心が充満している。あるいは人里離れた静かな山寺などに袈裟、衣を著けて閑静な座におり、自ら仏法の真の道を行じていると思いこんで、世事にあくせくする人間を軽んじ、賤しむであろう。彼らは、私腹を肥やすため、金品をむさぼるがゆえに、在家の人たちのために説法して、世の人たちからあたかも六神通を得た羅漢の如く恭敬、尊敬されている。乃至つねに大衆のなかにあって、正法をたもつ者をそしるために、国王や大臣、婆羅門、居士および諸の僧侶に向かって、正法の行者を誹謗し、その悪い点を作り上げて「この人は邪な思想をもっており、外道の論議を説いている」というであろう。

 濁りきった悪世である末法においてはもろもろの恐怖がある。邪宗邪義の悪鬼がこれらの国王大臣等の身に入って、正法の行者をののしったり、そしり、はずかしめたりするであろう。末法のこれらの悪比丘たちは、方便・権教が、仏の衆生の機根にしたがって説いたものであることを知らないでこれに執着し、かえって正法たる法華経の行者の悪口をいい、顔をしかめて憎み、一度ならず二度までもその正法の行者を追い出すであろう。

 

語釈

 

法華経

 大乗仏典の極説である。梵名サッダルマプンダリーカ・スートラ(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)、音写して薩達摩芬陀梨伽蘇多覧、「白蓮華のごとき正しい教え」の意である。経典として編纂されたのは紀元一世紀ごろとされ、すでにインドにおいて異本があったといわれる。漢訳には「六訳三存」といわれ、六訳あったが現存するのは三訳である。その中で後秦代の鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」八巻は、古来より名訳とされて最も普及している。内容は前半十四品には二乗作仏、悪人成仏、女人成仏等が説かれ、後半十四品には釈尊の本地を明かした久遠実成を中心に、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙合論に約して仏の振る舞い、また末法に妙法蓮華経を弘通する上行菩薩等の地涌の菩薩に結要付嘱されたこと等が説かれている。

 

阿練若に、納衣にして空閑に在り

 法華経勧持品第十三に「或有阿蘭若・納衣在空閑」とある。僭聖増上慢の者が、静かな山寺などにこもって、人々に邪法を説く姿をあらわしている。阿練若とは訳せば無事閑静処という意味である。納衣とは僧衣のこと。空閑とは人里離れたところをいう。

 

世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん

 法華経勧持品第十三の二十行の偈に「為世所恭敬如六通羅漢」とある。僭聖増上慢のものが、一般大衆から敬われることは、あたかも六神通をもった羅漢のようであるということ。六神通とは、神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通をいう。羅漢とは阿羅漢のこと。小乗の果位で、声聞の四種の聖果の最高位。三界における見惑・思惑を断じ尽くし、涅槃真空の理を実証する位とされる。六神通のうち、宿命通までの五通は外道の仙人でも成就できるが、第六通は阿羅漢位でなければ成就できないという。

 

講義

 

 これは、有名な勘持品の二十行の偈で、三類の強敵を説いた仏の未来記である。この文と、日蓮大聖人のお振舞いとをみるに、あまりの一致に驚嘆し、かつは、仏法の偉大さを心底より実感せずにはいられない。

 この二十行の偈を、三類に分けると次のようになる。

第一類=俗衆増上慢 

 諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん。我等皆当に忍ぶべし。

第二類=道門増上慢 

 悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん。

第三類=僭聖増上慢

 或は阿練若に、納衣にして空閑に在り、自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん。乃至常に大衆の中に在って、我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん。濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入つて、我を罵詈し毀辱せん。濁世の悪比丘は、仏の方便・随宜所説の法を知らず、悪口して嚬蹙し、数数擯出せられん。

 日蓮大聖人は、諸御書に、この勧持品の二十行の偈を身読したのは、自分以外にないことを断言されている。そして、この事実をもって、ご自身こそ、法華経に予言された、末法の全民衆を救済する御本仏であるとの確信に立たれているのである。

 開目抄にいわく「我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は 妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202:10)。

 上野殿御返事にいわく「勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、誰か出でて日本国・唐土・天竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず、及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず、不軽菩薩は杖木・瓦石と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(1557:02)。

 

現代の三類の強敵

 

 この三類の強敵は、今日、われわれもつねに経験するところである。

 まず第一の俗衆増上慢については、御義口伝に有諸無智人の文を「一文不通の大俗なり。悪口罵詈等分明なり。日本国の俗を諸と云うなり」(0748:第七有諸無智人の事:02)と述べられている。すなわち、仏法に対して正しい知識をもたずに、いたずらに批判をなすものが俗衆増上慢である。これは、われわれが信心するやいなやあらわれてくるものである。ふだんは、快く交際し、温かく話し合い、助け合う仲の人であっても、信心の問題になると、にわかに感情的となり依怙地になってしまう場合が多い。怒ったことのないような人までが、この正法の話となると、怒り出したり、反対しだすのは、まことに不思議であり、仏法の原理の正しさをひしひしとわが身に体験するのである。だが、しょせん人びとの生命の奥底は、妙法へと向かっているのである。どんなに反対しようが、悪口しようが、それ自体、逃れようのがれようと賢明なるがゆえであり、その実相は、御本尊へと向かう姿なのである。事実、今日、一千万を越える創価学会員も、はじめは大なり小なり反対した人びとであり、なかには激しい憎悪と怒りをぶちまけた人さえいるのである。この人びとが、いまや口々に御本尊の偉大さを賛嘆し、喜々として、希望多き日々を送っているのは、まさに、そのなによりの証明ではないか。

 次に、第二類の道門増上慢については、御義口伝に悪世中比丘の文をあげて「悪世中比丘の悪世とは末法なり。比丘とは謗法たる弘法等是なり。法華の正智を捨て、権教の邪智を本とせり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は正智の中の大正智なり」(0749:第八悪世中比丘の事)と述べられている。今日においては、既成宗教、新興宗教は、まさしくこの範疇にはいる。

 自宗の正義を貫くなんらの信念もなく、ただ利益のため、世法のために、連合し、おのが宗派を守らんとする、卑怯な、醜い宗団の批判、迫害をさす。これ「邪智にして心諂曲」の者ではないか。ことに、創価学会に対して盲評する日蓮宗各派等の悪侶は、まさに「未だ得ざるを為れ得たりと謂い。我慢の心充満せん」にあたる者ではないか。

 わが学会の歴史からいえば、戸田先生の第二代会長就任の昭和26年(1941)ごろから、昭和30年(1945)の小樽法論を境として、諸宗の力は一段と衰え、以後、宗教上の論争をするところもなく、宗教上の勝劣は明らかとなった。また、既成宗教の最後の抵抗であった埋葬拒否等の墓地問題は、昭和341949)、5年ごろを頂点とし、その後、法律的にも、彼らの主張の不法性が明らかにされる判決がでて、終止符を打ったのである。

 現在、なお命脈を保ちつづけているいくつかの新興教団も、巧みに政界、財界と結びつき、民衆の宗教的無智につけこんで、いまなお生きつづけているにすぎない。

 第三の僣聖増上慢とは、現在では、思想的、宗教的に世間の尊敬を集めている人びとが、社会的、政治的権力と結託して、正法を誹謗中傷し、迫害を加えてくることをさす。

 創価学会の目的は、民衆を幸福にする以外のなにものでもない。生命の限りなき尊厳を説ききる日蓮大聖人の仏法を奉じ、あらゆる人びとが心の底より望んでやまぬ、幸福な、平和な社会を築くこと、ただそれだけである。

 今日は順縁広布の時代である。これからは、日蓮大聖人の仏法を根底に、幸福にめざめ、汝自身の内に秘めたる力を知り、社会に目を瞠いた民衆が、有智の団結をもって築く時代である。いまや民衆の心は、滔々と流れゆく大河のごとく、広宣流布へ広宣流布へと動いているのである。

 大悪大善御書にいわく「大事には小瑞なし。大悪をこれば大善きたる。すでに大謗法・国にあり、大正法必ずひろまるべし。各各なにをかなげかせ給うべき。迦葉尊者にあらずとも、まいをも・まいぬべし。舎利弗にあらねども、立つてをどりぬべし。上行菩薩の大地よりいで給いしには、をどりてこそいで給いしか。普賢菩薩の来るには、大地を六種にうごかせり」(1300:01)と。

 日本の、世界の現状をみるとき、かならずや大正法が広宣流布し、平和と幸福の理想社会を実現することは、大聖人の御金言に照らし、絶対なりと確信する。しかして、われらは、迦葉尊者よりも、舎利弗よりも、百千万億倍の大歓喜をもって、さらに広宣流布をめざして前進せんとするものである。

0017~0033 立正安国論 0020:14~0021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0021:12~0021:16 第五章 涅槃経を引き悪侶を証す

00170033 立正安国論 0020:140021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す 0021:120021:16 第五章 涅槃経を引き悪侶を証す

 

本文

 

  涅槃経に云く「我れ涅槃の後、無量百歳に四道の聖人、悉く復た涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て、当に比丘有るべし。像は律を持つに似て、少かに経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し。常に是の言を唱えん、我羅漢を得たりと。外には賢善を現し、内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門に非ずして、沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」已上。文に就いて世を見るに、誠に以て然なり。悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや。

 

現代語訳

 

 また、涅槃経には次のごとく説かれている。

 仏が入滅してのち、幾百年幾千年という長い年月を過ぎると、仏法を正しく弘める聖人たちもことごとく入滅するであろう。正法一千年が過ぎて像法時代となり、ことに像法の終わりから末法へかけての時代に、次のような僧が現れるであろう。その僧は、外面は戒律をたもっているように見せかけて、少しばかり経文を読み、食べ物をむさぼってわが身を長養している。その僧は、袈裟を身にまとっているけれども、信徒の布施をねらうありさまは、漁師がえものをねらって、細目に見て静かに近づいていくがごとく、猫がねずみをとらんとしているがごとくである。

 そして、つねに「自分は羅漢の悟りを得た」といい、外面は賢人、聖人のごとく装っているが、内面はむさぼりと嫉妬を強く懐いているのである。偉そうな顔をしているが、なにひとつ説法もできなければ、信者の指導もできない。法門のことなどを質問されても答えられないありさまは、ちょうどインドの波羅門の修行の一つである唖法の術をうけて黙り込んでいる連中のようである。実際には、正しい僧侶でもないくせに僧侶の姿をしており、邪見が非常に盛んで正法を誹謗するであろう。

 以上あげたとおり、経文によって現代の世相をみるに、まことに経文どおりである。このような腐敗堕落した僧侶を戒めなければ、どうして善事を成し遂げることができるであろうか。

 

語釈

 

四道の聖人

 四道とは、一義には須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢の声聞の四果といい、一義には初依、二依、三依、四依の聖人ともいう。聖人の聖とは本来、耳の穴がよく通って、声がよく聞こえることを意味し、聖人とは普通人の聞き得ない天の声をよく聞き得る人の意。儒教では、万人が仰いで師表とすべき理想の人物をいった。堯・舜・孔子などがそれである。仏教では、梵語アーリヤ(ārya)の訳で、高貴の意。正師、仏をいう。日蓮大聖人は下山御消息にこれをさして「付法蔵の二十四人を指すか」とおおせである。

 

講義

 

我れ涅槃の後、無量百歳に四道の聖人、悉く復た涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て……

 

 この涅槃経の経文が、釈尊滅後二千年以後の末法の時代を示すことは、明白である。すなわち日蓮大聖人は、下山御消息にこの涅槃経の同文をあげて、次のようにおおせである。

「此の経文に世尊未来を記し置き給う。……一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て未来悪世を鑑み給いて記し置き給う記文に云く『我涅槃の後無量百歳』云云。仏滅後二千年已後と見へぬ。又『四道の聖人悉く復涅槃せん』云云。付法蔵の二十四人を指すか。『正法滅後』等云云。像末の世と聞えたり。『当に比丘有るべし持律に似像し」等云云。今末法の代に比丘の似像を撰び出さば、日本国には誰の人をか引き出して大覚世尊をば不妄語の人とし奉るべき。俗男・俗女・比丘尼をば此の経文に載たる事なし。但比丘計なり。比丘は日本国に数を知らず、然るに其の中に三衣一鉢を身に帯せねば似像と定めがたし。唯持斎の法師計相似たり。一切の持斎の中には次下の文に持律ととけり。律宗より外は又脱ぬ。次下の文に『少に経を読誦す』云云。相州鎌倉の極楽寺の良観房にあらずば、誰を指し出だし経文をたすけ奉るべき。次下の文に『猶猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺うが如し。外には賢善を現し、内には貪嫉を懐く』等云云。両火房にあらずば誰をか三衣一鉢の猟師伺猫として仏説を信ず可し。哀れなるかな、当時の俗男・俗女・比丘尼等・檀那等が、山の鹿・家の鼠となりて、猟師・猫に似たる両火房に伺われたぼらかされて、今生には守護国土の天照太神・正八幡等にすてられ、他国の兵軍にやぶられて、猫の鼠を捺え取るが如く、猟師の鹿を射死が如し。俗男・武士等は射伏切伏られ、俗女は捺え取られて他国へおもむかん。王昭君・楊貴妃が如くになりて、後生には無間大城に一人もなく趣くべし」(0348:04)と。

 以上の御文のごとく、大聖人は、涅槃経の経文を、滅後二千年已後の末法において、極楽寺良観のような悪侶が出現することを、ご在世中の鎌倉時代に約して、釈しておられるのである。日寛上人は立正安国論文段に「像法尚爾なり、況や末法をや。故に像末というなり」とおおせである。しかして、この涅槃経の経文を、化儀の広宣流布の時代たる現状に約せば、いかなることになるであろうか。

 この経文は、まったく現代の宗教界の実態を浮き彫りにしてあまりあるものがある。

 今日において、もっとも悪らつなものは、宗教界を装う宗教事業家、すなわち宗教屋である。日本全国の寺々は、お布施をもらうための寺であり、日本全国の宗教屋は、ただ偉そうに飾り立てて金を集めるのが目的である。

 自分は生仏であるとか、生神様であるとか、上行菩薩であるとか、無辺行菩薩であるとか、ひどいのになると日蓮再来とかいいだして人びとを迷わせ、また姿は、あたかも宗教家であるかのような格好をして教義には眛く、ご都合主義の教義をこしらえ、信者から金をしぼりとる様は、まさに「像は律を持つに似て、少かに経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」の文そのままではないか。

 しかもまた、自分はさも聖人のごとく見せかけ、心の中では貪欲のかたまりであり、善人をうらみ、嫉妬し迫害するのは、まことに「外には賢善を現し、内には貪嫉を懐く」偽善者であろう。少し教学について突っ込むと「唖法を受けたる婆羅門」、すなわち人間の言葉を忘れる修行をしたもののごとく、だまりこくって返事をしない。これは、かつての小樽問答における身延派の代表のあの醜態ぶりを見れば明らかである。これこそ、真実を教えず、否、知らずして、甘言で人をあやつることのみにたけた詐欺漢に等しい。

 苦にさいなまれる民衆に、救われるといいながら、より不幸のどん底に沈ましてゆき、そのうえ金をしぼりとるのでは、追剥に等しいではないか。これ「沙門に非ずして、沙門の像を現じ、邪見熾盛」の者であり、「正法を誹謗」することなのである。

 以上、日蓮大聖人は、仁王経、涅槃経、法華経の文を引き、いかに形の上では、仏法が盛んのように見えても、実質は、まったく地におちたことを述べられている。しかして、これらの文と、大聖人の時代の世相とまったく符合しているがゆえに「文に就いて世を見るに、誠に以て然なり」とおおせられているのである。この大聖人の一言は、そのまま現代にも通ずるものである。まことに、これらの経文は、現代の世相を映し出したる明鏡であり、仏法が、いかに時代移り、人は変われども、万古に変わらざる原理であるかの明証である。

 ここに「善事」とは、一般大衆を真実の幸福へ導くことである。善とは、美の価値と利の価値を社会に提供することで、これにも小善、中善、大善と分けなければならない。小さな社会、たとえばある地域に利益になることは、その地域の善ではあるが、より広い地域全体の損になることは、その広い地域社会からみれば、その小さな社会の善は悪になるのである。また今度はそのより広い地域社会の利益はその社会の善ではあるが、それが国家社会に不利益であれば悪となる。それを要約すれば、小善が中善に敵対すれば悪となる。中善が大善に敵対すれば大悪となる。

 大善にして至高善とは、全人類社会に幸福と平和を与えるということである。その幸福を、根本的に与えきる唯一の道は、仏法の根本、末法御本仏の真意たる三大秘法の南無妙法蓮華経を信ぜしめることである。されば、大悪の本源たる低級宗教を打ち破らずば、真実、幸福への善事はなされぬことは明らかである。そこで「悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや」とおおせになったのである。

0017~0033 立正安国論 0021:17~0024:04 第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かす 0021:17~0022:01 第一章 正法誹謗の人・法を問う

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本文

 

  客猶憤りて曰く、明王は天地に因つて化を成し、聖人は理非を察して世を治む。世上の僧侶は天下の帰する所なり。悪侶に於ては、明王信ず可からず。聖人に非ずんば、賢哲仰ぐ可からず。今賢聖の尊重せるを以て、則ち竜象の軽からざるを知んぬ。何ぞ妄言を吐いて、強ちに誹謗を成し、誰人を以て悪比丘と謂うや。委細に聞かんと欲す。

 

現代語訳

 

 客がなお前にも倍して怒っていうには、明王は治世について天地の道理に即して民衆を化育し、聖人は、理と非理を公平に立て分けて行政を行う。いま、世間の高僧たちは、いずれも天下万民があまねく帰依しているところである。もしそれが悪侶であれば、明王は信じないであろうし、それらの高僧が聖人でないならば、世の指導者たちがこれらの人を信じ仰ぐわけがない。いま、世の賢人や聖人がそれらの名僧を尊崇しているのをみれば、世で仰いでいる僧侶たちが竜象ともいうべき高僧であることがわかる。それなのにどうしてあなたはそのような妄言を吐いて、強いて誹謗し、いったい、だれびとのことを悪僧というのか、それを詳しく聞きたいと思う。

 

講義

 

 この段は、世の中を乱し、民衆を不幸のどん底に沈ませたもっとも悪い僧侶の代表として、法然を取り上げ、法然の著した選択集が邪法を弘め、正法を誹謗する元凶となっていることを明らかにしていくのである。

「客猶憤りて曰く」とは、前段においては色を作し憤ってほぼ問うてきたが、この段では前段における主人の答えに対して、客は、前にも倍してますます憤りを増して主人に質問をしてきたので「猶憤りて」というのである。前段において、主人は、客の問いに対して、この日本の国には、たしかにたくさんの寺があり、僧侶も数えきれないほどたくさんいるが、いずれも正法を誹謗した宗教ばかりで、そのために、社会は幸福にならないのみか、かえって災難が競い起こる結果になってしまったと、三災七難の本源を指摘したのである。

 ところが、客にしてみれば、この答えはまったく予想外であり、かつ不可解なものであった。世の僧侶はいずれも天下万民から尊敬の的となっている人たちばかりで、主人のいうような悪侶ではないというのである。もし、主人のいうような悪い僧侶であったならば、世の人びとが尊敬するわけもないし、そのような宗派が隆盛を誇るはずがないではないか、というのである。そこで、そのようなことをいうならば、具体的にだれをさして悪侶というのか、と疑うのがこの章の問いである。

 

世上の僧侶は天下の帰する所なり

 

「世上の僧侶は天下の帰する所なり」とは、近代以前においては、僧侶が社会の知識階級であり、指導的階層であったことを考えなければならない。たとえば、現代の最新の科学技術に相当する大陸の諸文化を、まず最初にわが国にもたらしたのは、仏法修学のため大陸へ渡った学僧たちや、宋から弘経のために渡来した僧たちであった。

 こうした僧のなかには、彼の地で医術や土木工法や農法までも学んできて、それを応用指導する者すら珍しくなかったのである。これらの特殊技能が、仏教信仰と結びついて、僧侶の社会的地位を、いやがうえにも高めていったのである。

 かつて真言の弘法が唐へ留学したとき、大陸に上陸してまず足を向けたのは長安の都であった。彼はここで、真言を学ぶとともに、灸や土木の工法を学んで帰ってきた。

 そして、帰国後の彼は、まず灸や土木工事で名を売り、その名声に便乗して真言の邪法をひろめたのである。大聖人当時の律宗の良観や、禅の栄西、道元も同じである。表面は、こうした技能をもって社会に貢献しているように見せかけながら、恐るべき邪法をもって人びとを地獄へ堕とし、三災七難を起こしていったのである。

 法然については、別に詳しく論ずるので、ここでは簡単に述べるが、彼こそ当時、日本国じゅうを風靡した浄土宗の教祖であり、勢至の再誕か、阿弥陀の化身かとまでいわれるほど、死後ますます尊敬を集めていたのである。しかも、それを尊崇しているのは、庶民ばかりでなく、皇族や公家、北条一族までが熱心に信じ、仰いでいる。賢明であり、学識もある。それらの人びとでさえも尊崇しているほどの僧であるから、その僧が悪侶であり、不幸の原因だなどといっても信じられない、というのが客の言葉である。

 だが、大部分の人が賛成し支持しているからといって、それが正しいとは必ずしもいえない。また、著名な指導者や学者、有識者が信仰しているからといって、その宗教が正しいとはかならずしもいえない。

 その反対に、支持する者が少ないからといって、それが誤っているとはいえないことも、コペルニクスやガリレオ等の例からも明らかであろう。

 宗教の正否を決するものは、その教義であり内容である。その教義の浅深勝劣の判定によってはじめて、正しいか、否かが決定されるのである。しかして、物理学のことは物理学者に、経済学のことは経済学者に、仏教のことは仏教をもっともまじめに、真剣に学んでいる者に聞くのが当然である。ゆえに、われわれは宗教に関しては、創価学会に聞くべきであると主張するのである。

 さて、このように大勢の民衆から尊敬される立場であればこそ、その謗法の罪はいっそう重い。かつて牧口初代会長は、価値論のなかで、同じ罪でも社会的に重要な立場にある者の場合は、それだけ大悪となると教えた。これを、世間話にあてはめるならば、だれにも理解できる。

 仏法は目に見えない生命深奥の原理を説いているため、なかなか納得しがたいが、道理は同じことである。法然をはじめ僧侶たちは、世の人びとから尊敬されているがゆえに、多くの人びとを地獄に堕とし、世の中に大きい害毒を流す。したがって、その罪はきびしく弾劾されなければならないのである。

 

明王は天地に因つて化を成し、聖人は理非を察して世を治む

 

 客は、当時の社会の政治的指導者、思想的指導者に全幅の信頼を寄せて、このようにいったのである。しかし、この文をもう一歩深く読むならば、日蓮大聖人は、この段の客の問いを通じて、真の指導者のあり方を述べられているのである。すなわち「明王は天地に因つて化を成し、聖人は理非を察して世を治む」のところは、社会の指導者のあるべき姿を明確に示されたものである。ここでいう明王とは、文中においては鎌倉時代の権力者、すなわち、京都の朝廷あるいは鎌倉幕府、別しては北条氏をさしているのであるが、総じていえば為政者や社会の指導者のことである。また、聖人とは別しては仏法上の指導者を意味するが、総じては社会の指導者と考えられる。「聖」の字には、耳の穴がよく通って、ふつうの人の聞こえない声までよく聞くことができる、という意味があるところから、民衆の声なき声をよく聞き、民衆を正しく導いていける指導者も「聖人」といってよいだろう。

「明王は天地に因つて化を成し」とは、すなわち、一国の指導者、為政者というものは「天地に因つて」――、一往は宇宙のリズム、再往は社会のことである――すなわち、社会の働き、民衆の微妙な心、要望、時代の潮流等を察知していくということである。また、社会の構造や機構を調和させていくこととも考えられる。

「化を成し」の「化」とは、元来、「徳を以て人民を導き感ぜしめ、善良なる風俗習慣を作る義」である。すなわち、今日においては、抽象的なものでなく、どのように具体的に、時代に応じ、社会を繁栄させ、民衆の生活を安定させていくことができるか、ということである。特定の理論やイデオロギーによって議論したり、机上の空論にはしるのでなく、どのようにして、民衆を指導し、幸せにしていくかということが、真の指導者、為政者の最大の課題である。

 しかるに、現実はどうか。まったく、これとは逆である。いつも民衆から離反した政治、私利私欲のために民衆の不幸をなんら顧みようとしない政治家、ほんの一握りの人びとのために多くの大衆を犠牲にしているような政治の現状をみるとき、はたして、わが国に、真の指導者ありやと疑うものである。民衆の幸福を考慮しないものが、どうして指導者といえようか。

「聖人は理非を察して世を治む」――ここで理非を察してとは、正しき道理であるか否かを明確に分け、さらにそれを社会の根本理念としていかなければならないということである。その道理とは、人間としての道理であり、より根源的には、生命の哲理でなければならない。「世を治む」とは、その学説、主張、研究、抱負等を具体的な政治や社会に反映させ、あくまでも民衆の生活の安定を目標としていかなければならない。すなわち、民衆の幸福の実現こそ、政治や学問の要諦である、ということである。

 現在は、乱世であるため、理非を察してでなく、利害を根本として社会が運営されている観がある。そして、恐るべきことは、そのような政治や社会であっても、それをなんとか改革していこうという気力さえ、国民の大半が喪失してしまったことである。「人間の、人間による、人間のための……」ということこそ、あるべき姿であるとつねに主張するのはこの原理によるのである。

