十法界明因果抄 04270437

 

第一章 十法界の名目を挙げる 0427.010427.02

本文

十法界明因果抄    文応元年五月    三十九歳御作   沙門 日蓮撰

  八十華厳経六十九に云く「普賢道に入ることを得て十法界を了知す」と、法華経第六に云く「地獄声・畜生声・餓鬼声・阿修羅声・比丘声・比丘尼声人道・天声天道・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声」と已上十法界名目なり。

現代語訳

 沙門の日蓮が撰した。

 八十華厳経の六十九に「普賢道に入ることができて、十法界を了知することができる」とあり、法華経巻六法師功徳品第十には「地獄の声・畜生の声・餓鬼の声・阿修羅の声・比丘の声・比丘尼の声(比丘・比丘尼は人道である)天の声(天道である)声聞の声・辟支仏の声・菩薩の声・仏の声とある。以上は十法界の名目である。

講義

 本抄は、文応元年(1260421日、日蓮大聖人が38歳の御時に鎌倉で御述作された御書である。
 大聖人は、正嘉元年(12578月の鎌倉大地震を機に、翌年の春に駿河国の岩本実相寺で大蔵経を閲覧され、立正安国論を撰述されて文応元年(1260716日に北条時頼に提出されている。
 この4月の時点で立正安国論は草案を完成されていたと想像されるが、本抄では、十法界の名目と、各界の因果を詳細に明かされ、とくに仏界については、爾前教と法華経の戒の違いを説き、法華経こそが即身成仏の教えであることを論じられており、立正安国論では“正法”が何であるかについては明示されていないが、法華経に“正法”があることを門下に示すために著されたとも拝される。
 初めに、華厳経・法華経の文を引いて、十法界の名目が明かされている。
 十法界とは、十界ともいい、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十種類の衆生の境界をいう。爾前経では、善悪の業によって、死後、来世に生じる世界として十界があると説かれたが、法華経では一人の生命が瞬間瞬間に顕す境界の違いであるとされている。摩訶止観では、この十界のおのおのの因果が混乱せずに境界が定まっているので十法界というとも、十界おのおのは皆、法華に属しているので十法界という、とも述べている。
 最初に引かれている八十華厳経とは、中国・唐代の実叉難陀訳の大方広仏華厳経八十巻のことで、中国・東晋代の仏駄跋陀羅訳の華厳経六十巻を六十華厳経・旧訳華厳経と呼ぶのに対して、八十華厳経・新訳華厳経といわれる。
 「普賢道に入ることを得て十法界を了知す」との文は、円融相即の法門を悟った者は、地獄界から仏界までの十法界とその因果を悟り知ることができる、という意である。この文を引かれているのは「十法界」という名目を明かされんがためであろう。
 次に、法華経の巻六・法師功徳品第十九の文を引かれているが、この文は法華経を受持・読・誦・解説・書写することによって六根清浄の功徳が得られることを明かした一節で「若し善男子・善女人此の経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せん、千二百の耳の功徳を得ん。是の清浄の耳っを以って、三千大千世界の、下阿鼻地獄に至り、上有頂に至る。其の中の内外の種種の所有る語言、音声・象声・馬声・牛声・車声・啼哭声・愁歎声・螺声・鼓声・鐘声・鈴声・笑声・語声・男声・女声・童子声・童女声・法声・非法声・苦声・楽声・凡夫声・聖人声・喜声・不喜声・天声・龍声・夜叉声・乾闥婆声・阿修羅声・迦楼羅声・緊那羅声・摩睺羅伽声・火声・水声・風声・地獄声・畜生声・餓鬼声・阿修羅声・比丘声・比丘尼声・天声・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声を聞かん。要を以て之を言わば、三千大千世界の中の、一切の内外の有らゆる諸の声、未だ天耳を得ずと雖も、父母所生の清浄の常の耳を以って、皆悉く聞き知らん。是の如く種種の音声を分別すとも、而も耳根を壊らじ」と耳根の功徳を説いた文の一部である。
 大聖人は、引用された文のなかで「比丘声・比丘尼声」に「人道」と注釈され、人界であることを示されている。比丘は男の出家、比丘尼は女の出家のことで、四衆の一つのなかで、人界とされたものと拝される。
 ここに挙げられたさまざまな声のうち、この十種の声を十法界の名目を示した文証とされているのは、十界のそれぞれについては爾前の諸経にもところどころに説かれているが、十界の名をすべて挙げた経文は他にみられないからであろう。
 十界については日寛上人が三重秘伝抄に「八大地獄に各々十六の別処あり、故に一百三十六、通じて地獄と号するなり。餓鬼は正法念経に三十六種を明かし、正理論に三種九種を明かす。畜生は魚に六千四百種、鳥に四千五百種、獣に二千四百種、合わせて一万三千三百種、通じて畜生界と名づくるなり。修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝に過ぎず。人は即ち四大州なり。天は即ち欲界の六天と色界の十八天と無色界の四天となり。二乗は身子・目連の如し。菩薩は本化・迹化の如し。仏界は釈迦・多宝の如し云々」と述べられている。これは、それぞれ定まった色心・境界・国土を有すると説かれた爾前経の立場で十界観を挙げられたものである。
 それに対して、法華経では一切衆生がことごとく成仏すると説き、天台大師はその法理を基礎に十界のおのおのが他の十界を具えているという十界互具・一念三千の法門を立てたのである。

第二章 地獄界の因縁を明かす 0427.030427.07

本文

  第一に地獄界とは観仏三昧経に云く「五逆罪を造り因果を撥無し大衆を誹謗し四重禁を犯し虚く信施を食するの者此の中に堕す」と阿鼻地獄なり・正法念経に云く「殺盗・婬欲・飲酒・妄語の者此の中に堕す」と<と大叫喚地獄なり・正法念経に云く「昔酒を以て人に与えて酔わしめ已つて調戯して之を翫び彼をして羞恥せしむるの者此の中に堕す」と叫喚地獄なり、正法念経に云く「殺生巻偸盗巻邪婬の者此の中に堕す」と衆合地獄なり、涅槃経に云く「殺に三種有り謂く下中上なり○下とは蟻子乃至一切の畜生乃至下殺の因縁を以て地獄に堕し乃至具に下の苦を受く」文。

現代語訳

 第一に地獄界とは、観仏三昧経に「五逆罪を犯し、因果の道理を無視し、大乗教を誹謗し、四重禁を犯し、人の布施を無にする者はこの中に堕ちる」とある。これは阿鼻地獄である。正法念経に「殺盗・婬欲・飲酒・妄語の者はこの中に堕ちる」とある。これは大叫喚地獄である。また正法念経に「昔、酒を人にすすめて、酔わせてから、からかいなぶって翫び、その人を辱めた者はこの中に堕ちる」とある。これは叫喚地獄である。また正法念経には「殺生・偸盗・邪婬の者はこの中に堕ちる」とある。これは衆合地獄である。涅槃経に「殺生には三種がある。下中上である。○。下とは蟻の子ないし一切の畜生である。乃至、下殺の因縁をもって地獄に堕ち、乃至、具に下の苦を受ける」とある。

