0501~0505    如説修行抄 2010:01・02・03月号大白蓮華より。先生の講義

広布に戦う師弟に真の「現世安穏」

 「妙」の一字とは「開く義」です。そして「八」もまた「開く義」です。
 いよいよ創立80周年が開幕しました。一切が開かれゆく年です。いな、一切を開きゆく年です。
 師弟不二の祈りで開く!
 勇猛精進の勇気で開く!
 随縁真如の智慧で開く!
 威風堂々の行動で開く!
 創価学会は、初代会長の牧口常三郎先生以来、どこまでも「御書根本」によって、広宣流布の一切の環境を切り開き、前進してきました。ここに未来永劫にわたる学会の不滅の原点があります。この「絶対勝利の信心」の根幹の精神を拝していくのが、今回から学ぶ「如説修行抄」です。
 「如説」とは文字通り「仏の説の如く」との意味です。また、「師の説の如く」とも拝することができます。
 何よりも大聖人自身が、正法である法華経を身読され「如説修行」するお姿を門下に教えてくださいました。
 それは、釈尊の説いた正法が見失われ、人心が乱れ、争いごとが惹起する末法の闘諍言訟の時に、決然と、万人成仏の旗を掲げられた「破邪顕正」の言論闘争であられます。この大折伏戦は、経文に説かれている通り三類の強敵を招き寄せました。大聖人は、その魔性に敢然と立ち向かって勝利され、法華経こそが真実であることを証明されたのであります。
 私たちの如説修行とは、大聖人が仰せられるままに実践することです。
 牧口先生は『価値論』の最終章で「如説修行抄」の一節を引用されました。
 すなわち「人間の生命を説き明かす真実の仏法が流布されたとき、初めて無上最大の幸福なる寂光土が建設されるのである」と綴られ「法華折伏・破権門理の金言なれば…現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」との有名な御聖訓で、この名著を結ばれているのです。
 真実の現世安穏が実現した「寂光土の建設」 これが、創価の父・牧口先生の切望であり『価値論』の帰結でありました。その理想のために、牧口先生は、権力の不当な弾圧に屈せず、身命を賭して戦い抜かれた。まさに、大聖人が仰せの「如説修行」を寸分も違わず実践されたのです。
 戸田先生も、御自身の御書の「如説修行抄」の題号に、大きく赤字の二重丸をつけておられました。不二の弟子の私もまた、この「如説修行抄」を拝して、大聖人の折伏精神を心肝に染め抜いてまいりました。
 男子部第一部隊長の時、わが家に集ったメンバーとともに、本抄を学びあったことも懐かしい。また、高等部の代表にも本抄を講義しました。未来を担う青年たちと、共々に御書を学び、実践する。 これほどの喜びはありません。青年部は今こそ、大聖人の大哲理を深く拝いて、「確信」と「言論の力」を鍛えに鍛えていただきたい。
 どこまでも「師匠の仰せのまま」に、苦難に臆さず理想のために戦う仏弟子の生き方を教えられたのが本抄です。「師弟不二の書」ともいうべき重書をただただ末法万年の広布のために、未来永遠の創価の勝利のために、魂に刻みつけて拝してまいりたい。

16                       天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな 然るに摂                                           
17 受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、ニワトリの暁に鳴くは用なり宵
18 に鳴くは物怪なり、 権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を
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01 失う物怪にあらずや
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 天台大師が法華玄義巻九の上に「法華は折伏にして、権門の理を破す」といっているのは、まことに理由のあることである。

 そうであるのに摂受である身・口・意、誓願の四安楽の修行を、今の時に行ずるならば、それは冬に種子をまいて春に菓を取ろうとするようなものではないか。鷄が暁に鳴くのは当然のことであるが、宵に鳴くのは物怪である。権教と実教の立て分けが乱れているときに、法華経の敵を折伏しないで、世間を離れ山林の中にとじこもって摂受を修行するものは、まさしく法華経修行の時を失った者怪ではないか。

