02560293 撰時抄 0259:150260:12 第六章 釈の文を引いて証す

 

本文

 

問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや、答えて曰く汝が不審逆なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば経をすてて釈につくべきか如何、彼云く道理至極せり、しかれども凡夫の習経は遠し釈は近し近き釈分明ならばいますこし信心をますべし、今云く汝が不審ねんごろなれば少少釈をいだすべし天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」妙楽大師云く「末法の初め冥利無きにあらず」伝教大師云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」又云く「代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば五濁の生・闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉況滅度後と此の言良に以有るなり」云云、夫れ釈尊の出世は住劫第九の減・人寿百歳の時なり百歳と十歳との中間・在世五十年・滅後二千年と一万年となり、其の中間に法華経の流布の時・二度あるべし所謂在世の八年・滅後には末法の始の五百年なり、而に天台・妙楽・伝教等は進んでは在世法華経の時にも・もれさせ給いぬ、退いては滅後・末法の時にも生れさせ給はず中間なる事をなげかせ給いて末法の始をこひさせ給う御筆なり、例せば阿私陀仙人が悉達太子の生れさせ給いしを見て悲んで云く現生には九十にあまれり太子の成道を見るべからず後生には無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず正像末にも生るべからずとなげきしがごとし、道心あらん人人は此を見ききて悦ばせ給え正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや、彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし、梁の武帝の願に云く「寧ろ提婆達多となて無間地獄には沈むとも欝頭羅弗とはならじ」と云云。

現代語訳

 

 問う,末法に三大秘法が広宣流布するとの経文は、実に分明であることがわかった。それでは天台・妙楽・伝教等の未来を予言したことばがあるかどうか。

 答う,汝の疑問は反対である。釈を引いて話を進めた時には、経論にそのようなことが説かれているかどうかを反論するのが当然であるけれども、経文に分明であるならば、いまさら釈を尋ねる必要はないのである。もし釈を尋ね、釈の文が経文と相違した場合に、経を捨てて釈につくのかどうか。決局、仏法はどこまでも経文を基本とすべきである。

 彼がさらに質問していうには、なるほど経文を基となすというその道理は至極の道理である。しかし凡夫の習いとして経は幽玄の奥義を明かしているから解することが容易でないけれども、釈はその経文を解釈したものであるから、もっと身近かである。その身近かの釈が分明になるならば、もう少し信心を増すことができるであろう。どうか説いて欲しい。

 今答えていわく、汝の不審はなかなか、ねんごろであるから、少々釈を出して聞かせよう。天台大師いわく「後の五百歳、すなわち末法の始めから遠く尽未来際にいたるまで三大秘法の妙道が流布し一切衆生が即身成仏するであろう」と。妙楽大師いわく「末法の初めは直達正観の南無妙法蓮華経が流布して下種の大利益を得るであろう」と。伝教大師いわく「正像二千年はほとんど過ぎおわって末法がはなはだ近づいている。法華一乗の機は今正しくこれその時であり、一切衆生のことごとく即身成仏する時期である。何をもってこれを知ることができるかといえば、安楽行品に法華経流布の時代を末法法滅の時と予言しているからである」と。またいわく「法華経流布の時代は像法の終わり末法の初めであり、その流布する国土は中国の東、靺羯国の西、すなわち日本であり、その時代の衆生は五濁が強盛な闘諍堅固の時である。法華経法師品第十に、如来の現在すら猶怨嫉が多く況んや滅度の後をやと予言している語は、実に深い理由のある言葉である」と。すなわち伝教大師は、末法の初めこそ真実の法華経流布の時であると、このように末法を恋い慕っているのである。

 さて、これら天台・伝教の釈の文意を考えてみるのに、釈尊の出世は住劫第九の減・人間の平均寿命が百歳の時であった。この百歳から百年に一歳を減じて人寿の十歳にいたるまでの間というものは、釈尊の在世五十年と滅後の正法像法二千年と末法一万年とに区別される。その中間に法華経流布の時が二度ある。いわゆる釈尊在世に法華経を説いた八年間と、滅後には末法の初めの五百年の二度である。しかるに天台・妙楽・伝教等の人たちはそれ以前の釈尊在世の法華経説法の時に生まれあわないし、またより後世の滅後末法の時にも生まれあわないので、その中間に自分が生まれたことをなげき末法の始めを恋い慕ってこのように書いているのである。