講義

 以下、十界のそれぞれの因果が詳しく明かされていくのであるが、ここはまず地獄界に堕ちる因縁を明かされている。
 地獄とは、罪業の因によって受ける極苦の世界、また境界をいい、地獄の地とは最低という意味であり、獄とは繫縛不自在ということで、苦悩に縛られた不自由な状態・境界を意味している。地獄の種類について、爾前の諸経では八大地獄・八寒地獄・十六小地獄・百三十六地獄などが説かれている。
 観仏三昧経に挙げられている無間地獄の業因は①五逆罪を犯す②因果の道理を否定する③大乗教を誹謗する④四重禁を犯す⑤信施を無にする、の五つである。
 五逆罪とは、五種の最も重い罪のことで、これが業因となって必ず無間地獄の苦果を受けるので無間業とも五無間ともいう。五逆罪にも、小乗の五逆・大乗の五逆・提婆の五逆等の所説があるが、普通は父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より地を出す、破和合僧の五逆とされている。
 因果を墢無するとは、因果応報の道理を否定することをいう。撥無とは、排斥して信じないこと、仏法は、あらゆる現象は過去・現在・未来の三世にわたる因果律に貫かれていると説いているので、因果の道理を否定して信じないということは、仏法を否定することになるので地獄の業因となるのである。大乗大集地蔵十輪経巻七にも「因果を撥無すれば善根を断滅す」と説かれている。
 大乗教を誹謗することが堕地獄の業因となることは、次章で詳しく述べられている。
 四重禁とは、四重禁戒とも四波羅夷戒ともいい、比丘の受持すべき具足戒の一つで、殺生・偸盗・邪淫・妄語の四重戒を犯すことを禁じたものである。
 殺生とは、生きものを殺すことで、仏教では最も重い罪業の一つとされている。華厳経巻三十五には「殺生の罪は能く衆生をして地獄・畜生・餓鬼に堕せしむ、若し人中に生ずれば二種の果報を得、一には短命、二には多病なり」とある。
 偸盗とは、人の物を盗むこと、または盗人・盗賊のこと、邪淫とは、不正な男女関係を結ぶことをいう。妄語とは、偽りの言葉を言うこと、妄言ともいう。いずれも、十悪業の一つとされている。
 虚しく信施を食するとは、在家の信者が仏・法・僧の三宝に捧げた布施を、僧侶が法のためではなく、自己の欲望を満たすために用いることをいう。
 なお、顕謗法抄には、「業因を云わば五逆罪を造る人・此の地獄に堕つべし、五逆罪と申すは一に殺父・二に殺母・三に殺阿羅漢・四に出仏身血・五に破和合僧なり、今の世には仏ましまさず・しかれば出仏身血あるべからず、和合僧なければ破和合僧なし、阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし、但殺父・殺母の罪のみありぬべし、しかれども王法のいましめきびしく・あるゆへに 此の罪をかしがたし、若爾らば当世には阿鼻地獄に堕つべき人すくなし但し相似の五逆罪これあり木画の仏像・堂塔等をやきかの仏像等の寄進の所をうばいとり率兜婆等をきりやき智人殺しなんどするもの多し、此等は大阿鼻地獄の十六の別処に堕つべし、されば当世の衆生十六の別処に堕つるもの多きか又謗法の者この地獄に堕つべし」(0447-11)とあり、真言見聞には「阿鼻の業因は経論の掟は五逆・七逆・因果撥無・正法誹謗の者なり」(0142-05)と述べられている。
 次に、正法念経には、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語の者が地獄に堕ちるとあり、それは大叫喚地獄である、とされている。この五つは、五戒ともいい、小乗教では在家の男女が持つべき五種の戒が説かれている。この五戒を破る者は、大叫喚地獄の苦悩を受ける、とされているのである。
 なお、顕謗法抄には「殺生・偸盗・邪婬・飲酒の重罪の上に妄語とてそらごとせる者・此の地獄に堕つべし、当世の諸人は設い賢人・上人なんどいはるる人人も妄語せざる時はありとも妄語を・せざる日はあるべからず、設い日は・ありとも月は・あるべからず設い月は・ありとも年は・あるべからず設い年は・ありとも一期生・妄語せざる者はあるべからず、若ししからば当世の諸人・一人もこの地獄を・まぬがれがたきか」(0445-10)と述べられている。
 次に、正法念経には、酒を人に勧めて酔わせ、なぶってその人を辱めた者は地獄に堕ちるとされ、その地獄は叫喚地獄である、とされている。顕謗法抄には「殺生・偸盗・邪婬・飲酒の重罪の上に妄語とてそらごとせる者・此の地獄に堕つべし、当世の諸人は設い賢人・上人なんどいはるる人人も妄語せざる時はありとも妄語を・せざる日はあるべからず、設い日は・ありとも月は・あるべからず設い月は・ありとも年は・あるべからず設い年は・ありとも一期生・妄語せざる者はあるべからず、若ししからば当世の諸人・一人もこの地獄を・まぬがれがたきか」(0445-03)と述べられている。
 次に、正法念経には、殺生・偸盗・邪淫の者が地獄に堕ちるとされ、その地獄は衆合地獄である、とされている。
 顕謗法抄には「殺生・偸盗の罪の上に邪婬とて他人のつまを犯す者此の地獄の中に堕つべし」(0444-12)と述べられている。
 次に、涅槃経には、殺生に上・中・下の三種があり、蟻などをはじめ一切の畜生を殺すのは下殺であり、 顕謗法抄には、等活地獄の業因を「ものの命をたつもの此の地獄に堕つ螻蟻蚊モウ等の小虫を殺せる者も懺悔なければ必ず此の地獄に堕つべし」(0443-09)と明かされており、涅槃経の文は等活地獄の業因を明かした文としてひかれたのであろう。
 本抄では、八大地獄の幾つかを挙げて、そこに堕ちる因を明かされている。八大地獄とは、 等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・大阿鼻地獄の八つで等活から黒縄、衆合へと順に苦悩が深くなると説かれている。殺生の罪を犯した者が等活地獄に、殺生と偸盗を犯した者が黒縄地獄に、殺生・偸盗・邪淫を犯した者が衆合地獄に、殺生・偸盗・邪淫・飲酒を犯した者が叫喚地獄に、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語を犯した者が大叫喚地獄に、五戒を犯したうえに邪見の者が焦熱地獄に五戒を犯し邪見をもったうえに浄戒の比丘尼を犯した者は大焦熱地獄に、五逆罪と謗法の者が無間地獄に堕ちる、とされている。犯した罪業が重いものであるほど、それを業因として受ける苦悩も重く深くなっていくのが、因果の道理であることを示しているといえよう。
 主師親御書には「地獄と申すは八寒八熱乃至八大地獄の中に初め浅き等活地獄を尋ぬれば此の一閻浮提の下一千由旬なり、其の中の罪人は互に常に害心をいだけりもしたまたま相見れば猟師が鹿にあへるが如し各各鉄の爪を以て互につかみさく血肉皆尽きて唯残つて骨のみあり或は獄卒棒を以て頭よりあなうらに至るまで皆打ちくだく身も破れくだけて猶沙の如し、焦熱なんど申すは譬えんかたなき苦なり鉄城四方に回つて門を閉じたれば力士も開きがたく猛火高くのぼつて金翅のつばさもかけるべからず」(0388-15)と述べられている。ただし、このように苦悩を受ける特定の場所があって、罪業を造った者がそこに堕ちるという説き方は一つの譬喩であって、その本義はあくまでも身心に受ける苦悩の状態・境界を表しているのである。