 これ、民衆の生命それ自体が濁りきってしまった姿である。これを打開する方途が見いだされぬかぎり、腐敗せる土壌、脆弱なる土台のうえに、いつも、劣悪な政治が繰り返されるだけである。人間性無視の政治が行われるのも、しょせん、その底流は、民衆の無気力と惰弱な生命にあるのである。

 では明王と聖人はなにによって生ずるか、これが大問題である。そもそも人間の生命を本源的に変革する唯一の道は、日蓮大聖人の仏法しかないのである。政治にせよ、経済にせよ、教育にせよ、またその他のあらゆる文化は、ことごとく〝人間〟の営みであり、人間生命の具体的な表現である。この人間生命それ自体を善導し、変革し、最高に発揚させる根源の方途、すなわち正しい仏法を教える人が、仏法上の「聖人」の立場である。また、仏法の慈悲の精神を根本として、施政施策に具現化し、大衆の福祉を現実の社会に、国家にあらわしていく人が、「明王」の立場なのである。

 過去の歴史をひもといてみるとき、真に民衆のことを思い、国家のことを考えて、政治を行う指導者の出現したときは、その国家はおおいに繁栄し、国民はとみに充実した。だが、悪い為政者に支配されたときの国家や、国民は、まったく悲惨な目にあわされているのである。その善悪を決定したものは、じつに指導者がもった法や理念の正邪、高低であった。いま、国の内外に大きな問題をかかえたわが国は、いまこそ明王・聖人すなわち真実の民衆の指導者の出現を待っているといえるであろう。しかし、その出現を手をこまねいて待つのみではならないであろう。なぜなら、現代にあっては、王、すなわち主権者は民衆自身だからであり、賢明なめざめたる民衆のなかから輩出する指導者こそ、現代の「明王」なりと信ずるからである。

 いま、私どもの大文化運動は、宗教の興隆をはかりながら、幅広い民衆の生命の連帯の輪を拡大して、社会、文化のあり方を鋭く監視し、創造していく活動なのである。有智の民衆の団結こそ、政治、社会、経済、文化など、あらゆる人間の営為を、民衆の手にとりもどす根源の力なりと主張するものである。

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00170033 立正安国論 0021:170024:04 第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かす 0022:020023:03 第二章 法然の邪義撰択集を示す

 

本文

 

  主人の曰く、後鳥羽院の御宇に法然と云うもの有り。選択集を作る。則ち一代の聖教を破し、遍く十方の衆生を迷わす。其の選択に云く「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文。初めに聖道門とは之に就いて二有り、乃至之に準じて之を思うに、応に密大及以び実大をも存すべし。然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、此等の八家の意正しく此に在るなり。曇鸞法師の往生論の注に云く、謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なりと。此の中に難行道とは、即ち是れ聖道門なり。易行道とは即ち是れ浄土門なり。浄土宗の学者、先ず須く此の旨を知るべし。設い先より聖道門を学ぶ人なりと雖も、若し浄土門に於て其の志有らん者は、須く聖道を棄てて浄土に帰すべし」と。又云く「善導和尚、正雑の二行を立て、雑行を捨てて正行に帰するの文。第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除いて已外、大小乗・顕密の諸経に於て、受持・読誦するを悉く読誦雑行と名づく。第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除いて已外、一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て、礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名づく。私に云く、此の文を見るに、須く雑を捨てて専を修すべし。豈、百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行に執せんや。行者能く之を思量せよ」と。又云く「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで、顕密の大乗経、総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし。当に知るべし、随他の前には、暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には、還って定散の門を閉ず。一たび開いて以後永く閉じざるは、唯是れ念仏の一門なり」と。又云く「念仏の行者、必ず三心を具足す可きの文。観無量寿経に云く、同経の疏に云く、問うて曰く、若し解行の不同、邪雑の人等有らば、外邪異見の難を防がん。或は行くこと一分二分にして、群賊等喚び廻すとは、即ち別解・別行の悪見の人等に喩う。私に云く、又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言うは、是れ聖道門を指すなり」已上。又最後、結句の文に云く「夫れ速かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に、且く聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中に、且く諸の雑行を抛って、選んで応に正行に帰すべし」已上。

 

現代語訳

 

 主人が答えていわく。

 後鳥羽院の御代に法然という僧があって、選択集をつくった。すなわち、この書によって釈尊一代の説法を破り、あまねく一切を迷わしたのである。その選択集にいわく。

 道綽禅師は安楽集に聖道門、浄土門の二門を立てて、聖道門を捨てて正しく浄土門に帰すべしと説いたが、それについて自分が考えると、はじめに、聖道門とは、これについて大乗、小乗の二つがあり、大乗の中に顕教、密教、権教、実教等がある。いま、この安楽集の意は、小乗教と大乗教のうちには、ただ顕教と権教とを聖道門とする。これに準じて思うに、聖道門として捨てなければならないのは小乗、顕教、権教はもちろんのこと、まさに密大の真言も、実大の法華も聖道門として捨てるべきである。したがって、これらの経によって立っているところの真言宗、禅宗、天台宗、華厳宗、三論宗、法相宗、地論宗、摂論宗等の八宗は、正しく顕密、権実の相違はあっても、みな聖道門として捨て去り、浄土の一門に帰すべきである。

 曇鸞法師の往生論の註には、次のごとくいっている。謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙論を案ずるに、菩薩が不退転の位を求めるのに、二種の道がある。一つは難行道であり、他の一つは易行道であると。

 このなかの難行道とは、すなわち聖道門であり、易行道とは、すなわち浄土門のことである。浄土宗の学者は、すべて、まずこの旨を知るべきであり、たとえ以前から聖道門を学んでいる人であっても、もし浄土門にはいって学びたいという志のある者は、すべからく聖道門を捨てて、浄土門に帰すべきである。

 また、善導和尚が正雑の二行を立て、雑行を捨てて、正行に帰すべきであると述べた文は次のようである。

 第一に読誦雑行とは、浄土宗の依経である観経等の往生浄土の経を除いて、それ以外の大乗教、小乗教、顕教、密教の諸経を受持読誦するを、ことごとく読誦雑行と名づけるのである。第三に礼拝雑行とは、阿弥陀仏を礼拝する以外は、いっさいの諸仏菩薩等およびもろもろの世天等に対して、礼拝し恭敬するのを、ことごとく礼拝雑行と名づけるのである。

 以上の文について、自分の見解をまとめていうならば、われらはすべからく雑行を捨てて專修念仏を修業しなければならない。どうして百人が百人とも、かならず極楽浄土へ往生できる専修正行の念仏を捨てて、千中無一、すなわち、千人のなかに一人も成仏することのできない、法華経等の雑修雑行に堅く執着する道理があろうか。仏道を修業する者は、よくよくこのことを考えるべきである。

 またいわく、中国唐の僧円照が選んだ貞元入蔵録のなかには、大般若経六百巻から始まって法常住経にいたるまで、顕教、密教の大乗経は総じて六百三十七部二千八百八十三巻あるが、これらはみな、読誦大乗の一句に摂して、一束にして捨てるべきであり、釈尊の本意は、ただ念仏だけである。

 まさに知るべし、仏が衆生の機根に応じて説いた隋他意の法門の場合にはしばらく定散二善の諸行の門を開いたが、いよいよ釈尊の本意である隋自意の法門を説いたのちには、かえって前に説いた方便の定散の門を閉じてしまった。一度開いたのち、永久に閉じない門は、ただ念仏の一門のみである。

 またいわく。念仏の行者は必ず三心を具足しなければならないとの文。この文は観無量寿経にあり、善導の同経疏には「問うていわく、もし念仏の行者と知解も修業も同じでなく〝念仏は邪教だ〝などという邪雑の人があって……」、また「外邪異見の難を防ごう」、また「涅槃経や大論にある、一歩か二歩か進まぬうちに群賊等が旅人を呼び返すという喩えは、別解・別行、悪見の人を群賊にたとえているのである」と。この善導の文について自分が考えるには、いっさいの別解、別行、異学、異見等と善導がいっているのは、聖道門の人びとをいうのである。

 そして、選択集の最後結句の文では「それ、すみやかに、生死の苦しみを離れようと欲するならば、二種の勝れた法のなかで、聖道門をさしおいて浄土門にはいりなさい。浄土門にはいろうと欲するならば、正行、雑行のなかで諸の雑行をなげうって、選んでまさに正行に帰して、もっぱら弥陀を信じ、念仏修行をしていきなさい」といっている。以上が選択集の内容である。

 

語釈

 

後鳥羽院

後鳥羽上皇のこと。高倉天皇の第四皇子。名は尊成。土御門・順徳・仲恭の三帝にわたり院政を敷いた。北条義時追討の院宣を出し、承久の乱を起こしたが失敗、配流の直前に出家し、法皇となった。隠岐国へ流刑に処されたので、隠岐法皇と呼ばれる。

 

法然

平安時代末期の僧。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、十五歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。四十三歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐に流された。同年12月に赦があり、しばらく摂津国の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、八十歳で没した。著書に、「選択集」二巻をはじめ、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。

 

選択集

 選択本願念仏集の略。法然の著作。一巻。九条兼実の依頼によって著されたといわれる。主として浄土三部経や善導の観無量寿経疏の文を引いて念仏の法門を述べている。内容は十六章に分けられ、釈尊一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、浄土三部経以外の法華経を含む一切の教えを排除し、阿弥陀仏の誓願にもとづく称名念仏こそ、極楽世界に生まれるための最高の修行であると説いている。日蓮大聖人は「立正安国論」、「守護国家論」などでその誤りを破折されている。

 

道綽禅師

中国の隋・唐代の僧。中国浄土教の祖師の一人。并州汶水の人。姓は衛氏。十四歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」二巻等がある。

 

聖道・浄土の二門

 聖道門と浄土門。中国・唐の道綽の安楽集に説かれる二門。聖道門は、自力によってこの現実世界で成仏することができると説く。対する浄土門は、娑婆世界を穢れた世界として嫌い、他力によって極楽往生を願う。道綽の安楽集巻上には「聖道の一種は今時に証し難し、唯浄土の一門のみ有りて、通入すべき路なり」とある。

 

地論

 ここでは地論宗のこと。世親の「十地経論」を所依とする。早く南北両派に分かれ、菩提流支の弟子の系統である北道派は、後発の摂論宗とその教義が近く,摂論宗へ次第に吸収された。一方、四分律宗の祖でもある光統律師を祖とする南道派には、多くの学僧が出て盛えた。隋の浄影寺慧遠の著「大乗義章」は、六朝以来の各派の教説を地論宗の立場によって集大成した。唐代に華厳宗が興ると、発展的に吸収されていった。

 

摂論

摂論宗のこと。無著の「摂大乗論」を所依とし、真諦を祖とする。真諦が「摂論」と世親の「摂大乗論釈」を漢訳後、梁・陳代の百年間、弟子達が弘めて一派を形成した。しかし唐代に玄奘が摂論・摂大乗論釈を新訳し、窺基が法相宗を興すに至って摂論宗は勢力を失い、衰微消滅した。

 

曇鸞法師

中国・北魏代の僧。浄土教の祖師の一人。初め竜樹系統の教理を学び、のち神仙の書を学んでいた時、洛陽で訳経僧の菩提流支に会って観無量寿経を授かり、浄土教に帰した。竜樹造とされる『十住毘婆沙論』にある難行道・易行道の義を曲解し、念仏を易行道とし、その他の修行を難行道として排した。晩年は汾州の玄中寺に住み、平州の遥山寺に移って没した。著書に「浄土論註」二巻、「略論安楽浄土義」一巻、「讃阿弥陀仏偈」一巻等がある。

 

十住毘婆沙

 十住毘婆沙論。竜樹作とされる。十地経の初地・第二地について注釈している。鳩摩羅什が仏陀耶舎の口誦に基づいて訳したと伝承される。曇鸞が往生論註で引用し、浄土教に大きな影響を与えた。

 

阿毘跋致

 梵語アヴィニヴァルタニーヤ(avinivartanīya)またはアヴァイヴァルティカ(avaivartika)の音写。阿惟越致とも音写し、不退などと訳される。菩薩の修行の階位。仏道修行においてどんな誘惑や迫害があっても退転しない位をいう。

 

難行道・易行道

 実践が困難な修行と、易しい修行の法門をいう。易行という語は、もとは竜樹作とされる十住毘婆沙論の易行品第九にある。そこでは、菩薩が十地の第一、不退地に至るのに、自ら勤苦精進して行く道を陸路の歩行にたとえて難行道とし、ただ仏力を信ずる道を水路の船行にたとえて易行道としている。曇鸞はこれを往生論註で独自に解釈し、菩薩が不退を求める修行に難行・易行の二種があるとし、易行の念仏によってのみ成仏できるとしている。

 

善導和尚

中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州の人(一説に山東省・臨)。幼くして出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」四巻、「往生礼讃」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

 

正雑の二行

 正行と雑行。善導は「観無量寿経疏」巻四の散善義のなかで「行に就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」と修行を正行と雑行に分け、西方浄土往生へと導く修行が正行で、雑行とは正行以外のさまざまな修行のこととした。

 

観経

 観無量寿経のこと。一巻。中国・劉宋代の畺良耶舎訳。内容は、悪子・阿闍世のいる濁悪世を嘆き、極楽浄土を願う韋提希夫人に対し、釈尊は神通力によって諸の浄土を示し、そこに生ずるための三種の浄業を説き、特に阿弥陀仏とその浄土の荘厳の相を十六観に分けて説いている。サンスクリット原典、チベット語訳ともに発見されていないため、中国撰述説もある。

 

往生浄土の経

 浄土への往生を説いた経のこと。浄土三部経として、阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経がある。法然が選択集でこの三つの経典を「弥陀の三部なり。故に浄土の三部経と名づくるなり」と述べたことにもとづく。

 

世天

 人界・天界の神々のこと。

 

百即百生

 十即十生・百即百生の語の一部。善導の往生礼讃偈に「十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず」とある。念仏以外の雑行・雑修を捨てて、念仏を称えれば、十人が十人、百人が百人とも極楽浄土に往生できると述べたもの。

 

千中無一

「千が中に一無し」と読む。善導の往生礼讃偈の文。五種の正行以外の教えを修行しても、往生できる者は千人の中に一人もいないとする。

 

貞元入蔵録

 貞元新定釈教目録の略。貞元釈教録とも。漢訳仏典の目録。唐の貞元16年(0800)に円照が編集した。三十巻。開元釈教録を増補し、後漢の明帝の永平10年(0067)から唐の徳宗の貞元16年(0800)までの734年間に翻訳・著述された仏典として24177388巻が挙げられている。

 

法常住経

 一巻。 訳者不明。文に「法は常住なり、仏あるも仏なきも法の住するは、もとのごとし」とあるので、この名がつけられた。法は常住であるけれども、仏が出世してはじめてその深義を分別して、三乗の機根に応じて法を説き度脱せしめるのであり、ここに常住の法の現れがあると説かれている。

 

定散の門

 定善と散善の法門のこと。「定善」は定心に住して修する善行、「散善」は散心で行う善行の意。法然は念仏以外の自力の行を説く法華経等の法門をさしていった。

 

随自の後

 随自意の教えが説かれた段階ということ。随自は「随自意」のことで、衆生の機根や能力にかかわらず、仏が自らの悟りをそのまま説き示すこと。またその真実の教えをいう。すなわち仏の随自意とは、法華経のことであるが、法然は根拠も明かさず、念仏をもって仏の随自意の教えとした。

 

三心

 観無量寿経に説かれる、極楽往生するのに必要とされる三種の心。①至誠心(真実に浄土を願う心)、②深心(深く浄土を願う心)、③回向発願心(功徳を回向して浄土に往生しようと願う心)。

 

群賊等喚び廻す

 涅槃経および大智度論に、幅四、五寸の白道の譬えがあるのを、善導が引いて極楽往生をすすめている文。白道を進もうとする旅人を群賊等が喚び返すというのは、「別解・別行の悪見の人」すなわち聖道門の悪見・邪雑の人で、これらの人びとの言葉に従うなと善導は念仏者に警告している。ただし法然は、竜樹、天親、南岳、天台、伝教を皆群賊のなかに入れてしまっている。

 

講義

 

 すでに客が、悪侶とはいったいだれか、と問うたのに対し、いま、答えの意は、謗法の悪僧の元凶として法然の名をあげ、その選択集の邪義を徹底的に破折されたのが、本章である。法然は選択集をつくって、法華経を含めた一切経を捨閉閣抛せよといい、仏教を破り、民衆を迷わしたがゆえに、法然を悪比丘としたのである。

 すなわち、この時代の宗教界の実態は、国の大半が念仏者となって、法然に帰依していた。他に天台、真言、禅、律などの諸宗もかなりの勢力をもち、活動もしていたが、浄土宗の発展ぶりに較べれば、天台、真言、律は停滞期にあり、法相、華厳等は没落期、禅宗は、まだ微々たる勢力でしかなかった。いわば念仏は開創以来数十年を経て、旭日の勢いを示している新興宗教の覇者だったのである。しかも、それが権教をもって実教を破る仏教破壊の思想で、悪鬼、魔神の邪教であることは歴然としていた。経文に照らし、三災七難の元凶であることも明々白々である。

 このゆえに、日蓮大聖人は、その念仏の開祖たる法然の名をあげて、とくに法然が選択集を作って捨閉閣抛と称し、仏教を破り民衆を迷わしている実態を示して、これの破折に立ち向かわれたのである。しかしながら、主人のいう悪侶とは、たんに法然一人にとどまるものでない。総じては、いっさいの諸宗の僧侶を含めているのである。

 なぜかならば、すでに第一段の問いにおいて、客をして「然る間、或は利剣即是の文を専らにして」から「万民百姓を哀んで国主・国宰の徳政を行う」まで、国じゅうのあらゆる宗教がそれぞれ力の限りを尽くして、国難退治の祈禱を行っているにもかかわらず、一向に効き目がないばかりか、ますます災難、不幸を増長するばかりであると嘆かせている。このことは、いかなる宗教も三災七難を対冶できないことはもとより、結局、彼らこそ災難を増長している原因であることを物語っている。

 さらに、さきに仁王、涅槃、法華の各経文を引いて示されたが、これらの文に該当する悪僧は、当時のどの宗派にも共通である。そうした僧は、ことごとく仏法のなかの怨であり、天魔外道の輩なりと断じられるのである。法然は、そのもっとも凶悪なる代表としてあげられたのである。今日の宗教界のすべての僧、教祖、幹部に、この経文はピッタリと符合している。また、その邪義を唱える手口も、本章で示されている法然のそれと、まことによく似ているのである。

 法然は、曇鸞、道綽、善導の邪義をさらに発展させて種々に邪義を構えた。それが、いかに論理の飛躍の潜む巧妙な方法で行われたことか、少しく検討していけば明瞭である。

 まず聖道門と浄土門との立て分けは、道綽の安楽集にある邪説である。だがこれは、爾前の諸経を聖道、浄土の二門に立て分けて、聖道門を捨てて、浄土門に帰すべしと述べているのであって、まだ法華経を含めていない。

 だが、法然は、選択集において、聖道門に法華経を含めて、これを捨てよと論じたのである。すなわち「準之思之の四字で、拡大解釈し、道綽の立てた聖道・浄土の二門を法華経にまで及ぼしたわけである。すべて、この調子で、曇鸞の難行道・易行道、善導の正行・雑行の邪説を「準之思之」の四字で拡大解釈し、法華経誹謗の大重罪をおかしているのである。

 これについては、大聖人は、守護国家論で次のごとく述べられている。

「問うて云く、竜樹菩薩並に三師は法華真言等を以て難・聖・雑の中に入れざりしを源空私に之を入るるとは何を以て之を知るや。……答えて云く、選択集の第一篇に云く、道綽禅師・聖道浄土の二門を立て、而して聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて私の料簡の段に云く『初に聖道門とは之に就て二有り。一には大乗・二には小乗なり。大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も、今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す。故に歴劫迂回の行に当る。之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし』已上選択集の文なり。此の文の意は、道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も、我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す『準之思之』の四字是なり、此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時、亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ、善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る。総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る。誤れるかな畏しきかな」(0052:06

 この法然の邪義が、いかにしてつくられていったかは、あとでさらに詳しく論ずることにして、まずあのような低級、卑劣な邪義が、なぜ当時あのように蔓延したのか。それを明らかにするために、ここで当時の宗教界における法然の地位、法然の一生、法然の選択集の破折の順で述べてみたい。

 

民衆の無智につけこんだ法然

 

 延暦13年(0794)の平安京遷都以来、絢爛たる文化を誇った良き時代も11世紀にはいると、政治の腐敗、仏教界の堕落、僧兵の横暴、武士団の勃興と、世の中は物情騒然たる時代となり、相次ぐ天災、飢饉のなかに、人々は不安の毎日を余儀なくされていた。

 それまで天台宗を中心としていた仏教界は、その内側における葛藤から、腐敗、乱脈をきわめ、しかも保元、平治の乱、さらに源平の合戦と、相次ぐ戦乱にみずから巻き込まれて、人々を救うなんの力もないことを露呈したのである。こうして現世を穢土として嫌い、浄土往生を願う念仏思想が、次第に民衆のなかに溶け込んでいった。

 しかも、永承7年(1052)は、釈尊滅後ちょうど2000年、すなわち末法にはいる年とされ、従来の煩瑣な理論を持つ仏教は功力はないとし、単純な、新しい宗教の出現を渇望していったのである。

 法然の念仏思想は、こうした時代の風潮に便乗したもので、それまでの天台・真言のように難解な教義はなんら必要とせず、いっさいを捨てて、ただ念仏を唱えることによって、極楽往生できるというきわめて単純なものであった。法然に帰依したものの大部分が、朴訥無学な武士や諸民であったことは、既成仏教と根本的に異なる点であった。彼らにとっては、わずらわしい教義はなんら必要ではなかった。専修念仏の信仰は、聞くだけでうっとりとするような極楽浄土を慕うムード、狂信的な踊り念仏の流行、若い念仏僧が美声を張り上げて歌う和讃等々、いわば現代のモンキー・ダンスやロックンロール、ジャズ等のような形で民間に浸透していったのである。それは、まったく精神異常以外のなにものでもなかった。

 このあと、すぐ述べるところであるが、少しく仏教を知り、冷静に考えてみるならば、法然の教義は実にたわいのないものであり、しかも正法を誹謗した恐るべき邪説であることが、すぐ判断できたはずである。のみならず、比叡山の学僧のなかに、これを破折して世に警告を発した人も少なくなかった。だが、一般民衆にはなにもわからないまま、疫病が流行するように蔓延していったのである。

 法然によって説かれた専修念仏の教えは、その弟子たちの手によって、たちまちのうちに全国に流布し、わが国は上下をあげて、この邪義に心酔してしまった。なかでも前に述べたように、時宗の一遍等は、全国をくまなく遍歴して、邪教を弘め、無智な民衆をたぶらかしていったのである。

 この時代は、法然の念仏のほか、禅宗が北条時頼を後ろ立てに得て、発展し、栄西、道元、道隆などの僧を中心として、隆盛をはじめている。律宗でも、良観が、巧みに幕府に取り入って、自己の保身、勢力の拡張を推し進めている

 

法然の一生

 

 ここで法然の生い立ち、その一生を略述してみよう。法然は長承2年(1133)美作国久米郡に生まれた。父の漆間時国は久米郡の押領使で、母も土地の豪族の出であった。法然が9歳の時、父時国は多年にわたって争いを続けてきた土地の預所明石定明に夜襲を受けて殺されてしまった。このような事件は当時の社会にあっては、役人同士の争い、中央官僚と地方豪族の争いとしてよくあったもので、特に珍しいことではなかった。

 浄土宗側の伝記によれば、この夜襲の際、臨終の父は法然に対して、仇討ちを厳にいさめ、一切衆生が安易に救済される法門を開顕するために、出家するよう諭したというが、幼名を勢至丸といったこととともに、当時の記録になくはなはだ疑わしい。久安3年(1147)、15歳の時、母に暇を乞い、比叡山に登り、持宝房源光の室にはいり、ついで功徳院皇円に移り、11月に剃髪受戒して円明善弘と名のった。

 ここで3年間修学したのち、18歳の時、黒谷の慈眼房叡空の弟子となり、ここで法然房源空と改名した。この黒谷で、彼は慧心僧都の「往生要集」をはじめ、諸宗の章疏を学び、なかんずく、善導の「観経疏」の「一心専念弥陀名号」の文をみて、承安5年(1175)、43歳の春、浄土宗の邪義を構えたのである。

 彼の教義の特色は、それまでの仏教界の中心であった天台宗等が、難解な教学を旨としたのに対して、戒定慧の三学をはじめ、一切経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱え、ただ阿弥陀に対する強い信仰を強調したことである。これによって、一般庶民を引きつける力を持つ結果とはなったが、それは、まさに仏法を隠没する暴義でもあった。

 また、布教の仕方も、従来、僧侶は山中にはいったり、いかめしい寺院の奥深くにあって、庶民のなかでも、遊女や賤民と話したり、顔を合わせたりすることはなかった。これに対して法然らは、そうした婦女子にも積極的に近づいて、布教を進めていった。こうして、多くの無学な武士階級や一般庶民が、つぎつぎと念仏を唱え始めた。貴族のなかでは関白九条兼実らも帰依し、法然の教義は上下に伸張していったのである。

 ために比叡山、興福寺などの旧仏教から嫉視されるようになり、たびたび念仏禁止の上奏がなされた。だが、最初のうちはこの上奏も、いずれも却下され、沙汰やみとなっていた。しかるに建永元年(1206)、法然が74歳の時、彼の弟子で美貌、美声の噂の高い安楽と住蓮が開いた念仏の会合に、後鳥羽院の留守を利用して、数人の女房が出席した。そして、彼女たちが安楽、住蓮と密通したという噂がひろまったのである。これが、院の大きな怒りを呼んでしまった。

