11章六道に生じ王となる因縁を明かす 0431.120432.13

本文

  問うて云く何なる業を修する者が六道に生じて其の中の王と成るや、答えて云く大乗の菩薩戒を持して之を破る者は色界の梵王・欲界の魔王・帝釈・四輪王・禽獣王・閻魔王等と成るなり、心地観経に云く「諸王の受くる所の諸の福楽は往昔曾つて三の浄戒を持し戒徳薫修して招き感ずる所人天の妙果・王の身を獲中○品に菩薩戒を受持すれば福徳自在の転輪王として心の所作に随つて尽く皆成じ無量の人天悉く遵奉す、下の上品に持すれば大鬼王として一切の非人咸く率伏す戒品を受持して欠犯すと雖も戒の勝るるに由るが故に王と為ることを得下の中品に持すれば禽獣の王として一切の飛走皆帰伏す清浄の戒に於て欠犯有るも戒の勝るるに由るが故に王と為ることを得、下の下品に持すればエン魔王として地獄の中に処して常に自在なり禁戒を毀り悪道に生ずと雖も戒の勝るるに由るが故に王と為る事を得○若し如来の戒を受けざる事有れば終に野干の身をも得ること能わず何に況んや能く人天の中の最勝の快楽を感じて王位に居せん」文、安然和尚の広釈に云く「菩薩の大戒は持して法王と成り犯して世王と成る而も戒の失せざること譬えば金銀を器と成すに用ゆるに貴く器を破りて用いざるも而も宝は失せざるが如し」亦云く「無量寿観に云く劫初より已来八万の王有つて其の父を殺害すと此則ち菩薩戒を受けて国王と作ると雖も今殺の戒を犯して皆地獄に堕れども犯戒の力も王と作るなり」大仏頂経に云く「発心の菩薩罪を犯せども暫く天神地祇と作る」と、大随求に云く「天帝命尽きて忽ち驢の腹に入れども随求の力に由つて還つて天上に生ず」と、尊勝に云く「善住天子・死後七返畜生の身に堕すべきを尊勝の力に由つて還つて天の報を得たり」と、昔国王有り千車をもて水を運び仏塔の焼くるを救う自らキョウ心を起して阿修羅王と作る、昔梁の武帝五百の袈裟を須弥山の五百の羅漢に施す、誌公云く「往五百に施すに一りの衆を欠けり罪を犯して暫く人王と作る即ち武帝是なり、昔国王有つて民を治むること等からず今天王と作れども大鬼王と為る、即ち東南西の三天王是なり拘留孫の末に菩薩と成りて発誓し現に北方毘沙門と作る是なり」云云、此等の文を以て之を思うに小乗戒を持して破る者は 六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり。

現代語訳

 問うて言う。どのような業因をつくる者が六道に生まれてその中の王となるのか。

 答えて言う。大乗の菩薩戒を持って、これを破る者は、色界の梵王・欲界の魔王・帝釈・四輪王・禽獣王・閻魔王等となるのである。心地観経に「諸王が受けるところの諸の福楽は、かつて三の浄戒を持ち戒徳を積もって招き感ずるもので、人界天界の妙果として王の身をうけるのである。○、中品に菩薩戒を受持すれば、福徳が自在の転輪聖王として、心の思うままにすべてみな成就し、無量の人界・天界の衆生から尊ばれる。下の上品に菩薩戒を持つならば、大鬼王として一切の非人がすべて従うのである。これは戒品を受持して、後に破り犯したとしても、持った戒が勝れていたので王となることができたのである。下の中品の菩薩戒を持つならば、禽獣の王として、一切の鳥獣がみな帰伏するのである。清浄の戒において、後に破り犯すことがあっても、持った戒が勝れていたので王となることができたのである。下の下品に菩薩戒を持つならば閻魔王として、地獄の中にあって常に自在である。禁戒を破り、悪道に生まれたとしても、戒が勝れていたので王となることができたのである。○、もし如来の戒を受けないことがあれば、ついに野干の身をも得ることができない。まして人界・天界の中の最勝の快楽を感ずる王位につくことができようか」とある。安然和尚の広釈には「菩薩の大戒は、持った者は法王となり、犯した者は世王となる。持戒の功徳がなくならないことは、たとえば金銀をもって器とし、用いれば尊く、器が壊れて用いなくなっても、やはり宝の価値はなくならないようなものである」とある。また「無量寿観に『この世の初めから今までに八万の王がいて、その父を殺害した』とある。これは菩薩戒を受けて国王となったが。いま殺生の戒を犯してみな地獄に堕ちたけれども、戒を犯したの力でも王となるのである。大仏頂経には『菩薩心を発した菩薩は罪を犯しても、当分は天神地祇となる」とある。大随求陀羅尼経に『天の帝釈は、命が尽きて後忽ちに驢馬の腹に入ったが、随求陀羅尼の力によって、かえってまた天上界に生まれた』とある。尊勝陀羅尼経に『善住天子は、死後七返にわたり、畜生の身に堕ちるところを、尊勝陀羅尼の力によって、かえって天界に居られる報いを得たのである』とある。昔、国王がおり、千車をもって水を運び、仏塔の焼けるのを救ったが、自ら憍慢の心を起こしたために、阿修羅王となった。昔、梁の武帝は五百の袈裟を須弥山にいる五百人の羅漢に施した。誌公という者は『昔、五百人に施したが、一人の衆を欠かしてしまい、その罪を犯したことにより、しばらく人王となったのである。すなわち武帝である。昔、国王がいて、民を治めるのが平等でなかったので、今、天王となったけれども、大鬼王となった。すなわち東南西の三天王である。また拘留孫仏の末に菩薩となって誓願を発し、現在北方の毘沙門天王となっている』と言っている」とある。これらの文をもって思うには、小乗戒を持って、それを破る者は六道の民となり、大乗戒を持ち、それを破る者は六道の王となり、持ち続けた者は仏となるのである。

