03                   是を天台妙楽初随喜の位と釈せられたりと申さるるほどにては 又名字即と
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 釈せられて侍る釈はすてらるべきか、 所詮 仰せの御義を委く案ずればをそれにては候へども謗法の一分にやあら
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 んずらん 其の故は法華経を我等末代の機に叶い難き由を仰せ候は 末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮
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 無き事なりと仰せらるるにや、 若しさやうに侍らば末代の一切衆生の中に 此の御詞を聞きて既に法華経を信ずる
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 者も打ち捨て未だ行ぜざる者も行ぜんと思うべからず 随喜の心も留め侍らば謗法の分にやあるべかるらん、 若し
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 謗法の者に 一切衆生なるならばいかに念仏を申させ給うとも 御往生は不定にこそ侍らんずらめ又弥陀の名号を唱
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 へ極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは 何なる経論を証拠として此の心はつき給いけるやらん 正くつ
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 よき証文候か若しなくば其の義たのもしからず、 

 結局仰、あなたが言われた教義を詳しく考えてみるならば、恐縮ではあるが、謗法の一分ではないだろうか。その理由は、法華経をわれわれ末法の衆生の機に適さないといわれるのは、末法の一切衆生はこの穢土において法華経を修行しても無益であると言われていることになる。
 もしそうであるならば、末法の一切衆生の中には、あなたのそのお言葉を聞いて、既に法華経を信じていた者もこれから法華経を行じようとは思わなくなってしまうであろう。このように法華経による随喜の心をとどめるならばそれは謗法の分になるのではないだろうか。もし、一切衆生が謗法の者になるならば、いかに念仏を称えようとも往生はできないのである。
 また、阿弥陀仏の名号を称えれば西方極楽浄土に往生できる旨をいわれているのは、どのような経論を証拠としてこうした考えを言われているのか、確かな証拠となる経文があるのか。もし無ければ、念仏往生の義は信頼できるものではない。

 結局、法華経は末法の衆生の機に適っていないという念仏者の言い分は、現世において法華経を行じても無益であるとし、人々を法華経から遠ざけているのであるから、法華経への謗法に当たり、往生もかなうわけがないという主張が第二答の骨子である。
 そして、阿弥陀如来の名号を称えれば西方極楽浄土に往生するというのが浄土宗の教義の骨格であるが、そもそもいかなる経論にその根拠があるのかと逆に問いただされているのである。
 もとより、この点については、このあと詳しく論じられるように、観無量寿経に説かれる法蔵比丘尼の四十八願のうちの第十八願「念仏往生」の誓願にある。もちろん観無量寿経そのものが、法華経からみれば方便権教であって、仏の真実を明かした経典とは言えないのであるから、そこに説かれた内容は真実の根拠になり得ない。しかし、それは別として観無量寿経だけを見ても、第十八願には「誹謗正法と五逆の者を除く」とあるのであるから正法である法華経を誹謗する者が往生することはありえなということが、大聖人による浄土教破折の要点といえる。
 この第二答はすでにその基調が鮮明に現れており、念仏の教義が実際に人々の法華経信仰を破壊している以上、謗法以外の何ものでもないとする「念仏=謗法」という確固たる断定から本抄の念仏破折が展開されていることが拝せられる。
 そのうえで答者は、ここで問者に対し、阿弥陀名による極楽往生について経論の証拠を求められているのである。それは彼らの依拠としているのが仏自身によって「四十余年未顕真実」と打ち破られた権教であることを明確にされるための布石の意味があると拝せられる。ゆえに第三問で念仏者が依拠とする経論を挙げるのを受けて、第三答と第八答で破折されるのである。