 年が明けるとともに、法然門下の僧侶は次々と捕えられ、安楽、住蓮の二人は死刑、そのほか法然自身も讃岐に流罪に処されたほか、多くの門弟が島流し、追放をいい渡された。

 浄土宗ではこれを法難と称して美化しているが、女性問題、風紀問題で弾圧されたことが、なにが法難か。これを国難を救うためわが身を惜しまず諌暁され、ために三類の強敵を呼び起こした大聖人の法難とくらべるなら、まさに天地雲泥の違いがあるではなか。

 法然は道々、遊女や漁師など庶民に布教を続け、承元5年(1211)許されて京都に帰ったが、翌年、80歳で没した。その後嘉禄3年(1227)すなわち、彼の死後15年、延暦寺の僧徒の訴えによって、念仏禁止の勅宣が下され、墓および堂宇は破壊され、遺骸は鴨川に流された。

 

仏教に全く依らない選択集

 

 法然は、その生涯において、幾つかの著作を試しみたが、その代表とされるのが「選択本願念仏集」である。彼の構えた邪義は、この一書に集約されており、これが以来七百年間、日本民族を苦しみ続けた念仏の害毒の源である。

 この選択集に対する破折は、日蓮大聖人の諸御書で論じられているが、なかでも体系的に完膚なきまでに破折し尽くされたのが「守護国家論」である。今、立正安国論で破折されているのは、ごく大網をとって論じられている。しかし、これだけでもすでに明瞭なごとく、選択集の邪義の拠りどころは、すべて、曇鸞、道綽、善導、慧心僧都の人師の説であって、仏説たる経文に対しては、亳も考察し、依拠としていないのである。

 なぜ、仏説を依処としないか、それは、法然が唱えようとしている教義が、経文のどこにも説かれていないからである。すなわち法然の浄土宗とは、仏教とは名ばかりで、内容的には仏教とはなんの関係もない、法然経にすぎない。

 およそ仏教と名のる以上は、その主張に誤りのないことが、経文のうえで、証明されるものがなければならない。こういえば、現代科学の帰納法的思考しか知らぬ人々は「それでは発展性がないではないか」と反論するかもしれない。

 この反論は、一応は尤もである。だが、東洋哲学の真髄たる仏法は、そうした帰納法とは本質的に違う演繹法に立つものであることを知らなければならない。すなわち、仏の悟り、境地は絶対的なものであって、そこにいっさいの原理があり、源がある。仏の説いた八万四千の法門には、すべてが説き尽くされているのである。このゆえに、仏の金言、仏の予言に反する説は、邪説と断ずることができるのである。これが仏教者の信念であり、鉄則である。

 さらに一般的に論じても、もしも仏の説と異なった説を立てる以上は、仏の説のどこに誤りがあるのかを明確にしたうえで立てられるものでなければならない。それをまったく無視して、しかも異説を唱え、そのうえに、ただ独断的に、浄土三部経のみが正しくて、他はすべて誤りであるから捨てよ等というものは、民衆を盲目視し、ばかにしているにもほどがあるといわねばならない。

 しかして、そうした根拠のない邪説に、ただ盲目的に従って、低級なる三部経にのみ執着して、最高の法華経をはじめ、仏の経説を捨てる民衆は、愚かといって、なんのいいすぎであろうか。この盲目の民衆をきびしく叱り、めざめさせて正法を教えられたのが日蓮大聖人である。

 目をさまし、生気に戻って眼を開いて見るならば、末法衆生の主師親、すなわち御本仏は、日蓮大聖人にほかならないことがわかるのである。その末法御本仏、日蓮大聖人の説かれる成仏得道の大白法こそ、三大秘法の大御本尊である。

 ここで、この立正安国論で、特に、本章等において、法然の邪義を責めるにあたり、難行道、聖道門、雑行のなかに法華真言を含めている我見を、特に強調されている所以がある。

 

「実教より之を責むべし」

 

 法華真言とは、大聖人御在世当時でいえば、一応は比叡山自体ともいえる。したがって一見、これは、法然の浄土宗を責めて、天台宗に帰依せよと主張されたかのように思われるむきもあろう。

 だが、大聖人の御真意が、天台宗のごときでないことは、冒頭の客の質問に、天台宗の祈禱も一向に効き目がないと嘆かせられていることからも明白である。ではなぜ、ここで法華真言と申されたのか。これは、すなわち、権実相対の立ち場で論じられていることを知らなければならない。

 如説修行抄にいわく、

 「末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し 敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり」(0503:13

 浄土宗が依経とする阿弥陀経は権教である。わが国においては、伝教大師の出現によって、実教たる法華経の広宣流布が成し遂げられている。しかるに、今になって、浄土宗がひろまったというかとは、権実雑乱以外のなにものでもない。しかも、法然が、法華経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てというのは、まさに権経即実経の敵となる姿ではないか。

 この時には「実教より之を責む可し」なのである。このゆえに権実相対の立ち場から、大聖人は権教たる阿弥陀経に対して、実教たる法華経を立て、権仏たる阿弥陀如来に対して実教たる釈迦如来を立てられたのである。これにより、法華経こそ最高唯一の教なることを知り、さらに法華経の経文のうえから、末法に出現せられた日蓮大聖人こそ、経文に予言せられた末法の御本仏であり、大御本尊以外に幸福になる道はないことを、知りやすくせんがためである。かつ、同じく法華経といい実教といっても、天台仏法の法華経でないことは、観心本尊得意抄に「設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如」(0972:09)等とあることから明瞭である。如説修行抄の「純円・一実の法華経」「一乗流布」というのも、末法流布の三大秘法の謂なのである。

 末法の民衆の生命力を増し、絶対的幸福の人生を遊戯せしめる本源こそ、法華経本門寿量品の文底に秘沈された、三大秘法の仏法にほかならない。しかして、これが最も根本的な大良薬なのである。日蓮大聖人の御本意は、あくまでもこの大良薬を服せしめることにあるのであって、天台仏法に帰依せよと仰せられているのでは、毛頭ないことを知るべきであろう。

 

浄土宗教義の成立

 

 さて、法然の邪義の所以のさらに深いのは、仏の経説によらず、人師の謬説によっていること、さらに、この人師の説を曲げてしまっているということである。これを明かすため、曇鸞、道綽、善導がどのような謬説を立てそれを法然がどのように邪悪化したかを概要しょう。

 

曇鸞について

 

 曇鸞は5世紀末から6世紀にかけて、いわゆる南北朝時代の人で、はじめ四論を学んだがのちに病にかかって長生不死の法を求め、江南に道士、陶弘景をたずねて仙経を得て北に帰った。しかるに、洛陽で菩提留支に会って、その法を聞き、たちまち意を翻して仙教を焼き、もっぱら浄土教に帰依した。魏の帝王の帰依をえて親鸞の名をもらい、并州大厳寺に住み、晩年は石壁山玄中寺に住んだ。

 著書に「往生論註」二巻、「略論安楽浄土義」「讃阿弥陀仏偈」などの浄土教に関するものから、「療百病雑方丸」三巻、「論気治療方」一巻といった道教式の医書まである。往生論註は、その代表的著書で、菩提留支が訳した天親菩薩の「優婆提舎願生偈」を、竜樹菩薩の「十住毘婆沙論」の易行品等の所説を取り入れて論じたものである。

 竜樹、天親は正法時代に出現した正師で、その所説は権大乗経の流布に本意があり、権大乗のなかで浅深勝劣を明かしたのであった。そこでは、権大乗と実教とは明確に立て分けて論じられていた。曇鸞の「往生論註」も、難行、易行の二道を立て分けたが、あくまでも権大乗の諸経のなかでの論議で、法華経を難行道に入れることはしていない。法華経までも一緒に論じたのは、法然が初めてつくった自分勝手な邪説にほかならないのである。

 日蓮大聖人は、これを破折して「守護国家論」に次のように述べられている。「釈迦如来五十年の説教に総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く「険逕を行くに留難多き故に」と無量義経の已後を定めて云く「大直道を行くに留難無きが故に」と仏自ら難易・勝劣の二道を分ちたまえり、仏より外等覚已下末代の凡師に至るまで自義を以て難易の二道を分ち此の義に背く者は外道魔王の説に同じきか、随つて四依の大士・竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分ち敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず、其の上若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百千万億倍なり、難易・勝劣と云い行浅功深と云い観経等の念仏三昧を法華経に比するに難行の中の極難行・劣が中の極劣なり。」(0053:11)と。

 このように、難行、易行を論ずるならば、法華経が最も易行であることを、仏みずから定めている。このゆえに、曇鸞ですら、法華経を難行道に含めることをはばかったのである。しかるに法然は、仏説に背き、曇鸞の教えも踏みにじって、法華経を難行道に入れ、これを捨てよ等という、大謗法を犯している。

 

道綽について

 

 道綽は六世紀後半、唐代の僧で、生まれたのは曇鸞の死後20年である。したがって、曇鸞・道綽は、直接のつながりはない。玄中寺をたずねた道綽が、その碑文を見て、当時の末法思想に便乗して曇鸞の思想をひろめたのが、その真相である。道綽は、はじめ讃禅師について涅槃学を学んだが、曇鸞の碑文を見て浄土教を立て「安楽集」等を著した。

 その所説は、法華経以前の大小乗教について、聖道門、浄土門の二つを分かち、聖道門は千中無一すなわち千人修行しても、一人も成仏できない。浄土三部経のみが百即百生の教説であると主張したのである。

 これについても、法然は「私の料簡」として「初に聖道門とは之に就いて二有り、一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」と述べ、理不尽にも、法華経さえも千中無一の聖道門である。と断定している。これまた、仏説をないがしろにする大謗法であり、浄土宗の祖と崇める道綽の本意をすら踏みにじったものであることは、論をまたないであろう。

 

善導について

 

 善導も唐代の僧で、生まれたのは山東省とも安微省ともいい、詳らかではない。少年時代、法華経、維摩経を読み習ったが、たまたま仏寺中の西方変相の絵を見て、浄土に生まれようと願いをたて、観無量寿経に専念するようになったという。その後、玄中寺で道綽の教えを受け、また終南山妙真寺、長安の光明寺と転々した。

 その修行は、30余年間、寝処を定めず、道を歩くときは目をふせて女性を見ないようにしたとか、日々托鉢し、それを大衆に施した等々という。また、阿弥陀経を書写すること十万巻、浄土の変相三百鋪を描いて、領布し、塔寺の損壊を見れば必ず修復した等々といわれる。こうした姿は、大聖人御在世当時の忍性良観等と同じで、経文の「持律に似像して」云云にあたる。

 外面は高徳道綽並びなき名僧のごとくであるが、その教義は、釈尊、天台の正義に反する己義で、人を地獄に突き落とす天魔・外道以外のなにものでもなかった。

 著作は「観無量寿経疏」「往生礼讃」「般舟賛」「観念法門」等があり、儀式には音楽的要素を取り入れたのも善導に始まるといわれる。

 しかし、高僧という評判は天下に響き、多くの無智の男女が帰依して、阿弥陀経読誦30万遍、日課称名十万遍等という念仏信者も現われ、往生を願って自殺する者が絶えなかった。

 善導自身、大勢の信者がその極楽往生の様を見ようと集まってきているなかで、寺の前の柳の木に縄を掛け、首をくくった。しかるに、前にも述べたように、枝が折れるか縄がきれるかして、善導は地面に落ち、背の骨を折って七日七夜、苦しみ悶えて息絶えていったのである。このように、善導は、みずから念仏者の極楽往生はウソであり、むしろその末路は、無間地獄に堕ちることを証明したのである。

 善導の教えは、釈尊の教えに反して極楽往生を理想とし、40余年末顕真実の権教に執した点で、あくまで邪教であった。しかし「往生礼讃」の正行・雑行の立て分けは、ひとえに摂論宗を破るための所判であって、法華経を雑行に入れる意図は毛頭なかった。これを勝手に作り変えて、法華経を雑行に含め、天台等を群賊にいれたのも法然である。現身に堕地獄の相を示した善導以上に、法然の受ける罪報は大きいことを知らなければならない。

 曇鸞、道綽、善導ともに、その説は、所詮、仏の真意たる法華経に反する邪説であった。しかし、法華経をもって、捨てよ等という決定的な謗法ではなかった。このゆえに、守護国家論に大聖人は「多分は本論の意に違わず」と申されているのである。

 

慧心僧都について

 

 法然が浄土信仰に転ずる動機となったのが慧心の「往生要集」である。慧心は、比叡山第18代座主慧恵大師の弟子で、教相を重んずる檀那流に対して、観心を重んずる慧心流を立てた学僧である。「往生要集」は表面的に見れば浄土宗を宣揚しているようであるが、その大文第十の問答料簡の中の第七、諸行勝劣の念仏と法華経の一念信解の功徳を比べて、一念信解の方が念仏三昧より百千万億倍勝ると結論している。

 すなわち、「往生要集」は法華経がいかに勝れているかを説くために著したものである。だが、これには、なお念仏的な臭さが残っており、それに気づいた慧心は、権少僧都の職を辞任してまで、前非を悔い、さらに「一乗要訣」を著わして、法華最勝の義を鮮明に論じているのである。

 これを法然が読みきれず、単に浄土宣揚の書と受け取ったのは、法然がいかに無智であり、浅学であったかを証明するものといわざるをえない。あるいは、己義を荘厳するために、都合のよい所だけをとったのであろうか。

 しかし、以上は、与えて論じたのであって、奪って論ずれば、慧心が法然の邪義の淵源になったことは事実である。撰時抄には、慧心を師子身中の虫と断じられている。「法然が念仏宗のはやりて一国を失わんとする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり、師子の身の中の虫の師子を食うと仏の記し給うはまことなるかなや」(0280:04)と。

 また、同じく撰時抄に「日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(0286:13)と。

 現代においても、学者のなかには、法然をもって、あたかも中世日本の生んだすぐれた思想家であるかのごとく論ずる人が少なくない。だが、法然の思想が、どのようにして組み立てられているかを、厳密に研究するならば、およそ思想、哲学とはいえない、飛躍であり独断であり、邪説であることがわかるはずである。

 また、法然をもって宗教的改革者であるとする人々もある。これも、法然が晩年の元久元年(1204)弟子がふえて、叡山の衆徒が専修念仏の禁止を天台座主に要求したとき、弾圧を避けるため、他宗の悪口をいってはならない等の七箇条の禁制を定め、師弟190人が連署して天台座主に出している。その内容は

   一、阿弥陀仏以外の仏菩薩を謗らない。

   二、他教の人と好んで論争しない。

   三、他教の人にその信仰を捨てさせない。

   四、念仏門では無戒と称して婬酒食肉を勧めたりしない。

   五、勝手に自分の教義を立てて人と争ったりしない。

   六、唱導で無智の人々を教化しない。

   七、誤った教えを偽って師範の説としない。

 の七箇条である。しかし、すでに膨大化し、突っ走り始めた狂騒の民衆は、法然の手にも負えなくなってしまい、ついに朝廷による念仏一門禁圧を招いたのである。

 いっさいの宗派を邪義なりと断じ、経証を引いて、哲学的に論証し、謗法の者を即刻断絶せよと、師子王のごとく叫ばれた日蓮大聖人と比べれば、まさに天地雲泥の違いがあるではないか。ここに、われわれは、正義と邪義、仏と魔との本質的な相違を見ることができるのである。

0017~0033 立正安国論 0021:17~0024:04 第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かす 0023:04~0023:09 第三章 法然の謗法を断ず

00170033 立正安国論 0021:170024:04 第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かす 0023:040023:09 第三章 法然の謗法を断ず

 

本文

 

  之に就いて之を見るに、曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて、聖道・浄土、難行・易行の旨を建て、法華・真言惣じて一代の大乗、六百三十七部・二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣き、或は抛つ。此の四字を以て、多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧、十方の仏弟を以て、皆群賊と号し、併せて罵詈せしむ。近くは所依の浄土三部経の「唯除五逆誹謗正法」の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して、阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者なり。

 

現代語訳

 

 この法然の選択集をみると、念仏の祖である中国の曇鸞・道綽・善導の誤った釈を引いて、聖道と浄土、難行と易行の旨を立て、法華真言をはじめ、総じて釈尊一代の大乗経六百三十七部二千八百八十三巻のいっさいの経文と、いっさいの諸仏菩薩および諸天善神等を信仰することを、みな聖道門、難行、雑行等に入れてしまって、あるいは捨てよ、あるいは閉じよ、あるいは閣け、あるいは抛ての四字をもって一切衆生を迷わしている。そのうえにインド、中国、日本の三国の聖僧や十方の仏弟子をもって、みな群賊といい、念仏の修行を妨げるものであるとして、これらの聖僧に悪口をあびせかけている。

 このことは、近くは、彼等が依経としている、浄土の三部経のなかに説かれている、法蔵比丘四十八願中の第十八願に「念仏を称えていけばかならず極楽浄土に往生できるが、ただ五逆罪の者と正法を誹謗する者を除く」との誓文にそむき、遠くは釈尊一代五時の説法のうち、その肝心である法華経の第二巻・譬喩品第三の「もし人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、その人は命終わってのち阿鼻地獄に入るであろう」との釈尊の戒文に迷うものである。

 

語訳

 

法華・真言

 比叡山天台宗は、慈覚以後、真言の邪法に犯されて、法華と真言の混血のようになっていた。そして、比叡山は迹門戒壇建立の地であり、過去のものとはいえ、仏教界の中心であることに変わりはなかった。権実相対の立場から、権教たる浄土宗が、実教たる天台宗に叛き、これをないがしろにしていることをもって、謗法なりと断じられているのである。

 

阿鼻獄

 八大地獄の一つ、阿鼻地獄。阿鼻は梵語アヴィーチ(Avīci)の音写で、訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことから、無間地獄ともいう。周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれているところから阿鼻大城、無間大城ともいわれる。大焦熱地獄の下、欲界の最低部にあるとされ、八大地獄の他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるとされる。

 

講義

 

 前章に法然の選択集を長く引いたのに対し、本章では経文の中の文証を引いて、これを破折されたのである。

 はじめに「曇鸞・道綽・善導の謬釈」とあるが、これはいま奪って論じたものであって、前章の講義のなかに引いた守護国家論のなかにある文証になんら違するものではない。前章においては、法然の邪義からみるならば、中国の三師の釈は「多分は本論の意に違わず」と述べられたもので、これは与えて論じたものである。

 同様の例として、当世念仏者無間地獄事にいわく「浄土の三師に於ては書釈を見るに難行・雑行・聖道の中に法華経を入れたる意粗之有り。然りと雖も法然が如き放言の事之無し」(0109:14)と。これは与えて論じたものである。同じ御書に奪って論じて、次のごとくおおせである。「三師並に法然此の義を弁えずして諸行の中に法華・涅槃並に一代を摂して末代に於て之を行ぜん者は千中無一と定むるは近くは依経に背き遠くは仏意に違う者なり」(010409)と。

 なぜ与えて論ずるかといえば、法然の邪義に比べれば、三師の邪義など物の数ではないという立場から法然の悪を強く指摘するためであり、再往奪って論ずるのは、法然の邪義は、三師の邪義のうえに形成されたものであり、三師の邪義をあげ、さらに法然の邪義のいかに謗法きわまりなきものであるかを強く示されるのである。ともに法然の邪義に焦点を向けられるためである。

 

法然こそ誹謗正法の張本人

 

 まことに法然こそ、中国の三師の誤った解釈にさらに輪をかけて、法華経をはじめとする釈尊一代の聖教を、浄土の三部経を除いては聖道門、難行道、雑行としてしまい、一切経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと「捨閉閣抛」の四字をもって上下万民を迷わした張本人なのである。

 そのうえ、法然は法華経等を正しく伝えた聖僧、および十方の仏の弟子を群賊とし、自己の邪義のうえに、さらに聖僧罵詈の罪を犯した。

 こうした法然の邪義に対し、日蓮大聖人は、彼らの依経としている弥陀の三部経のなかからと、法華経の経文から、二つの文証を引いて破折を加えられたのである。まず、彼らが依経としている三部経の一節「唯五逆誹謗正法を除く」の経文であるが、これは大無量寿経のなかに法蔵比丘の四十八願の第十八願として「設い我仏を得んに十方衆生至心に信楽して我が国に生れんと欲せば乃至十念せよ。若し生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と説かれている。

 この法蔵比丘の四十八願について、少しく説明を加えるならば、過去無数劫に然燈仏等の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき一人の国王がその仏の説法を聞いて随喜し、菩提心を起こし、ついに国位を捨てて僧侶となり、法蔵比丘といった。そして菩薩道を行じて、自分の仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏に、これまでもろもろの仏たちは、どのように浄土を荘厳したかを教えてくださいと頼んだ。そこで世自在王仏は二百一十億の諸仏の先例を説いた。法蔵比丘は五劫の間仏の国土の荘厳、清浄の行を思索し、選択して、かの仏のもとへ行き、自分の国土を荘厳し、浄化する誓願として四十八願を立てた、というのである。

 その第十八願が先の経文であり、その仏国土は、娑婆世界から西方へ十万億仏国を過ぎたところにあるとも説かれている。これが、念仏宗で説く極楽浄土であり、このことから、彼らは、この世の中は穢土で、死んでのち西方の極楽浄土へ往生すると説いているのである。

 ところが、彼らが念仏を称えると、極楽往生できるという唯一の依処たる法蔵比丘の第十八願のなかに、明確に「唯五逆と誹謗正法を除く」と示されているのである。いうまでもなく、彼らの依経としている三部経は釈尊が「四十余年未顕真実」といって説かれた爾前経であるが、これをかりに正しいものとして認めたとしても、念仏を称えた人が、百人が百人、かならずしも極楽浄土へ行かれないということが、法蔵比丘の四十八願のなかにはっきりとしているのである。

 つまり、五逆罪を犯したものと、正法を誹謗したものは、いかに阿弥陀を念じようとも、極楽浄土へ生ずることはできないのである。そのことは、ほかでもない彼らの依経のなかに明示されているところである。それにもかかわらず、その断わっているところを隠し、だれもが西方浄土へ行けるようにいいふらしたのは、いかなるわけか。そこに自分につごうの悪いところはおおい隠して、つごうのよいところだけを利用するという、奸智にたけた悪侶の姿を見いだすのである。

 さらに、日蓮大聖人は第二番目として、奪った立場から法華経譬喩品の一節「若し人は信ぜずして、此の経を毀謗せば、乃至其の人は命終して、阿鼻獄に入らん」をもって、破折されている。

 まず、ここで引かれた譬喩品の文の省略部分を加えてみると「若し人は信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん、或は復た顰蹙して疑惑を懐かん、汝は当に此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世若しは滅度の後に其れ斯の如き経典を誹謗すること有らん、経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん。此の人の罪報を汝今復た聴け、其の人は命終して阿鼻獄に入らん」とあり、以下に正法を誹謗したときの苦悩、悲惨のありさまが、詳しく説かれている。

 これらの点については、すでに詳述したとおりであり、そのどれを取り上げても、誹謗正法がいかに恐ろしいことであるかを示されているのである。

 日蓮大聖人は、念仏無間地獄の姿を善導、法然等の開祖の臨終のときのようすから、次のように教えられている。すなわち、当世念仏者無間地獄抄にいわく。

「而るに汝等が本師と仰ぐ所の善導和尚は、此の文を受けて転教口称とは云えども、狂乱往生とは云わず。其の上汝等が昼夜十二時に祈る所の願文に云く、願くは弟子等命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱せず、心失念せず、身心諸の苦痛無く身心快楽禅定に入るが如し等云云。此の中に錯乱とは狂乱か。

 而るに十悪五逆を作らざる当世の念仏の上人達並に大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は意を得ざる事なり。而るに善導和尚の十即十生と定め、又定得往生等の釈の如きは疑無きの処に、十人に九人往生すと雖も、一人往生せざれば猶不審発る可し。何に況や念仏宗の長者為る善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等・皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱して死するの由、之を聞き又之を知る。其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」(0105:14)と。

 このように、念仏者の臨終の姿は、一様に悲惨そのものである。これこそ無間地獄に堕ち行く姿でなくてなんであろうか。前章でも詳しくみたとおり、狂乱のあまり、庭先の柳によじ登り、大地に落ちて七日間地獄の苦しみのうちに死に絶えた善導、死後、勅により墓をあばかれ鴨川に捨てられた法然、それにつづく善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等の高位の弟子がいずれも悪瘡の重病で、狂乱のまま息絶えていったる事実は、まさしく経文の「命終して、阿鼻獄に入らん」との姿そのものではないか。

 立宗の開祖、宗祖が、そのような状態であるから、弟子、檀那にいたってもけっして例外ではないはずである。

「大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は意を得ざる事なり」とは、このことをおおせられたものであり、「浄土門に入つて師の跡を踏む可くば、臨終の時善導が如く自害有る可きか。念仏者として頸をくくらずんば、師に背く咎有る可きか如何」(0100:03)との大聖人の破折に、念仏者はいったいなんと答えるのであろうか。

 法然の死後、その残した邪義、害毒のゆえに、どれほどの人が不幸のどん底におとされたことか。念仏を強盛に信仰していけばいくほど、その一家が悲惨となっていく、その姿こそ法然の立てた教義が、まったくの邪義であることのなによりの証拠である。日蓮大聖人が四箇格言のなかで「念仏無間地獄」と一言のもとに破折されたごとく、正法に逆らって念仏に執着するものがあれば、いかなる人といえども、かならず不幸、悲惨の日々をすごさなければならないのである。