講義

 六道のなかの王となる業因を明かされている。
 初めに、いかなる業を修した者が六道に生れて王になるのかとの問いを設け、大乗の菩薩戒を持って、後に破った者が、色界の梵王や、欲界の魔王・帝釈天王・転輪聖王・禽獣の王・閻魔王となるのである、と答えられている。すなわち、大乗の菩薩戒を持つ功徳が大きいため、一度持って、後に破ったとしても、最初持った功徳によって、天界・人界・畜生界・地獄界の六道に生れてその王となることができえる、というのである。
 なお、大乗の菩薩界とは、大乗の菩薩が受持すべき戒のことで、十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒等をさす。小乗の戒が具体的な禁止事項であるのに対して、大乗の菩薩戒は精進して利他の実践に励むよう勧めるものが主となっている。したがって、菩薩戒を持つとは、利他の実践に励むという意味ともなる。
 次に、心地観経の文が挙げられて、諸の王が受ける福徳や楽しみは、過去に摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒の三聚浄戒を持った戒徳によって招いた人界・天界の果報により王の身を得たのである、とされている。
 更に、中程度の菩薩戒を受持すれば、福徳自在の天輪聖王となって、すべてが思うままになり、多くの人界・天界の衆生が従い守る、とされている。文中「中品」「下の上品」等と言われているのは、機根を分類したもので、菩薩戒の持ち方を分けられている。また、下の上品に菩薩戒を持てば、鬼神の王となって、人でない衆生である天・竜・夜叉などがすべて従い伏すという。これは、戒律を受持して、後にそれを破り犯したけれども、戒の功徳が勝っていたために王となることができたのである、とされている。天輪生王とは、武力を用いずに正法をもって全世界を統治するとされる理想の王をいう。鬼神の王とは、目に見えない超人的な働きを持つ夜叉や羅刹の王をさす。
 下の中品に戒を受持すれば、鳥や獣の王となって、一切の空を飛ぶ鳥や地上を走る獣が帰伏するのであり、これも清浄の戒を破ったが、戒が勝れていたために王となることができたのである、とされている。
 下の下品に戒を持って、閻魔王として地獄の中にあって自在の王となったのは、禁戒を破って悪道に生まれたけれども、戒の功徳が勝っているために王となれたのである、とされている。閻魔王とは、衆生の罪を監視し、悪を退治し、罪の恐ろしさを教える死後の世界の王とされたが、そこから転じて、地獄界の主として、地獄に堕ちた人間の生前の善悪を審判し、懲罰するとされるようになった。
 そして、もし、仏から戒を受けることがなければ、とうてい狐の身を受けることもできず、まして、人間や天界に生れて最勝の快楽を感じられる王位に居ることができようか、といわれている。
 そのように、六界の各界の王位は、いずれも大乗の菩薩戒を持ち、利他の実践をしたのであり、後にその戒を破ったために仏にはなれなかったが、実践の功徳の異なりによって、六道のそれぞれの王となったのである、と説かれている。
 更に平安中期の天台宗の学僧・安然が、菩薩戒の授戒の儀式を解釈した広釈の文を引かれている。それによると、菩薩戒を持つ者は法王となり、破った者は世間の王となる。しかも、一度受けた戒の功徳が失われないことは、たとえば金や銀で作られた器を用いれば貴重であり、それが壊れて器の用をしなくなったとしても、やはり宝であることに変わりはないようなものである、とされている。
 また、観無量寿経の「劫初より已来八万の王有って其の父を殺害す」との文を引いて、これは菩薩戒をうけたために世の国王となり、父を殺すという殺生戒を犯して地獄に堕ちたが、破った菩薩戒の力でも王となるのである、と述べられている。
 次に大仏頂経の、菩提心を起こした菩薩は、罪を犯したとしても、暫くは天地の神となるのである、との文を引かれている。また、随求陀羅尼経の、天の帝釈の寿命が尽きて、驢馬の腹に宿ったけれども、随求陀羅尼の力によって天界にうまれることができた、との文を引かれている。随求陀羅尼とは、衆生の願いに随ってすべてを成就させる陀羅尼の意で、随求陀羅尼経に説かれる。この陀羅尼を受持し読誦すれば無量の功徳があると信じられ、古くからインド・中国・日本で尊重されている。
 また、尊勝陀羅尼経の、善住天子は、死後、七回は畜生の身に堕ちて生まれるべきところを、尊勝陀羅尼の力によって天界の報いを得ることができた、との文を引かれている。尊勝陀羅尼経には、三十三天の善法堂天に住む善住天子が日夜歓楽に耽っていたところ、天からの声で、七日後に死んで七回畜生の身を受けた後、地獄に堕ちるといわれ、帝釈天にそのことを伝えた。帝釈が哀れんで釈尊に滅罪の法を尋ねたところ、釈尊は善住天子だけではなく、一切衆生のために仏頂尊勝陀羅尼を説いて、天界に生れさせた、と説かれている。
 この二例は、大乗の法を受持した功徳によって、畜生界や地獄界に堕ちることを免れ、天界に生じることができたとされているのであろう。
 また、昔、一人の王が、一千台の車で水を運ばせ、仏塔が焼けるのを防いだが、それで憍慢となったために阿修羅王となったとある。更に、梁の武帝は、過去に五百の袈裟を五百人の阿羅漢に布施をしたとされる。誌公は「過去世に五百の阿羅漢に袈裟を布施したが、一人分足りなかった。しかし、その功徳で、罪を犯したけれども王に生れた。それが武帝である。過去世の国王で、民を治めるのに平等でなかったために、今世で大鬼王となった。それが東南西の世界を護る持国・増長・広目の三天王である。また、拘留孫仏の末に菩薩となって誓願を立てたのが、北方を護る毘沙門天である」と述べた、とされている。
 こうした文から考えられることは、小乗の戒を持って、後にそれを破った者は六道の民と生まれ、大乗の戒を持って後に破った者は六道の王となり、大乗の戒を持ち通した者は仏となる、ということである、と結論されている。

12章声聞界の因縁を明かす 0432.140433.06

本文

  第七に声聞道とは此の界の因果をば阿含・小乗・十二年の経に分明に之を明せり、諸大乗経に於ても大に対せんが為に亦之をば明せり、声聞に於て四種有り一には優婆塞・俗男なり五戒を持し苦・空・無常・無我の観を修し自調自度の心強くして敢て化他の意無く見思を断尽して阿羅漢と成る此くの如くする時・自然に髪を剃るに自ら落つ、二には優婆夷.俗女なり五戒を持し髪を剃るに自ら落つること男の如し.三には比丘僧なり二百五十戒具足戒なりを持して苦・空・無常・無我の観を修し見思を断じて阿羅漢と成る此くの如くするの時・髪を剃らざれども生ぜず、四に比丘尼なり五百戒を持す余は比丘の如し、一代諸経に列座せる舎利弗目連等の如き声聞是なり永く六道に生ぜず亦仏菩薩とも成らず灰身滅智し決定して仏に成らざるなり、小乗戒の手本たる尽形寿の戒は一度依身を壊れば永く戒の功徳無し、上品を持すれば二乗と成り中下を持すれば人天に生じて民と為る之を破れば三悪道に堕して罪人と成るなり、安然和尚の広釈に云く「三善は世戒なり因生して果を感じ業尽きて悪に堕す譬えば楊葉の秋至れば金に似れども秋去れば地に落つるが如し、二乗の小戒は持する時は果拙く破る時は永く捨つ譬えば瓦器の完くして用うるに卑しく若し破れば永く失するが如し」文。

現代語訳

 第七に声聞道とは、この界の因果については、十二年間に説かれた阿含経という小乗経に詳しく明かされている。諸大乗経においても、大乗と比較するためにまた明かされている。声聞においては四種がある。一には優婆塞で、在俗の男である。五戒を持って、苦・空・無常・無我の観念を修め、自調自度の心が強くて敢えて化他の意がなく、見思惑を断じ尽くして阿羅漢となる。このようにする時、髪を剃るのに自然と自ら落ちるのである。二には、優婆夷で在俗の女である。五戒を持って、髪を剃るのに自ら落ちることは、在欲男と同じである。三には比丘で、僧である。二百五十戒を持って苦・空・無常・無我の観念を修め、見思惑を断じて阿羅漢となる。このようにする時、髪を剃らなくても生えてこない。四には比丘尼である。五百戒を持つのである。あとは比丘と同じである。一代諸経の会座に列なった舎利弗や目連等のような声聞がこれである。永く六道に生まれず、また仏や菩薩ともならない。灰身滅智して、必ず決まって仏にはならないのである。小乗戒の手本である尽形寿の戒は、一度身体が滅べば、永く戒の功徳はなくなるのである。上品を持つならば二乗となり、中品下品を持つならば人界・天界に生まれて民となり、これを破れば三悪道に堕ちて罪人となるのである。安然和尚の広釈に「三善道は世間の戒である。因によって生まれて果を感じ、業が尽きて悪道に堕ちる。たとえばす楊の葉は、秋が来れば金に似ているけれども、秋が去れば地に落ちるようなものである。二乗の小乗戒は、持つときはす果は拙く、破るときは永く功徳はなくなってしまう。たとえば瓦の器は、完全であっても用いるのに卑しく、もし壊れれば永久に役に立たないようなものである」とある。

講義

 声聞界の因縁が明かされている。
 声聞とは、声を聞く者の意で、仏の声教を聞いて開悟する弟子をいう。四諦の法門について、四沙門の悟りを得て、灰身滅智して無余涅槃に入ることを目的とする人をさしている。
 声聞界の因果については、釈尊が12年間に説いた阿含部の小乗経にとかれている。阿含部の経は、阿羅漢果を求める衆生に対して、四諦・十二因縁の理を説いており、自己の解説のみを目的とする声聞・縁覚の道を明かしている。
 また、大乗経にも、小乗と比較するために声聞について説かれている場合もある。
 声聞にも優婆塞・優婆夷・比丘・比丘尼の四種があるとされている。本来、声聞とは、声を聞く者の意で、仏の声教を聞いて悟る出家の弟子をいう。ここでは在家の優婆塞・優婆夷で声聞の悟りを求める者も含められているが、最後には髪を剃るとあるので、総じては出家の弟子といえるであろう。
 優婆塞とは、在家の男子で、三宝を信じ、仏道に励む者をいう。小乗教の優婆塞は在家の持つべき五種の戒を持ち、一切の現象を苦・空・無常・無我と観じ、自らの振る舞いを調えて自己の悟りのみを得ようとする心が強くて、他を教化・化導しようとする心が全くなく、見惑・思惑の煩悩を断じ尽くすことにより小乗の最高の悟りの境地である阿羅漢になる、とされている。そのときには髪を剃ろうとすると髪は自然に落ちてしまうという。
 優婆夷とは、在家の女性をいい、ここでは五戒を持って修行し、声聞の悟りを得て髪を剃ると自然に落ちることは優婆夷と同じである、とされている。
 比丘とは僧の意で、出家して具足戒を受けた男子をいう。小乗の比丘は、二百五十戒を持ち一切の現象を苦・空・無常・無我と観じ、見惑・思惑を断じて阿羅漢となる、とされている。そのときには、髪を剃らなくても生えることはないという。
 比丘尼とは、出家して具足戒を受けた女性のことで、尼ともいう。小乗の比丘尼が持つべき戒は五百戒と定められ、その他は比丘と同じであるとされている。
 具体的にいえば、釈尊が一代の諸経に出てくる、舎利弗や目連などの弟子たちが声聞界である。
 声聞の極意である阿羅漢果は、煩悩をすべて断じ尽くした無余涅槃という境地であり、煩悩の拠りどころとなる肉体も、苦しみの果も、余すところなく無くなった状態をさし、灰身滅智ともいう。そのために、再び六道に生れることはなく、また仏や菩薩に成ることもできない。それは、色身を焼いて灰とし、心智を滅するので、絶対に成仏できないのである。
 一代聖教大意には「阿羅漢を無学と云ひ亦は不生と云う、永く見思を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず見思の煩悩無きが故なり、又此の教の意は三界六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず・身に煩悩有りとも知らず又生因なく但灰身滅智と申して身も心もうせ虚空の如く成るべしと習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗是なり」(0392-18)と述べられている。
 次に、小乗教の尽形寿戒を挙げられ、小乗戒の功徳は一生の寿命が終わるとともに失せることが示されている。
 そして、上品の戒を持つ者は声聞・縁覚の二乗となり、中品・下品の戒を持てば人界・天界に生れて民となり、戒を破った者は地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて罪人となる、とされている。また安然の広釈の「修羅・人・天の三善道は、世俗の者が五戒や十善戒を持った結果であり、戒を持った因業によってそれぞれの果報を感じて生れるが、その功徳が尽きてしまえば悪道に堕ちることは、たとえば柳の葉は秋がくれば金に似ているが、秋が去れば地に落ちるようなものである。二乗の持つ小乗の戒律は、持ってもその功徳は拙い証果であり、破れば戒の徳はなくなってしまう。たとえば、瓦の器は、完全であっても使ってあまり価値がなく、壊れてしまえば何の価値もないようなものである」との文を引かれている。
 小乗の戒律を持ち、煩悩を断じ尽くす修業をやり通したとしても、その証果は阿羅漢果にすぎず、成仏できないばかりか、一生のうちにその功徳は失われる。はかないものなのである。
 なお、一代聖教大意には「三蔵教の意は戒が本体にてあるなり、されば阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり、此の教の意は依報には六界・正報には十界を明せども而も依報に随つて六界を明す経と名くるなり、又正報に十界を明せども縁覚・菩薩・仏も声聞の悟に過ぎざれば但声聞教とも申す、されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり」(0390-11)と述べられている。

