02      然るに我が釈を作る時機を高く取りて末代造悪の凡夫を迷はし給わんは 自語相違にあらずや故に妙楽大
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 師五十展転の人を釈して云く 「恐らくは人謬りて解せる者初心の功徳の大なる事を測らず 而して功を上位に推り
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 此の初心を蔑る故に今彼の行浅く功深き事を示して以て経力を顕わす」文・ 文の心は謬つて法華経を説かん人の此
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 の経は利智精進・上根上智の人のためといはん事を仏をそれて 下根下智末代の無智の者のわづかに 浅き随喜の功
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 徳を四十余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事を顕わさんとして 五十展転の随喜は説かれたり、 故に天台の
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 釈には外道小乗権大乗までたくらべ来て 法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり、 所以に阿竭多仙人は十二年
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 が間恒河の水を耳に留め 耆兎仙人は一日の中に大海の水をすいほす 此くの如き得通の仙人は小乗・阿含経の三賢
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 の浅位の一通もなき凡夫には百千万倍劣れり、 三明六通を得たりし小乗の舎利弗・目連等は華厳・方等・般若等の
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 諸大乗経の未断三惑の一通もなき一偈・一句の凡夫には 百千万倍劣れり華厳・方等・般若経を習い極めたる等覚の
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 大菩薩は法華経を僅かに結縁をなせる未断三惑・無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由釈の文顕然也、

 しかしながら、念仏の諸師が、法華経を釈する時に、これらの者の機根を高位に取って解釈し、法華経は末法の衆生の機根に適さない教えであるとして、末法の悪業を重ねている凡夫を迷わしているのは、末法の凡夫を救おうと自ら言っていることに矛盾しているではないか。
 それ故に妙楽大師は、五十展転の人を釈して、次のように述べている。
 「恐れるべきは、法華経を誤って理解した人が、法華経の初心の功徳の大きいことを理解できずに法華経の功徳は上位の者のためにあるとして、この初心の者を侮ることである。このゆえに仏は五十展転の功徳を説いて、初心の者の行が浅くても功徳は深いことを示し、これによって法華経の力の絶大なることを顕したのである」 
 文の意は、法華経を誤って説く人が「法華経は、智慧に優れ精進に励む機根の優れた人のために説かれたものだ」と主張することを仏が恐れて、機根も低く智慧もない末法の衆生が、法華経を聞いて、わずかに浅く随喜した功徳でさえも、四十余年の諸経を修行する智者の功徳に勝ることを顕そうとして五十展転の随喜の功徳を説いた、ということである。
 それ故に天台大師は、外道から小乗権、権大乗経までを順に比較し、法華経の最も低い功徳が、それらの教えの功徳よりも勝れていることを述べたものである。
 すなわち外道の阿竭多仙人は十二年の間ガンジス川の水を耳に留め、耆兎仙人は一日で大海の水を吸い干したというが、このような通力を得た仙人であっても、小乗経である阿含経を修行する三賢という浅い位の、一つの通力もない凡夫に比べると百千万倍も劣っている。
 また三明六通という通力を得た小乗の舎利弗や目連などは、華厳経や方等経・般若経などの諸大乗経を修行しても三惑を末だ断じることができず、一つの通力も持っていない諸大乗経の一偈・一句を修行しているだけの凡夫に比べて百千万倍も劣っている。更に、華厳経や方等経・般若経を習い極めた等覚位の大菩薩であっても、法華経に少しばかり結縁しただけで、未だ三惑を断ぜず、造らない悪業はないといった末法の凡夫に比べて百千万倍も劣っているのでる。