第三章 謗法こそ堕地獄の業因と明かす 0427.080428.17

本文

  問うて云く十悪五逆等を造りて地獄に堕するは世間の道俗皆之を知れり謗法に依つて地獄に堕するは未だ其の相貌を知らざる如何、答えて云く堅慧菩薩の造・勒那摩提の訳・究竟一乗宝性論に云く「楽て小法を行じて 法及び法師を謗じ○如来の教を識らずして説くこと・修多羅に背いて是真実義と言う」文、此の文の如くんば小乗を信じて真実義と云い大乗を知らざるは是れ謗法なり、天親菩薩の説・真諦三蔵の訳・仏性論に云く「若し大乗に憎背するは此は是一闡提の因なり衆生をして此の法を捨てしむるを為ての故に」文、此の文の如くんば大小流布の世に一向に小乗を弘め自身も大乗に背き人に於ても大乗を捨てしむる是を謗法と云うなり、天台大師の梵網経の疏に云く「謗は是れ乖背の名・スベて是れ解・理に称わず言実に当らず異解して説く者を皆名けて謗と為すなり己が宗に背くが故に罪を得」文、法華経の譬喩品に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文、此の文の意は小乗の三賢已前・大乗の十信已前・末代の凡夫の十悪・五逆・不孝父母・女人等を嫌わず此等法華経の名字を聞いて或は題名を唱え一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し読誦し乃至亦上の如く行ぜん人を随喜し讃歎する人は法華経よりの外、一代の聖教を深く習い義理に達し堅く大小乗の戒を持てる大菩薩の如き者より勝れて往生成仏を遂ぐ可しと説くを信ぜずして還つて法華経は地住已上の菩薩の為・或は上根・上智の凡夫の為にして愚人・悪人・女人・末代の凡夫等の為には非ずと言わん者は即ち一切衆生の成仏の種を断じて阿鼻獄に入る可しと説ける文なり、涅槃経に云く「仏の正法に於て永く護惜建立の心無し」文、此の文の意は此の大涅槃経の大法世間に滅尽せんを惜まざる者は即ち是れ誹謗の者なり、天台大師法華経の怨敵を定めて云く「聞く事を喜ばざる者を怨と為す」文、謗法は多種なり大小流布の国に生れて一向に小乗の法を学して身を治め大乗に遷らざるは是れ謗法なり、亦華厳・方等・般若等の諸大乗経を習える人も諸経と法華経と等同の思を作し人をして等同の義を学ばしめ 法華経に遷らざるは是れ謗法なり、亦偶円機有る人の法華経を学ぶをも我が法に付けて世利を貪るが為に汝が機は法華経に当らざる由を称して此の経を捨て権経に遷らしむるは是れ大謗法なり、此くの如き等は皆地獄の業なり人間に生ずること過去の五戒は強く三悪道の業因は弱きが故に人間に生ずるなり、亦当世の人も五逆を作る者は少く十悪は盛に之を犯す亦偶後世を願う人の十悪を犯さずして善人の如くなるも自然に愚癡の失に依つて身口は善く意は悪しき師を信ず、但我のみ此の邪法を信ずるに非ず国を知行する人・人民を聳て我が邪法に同ぜしめ妻子・眷属・所従の人を以て亦聳め従え我が行を行ぜしむ、故に正法を行ぜしむる人に於て結縁を作さず亦民・所従等に於ても随喜の心を至さしめず、故に自他共に謗法の者と成りて修善・止悪の如き人も自然に阿鼻地獄の業を招くこと末法に於て多分之れ有るか。

現代語訳

 問うて言う。十悪や五逆罪等を犯して地獄は堕ちることは、世間の道俗も皆知っているが、謗法によって地獄へ堕ちるということは、未だその相貌を知らないがどうか。

 答えて言う。堅慧菩薩の造で勒那摩提の訳の究竟一乗宝性論には「願って小乗の法を修行して、大乗の法及び法師を謗り、○、如来の教えを識らないで、法を説くことは修多羅に背き、しかもこれが真実義であると言う」とある。この文のとおりならば、小乗教を信じて真実義でありと言い、大乗教を知らないことは、これ謗法である。天親菩薩が説き、真諦三蔵が訳した仏性論には「大乗教を憎み背くとは、これ一闡提の因である。衆生にこの法を捨てさせてしまうからである」とある。この文のとおりであるならば、大乗教と小乗教の流布の世に、ただ小乗教を弘め、自身も大乗教に背き、人にも大乗教を捨てさせることを謗法というのである。天台大師の梵網経の疏には「謗はこれ乖背の名である。解釈が道理にかなわず、言うことが真実ではなく、異なった解釈をして説く者を、皆名づけて謗というのである。自分の宗に背くために罪を得るのである」とある。法華経の譬喩品第三には「若し人が法華経を信じないで毀謗するならば、一切世間の仏になる種を断つことになる。…その人は命終えて阿鼻地獄に入るであろう」とある。この文の意は“小乗教の三賢以前の者、大乗教の十信以前の者、末代の凡夫の十悪や五逆罪を犯した者、父母に対して不孝の者、女人等を嫌うことなく、これらの者が法華経の名字を聞いて、あるいは題名を唱え、一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し、読誦し、…また上のように修行する人を随喜し讃歎する人は、法華経よりの外の一代の聖教を深く習って、その義理に通達し、堅く大乗・小乗の戒律を持つ大菩薩のような者よりも勝れて、往生成仏を遂げることができる”と説くのを信じないで、かえって法華経は十地・十住以上の菩薩のためや、上根・上智の凡夫のための経であり、愚人・悪人・女人・末代の凡夫等のための経ではないとう者は、一切衆生の成仏の種を断って、阿鼻地獄に入るのであると説かれた文である。

 涅槃経には「仏の正法を永く護惜建立する心がない」とある。この文の意は、この大涅槃経でいう大法が世間に滅し尽くそうとしているのを惜しまない者は、すなわちこれ誹謗の者である。天台大師は法華経の怨敵を定めて「法を聞く事を喜ばない者を怨というのである」と言われている。謗法は多種がある。大乗教・小乗教が流布している国に生まれて、ひたすら小乗の法ばかりを学び、身を治め、大乗教に遷らないのは、謗法である。また華厳経・方等経・般若経等の諸大乗経を習学する人も、諸経と法華経は等同であると思い、人にも等同であるとの義を学ばせ、法華経に遷らないのは謗法である。また、たまたま円教を受け入れる機根の者が法華経を学ぶのを、自分の法に引きつけて世法の利益を貪るために、汝の機根は法華経に適しないといって、法華経を捨てさせて権経に遷らせるのは、これ大謗法である。これらのことは、皆地獄へ堕ちる業因である。人間に生まれることは、過去に持った五戒の力が強く、三悪道に堕ちる業因が弱いから人間に生まれるのである。人間に生れることは、過去に持った五戒の力が強く、三悪道に堕ちる業因が弱いから人間に生れるのである。また、今の世の人も、五逆罪を犯す者は少なく、十悪は盛んにこれを犯している。たまたま、後世を願う人が十悪を犯さないで、善人のようであっても、自然に愚癡の失によって、身と口は善いが、意は悪い師を信じている。ただ自分のこのみの邪法を信ずるだけではなく、国を治める人が、人民をすすめて邪法に同意させ、また、その妻子や眷属、所従の人にすすめ従わせて、自分と同じ邪法を修行させようとして、正法を修行させようとする人とは縁を結ばず、また民や所従等にも正師に対して随喜の心を起こさせない。このため、自他ともに謗法の者となって、善を修し、悪を止めているようにみえ人も、自然に阿鼻地獄に堕ちる業因を招くことは、末法においては多分にあることなのである。