13章縁覚界の因縁を明かす 0433.070433.09

本文

  第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり。

現代語訳

 第八に縁覚道とは、二つある。一には部行独覚であり、仏の在世にあって、声聞と同じように小乗の法を習い、小乗の戒を持ち、見思惑を断じて永不成仏の者となるのである。二には鱗喩独覚であり、無仏の世にあって、飛花落葉を見て、苦・空・無常・無我の理を観念し、見思惑を断じて永不成仏の身となるのである。戒もまた声聞とおなじである。この声聞と縁覚を二乗というのである。

講義

 縁覚界の因縁が明かされている
 縁覚とは、事象を縁として自ら悟り、自利を求め、利他の心がない者をいう。三界六道の迷いの因果を分けた十二因縁を観じ、迷いを断って法理を悟り、あるいは飛花落葉などの外縁によって悟るので独覚ともいう。
 縁覚には、部行独覚と鱗喩独覚の二種がある、とされている。部行独覚とは、声聞の修行によって第三果を得た者のうち、仏の教えを離れて独りで第四果を悟るものをいい、独勝ともいう。部行とは、その部類がともに修業することをさす。
 ここでは、仏の在世に、その部類が寄り合って、声聞と同じように小乗の法を習い、小乗の戒を持って、見惑・思惑を断じ、阿羅漢果を得て永く成仏できなくなった者をいう、とされている。
 鱗喩独覚とは、鱗角独覚とも書き、鱗角喩独覚ともいって、麒麟の角が一本であるように、独りで修業し、独りで悟るところからこう呼ばれる。無仏の世で、自然の現象を見て、苦・空・無常・無我を観じ、見惑・思惑を断ずる者をいう。
 ここでは、無仏の世で、飛花落葉などの自然現象を見て、苦・空・無常・無我の理を観じて、見惑・思惑を断じ、阿羅漢果を得て、永く成仏できなくなった者をいう、とされている。
 大聖人は、「世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや」(0241-12)と仰せになっており、人が世間の現象に無常を観ずる働きを具えていることが、二乗を具している証拠である、とされている。

14章菩薩界の因縁を明かす 0433.100733.18

本文

  第九に菩薩界とは六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り、仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまえり、此の菩薩戒に於て三有り一には摂善法戒所謂八万四千の法門を習い尽さんと願す、二には饒益有情戒・一切衆生を度しての後に自ら成仏せんと欲する是なり、三には摂律儀戒 一切の諸戒を尽く持せんと欲する是なり、華厳経の心を演ぶる梵網経に云く「仏諸の仏子に告げて言く十重の波羅提木叉有り若し菩薩戒を受けて此の戒を誦せざる者は菩薩に非ず仏の種子に非ず我も亦是くの如く誦す一切の菩薩は已に学し一切の菩薩は当に学し一切の菩薩は今学す」文、菩薩と言うは二乗を除いて一切の有情なり、小乗の如きは戒に随つて異るなり、菩薩戒は爾らず一切の有心に必ず十重禁等を授く一戒を持するを一分の菩薩と云い具に十分を受くるを具足の菩薩と名く、故に瓔珞経に云く「一分の戒を受くること有れば一分の菩薩と名け乃至二分・三分・四分・十分なるを具足の受戒と云う」文。

現代語訳

 第九に菩薩界とは、六道の凡夫のなかにおいて、自身を軽んじ、他人を重んじ、悪をもって己に向け、善をもって他に与えようと思う者がある。仏はこの人のために、もろもろの大乗経において菩薩戒を説かれたのである。この菩薩戒において三つある。一には摂善法戒である。いわゆる八万四千の法門を習い尽くそうと願うのである。二には饒益有情戒である。一切衆生を救済して後に、自らも成仏しようと願うのである。三には摂律儀戒である。一切の諸戒をことごとく持とうと願うのである。華厳経の心を分かりやすく説かれた梵網経に「仏がもろもろの仏子に告げて言うには、十重の禁戒がある。もし菩薩戒を受けて、この戒を誦えない者は菩薩ではなく仏の種子ではない。自分も同じように誦えたのである。一切の菩薩はすでに学び、一切の菩薩はいま学んでいる」とある。菩薩というのは二乗を除いた一切の有情のことである。小乗戒は、戒にしたがって異なりがあるが、菩薩戒はそうではない。一切の有情の心に必ず十重禁等を授けるのである。一戒を持つのを一分の菩薩といい、漏れなく戒を受けるの具足の菩薩と名づけるのである。ゆえに瓔珞経に「一分の戒を受けるならば一分の菩薩と名づけ、ないし二分・三分・四分・十分であるのを具足の受戒という」とある。

