05                答えて云く法華経勧持品に云く「諸の無智の人悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有
06
 らん我等皆当に忍ぶべし」文妙楽大師此の文の心を釈して云く「初めの一行は通じて邪人を明す、 即ち俗衆なり」
07
 文文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり、 経に云く 「悪世の中の
08
 比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い我慢の心充満せん」文・ 妙楽大師此の文の心を釈して云く
09
 「次の一行は道門増上慢の者を明す」文・ 文の心は悪世末法の権教の諸の比丘我れ法を得たりと慢じて 法華経を
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 行ずるものの敵となるべしといふ事なり、 経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂
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 いて人間を軽賎する者有らん 利養に貪著するが故に白衣の与に法を説き 世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如くな
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 らん是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮りて好んで我等が過を出さん 而も是くの如き言を作さ
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 ん此の諸の比丘等は 利養を貪るを為つての故に 外道の論義を説き自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑す名聞を
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 求むるを為つての故に分別して是の経を説くと、 常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・
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 婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん」已上妙楽
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 大師此の文を釈して云く 「三に七行は僣聖増上慢の者を明す」文 経並に釈の心は悪世の中に多くの比丘有つて身
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 には三衣一鉢を帯し阿練若に居して 行儀は大迦葉等の三明六通の羅漢のごとく 在家の諸人にあふがれて一言を吐
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 けば如来の金言のごとくをもはれて 法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために 国王大臣等に向ひ奉つて此の人は

0007
01 邪見の者なり法門は邪法なりなんどいゐうとむるなり。

 答えて言う。華経勧持品に「仏法に無智な多くの人が罵ったり、また刀や杖で迫害したりする者があるであろうが、我々はこれに耐え忍ぶであろう」とある。妙楽大師はこの経文の意味について「初めの一行は通じて邪人を明す文である。即ち俗衆である」と釈している。妙楽の文の意は、この一行は在家の男女が権教の僧侶にたぶらかされて法華経の敵になることを示しているというのである。 
 また経文には「悪世の中の僧侶は邪智の上に、心がねじまがっていて、まだ悟ってもいないのに悟ったと思い、慢心が満ち満ちている」とある。妙楽大師はこの文の意味について「次の一行は道門増上慢の者を明かしている」と釈している。この妙楽大師の文意は、悪世末法の権教の諸の僧侶が、自分こそ仏法を得たと慢心を起こして法華経を修行する者の敵となつことを言っているのである。
 さらに経文には次のように説かれている「あるいは俗世間を離れた静かな場所に僧衣をまとって住み、自ら真の仏道を修行する者であると思って人間を軽んじている者がいるであろう。この者は自己の利益に貪著する故に俗人のために法を説き、世間の人から尊敬されることはまるで六神通を得た阿羅漢のようであろう。この者は悪心を持ち、常に世俗のことを考えていて、静かな場所にいることを利用して我らの過失を好んで作り出そうとする。その上に次のようにある。『この僧侶等は利益を貪る故に外道の論義を説き、自らこの経典を作って世間の人を迷わせる。名誉を求める故に思案をめぐらしてこの経を説くのだ』と。この者はいつも大衆の中にあって、法華経を修行する我々を毀ろうとするために、国王・大臣・婆羅門・居士・僧侶に向かって我々を誹謗し、我々に悪があると説いて『この者は邪見の人で、外道の教えを説いている』と言うであろう」と。