 このように自分の生まれた時が、すでに聖人の在世と前後して終わったことを歎いた例としては、阿私陀仙人は悉達太子(釈迦仏)の生まれたのを見て悲しんでいうには、自分は現在九十余歳になり、太子が仏道を成ずるまで生きておれないし、また後生には無色界に生まれて、釈尊五十年の説法の坐にもつらなることができない。さらに正像末にも、この娑婆世界へ生まれて来られないので、まったく仏の説法に縁を持つことができないと、歎いたようなものである。

 道を求めようと願う心のある人々はこの事実を見聞きして悦びたまえ。正像二千年の大王と生まれるよりは、後世の成仏を念願する人は、末法の今の万民であり、無智の大衆であった方が、即身成仏の機会を与えられているのである。どうして、これを信じないでいられようか。彼の天台の座主として、像法時代の仏法の最高権威者であった者よりも、末法において南無妙法蓮華経と唱える癩病人となるべきである。すなわち、末法に生まれたなら、直達正観の三大秘法の御本尊を受持し奉ることができる絶対の幸福にめぐり会うからである。梁の武帝の発願の文には「寧ろ提婆達多となって無間地獄に沈むとも、法華経に遭って即身成仏のできることを喜ぶが、たとえ天界に生まれるとも欝頭羅弗外道のように成仏できないことを欲しない」とあるが、これによっても末法に生まれて南無妙法蓮華経と修行することのできるわが身の幸福に歓喜と感激を忘れてはならないのである。

 

語釈

 

天台

 (05380597)。中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。天台山に住んだので天台大師といい、また智者大師と尊称する。姓は陳氏。諱は智顗。字は徳安。荊州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、慧曠律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(0560)光州の大蘇山に南岳大師慧思を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、32歳(または31)の時、陳都金陵(南京)の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建7年(0575)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰に修禅寺を創建した。そして天台山の最高峰、華頂峰で一心に修禅していると、雷鳴が轟き山地が振動し、大師の修行を妨げようと魔が出現したが、これに屈せず、明けの明星を見て開悟したという。この第二の開悟を華頂降魔という。至徳3年(0585)陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(0587)法華文句を講説した。開皇11年(0591)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、維摩経疏を献上した。揚州に留まるよう懇請されたが、天台山に再入した。開皇17年(0597)、晋王広の求めに応じ下山を決意、天台山西門まで下りたが疾重く、石城寺で入寂した。享年60歳。彼の講説は弟子の章安灌頂によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。

 

妙楽

 (07110782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(現在の江蘇省宜興市)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(074838歳の時、宿願を達成して宜興浄楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻、また「五百問論」三巻等多数ある。直弟子に、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道𨗉・行満がいる。

 

伝教

 (07670822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教は諡号。伝教大師・根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬[]貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)滋賀郡に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻、「山家学生式」等がある。

 

唐の東・羯の西

 日本の位置をさしている。唐とは中国、羯とは靺羯で六世紀半ばから約一世紀の間、中国東北部の松花江流域に住したツングースの一種族を隋唐時代にこう呼んだ。当時の地理の知識では、中国大陸は日本の西方から北及び東にまでわたって広がっていると考えられていた。

 

住劫

 一つの世界が成立し、流転・破壊を経て、次の成立に至るまでを四期に分けた四劫(成劫・住劫・壊劫・空劫)の一つ。空間に器世間(国土)が成立し、そこにもろもろの有情が誕生し有情(衆生)世間を形成していく期間を成劫というが、この器世間と有情世間との二つの世間が安定している期間を住劫という。

 