講義

 菩薩界の因縁が明かされている。菩薩とは、菩提薩埵の略で、無上菩提を求める人をいう。利他を根本とした大乗の衆生をさす。大聖人は観心本尊抄で「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」(024112)と仰せになり、菩薩の特徴は利他であり慈愛であること、しかも誰人の生命にも、本来そなわっていることを明かされている。本抄では、六道の凡夫のなかにおいて、自分自身を軽んじて他人を大切にし、悪すなわち苦しみは自分が引き受け、善すなわち楽しみは他人に与えようとする境界の者をいう、とされている。そのように、菩薩界の本質は、利他であり、もろもろの有情を救うために尽くすところにある。
 釈尊は権大乗経で、大乗の菩薩戒として、摂善法戒・饒益有情戒・摂律儀戒の三つを説いている。これを、三聚浄戒ともいう。
 摂善法戒とは、「所謂八万四千の法門を習い尽さんと願す」と仰せのように、自分のために一切の善法を修する戒をいう。饒益有情戒とは、「一切衆生を度しての後に自ら成仏せんと欲する是なり」と仰せのように、一切衆生に利益を与えていく戒をいう。摂律儀戒とは、「一切の諸戒を尽く持せんと欲する是なり」と仰せのように、二百五十戒等の小乗戒、十重・四十八軽戒の大乗戒の一切の戒を摂めそなえていることをいう。一代聖教大意には「菩薩戒とは三聚浄戒なり五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒梵網の五十八の戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護佗の十戒・大論の十戒・是等は皆菩薩の三聚浄戒の内・摂律儀戒なり、摂善法戒とは八万四千の法門を摂す、饒益有情戒とは四弘誓願なり」(0394-10)と述べられている。
 なお、四弘誓願とは、菩薩が初発心の時に立てる四種の誓願のことで、一切衆生をすべて悟りの彼岸に渡すと誓い、一切の煩悩を断つと誓い、仏の教えをすべて学び取ると誓い、仏道において無上の悟りを得ると誓うこと、とされている。
 次に、華厳経の結経とされる鳩摩羅什訳の梵網経盧遮那仏説菩提心地戒品第十にある文が引かれている。
 すなわち「仏は『十重の波羅提木叉すなわち十重禁戒、不殺戒・不盗戒・不淫戒・不妄語戒・不酤酒戒・ 不説過罪戒・不自讚毀他戒・不自讃毀他戒・不瞋戒・不謗三宝戒を受けてこの戒を誦し持たない者は、菩薩でもなく、仏の種子ではない。また、我もこれを持つのであり、一切の菩薩は、過去にも、未来にも、現在にも学ぶのである』と説かれたという文である。
 十重禁戒は、大乗の菩薩の五十八戒のなかで重大な禁戒であり、他に、軽罪を犯すことを戒めた四十八軽戒というのがある。
 そして、菩薩というのは、「二乗を除いた」一切の有情である、とされている。有情とは、感情や意識をもつすべての生類の総称で、衆生ともいう。九界の衆生のうち、声聞・縁覚の二乗を除いた一切の衆生であるとされているのは、その本質は等しく成仏を願い求めているという点からすれば菩提薩埵・無上菩提を求めるものにあたる、という意味であろう。
 小乗では、さまざまな戒が説かれ、それによって人界や天界など異なっているが、菩薩戒はそうではなく、一切衆生に必ず十重禁戒を授けるのであり、一戒を持つのを一分の菩薩といい、全部を持つのを具足の菩薩というのである、と述べられている。
 瓔珞経には、菩薩の五十二位や十無尽戒が説かれているが、その文を引かれて、一分の戒を受ければ一分の菩薩といい、二分・三分・四分と種々の段階の異なりがあって、十分の戒を受けるのを具足の受戒という、とある。菩薩戒を受け、利他の実践に励む者は、分々の菩薩といえるのである。なお大聖人は御義口伝に「菩薩とは仏果を得る下地なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり」(0783-第十三若親近法師速得菩薩道の事)と仰せになっている。

15章菩薩から二乗を除く理由を明かす 0434.010434.14

本文

  問うて云く二乗を除くの文如何、答えて云く梵網経に菩薩戒を受くる者を列ねて云く「若し仏戒を受くる者は国王・王子・百官・宰相・比丘・比丘尼・十八梵天・六欲天子・庶民・黄門・婬男・婬女・奴婢・八部・鬼神・金剛神・畜生・乃至変化人にもあれ但法師の語を解するは尽く戒を受得すれば皆第一清浄の者と名く」文、此の中に於て二乗無きなり、方等部の結経たる瓔珞経にも亦二乗無し、問うて云く二乗所持の不殺生戒と菩薩所持の不殺生戒と差別如何、答えて云く所持の戒の名は同じと雖も持する様並に心念永く異るなり、故に戒の功徳も亦浅深あり、問うて云く異なる様如何、答えて云く二乗の不殺生戒は永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し亦仏菩薩と成らんと思わず但灰身滅智の思を成すなり、譬えば木を焼き灰と為しての後に一塵も無きが如し故に此の戒をば瓦器に譬う破れて後用うること無きが故なり、菩薩は爾らず饒益有情戒を発して此の戒を持するが故に機を見て五逆十悪を造り同く犯せども此の戒は破れず還つて弥弥戒体を全くす、故に瓔珞経に云く「犯すこと有れども失せず未来際を尽くす」文、故に此の戒をば金銀の器に譬う完くして持する時も破する時も永く失せざるが故なり、問うて云く此の戒を持する人は幾劫を経てか成仏するや、答えて云く瓔珞経に云く「未だ住前に上らざる○若は一劫二劫三劫乃至十劫を経て初住の位の中に入ることを得」文、文の意は凡夫に於て此の戒を持するを信位の菩薩と云う、然りと雖も一劫二劫乃至十劫の間は六道に沈輪し十劫を経て不退の位に入り 永く六道の苦を受けざるを不退の菩薩と云う未だ仏に成らず還つて六道に入れども苦無きなり。

現代語訳

 問うて言う。菩薩から二乗を除くという文はあるのか。

 答えて言う。梵網経に菩薩戒を受ける者を列ねて「もし仏の戒を受ける者は、国王・王子・百官・宰相・比丘・比丘尼・十八梵天・六欲天子・庶民・黄門・婬男・婬女・奴婢・八部・鬼神・金剛神・畜生、その他の変化人であっても、ただ法師の言葉すべて戒を受けることができるならば、みな第一清浄の者と名づける」とある。このなかにおいて二乗は挙げられていない。方等部の結経である瓔珞経にもまた二乗は挙げられていない。

 問うて言う。二乗の持つところの不殺生戒と菩薩が持つところの不殺生戒と差別はどうか。

 答えて言う。持つところの戒は同じであっても、持ち方や心念が永く異なるのである。ゆえに戒を持つ功徳にもまた浅深がある。

 問うて言う。どのように異なるのか。

 答えて言う。二乗の持つ不殺生戒は、永く六道に還ろうと思わないから、化導の心がなく、また仏や菩薩にもなろうと思わず、ただ灰身滅智の思いだけである。たとえば木を焼いて灰となった後には一塵もないようなものである。ゆえにこ戒を瓦の器にたとえるのである。壊れた後には用いることはないからである。菩薩はそうではない。饒益有情戒を持つことを発して、この戒を持つので、衆生の機をみて五逆・十悪を犯した者と同じように犯したとしても、この戒は破れず、かえってますます戒体をますのである。ゆえに瓔珞経に「犯すことがあったとしても、失なわれない。未来永劫に尽きない」とある。ゆえにこの戒を金銀の器にたとえる。完全なものとして持っているときも、壊した場合も、永く価値は失われないからである。

 問うて言う。この戒を持する人は、どれほどの劫を経たら成仏するのか。 

 答えて言う。瓔珞経に「未だ初住の位に上がらない前、○、もしくは一劫・二劫・三劫そして十劫を経て、初住の位のなかに入ることができるのである」とある。文の意は、凡夫の身において、この戒を持つのを十信の位の菩薩というのである。しかしながら、一劫・二劫そして十劫の間は六道の境界に深く沈んでおり、十劫を経て不退の位に入り、永く六道の苦悩を受けないのを、不退の菩薩という。いまだ仏にならず、かえって六道に入るのであるが、苦悩はないのである。

講義

 菩薩のなかから二乗は除くとした権大乗経の文証と道理を明かされている。
 梵網経で菩薩戒を受ける者を挙げた文に「天界・人界の衆生や鬼神、畜生など法師の教えが分かる者はすべて菩薩戒を受けることができて、第一清浄の者という」とあるなかで二乗が挙げられていない、とされている。また、瓔珞経にも、菩薩戒を受けた者のなかに二乗が挙げられていないことを明かされている。
 二乗が菩薩戒を受けないということは、二乗は小乗の戒を持って二乗の低い悟りに入り、成仏を願わないからである。例えば大集経巻十三では「二種の人有って、必ず死するも治せず、畢竟恩を知り恩を報ずる能わず、一に声聞、二に縁覚なり。善男子、譬えば人有って深坑に墜堕せんに、是の人は自利利他する能わざる如く、声聞縁覚も亦復是くの如し。解説の坑に堕ちて自利及以び利他する能わざるなり」と説いている。
 そのことを、次に、二乗の持つ不殺生戒と、菩薩の持つ不殺生戒の違いを示されている。
 初めに、不殺生戒という名は同じであっても、その持ち方と心の在り方が二乗と菩薩とでは根本的に異なっているので、戒を持つ功徳にも浅深がある、と指摘されている。
 二乗は六道の境界から離れて、二度と還らないことが目的なので、六道の衆生を化導して救おうという利他の心が少しもない。また仏や菩薩になろうとも思わず、ただ六道の煩悩を断って無余涅槃の悟りに入り、再び三界に生れないために、一切の苦や煩悩が生ずる拠りどころである色心を滅したいと思うばかりなのである。
 それは、木を焼いて灰にしてしまえば何も残らないようなものであり、そこから、二乗の戒は瓦器すなわち素焼きの土器と同じで、一度割れたら用いることができない。と破折されている。瓦器戒のたとえは、清浄毘尼方広経に説かれており、一度壊れると補修できない瓦器を声聞に、破れても補修できる金器・銀器を菩薩に譬えて、二乗を呵責したのである。
 それに対して菩薩は、一切衆生を利益していく摂衆生戒を持っているので、衆生を化導するために五逆罪や十悪を犯すことがあっても、菩薩の戒は破れることはなく、かえって戒の働きは全うされる、とされている。
 そのことは、瓔珞経には「たとえ犯すことがあっても、戒の働きは失われず、未来際までも 功徳は尽きない」と説いている。すなわち金や銀で作られた器は、壊れたとしても価値が失われないように、菩薩の戒は、持っても破れても、その功徳が永く失われることはない、とされているのである。
 次に、菩薩戒を持った者は、どれほどの劫を経れば成仏できるのか、という問いを設けられている。爾前経においては、菩薩は長い劫の間修行を経て成仏するとされていることによる。
 それに対して、瓔珞経の「まだ初住の位に上るまえの、一劫・二劫・三劫、ないし十劫を経て、初住の位のなかに入ることができる」との文を引かれている。つまり、凡夫の身で菩薩の戒を持つ者は、菩薩の五十二位のなかで、初めの十信の位を菩薩といい、一劫から十劫までの間は六道の世界に沈んで輪廻するが、十劫を経て十住位の最初の発心住に入ると、一分の中道実相の理を証得し、正念にとどまって六道の苦を受けることがなく、やがて必ず成仏の境界に至るので不退の菩薩という、と仰せである。
 そして、この不退の菩薩は、まだ仏ではないが、還って六道に生れたとしても六道の苦を受けることはない、とされている。
 以上は、権大乗教の新説によられたものであることはいうまでもない。