七百年前、国民のほとんどを帰依させるまでに隆盛を極めた念仏宗も、今日では、宗教の力を失って、ただ巨大な伽藍によっているにすぎない。念仏がかくまで没落し、国民の大半から見放された状態となってしまったのも、しょせんはその教義が低級、幼稚なためであり、低級なる思想、宗教はかならず没落していくとの明確な証明である。

 さらに敷衍して、この法華経の文を考えるならば、法然の念仏にかぎらず、末法の法華経たる御本尊を誹謗するいっさいの者は、みな堕地獄疑いなき者である。

 日蓮大聖人ご在世の当時、大聖人に敵対したものに例をとるならば、この定理は一分の狂いもなくあてはまっている。聖人御難事には、次のごとく法罰の現証を述べられている。

「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は、法華経の罰のあらわるるか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰、四候。日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばちなり」(1190:05)。

 ここに大田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱、大進房等は、熱原の法難のさい、日蓮大聖人の一門を迫害した連中であり、厳然と罰があらわれ、落馬し、悶絶し、死んでいったのである。

 また、大聖人のご在世中をとおして、大聖人をはじめ、その門下にもっとも激しい弾圧を加えたのは、時の権力者、平左衛門尉頼綱であった。この平頼綱は、大聖人ご在世中、鎌倉幕府のなかにあって、軍事、警察を一手に握る地位につき、文永8年(1274912日の竜口の法難、つづく佐渡流罪と、数々の法難のうちでも、もっとも大規模に、また冷酷に大聖人をはじめ、その門下を弾圧した張本人である。また弘安2年(1279)の熱原の法難も、その最高責任者は同じく平頼綱であった。

 だが、そうした弾圧当時には、頼綱にも、またその周辺にもなんの不幸もなかった。むしろ大聖人ご入滅後三年たった弘安8年(128511月には、幕府内にあって勢力を競い合っていた安達泰盛一派を討って、北条氏のもとにおける地位は盤石のものとなった。この争いは一般に霜月騒動とよばれているが、この騒動後の頼綱の地位は、まさに旭日の勢いで、執権の北条氏をしのぐとさえいわれたほどであったが、彼の行った政治は恐るべき専権と恐怖の政治であった。

 頼綱の子・平宗綱、飯沼判官助宗、弟の長崎光綱らがにわかに権力を握って、中央に進出してきた。霜月騒動後、その恐怖政治は約八年間つづいた。頼綱の権力はとどまるところを知らず、執権貞時もようやく、身辺に不安をおぼえ始めた。永仁元年(1293413日、鎌倉では大地震が起こり、将軍の邸宅をはじめ建長寺など諸寺が顚倒焼失し、死者は二万余人におよんだ。

「保暦間記」の伝えるところによると、嫡子の宗綱が「父・頼綱は弟の飯沼判官助宗を将軍にしようと企んでいる」と執権貞時に密告したという。頼綱にこの陰謀があったかどうかはわからないが、執権をしのぐ権勢をもっていたことは確からしい。永仁元年(1293422日、ついに執権貞時も腰をあげ、討手を差し向けて、頼綱の館を急襲、頼綱と助宗は自害、長男・宗綱は佐渡へ流罪、以下一族郎党はすべて逮捕された。かの熱原法難から数えて、ちょうど14年後、大聖人滅後11年目の出来事である。

 仏法はどこまでも峻厳なる因果の理法であり、その哲理にあてはめていったときには、いささかの例外もない。信ずるものには、偉大なる功徳があり、ゆえなく誹謗するものには厳然たる罰があるのである。

 では、正法を誹謗するという、その〝正法〟とは何か。南無妙法蓮華経であることはいうまでもないことだが、しょせんそれは、わが生命の究極の当体にほかならない。いいかえると、正法を誹謗するということは、自分の外にある何かを誹謗しているのではなく、自己自身の生命の奥底にあるものを、自らけなし、踏みにじり、傷つけ、破壊していることになるのである。

 ゆえに、正法誹謗の罰といっても、仏があてるなどというものではけっしてなく、自己の一念の因果によって、わが生命で実感するものなのである。

 されば、聖人御難事にいわく「過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190:02)と。

 撰時抄にいわく「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は。閻浮第一の大難にあうべし」(0266:11)と。

 今後とも、われわれの行く手には、数々の障魔が立ちはだかるであろう。だが、かならずや仏の軍勢は魔の軍勢に勝つとの大確信をもって、勇敢に進んでいこうではないか。

0017~0033 立正安国論 0021:17~0024:04 第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かす 0023:09~0024:04 第四章 選択集の謗法を結す

00170033 立正安国論 0021:170024:04 第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かす 0023:090024:04 第四章 選択集の謗法を結す

 

本文

 

  是に於て代末代に及び、人、聖人に非ず。各冥衢に容つて、並びに直道を忘る。悲しいかな瞳矇を拊たず、痛ましいかな徒に邪信を催す。故に上国王より下土民に至るまで、皆経は浄土三部の外に経無く、仏は弥陀三尊の外に仏無しと謂えり。

  仍って伝教・義真・慈覚・智証等、或は万里の波涛を渉つて渡せし所の聖教、或は一の山川を廻って崇むる所の仏像、若しくは高山の巓に華界を建てて、以て安置し、若しくは深谷の底に蓮宮を起てて、以て崇重す。釈迦・薬師の光を並ぶるや、威を現当に施し、虚空・地蔵の化を成すや、益を生後に被らしむ。故に国王は郡郷を寄せて、以て灯燭を明らかにし、地頭は田園を充てて、以て供養に備う。

  而るを法然の選択に依つて、則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び、付属を抛って東方の如来を閣き、唯四巻三部の教典を専らにして、空しく一代五時の妙典を抛つ。是を以て、弥陀の堂に非ざれば、皆供仏の志を止め、念仏の者に非ざれば、早く施僧の懐いを忘る。故に仏堂零落して、瓦松の煙老い、僧房荒廃して、庭草の露深し。然りと雖も、各護惜の心を捨てて、並びに建立の思を廃す。是を以て住持の聖僧、行いて帰らず、守護の善神、去つて来ること無し。是れ偏に法然の選択に依るなり。悲しいかな、数十年の間、百千万の人、魔縁に蕩かされて、多く仏教に迷えり。傍を好んで正を忘る、善神怒を為さざらんや。円を捨てて偏を好む、悪鬼便りを得ざらんや。如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには。

 

現代語訳

 

 この法然の邪義に対して、いまはすでに末代であり、人びとは凡愚で、聖人のごとく法の邪正をわきまえることができない。ゆえに、僧も俗も、みな迷いの暗い道に入って成仏への直道を忘れてしまっている。また悲しむべきことには、だれ一人としてこの謗法を責める者がいない。痛ましいことには、いたずらに邪信を増すばかりである。

 それゆえ、上は国王から、下は万民に至るまで、皆、経といえば、浄土の三部経以外にはなく、仏といえば、阿弥陀仏と、その脇士である観音菩薩と勢至菩薩の三尊以外にはないと思っている。

 しかしながら、一方、伝教、義真、慈覚、智証等が、あるいは万里の波涛を渡ってもたらした経典や、あるいは中国の各地をめぐってあがめた仏像は、あるいは、高山の頂きに仏堂を建てて安置し、あるいは深谷の底に僧坊を立てて安置し、崇重してきた。

 しかして、叡山の西塔に安置された釈迦如来、あるいは東塔止観院・根本中堂に安置された薬師如来は、光を並べて威光を現当二世におよぼし、同じく横川般若谷に安置された虚空蔵菩薩、また戒心谷に祀られた地蔵菩薩も、ともに、いよいよ利益を今生と後生に施して、万民の崇拝するところであった。ゆえに、国主は一郡、一郷を寄進して燈明料とし、地頭は田畠荘園を寄進して供養した。

 かくのごとく、比叡山の法華経を中心とする天台宗は、隆盛を極めたのであった。

 しかるに、法然の選択集によって、情勢は一変した。すなわち、教主釈尊を忘れて西方の阿弥陀如来を尊び、釈尊の付嘱をなげうって天台、伝教の建立した東方、薬師如来を閣き、ただ四巻三部の浄土宗の依経をもっぱら信仰して、釈尊一代五時の聖教をむなしく抛ってしまった。このゆえに、阿弥陀如来の堂でなければ、仏を供養しようとの志を捨て、念仏の僧でなければ、いっさいの布施をしなくなってしまった。ために、仏閣は落ちぶれて、屋根は苔が生えて松のごときながめとなり、立ちのぼる煙も細々と、僧坊も荒廃して生い茂る庭草の露が深い。しかしながら、そのような状態になっても、人びとは法を護り惜しむ心を捨て、これを建立しようとの思いもなくなってしまった。

 このゆえに、寺を住持する聖僧は去って帰らず、守護の善神も去ったまま二度と帰ってこない。これもひとえに法然の著した選択集によって起きた災いである。悲しいことには、数十年のあいだに、百千万の人が法然の魔縁に蕩かされて、多く仏法に迷ってしまった。傍の念仏を好んで、正の法華を捨てるならば、どうして善神が怒らないわけがあろうか。円教である法華経を捨てて、偏頗な念仏を好んで、どうして悪鬼が便りを得ないでいようか。災難を根絶するには、かの千万の祈りを修するよりは、この一凶である法然の謗法を禁じなければならないのである。

 

語釈

 

冥衢

「冥」は光がない。くらい。「衢」はちまた。分かれ道。辻。すなわち冥衢とは、暗い道の意。正しい道を見失い、暗い道に迷いこんだ姿に譬えている。

 

瞳矇を拊たず

「瞳」は瞳子で、ひとみ。「矇」は矇昧で、あきらかならざること。すなわち瞳矇とは、事理に暗いこと。拊つとは、うつ、軽くたたく、なでる。瞳矇を拊つとは、衆生が邪師にまどわされて暗い道に入りこんでいるのを、目を見開かせること。

 

伝教

日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江滋賀郡に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦四年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。31歳にして内供奉十禅師に列せられ、36歳にして和気清麻呂の子、広世・真綱に招かれて初めて山を下り、京都高雄山寺において法華三大部の講義を行い、南都の諸大徳も列席し称賛したという。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生 の勅許が下り、訳語僧の義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続けた。弘仁13年(082264日、比叡山中道院において入寂す。ときに寿56歳であった。没後七日目に大乗戒壇建立が聴許され、冬11月、嵯峨天皇は「哭澄上人」の六韻詩を賜った。翌年、義真によって初めて大乗戒の受戒が行われ、延暦寺の寺号を賜った。貞観八年(0866)清和天皇から伝教大師の諡号が贈られたのは、円仁の慈覚大師号とともに、日本における僧侶の諡号の最初であった。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」三巻、「山家学生式」一巻等がある。

 

義真

平安時代初期の天台宗の僧。比叡山延暦寺の初代座主。伝教大師最澄の弟子で、伝教大師の通訳として共に唐に渡った。伝教大師の没後、延暦寺の運営を担い、天長元年(0824)に初代天台座主となった。修禅大師と称される。嵯峨天皇に奉った「天台法華宗義集」一巻を撰した。日蓮大聖人は報恩抄に「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師に・にたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」と説かれている。

 

慈覚

平安初期の天台宗の僧。第三代天台座主。諱は円仁。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。日蓮大聖人は、円珍とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている。報恩抄に「第三の慈覚大師は始めは伝教大師の御弟子に・にたり、御年四十にて漢土に・わたりてより名は伝教の御弟子・其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず、而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり蝙蝠鳥のごとし鳥にもあらず・ねずみにもあらず梟鳥禽・破鏡獣のごとし、法華経の父を食らい持者の母をかめるなり日をいるとゆめに・みしこれなり」と説かれている。主著に「金剛頂経疏」「蘇悉地経疏」など。唐滞在を記録した「入唐求法巡礼行記」は有名。

 

智証

平安初期の天台宗の僧。第五代天台座主。諱は円珍。空海の甥。唐に渡って密教を学び、円仁が進めた天台宗の密教化をさらに推進した。密教が理法・事相ともに法華経に勝るという「理事俱勝」の立場に立った。このことを日蓮大聖人は「報恩抄」などで、先師・伝教大師最澄に背く過ちとして糾弾されている。主著に「大日経指帰」「授決集」「法華論記」など。円珍の後、日本天台宗は円仁門下と円珍門下との対立が深まり、十世紀末に分裂し、それぞれ山門派、寺門派と呼ばれる。

 

華界・蓮宮

 ともに僧院・仏堂のこと。

 

瓦松の煙老い

「瓦松」は、建物が古くなって修繕する人もなく、屋根の瓦に苔が生えて、遠くから見ると、あたかも松のように見えるのを表現した言葉。「煙老い」とは、そこから立ちのぼるかまどの煙も、ほそぼそとして活気がなく、零落しているありさま。

 

講義

 

 前章で、法然の選択集を経文によって破折されたのに引きつづいて、本章では、浄土宗の隆昌が、天台仏法を衰亡させ、仏教の正統学派の流れを濁乱させて、亡国の根源となっていることを指摘されている。

 本章末尾の「如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには」と、三災七難の元凶は、法然の邪義にあり、これを禁ずることが災難対治の要諦であるとの大師子吼である。当時の国の上下をあげての念仏信仰を思うならば、このように叫ばれる大聖人に、大迫害が嵐のごとく襲いかかることは火を見るより明らかであった。

 はたせるかな大聖人は、この年の827日には、嫉妬した念仏僧たちにそそのかされた民衆によって、松葉ケ谷の草庵を襲撃、破壊された。ついで、翌弘長元年(1261512日には伊豆へ流罪にされている。その後も、小松原の法難、竜口の頸の座、佐渡流罪等々、数多くの大難にあわれた。そのすべての淵源は、このご断言にあったのである。だが、大聖人は一歩も退かれてはいない。

 まえに述べたように、法然のごときは、選択集で、浄土三部経以外のいっさいの経を閉じよ、阿弥陀如来以外のいっさいの仏を捨てよ等と論じながら、叡山の衆徒が念仏禁止を陳情しただけで、たちまち師弟190人で自戒を申し合わせているのである。

 日蓮大聖人が、その何倍も恐るべき権力を敵に回しながら、生涯、正義を叫びぬかれたということは、深い深い心の奥底から発せられた叫びであることを知らなければなるまい。すなわち、この大聖人の教えを聞かなければ、現世には国を滅ぼし、民衆は未来永劫に阿鼻の炎にむせぶこととなる。それを救うために、大聖人は自らのご生命を投げ出されたのである。

 民衆を幸せにするのは、自分以外にないとの強い責任感は主の徳である。邪法の迷いから覚めさせ、正道を教えんとの偉大なる智慧は師の徳である。しかして、全民衆を子のごとく憐れみ、それを救うために身命を投げ出される大慈悲は親の徳である。この主師親の三徳こそ、御本仏であらせられることの証明である。「如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには」の一句のなかに、もったいなくも、主師親の三徳を具備された御本仏の境地を拝することができるのである。

 佐渡御書にいわく「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり。日蓮捨て去る時、七難必ず起るべし……日蓮当世には此御一門の父母なり」(0957:18)と。

 此関東の御一門とは、時の為政者たる北条一族であり、その棟梁であるとは、全日本民衆の主君なりとのご断言である。日月、亀鏡、眼目は、いっさいを映し、正邪を明らかにするがゆえに、師の徳である。そして父母であるとも仰せられているのである。この主師親三徳具備の日蓮大聖人によらなければ、三災七難を避けることはできないとのお言葉である。

 

是に於て代末代に及び、人、聖人に非ず

 

 すでに時代は末法にはいり、人は仏法の正邪の分別のつかない愚かな衆生が充満し、いたずらに邪法に迷っていると嘆かれているのである。

 ここで末法ということについて考えてみたい。大聖人は減劫御書に、人間が進歩するにつれて、悪の智慧が勝ってくることを指摘され、それに対して、いかなる仏法が救いの手をさしのべてきたかを述べられている。しかして、末法について「今の代は外経も、小乗経も、大乗経も、一乗法華経等も、かなわぬよとなれり。ゆえいかんとなれば、衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし。譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり。又鼻の禽獣をかぐことは、大聖の鼻通にもをとらず。ふくろうがみみのかしこき、とびの眼のかしこき、すずめの舌のかろき、りうの身のかしこき、皆かしこき人にもすぐれて候。そのやうに末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは、いかなる賢人・聖人も治めがたき事なり。其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し、瞋恚をば慈悲観をもて治し、愚癡をば十二因縁観をもてこそ治し給うに、いまは此の法門をとひて、人ををとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり」(1465:11)と述べられている。

 まことに、現代の人間像を、あますところなく述べられているではないか。宗教界において、仏が衆生を救済するために説いた仏法は、歪められ、方便の教は実教の哲理で荘厳され、ことごとく人を悪道に突き落とす邪教とされてしまった。自然科学においては、人類の幸福を増進すると期待された原子力の発見も、大量殺人の凶器として利用されている。思想界において、虐げられた無産階級を解放するはずのマルキシズムは、民衆の自由を抑圧する結果とさえなっている。

 これらは一例にすぎない。将来、われわれは、善の智慧によって、すべてを人間の幸福を増すものに変えていかなければならない。しかして、悪の智慧を打ち破るためには、善の大智が必要である。

 同じく減劫御書にいわく「しかれば代のをさまらん事は、大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて、仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて、一向に善根をとどめ、大悪をもつて八宗の智人とをもうものを、或はせめ、或はながし、或はせをとどめ、或は頭をはねてこそ代はすこしをさまるべきにて候へ。法華経の第一の巻の『諸法実相乃至唯仏と仏と乃ち能く究尽し給う』ととかれて候はこれなり。本末究竟と申すは本とは悪のね善の根、末と申すは悪のをわり善の終りぞかし。善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」(1466:07)と。

 すなわち、仏の智慧たる南無妙法蓮華経の大法をもって、はじめて、末法衆生の貪・瞋・癡の悪を破ることができるのである。また、同時に、この仏法の体を改めることによって、世間の影はしぜんと改まるのである。天台いわく「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と。大聖人いわく「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影ななめなり」と。

 科学の問題も、思想、社会、政治、経済、芸術等の問題も、その歪みを是正し、真に民衆の幸福のために生かしていく秘訣はここにあるといっても過言ではない。ゆえに、妙法の広宣流布こそ、いっさいの文化を本来の文化たらしめる源泉なりと主張するのである。

 

末法の意味

 

 さて、ここで、末法ということについて考察すると、どうなるか。いうまでもなく、末法とは「末の法」の意ではなく、「仏法の功力が消滅し、穏没する時」のことである。しかして、ここでいう仏法とは、釈尊の仏法をさすのである。

 しかし、こういうと仏法の知識のない人は、さまざまな疑問を生ずるにちがいない。釈迦仏法とは何か……。仏法は釈尊が説いたもので他に何があるのか……。功力がなくなるとはどういうことか……等々。

 およそ、仏法は仏の説いた教えであるが、その仏には三世十方の仏といって、数えきれないほどたくさんの仏がある。その仏の一人ひとりが、それぞれの法を説くのである。釈迦仏の法は法華経二十八品であり、日蓮大聖人の法は三大秘法の南無妙法蓮華経である。また、法華経には、過去威音王仏の像法の代に不軽菩薩が現れて、二十四文字の法華経を説いたと説かれている。

 正法とは、仏に深い縁のある衆生が生まれてくる時代で、したがって、法は正しく、浄らかに伝えられていく。像法にはいると、生まれてくる衆生の機縁は劣り、仏法は形式に流れていく。末法になると、生まれてくる衆生はその仏とはまったく縁がなく、仏法は名ばかりで、まじめに修行する人もないし、救う力もなくなるのである。

 だが、仏は三世を通観して誤りがない。釈尊は、自らの法の将来を予言し、大集経にいわく「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固・次の五百年は禅定堅固以上千年、次の五百年は読誦多聞堅固・次の五百年は多造搭寺堅固以上二千年、次の五百年は我が法の中に於いて闘諍言訟して白法隠没せん」と。

 はじめの千年間を、釈尊の仏法によって民衆が解脱し、禅定を得るゆえに正法といい、次の千年を読誦多聞、多造搭寺の形式が盛んなるがゆえに像法という。そして、最後の第五の五百歳は仏法穏没のゆえに末法というのである。

 このように、末法の時代とは、釈尊の仏法が隠没する時代であるが、同時に、法華経の文底に秘沈された大仏法が出現し、流布する時代でもある。法華経涌出品で、上行菩薩を上首とする六万恒沙の本化の菩薩が出現し、神力品で大法流布の付嘱を受けたのはこのためである。

 ゆえに、正像の正師たちは、すべて末法を賎しみ嫌うのでなく、その大法を恋い慕っているのである。

 遵式の筆にいわく「始め西より伝う、猶月の生ずるが如し。今復東より返る、猶日の昇るが如し」と。遵式は中国宋代の天台宗の僧で、22歳で国清寺にはいり、一生を天台の教法流布に捧げ、門弟千人を超ゆといわれた高僧である。その遵式が、西より伝わった釈尊の仏法を月に譬え、東の日本より出現する末法の大法を太陽に譬えているのである。

 像法時代の導師といわれた天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と、妙法の流布する末法の世を憧れている。また、伝教大師も「当今、人機みな転変して都て小乗の機無し、正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」と、この言葉のなかにも、まさしく末法を憧憬している心がうかがわれるではないか。

 だが、正しく仏法を知らない人びとは、末法の到来にいたずらに不安におののいた。事実、末法にはいった平安時代末期の日本は、民心を無常観に追いやるような、乱れた世相でもあった。貴族文化の頽廃と無気力化、加えて武士階級の台頭による兵乱の連続、相次ぐ天災地変、僧兵の横暴等、仏教界自体も乱脈を極めていた。

 したがって、この人生を無常とし、この世界を穢土とする現実否定的な考え方が、有力になっていったのは、しぜんの勢いであった。現世を否定して、西方の浄土に憧れ、自力の法門より他力本願の易行を唱える浄土宗がもてはやされたのである。

 これと対照的に、経文に照らし、現実を凝視し、現実に敢然と取り組んで、解決の方途を叫ばれたのが日蓮大聖人である。そして、大聖人は末法万年尽未来際まで流布すべき大仏法を説かれたのである。

 

釈尊の仏法について

 

 釈尊の説いた仏法を検討すると、それは、指導階級、知識階級のための宗教であることがわかる。全民衆の信仰すべき、真実の仏法は、日蓮大聖人によって初めて説かれたといえるのである。また、大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、釈尊の仏法は本果妙の仏法である。また、仏法の本体は大聖人の仏法であり、釈尊の仏法はその影であり、迹である。釈尊の仏法は日蓮大聖人の仏法が出現するための準備的教えにほかならない。

 その証拠をまず、教主についてみるならば、釈尊は、インド・カピラエ城の太子として生まれた。何一つ不自由のない少年時代を過ごし、19歳にして人生の無常を知り、これを解決するために出家し、30歳で悟りを開いたという。極端にいえば、このような境遇の人の説くことが、社会の底辺に生まれ、極貧の生活を送っている民衆に、実感をもって信じられるということは、実際問題、不可能である。もちろん観念的な憧憬の気持ちを起こさせることはできよう。だが、真実の生命の共鳴は期しがたい。

 それに対して、日蓮大聖人は、自ら「栴陀羅が子なり」と述べられているごとく、安房国の漁師の子として生まれられた。そして、生涯、貧しい凡夫僧の姿で、三障四魔、三類の強敵と戦い、しかも御本仏として全民衆救済の大仏法を建立されたのである。われわれと同じ凡夫であり、貧しい姿であったが、ただ法によって尊極無上の人生、いかなる権力も破壊することのできない、絶対的幸福の境涯が確立できることを示されたのである。この日蓮大聖人の教えに、だれびとが共鳴しないでいられようか。

 次に、説かれた法門についてみよう。釈尊の法門は、一代五十年の説法、八万法蔵におよぶ。その極説である法華経にしても、本迹合わせて二十八品もあり、その哲学を学ぶことは煩雑という以外にない。これに対して、日蓮大聖人の仏法は七文字の法華経であり、本尊、題目、戒壇の三大秘法にいっさいの法がことごとく含まれてしまう。ゆえに、万人が即座に法門の究極に達し、実践をすることができる。

 修行の方法について見ると、釈尊の仏法は、受持・読・誦・解説・書写の五種の修行を実践しなければならない。法華経二十八品を受持するだけでも困難であるのに、これを読み誦んじ、解説し、書写するとなれば、相当の智能と時間的、経済的余裕がなくてはできない。貴族仏教と称する所以はここにある。すなわち、自ら働かないで収入を得、時間的にも経済的にも恵まれている王族や貴族、あるいは資産家や隠居であって、初めてできる修行だからである。

 現代の社会に、はたしてこのような修行をできる人が何人いるであろうか。一般の労働にたずさわっている人びとはもとより、芸能人も財界人も政治家も、まことに多忙である。むしろ、一般人以上にびっしり詰まったスケジュールに追いまわされている。こんな修行ができるのは、せいぜい一部の有閑階級ぐらいのものであろう。

 以上は、釈尊の仏法について、きわめて常識的に、表面だけを論じてみたにすぎない。仏教理論に立ってこれをみれば、本已有善と本未有善、熟脱と下種益、本因妙と本果妙等々、幾多の観点から論ずることができ、それらの結論として釈尊の仏法が、一部の上層階級のための信仰であるということができるのである。したがって、いま本文で、伝教、義真等が法華経迹門を広宣流布したといっても、それは、あくまで貴族階級の信仰にすぎなかった。本文にも「故に国王は郡郷を寄せて、以て灯燭を明らかにし、地頭は田園を充てて、以て供養に備う」とおおせられているとおりである。

