08                         適・ 仏法を知る智者は国の人に捨てられ守護の善神は法味を
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 なめざる故に威光を失ひ 利生を止此の国をすて他方に去り給い、 悪鬼は便りを得て国中に入り替り大地を動かし
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 悪風を興し一天を悩し五穀を損ず故に 飢渇出来し人の五根には鬼神入つて精気を奪ふ 是を疫病と名く一切の諸人
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 善心無く多分は 悪道に堕つることひとへに悪知識の教を信ずる故なり、 仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求
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 め国王太子王子の前に於て 自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん 其の王別えずして此の語を信聴し 横に法制を
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 作りて仏戒に依らず是れを破仏破国の因縁と為す」文、 文の心は末法の諸の悪比丘国王大臣の御前にして 国を安
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 穏ならしむる様にして終に国を損じ 仏法を弘むる様にして還つて仏法を失うべし、 国王大臣此の由を深く知し食
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 さずして此の言を信受する故に 国を破り仏教を失うと云う文なり、 此の時日月度を失ひ時節もたがひて夏はさむ
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 く冬はあたたかに秋は悪風吹き 赤き日月出で望朔にあらずして日月蝕し或は二つ三つ等の日出来せん大火大風彗星
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 等をこり飢饉疫病等あらんと見えたり、国を損じ人を悪道にをとす者は悪知識に過ぎたる事なきか。

 たまたま仏法を知る智者がいて国の人から捨てられ、守護する諸天善神は法味をなめることができない故に威光を失って人々を利益しなくなり、この国を捨てて他方の国土へ去られた。悪鬼がそれにつけこんで国中に入り替わり、大地を動かし暴風を吹かせ、天下を悩ませ五穀を損なうのである。その結果飢饉が起こり、人の五根にも悪鬼が入って精気を奪う。これを疫病というのである。一切の諸人は善心を失って、その多くが三悪道に堕ちる。これらはひとえに悪知識の教えを信ずるために起こるのである。
 仁王経にはつぎのように説かれている。
 「諸の悪比丘の多くが名声と利益を求め、国王・太子・王子の前で自ら仏法を破る教えを説く。それを聞いた王は仏法の正邪を弁えず、悪比丘の言葉を信じ、道理に背いた法制を作って仏の戒めを無視していく。これを破仏法・破国の因縁とするのである」と。
 この文の意味は、末法の諸の悪比丘が国王や大臣の前で国を安穏にさせるようなことを言って最後には国を滅ぼし、仏法を弘めるような姿をして、かえって仏法を破るであろう。国王や大臣はこの道理を深くわきまえずに悪僧の言葉を信じてしまうため、国を破り、仏教を失うことになる、というのである。
 このような時には太陽や月の運行も乱れ、季節も狂って、夏に寒く冬は暖かくなり、秋には暴風が吹く。また赤い太陽や月が出たり、日蝕・月触が起こり、二つ三つ等の日が出たりする。また大火や大風、彗星などが起こり、飢饉・疫病などが現れると仁王経に書かれている。このように、国を滅ぼし、人を悪道に堕とす者として悪知識以上のものはないのである。

 
 ここでは人々が正法に背く結果、善神が法味に飢えてこの国を捨て去り、それに替わって悪鬼・魔神が入って種々の災難をもたらすという、いわゆる「神天上法門」が述べられている。
 神天上法門は、本抄や立正安国論だけでなく、晩年の弘安3年(1280)に著された諌暁八幡抄にも「
今日本国を案ずるに代始まりて已に久しく成りぬ旧き守護の善神は定めて福も尽き寿も減じ威光勢力も衰えぬらん、仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに仏法の味は皆たがひぬ齢はたけぬ争でか国の災を払い氏子をも守護すべき」(057806)と述べられているように、大聖人が生涯にわたって堅持された法門である。特に立正安国論が有名で、そこでは神天上の法門について次のように示されている。
 「
世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(001712
 「
天下世上・諸仏・衆経に於て捨離の心を生じて擁護の志無し、仍て善神聖人国を捨て所を去る、是を以て悪鬼外道災を成し難を致す」(002011
 そして立正安国論では、その根拠として、次のように金光明経・仁王経などの文を引かれている。
 「
其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて 涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」(001803
 「
若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」001907
 この経文に明らかなように神天上法門は、大聖人は独自に主張されたものではなく、仏説に基づいて主張されたものである。
 唱法華題目抄の第五問答に示されている趣旨は、立正安国論に示されている内容と同一である。ここに引用されている経文も立正安国論の第三問答において引用されているのと同じである。
 序論において、唱法華題目抄が立正安国論と表裏一体の関係にあることを明らかにしたが、神天上法門などの法理が共通して示されていることは、まさにこの二つの御述作の密接な関係を裏付けるものといえよう。
 神を仏法の守護者とする考え方は、インド仏教において広く見られる。
 インドにおける神観念は極めて複雑であるが、まずさしあたり古代インドの神は、その起源は自然神とされるが『リグ・ヴェーダ』によれば、海・川・雨・大地など、一切の自然現象は神の働きによるものと考えられ、太陽・川・雨・暴風・雷・大地など、それぞれの自然現象を司る神が存在すると信じられていた。それらの神々に対して、酒などを捧げて祈禱する祭祀礼儀を行ったことが『リグ・ヴェーダ』などに記されている。
 その祭祀を職業として実行されてきたのがバラモンといわれる聖職者階層である。そして、規定に厳格に則って祭祀を行うことにより神々を動かすことができると考えられた。
 「すなわち祭式に潜在する力が神々を強制するものである。したがって、人生の苦しみを除去するためには、聖典の規定どおりに祭式を実行しさえすればよいのである。神々に対する信仰は問題とされないのである。その意味で神よりも祭祀の規則のほうが上位の位置を占めると考えられていた。このように神を絶対至高の存在としないことはインド仏教一般の傾向といえる。
 仏教は、バラモンによって担われた宗教、すなわちバラモン教が支配する社会のなかで誕生したが、神より上位にある「法」のとらえ方においてバラモン教と同一ではない。すなわち仏教の明かした「法」とは、単に祭祀の規則といった表面的・形式的なものではなく、より普遍的であり、更に端的でいえば生命と万物を貫く法理なのである。この究極の法を覚知したのが「仏」であるのに対し、「神」は人間にない巨大な力をもっていても、「法」の覚知には至らず、法のもとに服すべき存在に過ぎない。
 すなわち、神も迷いの衆生であり、仏よりも遥かに低い位置にあって仏に仕え、仏法を守る働きをするのである。インドの宗教において神を意味する言葉は「デーヴァ」であるが、この言葉は漢訳された場合「天」と訳される。すなわち、十界の衆生の中で神は「天界の衆生に過ぎないとうるのが仏教の基本的な神観念である。
 しかも、仏法の「法」は万物を貫くのであるから、「神」もまた仏法の「法」を源泉として、その働きを顕す。故に正しい仏法が行われない世界においては「神」はその善の活力を失う。このように「神」がこの世界における善の活力を喪失することを「神天上」と表現したのであり、金光明経などに示される「神天上法門」は、仏教の基本的立場から出ているものといえる。
 なお、これまでの部分では、社会一般の人々が悪知識に誑かされて謗法に堕すことを述べられてきたが、仁王経に引用されたこの部分では、とくに国家の権力者・指導者階層が悪知識に誑かされ、国中が謗法化することによって、現実世界に種々の災禍が生じてくるのである。
 うなわち、ここでは権力と仏法の関係に触れられているが、この点についての詳しい展開は立正安国論に委ねられているのである。