 妙楽大師はこの文を釈して「三にこの七行は僣聖増上慢の者を明かしている」と述べている。
 経文ならびに妙楽の釈の意は次の通りである。悪世には多くの僧侶がいて三衣一鉢を身に帯し、人里離れた静かな場所に住み、その振る舞いは大迦葉等の如き三明六通を得た阿羅漢のように在家の人々から尊敬され、一言、法を説けば、その言葉が仏の金言であるかのように思われている。その僧たちが法華経を行じている人を悪口し、傷つけるために国王や大臣などに対して「この人は邪見の者であり、その法門は邪法である」などと誹謗するのである。

 第五問答ではまず、法華経勘持品第十三に説かれる、いわゆる三類の強敵が挙げられている。
 三類の強敵とは、勧持品の末尾に説かれる二十行の偈の内容を妙楽大師が法華文句記で整理し、法華経の行者に迫害を加えてくる三種の悪知識の相を明確にしたものである。
 勘持品二十行の偈の全文は次の通りである。
  ①唯願不為慮 於仏滅度後 恐怖悪世中 我等当広説   唯願わくは慮いしたもうべからず 仏の滅度の後 恐怖悪世の中に於て 我等当に広く説くべし
  ②有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍   諸の無智の人 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者あらん 我等皆当に忍ぶべし
  ③悪世中比丘 邪智心諂曲 未得謂為得 我慢心充満   悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
  ④惑有阿練若 納衣在空閑 自謂行眞道 輕賎人間者   或は阿練若に 納衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂うて 人間を軽賎する者あらん
  ⑤貪著利養故 與白衣説法 為世所恭敬 如六通羅漢   利養に貪著するが故に 白衣のために法を説いて 世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん
  ⑥是人懐悪心 常念世俗事 假名阿練若 好出我等過   是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮つて 好んで我等が過を出さん
  ⑦而作如是言 此諸比丘等 為貪利養故 説外道論議   而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は 利養を貧るを為ての故に 外道の論議を説く
  ⑧自作此経典 誑惑世間人 為求名聞故 分別於是経   自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す 名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説くと
  ⑨常在大衆中 欲毀我等故 向国王大臣 婆羅門居士   常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士
  ⑩及余比丘衆 誹謗説我悪 謂是邪見人 説外道論議   及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん
  ⑪我等敬仏故 悉忍是諸悪 為斯所輕言 汝等皆是仏   我等仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん 斯れに軽しめて 汝等は皆是れ仏なりと謂われん
  ⑫如此輕慢言 皆当忍受之 濁劫悪世中 多有諸恐怖   此の如き軽慢の言を 皆当に忍んで之を受くべし 濁劫悪世の中には 多くの諸の恐怖あらん
  ⑬悪鬼入其身 罵詈毀辱我 我等敬信仏 当著忍辱鎧   悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱せん 我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし
  ⑭為説是経故 忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道   是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜む
  ⑮我等於来世 護持仏所囑 世尊自当知 濁世悪比丘   我等来世に於て 仏の所嘱を護持せん 世尊自ら当に知しめすべし 濁世の悪比丘は
  ⑯不知仏方便 随宜所説法 悪口而顰蹙 数数見擯出   仏の方便 随宜所説の法を知らず 悪口して顰蹙し 数数擯出せられ
  ⑰遠離於塔寺 如是等衆悪 念仏告勅故 皆当忍是事   塔寺を遠離せん 是の如き等の衆悪をも 仏の告勅を念うが故に 皆当に是の事を忍べし
  ⑱諸聚落城邑 其有求法者 我皆到其所 説仏所囑法   諸の聚落城邑に 其れ法を求むる者あらば 我皆其の所に到って 仏の所嘱の法を説かん