講義

 無間地獄に堕ちる業因の内容について、経文と道理を挙げて詳しく明かされている。
 初めに、十悪や五逆罪を犯せば地獄に堕ちることは世間の僧俗ともに知っているが、謗法によって地獄に堕ちるということは、一般にその様相を知らないがどうなのか、との問いを設けられている。
 日蓮大聖人は、爾前権教に依る諸宗の立てる邪義は正法を誹謗するものであり、堕地獄の業因であると責められたが、世間の僧俗は諸宗の信仰が無間地獄に堕ちる業因であることを知らず、かえって激しく反発し、大聖人に怨嫉した。それに対して大聖人は、文理を挙げて謗法とはどういうものであるかを明かされているのである。
 初めに、堅慧作、勒那摩提釈の究竟一乗宝性論にある「願って小乗の法を修行して、大乗の法や法師を誹謗し、仏の教えに権と実があることを知らずに、その説くところは経の意に背きながら、しかもそれが真実だと言う」との文を引かれている。
 つまり、この文によれば、小乗を信じて仏の真実義であるといい、大乗を知らない者は謗法であり、と断じられている。大乗の法があるのに、小乗の法に執着して、小乗こそ正しいと思って、大乗を知らないことが、すでに謗法になる、ということである。
 次に、天親作、真諦訳の仏性論にある「大乗教を憎み背くことは、一闡堤の因である。それは衆生に大乗を捨てさせるからである」との文を引かれている。そして、この文によれば、大乗と小乗がともに流布している世において、ただ小乗だけを弘めて自身も大乗に背き、人にも大乗を捨てさせることを謗法というのである、とされている。
 一闡堤とは、略して闡堤ともいい、断善根・信不具足・極悪・大貪と訳し、仏の正法を信ぜず、誹謗し、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者をいい、自身が大悪に背くだけでなく、人をも背かせることが謗法になるのである。
 次に、天台大師の梵網経の疏にある「謗とは乖背という義で、解釈が道理にかなわず、言う言葉が事実にあたらず、異なった解釈をして人に説く者を皆、謗というのである。我が宗の正義に背くので謗法の罪となるのである」との文を引かれている。乖も背もそむくという意味であり、実教に背き、正法に背く言葉や教義を述べることが謗法となる、ということである。
 次に、法華経の譬喩品第三の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して、阿鼻獄に入らん」の文を引かれ、その意を詳しく述べられている。
 「若し人信ぜずして」とは、何を信じないことをさすかという点について、法華経が小乗教の位でいえば三賢以善、大乗教の位では十信以前、末法の凡夫で十悪や五逆罪を犯した者、父母に不幸の者、女人等のだれ人であれ、法華経の名字を聞いて、題目を唱えるか、あるいは法華経の一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し、読誦したり、また他人がそのように実践するのを見て喜び、ほめたたえる者は往生・成仏をとげるであろうと説かれても、それを信じないことであると仰せになっている。
 要するに法華経が一切衆生の成仏の経であることを信じないで、高位の菩薩や上根の凡夫のための経であるなどということが「此の経を信ぜず」にあたるのであり、そのような人は阿鼻獄に入るであろうという経文であると仰せられているのである。
 このようにいわれるのは背景に念仏宗の邪義があったと考えられる。当時、浄土宗などは「法華経は凡夫の機に合わないので、末法には念仏による以外に往生の法はない」「法華経は道理が深く衆生の愚鈍な智慧では理解が困難であり、一人も成仏する者はいない」等といって法華経を誹謗していたので、その邪義を破折されたのである。念仏地獄抄には「念仏者云く我等が機は法華経に及ばざる間信ぜざる計りなり毀謗する事はなし何の科に地獄に堕つ可きか、法華宗云く信ぜざる条は承伏なるか、次に毀謗と云うは即不信なり信は道の源功徳の母と云へり菩薩の五十二位には十信を本と為し十信の位には信心を始と為し諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云、然ば譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり今の念仏門は不信と云い誹謗と云い争か入阿鼻獄の句を遁れんや」(0097-04)と仰せになっている。
 次に、涅槃経の「仏の正法を永く護惜建立する心の無い者」との文を引かれて大涅槃経でいう大法が世に滅び尽きようとするのを見て、惜しもうとしない者は誹謗の者である、との意であることを示されている。護惜建立の心とは、正法を護り愛惜するとともに、正法を打ち立てて興隆せしめようとする心をいう。正法を誹謗することだけが謗法になるのではなく、正法が滅びようとするときに、それを惜しみ護ろうとする心がないことも謗法になるのである、という厳しい仰せなのである。
 次に、天台大師の言葉として「法華経を聞くのを喜ばない者が、法華経の怨敵である」と定めた文を引かれている。正法を聞くことを喜ばないことも、正法に対する怨敵であり、謗法になるという意なのである。なお、この言葉は天台大師には見当たらず、妙楽大師の言葉と思われる。開目抄には「妙楽云く『障り未だ除かざる者を怨と為し聞くことを喜ばざる者を嫉と名く』等云云」(0201-09)とある。
謗法は多種なり
 更にその謗法の諸相を挙げられている。
 まず、大乗・小乗がともに弘まっている国に生まれ、小乗のみを学んで自身の身を修め、大乗に移らないのは謗法である、とされている。低い教えの小乗教に執着し、より高い大乗の法を求めようとしないことが謗法になる、ということである。これは、大聖人当時でいえば、律宗等がこれにあてはまると考えられる。
 また、華厳・方等・般若等の諸大乗教を学ぶ人でも、諸経と法華経に説かれている教義・法理は等しいか同じだと思い、人にも同等だと教え、法華経に移ろうとしないのは謗法である、とされている。法華経を他の諸大乗教と同等と考えて、法華経を信じようとしないことが謗法になる、ということである。華厳宗や真言宗が、華厳経や密教に説かれる法理は法華経と同じ一念三千・久遠実成である、等と説いているのがこれにあたるといえよう。
 更に、たまたま法華経を信ずる機根の人が法華経を学ぼうとするのを、名聞名利を貪るために自分の宗旨に付けようとして、汝の機根は法華経には適しないと言って法華経を捨てさせ、権教に移らせる事は大謗法である、とされている。これは、浄土宗の邪義をさしている。こうした謗法の行為は、皆、地獄に堕ちる業因となるのである。
 結論として、人間に生れるということは、過去の世に五戒を持った果報が強く、三悪道の業因が弱いからであり、当世の人々も五逆罪を犯すものは少ないが、十悪は盛んに犯している。さらに、たまたま後生を願う人がいて十悪を犯さずに善人のようであっても、愚癡の失によって、身業と口業は善いが、意業において邪法邪師の悪師を信じている。しかもただ自分が邪法を信じるだけでなく、国を治める人や人民を勧めて邪法を信じさせ、妻子・眷属・従者にも勧めて邪法を行じさせ、国主等に正法を弘める正師と縁を結ばせず、また民衆や所従等にも正法を随喜する心を起こさせない。そのために、自他ともに謗法の者となってしまい、善根を修め悪行を止めたような人であっても自然に無間地獄の業を招くことが末法には多分にあるであろう、と仰せになっている。
 末法には、世間的には善人のように見えても、邪法邪義の邪師を信じ、人にも勧めるということによって自他ともに無間地獄に堕ちる者が多いのが実情であると指摘しているのである。
 言い換えると、五逆罪は理解しやすいから犯す人も少ないが、謗法は分かりにくいために、知らずに無間地獄の業因をつくっている場合が多いのであり、謗法こそ恐れなくてはならない、との大聖人のお心と拝されるのである。

第四章阿難の故事を引いて謗法を戒める 0428.180429.12

本文

  阿難尊者は浄飯王の甥・斛飯王の太子・提婆達多の舎弟・釈迦如来の従子なり、如来に仕え奉つて二十年覚意三味を得て一代聖教を覚れり、仏入滅の後・阿闍世王・阿難を帰依し奉る、仏の滅後四十年の此阿難尊者・一の竹林の中に至るに一りの比丘有り一の法句の偈を誦して云く「若し人生じて百歳なりとも水の潦涸を見ずんば生じて一日にして之を覩見することを得るに如かず」已上、阿難此の偈を聞き比丘に語つて云く此れ仏説に非ず汝修行す可らず爾時に比丘 阿難に問うて云く仏説は如何、阿難答えて云く若人生じて百歳なりとも生滅の法を解せずんば生じて一日にして之を解了することを得んには如かず已上此の文仏説なり、汝が唱うる所の偈は此の文を謬りたるなり、爾の時に比丘此の偈を得て本師の比丘に語る、本師の云く我汝に教うる所の偈は真の仏説なり阿難が唱うる所の偈は仏説に非ず阿難年老衰して言錯謬多し信ず可らず、此の比丘亦阿難の偈を捨てて本の謬りたる偈を唱う阿難又竹林に入りて之を聞くに我が教うる所の偈に非ず重ねて之を語るに比丘信用せざりき等云云、仏の滅後四十年にさえ既に謬り出来せり何に況んや仏の滅後既に二千余年を過ぎたり、仏法天竺より唐土に至り唐土より日本に至る論師・三蔵・人師等伝来せり定めて謬り無き法は万が一なるか、 何に況や当世の学者・偏執を先と為して我慢を挿み火を水と諍い之を糾さず偶仏の教の如く教を宣ぶる学者をも之を信用せず故に謗法ならざる者は万が一なるか。