16章仏界の因縁を明かす 0434.150435.01

本文

  第十に仏界とは菩薩の位に於て四弘誓願を発すを以て戒と為す三僧祇の間六度万行を修し見思・塵沙・無明の三惑を断尽して仏と成る、故に心地観経に云く「三僧企耶大劫の中に具に 百千の諸の苦行を修し功徳円満にして法界に遍く十地究竟して三身を証す」文、因位に於て諸の戒を持ち仏果の位に至つて仏身を荘厳す三十二相・八十種好は即ち是の戒の功徳の感ずる所なり、但し仏果の位に至れば戒体失す譬えば華の果と成つて華の形無きが如し、故に天台の梵網経の疏に云く「仏果に至つて乃ち廃す」文、

現代語訳

 第十に仏界とは、菩薩の位において四弘誓願を発すことをもって戒とし、三僧祇劫の間、六度万行を修行し、見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を断じ尽くして仏と成るのである。ゆえに心地観経に「三僧企耶大劫の間、百千の諸の苦行を修した功徳は円満にして法界に遍く、十地の位に究竟に達して三身を証得する」とある。因位において、もろもろの戒を持ち、仏果の位に至って仏身を荘厳する。三十二相・八十種好はこの戒の功徳を感ずるところである。ただし仏果の位に至れば戒体は失われる。たとえば華の果となれば、華の形がなくなるようなものである。ゆえに天台大師の梵網経の疏に「仏果に至るとは廃するのである」とある。

講義

 十界のなかで尊極の境界である仏界の因縁が明かされている。
 仏界とは、仏の境界のことで、宇宙・生命の実相を悟った境地をいう。九界の衆生も、本来、仏界を具えている。成仏とは、衆生の生命に内在している仏界を正法によって開き顕すことである。
 大聖人は、観心本尊抄で「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241-15)と仰せになっている。また日寛上人は、「妙楽云く『仏界の心強きを名づけて仏界と為し、悪業深重なるを名づけて地獄と為す』云云。既に法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と述べられている。
 ただしここでは、爾前経の義によって、菩薩戒を持った結果としての仏果が示されている。
 菩薩の位において、一切衆生を救い、一切の煩悩を断ち、仏の法を究め、無上の悟りを得ようと四弘誓願を発すのを戒として、三阿僧祇劫、あるいは百大劫という長い間、六波羅蜜の修業を行じて、見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を断じ尽くした結果、仏と成るのである、とされている。これを、歴劫修行とも、歴劫迂回ともいい、小乗の菩薩は三僧祇劫、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多俱低劫等と、さまざまに修行の時節を定め、そうした長い期間、六波羅蜜等の菩薩道を行じて仏果を得るとされているのである。
 心地観経では、菩薩が三僧祇劫の間、数々の苦行を行じて、その功徳が満ちて、十地の位の第十地に登って、法身・報身・応身の三身、すなわち仏身を証得するのであるとされ、因位、すなわち菩薩が仏果を得るための修行の位において諸戒を持った功徳が、仏となった時には仏身を荘厳して、三十二相八十種好となるのである、とされている。
 三十二相八十種好とは、仏の相好ともいい、仏の身に具わる勝れた特質、特性を具体的に表したもので、衆生の好むところに随って相好を示し、その勝れていることによって仏への渇仰の心を起こさせて化導したのである。大智度論には、三十二相は、菩薩が三大阿僧祇劫の後、更に百大劫の間修行した福業によって得られたと説いており、一つ一つの相についてそれぞれ百福を起こした結果である。百福を修行して一相を得る、と説いている。
 また、仏果を得たときには、戒の働きをする本体は失われるのであり、それはちよぅど、花が咲いて果実が実れば花の形は失われるようなものである、とされる。そのことを天台大師は梵網経の疏に、仏果に至れば戒体は廃される、と述べている。
 以上は爾前経の所説であり、法華経の開経である無量義経では、こうした爾前教の歴劫修行では永く成仏はできないと断破して、法華経において、四仏知見を説いて衆生の心に仏界が本来、具わっていることを示し、この自身の仏性を悟ることによって即身成仏することを明確にしている。
 このゆえに前述のように「法華経を信ずる心強き」によって成仏できるのであり、末法では、大聖人が「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と明かされているように、三大秘法の御本尊を受持することによって、即身成仏できるのである。

17章七逆と二乗に菩薩戒を許さぬ理由 0435.010435.13

本文

  問うて云く梵網経等の大乗戒は現身に七逆を造れると並に決定性の二乗とを許すや、答えて云く梵網経に云く「若し戒を受けんと欲する時は師問い言うべし汝現身に七逆の罪を作らざるやと、菩薩の法師は七逆の人の与に現身に戒を受けしむることを得ず」文、此の文の如くんば七逆の人は現身に受戒を許さず、大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙の五欲を受くるとも菩薩戒に於ては猶犯と名けず若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障ず若し自利の心を起さば是れ大菩提の障なり」文、此等の文の如くんば六凡に於ては菩薩戒を授け二乗に於ては制止を加うる者なり、二乗戒を嫌うは二乗所持の五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌うに非ず彼の戒は菩薩も持す可し但二乗の心念を嫌うなり、夫れ以みれば持戒は父母・師僧・国王・主君の一切衆生三宝の恩を報ぜんが為なり、父母は養育の恩深し一切衆生は互に相助くる恩重し国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり、此に依つて善を修すれば恩重し主君も亦彼の恩を蒙りて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養う、設い爾らずと雖も一身を顧る等の恩是重し師は亦邪道を閉じ正道に趣かしむる等の恩是深し仏恩は言うに及ばず是くの如く無量の恩分之有り、而るに二乗は此等の報恩皆欠けたり故に一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり一念も菩薩の心を起すは一切諸仏の後心の功徳を起せるなり、已上四十余年の間の大小乗の戒なり、

現代語訳

 問うて言う。梵網経等の大乗戒は、現身に七逆罪を犯したのと、ならびに決定性の二乗ともに戒を受けることを許すかどうか。

 答えて言う。梵網経に「もし戒を受けたいと願う時は、師は問いかけるべきである。汝は現身に七逆の罪を作ったことはないのか、と。菩薩の法師は、七逆罪を犯した人のためには現身に戒を受けることはできない」とある。この文によるならば、七逆罪を犯した人は現身に受戒は許されていない。大般若経には「もし菩薩はたとえ恒河沙劫の間、妙なる五欲を受けたとしても、菩薩戒においてはなお、犯とは名づけない。もし一念に二乗の心を起こすならば、すなわち犯と名づける」とある。大荘厳論に「常に地獄に居るといっても、大菩提の障りとならないが、もし自利を利益する心のみを起こすならば、これは大菩提の障りとなる」とある。これらの文によるならば、六道の凡夫においては菩薩戒を授け、二乗においては制止を加えるのである。二乗の戒を嫌うのは、二乗が持つところの五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌うのではない。それらの戒は菩薩も持つからである。ただ二乗の心根を嫌うのである。

 よくよく考えてみると、戒を持つのは父母・師僧・国王・主君の一切衆生・三宝の恩を報じようとするためである。父母は養育の恩が深い。一切衆生は互いに助ける恩が重い。国王は、正法をもって世を治めれば、自他ともに安穏である。これによって民は善を修めることができるのである。だからその恩は重い。主君もまた、その恩を受けて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養うことができる。たとえそうでなくても、一身を顧る等の恩は重い。師はまた、邪道を閉じて正道に赴かせる等の恩が重い。仏の恩は言うまでもないことである。このようにに無量の恩を受けているのである。しかるに二乗はこれらの報恩がみな欠けている。ゆえに一念でも二乗の心を起こすことは、十悪や五逆罪を犯すよりも過ぎたことになり、一念も菩薩の心を起こすことは、一切諸仏の後心の功徳を起こしたことになるのである。以上は四十余年の間の大乗教・小乗教のである。 

