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01   此の悪義を破らんが為に亦多くの書有り所謂・浄土決義鈔・弾選択・摧邪輪等なり、此の書を造る人・皆碩徳の
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 名一天に弥ると雖も 恐くは未だ選択集謗法の根源を顕わさず 故に還つて悪法の流布を増す、 譬えば盛なる旱魃
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 の時に小雨を降せば草木弥枯れ兵者を打つ刻に弱兵を先んずれば強敵倍力を得るが如し。

 この法然の悪義を破るために、また多くの書が著された。いわゆる浄土決義鈔・弾選択・摧邪輪などである。この書を著した人は皆、高い徳の名を天下に知られた人々であるが、おそらくは未だ選択集の謗法の根源を顕わしていないために、かえって悪法の流布を増すことになってしまった。
 たとえば、ひどい旱魃の時に、小雨を降らせば草木はいよいよ枯れ、強者を打つ時に、弱い兵を先にやれば強敵がますます力を得るようなものである。

04   予此の事を歎く間・一巻の書を造つて選択集謗法の縁起を顕わし名づけて守護国家論と号す、 願わくば一切の
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 道俗一時の世事を止めて 永劫の善苗を種えよ、 今経論を以て邪正を直す 信謗は仏説に任せ敢て自義を存する事
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 無かれ。
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   分ちて七門と為す、一には如来の経教に於て権実二教を定むることを明し、二には正像末の興廃を明し、 三に
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 は選択集の謗法の縁起を明し、 四には謗法の者を対治すべき証文を出すことを明し、 五には 善知識並に真実の
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 法には値い難きことを明し、六には法華涅槃に依る行者の用心を明し、七には問に随つて答うることを明す。

 私はこのことを歎くゆえに、一巻の書をつくって選択集の謗法の由来を明らかにし、名づけて「守護国家論」とする。願わくは、僧侶・在家を問わず一切の人々は一時の世間の事柄を休止して、永遠の善い苗を心田に種えなさい。今、私は経文と論書をもって邪正を直すから、信ずるか謗ずるかは仏説に任せて判断すべきであり、自分勝手な考えにとらわれてはいけない。
 この一書を分けて七大段とする。一には如来自身が経教において権実二教を定められていることを明かし、二には正・像・末の三時における教法の興廃を明かし、三には選択集の謗法の由来を明かし、四には謗法の者を対治すべき証文を出すことを明かし、五には善知識並びに真実の法にはあい難きことを明かし、六には法華経・涅槃教によって行者の心すべきことを明かし、七には質問にしたがって答えを明かす。