 法然が、現在でも学者に高く評価されているのは、こうした特権階級専用の既成仏教に対して、初めて、仏教を底辺の民衆のものとしたという意味からである。だが、法然が浄土宗をひろめた結果は、民衆を無気力にし、風俗を紊乱し、天変地変を惹き起こし、さらに無間地獄に突き落としたのであった。そして、徳川時代には、民衆を諦観に陥れ、封建体制維持の御用宗教となったのである。

 大聖人の仏法は、民衆が真に政治的、思想的自由を獲得した戦後になって、興隆し始めたのである。このことは、大聖人の仏法こそ真実の民衆の宗教であり、民衆を救う力ある宗教であるとの証左であろう。

 

一凶とは終末的な響き

 

 まえにも述べたごとく、大聖人が、念仏を「この一凶」としてあげ、徹底して破折されたのは、念仏の〝哀音〟を破折されたのである。念仏宗は、この現実社会を穢土として嫌い、西方十万億土という架空の世界に、はかない夢を託す現実逃避の宗教である。念仏の哀音とは、この現実をたくましく生きる姿勢を失った、暗い終末的な響きであり、悲哀のこもった生命の調べである。大聖人は、この哀音を、不幸の元凶として破折されたのである。

 それは、念仏宗が当時の民衆のあいだに広く流布していたこととともに、この念仏宗がもたらす厭世思想、終末観こそ、人びとの幸福建設への意欲をはばむ根本悪として打ち破られたのである。念仏の哀音を破折しなければ、立正安国を実現することはできないからであり、末世的終末的響きと、立正安国とは根本的に相反するものなのである。

 大聖人ご在世当時は、三災七難が並び起こり、念仏の哀音が一世を覆っていた。そのなかで大聖人は、この現実社会のなかにこそ、仏国土を建設し、常寂光土を拓くべきであると叫びつづけられたのである。

 今日、念仏宗そのものは、大聖人にその根を絶たれた結果、形骸化して見る影もないが、現実逃避的、厭世的な思想は、ニヒリズムや刹那主義、快楽主義となってあらわれ、無気力、頽廃の風潮、終末意識が、現代人の心を、厚く重く覆っていることは、否定できない事実である。

 だが、それゆえにこそ、私たちは、立正安国の一書を掲げ、こうした風潮に、たくましく挑戦していかなくてはならない。一人ひとりが、この一書を胸奥に刻み、敢然と立ちあがろうではないか。

0017~0033 立正安国論 0024:05~0025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す 0024:05~0024:15 第一章 法然の邪義に執着するを示す

00170033 立正安国論 0024:050025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す 0024:050024:15 第一章 法然の邪義に執着するを示す

 

本文

 

  客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文、浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣いて偏に西方の行を弘め、善導和尚は雑行を抛って専修を立て、慧心僧都は諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。弥陀を貴重すること誠に以て然なり。又往生の人其れ幾ばくぞや。就中、法然聖人は幼少にして天台山に昇り、十七にして六十巻に渉り、並びに八宗を究め、具に大意を得たり。其の外一切の経論・七遍反覆し、章疏・伝記、究め看ざることなく、智は日月に斉しく、徳は先師に越えたり。然りと雖も、猶の趣に迷いて、涅槃の旨を弁えず。故に徧く覿、悉く鑒み、深く思い遠く慮り、遂に諸経を抛って専ら念仏を修す。其の上、一夢の霊応を蒙り、四裔の親疎に弘む。故に或は勢至の化身と号し、或は善導の再誕と仰ぐ。然れば則ち十方の貴賎頭を低れ、一朝の男女歩を運ぶ。爾しより来、春秋推し移り、星霜相積れり。而るに忝くも釈尊の教を疎かにして、恣に弥陀の文を譏る。何ぞ近年の災を以て、聖代の時に課せ、強ちに先師を毀り、更に聖人を罵るや。毛を吹いて疵を求め、皮を剪つて血を出す。昔より今に至るまで、此くの如き悪言未だ見ず。惶る可く慎む可し。罪業至って重し。科条争でか遁れん。対座猶以て恐れ有り。杖を携えて則ち帰らんと欲す。

 

現代語訳

 

 災難の起こる本源は、法然の選択集にあるといわれたので、客は憤怒の色をあらわしていわく。

 わが本師・釈迦牟尼仏が浄土の三部経を説き給いて以来、曇鸞法師は初めは竜樹菩薩の中観論等の四論を学んだが、これを捨てて一向に浄土念仏に帰した。また第二祖道綽禅師は、初め涅槃宗によって修行したが、この涅槃の広業を閣いて、ひたすら念仏の西方浄土往生の願行をひろめ、善導和尚は雑行を抛って専修念仏を立て、恵心僧都は諸経の要文を集めて、念仏の一行を宗とした。阿弥陀仏を貴び重んずることはまことにもってこのとおりである。また、その念仏の功徳によって往生できた人は数えきれないほどたくさんいるではないか。

 なかんずく法然上人は、幼少のときから比叡山にのぼり、十七歳のときに、法華経の奥義である天台、妙楽の書六十巻を読み、さらに天台、真言をはじめとする八宗の教義を究め尽くし、つぶさにその大意を得られた。そのほか、いっさいの経論を七回も読み返し、仏法の教義をのべた章疏や、歴史に関する伝記類も一冊として究めみなかったものはなく、その智慧はあたかも日月にひとしく、徳は日本や中国の先師たちをもはるかに越えていた。しかしこのようであったけれども、なお聖道門の天台流では出離の道に迷い、成仏の境涯をわきまえることができなかった。ゆえに、いっさいの経論をぜんぶ見、その内容をことごとく考えたうえで、末代相応の行を深く思い、遠く思慮をめぐらして、ついに諸経を抛ち、專修念仏の行を立てられたのである。そのうえ、夢に善導をみて霊応を受け、いよいよ確信を深めて、あまねく天下に念仏をひろめた。ゆえに民衆は法然を、あるいは勢至菩薩の化身と号し、あるいは善導和尚の再誕かと仰いで、貴賤老若男女を問わず、国中がみな厚く法然を信仰するにいたったのである。

 それより以来、すでに長い年月を経て、今日にいたった。しかるにあなたは、もったいなくも、いっさいの災難の根源は法然にあるといって、釈尊の説かれた念仏の教えをおろそかにし、弥陀をほしいままにそしっている。なにゆえに、最近に起こった災いをもって、聖代の法然にその源があるとし、強いて念仏の祖師たちをそしり、さらに法然上人をののしるのであるか。法然上人に対する悪口は、まるで毛を吹いて強いて疵口を求め、皮を切ってわざわざ血を出すようなもので、ありもしないことを無理にこじつけて、人をそしる罪をおかすものではないか。昔より今日にいたるまで、こんな悪言はいまだ見たことがない。あなたはその罪をおそれて口を慎みなさい。そういう悪口をいうあなたの罪はいたって重く、その罪科はかならず問われるであろう。あなたと対座しているだけでも、与同罪を受ける恐れがあるので、杖をたずさえて直ちに帰ろうと思う。

 

語釈

 

釈迦文

 釈尊のこと。釈迦文は梵語シャーキャムニ(Śākyamuni)の音写。釈迦牟尼も同じ語の音写である。

 

四論

 竜樹の「中論」「十二問論」、聖提婆の「百論」の三つの論書に、竜樹が作ったとされる「大智度論」を加えた四つ。

 

涅槃の広業

 聖・梵・天・嬰児・病の五行を明かすのを広業というとも、浄土三部経の四巻に対して、涅槃経は四十巻のゆえに、広業というとも考えられる

 

慧心僧都

恵心とも書く。日本天台宗恵心流の祖。大和国葛城郡当麻郷に生まれた。幼名は千菊丸。父は卜部正親。幼くして出家し天暦四年(0950)比叡山にのぼる。第十八代天台座主・慈慧大師に師事した。十三歳で得度受戒し、源信と名乗った。権少僧都に任ぜられた時、横川恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称された。寛和元年(0985)に「往生要集」三巻を完成した。これは浄土教についての我が国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」三巻を著し、法華経の一乗思想を強調している。

 

六十巻

 天台が講述し、章安が筆録した「妙法蓮華経文句」、「妙法蓮華経玄義」、「摩訶止観」各十巻、妙楽の注釈による「法華文句記」、「法華玄義釈籤」、「摩訶止観輔行伝弘決」各十巻、合わせて六十巻をいう。

 

智は日月に斉しく

 論語の子張篇に「叔孫武叔、仲尼を毀る。子貢曰わく、以て為すこと無かれ。仲尼は毀るべからざるなり。他人の賢者は丘陵なり、猶踰ゆべきなり。仲尼は日月なり、得て踰ゆること無し。人自ら絶たんと欲すと雖も、其れ何ぞ日月を傷わんや。多にその量を知らざるを見るなり」とある。

 

一夢の霊応を蒙り

 法然は夢に金色の善導にあい、念仏弘通の印可を受け、また浄土の法門の付嘱をうけたという。法然の邪説を夢によって正当づけようとする門徒の企みである。

 

四裔の親疎に弘む

 四裔とは、国の四方の果て。国中の親しい者にも、疎遠な者にも、念仏信仰がひろまったこと。

 

十方の貴賎頭を低れ

 法然が四十三歳の承安五年、浄土宗を開いてのち、すぐに高倉天皇や、戦いに敗れて捕われていた平重衡などが帰依し、文治二年の大原問答では、諸宗の碩徳を破り、これらが帰依したという。そののち、後白河法皇等の朝廷の人びとや公卿、熊谷直実などの有力武士も、つぎつぎと信仰するようになった。

 

或は勢至の化身と号し

 法然は幼名を勢至丸といい、念仏信徒たちは、法然を生前から阿弥陀仏の脇士・勢至菩薩の化身と称していた。

 

毛を吹いて疵を求め

 毛があれば疵はわからないところから、そのままにしておけば、なんでもないものを詮索しすぎるということ。「吹毛求疵」という。出典は『韓非子』「大体」。

 

講義

 

 前段において、主人が法然の名をあげて悪比丘といい徹底的に破折し、また現代の災難がひとえに数十年前の法然の邪義において生じた、と主人が説くのを聞いて、客はとうとう怒りだしてしまった。客が憤怒して顔色をさらにかえたので「殊に色を作して」というのである。これに対して、主人が、礼儀を失った国は乱れ、念仏を弘めて亡国となった中国と日本の先例を示していくのが、この第五段である。すなわち、前段には文証を挙げ、この段では理証と現証を説き出されるのである。

 

客殊に色を作して

 

 これは、われわれが折伏する時によくある例で、一般的に現在の宗教は邪宗教だと言っているときには、わりあいに素直に聞いても、君の最も崇敬し信仰しているそれが、最も邪宗教で極悪であると決めつけられれば、たちまちにおこって席を立つようなものである。

 この場合に、客は法然が論破されたので、同座することさえけがらわしいから帰るといいだした。これに対する主人の態度は、まさしくわれわれの折伏の鑑である。客がおこったからこちらも一緒におこっては、折伏にならない。怒った客に対し、主人たる日蓮大聖人は、御本仏としての絶対の御確信と、相手を思う慈悲の一念に徹し、笑みを浮かべ、しかも妥協するのではなく、むしろ、もっと峻厳に、もっと痛烈に道理のうえから、現証の上から、諄々と説いていくのである。

 客のいいぶんは、まことに単純かつ常識的であり、皮相的である。曇鸞・道綽・善導・慧心僧都源信等が、みな念仏以外にないと論断したのだから、間違いないだろうというのである。しかも、当時一般にいわれていることをなんの検討もなく、得意然として語る様は、まことに今日の知識人・評論家・似非宗教家が、宗教を語る姿そのままではないか。

 また、この客人の“常識”がいかに誤ったものであるかは、たとえば、慧心僧都に対する見解に如実にあらわれている。「諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。弥陀を尊重すること誠に以て然なり」云云とあり、慧心僧都の著書をまったく読まずに、世間でいわれていることをそのまま鵜呑みにしていることがわかる。

 前にも述べたごとく“常識”といものは、誤った認識である場合が多い、いったん頭のなかに特定の物の見方が固定してしまうと、もはや新しい目で、真実を追求することができなくなってしまう。

 さらに、客のいいぶんが、法然のことにおよぶ段は、いかに当時の人々が法然を尊敬し、信頼していたかがよくわかる。法然の一生および、その邪義の成立までの経過については、すでに第四段第二章において詳しく述べたが、法華経誹謗の低劣な邪義にもかかわらず、こうした悪僧一流の巧妙な手腕によって、天皇・法王をはじめ、貴族や武士階級に取り入り、法然の名は、当時人々の上下に知れ渡った。

 

故に或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賎頭を低れ一朝の男女歩を運ぶ

 

 この一節こそ、いかに法然が当時の人々から、生き仏のように思われていたかを如実に示している。文中「善導の再誕」等とは、念仏家の相伝で阿弥陀の化身であるという。このように、いかに邪説であっても、うまく理論をこしらえて我が身を飾り立てると、世の人は尤もと思って、深く信じきってしまうのである。それというのも、釈尊一代の仏法の浅深高下を知らず、釈尊出世の本懐を悟り得なかったからである。釈尊の弟子と称して、釈尊の出世の本懐を知らぬとは驚き入ったものである。また、時の人は、小乗教と大乗経の差異、権教と実教の差異、本迹二門の区別等を知らなかったのせある。まして教相・観心・文上・文底等は知り得ようはずがない。ゆえに仏教に迷ったのである。現在においてはさらに甚だしく、仏教の概念すら、知っている者は、きわめてわずかである。なんの宗教でも、みな釈尊が説いたものだからといい思い込んでいる。そのために、インチキ宗教家に易々と騙されていくのである。しかも、このことが一家を不幸にして、一国を衰微させるということに気づく者は、ただの一人もいないのである。

 

而るに忝くも釈尊の教を疎にして恣に弥陀の文を譏る何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り 更に聖人を罵るや

 

 これは、釈尊をはじめ、法然の教義をそしるだけならまだしも、最近相次いで起きている災難の原因を、わざわざ法然の時代まで遡り、その責任を法然に転嫁するとは何事であるか、という客のいいぶんである。

 それゆえ、そのような行為は「毛を吹いて疵を求め皮を剪つて血を出す」ことだと、客は反論するのである。

 この客人の発言をみるときに、まことに思想が、その低き哲学、低き宗教であっても、人間生命に対し影響するところが、いかに大きいかを痛感するのである。むろん、低き哲学、低き宗教にも必ず行き詰まりがある。矛盾は絶えずつきまとう。だが、それが大勢の意見であり、また権威ある人々の信奉するものとなると、人々は少少の矛盾を感じても、気にもとめず、その権威と伝統に従うのである。その権威ある人々を少しでも批判すれば、たちまち理性を失い、感情に走り、激しい怒りを顔面にたたえ、批判する人をののしり、迫害してくるものである。

 だが、いつまでもそれが人々の心をとらえることはできない。やがて矛盾と行き詰まりは表面立ち、既成の権威と伝統はもろくもくずれ、ついにはその生命を奪われるのである。今日、念仏の寺々は、ほとんどさびれ、大伽藍を構えているものとして、寂しい、わびしい、空虚なものでしかない。

 だが、大聖人当時においては、念仏宗は、日本全国にひろがり、民衆の生命の奥深く浸透していったのである。

 特に法然に対する信奉は、異常なまでに高まっていた。念仏の寺々はにぎわいを見せ、僧侶は裕福な生活を満喫していた。されば、日蓮大聖人が、法然こそ、「此の一凶」と示されたのであるから、当時の人々の驚きは絶大なものがあった。その民衆の心をくまなく知られていた大聖人は、ここに客をして、あれほどの高徳の人をまるであら捜しでもするごとく、悪口をいうのはあまりひどいではないか、それは罪悪だと、問わしめたのである。

 これは、なにも大聖人の時代のみではない。西欧中世においても、キリスト教会が絶大な権威を誇り、少しでもそれに異論を唱えたり、教会の権威を脅かすと考えられたものは、恐るべき非難と迫害とにあったではないか。キリスト教のごとき、幼稚であり、低級な理論が、まるで金科玉条のごとく信奉され、教会の最高権威者たちの批判などすれば、それを聞いた民衆は、激怒し、批判した人に対し悪魔のごとき思いをなしたのである。

 まだ、われわれの記憶にも生々しい太平洋戦争中も、神道を国を挙げて信奉したではないか。そして、少しでも真実のことをいおうものなら、「非国民」とののしられて、力ずくで抑えられたであろう。わが創価学会が、神道の非なるを指摘し、その狂気の姿こそ、亡国の道なりと断ずるや、迫害し弾圧し、ついに牧口初代会長、戸田前会長を投獄したのであった。これまた同じ原理ではないか。しかして、結局、正義は邪義を打ち破ったのである。今日において、私は、これを初めて、厳然と事実の証拠のうえからいいきることができる。そしてさらに時とともに、大聖人の仏法こそ、世界人類を救うただ一つの光明であることが、理解されることも、われらの絶対の確信である。

 

此くの如き悪言未だ見ず惶る可く慎む可し

 

 「此くの如き悪言」とは、日蓮大聖人が法然の邪義を、あらゆる角度から徹底的に破折したことをいったものである。当時の社会にあって、念仏が最も信仰されていた時代に、その中心者である法然を徹底的に破折された大聖人の言葉は、念仏者にとってみれば許しがたい悪口雑言であった。

 だが、当時の社会にあって、これほど尊敬されている者なればこそ、いっさいの不幸の元凶なりとして、大聖人は真正面から堂々と破折に向かわれたのである。この大聖人の大確信こそ、われら大聖人門下生、創価学会員の精神にほかならない。この大聖人の破折の勇姿を見よ。今日われら創価学会員以外に誰人が、この精神、この振舞いを継承しているであろうか。今なお、創価学会の折伏をさして、まるで、学会がつくりだした独特の砲撃方法のように考える人がいるが、とんでもない誤りである。ましてや、邪宗日蓮宗のごときが、そのようなことを口にするにいたっては、その一事をもってしても、彼らが日蓮大聖人の門下生でないことは明瞭である。時流に迎合し、真実を曲げ、安逸をむさぼる者は「仏法中怨」の責めを蒙る経文にあてはまるではないか。

 日蓮大聖人の御一生は終始一貫、破邪顕正の生涯であられた。法然をはじめとする数々の邪義に毒された日本国民を根底から救いきるとの確信に立たれての御一生であった。その御一生は、民衆を不幸におとしいれる邪宗・邪教・邪智との、一刻の休みもなき戦いであったともいえる。

 その大聖人の破邪顕正の折伏精神こそ、わが創価学会の今日までの一貫して変わらざる根本精神である。創立以来、今日までの学会の歴史、戦いは「折伏」の二字につきる。われわれは、今や五百数十万世帯を数える世界最大の宗教団体と成長したが、この国土からいっさいの邪宗教が姿を消すまで、大聖人の教えのままに邁進する決意である。しかして、それは権力を用いるのではなく、あくまでも思想体思想の対決であり、正法にめざめた民衆の叡智と理性が、人間性を失わしめる、恐るべき邪宗教を追放することを信じてやまぬものである。

0017~0033 立正安国論 0024:05~0025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す 0024:16~0025:05 第二章 現証を以って法然の邪義を破す

00170033 立正安国論 0024:050025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す 0024:160025:05 第二章 現証を以って法然の邪義を破す

 

本文

 

  主人咲み、止めて曰く、辛きことを蓼の葉に習い、臭きことを溷厠に忘る。善言を聞いて悪言と思い、謗者を指して聖人と謂い、正師を疑つて悪侶に擬す。其の迷誠に深く、其の罪浅からず。事の起りを聞け、委しく其の趣を談ぜん。釈尊説法の内、一代五時の間に、先後を立てて権実を弁ず。而るに曇鸞・道綽・善導既に権に就いて実を忘れ、先に依って後を捨つ。未だ仏教の淵底を探らざる者なり。就中、法然は其の流を酌むと雖も、其の源を知らず。所以は何ん。大乗経の六百三十七部・二千八百八十三巻、並びに一切の諸仏菩薩、及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛の字を置いて、一切衆生の心を薄す。是れ偏に私曲の詞を展べて、全く仏経の説を見ず。妄語の至、悪口の科、言うても比無く、責めても余有り。人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。故に浄土の三経を崇めて、衆経を抛ち、極楽の一仏を仰いで、諸仏を忘る。誠に是れ諸仏・諸経の怨敵、聖僧・衆人の讎敵なり。此の邪教広く八荒に弘まり、周く十方に遍す。

 

現代語訳

 

 主人は悠々と笑みをたたえ、客のまさに帰ろうとするのを止めていった。

 辛い蓼の葉ばかり食べている虫は、その辛さを知らない。また、臭い便所の中に長くいる虫も、そのにおいがわからなくなってしまうものだ。長年邪法に染まった人はそれと同じで、あなたは私のいう善言を聞いて逆に悪言と思い、謗法を犯している法然をさして聖人といい、正師たる日蓮を疑って悪侶のように思っている。そのような迷いこそまことに深く、その罪はまことに重い。事の真因を聞きなさい。その趣旨を話してあげよう。

 釈尊は、一代五十年の説法のうち、五時に分けて先後を立て、権実を明かされた。しかるに、念仏の祖である曇鸞、道綽、善導は仏説に反して権につきしたがって肝心の実を忘れ、五十年の説法のうち、先の四十余年に説いた権教に依って、最後の八年間に説いた法華経を捨ててしまった。これは仏法の奥底を知らない者である。

 なかんずく法然は、これら雲鸞、道綽、善導の流れを継いでいるといいながら、その源である三師が、権実の教えに迷っていることを知らないのである。その断定する理由は何かといえば、大乗経六百三十七部二千八百八十三巻ならびにいっさいの諸仏菩薩および諸の世天等について「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」の四字を勝手に置いて一切衆生の心を軽んじてしまった。これはひとえに法然自身が勝手につくった言葉であって、まったく釈尊の経文を見ない説である。これは妄語の至りで、その悪口の罪科は他に比べることができないほど重く、いくらその罪を責めても責めたりないのである。しかも、世の人びとはみな、この妄語を信じ、法然の選択集を尊んでいる。ゆえに浄土の三部経をあがめて、その他の一切経を抛ち、阿弥陀仏のみを仰いで、他の諸仏を忘れている。まことに法然こそ諸仏諸経の怨敵であり、いっさいの聖僧、大衆の讎敵である。しかも、この邪教は広く天下にひろまり、あまねく十方に遍満してしまった。

 

語釈

 

辛きことを蓼の葉に習い

 いつも辛い蓼の葉を食べなれている虫は、辛いことを感じないでいるという意味。

 

臭きことを溷厠に忘る

 便所に長くいると臭いことを感じなくなることで、邪法に染まってしまって、邪法と感じられなくなってしまっている人のことを譬えている。

 

讎敵

「讎」は「讐」に同じ。むくいる、あだ、かたき。

 

八荒

 国の八方の果て。全国津々浦々。

 

講義

 

 客が、浄土の三部経は釈尊が説いたものであり、曇鸞・道綽・善導・慧心は、他の法門を捨ててこれに帰依したのである。なかんずく法然は一切経を学んだうえで、念仏を修したのであるから、間違いないのだと主張するのを、徹底的に破折されるのである。

 まず「釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず」とは、客の「我が本師釈迦仏浄土の三部経を説きたまいて」のいいぶんを破折されたのである。

 すなわち、釈尊みずから、40余年の説法を終わって、最後の8年、法華経にはいるにあたり、無量義経で「四十余年未顕真実」と述べ、それまでの経はすべて方便であるゆえに捨てよと説いている。しかるに浄土三部経は、その40余年の説法であり、仏の教えに従うならば捨てなければならない。それを客は知らないで執着している。これば仏説に反する謗法といわなければならない。

 法然が依拠としている曇鸞・道綽・善導らも権に就いて実を忘れ権教に執し、そのなかで聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行を論じているのにすぎないのである。

 したがって、法華経も聖道・難行・雑行にいれて捨閉閣抛せよと論じた法然に比べれば、まだ罪は浅いものの、「末だ仏教の淵底を探らざる者」ということは免れない。

 なかんずく法然は、この曇鸞の流れをくむとはいっても、その源たる三師の誤りを知らない。仏の経文にどのように説かれているかを見もしないで、自分勝手に曇鸞らの説を正しいとし、加えて、自分流にさらに謗法の輪をかけているのである。

 法華経のみを最高唯一とすることは、三世十方の仏菩薩が来集した会座で決定されたところである。しかして、法華経のみが一切衆生を成仏させる正法である。したがって、この法華経を捨てよと説き、民衆を騙すことは、三世十方の仏の敵であり、諸経の精神に反するものである。また、民衆の成仏得道、すなわち、絶対的幸福境涯確立への道を断ちきってしまうことになる。

 念仏無間地獄抄にいわく「而るに浄土宗は主師親たる教主釈尊の付属に背き他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む故に主に背けり八逆罪の凶徒なり違勅の咎遁れ難し即ち朝敵なり争か咎無けんや、次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり豈無間地獄に堕ちざる可けんや」(0097:12)と。

