02   上の三人の中に第一の俗衆の毀よりも第二の邪智の比丘の毀は猶しのびがたし 又第二の比丘よりも第三の大衣
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 の阿練若の僧は甚し、 此の三人は当世の権教を手本とする 文字の法師並に諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の
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 法師並に彼等を信ずる在俗等四十余年の諸経と法華経との権実の文義を弁へざる故に、 華厳・方等・般若等の心仏
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 衆生・即心是仏・即往十方西方等の文と法華経の諸法実相・即往十方西方の文と語の同じきを以て 義理のかはれる
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 を知らず 或は諸経の言語道断・心行所滅の文を見て 一代聖教には 如来の実事をば宣べられざりけりなんどの邪
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 念をおこす、 故に悪鬼・此の三人に入つて末代の諸人を損じ 国土をも破るなり故に経文に云く「濁劫悪世の中に
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 は多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん 乃至仏の方便随宜所説の法を知らず」文・ 文の心
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 は濁悪世の時比丘我が信ずる所の教は 仏の方便随宜の法門ともしらずして 権実を弁へたる人出来すれば詈り破し
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 なんどすべし、是偏に悪鬼の身に入りたるをしらずと云うなり、

 以上の三類の強敵の中で、第一の在家による毀りよりも第二の邪智の僧侶による毀りのほうが、なお忍びがたい。また第二の僧侶よりも第三の大衣を身につけ、静かな山寺などに住む高僧などのほうが甚だしい。
 この三人は、当世でいえば権教を手本として文字にこだわる法師であり、また諸経論に説かれる言語道断の文を信じて盲目的に禅を修行している法師であり、更に彼らを信ずる在家の人々である。この者たちは四十余年の諸経と法華経との権実の文義をわきまえないために、華厳・方等・般若等で説かれている「心仏及衆生」「即心是仏」「往生十方西方」の文と、法華経で説かれている「諸法実相」「即往十方西方」の文とが、語が同じであることから、その法理が異なっていることを知らないのである。あるいは、諸経に「言語道断・心行所滅」と説かれている文を見て、一代聖教には仏の真実の悟りは書かれていないなどという邪念を起しているのである。それ故に、悪鬼がこの三種類の人々に入って末法の人々を損じ、国土をも破っているのである。
 故に法華経勘持品では「濁劫悪世の中には多くのさまざまな恐怖があるであろう。悪鬼がそれらの人々の身に入って我ら法華経の行者を罵り辱めるであろう。(乃至)また彼等は仏が方便随宜として説いた法を知らない」などと説かれている。
 文の意は、濁悪の世においては、僧侶は自分の信ずる教えが仏の方便随宜の教えであるとも知らずに、権実の違いを弁えた人が現れるとその人を詈って破ろうなどとする。これはひとえに悪鬼が自分の身に入っているのであるが、このことを本人は知らないのである、ということである。

 末法において、法華経の信仰を破壊する者を予言した文として、前段では法華経勧持品の文と、それについての妙楽大師の文を示された。
 ここでは、それがどのように大聖人御在世において現れているかを指摘されている。すなわち、それは①「当世の権教を手本とする文字の法師」と、②「諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の法師」、更に③「彼らを信ずる在俗」であるとされる。勧持品の文が挙げられている三類の強敵のうち、俗衆増上慢は在家であるから、③が俗衆増上慢に、①と②は出家である道門増上慢、僭聖増上慢に当たることになる。
 「文字の法師」と「暗禅の法師」という呼称は、摩訶止観に天台が述べたものを用いられている。すなわちその巻五上に「暗証の禅師・誦文の法師の能く知る所に非ざるなり」とあるほか、巻七には「九意は世間の文字と法師と共ならず、亦、事相の禅師と共ならず、一種の禅師は唯観心の一意あり、或は浅、或は偽、余の九は全く無し、此れ虚言に非ず、後賢、眼有らんものは当に証知すべし」と説かれている。
