06                            答えて云く させる文義を弁えたる身にはあらざれども
07
 法華経・涅槃経・並に天台妙楽の釈の心をもて推し量るに かりそめにも法華経を信じて聊も謗を生ぜざらん人は余
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 の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず、 但し悪知識と申して わづかに権教を知れる人智者の由をして 法
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 華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて 法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さ
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 て法華経へ帰り入らざらん人は 悪道に堕つべき事も有りなん、

 答えて言う。日蓮はそれほど法華経の文義をわきまえている身ではないが、法華経・涅槃経ならびに、天台大師・妙楽大師の釈の意からおしはかると、法華経を信じていささかも謗法を起こさない人は、謗法以外の悪があったとしても、その悪が原因となって悪道に堕ちるとは思われない。ただし、悪知識といって、すこしばかり権教を知っている人が、智者らしく見せて、法華経が末法われわれの機根にあわないという主張を和らげてのべているのを真実であると思い、今までに法華経を随喜していた心を捨て、法華経以外の教えに移ってしまい、一生そのまま法華経に帰ってこない人は、悪道に堕ちることもあるだろう。

 第一答では、「自分はそれほど経の文義をわきまえているわけではないが」と謙遜しつつ、法華経や涅槃経の経文、そして天台や妙楽の釈に照らして考えると、かりそめにも法華経を信じて聊も謗を生ぜざらん人」すなわち信心は浅くても謗法の罪を犯さなければ、謗法以外の罪があったとしても、このために悪道に堕ちることはないと答えられている。
 ここで、先に整理された三つの功徳のうち、①のみで、②の十方に往生、③の此土での即身成仏、については答えられていない。これらについては第二問答以下において詳述されている。
 なお、ここで指摘されているのが、「智者」のような形をとって法華経を末法の機には適はないと主張する悪知識の存在である。この欺瞞の「智者」が、当時の念仏僧であることは明らかである。こうした念仏の邪義に惑わされて法華経から離れ、正法に目覚めないまま一生を終われば悪道に堕ちることもあろう、と答えられている。
 なお、この冒頭の問答で「法華経の無解の行」が問題にされていることが重要であろう。なぜならば、法華経の一切衆生皆成仏の教えは、無解有信を前提としているのであるが、天台宗において説かれる法華経の修行は、法華経の整理に対する「有解」が前堤とされていたからである。
 すなわち天台大師が「魔訶止観」で説いた止観修行は四種三昧と十乗観法に分けられるが、その関係は四種三昧によって妙解を開き、その智慧によって一切諸法の妙理を体得する十乗観法に進むのである。また十乗観法は一心三観の観法であり、一念の心の中に空仮中の三諦が相即していることを観ずるのであるから、少なくとも三諦の法理を理解していることがその修行の前堤となる。
 このように、伝統的な天台宗の立場における法華経の修行には一定の解が必要なのであり「無解の行」は本来、初めから問題にならなかったといっても過言ではない。それに対し、本抄の冒頭で「無解の行」の功徳が論じられていることは、大聖人の立場がすでに天台宗の枠組みから出ていることを示すものといえよう。一般に、本抄は天台附順の書とされているが、しかしそれは、本抄の基本的立場は、すでに大聖人の域をでていることを看過したものといわざるをえない。本抄において、すでに天台宗の枠組みを超えて法華経の原点に還り、更に大聖人独自の法門を明らかにしようとされているお姿が拝されるのである。
 法華経の修行に解をひつようとするのか否かという問題は、後の問答に見られるように、基本的な法華経観の相違となって現われてくるのであるが、とくに末法の衆生は高度な法理を理解する機根をそなえていないという立場から、念仏宗では法華経の理が深いことを直ちに解の必要に結びつけて、法華経の修行は、末法の修行には適合しないという、いわゆる「理深解微」の主張をたてたのである。こうした念仏のいう「理深解微」の教義が天台宗の法華経観を前提にしたことは否定できない。
 それに対して大聖人は、法華経そのものに戻って「無解の行」を強調されたのである。法華経を行ずるのに「解」を必要としないということになれば、「理深解微」の理論の前提が否定されることになる。
 まさに、本抄における念仏破折の柱の一つは「理同解微」という念仏の教義が成り立たないことを示されるところにある。その詳細は、第二章以下に展開されるのである。