住劫第九の減

 住劫の第九小劫における減劫の時期。住劫は二十小劫に分けられる。倶舎論巻十二、瑜伽論劫章頌などによると、はじめに人の寿命が無量歳から百年に一歳ずつ減じて十歳になるまでを第一小劫とし、これを第一減劫という。次に十歳から百年に一歳を増して八万歳になり、再び百年に一歳を減じて十歳になるまでを第二小劫とし、これを第二の増劫および減劫という。このようにして増減を繰り返し、最後の第二十小劫は人の寿命が十歳から無量歳にいたる増劫のみで減劫はない。住劫第九の減とは、この二十の増減のうち、九番目の減劫をいう。釈尊はこの期間の人寿百歳の時に出現したとされる。

 

阿私陀仙人

 阿私陀は梵名アシタ(Asita)の音写。婆羅門の長老で中インド迦毘羅衛国の五通をえた仙人である。生まれたばかりの釈尊を見て、世俗にとどまれば転輪聖王となり、出家すれば仏となることを予言したが、自らはその説法を聞けないことを嘆いたという。

 

欝頭羅弗

 梵名ウドラカラーマプトラ(ウッダカ・ラーマプッタ Uddaka-Rāmaputta)の音写。マガダ国の首都・王舎城(ラージャグリハ)の近郊に住んでいた出家修行者。釈尊は成道する前、彼から教えを受けたが、その教えはまだ不十分なものであると考え、彼のもとを去った。釈尊が覚りを開く前に亡くなったとされる。仏典によると、五通を得ようとして、林間に修行した。まさに得ようとする時、鳥が樹上に鳴いてその心を乱したため、林を去って水辺に至って修禅しようとした。今度は魚が騒いで水を動かしたため、「鳥と魚をことごとく殺してやろう」と思念した。久しくして禅定を得て、無色界の第四天、三界の最頂部にある悲想非非想天に生じた。八万劫の寿を終わって下生すると、飛狸となって、多くの鳥や魚を殺し、無量の罪をえて三悪道に堕したという。

 

講義

 

 この章は、釈の文を引いて、末法に三大秘法の広宣流布することを明かしている。初めに天台・伝教の文を引き、次に「夫れ釈尊の出世……」からは釈の文意を述べ、「例せば阿私仙人……」からは引例、「道心あらん人人……」からは結勘となっている。

 

妙道に沾うとは三大秘法の広宣流布

 

「後の五百歳遠く妙道に沾わん」とは、天台大師の法華文句の文である。いまこの文を引かれるのは、末法の始めより万年の外遠く未来際までも三大秘法が流布するであろうとの意を示さんがためであることは、前述の通りである。さて妙道とは、なぜ三大秘法であるか。これについて日寛上人は「此れは是れ内鑑冷然の奥旨・当流深秘の法門なり」として次のようにお示しになっている。

 道に三の義あり、即ちこれ三箇である。第一に虚通の義、即ちこれ本門の本尊である。文句二にいわく「中理虚通を道と名づく」と。中はいわく中道即妙法蓮華経である。理はいわく実相、即ちこれ一念三千である。およそ妙法の三千は法界に周遍して、さらに壅するところがない。ゆえに虚通という。即ちこれ本門の本尊事の一念三千の南無妙法蓮華経である。

 ゆえに日女御前御返事にいわく「是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中の大牟尼世尊・分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり。されば首題の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等、舎利弗・目連等坐を屈し……此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列坐の二界・八番の雑衆等、一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是を本尊とは申すなり。経に云く『諸法実相』是なり。妙楽云く『実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、乃至十界は必ず身土』云云。又云く『実相の深理、本有の妙法蓮華経』等と云云。伝教大師云く『一念三千即自受用身、自受用身とは出尊形の仏」文。此の故に未曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり」(1243:08)と。

 第二に所践の義、即ちこれ本門の戒壇である。輔正記四にいわく「道は是れ智・所践の故なり」文。信を以て慧に代うるゆえに智はこれ信である。およそ戒壇とは信者の践む所である。ゆえに所践の義は即ち本門の戒壇である。

 ゆえに三大秘法抄にいわく「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」(1022:15)と。蹋とは即践である。