 またいわく「浄土の三部経とは釈尊一代五時の説教の内第三方等部の内より出でたり、此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず三世諸仏出世の本懐にも非ず唯暫く衆生誘引の方便なり譬えば塔をくむに足代をゆふが如し念仏は足代なり法華は宝塔なり法華を説給までの方便なり法華の塔を説給て後は念仏の足代をば切り捨べきなり、然るに法華経を説き給うて後念仏に執著するは塔をくみ立て後足代に著して塔を用ざる人の如し豈違背の咎無からんや、然れば法華の序分・無量義経には四十余年未顕真実と説給て念仏の法門を打破り給う、正宗法華経には正直捨方便・但説無上道と宣べ給て念仏三昧を捨て給う之に依て阿弥陀経の対告衆長老・舎利弗尊者・阿弥陀経を打捨て法華経に帰伏して華光如来と成り畢んぬ、四十八願付属の阿難尊者も浄土の三部経を抛て法華経を受持して山海慧自在通王仏と成り畢んぬ、阿弥陀経の長老舎利弗は千二百の羅漢の中に智慧第一の上首の大声聞・閻浮提第一の大智者なり肩を並ぶる人なし、阿難尊者は多聞第一の極聖・釈尊一代の説法を空に誦せし広学の智人なり、かかる極位の大阿羅漢すら尚往生成仏の望を遂げず仏在世の祖師此くの如し祖師の跡を踏む可くば三部経を抛ちて法華経を信じ無上菩提を成ず可き者なり」(0098:01

 これを主人は「妄語の至り悪口の科言うても比無し責めても余り有り」と慨嘆されるのである。この主人の慨嘆はいいかえるならば、日蓮大聖人の御精神でもある。いやしくも日蓮大聖人の弟子である以上は、法然の邪義を徹底的に追及し、責めて責めて責め抜いていくべきである。また、同じように仏説に背き、民衆を不幸にたたき落とす魔物が、一切宗教の本性である。妙法流布の暁まで、いっさいの邪宗教の息の根を止めるまで、折伏に折伏を続けていこうではないか。

 

辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る善言を聞いて悪言と思い

 

 昔も今も、まったくこのとおりである。大聖人御在世当時、法然の邪義に毒された人々は、自分がその毒のゆえに不幸になっていることもわからず、かえって、それに気づかせ、救い出そうとした大聖人を恨んだのである。「臭きことを溷厠に忘る」の表現もぴったりではないか。

 現代にも、同じく不幸のなかに悶々としている人がなんと多いことか。そして、先祖代々の宗旨に執着して、その宗義を知らず、人々を救おうとする善言を悪言と思って憎み、謗者である邪宗の僧侶や指導者たちを聖人のごとく敬う等々、あらゆることが逆になっている状態である。

 この転倒の姿は、ひとり宗教界にとどまらず、政界にも、経済界にも、教育界にも、あらゆるところにあらわれている。正しい節操のある政治家は、バカにされ、のけ者にされ、あげくは暴力団に襲われて殺されることも珍しくない。経済界においても、一国の繁栄、民衆の興隆、世界平和の推進のために立つ事業家は、まことに少ない。否、皆無といっても過言ではない。そうした高潔な人材が育たないような、汚れきった「溷厠」のごとき泥沼の世界となってしまっているからである。

 教育界も同様である。本当に教育に情熱を燃やし、誠意を尽くすより、政治的に立ち回る人の方が重んじられ出世するという、情けない実態ではないか。そして、大部分の人は、大学を卒業して就職した当初は、純粋な気持ちで情熱はもってはいるが、やがて周囲の実情に気づくにつれて、保身のため、出世のため、打算的となり、それがあたりまえと思いこむようになってしまう。すべて改革しなければならないことばかりである。だが、少し勇気ある人が出ても、あまりの壁の厚さに、なにもできずに手をこまねいているばかりである。

 人間には本質的に、現状に甘んずる傾向が存するものだ。それが、たとえ悪い状態であることはわかっていても、そこから出ること、それを変えることを嫌う気持ちがある。「住めば都」という言葉があるが、これはそうした人間性の一面をまことに端的に、表現したものである。半面、いっさいの現状に安んずることを嫌い、常に新しいものを求めてやまない性情もある。それが青年の特質でもある。

 宗教革命は、青年の進取的な気槪によって遂行されるものである。既成のものに執着する老いたる人々は、その老獪な悪智慧を働かせて、さまざまに妨害するであろう。だが、われわれは、過去もいっさいの妨害を乗り越えてきたし、未来も、いっさいの障壁を打ち破って進んでいくのである。肉体的な老若を問わず、創価学会員のこの若々しい気風こそ、妙法の不老不死の理の立証である。濁乱の世に染まらぬ清浄さ、経文に説かれている如蓮華在水の姿ではないか。

 日本の現状を見るとき、政界の腐敗堕落、またそれに対する国民の極端な不信、その裏にあって政界以上の汚れをみる経済界、なんらの教育理念ももたない教育界、こんな状態で、国家としての満足な成長があったならば、むしろ不思議である。しかしながら、このように腐敗堕落させてしまったのも、所詮は、それを司っている一人一人の人間であり、さらに、その人間を堕落させたのは、憎むべき邪宗教である。

 結局、世の乱れのいっさいの根源をつきとめていくならば、邪義邪宗にまで遡らざるをえない。しかして、その邪義を唱えて、世を乱した者こそ、悪人のなかの極悪人である。

 

釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず

 

 釈尊一代の説法は、勝劣浅深がはっきりしており、混同する道理はまったくない。

 ここで、われわれは、宗教にはその勝劣浅深を明らかにする基準があることを知らなければならない。今日、創価学会の折伏に対して「どうして人の宗教を悪くいうのか」とか「人の宗教をけがすような宗教は嫌いだ」とか「本人が好きでやっているものを、他人がとやかくいうのはおかしい」等と反駁してくる人がある。このような批判をするのは、宗教を正しく理解していない人々である。冷静に一つ一つの宗教を吟味していくならば、「どの宗教でもかまわない」などという暴論は、けっして出てくるわけはないのである。

 どの宗教でも同じというのは、あらゆる宗教が同じ本尊を持ち、同じ修行を行ない、同じ教義を説いてこそいえるであろう。現実に一つ一つまったく違う以上、その相違を認識し勝劣浅深を検討するのが、近代人の態度である。

 しかるに、現代の人々は、宗教に対してまったく盲目的であり、およそ浅薄なる知識しか持ち合わせていない。特にわが創価学会に対する批判の内容をみるとき、それは単なる感情によるもので、理論的な裏づけをもって反対しているものは皆無である。批判することを生活の糧としている「評論家」の言にいたっては、取り上げるも愚かなほどである。

 しかも、宗教に対する一般的な批判のなかで、われわれがよく耳にするものは、「宗教とは非科学的なものである」という盲心的な批判である。

 そのような言葉を口にする人に限って、その日常の行動たるや、まったく非科学的な場合が多いのである。建設工事の起工式や竣工式のとき、神道が何であり、そうすることにどういう意味があるかも知らないで、信妙な顔をして、神主の祈禱を受ける人たち、正月といえば、普段はなんら関係のない神社仏閣へ参詣する人たち、それらの人々の行動は、どうみても科学的とはいえない。

 科学性を重んずる現代人であるならば、まず宗教を科学的に検討してみよ、と私は訴えたい。そうすれば、なぜ創価学会員が、他の宗教を邪宗教というのか、おのずからわかってくるであろう。

 宗教とは、生命の本質を解明したものであり、生活の根本法を説き明かしたものである。それゆえ、宗教を誤ることは、人生、生活の根源を誤ることになる。われわれが不幸になるのは窮極においては、その根本の生活法ともいうべき宗教が低級であり、かつ誤っている点に原因がある。したがって、宗教の内容、本質も究明せず、また、先祖からのものであるとか、習慣であるからといって、そのまま鵜呑みにしてよいわけがない。根本法なればこそ、最も高く、正しいものを求めて、価値ある人生としていくのが、文明人のあり方といえる。

 現在、日本には、世界じゅうのあらゆる宗教が存在しており、文部省の統計によれば、宗教法人の数はおよそ18万とおわれている。しかしながら、そのほとんどの人は、それらの宗教を判別し、批判していく基準原理を知らない。

 このように、多くの宗教が乱立しているのは、日本人がいかに宗教に対して無批判であるかの証左でもある。無批判とは、反近代的、非科学的の意にほかならない。

 また、無批判が信教の自由であるかのごとくいう人がいるが、これもいかに幼稚な錯覚である。単に無関心、無批判であるためならば、自由の獲得に尊い血を流す必要は毛頭なかったのだ。正しいものと邪なものとを批判し、邪なものを捨て、正しいものを信ずるために、人類の信教の自由をかち取る戦いが行われたのである。人類は真に納得のできる正しい信仰をもってこそ、先覚者の苦闘の意義あるものとすることができるのであろう。

 

宗教批判の原理

 

 およそ、すべての物に測る基準があるように、宗教にも、その正邪・勝劣を測る基準がある。その基準によって測っていくならば、いかなる宗教も、厳格にその成否が決定され、誤りのない宗教が選び出されてくる。この宗教を測る基準を「宗教批判の原理」というのである。宗教批判の原理としては、文・理・現の三証、宗教の五網、五重相対、四重興廃、三重秘伝等たくさんあるが、ここでは三証、宗教の五網、五重相対の三つについて述べる。

 

文・理・現の三証

 

 三証とは、文証・理証・現証のことである。

 文証とは、文献上の証拠の意で、その宗教がいかなる経典をよりどころとしているかということである。仏教ならば、各宗各派、おのおのが依経としている経文がある。キリスト教の聖書、イスラムのコーラン等、いずれも文証である。およそ、経典や教義のないような宗教とは、宗教とはいえない。これらの各宗教の経典、そこに説かれている教義を比較検討してみるならば、仏教以外の宗教の教義は、仏教に比べて、はるかに低い教えであることをただちに知ることができるのである。

 理証とは、以上の文証があるとしたうえで、その文証が哲学的に究明して、現代科学と矛盾せず、かつ理論としてあらゆる人が納得できるかどうかという問題である。いかに経文が立派であっても、説かれている内容が支離滅裂で、科学的価値がなかったならば、これは捨てなければならない。哲学とは、思惟することであるが、正しい宗教は合理的であり、普遍妥当性をもっていなければならない。同一原因は、時と所によらず同一結果を具現し、すべての人々を幸福に導くものでなくてはならないのである。

 さらに、現証とは、経文に説かれ、理として示されているところが、実際生活のうえに証明されることである。本来、真実の宗教の意義は人間革命にあり、個人個人の宿命を打開して絶対的幸福を得さしめることが目的である。したがって、この理を完全に説明できる哲学がなくては、真実の宗教とはいえない。しかして現証とは、その宗教を実践することにより、いかなる証拠が現実の生活に現われるという実験証明である。

 日蓮大聖人も、この現証に最も重きをおかれ、安国論にも以下の本文のように、唐の例や日本の承久の乱の例を引き邪教が国家に及ぼした現証を教えられている。

 弘安2年に認められた聖人御難事にいわく、

 「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり、各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」(1190:05)。

 現証があるかないか、これこそ宗教の正否を決するものである。大聖人は現証が最も大切であることを、三三蔵祈雨事に「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468:16)と仰せられている。

 かくのごとく、宗教を論ずるにああっては、証拠を第一とする。日蓮大聖人を末法の御本仏と断定するのも、文証としての法華経のうえに明らかであり、その文証どおりに大聖人が振舞われたがゆえに、われわれはそれを信ずるのである。

 よく、西欧の考古学的な仏教学者の影響で、釈尊の説いた教えは根本仏教のみで、他の小乗教・大乗経は後世につくられたものであるといって、これを否定する生半可な学者がある。そのようなことは、小乗教がまず弘まり、ついで大乗教が弘まったという仏法流布の方程式を知らないところから起こったものであろう。インドにおいても中国においてもかって論議されたし、近代日本の国学者などからも出されたことがある。古代仏教は伝承によって伝えられたので、これを文献的にうんぬんすることは所詮無理なのである。

 仏法は生命哲学である。小乗教より大乗教、大乗教のなかでも法華経が最も勝れていることは明白である。法華経を否定する人々は、機械や知識の奴隷になっているのである。主体的に、理性ある人間としてみれば、そのようなことは取るに足りないことである。もったいない話であるが、一つの譬えでいえばよくわかる。ある人が、某有名メーカーの製品と信じていた、優秀なラジオがあったとする。ところが、よく調べると、それは、そのメーカーの製品でなかった。だからといって、そのラジオの性能の優秀であることに変わりはない。有名ラベルさえあればよいという人はともかく、賢い人なら、機械が優秀であること自体を喜び、それを重んずるであろう。

 仏の経典もまた然りである。大切なのは経文が優れていることであり、説かれている哲理が高く、深く、正しいことである。日蓮大聖人のお振舞いは、法華経に説かれているのと寸分の違いもなく、大聖人の建立された三大秘法の大御本尊の力は、経文に説かれているとおりに、今、われわれの生活に実証されている。

 この現実の証拠をもって、また、われわれの主体性に立って、学問や知識の奴隷と化した学者たちの主張が、いかに愚かであるかを知ることができる。

 

五重の相対

 

 内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対の五つをいう。

 内外相対とは、内道と外道の比較論である。内道とは仏教、外道とは仏教以外の宗教、すなわちキリスト教、儒教、イスラム教、バラモン教等である。この二つを比較すると、内道である仏教の方が、外道よりはるかにすぐれている。その比較の基準は因果の理法の有無である。

 仏法は因果の理法を根幹として、原因があれば必ず結果があると説き、これが一法則のごとく定まっている。ゆえに科学である。しかるに外道においては、この因果論がはっきりと説き明かせておらず、また因果を無視した説が多く、仏法に比較すると、はるかに低級といわざるをえない。

 たとえば、キリスト教等で天地創造説を立てる。天地創造以前は無であり、混沌である。すでにここに因果律は成り立たない。いわんや一つのパンから無数のパンを出したり等の、いわゆる奇跡と称するものは、因果無視の典型である。大聖人は唱法華題目抄に「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(0016:16)に、と述べられている。「法門ををもて邪正をただせ」とは、因果の道理である。奇跡のごときは絶対にありえないと断言されているのである。

 このようにいえば、創価学会で病気がなおる等というではないか、という人があるかもしれない。だが創価学会でいうのは、あくまでも信心によって本人の生命力が増し、福運がついて病気を克服するという、現代医学でも証明されつつある道理にかなっているのである。いわんや仏法哲理、生命哲学に照らせば、明々白々の原理が存するのである。

 大小相対とは、仏教のなかにも大乗教と小乗教がある。小乗教は釈尊が説法を始めてから、三七日間の華厳経についで、最初の12年間に説いた経である。これを依経とした宗派は、わが国では倶舎・実成・律宗等があったが、いずれも今は消滅している。小乗教以後の説教を大乗教という。小乗教が戒律を主体とし、修行が複雑であるうえ、単にその個人をしか教えないのに較べ、大乗教は、法の内容が高度で、しかも修行は簡単である。ゆえに多くの衆生を救える大乗にたとえるのである。今日、この小乗教は、ビルマやチベットなどの東南アジアで行われているが、厳しい戒律と修行を青年に要求し、むしろ近代社会としての発展を阻害する結果となっている。一方、わが国でも、天理教や日蓮宗各派がこれを取り入れているが、使い古した暦のごとくで、むしろ低級な邪教ぶりを証明しているにほかならない。

 権実相対とは、大乗教のなかにも権大乗教と実大乗教とがあり、実大乗教の方が勝れているのである。権大乗教は華厳経の21日の説法、方等部の16年間の説法、般若部の14年間の説法で、浄土宗、禅宗、真言宗、法相宗、三論宗等が、この権大乗教の経文をそのよりどころとしている。この教えは、いずれも仏が衆生の機根を調えるための方便として説いた経文で、いまだ真実の教えである宇宙の根本原理、生命の実相観は説かれていない。それを説き明かしたのは、実大乗教、すなわち法華経である。ゆえに権大乗教は実大乗教にはるかに劣るのである。

 本迹相対とは、実大乗教のなかでも、本迹二門があり、迹門に対して本門が勝れているということである。釈尊は一代の説法の肝心として、最後の8年間に1828品の法華経を説いた。その28品のうち、前14品を迹門、後14品を本門というのである。迹門においては、釈尊がこの世に生まれて、30歳で初めて成仏したという始成正覚を前提として、生命の理論上の実相観を述べている。しかるに本門においては、永遠の生命観のうえに立って、宇宙および生命の実相を説き明かしたのである。

 迹門の迹とは「影」の意で、本門の本とは「本体」、永遠の生命である仏が、初めて仏になるという姿を示し、その立ち場で説く本門であるゆえに迹門というのである。したがって、仏が本地において説いた本門のほうが、はるかに勝れていることはいうまでもない。

 この本門の説法を聞くことによって、法華経迹門に至るまで成仏することのできなかった迹化の菩薩や人天の大衆も、初めて成仏することができたのである。しかしながら、迹門はもとより、本門といえども、日蓮大聖人の仏法と比較した時には、天地雲泥の相違がある。釈尊の教えは末法においては、なんの利益もないのである。

 種脱相対とは、仏になるこれこそ最も肝心の法門である。すなわち、仏法において、大切なことは、種・熟・脱の三義である。

 種とは下種のことで、仏になる根本の原因をつくること、すなわち、仏に会って仏になる種を植えることをいう。熟とは、過去の下種が薫発し調養することであり、脱とは下種された仏種が調養して、ついに仏と等しい境涯を得ることをいうのでる。これみな仏法の大利益であるがゆえに、三益といい、それぞれ下種益・熟益・脱益というのである。

 さて仏教において、釈尊は以上の三つのうち、どの利益を在世の衆生に与えたかというと、それは脱益なのである。すなわち、過去五百塵点劫の世において、自分が下種し、結縁した衆生が、その長い間、調養し、さらにインドに、釈尊と同時代に生まれてきて、その教えを聞いて調養し、ついに法華経にいたって仏の境涯を得たのである。ゆえに釈尊の出世の本懐は過去の下種を熟し脱せしめんがためである。

 しかして、過去に下種されながら、釈尊の在世に得脱しなかった者たちは、正法1000年間、像法1000年間に仏法を修行して調養し脱したのである。すなわち像法時代には、薬王菩薩の後身である天台大師が出現して、理の一念三千を摩訶止観に説いて熟益を施した。ずっと過去に下種されていた人々は、この天台の熟益の教えによって、調養しつつ、自然に得脱したのである。

 されば、末法はどうであろうか。われわれ末法の衆生は、釈迦仏法にはなんの結縁もないのである。いわゆる本末有善の衆生といって、過去に釈迦仏法によって下種されたこともなければ、当然、熟益の功徳をうけたこともない。そういう善根はいっさい積んでいないのである。したがって、釈尊50年の経々によっては、成仏もできないし、現世に成仏の証拠としての幸福もつかみ得ないのである。されば末法の衆生は、現世において初めて下種を受け、直達正観といって、末法の正法の仏力・法力によって、ただちに仏の境涯にいたるのである。この下種仏法の本仏こそ、日蓮大聖人である。

 釈迦仏法では、五百塵点劫という長い期間を修行してようやく成仏するのに対し、日蓮大聖人の仏法は、一生成仏といって、この一生の間に成仏を得ることができる。すなわち、下種仏法といっても、下種するだけをいう意味ではなく、下種・調熟・得脱を具えているのである。受持即観心といって、この妙法を受持し三大秘法の御本尊に南無妙法蓮華経と唱える、その当体がすでに仏身なりと説かれるのである。このように、凡夫の身そのままで成仏することを即身成仏という。

 下種の仏法と脱益の仏法とは、以上のように根本的に違っており、末法今時においては、脱益の仏法を捨てて下種の仏法を採らなくてはない。これを種脱相対して仏法を批判するというのである。

 世の人々は、法華経というと、釈尊の28品の法華経だけだと思い込んでいるが、法華経には何種類もの法華経があり、釈尊以後だけでも三種の法華経がある。釈尊の28品は脱益の在世当時の法華経で、熟益の法華経は、像法時代の天台の摩訶止観であり、末法下種の法華経は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経である。

 日蓮大聖人、観心本尊抄にいわく「再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249:16)と。

 

宗教の五網

 

 五網とは教・機・時・国・教法流布の先後の五つである。この五つの条件に適った宗教でなければ正しい宗教とはいえない。

 まず教とはいかなる教えが最高であり、民衆を物心ともに幸福に導くことができるかを判断することである。この判断の基準は、すでに見てきた三証・五重の相対によるのであるが、大聖人は教機時国抄の中で、次のように仰せられている。

 「所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり、但し光宅の法雲・道場の慧観等は涅槃経は法華経に勝れたりと、清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云う、天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず法華経に勝れたる経之れ有りと云わん者を諌暁せよ止まずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等と云云、此等の相違を能く能く之を弁えたる者は教を知れる者なり、当世の千万の学者等一一に之に迷えるか、若し爾らば 教を知れる者之れ少きか教を知れる者之れ無ければ法華経を読む者之れ無し法華経を読む者之れ無ければ国師となる者無きなり、国師となる者無ければ国中の諸人・一切経の大・小・権・実・顕・密の差別に迷うて一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り法に依つて阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く法に依つて生死を離るる者は爪上の土よりも少し、恐る可し恐る可」(0440:01)。

 日蓮大聖人は、法華経こそ勝れたり唯一絶対なりと知るのが、教を知る者なりと御断定である。しかして、この法華経とは、釈尊の28品の法華経でもなく、また像法時代の天台の摩訶止観でもない。文底秘沈の南無妙法蓮華経の7文字の法華経である。この南無妙法蓮華経こそ末法唯一の教と知ることを教を知るというのである。

 機を知るとは、民衆の機根を知ることである。最高の教えである三大秘法の南無妙法蓮華経の大仏法も、正法・像法時代には弘めることができなかった。それは一つには、正像の民衆の機根と合致しなかったゆえである。逆に今末法現代において、仮に釈迦仏法が最高だとしても、悠長な歴劫修行では、民衆は納得しないであろう。もしも、そのような修行をするとなれば、社会生活の方が成り立たなくなり、幸福生活を実現することはできなくなってしまう。決局は有閑階級の気休めになってしまうことは必然である。今はやりの坐禅のごときは、まったく現代の民衆の機根に合わぬものであり、また経文書写も仏像崇拝等も、いずれも前時代的で現代の時代に適合したものとはいえない。

 三に、時を知るとは、現在は正・像・末のうち、末法の時代である。釈尊の予言どおり、釈迦仏法の功力は失われ、邪宗が横行している五濁の相を現じている。民衆は塗炭の苦しみに陥り、力ある宗教、真実の仏法の出現を待ち望んでいる。このような時こそ、日蓮大聖人の大哲理が弘まる時であると知ることこそ時を知るというのである。

 この時を知ることは、第一の教えを知るのとともに、五網のなかでも特に大切な問題とされている。これについて明かされたのが、「撰時抄」で、その冒頭に大聖人は「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(0256:01)と述べられている。末法現代、民衆の機根は下劣になっているが、自然科学の発達によって、仏法の深遠な生命哲学が理解されやすくなっているのは、やはり時のしからしむるところといえようか。

 さらに国を知るとは、日本は実大乗有縁の国である。弥勒菩薩の瑜伽論にいわく「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有り」と。肇公の翻経の記にいわく「大師須耶蘇摩左の手に法華経を持し右の手に鳩摩羅什の頂を摩で授与して云く仏西に入って遺耀将に東に及ばんとす此の経典東北に縁有り汝慎んで伝弘せよ」と。この予言のとおりに、日本は日蓮大聖人御建立の一閻浮提総与の大御本尊がまします国である。しかも大聖人は顕仏未来記に、この大仏法が中国・インドへ帰ると予言されており、現にわれわれ創価学会員の手によって、一歩一歩それが現実となっている。このように日本こそ、大仏法建立の国であると知るを、国を知るというのである。

 最後に教法流布の先後とは、教機時国抄にいわく「五に教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫を捨てて金珠を取るべし金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ」(0439:16)。

 わが国では、華厳・法相の権大乗が奈良時代に弘まり、法華経迹門が平安時代に広宣流布された。しかるに、権大乗の真言・浄土宗等が、この後に弘まって、国を乱し、民衆を苦しめたのである。しかも明治以降は、外道たる、まったく低級な神道を尊重したので、ついに亡国の悲劇を招いたのであった。一度、法華経が流布した以上、次に流布されるべき仏法は、法華経独一本門の大法でなければならない。これを教法流布の先後というのである。

 報恩抄にいわく、

 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329:03)と。すなわち、日蓮大聖人建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手によって、広宣流布し、末法万年尽未来際までの平和楽土を実現していくのである。

0017~0033 立正安国論 0024:05~0025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す 0025:05~0025:15 第三章 中国における亡国の現証を挙ぐ

00170033 立正安国論 0024:050025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す 0025:050025:15 第三章 中国における亡国の現証を挙ぐ

 

本文

 

抑近年の災難を以て往代を難ずるの由、強ちに之を恐る。聊か先例を引いて汝の迷を悟す可し。止観の第二に史記を引いて云く「周の末に被髪袒身にして礼度に依らざる者有り」と。弘決の第二に此の文を釈するに、左伝を引いて曰く「初め平王の東に遷りしに、伊川に、髪を被にする者の野に於て祭るを見る。識者の曰く、百年に及ばじ、其の礼先ず亡びぬ」と。爰に知んぬ、徴前に顕れ災い後に致ることを。「又阮藉が逸才なりしに、蓬頭散帯す。後に公卿の子孫皆之に教って、奴苟相辱しむる者を方に自然に達すと云い、撙節し兢持する者を呼んで田舎と為す。是を司馬氏の滅する相と為す」已上。

 又慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く「唐の武宗皇帝、会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして、諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え令む。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年、回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使忽ち乱を起す。其の後、大蕃国更た命を拒み、回鶻国重ねて地を奪う。凡そ兵乱は秦項の代に同じく、災火は邑里の際に起る。何に況や武宗大に仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を撥ること能わずして遂に以て事有り」已上取意。

 

現代語訳

 