  ⑲我是世尊使 処衆無所畏 我当善説法 願仏安穏住   我は是れ世尊の使なり 衆に処するに畏るる所なし 我当に善く法を説くべし 願わくは仏安穏に住したまえ
  ⑳我於世尊前 諸来十方仏 発如是誓言 仏自知我心   我世尊の前 諸の来りたまえる十方の仏に於て 是の如き誓言を発す 仏自ら我が心を知しめせ
 この二十行の偈について、天台大師は法華文句で、衣座室の三軌の視点から次のように釈している。
 「偈に二十行有り、経を護持せんことを謂ふ。復細に分たず。文を尋ねて解す可し。前の十七行は忍衣を被て経を弘む、次に第二に一行は室に入て経を弘む、次に第三に一行は座に坐して経を弘む、次に第四に一行は総括して知らしめたまうと謂ふ」
 つまり天台大師は二十行の偈を衣座室の三軌に立て分け、最初の一行から十七行までは「忍衣を被て経を弘む」、第二に十八行目は「室に入て経を弘む」、第三に十九行目は「座に坐して経を弘む」、第四に二十行目は「総括して知らしめたまうと謂ふ」である、としている。
 天台大師が四つに分けた中で、第一の「忍衣を被て経を弘む」の十七行を妙楽大師は法華文句記第八で更に細分し「初めの一行①は総じて時節を論じて以って著衣を明す。有諸下九行、②~⑩は別して所忍の境を明す。三に我等七行、⑪~⑰は著衣の意を明す」として三つに分けている。
 そして更に所忍の境を明すの九行を三分し、ここに三類の強敵が説かれているとするのである。
 すなわち前の文に続けて「次の文に三あり。初めの一行②は通じて邪人を明す。即ち俗衆也。次の一行③は道門増上慢を明す。三に七行④~⑩は僭聖増上慢を明す」と。更に続けて「此の三の中、初めの者は忍ぶ可し、次なる者は前に過ぐ。第三最も甚し。後者の者は転識り難きを以っての故に」として、俗衆よりも道門、道門よりも僭聖増上慢が最も忍び難いとしている。その理由として、僭聖増上慢は誰も知りがたい、すなわち一見、仏法を悟り極めた智者のようで、それが“悪知識”であるとは見抜くことが難しいからであるというのである。
 次に三類の強敵のそれぞれについて考察する。
 初めの「俗衆増上慢」は「諸の無智の人悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」と説かれる。妙楽大師が「俗衆」と示した通り、これは在家の者を指し、「無智」すなわち仏法の正邪を判別する能力を持たないことが第一の特徴となる。
 その迫害の手段は「悪口罵詈」と「刀杖」である。「悪口罵詈」は、法華経の行者を直接罵る。いわば言葉の暴力である。また「刀杖」とは、言葉ではなく物理的な暴力をもって、法華経の行者の生命・身体を損なおうとする行為である。「刀杖」の言葉は、法華経の行者への迫害が、生命そのものにまで及ぶものであることを示しているといえよう。
 第二の「道門増上慢」は「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん」と説かれている。
 その特徴は、まず比丘すなわち出家者であること、そしてその心が「邪智」「諂曲」であり、「未だ得ざるを為れ得たりと謂」う慢心を懐いていることである。
 「邪智」「諂曲」とは前の無智とは異なり、仏法にある程度通じているにも関わらず、ねじ曲げて理解していることをいう。無智とは分別する力のない愚かさであるのに対して、邪智・諂曲とは正邪・勝劣の相違を分別する力を持ちながら意図的にそれをねじ曲げる不正直の態度である。
 道門増上慢についてサンスクリットの原文に「不正直な輩、心の凶悪な輩」と説かれているのも、それを裏付けている。仏法の道理にやや通じながら、正法に従おうとせず、逆に正法の弘通者を迫害するのであるから、「無智」の俗衆増上慢よりも悪質な存在であるといえる。
 そしてこの道門増上慢は、仏の悟りを何ら体得していないにもかかわらず、自分は仏法を悟っていると錯覚しているところにもその特徴がある。それは、自らの境地を見詰めようとする真摯な自己省察と求道の姿勢を持たず、わずかな知識を得ただけでも、もう全てを悟り究めたかのように思い上がっている姿といえよう。
 二十行の偈では第三の「僭聖増上慢」について最も多くの言葉を費やして述べている。即ち、第一・俗衆増上慢、第二・道門増上慢がそれぞれ一行に過ぎないのに対して、第三・僭聖増上慢は七行にわたって記述されている。そのこと自体、三類の強敵の中でこの第三類がもっとも重視されていることを示している。
 その特徴としては以下の諸点が挙げられる。
 ①出家者の修行の場とされる阿練若に住み、納衣を着する。
 「阿練若」とは、人里をほどよく離れた閑静な場所をいう。阿練若に住することは十二頭陀行の第一に挙げられ、出家し修行する場として極めて重視された。いわば阿練若に住することは修行の要件であり、僭聖増上慢は、それを自己の神秘化のために利用するのである。また「納衣」を着することも頭陀行の一つであり、それを着することは正統な修行者であることの要件となる。すなわち阿練若に住み納衣を着するということは、さも世俗の欲を超越して高い精神的境地に住じているように世間の人々に思いこませるためなのである。
 ②自ら真の道を行じていると思い、他の人間を軽賤する。