講義

 爾前経の義によると、七逆罪を犯した者と決定性の二乗は大乗菩薩戒を受けることができないことが明かされている。
 七逆とは、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五逆罪に、殺和尚・殺阿闍梨を加えた七つの大罪をいう。
 決定性の二乗とは、法相宗で説く五性のなかで、声聞・縁覚になることが決定していて永久に仏に成れないとされた種性をさし、定性声聞・定性縁覚ともいう。
 七逆の者については梵網経に、得度して戒を受けるときには、戒を授ける戒師が、汝は現世では七逆罪を犯したことはないかと問うべきであり、菩薩の法師は現世に七逆罪を犯した者には戒を受けさせてはならない、と説かれている。したがって、七逆罪を犯した者は、大乗の菩薩戒を受けることは許されなかった。
 二乗についても、経論を引かれて、菩薩戒を受けられないことを明かされている。
 大般若経に、菩薩がたとえ恒河の沙の数ほどの劫の間、妙なる五欲を受けたとしても、菩薩戒を破ったとはいわないが、もしその一念に二乗の心を起こせば、それは戒を破ったことになる、と説かれている。
 「二乗の心」とは、利他の実践を忘れて、自己の解脱に執着する一念をいう。自利のみを願い、利他の心を失えば、成仏はできないので、菩薩にとっては破戒となるのである。
 馬鳴の著とされる大荘厳論には、常に地獄の境界にいても菩薩の障りにならないが、自利の心を起こせば菩薩の障りである、と説かれている。「自利の心」とは、自己の解説のみを願う心であり、二乗の心と同意である。菩薩が自利の心を起こした場合には、成仏の障りとなるのである。
 この二文によれば、六道の凡夫には菩薩戒を授けるが、二乗は制止して授けないということである。菩薩が、「二乗の心」「自利の心」を起こした場合には、二乗は境界となり、成仏はできない。その意から、二乗には、菩薩戒を授けても意味がないので受戒しないのである、とされているのであろう。
 また、このように二乗を嫌うのは、二乗が持っている戒を嫌うのではなく、二乗の心念を嫌うのであり、二乗は自己の解説のみを願って、父母等の恩を報じようとしないからである、と述べられている。
 戒を持ち、仏道修行に励むのは、その功徳をもって、父母・師匠・国王・主君・一切衆生・三宝の恩を報ずるためである。なぜなら、父母には養育された大恩があり、一切衆生には互いに相助け合う恩があり、国王には正法によって世を安穏に治め、民はそのもとで善根を修することができるという恩がある。主君は、その恩によって父母・妻子・一族・家来・牛馬等を養うことができるし、そうでなくても一身に受ける恩は重い。師匠には、誤った道をふさいで、正道に導いてくれる恩がある。仏の恩はいうまでもない。
 このように、一個の人間は、周囲から無量の恩を受けることによって、生存し生活することもできれば、人間らしく成長することもできるのである。したがって、その恩を知って、恩に報いようとするのが、人間として当然の行為といえる。ところが、二乗は自利のみを願って、報恩の念が全く欠けているのである。
 したがって、一念に二乗の心を起こすことは、十悪や五逆を犯すよりも、成仏の道を閉ざすことになり、一念に菩薩の心を起こすことは、一切の諸仏の修行の進んだ功徳を起こすことになるのである。
 以上は、爾前経の大小の戒の義によるのである。
 なお、こうした二乗の不知恩ということについて、開目抄にも「仏法を学せん人・知恩報恩なかるべしや、仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をいたすべし、其の上舎利弗・迦葉等の二乗は二百五十戒三千の威儀・持整して味・浄・無漏の三静慮・阿含経をきわめ三界の見思を尽せり知恩報恩の人の手本なるべし、然るを不知恩の人なりと世尊定め給ぬ、其の故は父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり、二乗は自身は解脱と・をもえども利他の行かけぬ設い分分の利他ありといえども父母等を永不成仏の道に入るれば・かへりて不知恩の者となる」(0192-02)と仰せになっている。
 しかしながら二乗の不成仏は二乗だけのことにとどまらない。十界互具という観点からすれば、菩薩の生命にも、「二乗の心」「自利の心」があり、二乗の境界が具わっているので、二乗が成仏できないとすれば、二乗の境界を具えている菩薩も成仏できないことになるのであり、更には、九界の衆生も皆、成仏できないことになえる。
 ゆえに、二乗を永不成仏と説く爾前経では、菩薩をはじめ九界の衆生は、たとえ菩薩戒を持とうとも、だれも成仏はできないのである。
このことを日寛上人は、「菩薩に二乗を具うれば所具の二乗、仏に作らざる則は能具の菩薩、豈、作仏せんや。故に十法界抄に『然るに菩薩に二乗を具うる故に二乗の沈空尽滅するは、即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり』云云。菩薩既に爾り、凡夫も亦然なり、故に九界も同じく作仏せざるなり」と述べられている。

18章法華経の相待妙の戒を示す 0435.130436.15

本文

  法華経の戒と言うは二有り、一には相待妙の戒・二には絶待妙の戒なり、先ず相待妙の戒とは四十余年の大小乗の戒と法華経の戒と相対して爾前をソ戒と云い法華経を妙戒と云うて諸経の戒をば未顕真実の戒・歴劫修行の戒・決定性の二乗戒と嫌うなり、法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌わざる戒等を相対してソ妙を論ずるを相対妙の戒と云うなり。

 問うて云く梵網経に云く「衆生・仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る位大覚に同じ已に実に是諸仏の子なり」文。華厳経に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」文、大品経に云く「初発心の時即ち道場に坐す」文、此等の文の如くんば四十余年の大乗戒に於て法華経の如く速疾頓成の戒有り何ぞ但歴劫修行の戒なりと云うや、答えて云く此れに於て二義有り一義に云く四十余年の間に於て歴劫修行の戒と速疾頓成の戒と有り法華経に於ては但一つの速疾頓成の戒のみ有り、其の中に於て四十余年の間の歴劫修行の戒に於ては法華経の戒に劣ると雖も四十余年の間の速疾頓成の戒に於ては法華経の戒に同じ、故に上に出す所の衆生仏戒を受れば即ち諸仏の位に入る等の文は法華経の須臾聞之・即得究竟の文に之同じ、但し無量義経に四十余年の経を挙げて歴劫修行等と云えるは四十余年の内の歴劫修行の戒計りを嫌うなり速疾頓成の戒をば嫌わざるなり、一義に云く四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒・法華経の戒は速疾頓成の戒なり、但し上に出す所の四十余年の諸経の速疾頓成の戒に於ては凡夫地より速疾頓成するに非ず凡夫地より無量の行を成じて無量劫を経最後に於て凡夫地より即身成仏す、故に最後に従えて速疾頓成とは説くなり、委悉に之を論ぜば歴劫修行の所摂なり、故に無量義経には総て四十余年の経を挙げて仏・無量義経の速疾頓成に対して宣説菩薩歴劫修行と嫌いたまえり、大荘厳菩薩の此の義を承けて領解して云く「無量無辺・不可思議阿僧祇劫を過れども終に無上菩提を成ずることを得ず、何を以ての故に菩提の大直道を知らざるが故に 険逕を行くに留難多きが故に、乃至大直道を行くに留難無きが故に」文、若し四十余年の間に無量義経・法華経の如く速疾頓成の戒之れ有れば仏猥りに四十余年の実義を隠し給うの失之れ有り云云、 二義の中に後の義を作る者は存知の義なり、相待妙の戒是なり、

現代語訳

 法華経の戒というのは、二つある。一には相待妙の戒、二には絶待妙の戒である。まず相待妙の戒とは、四十余年の間の大乗教・小乗教の戒と法華経の戒とを相対して、爾前経の戒を麤戒といい、法華経の戒を妙戒といって、諸経の戒を未顕真実の戒、歴劫修行の戒、決定性の二乗の戒と嫌い、法華経の戒は真実の戒、速疾頓成の戒、二乗の成仏を嫌わない戒等と相対して麤と妙を論ずるのを相対妙の戒というのである。

 問うて言う。梵網経には「衆生が仏戒を受けるならば、諸仏の位に入る。位は大覚と同じであり、すでに全くこれ、諸仏の子である」とある。華厳経には「初めて菩提心を発した時に、即座に正覚を成じたのである」とある。大品般若経には「初めて菩提心を発した時に、即座に道場に座した」とある。これらの文によるならば、四十余年の大乗戒において、法華経とおなじような速疾頓成の戒がある。どうしてただ歴劫修行の戒があるというのか。