戦うべき時に戦ってこそ真実の修行

 ここで大聖人は、権実雑乱の戦うべき時に戦わず、山林に閉じ籠って権威を飾るような既成仏教の「摂受主義」を痛烈に破折されます。それは、暁ではなく宵に鳴く役立たずの鷄のような「物怪」であると断じらえているのです。
 末法は、魔性により権教と実教が入り乱れるということは先ほど述べました。加えて重大な問題として、本来、法華経を信仰の規範とすべき天台宗の者たちが、悪を放置して折伏もせず、現実を離れた山林で摂受の修行に耽っていたのです。
 戦うべき時に戦わない。悪が跋扈しても傍観する。それは悪を助長していることと同じです。結果的に、仏法破壊に加担してしまっているからです。
 仏の説いた法の厳格さが薄れ、曖昧になると、実践する人々の精神も腐敗・堕落していきます。修行が懶惰懈怠になれば、魂が脆弱になり保身に走ります。そうなれば、権力側にすり寄って宗教の権威化が始まる。この権威主義の悪弊が「摂受主義」の本質です。当時の仏教界の大半がそうであったといっても過言ではありません。社会の基底部たる宗教が混迷している時代だからこそ、精神の土壌を変革する折伏行の実践こそが、仏の真意を実現する如説修行となるのです。
 今の日顕宗も、大聖人を迫害した当時の諸宗とまったく同じです。戦時中、軍部政府権力と対峙し、非道な弾圧にも屈せず平和と幸福のために戦ったのは、他の誰でもない。創価学会の牧口先生であり、戸田先生でした。宗門は権力の弾圧を恐れ、御書の刊行を禁止し、御書の御文を一部削除するという、大聖人門下としてはあってはならないという過ちを犯したのです。そればかりか、如説修行の牧口先生・戸田先生が逮捕されるや、両先生を登山禁止処分にしたのです。
 戦後もまた、大聖人の仰せのままに折伏に励み、妙法を弘通してきたのは、宗門ではありません。学会です。その崇高な仏勅の広宣流布の団体・創価学会を破壊しとうと企んだのが今の日顕宗です。
 どちらが如説修行の団体か、どちらに大聖人の折伏精神が脈打っているのか、正邪はあまりにも明白です。
 戦うべき時に戦う その真正の勇者の道をあゆんだのが牧口先生・戸田先生です。創価学会は、大聖人の御精神のままに、立正安国論のために、自他共の幸福のため、現実に広宣流布をすすめている「如説修行」の和合僧です。まさに広宣流布の「時」に適った仏意仏勅の団体の出現、これが、学会が誕生した意義なのです。
 牧口先生・戸田先生という不世出の仏法指導者が出現されたのが、法滅の戦乱期の日本であったということも、「時」の不思議さを感ぜずにはおられません。
 牧口先生は、一国を戦乱に陥れた誤った思想に対して厳然と声をあげ、御本尊根本に「罰論」を主張された。戸田先生は、戦後の荒野に一人立たれ、不幸に喘ぐ民衆を救うべく、妙法に生き抜く「利益論」で折伏をされた。そして三代の私も、両先生の御精神を受け継ぎつつ、戦後の世界の動乱の中で、仏法に説かれる「人の振る舞い」を基軸とした「実証論」を展開し、一閻浮提の広宣流布を推し進めてきました。
 これも「如説修行」の原理のままに「戦うべき時にどう戦うのか」「仏法のため、民衆のためどう戦うのか」という覚悟から生じた創価の智慧です。
 私は戸田先生の叫びを忘れることはできません。
 「いざという時、指導者は悪と戦う勇気がなくてはならない。そうでなければ、無責任である。最も大切な庶民を守れないからだ」
 「ひとたび、広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならぬ。戦いを起しておいて、負けるのは、人間として最大の恥だ」
 私は、この「師の説の如く」戦ったゆえに、一切に勝利してきました。特に、わが青年は、この勝利の因を勇敢に受け継いでほしいのです。