 この部分についてサンスクリット原文では「おのれの智慧を誇示する」とある。自分だけが仏の悟りを得たと考え、自分以外の者は悟りに達していないとして他者を軽蔑していく態度である。道門増上慢の場合は自分だけが悟りを得ているとまで考えていないので、道門増上慢以上に甚だしい慢心といえる。
 ③利養に貪著するが故に、在家から供養を得る目的で法を説く。
 先のように外面は世欲的欲望を超越するように装いながら、内心は「利養に貪著」し、衆生を救済するためではなく、信徒の歓心を買い、供養を取る利養に貪著するために法を説くのである。この部分についてサンスクリットの原文では「美食にあこがれ心奪われて」とある。
 ④聖者のように世間から尊敬を受ける。
 僭聖増上慢は、単なる出家者ではなく、悟りを獲得した高僧として社会的にも評価される存在であるということである。実態は聖者とは程遠い存在でありながら、聖者であるかのように装っているところから「僭聖」と称されるのである。
 ⑤世間に向かって法華経の行者を誹謗する。
 僭聖増上慢は、阿練若に住む正統の修行者えあるという「権威」を利用しながら、現実社会の中で正法を説き広める法華経の行者を誹謗するのである。「名を阿練若に仮つて」とはその意を示している。その誹謗の内容は、法華経の行者が(1)外道の論議を説く(2)勝手に経典を偽作している(3)利養を貧り、名利を求めて利養を貧いる(4)邪見の人である、というのである。
 僭聖増上慢はこれらの誹謗を直接投げかけるのではなく、世間に向かって発することにより、法華経の行者のマイナスイメージを造り上げ、法華経の行者を社会的に抹殺しようとする。しかも、これらの非難の内容は実は、全ての自分に当てはまることなのである。
 ⑥社会的権力に接近している。
 「国王大臣 婆羅門居士 及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて」とあるように、僭聖増上慢は国王・大臣をはじめとする権力者、あるいは婆羅門たちに語り得る立場にある。「婆羅門」とは現代社会にあっては学者・思想家「居士」とは社会的有力者といえよう。
 ⑦法華経の一切衆生皆成仏道の法理と法華経の行者を軽蔑する。
 これは二十行の偈の十一行目に「斯れに軽しめて 汝等は皆是れ仏なりと謂われん」と説かれる個所で、法華経の行者は一切衆生が成仏しうるとする法華経の一仏乗の教えを説くのであるが、僭聖増上慢はそれに対して、法華経の行者を軽蔑し“お前たちのような下賤の者でも仏になるというのか”と言うだろうとの意である。
 「汝等は皆是れ仏なり」とは、僭聖増上慢から法華経の行者に投げかけられる嘲笑の言葉なのである。法華経は一切衆生が等しく成仏しうるという「平等の論理」を示すのに対して、僭聖増上慢は「自分だけが悟っている」と潜称しているのであるから、これを否定する「差別の論理」に立っているのである。
 このように勧持品二十行の偈は、三種類の迫害者を挙げ、法華経の弘通者に対して加えられる迫害の様相を極めて具体的に説いている。それは、法華経を信奉する教団が当時の他の仏教勢力から加えられた迫害の事実を反映したものと考えられるが、しかし、経典において、その迫害が現在のそれではなく、あくまでも未来の弘教者に加えられる迫害として説かれているということが重要であろう。
 観持品二十行の偈は、未来の迫害を予言した経文であり、それ故に、未来においてその経文を自らの実践の上で受けとめる人が出現して初めて真実の意義が顕れるといえる。
 なお、勧持品の末尾に示されているこの二十行の偈は、八十万億那由佗の不退の菩薩による滅後弘教の「誓言」として示されたものである。すなわち、二十行の偈の直前には次のように説かれている。
 「爾の時に世尊、八十万億那由他の諸の菩薩摩訶薩を視す。是の諸の菩薩は、皆是れ阿惟越致にして、不退の法輪を転じ、諸の陀羅尼を得たり。即ち座より起って、仏の前に至り一心に合掌して是の念を作さく、若し世尊、我等に此の経を持説せよと告勅したまわば、当に仏の教の如く、広く斯の法を宣ぶべし。復是の念を作さく、仏、今黙然として告勅せられず。我当に云何がすべき。時に諸の菩薩、仏意に敬順し、並びに自ら本願を満ぜんと欲して、便ち仏前に於いて、師子吼を作して、誓言を発せり、世尊、我等如来の滅後に於て、十方世界に周旋往返して、能く衆生をして此の経を書写し、受持し読誦し、其の義を解説し、法の如く修行し、正憶念せしめん、皆是れ仏の威力ならん。唯願わくは世尊、他方に在すとも遥かに守護せられよ。即時に諸の菩薩、倶に同じく声を発して、偈を説いて言さく」
 二十行の偈が、八十万億那由佗の不退の菩薩の誓いとして説かれるということは、二十行の偈に示されたような忍難の弘通は、菩薩の中でも不退の境地に達した菩薩であって初めて成し得る行為であることを示している。
 しかし、この八十万億那由佗の不退の菩薩の申し出に対して、「仏、今黙然として告勅せられず」とあるように、釈尊は応答を与えない。それは、八十万億那由佗の不退の菩薩でさえも滅後の弘教には耐えられないことを意味している。つまり八十万億那由佗の菩薩も滅後弘教の担い手ではなく、真実の弘教者は湧出品で出現する地涌の菩薩以外にないことを示唆しているのである。