 答えて言う。これにおいて二義がある。一義には、四十余年の間においては歴劫修行の戒と速疾頓成の戒とがあるが、法華経においてはただ一つの速頓成の戒のみがある。そのなかにおいて、四十余年の間の歴劫修行の戒においては法華経の戒に劣るけれども、四十余年の間の速疾頓成の戒においては法華経の戒と同じである。ゆえに前に記したところの「衆生が仏戒を受けなければ。即座に諸仏の位に入る」等の文は、法華経の「須臾も之を聞かば、即ち究竟することを得ん」の文と同じである。ただし無量義経に四十余年の経を挙げて、歴劫修行である等と言っているのは四十余年のうちの歴劫修行の戒だけを嫌っているのであって、速疾頓成の戒は嫌わないのである。一義には、四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒であり、法華経の戒は速疾頓成の戒である。ただし前に記したところの四十余年の諸経の速疾頓成の戒においては、凡夫の位から速疾頓成するのではなく、凡夫の位から無量の行を成じて、無量劫を経て最後に凡夫の位から即身成仏するのである。ゆえに最後のところによって速疾頓成と説いたのである。詳しくこれを論ずるならば、歴劫修行に収まるのである。ゆえに無量義経には、すべての四十余年の経を挙げて、仏は無量義経の速疾頓成に対して「菩薩の歴劫修行を宣説せしかども」と嫌われたのである。大荘厳菩薩がこの義をうけて領解して言うには「法華経を聞かなければ無量無辺・不可思議阿僧祇劫を過ぎたとしても、ついに無上菩提を成ずることができない。なぜかといえば、菩提の大直道を知らないからであり、険しい道を行くには留難が多いからである。法華経を聞けば、大直道を行って留難がないからである」と。もし四十余年の間に無量義経や法華経のような速疾頓成の戒があるとするならば、仏はみだりに四十余年の実義を隠された失があることになる。二義のなかに後の義を立てるというのは世間でも知っている義である。以上が相待妙の戒である。

講義

 法華経の戒にも相対妙の戒と絶待妙の戒があるとされ、初めに相対妙の戒が明かされている。
 相対妙とは、他と相対して、他が麤であるのに対して、こちらが妙であると比較して論じていく教判をいう。天台大師が法華玄義で、法華経以外の諸経と法華経とを比較相対して、他の諸経は麤であり、法華経は妙であることを、相対妙としたことによっている。相対妙の戒とは、法華経の戒と、爾前大小乗の戒とを相対して、爾前の戒を麤戒といい、法華経の戒を妙戒として、劣る諸戒を捨てて、法華経の妙戒を選ぶことをいう。爾前経の戒は歴劫修行の戒であり、一切衆生が皆成仏できる麤として嫌うのである。それに対して法華経の戒は、二乗にも成仏を許す戒であり、速疾頓成・即身成仏の戒であるとして、爾前の戒と相対して妙戒とするのである。
 この仰せに対して、梵網経や華厳経等の大乗の諸経にも、法華経と同じ速疾頓成の戒が説かれているのに、なぜ歴劫修行の戒というのか、という問いを設けられている。
 梵網経には、衆生が仏戒を受ければ、すなわち諸仏の位に入り、大覚の位と同じである、と説かれている。華厳経には、初発心の時に正覚を成ずる、と説かれている。また、大品経には、初発心の時に道場に座す、とある。これらの経文は、衆生が初めて発心し戒を受けたときに、直ちに仏の悟りを得られると説いているので、速疾頓成の戒ではないか、という疑問である。
 速疾頓成とは、速やかに成仏することをいう。速疾は迂回に対する語ですみやかなこと、頓成は漸成に対する語で直ちに成仏することをいう。歴劫修行とは、爾前の諸経の菩薩や二乗が、無量劫にわたって修行することをいう。
 この疑問に答えられて、爾前経を歴劫修行とするのに二義がある、とされている。
 一つの義では、爾前経の戒には歴劫修行の戒と速疾頓成の戒とがあるのに対して、法華経には速疾頓成の戒しかなく、歴劫修行の戒は法華経の戒に劣るが、爾前経で説かれる速疾頓成の戒は法華経と同じである。
 したがって、梵網経などの文は、法華経法師品の「須臾も之を聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得んが故なり」と速疾頓成を説いた文と同意であるとする。
 ゆえに無量義経で「四十余年には末だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と説き、また「方等十二部経、摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せし」と述べられているのは、爾前の諸経のなかの歴劫修行の戒だけを嫌っているのであって、爾前経に説かれた即身成仏の義まで嫌っているのではない、ということである。
 もう一つの義では、爾前経で説かれたのは、すべて歴劫修行の戒であって、法華経の戒だけが速疾頓成の戒である、とするものである。
 すなわち、爾前の諸経に説かれる速疾頓成の戒とは、凡夫の位から速やかに成仏するのではなく、凡夫の位から無量劫の間の修行を経て、最後に凡夫の位から即身成仏するのであり、厳密にいえば歴劫修行に含まれることになるのである。ゆえに、無量義経では四十余年の爾前経を、無量義経の速疾頓成に対して、すべて歴劫修行の法であるとして嫌い捨てたのである、とする。
 しかも無量義経では、その後に、大荘厳菩薩が、「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん、菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故に」と述べ、それに対して釈尊は、「我是の経を説くこと甚深甚深真実甚深なり。所以は何ん、衆をして疾く無上菩提を成ぜしむるが故に、一たび聞けば能く一切の法を持つが故に、諸の衆生に於て大に利益するが故に、大直道を行じて留難なきが故に」と説いている。すなわち、無量劫の間、歴劫修行に励んだとしても即身成仏できないことが重ねて説かれ、無量義経(ここでは法華経と読むべきである)のみが速疾頓成であることを明かしているのである。もしも爾前の諸経に速疾頓成が説かれているとしたら、それを釈尊自身が覆いかくしたことになるが、そのようなことはありえないのである。したがって、爾前の諸経には、真の速疾頓成は説かれていないことが明らかである。
 以上の二つの義のうち、後の義が一般的であり、以上が相対妙の戒である。

19章法華経の絶待妙の戒を明かす 0436.150437終り

本文

  次に絶待妙の戒とは法華経に於ては別の戒無し、爾前の戒即ち法華経の戒なり其の故は爾前の人天の楊葉戒・小乗阿含経の二乗の瓦器戒・華厳・方等・般若・観経等の歴劫菩薩の金銀戒の行者法華経に至つて互に和会して一同と成る、所以に人天の楊葉戒の人は二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を具し菩薩の金銀戒に人天の楊葉・二乗の瓦器を具す余は以て知んぬ可し、三悪道の人は現身に於て戒無し過去に於て人天に生れし時人天の楊葉・二乗の瓦器菩薩の金銀戒を持ち退して三悪道に堕す、然りと雖も其の功徳未だ失せず之有り三悪道の人・法華経に入る時其の戒之を起す故に三悪道にも亦十界を具す、故に爾前の十界の人法華経に来至すれば皆持戒なり、故に法華経に云く「是を持戒と名く」文、安然和尚の広釈に云く「法華に云く能く法華を説く是を持戒と名く」文、爾前経の如く師に随つて、戒を持せず但此の経を信ずるが即ち持戒なり、爾前の経には十界互具を明さず故に菩薩無量劫を経て修行すれども二乗・人天等の余戒の功徳無く但一界の功徳を成ず故に一界の功徳を以て成仏を遂げず、故に一界の功徳も亦成ぜず、爾前の人・法華経に至りぬれば余界の功徳を一界に具す、故に爾前の経即ち法華経なり法華経即ち爾前の経なり、法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず是を妙法と言う、此の覚り起りて後は行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり、故に法華経に云く「声聞の法を決了すれば是諸経の王なり」文、阿含経即ち法華経と云う文なり、「一仏乗に於て分別して三と説く」文、華厳・方等・般若即ち法華経と云う文なり、「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず」文、一切の外道・老子・孔子等の経は即ち法華経と云ふ文なり、梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず二には戒の功徳に仏果を具せず三には彼は歴劫修行の戒なり是くの如き等の多くの失有り、法華経に於ては二乗七逆の者を許す上・博地の凡夫・一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり。