 三に能通の義・即ちこれ本門の題目である。法界次第中にいわく「道をもって能通の義となす」文。本門の題目におよそ二義を具している。一はこれ信・二はこれ行である。この二つが相扶け能通して寂光にいたる。ゆえに能通の義はこれ本門の題目である。天台のいわゆる「智目行足・清涼地に至る」は、これである。

 当体義抄にいわく「日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(0518:15)と云云、即ち、この意である。

 行者はまさに知るべし、信心があっても、唱題の行がなければ盲ではないが跛のようなものである。唱題があってももし信心がなければ、たとえば跛ではないが盲のようなものである。もし信行がともに具足するならば、なお二つながら完全であるようなものである。百論の盲跛の譬を思い合わせよ。ゆえに能く信心の目を開き唱題修行の足を運べ。若ししからば、能通、寂光清涼池にいたらんことを確信すべきである。しからば則ち能通・所践・虚通の三義は即ちこれ三箇の秘法であることは必然である。ゆえに妙道はこれ文底秘沈の大法である。

 報恩抄にいわく「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし……二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし……日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながる(流布)べし」(0328:15)と。これを思い合わせなさい。

 以上によって、妙道とは三大秘法のことであり、末法に三大秘法が広宣流布すべきことを、明らかに知るべきである。

 

末法の初め冥利無きにあらず

 

 妙楽大師の文句記の文である。この文で「冥利」というのは下種益のことである。すなわち釈尊時代のように熟益や脱益が顕われるのとは違うのである。教行証御書にいわく「正像に益を得し人人は顕益なるべし在世結縁の熟せる故に、今末法には初めて下種す冥益なるべし……妙楽の釈の如くんば、冥益なれば人是を知らず見ざるなり」(127706)、また不軽品について法華文句記には「或は冥、或は顕」とあり、輔正記には「或は妙とは毀する者は但冥益を得るのみ、或は顕とは信ずる者は六根清浄の報を得」といっている。この文で毀する者とは下種益をうるゆえに冥利というのである。すなわち教行証御書にいわく「過去の威音王仏の像法に……彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値つて益を得たり、是れ則ち前の聞法を下種とせし故なり」(1276:08)と。不軽菩薩は現に六根清浄をうるゆえに顕益というのである。朝抄では順逆二縁をもって冥顕に配しているが、これははなはだいけないと日寛上人はおおせられている。すなわち末法は順逆二縁ともに下種益である。ゆえに順逆ともに冥益である。どうして順縁をもって顕益となすことができようか。不軽品の意は、能化の不軽を名づけて信者となすゆえに、現に六根清浄を得、これを顕益というのである。所化の順縁をこれに混入してはならない。いま現に順縁の弟子といえども、六根清浄を得ていないことによっても、顕益でないことがわかるのではないか。

 

法華経流布の時・二度あるべし

 

 法華経流布の時は釈尊在世と末法の二度であるとのおおせであるが、すでに天台大師・伝教大師の御時にも法華経が広宣流布したはずであるのに、なにゆえ「二度」とおおせられたか。これについて日寛上人は、像法時代は真実の広宣流布の時ではないと、次の五意を示されている。

 一には、像法は、この経の利生がいまだ盛んでない。そのことを法華経の薬王品第二十三には「衆星の中に月天子もっともこれ第一なり」とあり、薬王品得意抄にいわく「又月はよいよりも暁は光まさり・春夏よりも秋冬は光あり、法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有る可きなり……此の経文に二千年の後南閻浮提に広宣流布すべしと・とかれて候は・第三の月の譬の意なり」(1501:08)と。ゆえに像法には、法華経の利生が盛んでないことを知るのである。