 そもそもあなたは、正嘉の大地震など近年の災難をもって、先年、法然が念仏をひろめたゆえだとすることに、これを暴言と思い、むやみに恐れているが、いまここに若干の先例を引いて、あなたの迷いをはらしてあげよう。

 摩訶止観第二に、史記を引いていわく。中国周代の末に髪を乱し、裸で礼儀を守らない者がいた、と。この止観の文をさらに妙楽大師は、弘決の第二に左伝を引いて解釈しているが、そこには「周の国家は礼儀をもととして建てられたが、第十三代の平王の代に犬戎の侵略を避けて、都を東の洛邑に遷すとき、伊川で髪を束ねず、ばらばらにした姿で、野原で神を祭っているのをみた。その光景を見た識者は、あと百年もたたないうちに国は亡びるであろう。その先兆としてまず礼が亡びてしまつたと予言した」とある。このことからもわかるように、災難が起こるときには、まずそのきざしが現れ、そののちに災いが起こるのである。

 また同じく止観の第二には次のように述べている。中国西晋の時代に、竹林の七賢の一人で有名な阮藉という逸才がいた。彼は髪を乱し、着物もだらしなく着て、礼儀というものをまるで意に介しなかったが、当時の公卿の子弟がみな院籍にならって礼義を乱し、賤しい言葉で、たがいに悪くいいあい、相手を辱しめ合うのが自然だといい、反対に、礼義を重んずる、慎しみ深い者を「あれは田舎者だ」とよんだ。すなわち、これを西普の王である司馬氏の滅亡する相とした、と。

 また、慈覚大師の入唐巡礼記をみると、次のように出ている。中国、唐の武宗皇帝は会昌元年に勅命を発して、章敬寺の鏡霜法師に国内の寺々に弥陀念仏の教えをひろめさせた。そのため、寺ごとに、三日ずつ巡って説法したが、勅を発した翌年には、早くも回鶻国の軍兵が唐の境を侵略してきた。また、会昌三年には河北の節度使が反乱を起こした。その後、当時唐の属国となっていたチベットが、再び皇帝の命を拒み、回鶻国は重ねて国内に侵略してきた。そのために、兵乱はあたかも秦の始皇帝、楚の項羽の時代と同じような烈しさで、町も村もみな、災火に巻きこまれてしまった。ましていわんや、武宗は、仏法をおおいに破り、寺院を破壊するなど大謗法を犯したので、兵乱をおさえることができず、ついにはその罪によって病となり、悶死してしまった。

 

語釈

 

止観

 摩訶止観のこと。天台大師智顗が隋の開皇14年(0594426日から一夏九旬にわたって荊州玉泉寺で講述したものを、弟子の章安大師灌頂が筆録した書である。本書で天台大師は、仏教の実践修行を〝止観〟として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の〝摩訶〟がつけられている。〝止〟とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを〝観〟という。内容として、法華経の一心三観・一念三千の法門を開き顕し、それを己心に証得する修行の方軌を示しており、天台大師の出世の本懐とされる。構成は、章安大師の序分と天台大師の正説分からなっている。正説分として①大意、②釈名、③体相、④摂法、⑤偏円、⑥方便、⑦正修、⑧果報、⑨起教、⑩旨帰、の十章が立てられており、これを「十広」ともいう。しかしながら、⑦正修章において十境を立てるなか、十境中の第八増上慢境以下は欠文のまま終わっている。

 

史記

 中国・前漢の太史公・司馬遷が著した歴史書。中国初の通史で、後の正史の手本とされた。古くは伝説上の帝王である黄帝から、近くは司馬遷の同時代である漢の武帝期までの歴史が編纂されている。

 

弘決

 止観輔行伝弘決のこと。十巻。中国・唐代の妙楽大師湛然の著。天台大師の摩訶止観の注釈書。内容は題号の釈出をはじめ、無情仏性に関する十難や華厳宗の法華漸頓・華厳頓頓説を打ち破るなど、摩訶止観の妙旨を明らかにするとともに、天台宗内外の異義に破折を加えている。

 

被髪袒身

 被髪は、髪を結ばず、振り乱すこと。古代中国では、もっとも身だしなみの悪いこととされた。袒身は、衣を解いて、肩などの膚を露わにすること。

 

左伝

 春秋左氏伝の略称。中国・春秋時代の魯の左丘明の作と伝えられる。孔子が著したと伝えられる「春秋」の注解書。

 

平王

 生没年不詳。中国・周の第13代の王。。父の幽王が異民族・犬戎の侵入によって殺されたため、即位して都を鎬京から東の洛邑に遷した。

 

髪を被にする者の野に於て祭る

 禿とは、①禿頭。②髪を短く切り、後髪を結わずに垂らす髪型。ここでは②で、髪をふり乱した野蛮人の姿をいったもの。祭りは神聖な行事であるから、もっとも身だしなみ等も整えるべきであるのに、髪を被にしていたということは、周の世を支えていた礼節が根本から腐ってしまったことを示すものである。これをもって周の滅びる前兆とされたのである。

 

阮藉

中国・三国時代の魏の文人、官僚。竹林の七賢の中心的人物。父の阮瑀は曹操に仕え、彼自身も司馬氏のもとで歩兵校尉となった。当時、喪中においては酒や肉を断つべきとした礼教に反して母の喪中に酒を飲み、酒浸りの生活を送り仲間と老荘の道を談ずるなど、奇怪な言動が多い。魏末の当時、実権は司馬氏にあったが、世情不安定で、名門の子弟の運命はきわめて危うい状態にあった。阮籍とともに竹林の七賢の中心的人物といわれた嵆康は魏の宗室の姻戚であったが、司馬昭に讒言されて刑死した。そのため「いかにして生きのびるか」との目的のもとに計画された言動であったと解せられる。

 

自然に達す

 堅苦しい形式や枠を取り払った、人間性の本来のありかたに戻ること。老荘思想はこうした自然に達することを理想とした。これに対して、礼儀、形式をやかましく説いたのが孔子の儒教である。中国の歴史において、治世には為政者が儒教を押しつけ、乱世には民衆のあいだで老荘の流れを汲む道教が勢いを増す、という繰り返しが行われた。

 

武宗皇帝

唐の第15代皇帝。道教に傾倒し仏教を斥け、道士趙帰真等を用いて、会昌5年(0845)に天下の仏寺を破り僧尼を還俗させた。会昌の廃仏といい、三武一宗の法難の一つにあたる。理由は、寺塔の建立と僧尼の免税が国家財政を疲弊させたことや仏教教団内部の腐敗堕落などとされる。当時、留学中だった円仁も還俗を命じられている。その翌年、武帝は、道教で不老不死の薬とされた丹薬の中毒のために死んだ。宣宗が即位すると復仏の詔が出され、趙帰真は捕縛されて斬殺された。

 

回鶻国

 中央アジアに定着したトルコ系民族・ウイグル人が建てた国。0744年(天平16)に建国し、安史の乱の平定のために唐に援軍を送るなど強い勢力を誇った。一世紀後の八三九年、キルギス人に敗れて四散し、その一部は新疆に移って、今日の中国新疆ウイグル自治区住民の祖となった。

 

大蕃国

 吐蕃のこと。79世紀に栄えたチベットの王国。しばしば唐と争った。

 

講義

 

 この章は客の問いに「何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り更に聖人を罵るや」あったのに対して、具体的例をもって破折されたのである。

 この章に引いた三つの例は、いずれも中国の例で、一に周の末、二に晋の時代、三に唐の末で、いずれも、国家が大きく乱れた例を引いている。

    一の周末の例は、仏法とは無関係の立ち場であっても一国の興廃には必ず前兆のあること。

    二の晋代の例は、外道においても国の興亡には必ず前兆のあること。

    三の唐末の例は、仏法においても、当初邪法が流布すれば、一国に災難が起きてくる。

 ことを現わしたものである。

 

周末の乱れ

 

 はじめに周の末についてみれば、西紀前12世紀に文王、武王によって建国された周は、はじめ、西の鎬京(現在の西安か)を都と定め、中国史を通じて、最も典型的な封建体制のしかれた時代であり、安定し、繁栄もしていた。ところが第十代の廣王の時代になると、さしもの周王朝も衰微し、滅亡の徴候を見せ始めた。廣王は圧政を続け、民衆の苦悩は、増大する一方であった。ために民衆の不平不満は高まった。これに対し王は、衛の国から巫女を呼び寄せて、王の悪口を言うものの名を神がかりで告げさせ、かたっぱしから謙疑者をとらえて殺すという暴挙に出た。ついに周の都には大反乱が起こり、国民は立ち上がって王の宮殿を襲撃した。いのちからがら危地を脱した王は東方に出奔し、以来14年間、周は空位時代となった。その跡を継いで廣王の子で、英明な宣王が立ち、在位46年間、周室は大いに復興した。だが宣王といえども、晩年はうってかわって失政が多く、民衆の不満、反感は高まった。そこに、宣王あと、暗君幽王が立ったために、民衆は、再び苦悩のどん底に追いやられた。特に旱害が続き、陝西地方に大地震が起こったりして天災が重なったために、悲惨な状況は、筆舌に尽くしえぬものがあった。

 民衆が苦悩している時、幽王は、愛する褒姒の歓心を得るため、いろいろなばかげたことをやってのけた。たとえば、褒姒が少しも笑わないので、これを笑わせるために、外敵の侵入を知らせるのろしをあげさせた。四方から馳せ参じた諸候が、外敵の侵入がなかったので、拍子ぬけした顔をした。これを見て褒姒が大笑いした。褒姒の笑顔を見たい一心の幽王は、その後、幾度となくのろしをあげたので、諸候はのろしの合図をまったく信用しなくなってしまった。さらに幽王は、皇后の申后と太子を廃して、褒姒を皇后に、その子伯服を太子に立てようとしたため、皇后の一族は、西北の犬戎をそそのかして幽王を攻めさせた。幽王はのろしをあげて、諸候を召したが、集まるものとてなく、幽王は犬戎の手にかかって殺された。周の鎬京の都は陥落し、完全に夷狄の手中に落ちた。諸候はやむなく東にのがれて、もとの皇太子を立てて平王とし、東方の都洛邑(現在の洛陽か)で即位させた。この遷都をさかいに以前を西周、遷都後を東周と呼んでいる。この周代の社会構造は、中国歴史中、最も典型的な封建体制のしかれた時代であったが、東周となってからは、その制度も乱れるようになり、周王といえども、地方の一諸候と同程度の実力しか持ち合わせなくなった。

 この周の末を春秋戦国時代と呼ぶが、その時代は洛邑遷都から、晋が魏、趙、韓の三つに分割された年まで、戦国時代をそれから秦の始皇帝が天下を統一した年までとするのが、普通の見解である。いずれにしても、この時代は春秋と戦国の二期に分けるとはいえ、その内容は西周の封建制度があらゆる面で解体し、次にくる秦漢統一国家の成立する準備の過程と一貫している。

 東周のはじめの頃は、国に100余の諸候がおのおのの領土を治めていたが、春秋を経て戦国時代にはいると、弱国は強国に併合されて、秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙のいわゆる戦国7雄が、広大な領土国家を形成するようになった、

 この時代には、各国も内には内乱に悩まされ、外には国家間の争いが絶えず、国土は荒乱し君主や郷大夫の亡命も珍しいことではなかった。戦争のたびごとに、それを調停する会議が設けられ、調停者として覇者と呼ばれる人々が出るようになった。なかでも、斉の桓公・晋の文公などは有名である。これらの覇者は時により国王に代わって、中原に出て秩序を保つ役割りを演じたりしたが、これがかえって諸国間の争いを激化させる一因にもなった。

 

世の乱れを救いきれなかった孔子の教え

 

 かくして、西暦前770年の遷都から前221年の秦の統一まで、約550年間も戦乱が続いた。これは驚異的な長さであり、特に、戦国末は悲惨であり、秦が趙に殲滅的打撃を与えた長平の戦いでは、秦将白起は、食糧不足のため趙軍のの降卒45万人を全部穴うめにして殺すなど凄惨をきわめた。この間いかに民衆がその中に巻き込まれて苦しんだかは想像にかたくない。

 礼儀が乱れることが、なぜ世の乱れの瑞相であったか。思うに、礼儀の乱れこそ、実に民衆の心の乱れのあらわれであり、民衆のいらだち、あせり自暴自棄、目的観の喪失、既存の権威への不信、不満等が、さまざまな姿、形ににじみ出たものであるからである。

 かって文王の時代に定められ、かたく守られていた周の礼儀は、時とともに次第に失われていったのである。それは、そのまま周王朝の運命を物語るものであった。西周は没落し、東周の時代になるといっそう礼儀はかえりみられず、周王朝は衰微の一途を辿っていった。この時代に、いかに礼儀が失われたかは、孔子が魯の国の年代記をもととして編纂した、紀元前722年から前481年にいたる241年間の歴史をつづった「春秋」に明かである。孔子の「春秋」は、孔子が、臣下として君を弑し、子として父を殺すという極悪非道の世を慨嘆し、周の礼を復興し、大義名分をただし、乱臣賊子の行動を批判するために、もとの年代記に多少筆を加えてつくったものといわれている。

 孔子の理想は、周公の定めた制度を復興し、周の礼に返ることであった。彼は、魯の定公のもとで大臣に任ぜられた。ところが、三桓氏をうち、豪族政治を打倒しようとした彼は豪族たちの反撃にあって、失敗し、前497ごろ国外に出奔したのだった。その後、彼は、晋・趙等の国々をまわり、礼を説き、それを具現すべきことを主張した。だが、どこの国でも彼の意見は取り入れられず、その間すんでのところで一命をおとしそうになったり、国境で立往生し、食糧がつきて7日間絶食するなど、13年間の旅行ですっかり心身疲れはて、失望のすえ、69歳のとき魯の国に帰った。このこと自体、儒教の限界であり、もはや、いったん失われた礼儀は、人為的にいくら復興しようとしても、復興できないことの証明であろう。すなわち、礼儀や頽廃は、民衆の生命の奥深くに根ざしたものであり、それに対し、再び形式的に礼儀を押しつけようとしても、もはや何の効果もなかったのである。この孔子の失敗した事実にも、そのころの礼儀の頽廃がいかにひどいものであったかが伺われるのである。また周王朝滅亡の姿であり、本文中に引かれた「百年に及はじ其の礼先ず亡びぬ」と識者の予言が的中したのも、まことにゆえあるかなと思うものである。

 

晋の衰微

 

 第二の晋の衰微について述べるにあたり、この時代の概観すれば、後漢の滅びた西暦202年から隋の建国589年までの約360年間は、まさしく動乱の時代であった。この時代は魏・蜀・呉のいわゆる三国鼎立の時代からはじまり、西晋となり、一時中国全体を平定、統一したが、北方異民族の侵入のために西晋は南に下って東晋となり、北に五胡16国、南に東晋と南北朝分かれて対立したのである。

 北朝は異民族の盛衰、興亡が激しく、わずか120年の間に成・漢・後趙・前燕・前凉・前奏・後燕・後奏・西泰・後凉・南凉・北凉・南燕・西凉・夏・北燕と大小16の王朝がめまぐるしく入れ替わった。こうした異民族王朝もやがて興った北魏によって統一され(0493)、しばらく平穏が保たれたが、6世紀の中途から再び乱れ始め。東魏・西魏の分裂、さらに北斉・北周と王朝が変わって隋の統一を待つことになるのである。

 一方、南朝は、東晋の時代がしばらく続いたあと、その乱脈極まりなき政治は、ついに再び激動期を迎え、420年に宋朝に変わり、ついで斉・梁・陳と王朝が交代し、589年北周とともに隋に滅ぼされ、南北統一が実現したのである。

 この間、400年間というものは、先の春秋時代に劣らず、戦乱につぐ戦乱が続き、民衆の疲弊はその極に達していた。中国においては前漢・後漢の漢朝約400年間にわたる冶世の根底思想、理念として、孔子・孟子を祖とする儒家の哲理が行われていたが、漢末には、その孝悌、仁義を骨格とする思想の拘束に反抗するものが続出し、正統たる儒家思想は、次第にくずれさっていった。

 本文に引かれている阮藉も、そうした反抗者ひとりで、阮藉を頭に嵆康・山濤・向秀・阮咸・劉伶・王戎の7人を、名づけて竹林の7賢と呼んでいる。阮藉が生まれたのは西暦210年であるから、漢王朝が魏の曹操に滅ぼされるちょうど10年前で彼が長じた頃は、三国鼎立の時代であったわけである。

 竹林の7賢といえば、聞こえもよく、いかにも聖人君子の集まりであるかのように思えるが、実際には、当時の行き詰まった世相に飽き飽きした者たちが、儒教倫理の形式主義をわざと無視し、酒を飲み、詩を吟じて気違いじみた行動を起こしたといった方が、ぴったりとしている。彼らは、当時魏を倒したあと西晋を建国した司馬氏らの一門や、礼教に縛られた人々を哀れな者共と見下し、そのような君子顔をしている連中は褌のシラミだといっては罵倒したのである。

 この7人のグループの人たちは、いずれも風変わりな連中ばかりで、7斗の酒を飲む者。琴を弾く者、死んだら何もいらないから酒壺だけを一緒に埋めてくれと頼む者、母が死んだ時、その葬式の席上で、酒肉を食らい、賭け事をしている者等々、要するに、奇行者の集まりだったわけである。

 この7人の首領格が阮藉で、彼が身だしなみもかまわず、だらしのない格好で登庁すると、それをきっかけとして若い人たちが皆それをまね、たちまちのうちに流行となってしまった。そして下品な言葉を使い、そのようにしてふるまうことが、あたかも立派な人であるかのような錯覚すらおこしてしまったわけである。

 こう論じてくると、こうした様相は何も竹林の7賢の時代に限ったことではなく、そのまま現代の世相にあてはまることがわかるではないか。次々と流行を追う若者たち、熱狂的に歌い、踊り、一時の陶酔に身をゆだねる現代青年の姿こそ、まさしく彼の時代をそのまま再現したものといっても過言ではあるまい。この一事をみても、いかに現代の社会が思想的には勿論、あらゆる面で行き詰まり、乱れきっているかがわかるであろう。

 

残虐非道の限り尽した八王の乱・永嘉の喪乱

 

 さて、晋の時代の礼儀の頽廃は、そのまま政治の乱脈の象徴でもあった。魏の建国時代の政治、軍事に大功のあった司馬懿仲達の孫、司馬炎は、ついに魏をうばって晋を立て、武帝と称した。武帝は最初のうちは占田、課田の法という土地政策を施行するなど、意欲的な政治を行ったが、晩年は遊宴にふけり、皇后とその一門を寵愛して、政治はゆるみ、乱れた。石崇とか王愷等の豪奢の限りを尽くした人物があらわれたのもこのころである。竹林愷の7賢の一人である王戎は、実は極端に利己的な蓄財家であり、広大な邸宅や奴婢のおおいことは、洛陽しゅうに較べる者がなく、田園や水碓は天下に遍しといわれた。彼の夜の楽しみは、燈下に妻と財産勘定することであったという。しかも、邸にある李樹は年々の金儲けの一つであったが、そのよい李の種子が、他家で植えられるのをおそれて錐で核に穴をあけたとまでいわれる。竹林の7賢とほめはやされ、無為自然などといい、聖人ぶっても、本性はこんな人間だったのである。他の竹林の7賢の人々も、内容は違えども、大なり小なり共通する面があったと評したら酷であろうか。

 このような奢侈生活が流行しているなかに武帝が崩じ、暗愚な恵帝が即位するや、嫉妬深く、悪智慧に富んだ賈皇后を中心に閨閥間の争乱が生じ、また、かって武帝の時代に晋王室のまもりとして、周辺に配した同族の諸王のなかの有力野心家が、次々と叛乱を起こし、洛陽には殺戮がうずまいていた。いわゆる8王の乱である。この争乱の中で306年に恵帝は毒殺されてしまった。だが表向きは食中毒と公表された。

 この間、住民は、戦争、凶作、略奪に追われて、流亡し続けた。296年、297年には関中一帯に大飢饉が続き、かつ悪疫が流行した。米価の値上がりが甚だしく、一般の人々は、生きるために子を売り、妻を売った。

 298年には、いたるところ大洪水に襲われた。310年には北部一帯にイナゴの大群が発生し、村から村へ、いっさいの草木を食い尽くして行った。牛馬の毛までなくなったという。その上悪疫が大流行し、多くの人命が失われた。

 このような内部の争乱に乗じ、匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五胡の騎馬略奪部隊が侵入し、都市、部落を破壊し西晋の滅亡を決定的なものにした。とりわけ匈奴は勢力も大きく、その将軍劉淵は、自立して、漢王と称し、ついで皇帝と称した。劉淵のあとの4男の劉聡は、兄を殺して漢皇帝となり、残虐非道な殺戮をほしいままにした。一方、洛陽では、8王の乱の最後をなす東海王越は、懐帝の側近たちを殺して実権を握ったが、帝との間には不和が続いていた。それにつけ入って匈奴軍は、激しい攻撃を加えた。特に東海王越が死ぬや、匈奴の将軍石勒は、陰惨きわまる殲滅作戦を展開し、匈奴騎馬部隊に包囲された晋の武士10余万人は、四方から飛んでくる矢のなかでことごとく死に、死骸は山のようになったという。

 東海王の太子以下一族、また大臣から土民にいたるまで、逃げ遅れたものはことごとく捕えられ殺されていった。諸稜墓もあばかれ、中の金品は略奪された。懐帝も捕えられ、あらゆる恥辱をけたあと殺された。これは313年の事件で、世に永嘉の喪乱と名づけられている。このあと、長安で西晋最後の皇帝が擁立されたが、勝ち誇った匈奴の騎馬部隊は長安にも侵入、おりから激しい飢饉のために、長安はなすすべを知らず、たちまち敗北に帰し、晋皇帝は殺され、ここに皇帝即位から52年で匈奴軍の蹂躙するなかに、西晋はその幕を閉じたのである。御文に「司馬氏の滅する」とあるのは、このような悲惨な事実をさすのである。

 

唐末・安禄山史思明の叛乱

 

 第三に、国の亡んだ例として、日蓮大聖人は唐の末の例をひかれている。唐代といえばその領土の大きさといい、華麗な文化といい、中国の歴史中、最も栄えた時代であり、四方の異民族とも最も善隣友好を結んだ時代である。その都・長安は、西のバグダット、アレキサンドリアとともに、世界文化を中心地として人口も100万を越える賑わいを見せていた。特に高祖の跡を継いで皇帝となった第2祖太宗の時代は、賢王のもと、国力は充実の一途を辿り、貞観の冶と呼ばれる太平の一時期を画した。

 ちょうど陳の天台大師が、おりからの南三北七と乱立していた仏教を、法華経に統一してから約50年にあたり、儒教・道教に比して仏教が国の上下から篤く信仰されていた時代である。

 唐王朝はその後、一時王朝内部に叛乱があって動揺したが、第6代玄宗皇帝の時に再び国力は充実して、開元天宝の冶と呼ばれる太平の世を出現した。唐代を代表する華麗な文化は、この時代にほとんど完成され、その勢力は広く周辺の異民族を敬服させ、遠くペルシァ、ローマとも積極的な交流が行われた。

 しかし、この繁栄も玄宗皇帝の晩年からようやく乱れをみせ、諸国の安定のために設置していた節度使が、かえって勢力を得て叛乱を企て、安禄山が755年、次いでその部下の史思明が763年に、それぞれ朝廷に向かって叛旗を翻した。これらの叛乱は、やっとのことで鎮められたが、以後、中央の権力は極度に弱まり、地方の節度使は軍閥と化し、朝廷を脅かしたのである。

 第15代武宗皇帝が即位したのは、こうして唐王朝が風前の灯となった841年で、これは玄宗皇帝から約100年、唐代滅亡前60年にあたる。皇帝は即位するや会昌元年(0741)に勅を発して、鏡霜法師に命じて弥陀念仏の教えを各寺に伝えさせたという。ところが、その翌年には、唐の北西部に位置していたウイグル国が叛乱を起して唐の領土内に侵入、同3年には河北に派遣されていた節度使が叛乱を起こして朝廷をおびやかした。

 その後、唐の属国となっていたチベット国が唐の朝廷の命を拒み、異民族のウイグルの叛乱はますます度を加えるなど、唐朝の勢力は、まったく失墜した。武宗皇帝は、その原因を道士、趙帰真に問いただしたところ、趙は、仏教を弘めさせたのが原因と奏上したため、会昌5年(0846)、皇帝は勅を発して国内の仏寺44600余を破壊し、僧尼26万人に対して還俗を強制するなど、仏教に対して極端な弾圧政策をとった。このため、国の内外はますます騒然とし、皇帝自身も、会昌6年(0847)強度の神経衰弱と背疸のため悶死した。慈覚はこの死こそ、仏教を弾圧した罰であると、かの入唐巡礼記の中に書いている。

 

朱全忠唐を亡ぼし栄を建国

 

 その後、唐朝はさらに乱脈を続け、民情は悲惨をきわめた。財政難はひどく、節度使はますますさかのぼり、官は横暴をほしいままにし、胡族の侵入はさらに激化した。この被害は、ことごとく民衆に集中し、流亡者が続出し、貧民は、飢餓の巷をさまよった。民衆の怒りはついに爆発点に達した。この機をとらえて、大規模な組織をつくり、武装した、闇塩商人の大反乱 黄巣の乱が起きた。これが唐朝崩壊の決定的な一打となった。生活必需品である塩は、当時も専売制で、政府の重要財源の一つであった。だが国家財政の窮乏のため、塩価はおそろしいほど引き上げられ、ここに塩を求める民衆の苦悩に結びついて闇塩商人の暗躍が絶えなかった。政府はやっきになって取り締まったが、逆効果で、ついに黄巣を中心とする大規模な組織的叛乱となったのである。