現代語訳

 阿難尊者は浄飯王の甥、斛飯王の太子、提婆達多の舎弟、釈迦如来の従弟である。如来に仕えて二十年、覚意三味を得て、一代聖教を覚ったのである。仏の入滅の後、阿闍世王は阿難に帰依したのである。仏の滅後四十年の頃、阿難尊者が、一つの竹林の中にさしかかったとき、一人の比丘がいて一つの法句の偈を誦していた。それは「若し人が生れて百歳となっても、水の溜まったり、涸れたりするのを見なければ、生まれて一日でこれを見ることができないことは及ばない」というものであった。阿難はこの偈を聞いて比丘に語って言った。「これは仏説ではないから、汝は修行すべきではない」と。その時に比丘は阿難に問うて「それでは仏説はどうか」と言った。阿難は答えて言った。「『も人が生まれて百歳となっても、生滅の法を解了しなければ、生まれて一日でこれを解了することをできたことには及ばない』というのが仏説であり、あなたが唱えるところの偈は、この文を間違えたのである」と。そのときに比丘は、この偈をもって本師の比丘に語った。本師は言った「自分が汝に教えた偈が真の仏説である。阿難が唱唱えるところの偈は、仏説ではない。阿難は、齢をとり老衰して言葉に誤りが多い。信じてはならない」と。この比丘はまた、阿難に教えられた偈を捨てて、もとの間違った偈を唱えた。阿難がまた竹林に入って聞くと、自分が教えた偈ではなかった。重ねてこれを語ったけれども、比丘は信用しなかったという。 

 仏の滅後四十年でさえ、すでに誤りが出てきていた。まして今は、仏の滅後すでに二千余年が過ぎている。仏法はインドから中国に渡り、中国から日本に渡った。論師や三蔵・人師等が伝来したのだから、定めて誤りのない法は万が一であろう。まして当世の学者は、偏執を先として我慢をさしはさみ、火を水と争ってこれを糾すこともない。たまたま仏の教えのとおりに教法を説く学者がいても、これを信用しない。ゆえに謗法とならない者は万が一であろう。

講義

 釈尊の十大弟子の一人、阿難の故事を引かれ、仏説が正しく伝えられることがいかに難しく、したがって謗法に陥りやすいかを示されている。
 阿難は、釈尊の父である浄飯王の甥で、迦毘羅城主の斛飯王の太子であり、提婆達多の弟で、釈尊の従弟にあたっており、出家の後は釈尊の常随の弟子となって20年間仕え、釈尊一代の教説を記憶することに勝れ、多聞第一と呼ばれた。
 その阿難が、釈尊滅後40年の頃に、ある竹林の中で一人の比丘に出会ったところ、その比丘は「若し人が生れて百歳となっても、水の溜まったり、涸れたりするのを見なければ、生まれて一日でこれを見ることができないことは及ばない」という仏の句を唱えていた。阿難がそれは仏説でないことを指摘して、真の仏説は「も人が生まれて百歳となっても、生滅の法を解了しなければ、生まれて一日でこれを解了することができたことには及ばない」というのであり、それを誤り伝えたものであろう、と教えた。
 しかし、比丘が自分の師にそのことを語ると、師にあたる人は、阿難の教えた句こそ仏説ではなく、阿難はもはや老衰して言うことに誤りが多いので信用してはならないと批判したので、比丘は再び元の句を唱えるようになり、阿難が重ねて正しい句を教えても信じようとしなかったという。
 諸法は生じかつ滅すると知ること、すなわちこの世は無常と見ることは、小乗教の一つの悟りである。それが、水が溜まったり涸れたりすることを見るという。全く意味のない言葉に誤って伝えられたものであろう。しかも、それが伝わるうちに仏説として通用していて、阿難の正しい指摘さえ用いられないようになっていたのである。
 大聖人は、釈尊の滅後わずか40年で、すでにそした誤りが出来しているのだから、いわんや仏滅後2000年を過ぎた末法の現在において、仏法がインド・中国・日本と渡来する間に、正しく伝えられることはいかに至難であるかを述べられている。仏の教えが時代を経、インドから中国・日本へと翻訳されて流伝していくあいだに、そうした伝承を記録した梵本の原典の誤りがあり、更に伝写するうえでの誤り、翻訳する際の誤り、解釈の誤りなどのほか、故意の削除や添加、偽経の製作など、仏意を損なう人師による誤謬が入り込んだことは容易に察せられるところである。同様の趣旨の御文は、守護国家論にもあり「如来の入滅は既に二千二百余の星霜を送れり文殊・迦葉・阿難・経を結集して已後・四依の菩薩重ねて出世し論を造り経の意を申ぶ末の論師に至つて漸く誤り出来す亦訳者に於ても梵漢未達の者・権教宿習の人有つて実の経論の義を曲げて権の経論の義を存せり、之に就て亦唐土の人師・過去の権教の宿習の故に権の経論心に叶う間・実経の義を用いず或は少し自義に違う文有れば理を曲げて会通を構え以て自身の義に叶わしむ、設い後に道理と念うと雖も或は名利に依り或は檀那の帰依に依つて権宗を捨てて実宗に入らず、世間の道俗亦無智の故に理非を弁えず但・人に依つて法に依らず設い悪法たりと雖も多人の邪義に随つて一人の実説に依らず、而るに衆生の機多くは流転に随う設い出離を求むとも亦多分は権経に依る、但恨むらくは悪業の身・善に付け悪に付け生死を離れ難きのみ、然りと雖も今の世の一切の凡夫設い今生を損すと雖も上に出す所の涅槃経第九の文に依つて且らく法華・涅槃を信ぜよ其の故は世間の浅事すら展転多き時は虚は多く実は少し況や仏法の深義に於てをや、如来の滅後二千余年の間・仏法に邪義を副え来り万に一も正義無きか一代の聖教多分は誤り有るか、所以に心地観経の法爾無漏の種子・正法華経の属累の経末・婆沙論の一十六字・摂論の識の八九・法華論と妙法華経との相違・涅槃論の法華煩悩所汚の文・法相宗の定性無性の不成仏・摂論宗の法華経の一称南無の別時意趣・此等は皆訳者人師の誤りなり、此の外に亦四十余年の経経に於て多くの誤り有るか」(0045-04)と、具体的に述べられている。
 更に大聖人は、まして、末法の諸宗の学者は、自宗の邪義への執着が強く、自らをおごって他を卑しむ心があり、火を水と主張してその誤りを認めようとしない。たとえ、仏説の通りに法を説く学者がいたとしても信心しようとしない。これでは、謗法でない者は万人に一人であろう、と仰せである。
 常に謙虚に、また正しい判断力をもって法を求め、真実の法の前には誤りを率直に改める姿勢こそ、仏道修行には欠かせないものである。求道の心を失った偏執、我慢の心が強い者は、誤りにとらわれ、正法に背いて誹謗するのである。