 以上の趣旨が、天台のこの釈に明確に述べられているのである。

 本文に示されているように、天台・妙楽は、法華経随喜功徳品の五十展転について、法華経が下根下智の衆生のための経典であることを示すために、法華経の経力の絶大であることを説あれたのであるとしている。
 随喜功徳品は、前品の分別功徳品を受け、分別功徳品に説かれた「四信五品」の功徳のうち、五品の第一である「初随喜」の功徳を詳説した品とされる。初随喜は、滅後の五品のうちの最初の段階であるから、その最初の功徳の偉大さを示すことによって、第二品以降の功徳の更に大きいことを示すことによって、第二品以降の功徳の更に大きいことを示すことにその趣旨があったのである。品名の「随喜」はサンスクリットの「アヌモダナー」の訳語で、教えを聞いて心に喜びを感ずること、または他人が善行を修めるのを見て喜ぶことをいう。
 この品は冒頭で、弥勒菩薩が仏に対し、「世尊、若し善男子、善女人有って、是の法華経を聞きたてまつりて随喜せん者は、幾所の福をか得ん」と、法華経を聞いて随喜する功徳がどれくらいであるかを質問し、それに答えて説かれているのが、いわゆる五十展転の功徳である。
 その文は先に挙げた通りであるが、そこに明らかなように、五十展転の説法は単に聞法の功徳だけを説くものではない。その前提には「転教」とある通り、他に対して法を説く「弘通」の行動が強調される。しかも、その弘通の担い手は、男女・僧俗・年齢などの立場を超えて法華経の法理を信受するすべての人であり、また、弘通の場は「城邑・巷陌・聚楽・田里」とあるように民衆の生活の舞台そのものであある。いわば、五十展転の説法は民衆自身による民衆への実践が、その前提と陌あっている。
 また、随喜功徳品で説かれる「功徳」も、極めて具体的で分かり易い。すなわち、法華経という経典を共に開こうと他者に呼び掛け、わずかの間でもその教えを聞いた人は、以後の生において「利根にして智慧」ある身となり「唇・舌牙歯、悉く皆厳好ならん。鼻修く、高直にして、面貌円満に、眉高くして、長く、額広く、平正にして、人相具足」した完璧な容貌・容姿に恵まれると説かれている。
 このように卑近な具体的な功徳が示されているところにも法華経の民衆性がうかがえる。
 法華経が高位の衆生のための経ではなく、むしろ民衆に開かれた経典であることを、法華経自身が証明しているのである。この法華経の民衆性を意図的に無視して、法華経は高位の衆生のための経典であると主張して末代には無用であるとしたのが浄土宗の勢力であった。大聖人は、この浄土宗と同じ主張をした地論宗を打ち破った天台・妙楽の釈を引かれて浄土宗を破折されているのである。
 また、天台大師は法華文句巻十上で、次のように外道・小乗経・権大乗経を順に対比することによって、法華経を聞いて一念随喜する人の功徳が優れていることを示している。この趣旨を大聖人は分かりやすく述べられているが、文句の文を挙げると次の通りである。
 「外道の五通を得る者は能く山を移し海を竭す、而れども見愛を伏せず、煖法の人に及ばず、二乗の無学は子果?に脱するも、猶涅槃の縛を被りて、其因果?に権なるを知らず、通経の人は修因は功なりと雖も、発心は五百由旬を識らず、得果は止だ四住を除くのみ、別人は二乗に勝ると雖も、修因は則ち偏にして其門又拙し、仏の讃する所に非ず、皆初随喜の人に及ばず」。
 すなわち、神通力を持つ外道が山を動かし海を竭らすことができても煩悩を消すことができず煖法の人に及ばない。また二乗を極めた者は涅槃にしばられて、その因果が仮の教えであることを知らない。通経の人は大乗を修めても仏の悟りが五百由旬という長い道程であることも知らず、得果は四住の煩悩見思惑を除くだけである。菩薩である別教のひとは二乗に勝るとはいえ、修めた因は偏頗であって、その門は拙く、仏が賛嘆するものではない。以上、いずれも法華経を聞いて随喜した人にはまったく及ばない、というのである。この天台の釈を、大聖人の御文を対比させると次のようになる。
 すなわち「阿竭多仙人・耆兎仙人等の得通の仙人」は「外道の五通を得る者」、「小乗・阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫」は「煖法の人」にあたり、「三明六通を得たりし小乗の舎利弗・目連等」は「二乗の無学」、「華厳・方等・般若の諸大乗教の末断三惑の一通もなき一偈・一句の凡夫」は「通教の人」にあたる。さらに「華厳・方等・般若経を習い極めたる等覚の大菩薩」は「別人」、「法華経を僅かに結縁をなせる末断三惑・無悪不造の末代の凡夫」は「初随喜の人」にあたる。
 五十展転の五十番目の人こそ「法華経を僅かに結縁をなせる」人であり「初随喜の人」である。御義口伝では「
五十人とは一切衆生の事なり」(0799―随喜品―02)と仰せられ、第五十人とは特定された人をさすのではなく、妙法を聞いて、一念随喜するすべての衆生でるとされている。
 このように法華経最下の功徳であっても外道や小乗・権大乗を最高度に修めた人の功徳よりもはるかに大きいのは、行ずる「法」自体の高低が、それだけ大きいということである。