 天台大師の時代既に、経典の解釈のみにとらわれて仏法の実践の重要性を忘れた「文字の法師」と、逆に法理を学び、把握する努力を怠り、やみくもに禅定の行に走る「暗禅の法師」の両者があったことがうかがえる。いうまでもなく天台は、どちらも誤りとして破折しているのである。大聖人は、天台大師当時と同じ仏教者の歪みが現れていたことから、その呼び名をそのまま用いられたのである。
 しかし大事なのは「文字の法師」とは単に文字にとらわれて実践をなおざりにしているというだけではなく「権教を手本」とし「四十余年の諸経と法華経との権実の文義を弁」えない者であるとされていることである。その特徴は、文字ずらだけにとらわれるため、爾前権教と法華経に類似の経文があるのを見て、両者を同類と思い込み、法理の相違を認識できないことにある。
 具体的に類似している文としてまず挙げられているのは、華厳経の「心仏及衆生是三無差別」般若三昧経の「即心是仏」と法華経の「諸法実相」である。
 「心仏及衆生是三無差別」は華厳経観十夜摩天宮菩薩説偈品の文で、「心」と「仏」と「衆生」は、「仏」と「衆生」も「心」をもって造る故に、この三つはいかなる差別もないとの意である。この文の直前に「心は工なる画師の種々の五陰を造るが如く、一切世界の中に法として造らざることなし」とあることからも明らかなように、「心」から世界の一切が生まれるという唯心論的世界観を表明したものである。この点においては般舟三昧経の「即心是仏」の文も同様といえる。
 華厳経の「心仏及衆生是三無差別」は、法華経の、十界互具と共通しているものの、その「心」が何であるかは華厳経では明らかにあれておらず、また法華経のように二乗作仏・久遠実成が明かされていないということにおいて法華経とは大きな相違がある。いわば、華厳経の説く仏と九界の無差別は抽象的観念の域を出ず、したがって二乗作仏・久遠実成という具体的な裏付けもない。それゆえに有名無実と評されるのである。
 それにも関わらず天台大師は一念三千を証明するために華厳経のこの文によって心を不可思議境と立てたのであったが、その意は日寛上人が三重秘伝抄で引かれている浄覚の「今の引用は会入の後に従う」との言葉通り、法華の立場から華厳経の文を会入して用いられたのである。天台が説明のために華厳経のこの文を用いたからといって、華厳経に一念三千の法理が説かれているということではない。
 また本抄では、爾前経と法華経の類似点として「即往十方西方」という言葉が挙げられている。念仏宗に執着する人々は、法華経にもこのように阿弥陀如来の浄土への往生が説かれているとして念仏思想の正当化に利用したのである。
 そもそも法華経に阿弥陀如来の名が登場するのは、次に示すように、化城喩品と薬王品の二ヵ所のみである。
 諸の比丘、我今汝に語る。彼の仏の弟子の十六の沙弥は、今皆
阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方の国土に於いて、現在に法を説きたもう。無量百千万億の菩薩、声聞有って、以って眷属と為り、その二つの沙弥は、東方にして作仏す。一を阿?と名づく、歓喜国に在す…西方に二仏、一を阿弥陀と名づく、二を度一切世間苦悩と名づく」
 「若し如来の滅後、後の五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の、阿弥陀仏の大菩薩衆、囲繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。
 とくに前者で明らかなように、法華経に阿弥陀仏が登場するといっても、それは十方の諸仏の一つとして挙げられているに過ぎず、また後者の、阿弥陀浄土の往生も、法華経受持の功徳の一つとして説かれているのであって、念仏によって往生するとは説いていない。それにもかかわらず、法華経に弥陀如来とその浄土への往生が挙げられていることだけをもって、法華経と浄土教典とを等しいとするのは愚かという以外ない。
 法理における爾前経と法華経の相違が天地雲泥であることは冷静に検討すれば明白であるにもかかわらず、両者における表面的、部分的な類似に引きずられて、あるいは自宗の正当化のため故意に、両者を同一視する邪義が「権教を手本とする」宗派の学僧によって唱えられたものである。それは奈良・平安の旧仏教各派においても、また新興の念仏宗においても共通していた。
