03                           此の結縁の衆をば 天台妙楽は名字観行の位にかなひたる
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 人なりと定め給へり 名字観行の位は一念三千の義理を弁へ 十法成乗の観を凝し能能義理を弁えたる人なり 一念
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 随喜・五十展転と申すも 天台妙楽の釈のごときは皆観行五品の初随喜の位と定め給へり 博地の凡夫の事にはあら
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 ず然るに我等は末代の一字一句等の結縁の衆一分の義理をも知らざらんは 豈無量の世界の塵点劫を経ざらんや 是
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 れ偏えに理深解微の故に教は至つて深く機は実に浅きがいたす処なり 

 この大通結縁の人々を、天台大師・妙楽大師は名字即と観行即の位に当てはまる人々であると定めている。その名字即や観行即の位に当てはまる人とうのは一念三千の義理を理解し、十乗観法の修行を実践して法華経の法理を十分に理解している人である。
 また法華経随喜功徳品に説かれる、五十展転の最後の五十番目一念随喜する人というのも、天台大師・妙楽大師の釈によれば、観行即の五品のうち最初の初随喜品に当たると定めている。決して下劣の凡夫を指しているのではない。
 とこえろが我々は、末法において法華経の一字一句に結縁しただけの衆生であり、少しの義理をも理解できない者なのだから、どうして無量の世界の塵点劫を経ないということがあろうか。その理由はひとえに「理深解微」の故で、法華経の教えがいたって深いにもかかわらず、我々の機根があまりにも浅いためなのである。

 この大通結縁の者について天台・妙楽は名字即・観行即に相当する人と定めている、と念仏者は主張する。
 名字即・観行即は、天台大師が摩訶止観の巻第一下で法華経を修行する人の位を六段階に配立した「六即」のうち、第二と第三にあたる。
 第二の名字即とは、止観に「或は知識に従い、或は経巻に従いて上の説く所の一実の菩提を開き、名字の中に於いて通達解了して、一切法は皆是れ仏法なりと知る、是を名字即の菩提と為す」とあるように、善知識や経典・論書などの言葉を通して、一切はみな仏法であると了解し、正法を信受する位をいう。
 第三の観行即とは、止観に「心観妙了にして理と慧と相応じ、所行は所言の如く、所言は所行の如くすべし」とあるように、法華経の教えを受けて教え通りに正しく修行する位をいう。
 念仏者はこのように、一念三千の義理を弁へ十法成乗の観を凝し能能義理を弁えたる人」であるから、そのような理解力のない末法の凡夫は法華経の結縁で救われる衆生ではありえないとするのである。
 また、念仏者は、法華経随喜功徳品に説かれる五十展転の一念随喜についても、天台・妙楽は皆「観行五品」のなかの最初の位である初随喜品の位と定めている、と主張する。
 「阿逸多、如来の滅後に、若し比丘、比丘尼、優婆即、優婆夷及び余の智者、若しは長、若しは幼、是の経を聞いて、随喜し已って、法会より出でて余処に至らん…是の諸人等、聞き已って随喜して、復行いで転教せん、余の人聞き已って、亦随喜して転教せん。是の如く展転して、第五十に至らん。阿逸多、其の第五十の善男子・善女人の随喜の功徳を、我今之に説かん」
 すなわち仏の滅後に法華経を聞いて随喜して人に伝え、伝え聞いた人が随喜してさらに他の人に伝え、このようにして50番目の人に伝え聞いた人は、随喜の心も薄くなっているが、それでもその人に絶大な功徳があると説くことによって、法華経聞法の無量の功徳を示す趣旨である。
 「観行五品の初随喜」とは、六即の中の観行即を天台大師が分別功徳品をもとに五位に立て分けたうちの第一・随喜品のことである。「観行五品」は「現在の四信」に対して「滅後の五品」といわれ、①随喜品・②読誦品・③説法品・④兼行六度品・⑤正行六度品の五つをいう。
 念仏者は、天台・妙楽の釈によると随喜功徳品で説かれる「五十展転の一念随喜」は観行五品の最初の随喜品の初随喜の位であり、六即のなかの「観行即」にあたるから、これも「博地の凡夫には当たらないと主張する。
 要するに念仏の「智者」は、法華経を行ずる者は高い境地の者であるとされているから、末法下種の衆生は法華経を行じても功徳は得られないというのである。