 黄巣軍は、はじめ、江南へ南進し、広州をおとしいれた。このとき、黄巣軍によって殺されたアラビア商人は12万人にも達したといわれる。ここで豊富な財貨と軍需物資を確保した黄巣軍は、数10万の軍勢をもて「打倒唐朝」のスローガンのもとに、意気揚々と北伐を開始した。官軍はたちまち敗退し、880年、長安は占領された。黄巣は長安に無血入城、帝位につき、国号を大斉、年号を金統とあらためた。だが、彼らの占領も長くは続かなかった。大掠奪をほしいままにしたため、民衆が怒り、一方、唐軍が地方の軍閥と連合して反攻し、長安を包囲したのである。このため黄巣は長安を放棄、884年、朱温は黄巣を殺して、唐に下った。しかも、皮肉にも、この朱温は唐に亡ぼされたのである。

 朝廷は長安の黄巣を追い払った大功のある、外人部隊の酋長、李克忠を牽制うるために、朱全忠を優遇し、彼を開封の節度使に任じた。朱全忠はここで、着々と実力をたくわえていったのである。おりしも、長安の近くにある鳳翔の節度使李茂貞は、天下をとるべく、再三にわたって長安に攻め込んでいた。同じく天下をねらう朱全忠は、これを打つために大軍を擁して西に向かった。

 それ以前に、朱全忠は、彼の管轄下にあった洛陽の町に豪壮な御殿を作り、ここに皇帝を呼びよせ、自分が天下に号令しようとしていた。これに恐れをいだいた廷臣は、朱全忠が西に向かうや、皇帝を連れて李茂貞の本拠鳳翔城に逃げ込んだ、朱全忠は破竹の勢いで西進し、またたくうちに鳳翔を囲んだ、ここで攻防戦が数カ月つづいた。城内は食糧が尽きはててしまって餓死者が続出し、ついには人肉まで公然と売られていたといわれる。

 ついに城は明け渡され、勝ち誇った朱全忠は、ひとまず長安に引き返し、そこで宦官を根こそぎ殺戮し、また、計画どおり皇帝昭宗を洛陽に移した、ここにさしもの豪華な長安の都もまったくの廃墟と化してしまう。しかし、朱全忠の意に従わなかった昭宗は殺され、ついで13歳の哀帝が即位させられる。皇族たちは、皆殺しにされ、かくて、唐は20代、290年にして悲惨な末路を辿って、ついに去ったのである。

 以上の3例からもわかるように、国の興亡する時には必ずその前兆があり、春秋時代も、魏晋南北朝も、唐代末も、すべてその原理どおりになっていることは明らかである。特に唐の滅亡は、一つは邪教念仏宗の流行と、二つには仏教の弾圧と二つの原理が考えられ、大聖人の御在世に法然の念仏宗が大流行したのと、共通するものが考えられるわけである。

 

礼儀の頽廃による国の滅亡

 

 日蓮大聖人が、このように立正安国論をはじめ、多くの書の中で念仏宗、特に法然の名をあげ無間地獄の張本人、亡国の極悪人と破折されると「選択集が災難の原因というならば、法然が選択集を著わす以前には災難はなかったか」などと聞いてくる者もいたに違いない。

 災難対冶抄にいわく「疑つて云く国土に於て選択集を流布せしむるに依つて災難起ると云わば此の書無き已前は国中に於て災難無かりしか、答えて曰く彼の時も亦災難有り云く五常を破り仏法を失いし者之有りしが故なり所謂周の宇文・元嵩等是なり、難じて曰く今の世の災難五常を破りしが故に之起ると云わば何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや、答えて曰く仁王経に云く『大王・未来の世の中に諸の小国王・四部の弟子諸の悪比丘横に法制を作りて仏戒に依らず亦復仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さず七難必ず起らん』と、金光明経に云く『供養し尊重し讃歎せず其の国に当に種種の災禍有るべし』涅槃経に云く『無上の大涅槃経を憎悪す』等と云云、豈弥陀より外の諸仏諸経等を供養し礼拝し讃歎するを悉く雑行と名くると云うに当らざらんや、難じて云く仏法已前国に於て災難有るは何ぞ謗法の者の故ならんや、答えて云く仏法已前に五常を以て国を治むるは遠く仏誓を以て国を治むるなり礼義を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり、問うて云く其の証拠如何、答えて曰く金光明経に云く『一切世間の所有る善論は皆此の経に因る』と、法華経に云く『若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず』と普賢経に云く『正法をもつて国を治め人民を邪枉せず是れを第三懺悔を修すと名く』と、涅槃経に云く『一切世間の外道の経書は皆是れ仏説なり外道の説に非ず』と、止観に云く『若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり』と、弘決に云く『礼楽前に駈せて真道後に啓く』と、広釈に云く『仏三人を遣して且く震旦を化す五常以て五戒の方を開く昔は大宰・孔子に問うて云く三皇五帝は是れ聖人なるか孔子答えて云く聖人に非ず又問う夫子是れ聖人なるか亦答う非なり又問う若し爾らば誰か聖人なる、答えて云く吾聞く西方に聖有り釈迦と号く』文。

 此等の文を以て之を勘うるに仏法已前の三皇五帝は五常を以て国を治む夏の桀・殷の紂・周の幽等の礼義を破りて国を喪すは遠く仏誓の持破に当れり」(0083:14)。

 このように、仏法が流布する以前においては、五常が破れることによって国が亡びることは、多くの経釈に明らかであり「一切法之れ仏法」の原理によって、ますます助長するものであり、やがて一国の道を辿るしかないことを示すものである。

0017~0033 立正安国論 0024:05~0025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す 0025:16~0025:18 第四章 日本における亡国の現証を挙ぐ

00170033 立正安国論 0024:050025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す 0025:160025:18 第四章 日本における亡国の現証を挙ぐ

 

本文

 

  此れを以て之を惟うに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事、既に眼前に在り。然れば則ち大唐に例を残し、吾が朝に証を顕す。汝疑うこと莫かれ、汝怪しむこと莫かれ。唯須く凶を捨てて善に帰し、源を塞ぎ根を截つべし。

 

現代語訳

 

 こうしたことを考え合わせると、称名念仏は亡国のもとである。しかるに、法然は後鳥羽院の時代、建仁年中の者である。後鳥羽院が承久の乱で滅び去ったことは眼前の事実である。しかればすなわち、中国においては唐の滅亡するという先例があり、わが朝では三上皇が臣下ともいうべき幕府によって流罪されるという証拠をあらわした。あなたは疑ってはならないし、あやしんでもならない。一刻も早く法然所立の念仏の凶を捨て、日蓮大聖人所弘の妙法たる善に帰依して、選択集を破ることによって災難の源をふさぎ、その亡国の根を断つべきである。

 

講義

 

 前の中国の例に続き、本章では承久の乱を指摘して、浄土宗の弘まることが、一国の災いの原因であり、前兆であることを示されている。しかして、この先例をもって、災いの源をふさぎ、根を断つためには、元凶たる謗法を捨て、最高善たる正法に帰依すべきであると強調されているのである。

 

承久の乱の歴史的意義

 

 さて、ここで申されている「彼の院の御事」すなわち承久の乱は、いかなる事件であったか。一言で、その歴史を述べてみるとすれば、正に日本の主導権が京都の天皇、公卿から鎌倉の武士に移ったことを決定づけた事件ということができよう。

 すなわち、鎌倉幕府は、すでに源頼朝によって開かれ、いわゆる「東国武士」による統一という新しい時代が始まっていたのであるが、まだまだ朝廷方の意志を無視するわけにはいかなかった。このため、源家が三代で滅んだあとは、京から将軍を迎えてこれを奉ぜざるを得なかったし、特に西国に対しては鎌倉の威勢は無力に等しかった。

 さらに、幕府を構成している東国武士内においてすら、梶原景時・阿野全成・和田義盛等の草創期に重鎮が肩を並べ、互いに覇を競い合っていた。こうしたなかで、最後の勝利を獲ち取ったのが、頼朝の妻・政子を出した北条氏である。

 今から見ると、北条氏は東国武士の主力であったかのように思われがちであるが、事実は頼朝の外戚ということと、旗上げ以来の功臣ということ以外、なんの力もなかったのである。梶原・和田・三浦等の豪族に較べれば、取るに足りない存在でさえあった。

 この北条氏が政所別当としての地位を着々と強化し、巧みな策謀を駆使し、時には実力に訴えて、ついに執権体制を確立する時期もこのころである。かくして、三代将軍実朝の暗殺、幕府創立の重臣打倒等の事件が、京都方面にとって、幕府を倒す絶好のチャンスであるように見えたのも無理からぬ所であったろう。この倒幕の中心が後鳥羽上皇であった。

 

承久の乱発端・経過

 

 上皇は、土御門道親を謀臣として、まず鎌倉方と仲のよい関白・九条兼実を排し藤原基道を後釜にすえた。

 そして上皇の寵妾・伊賀局や通親の死後は、代わって出てきた九条良経の義を入れ承元4年(1210)土御門天皇を退位させ、討幕に積極的な順徳天皇を即位させた。こうして王朝の故実風儀を興すかにみせかけながら、ひそかに院の藤原忠信・宗行・範茂らの近臣を集め、西国武士や脱落した御家人の結集を図った。

 内乱の口火となったのは、承久元年(1219)幕府が実朝の跡を継ぐべき将軍職に皇族の東下を要請したのを上皇が「いずれ誰かを選んで下向させるであろうが、今はダメだ」と体裁よく拒否し、院に接近した御家人、仁科盛遠の所領の返付と、伊賀局領である摂津の倉橋、長江二荘の地頭の改補を命じたことである。

 北条義時はこの時、朝廷側の強い態度に驚き、弟の時房に一千騎を与えて上洛させ、兼実派の道家の子で、当時わずか二歳の頼政を鎌倉殿に迎えることとし、上皇の要求をことごとく拒否したまま、鎌倉へ戻ってしまったのである。この事件は朝廷方の倒幕計画を挑発した。

 上皇は、まず承久3年(12114月、万一を考慮して順徳天皇から仲恭天皇へ位を譲らせ、ついで514日、鳥羽城南寺に流鏑馬と称して畿内の兵1700余を集め、その翌日、義時追討の宣旨を下し、三浦胤義に命じて京都守護、伊賀光季を襲わせて血祭りにあげた。この第一報が鎌倉へ伝えられると、幕府では政子を中心として、遠江以東14ヵ国の兵を徴し、義時と大江広元に軍政を見させ、西上軍の部署と決めた。

 総大将、北条義時が鎌倉を発った時は、わずか18騎であったが、たちまちふくれ上がり、「吾妻鏡」にはその数19万騎となったと記されている。これには多少誇張はあるにしても、上京するにつれて非常な大軍となっていったことは、まず間違いあるまい。東海道は時房と泰時、東山道は武田信光、小笠原長清、北陸道は北条朝時、結城朝広らをそれぞれ大将として、三方から攻めのぼらせた。

これを迎える朝廷方の軍勢は6万騎、これは西面の武士、関東方の脱略者、僧兵らの混成軍で、これを東海、北陸の二軍に分けて、幕府軍に対抗した。藤原秀康、三浦胤義、佐々木広綱らは美濃・尾張まで出陣し、宮崎定範、糟屋有久、仁科盛遠らは加賀へ出陣したが、両軍とも一撃で敗走するありさまであった。後鳥羽院上皇は、土御門、順徳上皇を連れて延暦寺へ難を避け、ついで賀画院に逃避した。

 しかし、近臣武将の要求で最後の一戦を試みることになり、勢多、宇治を中心に広瀬、淀、牧野、芋洗などの要所に敗軍の諸将を配置して戦ったが、613日、時房の軍が勢多口で山田重忠を破り、翌日には泰時の軍勢が宇治川を渡って源有雅、藤原範茂らを潰走させ、朝廷軍は武将もほとんど召し取られて、なんらなすすべもなく四散した。こうして京都は幕府軍によって占領され、上皇は賀陽院にあって門を閉じ、承久の乱は二ヵ月で終わりをつげた。

 

幕府三上皇を流し、断固たる処置

 

 この戦乱によって、京都は、かの保元・平治の乱、木曽義仲の乱入、源義経、範頼に率いられた東国武士の乱入と、相次いだ戦乱の傷の癒えないうちに、またもや焦土と化し、地獄さながらのありさまを呈した。承久記には、この時のもようが次のように記されている。

 「板東方の兵ごも、深草・伏見・岡屋・久我・醍醐・日野・勧修寺・吉田・東山・北山・東寺・四塚に馳せ散り、馳せ散り、或は一・二万騎、或は四・五千騎、旗の足を翻して乱入す。三公・卿相・北政所・女房・局・雲客・青女・官女・青侍・遊女以下に至るまで、声を立て、をめき叫び、立ちまよふ。天地開闢より、王城洛中のかかる事いかでか有らじ、かの保元のむかし、又平家の都を落ちしも、是ほどにはなかりけり。名をもをしみ、家をもおもう重代の者共は、ここかしこの大将にさしつかはされて、或は討たれ、或はからめとらる。其の外は(略)いつ馬にも乗り、軍したるすべもしらぬ者どもが、或は勅命に駈り催され、或は見物の為に出来る輩ども、板東の兵に追いつめられたる有様は、唯鷹の前の小鳥のごとし、射殺し、切りころし、首をとる事若干なり、板東の兵、首一つづつとらぬものこそなかりけれ。」

 後鳥羽上皇は615日、勅使を時房に送って討幕が自分の本意でないことを陳弁し、京都の秩序維持を依頼した。後堀川上皇をたて、院の近臣であった藤原基朝、平有範、藤原宗行らを斬首に処した。ついで後鳥羽上皇を隠岐、土御門上皇を土佐、順徳上皇を佐渡へ、それぞれ配流した。

 幕府はこのような大胆な処置をすると同時に、彼らの所領3000ヵ所を没収し、軍功のあった武将に与え、これを新補地頭とした。これによって、いままで幕府の権力のおよばなかった、西国の所領もその権力、御家人を植えつけることになった。そして時房、泰時を六波羅に駐在させて、南北の探提として、事実上、西国全域を支配させた。これによって、朝廷方は完全に幕府に屈し、幕府は、名実ともに、全国支配の実権を握ったのである。

 承久の乱の勝敗は、当時の人々の思想に大きな変動をもたらした。「一天万乗の大君」の軍勢は、哀れにも惨敗し、ひとたび発布すれば落花をも枝にかえすはずの宣旨は、今やその無力さを、万人の目の前に明らかにされた。「あずまえびす」とさげすんでいた武士たちの手で天皇は廃位され、三上皇は配流されるという、夢想だにしなかった驚くべき事件が、現実となって眼前に展開されたのである。

 鎌倉中期以後に書かれた、この承久の乱のもようを伝える書の多くが、後鳥羽上皇の失政を攻撃するかたわら、天下の民生を安定させることこそが、政治の最高の目的であるとして、断固、朝廷を打倒した義時の正当性を主張していることは、大いに注目すべき点である。

 

念仏の熱烈な信仰もむなしく

 

 この承久の乱は、かの法然の死後9年を経た事件である。本文には「法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり」とあるが、建仁年中とは12011203年までの3年間を指したもので、建久9年に法然が選択集を著してから、ちょうど3年目、その邪義がようやく京方の上下に浸透して、既成宗教の比叡山をはじめ、興福寺等から、念仏禁止の声が次第に強くなって、中宮任子・上西門院・藤原経院・藤原兼実等の貴族が熱心な信徒となったため、京における法然一門の地位は、旭日の勢いであった。

 こうした中で、後鳥羽院上皇を中心とした朝廷側の公家の中から、倒幕計画が企てられていったわけであるが、念仏への熱烈な信仰、真言等への祈禱等、邪義邪法の害毒のゆえに、日本国始まって以来の天皇方の敗北、三上皇の流罪というみじめな結果を出現したのである。

 日蓮大聖人、富城入道殿御返事にいわく

 「去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、同じき六月十三日其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて震動雷電して武士共首の上に鳴り懸り鳴り懸りし上・車軸の如き雨は篠を立つるが如し、爰に十九万騎の兵者等・遠き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり在家の人は皆隠れ失せぬ冑は雨に打たれて緜の如し、武士共宇治勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ、然る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び五丈・六丈の大木流れ塞がること間無し、昔利綱・高綱等が渡せし時には似る可くも無し武士之を見て皆臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故に馬筏を作りて之を渡す処・或は百騎・或は千万騎・此くの如く皆我も我もと度ると雖も・或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し、然る間・緋綴・赤綴等の甲其の外弓箭・兵杖・白星の冑等の河中に流れ浮ぶ事は猶長月神無月の紅葉の吉野・立田の河に浮ぶが如くなり、爰に叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等之を聞くことを得て真言の秘法・大法の験とこそ悦び給いける、内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室・五壇・十五壇の法を弥盛んに行われければ法皇の御叡感極り無く玉の厳を地に付け大法師等の御足を御手にて摩給いしかば大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち五体を地に付け高僧等を敬い奉る。

 又宇治勢田にむかへたる公卿・殿上人は冑を震い挙げて大音声を放つて云く義時・所従の毛人等慥に承われ昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや、狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く修羅が日月を射るに其の箭還つて其の眼に中らざること無し遠き例は且く之を置く、近くは我が朝に代始まつて人王八十余代の間・大山の皇子・大石の小丸を始と為て二十余人王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし皆頚を獄門に懸けられ骸を山野に曝す関東の武士等・或は源平・或は高家等先祖相伝の君を捨て奉り伊豆の国の民為る義時が下知に随う故にかかる災難は出来するなり、王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し今生の恥之れを何如、急ぎ急ぎ冑を脱ぎ弓弦をはづして参参と招きける程に、何に有りけん申酉の時にも成りしかば関東の武士等・河を馳せ渡り勝ちかかりて責めし間京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るるの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ或は恥辱に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢをすすがずとこそ見え候」(0993:06)。

 この御文の後半に「王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや」とあるが、これは当時の天皇の権力に対する一般的な考え方で、一度、天皇が命を発するや、如何なることも成就しえないことはないというのが、朝廷はもとより、関東の武士の間でも強く信じられていた。したがって、いざ戦いとなれば、どちらの軍に天皇の宣旨が下ったかによって、忠臣ともなり、朝敵ともなったのである。それらの武士が、最も恐れたものは、朝敵の汚名であり、一度それが冠せられるや、その当時はもとより、一族郎党の全滅を意味するものであった。

 かの頼朝が石橋山に兵を挙げ、一旦は破れて落ちのびたが、関東の兵を、たちまちのうちに万余と集め得たのも、決局、皇子、以仁王の令旨を体しての挙兵という、最高の切り札があったからである。頼朝は挙兵から平家滅亡まで、たびたび以仁王の命旨であるとして、文書を発行しているが、その以仁王は、頼朝が挙兵する三月も前に、冶承4年(1180526日、宇治川の合戦で平氏の軍に敗れ、戦死を遂げているのである。しかし頼朝は最後までそのことを隠し、陣中に以仁王の令旨があるとして、全ての戦いに大義明文を立てたのである。

 

崩れ去った朝廷方の絶対的権威

 

 したがって、この承久の乱の時も、朝廷方は、後鳥羽院上皇の宣旨が下った以上、近畿地方の武士はもとより、遠国の武士も続々と集まってくるであろうと予想したことは当然であるし、反対に幕府側にしてみれば、何よりも恐れていたのは、天皇の宣旨に背いて出陣することに、関東の武士が、躊躇するのではないかということであったわけである。

 この時の朝廷方の空気は、院の宣旨も出たことであるし、あとは朝敵、北条義時の首が到着するのを待つばかりであるという、虫のよい話すら出ていた状態であった。これに対し幕府方は、はたして武士が集まってくるのか、また駆けつけた武士たちも、京都まで出陣する気があるかという、最悪の事態だったのである。「上皇の宣旨下る」の第一報が幕府に届けられた時、さすがの幕臣たちも動揺の色は隠せず、駆けつけた尼将軍、北条政子の涙を流しながらの演説を耳にして、初めて奮い立ったといわれる。

 「吾妻鏡」によれば政子の演説は次のとおりである。「皆、心を一にしてうけたまわるべし。これ最後の詞なり、故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位といい、俸禄といい、その恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。然るに今、逆臣の讒により非義の論旨を下さる。名を惜しむの族は早く秀康、胤義らを討ち取りて、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院内に参ぜんと欲するものは只今申し切るべし」

 また「承久記」は「人々見たまわずや、むかし東国の平家が宮仕えせしには、かちは出しにて、のぼりくだりしぞかし、故殿鎌倉をたてさせ給ひて、京都の宮仕へもやみぬ、恩賞うちつづき、たのしみ栄えてあるぞかし、故殿の恩をば、いつの世にか報じつくしたてまつるべき。身のため、恩のため三代将軍の恩墓をば、いかでか京家の馬のひづめにかくべき、今おのおの申し切るめし、宣旨に随わんと思われれば、まず尼を殺して、鎌倉中を焼き払いて後、京へは参り給うべし」と記し、居合わせた武士たち全員が、涙さながらに一致団結を誓い、立ち上がったと筆は留めている。

 しかしながら、いざ出陣となると、京まで一拠に攻めのぼれというものの、箱根、足柄の関で守りを固め、抗戦せよというものなど、意見はまちまちで、京まで出撃という結論に到達するまでには、かなりの時間を必要とした。この間のいきさつを「増鏡」では、次のように書いている。

 「『今度の合戦は味方に後ぐらい点など一つもない。心をつよくもって奮戦せよ、勝たずにふたたび箱根、足柄の山を越えるな』と父・義時から激励されて出発した泰時は、翌日唯一人戻って来て、天皇みずから京方の先頭に立って進撃して来た場合の処置について尋ねた、義時は『よくぞ尋ねた。その際は天皇の神輿に弓を引くことはできぬ。鎧を脱ぎ、弓の弦を切って降参せよ、だがそれ以外の時には千人が一人になっても奮闘せよ』と答えた。このことばを聞き終わるや否や、㤗時はふたたび馬にムチをあてて西上した」

 この時代のもようを伝えた書物はいくつかあるが、いずれも同工異曲のことが書かれており、一旦は朝廷に対する徹底的な抗戦を打ち出しながらも、なお何かすっきりしていない思いが、武士たちの心の中に残っていたことは事実だったのである。また、そのような状況であったりすればこそ、幕府側としては一刻も早く出陣して、野戦の中で彼らの団結をはかることが急務だったともいえる。

 それだけに、戦乱が終わったときの朝廷方、京方の驚きと、幕府側の喜びは、想像をはるかに越えるものであったことは、いうまでもない。勝利の報を手にした鎌倉の義時は「今は義時思うことなし、果報は王の果報には猶まさり参らせたりけれ」と叫んだと書は伝えている。

 京都は敗戦ということすら信じきれずにいたところ、幕府の処罰は予想をはるかに越えてきびしく、三上皇の島流しという、日本国始まって以来の大事件となった「あずまえびす」とさげすみ、バカにしていた東国の幕府が、おそれ多くも、天皇を思うがままに譲位させ、在位わずか70余日の天皇は廃位、後鳥羽上皇の兄、行助法親王が後堀川天皇として、即位させられたのである。かくして次第に弱まりつつあった天皇の権威は、この事件によって決定的に失墜してしまったといえよう。

 

仏法から見た承久の乱

 

 天皇の勅宣を絶対的なものとして頼り、それが出ただけで勝ったのごとく喜び、西国からの応援をあてにしてみずから武器を取って立とうとしない無気力さ、それは文字どおり念仏の害毒と呼ばずして、なんといおうか。

 のみならず、東寺等に仰せつけて、盛んに幕府方を調伏する真言の加持祈祷を行った。これまた、みずからを滅ぼす原因となったことは、大聖人が申されているごとく、還著於本人の理である。時代の変遷ともいえる。士気の違いともいえる。人心の動向の然ならしむところともいえる。だが、その最も根底にあって朝廷方の敗北を決定したものは、じつに謗法の害毒だったのである。

 さらにわれわれは、承久の乱を中心とする時代の転換を、日蓮大聖人の御出現、法体の広宣流布の時代的背景の一つと考えるならば、それが現代の化儀の広宣流布の時代的背景に、あまりにもよく似ていることに不思議をすら覚える。

 すなわち、一つは、従来の政治的権威、価値観の中心であった天皇制が政治上の権威も価値も失って、単なる象徴になってしまってことである。一つは律令制以来の旧い社会体制が壊れて守護・地頭制度が全国的に樹立されたこと、そして伝統的な貴族階級の主導権が失われて、いわば庶民・百姓の中から育ってきた武士階級がそれに代わったことである。

 なお挙げれば際限がないが、この法体の広宣流布の時代的背景に対応して、現代もまた、天皇の権限が実質上、消滅し、国民の象徴とされるという大転換があった。そして、社会体制も変革され、民主主義の世となった。まことに多くの点で共通しているではないか。

 これをもってしても、今こそ、正しく化儀の広宣流布の時であり、大聖人が「時を待つべきのみ」と申された。その時が来ていることを強く確信するものである。

 この段の最後に、日蓮大聖人は「汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫かれ唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」と仰せられている。なんと偉大な確信に満ちた獅子吼ではないか。このお言葉どおり、この世からいっさいの不幸の根源を絶滅すべく戦っている団体こそ、わが創価学会なのである。われわれは、この大聖人の御金言を学会の永久の指針として、さらに全地球上から、不幸の根源を絶滅させ、平和世界を実現するために、さらに前進していくことを堅く誓うものである。

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