 二には、像法は、諸大乗経の利益があり、よって、ただ法華経のみが唯一無二の即身成仏の大法であるとの妙能が明らかでない。顕仏未来記にいわく「小乗経を以て之を勘うるに正法千年は教行証の三つ具さに之を備う像法千年には教行のみ有つて証無し末法には教のみ有つて行証無し等云云、法華経を以て之を探るに正法千年に三事を具するは在世に於て法華経に結縁する者か、其の後正法に生れて小乗の教行を以て縁と為し小乗の証を得るなり、像法に於ては在世の結縁微薄の故に小乗に於て証すること無く此の人・権大乗を以て縁と為して十方の浄土に生ず、末法に於ては大小の益共に之無し、小乗には教のみ有つて行証無し、大乗には教行のみ有つて冥顕の証之無し、其の上正像の時の所立の権小の二宗・漸漸・末法に入て執心弥強盛にして小を以て大を打ち権を以て実を破り国土に大体謗法の者充満するなり……此の時に当つて……本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(050614)等云云。

 三には、像法には、正直の妙法を弘めざるうえに。立正観抄にいわく「天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうと雖も時至らざるが故に妙法の名字を替えて止観と号す迹化の衆なるが故に本化の付属を弘め給わず正直の妙法を止観と説きまぎらかす故に有のままの妙法ならざれば帯権の法に似たり……本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり」(0529:15)と。

 四には、像法には、事行の三千を顕わさざるゆえに。観心本尊抄にいわく「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず所詮円機有つて円時無き故なり」(0253:11)と。

 五には、像法には、いまだ深秘の大法を弘めざるゆえ。撰時抄にいわく「仏滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親……天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、此の深法・今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきや」(0272:16)と。

 

正像二千年の大王よりも……末法の今の民にてこそあるべけれ

 

 貴い人と卑しい人とを相対して、法の尊卑を決定する段である。これすなわち「法妙なる故に人尊し」ということを明かされるのである。

 正像二時の大王は、たとえ如説修行するとも、なおこれ権迹も行者であって劣り、末法今時の民は如説修行すれば、すなわち本化の菩薩であって遥かに上位となる。あたかも正像の大王は猿のごとく、末法の民は帝釈のごとき相違となる。同じように、仏法を信じ修行しても、このような相違があるのは、時によって弘通される法が違うからである。

 次に「彼の天台の座主」の下は、たとえ天台の座主が末法にいるとしても、爾前・迹門・謗法の行人であって、一切世間の仏種を断ずる罪人である。ゆえにかえって卑賤である。もし本門寿量の正法の行者は、正しくこれ「この人仏道において決定して疑いあることなけん」の善人である。彼の天台真言の最極尊貴の智人碩徳よりも尊いのである。

 折伏を行ずるには、一般大衆と苦しみや悩みをともにしながら仏道修行に励んで、そのなかに御本尊の功徳を身をもって証明し、現実に見せてやらなくては、大衆が信用できない。ゆえに法華経法師品第十には「此の人は……願って此の間に生まれ、広く妙法華経を演べ分別す。……是の人は自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶ」。

 日蓮大聖人が、王侯や貴族に生まれることなく、貧窮下賤の身でお出ましになった理由は、一切衆生を救われんがためであらせられたのである。日寛上人、雑記にいわく「若し帝王将軍家の家に生まれば、さらには軽賎憎嫉あるべからず、もし爾らば、結縁の便り少し、ゆえに微家に誕生し、まさに謫戮等を忍んで全く経文のごとく、身に当てこれを行じ、普く毒鼓の縁を結ぶべし」云云。

 されば善無畏三蔵抄にいわく「日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり威徳なく有徳のものにあらず」(0883:06)と。また佐渡御勘気抄にいわく「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり」(0891:07)ともおおせられている。

 しかして日蓮大聖人の御一生にわたる大難を思うならば、われらが今悩みがあるからといって、それは実に取るに足らない小難であり小悩である。かならず解決できるものと信じて、信心強盛に折伏に励むことが肝要である。

 しかも再三にわたって論じてきたごとく、いま創価学会は世界広布、順縁広布という、かつてない新しい時代を迎えつつある。日蓮大聖人の御入滅後の時代において、中天の太陽のごとき、十五夜の月のごとき時代が、いま到来したのである。実にこのよき時代に生まれ合わせた福運を身に感じて、黄金時代の最中に、戦いぬいていきたいと思うのである。