第五章餓鬼道の因縁を明かす 0429.130430.03

本文

  第二に餓鬼道とは正法念経に云く「昔財を貪りて屠殺せるの者此の報を受く」と、亦云く「丈夫自ら美食をクラい妻子に与えず或は婦人自ら食して夫子に与えざるは此の報を受く」と、亦云く「名利を貪るが為に不浄説法する者此の報を受く」と、亦云く「昔酒をウルに水を加うる者此の報を受く」と、亦云く「若し人労して少物を得たるを誑惑して之を取り用いける者此の報を受く」と、亦云く「昔行路人の病苦ありて疲極せるに其の売を欺き取り直を与うること薄少なりし者此の報を受く」と、又云く「昔刑獄を典主・人の飲食を取りし者此の報を受く」と、亦云く「昔陰凉樹を伐り及び衆僧の園林を伐りし者此の報を受く」と文、法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること己が舎宅の如し」文、慳貪・偸盗等の罪に依つて餓鬼道に堕することは世人知り易し、慳貪等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に其の義を信ずるに依つて餓鬼道に堕することは智者に非ざれば之を知らず能く能く恐る可きか。

現代語訳

 第二に餓鬼道とは、正法念経に「昔、財を貪って、生きものを屠殺した者がこの報いを受ける」とある。また「男が自ら美食を食べて妻や子に与えなかったり、あるいは妻自ら食べて夫や子に与えない者は、この報いを受ける」とある。また「名利を貪るために、不浄な説法をする者が、この報いを受ける」とある。また「昔、酒を売るときに水を加えて売ったものは、この報いを受ける」とある。また「若し人労して少く物を得たるを誑惑して之を取り用いる者この報を受ける」とある。また「昔、路行く人が、病苦のために苦しんでいるのに、その売り者を欺き取り、わずかの代価しか与えない者は、この報いを受ける」とある。また「昔、監獄の主で、人の飲食を取った者は、この報いを受ける」とある。また「昔、陰凉樹を伐り、および衆僧の園林を伐った者は、この報いを受ける」とある。法華経に「若し人が信じないで毀謗するならば、○、常に地獄に身を置くことは、ちょうど園観に遊ぶようなもので、他の悪道にいることは、自分の家宅のようである」とある。慳貪・偸盗等の罪によって餓鬼道に堕ちることは、世間の人は知ることはやさしいが、慳貪等の罪のないもろもろの善人でも謗法の罪によって、また謗法の人に親しく交わって、知らずしらずにその義を信ずるようになって餓鬼道に堕ちることは、智者でなければこれを知ることができない。よくよく恐れなければならない。

講義

 餓鬼道の報いを得る因縁を経文を引いて明かされている。
 餓鬼道とは、観心本尊抄に「貪るは餓鬼」(0241-08)と述べられており、欲望に支配されたむさぼりの生命状態をいう。
 正法念処経では、前世に欲が深くて、生きものを殺した者や、夫が自分だけ美食をして、妻や子に与えなかったり、妻が自分だけ食べて夫や子に与えなかった者が、餓鬼の報いを受けるとされている。
 更に、名聞名利を得るために、不浄の心で説法した者や、前世に酒を水で薄めて売った者や、他人が苦労して得た少しの物をだまし取った者や、前世で道端で病気で苦しんでいる者の売り物をだまし取ったり、わずかな料金しか与えなかった者や、前世に監獄の役人をしていて囚人の飲食物をかすめ取った者や、前世に道行く人に涼しい日陰を与えるために道路の脇に植えられた木を切ってしまったり、衆僧の住む園林を伐り倒した者等が餓鬼界の報いを得るのである、と説かれている。要するに、自分の利益のみを図って、他人を苦しめたり犠牲にした業の報いが、餓鬼界の苦悩を招くということである。
 更に法華経譬喩品第三の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば…常に地獄に処すること、園観に遊ぶが如く、余の悪道に在ること、己が舍宅の如く」の文を引かれて、慳貪でいる人も、正法誹謗の罪は、何が正法であるかは仏法に通じた智者でなければ知ることができないので犯しやすい。だから、謗法を恐れなければならない、と仰せである。
 なお、主師親御書に「餓鬼道と申すは其の住処に二あり一には地の下五百由旬の閻魔王宮にあり、二には人天の中にもまじはれり其の相種種なり或は腹は大海の如くのんどは鍼の如くなれば明けても暮れても食すともあくべからず、まして五百生・七百生なんど飲食の名をだにもきかず或は己が頭をくだきて脳を食するもあり或は一夜に五人の子を生んで夜の内に食するもあり、万菓林に結べり取らんとすれば悉く剣の林となり万水大海に流入りぬ飲んとすれば猛火となる如何にしてか此の苦をまぬがるべき」(0389-01)と述べられており、欲望に支配され、貪りながら満たされることのない、餓鬼界の苦しみの境界が表現されている。

第六章畜生界の因縁を明かす 0430.040430.05

本文

  第三に畜生道とは愚癡無慙にして徒に信施の他物を受けて之を償わざる者此の報を受くるなり、法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○当に畜生に堕すべし」文已上三悪道なり。

現代語訳

 第三に畜生道とは、愚癡で自らを恥じないで、人から布施を受けてもこれを償わない者は、この報いを受けるのである。法華経に「若し人が法華経を信じないで毀謗するならば、○、まさに畜生に堕ちるのである」とある。以上は三悪道である。

講義

 畜生道の報いを受ける因縁が明かされている。畜生界とは、今人本尊抄に「癡は畜生」(0241-09)と述べられており、理性がなく、倫理や道徳をわきまえず、本能的な欲望のままに行動するおろかな生命状態をいう。本来癡は畜生、畜生とは、飼い畜われて生きるものの意で、動物を総称した言葉であり、そこから、本能の衝動に振り回された境界という意味で用いられる。
 畜生道とは、愚癡で恥を知らず、信心の施しを受けてもその償いをしない者がその報いを受ける、とされている。「愚癡無慙にして徒に信施の他物を受けて之を償わざる者」といわれているのは、正法を真摯に学ぼうとせず、信徒から施しを受けながら、人々を正法に導こうとしないでいる諸宗の僧を、念頭に置かれての仰せと拝される。更に法華経の譬喩品第三には「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば…当に畜生に堕つべし」と説かれており、謗法は、畜生界の業因であることが明かされている。
 なお、主師親御書には「畜生道と申すは其の住所に二あり根本は大海に住す枝末は人天に雑れり短き物は長き物にのまれ小き物は大なる物に食はれ互に相食んでしばらくもやすむ事なし、或は鳥獣と生れ或は牛馬と成つても重き物をおほせられ西へ行かんと思へば東へやられ東へ行かんとすれば西へやらる山野に多くある水と草をのみ思いて余は知るところなし」(0389-06)と畜生の境界が述べられている。聖愚問答抄には「小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う」(0474-14)と述べられ、弱肉強食の畜生界では弱者が痛みつけられ殺される残害の苦しみを受けることが明かされている。人間であっても、強い者を恐れ、自分より弱い者には威張っている卑怯な生き方は、畜生の因になるのである。

第七章修羅界の因縁を明かす 0430.060430.08

本文

  第四に修羅道とは止観の一に云く「若し其の心・念念に常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて下視が如し而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり」文。

現代語訳

 第四に修羅道とは、摩訶止観巻一に「もしその心がいつも他人に勝ることを願って耐えられないので、人を見下し、他を軽んじて己を貴ぶことは、たとえば鵄が高く飛んで見下ろすようなものである。それでいて外面には、仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起こし、阿修羅の道を行うのである」とある。