 選択集の悪義に対しては大聖人以前においても、伝統的仏法諸宗である天台宗や華厳宗などから碩学たちにより破折の書が書かれたが、それらは、法然の謗法の根源を明らかにできなかったために、逆に法然の悪法を流布させる結果となってきたことを指摘されている。
 このゆえに、大聖人はここに、守護国家抄を著して、徹底的に破折することを決意したのであると、本書御執筆の意図を明らかにされている。
 そして、この守護国家論を一切の僧俗が読んで、一時的な目先の世間の営みを差し置いてまでも未来永劫に尽きない善根を植えるよう促されている。
 更に、大聖人としては、あくまで経・論にまかせて仏法の正邪を明らかにすると述べられ、したがって、それを読み、信じて従うか、謗じて反発するかは、読む人の「自義」によるのではなく、仏説にかなっているかどうかで判断しなさいと戒められている。最後に、本書が七門からなることを明かされて全体の大網を示されている。
此の悪書を破らんが為に亦多くの書有り
 日蓮大聖人以前において、選択集の誤った義を破折した書の代表的なものを挙げられているところである。
 まず、浄土決義鈔三巻である。この書は現存しないが法然の選択集への最初の批判書として著名である。園城寺の公胤という人が著したのである。
 内容は伝えられるところでは、法華経を受持し読誦するという修行の在り方を法然が排除したことに対して批判したものであったという。
 次に、弾選択には二種がある。一つは並榎堅者・定照の著で、いま一つは仏頂房隆真の著である。・いずれも、著名から明らかなとおり、法然の選択集を弾呵している。
 さらに摧邪輪は華厳宗の明恵房高弁の著で、正しくは選択集中摧邪輪という。この題号の意味は法然の選択集の中の説を邪輪とし、これを邪論するということである。その破折の論点は、選択集には大きく二つの欠点――、一つは「菩提心を撥去する過失」、いま一つは「聖道門を群賊に譬うるの過失」があるとしてきしている。
 とくに、菩提心を撥去する過失とは、法然の浄土宗の弱点をそれなりに鋭く指摘したもので、菩提心とは、いうまでもなく菩提の悟りに至ろうとする心である。この菩提心は誰にでも内在しているというのが、大乗仏教の教えである。衆生は自分の中に菩提心があることを信じ、これを自らの修行と努力によって磨き、遂には悟りに至るというのが、高低浅深さまざまあるけれども、大乗仏教に一貫して流れている教義の骨格といってよい。
 明恵は、法然の他力本願的な修行の在り方には、衆生一人一人に内在している菩提心を最初から放棄してしまっているという大きな過失があるとして、この衆生の自律心軽視の在り方を徹底的に批判しているのである。
 なお、この法然破折の書については念仏無間念仏抄にも次のように挙げられている。
 「然る間斗賀尾の明慧房は天下無雙の智人・広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造つて選択の邪義を破し、三井寺の長吏・実胤大僧正は希代の学者・名誉の才人なり浄土決疑集三巻を作つて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶・仏頂房・隆真法橋は天下無雙の学匠・山門探題の棟梁なり弾選択上下を造つて法然房が邪義を責む」(0101-02)と。
一巻の書を造って選択集謗法の縁起を顕わし名づけて守護国家論と号す
 しかしながら、これら天台、華厳の碩学の法然破折の書は、いずれも選択集の謗法の根源を明らかにしていないため、かえって法然を有名にする結果になってきたことを述べられ、ここで大聖人御自身が守護国家論一巻を著して選択集の謗法である由来を明らかにして、その根を断ち切ると仰せられているところである。
 謗法は誹謗正法の略で、正法を謗ることである。いうまでもなく、釈尊の一代教において正法とは法華経であることを、簡潔に前述され、またこれから詳述されるように、法然の教えは、仏の実教である法華経をそしったものであるということである。
 唱法華題目抄には「謗法と申すは違背の義なり」(0004-16)とあり、また顕謗法抄には「天台智者大師の梵網経の疏に云く謗とは背なり等と云云、法に背くが謗法にてはあるか天親の仏性論に云く若し憎は背くなり等と云云、この文の心は正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり」(0448-16)とある。
 ここからも明らかなとおり、自分が法華経に背くだけではなく、他人にも法華経を捨てさせることも謗法である。
 法然の選択集は、まず、自分自身が正法たる法華経を捨・閉・閣・抛することによって法華経に違背しているだけでなく、選択集によって多くの人々にも法華経を捨てさせたことによって、典型的な謗法に当たるのである。それまでの多くの批判書にはこの観点が欠落していたことを「末だ選択集謗法の根源を顕わさず」と指摘されている。
 そして、その結果、この邪説の息の根をとめるに至らず、むしろ逆に、法然の名を広めさせ、ますます悪法の流布を許してしまったと仰せられている。
願わくば一切の道俗一時の世事を止めて永劫の善苗を種えよ、今経論を以て邪正を直す信謗は仏説に任せ敢て自義を存する事無かれ
 この段は出家・在家の一切の人々は、この守護国家論を読んで、邪教から目を覚まし、正法の道に入ってほしいという御自身の願いと、また、これを読む心構えを述べられているところである。
 まず、「一時の世事を止めて永劫の善苗を種えよ」と勧められている。すなわち、今世だけの世俗の事にとらわれているのではなく、成仏という三世永劫にわたる問題について、この書を通じて眼を開いていきなさい、と仰せられているのである。
 次いで、大聖人はこの守護国家論において、あくまで仏説である経とこれにのっとった論書を基準として法の正邪を明確にし、正すべきは正しているのであるから、「信謗は仏説に任せ敢て自義を存する事無かれ」と仰せられ、読む人も信ずるか謗ずるかはすべて仏説という絶対の基準にゆだねて、自分勝手な意見によって決定することのないよう促されている。
 ここに「経論を以て」「仏説に任せ」「自義を存する事無かれ」と仰せられているのは、選択集がことごとくそれとは逆に,経論によらず、仏説に任せず、曇鸞らの己義に法然自身の邪義を上塗りして造られた書であることを暗示されているのである。
七門と為す、一には如来の経教に於て権実二教を定むることを明し、二には正像末の興廃を明し、三には選択集の謗法の縁起を明し、四には謗法の者を対治すべき証文を出すことを明し、五には善知識並に真実の法には値い難きことを明し、六には法華涅槃に依る行者の用心を明し、七には問に随つて答うることを明す
 本書全体の大網を示されているところである。
 まず、第一に「如来の経教に於て権実二教を定むることを明し」では、如来である釈尊自身が、自らの説いた一代聖教を、大きく権教と実教の如来の経教に於て権実二教を定むることを明し二義に立て分けていることを明らかにされている。
 第二に「正像末の興廃を明し」では、その権実の二教が釈尊滅後の正法・像法・末法という時代に合わせて、弘められてきたこと。すなわち、正法・像法時代には権教が興隆し、後の末法時代には実教が興隆して権教は廃れるという順序次第が明らかにされている。
 第三に「選択集の謗法の縁起を明し」では、末法に実教の法華経がるふすべき時にもかかわらず。法然はその法華経を捨閉閣抛し、廃れるべき権教の浄土三部経に基づいて念仏一行を立てている故に、その選択集が謗法である由来を明かすのである。この大三問こそが本書の中心となっていることはいうまでもない。
 次いで第四に「謗法の者を対治すべき証文を出すことを明し」では、法然の選択集が謗法であることが明らかになったからには、謗法者を対治していくべきであるとの如来の教えに従って、これを破折し対治していかなければならないことを明確にされている。
 ここに、謗法対治ということが大聖人の自義ではなく、あくまでも仏の金言によっていることを明らかにされるのである。
 更に第五の「善知識並に真実の法には値い難きことを明し」成仏の正しい道を示してくれる善知識と、成仏のための正しい法にあうことの困難さを強調されているのである。
 第六の「法華涅槃に依る行者の用心を明し」では、法華経・涅槃経では、仏滅後の悪世において、正法を修行する人は、いかなる“用心”をすべきかが説かれているが、それによって明かされるのである。
 最後の第七の「問に随つて答うることを明す」では、以上の六門で展開されてきた内容を受けて、更に質疑応答を通してより深き理解を得られるように配慮されるのである。