 本来、法華経の最勝を宣揚すべき立場にある天台宗も、真言密教に同化してしまった結果、爾前経と法華経の相違を曖昧にし、まさに「権実雑乱」の事態が出現していたのである。日蓮大聖人が立宗以来、一貫して法華経の最勝を主張し、爾前権教を厳しく破折されたのは、如説修行抄に「
一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し」(050315)と仰せのように、まさしく「権実雑乱」の時代状況の中で、人々が正義を見失っており、この迷いから目覚めさせることが救済の第一関門だったからである。
 次に大聖人は三類の強敵として「諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の法師」を挙げられ、それについて「諸経の言語道断・心行所滅の文を見て一代聖教には如来の実事をば宣べられざりけりなんどの邪念を起こす」と述べられている。
 「言語道断・心行所滅」とは、瓔珞経、大智度論、中論などにある文で、仏の究めた世界の真実相は言語で表現できず、心の働きを超越したところにあるとの意である。この文は仏の究めた真理の深さを述べたもので、言語や思惟の意義を否定しているのではない。しかし禅宗の徒は、この文の意を言語あるいは理想的思索の意義を否定したものと曲角し、“一代聖教には仏の本当のことはのべていない”として、座禅観法のみが正しく、経典を読んだり学んだりうることは無駄であると主張したのである。経典を否定する禅宗のこうした立場を端的に示しているのが「教外別伝・不立文字」の言葉である。
 その結果、禅宗の言う「悟り」は法理の裏付けのない、主観的・恣意的ものとならざるを得ない。自分が悟ったと思えば、それが「悟り」なってしまうのである。仏説を記した経典をも自分の主観を基準として恣意的に判断していくため、仏教を破壊する「天魔」となり、自らを高しとして他を軽んずる増上慢に陥っていくのである。
 このような禅宗に対して大聖人は、立宗まもない時期からその誤りを厳しく破折されている。例えば建長7年(1255)に著された蓮盛抄では、自身の主観に居直る禅宗の徒の慢心に対して「
禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(015207)と断破されている。また、経典否定に対しては、同じく建長7年(1255)に記された諸宗問答抄に「汝仏祖不伝と云つて仏祖よりも伝えずとなのらばさては禅法は天魔の伝うる所の法門なり」(037918)と破折されている。
 大聖人御在世当時、禅宗は新興の仏教宗派として、とくに武士階級の中に急速に勢力を拡大しつつあった。鎌倉時代の禅宗の担い手として今日、広く知られているのは栄西と道元であるが、両者に先立って禅を弘めた人物として達磨宗を称した大日能忍がある。大聖人の御書の中に栄西・道元の名は見られないが、大日能忍については「
法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して」(095808)「建仁より已来今に五十余年の間・大日・仏陀・禅宗を弘め」(044108)「建仁年中に法然・大日の二人・出来して念仏宗・禅宗を興行す」(023605)と、大日能忍をもって禅宗の代表とされている。
 能忍は摂津国に三宝寺を創建して禅を弘めた人物であるが、特定の師を持たず、独自の禅を唱えたところから、当時の既成仏教の正統に属さない、一種の「聖」と目されている。
 能忍は自分に欠けている正統性を手にいれるため、1189年に弟子を宋に派遣し、南宋禅の徳光から印可を得させた。それによって立場を強化した能忍は盛んに禅を弘めたが、その主張は戒律と経典を軽視するためであったため、旧仏教勢力が危険視され、1194年、比叡山延暦寺が弘教停止を訴え、それを受けて同年7月に出された太政官宣旨をもって弘通を禁止される事態となった。逆にいえば、旧仏教勢力が政府を動かして禁止しなければならないほど、能忍の達磨宗は急速に広がっていたといえよう。
 また、大聖人御在世当時の禅宗の担い手としては、蘭渓道隆・
兀庵普寧・大休正念・無学祖元などの外来僧がある。道隆は北条時頼の招きで1246年に来日し、1253年臨済宗の本山・建長寺の開山となったことで知られている。
 禅は当時、中国で流行していた最先端の思潮であり、鎌倉幕府は京都における朝廷の文化的伝統に対抗する意味もあって積極的に禅僧を招聘した。その結果、幕府権力の保護を受けて禅宗は鎌倉に定着することになった。
 日蓮大聖人は、これら外来の禅僧に対しても厳しく破折され、例えば蘭渓道隆に対して「
禅宗は天魔の所為」(017303)と断じられている。唱法華題目抄において大聖人が、禅僧を道門増上慢、僭聖増上慢に位置づけて破折されている背景には、当時既に禅宗が幕府権力と癒着して勢力を拡大していたという事情があったからである。