講義

 修羅道の報いを受ける因縁が明かされている。観心本尊抄には「諂曲なるは修羅」(0241-08)と仰せであり、諂い曲がった心を修羅界とされている。強い自我意識にとらわれているために物事を正しく見ることができず、また己を高くするために他と争いに陥る生命状態をいう。
 ここで大聖人は、摩訶止観巻一の「その心が常に他に勝つことばかりを願い、耐え忍ぶことができず、他人を軽蔑して己のみ尊しとする様子は、ちょうど、鵄が空高く飛んで下を見下ろすようである。それでいて、外面は五常を唱え、低い善心をもって修羅の道を行くのが修羅界である」との文を引かれている。
 この摩訶止観の文のように、自我意識が強く、他人に勝りたいという一念に執着して、他人より劣ることに耐えられない生命の状態で、他人を軽んじ、己を高くしようという境界が修羅界といえる。
 なお、五常とは、儒教で説かれた、人が常に守るべき五つの道をいい、一般には、仁・義・礼・智・信の五をいう。表面には、この五常等の道徳を唱え、実践しているようにみせながら、それでも自己を飾り他に勝るための手段にすぎないという、偽善的、独善的な境界が修羅界なのである。一代聖教大意には、「五常は修羅の引業」(0400-12)と述べられている。
 なお、天台大師は、仁王経疏巻上一のなかで不殺生を仁、不偸盗を智、不邪淫を義、不飲酒を礼、不妄語を信と、五戒を五常に配している。また、祈祷抄には「人間界に戒を持たず善を修する者なければ人間界の人死して多く修羅道に生ず」(1345-09)と仰せである。仏法の戒を持たず、善行を修することがなければ、死後に修羅界に生ずる、といわれているのである。

第八章人界の因縁を明かす 0430.09

本文

  第五に人道とは報恩経に云く「三帰五戒は人に生る」文。

現代語訳

 第五に人道とは、報恩経に「三宝に帰依し、五戒を持つ者は人に生まれる」とある。

講義

 人界とは、人間界ともいい、人間としてしごく普通の平穏な生命の状態、境界をいう。親兄弟、友人等のことを心配したり、思いやる、人間らしい状態である。観心本尊抄には「平かなるは人なり」(0241-08)と仰せになっている。
 本抄では、報恩経の「仏・法・僧の三宝に帰依し、五戒を持つ者は人間に生れる」との文を引かれ、人間に生れてくるのは、過去世に三宝に帰依し五戒を持つなどの仏法に縁した善根によるとの因縁が明かされている。一代聖教大意には「三帰・五戒は人の引業」(0400-13)と述べれれている。
 三帰とは、三帰依・三帰戒ともいい、仏・法・僧の三法に帰依することで、五戒とは、小乗教で説く在家の男女が持つべき五種の戒をいう。
 三帰は、初めて仏法に帰依するとき、あるいは五戒・八戒を授けられる前などにまず受ける戒律で、毘尼母経巻一には「三帰の次に五戒を受けて初めて優婆塞となる」とある。

第九章天界の因縁を明かす 0430.100430.11

本文

  第六に天道とは二有り、欲天には十善を持ちて生れ色無色天には下地はソ苦障・上地は静妙離の六行観を以て生ずるなり。

現代語訳

 第六に天道とは、二つある。六欲天には十善を持つ者が生まれ、色無色天には、下地を麤・苦・障と観じてこれを嫌い、上地を静・妙・離と観じてこれを欣求する六行観の観法を修することをもって生まれるのである。

講義

 天界とは、天上界ともいい、快楽に満ちた境界、喜びの生命状態をいう。観心本尊抄には「喜ぶは天」(0241-03)と述べられている。
 天界には二十八天があるとされ、日寛上人の三重秘伝抄に「天は即ち欲界の六天と色界の十八天無色界の四天となり」と述べられている。
 欲界とは、食欲・性欲の二欲に代表される種々の欲望が渦巻く世界のことで、そのなかの天界を六欲天という。色界とは、物質だけの世界で、欲望からは脱しているがいまだ色法に制約された境界で、十八天とされている。無色界とは、欲望と色法の制約を超越した純然たる精神の世界んことで、四空処があるとされている。
 本抄では、天界を欲界と色界・無色界に二分され、欲界の六欲天には十善戒を守った者が生まれ、色・無色界へは、境界の低い下地は麤・苦・障・と観じて嫌い、上地は静・妙・離であると観じて、次第に境界の高い上地へと進む座禅観法である六行観によって生じる、と述べられている。
 十善とは十戒ともいい、十悪を防止する戒律をいい、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貧欲・不瞋恚・不邪見の十である。十善を持つことによって六欲天に生れることができる、とされている。なお、王位のことを「十善の位」というが、過去世に十善戒を持った功徳によって、今世に帝王と生まれる、とされたことによる。
 六行観には、有漏智によって、諸の思惑を断ずる外道の修行法であり、それによって色・無色界に生じる、とされている。一大聖教大意に「三帰・十善は六欲天の引業なり、有漏の坐禅は色界・無色界の引業」(0400-13)と述べられている。

第十章人間に種々の差別ある文証を挙げる 0430.120431.12

本文

  問うて云く六道の生因は是くの如し抑同時に五戒を持ちて人界の生を受くるに何ぞ生盲・聾・オンア・ギ陋・レンビャク・背傴・窮・多病・瞋恚等・無量の差別有りや、答えて云く大論に云く「若は衆生の眼を破り若は衆生の眼を屈り若は正見の眼を破り罪福無しと言わん是の人死して地獄に堕し罪畢つて人と為り生れて従り盲なり、若は復仏塔の中の火珠及び諸の灯明を盗む・是くの如き等の種種の先世の業・因縁をもて眼を失うなり○聾とは是れ先世の因縁・師父の教訓を受けず行ぜず而も反つて瞋恚す是の罪を以ての故に聾となる、復次に衆生の耳を截り若は衆生の耳を破り若は仏塔・僧塔諸の善人・福田の中のケン椎・鈴・貝及び鼓を盗む故に此の罪を得るなり、先世に他の舌を截り或は其の口を塞ぎ或は悪薬を与えて語ることを得ざらしめ、或は師の教・父母の教勅を聞き其の語を断つ○世に生れて人と為り唖にして言うこと能わず ○先世に他の坐禅を破り坐禅の舎を破り諸の咒術を以て人を咒して瞋らし闘諍し婬欲せしむ今世に諸の結使厚重なること婆羅門の其の稲田を失い 其の婦復死して即時に狂発し裸形にして走りしが如くならん、先世に仏・阿羅漢・辟支仏の食及び父母所親の食を奪えば仏世に値うと雖も猶故飢渇す罪の重きを以ての故なり、○先世に好んで鞭杖・拷掠・閉繋を行じ種種に悩すが故に今世の病を得るなり○先世に他の身を破り其の頭を截り其の手足を斬り種種の身分を破り 或は仏像を壊り仏像の鼻及び諸の賢聖の形像を毀り或は父母の形像を破る是の罪を以ての故に形を受くる多く具足せず、復次に不善法の報・身を受くること醜陋なり」文、法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○若し人と為ることを得ては諸根闇鈍にして盲・聾・背傴ならん○卯口の気常に臭く鬼魅に著せられん貧窮下賎にして人に使われ多病瘠痩にして依怙する所無く○若は他の叛逆し抄劫し竊盗せん是くの如き等の罪横に其の殃に羅らん」文。

  又八の巻に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さん若は実にもあれ若は不実にもあれ此の人は現世に白癩の病を得ん若し之を軽笑すること有らん者は当に世世に牙歯疎欠・醜き脣・平める鼻・手脚繚戻し眼目角昧に身体臭穢にして悪瘡・膿血・水腹・短気諸の悪重病あるべし」文、

現代語訳

 問う。六道へ生まれる因はほぼ分かったが、同じように五戒を持って人界の生を受けながら、どうして生盲・聾・オンア・ギル・レンビャク・背傴・貧窮・多病・瞋恚等の無量の差別があるのか。