       正元二年庚申四月二十一日                   日 蓮 花押

現代語訳

 次に絶待妙の戒とは、法華経においては別の戒があるわけではない。爾前経の戒がそのまま法華経の戒である。そのゆえは、爾前経に説く人界・天界の楊葉戒、小乗教である阿含経に説く二乗の瓦器戒、華厳経・方等経・般若経・観無量寿経等に説く歴劫修行の菩薩の金銀戒、これらの戒の行者は法華経に至っては、互いに和会して一つになるのである。ゆえに人界・天界の楊葉戒の人は、二乗の瓦器戒、菩薩の金銀戒を具え、菩薩の金銀戒に人界・天界の楊葉戒、二乗の瓦器戒を具える。あとは推して知るがよい。三悪道の人は現身においては戒は持っていない。過去において人界・天界に生まれたとき、人界・天界の楊葉戒、二乗の瓦器戒、菩薩の金銀戒を持ち、後に破って三悪道に堕ちたけれども、持った時のその功徳は末だ失わずに有るので、三悪道の人は法華経に入るときに、過去の戒を呼び起こすために、三悪道にもまた十界を具えている。ゆえの爾前の十界の人が法華経にくればみな持戒の人である。法華経には「これを持戒と名づける」とある。安然和尚の広釈には「法華経には『能く法華経を説くこを持戒と名づける』とある」と釈している。爾前経のように、師に従って戒を持つのではなく、ただこの経を信ずるのが、すなわち持戒である。爾前の経には十界互具を明かしていない。ゆえに菩薩が無量劫を経て修行しても二乗や人界・天界等の余の戒の功徳はなく、ただ一界の功徳を成ずるだけであり、一界の功徳だけでは成仏は遂げられないから、結局一界の功徳もまた成ずることはできない。爾前の人が法華経に至るならば、余界の功徳を一界に具えるから、爾前の経はすなわち法華経であり、法華経はすなわち爾前の経である。法華経は爾前の経を離れず、爾前の経は法華経を離れない。これを妙法という。この覚り起こった後の行者は、阿含経などの小乗経を読んでも、すなわち一切の大乗経を読誦し、法華経を読んだ人となる。ゆえに法華経には「声聞の法を決定すれば、これ諸経の王である」とある。阿含経はすなわち法華経であるとう文である。また「一仏乗であるものを分別して三乗と説いた」とある。華厳経・方等経・般若経はすなわち法華経であるという文である。また「もし俗間の経書・治世の語言・資生の業などを説くもすべて正法に従う」とある。一切の外道・老子・孔子等の教えはすなわち法華経という文である。梵網経等の権大乗経の戒と法華経の戒とには多くの差別がある。一には権大乗経の戒二乗の者と七逆を犯した者には受戒を許していない。二には戒を持つ功徳に仏果を具えていない。三には歴劫修行の戒である。このように多くの失がある。法華経においては、二乗の者と七逆の者にも受戒を許し、そのうえ博地の凡夫が一生のうちに仏位に入り、妙覚位に至って、仏因仏果の功徳を具えることができるのである

      正元二年庚申四月二十一日                   日 蓮 花押

講義

 法華経は絶待妙の戒を明かされている。絶待妙とは、一切の比較相対して妙であることをいう。麤に対して妙というのではなく、麤とか妙とかいう絶対的な考え方を超えたところを絶待妙という。
 天台大師が、法華玄義において、法華経の法理から一切の教法を判釈すると、大乗と小乗、権教と実教の差別がなくなり、ことごとく大乗であり、真実の教えであると明かすことを絶待妙としたことによる。
 絶待妙の立場でいえば、法華経には爾前経と異なる別の戒は説かれていず、爾前経の戒がそのまま法華経の戒となる。それは、爾前経に説かれる、人界・天界の衆生が持つ五戒や十善戒、小乗の阿含経に説かれる二乗の瓦器戒、権大乗の諸経に説かれる歴劫修行の菩薩の持つ金銀戒等を持った行者が、法華経に至って相通じて一つになるからである、とされている。
 そのため、人界・天界の五戒・十戒を持った人は、二乗の瓦器戒や菩薩の金銀戒を持ったのと同じ功徳を具えることになり、菩薩の金銀戒を持った人は人・天・二乗を具えることになるのである。
 地獄・餓鬼・畜生の三悪道の衆生は、現在持っている戒はない。過去世において人界・天界に生まれたときに、人・天・二乗・菩薩の戒を持っていたが、退転して戒を破ったために三悪道に堕ちたのである。しかし、その持戒の功徳がまだ失われずに残っているので、法華経にあって過去の戒を呼びおこすのである。とされている。したがって、三悪道の衆生も、十界を具えているので、爾前経の十界の人が法華経へくれば、皆、持戒の人になるのである。
 法華経の宝塔品には「此の経は持ち難し。若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す、諸仏も亦然なり。是の如きの人は、諸仏の歎めたもう所なり。是れ則ち勇猛なり。是れ則ち精進なり。是れ戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」とある。すなわち、法華経を持つ者を戒を持つ者という、との意である。
 安然の普通授菩薩戒広釈には「法華に云く能く法華を説く是を持戒と名づく」とあり、法華経を説くことが戒を持つことになる、としている。この文のように、法華経では、爾前経のように師に随って戒を受けるのではなく、ただ法華経を信ずることが戒を持つことになるのである。
 爾前の諸経では、二乗作仏を説かず、十界互具を明かしていないので、菩薩が無量劫の間、修行したとしても、菩薩戒の功徳を受けるだけで、他の二乗や人界・天界の功徳は受けられず、成仏もできないことになり、結局は、真の菩薩戒の功徳も受けられないことになる。爾前経の人が、法華経にくれば、一界に十界の功徳を具えるので、爾前経はすなわち法華経であり、法華経はすなわち爾前教となるのである。そのように、法華経は爾前経を離れず、爾前経は法華経を離れないのを妙法というのである、とされている。
 このように、法華経が諸経に勝れているのは、一切の諸法は一つとして捨て去るものはなく、すべてが唯一の真実の分々の存在であるとする、開会の法門にある。爾前の諸経に説かれる法門も、妙法の一分であるとするのを絶待妙というのである。この開会の法門を悟れば、阿含部の小乗教を読誦したとしても、それはそのまま大乗経を読み、法華経を読むことになる。そして、法華経の法師品第十に、「若し是の深経の、声聞の法を決了する。是れ諸経の王なるを聞き、聞き已りて諦かに思惟せん」とある文を引かれて、阿含経が即法華経であるとする文証とされている。
 また、譬喩品第三の、「諸仏方便力の故に、一仏乗に於いて、分別して三と説きたもう」の文を引かれて、華厳・方等・般若部の諸経が即法華経であるという文証とされている。権大乗の諸経も、一仏乗の法を分別して三乗の法として説いたものであるので、法華経の一分となるのである。更に、法師功徳品第十九の、「若し俗間の経書、治世の言語、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」の文を引かれて、一切の外道や、儒教の老子・孔子の教説は、即法華経であるという文証である、とされている。ただしこれらは、いずれも法華経の立場で開会したうえであるといえることであって、外道や小乗・権大乗の諸経が、そのまま法華経になるわけではなく、「法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも南無阿弥陀仏並びに十方の諸仏の功徳を備えたり、譬えば如意宝珠の如し金銀等の財を備えたり、念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず、譬へば金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし、譬へば三千大千世界に積みたる金銀等の財も一つの如意宝珠をばかうべからず、設い開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり体内の実に及ばず」(127510)と仰せになっているように、開会した爾前教といって、法華経に劣ることは当然なのである。
次に、梵網経等に説かれる権大乗の戒と法華経の戒とには多くの差別があるとされ、権大乗の戒には、一つは二乗や七逆罪の者には受戒が許されず、二つには成仏の功徳が具わらず、三つにはあくまで歴劫修行の戒である、という欠陥があることをまとめて挙げられている。そして、それに対して法華経の戒は、二乗や七逆の者にも許し、そのうえに、最も機根の劣った凡夫でさえも、一生のうちに仏の位に至り、妙覚の悟りを得て、仏の因行と果徳の功徳を具えることができる、と述べられている。 
法華経には、円頓戒の法理は説かれているが、具体的な戒の在り方は説かれていないので、伝教大師は梵網経の三聚浄戒と十重禁戒、四十八軽戒を用いて円頓戒の戒相として、更に、法華経の一乗戒、三如来室衣座の戒、四安楽行の戒などを用いた。
 なお、日蓮大聖人は、四信五品抄において、「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」(0341-12)との伝教大師の末法燈明記の言葉を引かれて、末法は小乗・権大乗の戒は無益であると仰せられ、「受持即観心」といって妙法を受持することを戒とすることを教行証御書で「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1283-10)と明かされている。すなわち、末法においては、三大秘法総在の本門の本尊を受持することが持戒であり、これを金剛宝器戒というのである。この妙法受持のなかに一切の戒はすべて含まれるのであり、いかなる凡夫も「一生の中に仏位に入り妙覚に至って因果の功徳を具する」ことができるのである。これを観心本尊抄には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と仰せられているのである。