18   問うて云く何なるすがた並に語を以てか 法華経を世間にいゐうとむる者には侍るや・よにおそろしくこそおぼ
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01 え候へ、 答えて云く始めに智者の申され候と御物語候いつるこそ法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ、 末
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 代に法華経を失うべき者は 心には一代聖教を知りたりと思いて 而も心には権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯
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 し或は阿練若に身をかくし 或は世間の人にいみじき智者と思はれて 而も法華経をよくよく知る由を人に知られな
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 んとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべしと見えて候。

 問うて言う。どのような姿、言葉をもって世間の学者の人々に法華経を疎んじさせようとするのか。ほんとうに恐ろしいことである。
 答えて言う。初めにあなたが「智者が言ったこと」と話していたことこそが法華経を疎んじさせる悪知識の語葉である。末法に法華経を失わせる者というのは、心では釈尊一代の聖教を極め尽くしていると思っているが、しかも心は権実二経の区別を弁えていない。また身は三衣一鉢を帯して静かな山寺などにこもり、せけん一般の人に素晴らしい智者だと思われている。しかも法華経をよく知っていることを人々に知ってもらおうとして、世間の出家・在家の人には三明六通の神通力を身につけた小乗経の智者のように貴ばれて、法華経を失うと経文に見えるのである。

 ここでは、どのような「姿」「言葉」をもって法華経を誹謗するのか、という問いを説けられている。それに対する答えでは「智者の申され候と御物語候いつるこそ法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ」と、問者が「智者」としてきた念仏者こそ法華経を誹謗する悪知識であると指摘されている。
 この第四問答以前に、本抄では「但し悪知識に値って法華経随喜の心を云いやぶられて候はんは力及ばざるか」さらに「謗法と申すは違背の義なり、随喜と申すは随順の義なり」と述べられている。すなわち悪知識とは「法華経随喜の心」をさまざまな形で破る働きといえる。
 この段で特に重要なのは、悪知識について「身」と「心」の両面からとらえている点である。すなわち本文には「末代に法華経を失うべき者は心には一代聖教を知りたりと思いて而も心には権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯し或は阿練若に身をかくし 或は世間の人にいみじき智者と思はれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべし」と述べられている。ここに悪知識の本質が明確に示されている。
 「心」におけるその特徴は、
 ①自身が仏法に精通しえいると錯覚している。
 ②実際には権実二教すなわち仏法の勝劣の区別を判断できない。
 ③法華経をよく知っているように人に思われたいと願望する。
 という諸点である。
 また「身」における特徴は、
 ①三衣一鉢を帯びること、すなわち僧侶の立場である。
 ②阿根若に住する。
 ③世間の人には神通を得た阿羅漢のような貴い智者と思われている。
 などの点が挙げられる。
 すなわち、内実は仏法に無智でありながら、外面的には宗教的権威を保とうとする矛盾に悪知識の本質があるといえよう。
 この第四問答では、これまでの問答を受けて念仏の「智者」が法華経誹謗の悪知識であることを確定した上で、宗教的権威を繕う悪侶こそが悪知識であることを指摘し、末法における謗法の具体的な形態を明かされている。その内容は、第五問答において三類の強敵を明かして念仏が堕地獄の業であることを示すための前提・導入となっている。