 答う。大論に「もし衆生の眼を破り、もし衆生の眼を挫り、もし正見の眼を破っても罪福がないという人は、この人は死んで地獄に堕ち、罪を畢えて人と生まれては、うまれながらの盲となる。もしまた仏塔の中の火珠および諸の灯明を盗むとも、種々の先世の業・因縁をもって眼を失うのである。○、聾とは、この先世の因縁は、師匠や父の教訓を受けず、行わないで、しかもかえって瞋恚する。この罪によって聾となる、また次に、衆生の耳を切り、もしくは耳を破り、もしくは仏塔や僧塔等、諸の善人にとっての福田の中の犍椎・鈴・貝および鼓を盗むことによって、この罪を受けるのである。先世に他人の舌を切り、あるいはその口を塞ぎ、あるいは悪薬を与えて語れなくさせる。あるいは師匠の教え、父母の教勅を聞いて、中途で遮る。○、世に生まれて人となるが、唖になって物を言うことができない。○、先世に他人の坐禅を破り、坐禅の舎を破り、諸の呪術をもって人を呪して瞋らせ、闘諍させ、婬欲させた者は、今世に諸の煩悩が強盛であって、ちょうどバラモンがその稲田を失い、また妻を亡くして即時に狂発し、裸のまま走り出したようになるであろう。先世に仏・阿羅漢・辟支仏の食物および父母親族の食物を奪えば、仏の在世に生まれ値うことができたとしても、なお飢渇の苦を受けるのである。罪の重いためである。○、先世に好んで、鞭や杖で人を打ち、拷掠し、拘束したりして種々に悩ませるために、今世に病となるのである。先世に他人の身を傷つけ、その頭を切り、その手足を切り、種々に身体を傷つけ、あるいは仏像を壊し、鼻および諸の賢人・聖人の形像を毀し、あるいは父母の形像を壊す。この罪によって、不具の身となるのである。また次に不善の法を修行した報いは、醜い身体となるのである」とある。法華経には「もし人が法華経を信じないで毀謗するならば、○、もし人と生まれることがあっても、諸根は諸根であり、盲目・聾・背傴となあるであろう。○、口の息は常に臭く、鬼魅にとりつかれるであろう。貧乏で賎にく、人に使われ、多くの病のために痩せて、頼るところもない。○、もしくは他人に反逆し、略奪し、竊盗する、このような罪のために不慮の災いにあうであろう」とある。

 また法華経巻八勧発品第二十八に云「もしまた、この経典を受持する者をみて、その過失や悪を出したならば、たとえそれが事実であっても、事実でなくても、その人は現世で白癩の病を得るであろう。もしこれを軽笑する者は、まさにいつの世でも牙歯はすいて欠け、醜い唇、平らい鼻、手足はもつれて曲がり、眼目は眇となり、身体は臭く汚く、悪瘡ができて、膿や血がたまり、腹水病や短気などの諸の悪重病となるであろう」とある。

講義

 前章までに地獄界から天界までの六道に生れる因縁について述べられたが、ここでは同じ人間に生まれながら、なぜ、種々の肉体的、精神的な差別があるのかを、大智度論や法華経の文証を挙げて明かされている。
 初めに大智度論の文を引かれている。大智度論は、竜樹の造と伝えられ、摩訶般若波羅蜜経の注釈書であるが、法華経などの諸大乗教の思想を取り入れており、後の一切の大乗思想の母胎となった書である。
 引用された大智度論の文は、仏法の因果の理法のうえから、いかなる過去の業が、いかなる報いを生ずるかを明かしたものである。
 人々の眼を破ったり、えぐったり、正法を持った正見の人の眼を誹謗して破っても罪にならないという者は、死んで地獄に堕ち、地獄の罪を終わって人と生まれても盲目となる、と説かれている。人の肉体の眼や、正法を持つ心の眼を破ったために自身の眼を失うのである、という因果が明かされている。
 また、仏塔の中の火焔型の珠や、種々の燈明を盗むなどの前世の因縁によって眼を失うのである。とも説かれている。仏に供える明かりを奪うという業因によって自身の眼の光明を失う、という因果が明かされているといえよう。
 耳がきこえないことの因縁は、前世に師や親の教訓を受けようとせず、聞いても行わず、かえって言われたことを怒ったり怨んだりすることによる、と説かれている。また、人の耳を切ったり、破ったり、仏塔や僧坊など善人が功徳を受ける場所で時を知らせる道具である鈴・貝・鼓を盗む者がこの罪にあたる、と説かれている。
 善言に耳を塞いだり、人の耳を害したり、寺院等で耳から時を知らせることを阻むなどの業因によって、聴力を失うという結果を招くとされている。
 前世に他人の舌を切ったり、口を塞いだり、毒を与えて口を聞けないようにしたり、師の教えや親の戒めを聞いて途中で遮る者は、今世に口をきくことができない、と説かれている。
 前世に、坐禅の修行者を妨げ、坐禅の道場を破ったり、呪術で人を祈り、怒らせたり争わせたり淫欲を起こさせた者は、今世に煩悩が深く厚く、ちょうどある婆羅門が持っていた田畑を失い、妻が死んで即時に発狂して、裸体で走り出したようなものである、と説かれている。
 前世で、仏や仏弟子、父母親戚の食物を奪った場合には、たとえ仏の在世に生れ合わせたとしても、飢えや渇きの苦しみを受け、前世に杖や鞭で人を拷問したり、監禁して苦しめた場合には、今世で病苦で悩む、と説かれている。人を飢えさせればやがて自分が飢え、人の肉体を苦しめれば未来に我が身が苦しむとされているのである。
 前世に、他人の身体を害し、頭を切ったり、手足を切ったり、人の身を傷つけた者や、また仏像を破壊したり、仏像の鼻や聖人・賢人の像や父母の肖像を壊した者は、その罪によって障害のある身となって生れる、と説かれている。更に、悪法を行じた報いとして、身体が醜く生れる、とある。悪法は正常な生命の法則に背くので、その報いが我が身体に出るといえる。以上が、大智度論からの引用である。
 次に、法華経の譬喩品第三と普賢菩薩勧発品第二十八の文が引かれている。
 譬喩品第三では「法華経を信ぜずに誹謗する者は…たとえ人に生れることができたとしても、眼・耳・鼻・舌・身の五根が完全でなく、目が見えず、耳が聞こえず、障害の有る身として生まれるだろう…口から吐く息が常に臭く、鬼神等に悩まされ、貧しく賤しい身となって人に使われ、多病で身体は痩せ細り、頼りにする所がなく…人からは背かれ、脅かされて、盗まれるだろう。このような誤った罪により、そうした災難にあうであろう」と説かれている。それらの不幸な状態は、すべて法華経を信ぜずに誹謗した結果である、と述べられている。
 また不賢菩薩勧発品第二十八では「法華経を受持する者を見て、その過去の過ちを言い出す者は、たとえそれが事実であっても、そうではなくても、その人は現世に癩病にかかるだろう。もしも軽蔑し笑う者は、いつの世でも歯が隙き欠け、唇は醜く、鼻は平らで、手や足は曲がって伸びず、眼はすがめになり、身体は臭く汚れ、悪いでき物や膿や血が溜まり、腹には水が溜まり、短気である、などのさまざまな重病にかかる」と説かれている。勧発品では、法華経を受持する者を見て、誹謗し軽んずる者は、我が身にその報いを受ける、という因果を明かしているのである。
 大智度論では、一般的な因果を説いており、それに対して法華経では、法華経および法華経信受の人を誹謗する、謗法の行為による因果が説かれているといえよう。
 佐渡御書に「高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり」(0960-02)と述べられているように、普通の因果よりも、法華経誹謗のほうが罪業が重く、したがって同種の苦報であっても、消滅することは容易ではないのである。