阿仏房について

 

 本書に収められた13編の御抄はすべて佐渡に在住する人々に与えられたものである。佐渡の人々と日蓮大聖人との関係は、いうまでもなく、大聖人の佐渡御流罪中に始まる。因習の深い、しかも念仏信仰の強い。こうした地で、流人の大聖人を師と仰ぎ、妙法の信心に踏みきることは、それだけでも並み大抵のことではない。

 佐渡の信仰者達は、大聖人の佐渡御在世中にはひそかに種々御供養申し上げるなどしてお護りし、赦免ののち、身延に入山されてからは、はるばる甲州・身延にまで幾度となく、御供養の品を背負ってお訪ねしている。

 そこには、素朴ではあるが、一途な大聖人への真心と、強靭な信仰心がうかがわれる。事実、これらの人々への御消息である本書の諸御抄には、最大の苦難のときに帰依し支えた佐渡の信仰者に対す温かい人間的思いやりと信頼感が、地下水脈のように流れている。

 

一、日蓮大聖人佐渡での御生活

 

塚原三味堂での御生活

 

 文永8年(127110月、鎌倉幕府は日蓮大聖人を佐渡へ配流した。佐渡といえば、神亀元年(0724)に伊豆・安房・常陸・隠岐・土佐とともに流罪の地と定められた所である。「佐渡の国につかはされしかば彼の国へ趣く者は死は多く生は稀なり」(1052:03)とあるように厳しい自然環境の中に、いままで多くの罪人が流されたが、そのほとんどが佐渡の地で生涯を閉じている。

 流刑は笞・杖・徒・流・死の五刑中、死罪に次ぎ、しかも遠流は多くの場合、死罪に代わるものであった。日蓮大聖人は、この佐渡で25か月にわたって流人として過ごされたのである。

 1010日、依智を出発。その夜は武蔵国久目河(東京都東村山市久米川町)に泊まり、児玉(埼玉県児玉郡児玉町)を経て、1021日、寺泊(新潟県)に到着。日本海は荒れもようで、波の静まるのを待ち、1028日、佐渡に到着。配所の塚原三昧堂に入られたのは、111日であった。

 塚原の地は、守護代・本間六郎左衛門の館の後方にあり、死人の捨て場のようなところであった。そこにあった三昧堂は、一間四面の小さな堂で、本来、人の住む建物ではなく、長年修理もされていなかったらしく極度に荒廃していた。その様子について次のように記されている。

 「そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし」(1413:17

 「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし」(0916:04

 こうしたところで、日蓮大聖人は「法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり」(1413:18)、「雪にはだへをまじえ、くさをつみて命をささえたり」(1325:12)、「昼夜・耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり、現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ」(1052:08)と、着るものも、食べるものも乏しい、寒さと飢えによる苦しみを一身に受けられながらの毎日を過ごされたのである。

 しかも佐渡の念仏者は、大聖人を亡きものにしようと、常に機会をうかがい「彼の国の道俗は相州の男女よりもあだをなしき」(1325:01)、「地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、かよう人あるをまどわさんと」(1313:13)とあるように、島の念仏者が大聖人に近づく者がないように常に監視していた。

 

阿仏房・国府入道の外護

 

 こうした流人の身として、絶えず生命の危険にさらされた生活のなかにあって、一人二人と大聖人の教えに帰依する者がでてきた。阿仏房夫妻、国府入道夫妻等であった。「阿仏房にひつをしおわせ、夜中に度度御わたりありし事」(1313:14)、「しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或る時は国のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人人なり」(1325:05)と、大聖人は、後年、感謝の意をこめてしたためられている。

 大聖人を佐渡で亡きものにしようと企んだ幕府権力者達の意を受けて、大聖人の住居の近くを歩いただけでも信仰者達を牢につなぎ厳しい取り調べをした時であった。ましてや、日蓮大聖人に食物を運んでいることがわかれば、どのような咎めを受けるかわからなかった。おそらく生命にもかかわったであろう。「或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ 或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子をとる」(0920:11)、「或は所ををい、或はくわれうをひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給いぬ」(1314:01)とあることからも、その厳しさがうかがわれる。

 しかし、これほどの危険を冒しても、阿仏房夫妻、国府入道夫妻は、昼は監視の目が厳しいので、夜中に人目につかないように、食物をはじめ、不足しがちの紙、硯、墨など種々御供養申し上げたのである。

 こうした真心と勇気ある行為に対して、大聖人は「いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか」(1313:01)「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。浄行菩薩はうまれかわり給いてや日蓮を御とぶらい給うか。不思議なり不思議なり」(1304:15)とまで賞められている。

 

一谷入道・中興入道夫妻等の外護

 

 その後、文永9年(12724月、大聖人は、塚原の地から石田郷一谷にある一谷入道の館に移された。

 一谷に移されて、状況は塚原の地より恵まれてきたようであるが、流罪の生活に変わりはなく、まして念仏者等の憎悪の念は、文永9年(1271)の1月の塚原問答に破れたことから、いよいよ増していた。「預りたる名主等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありし」(1328:18)という状態であった。

 しかも「預りよりあづかる食は少し。付ける弟子は多くありしに、僅の飯の二口三口ありしを、或はおしきに分け、或は手に入て食しに」(1329:01)とあるように、一段と食糧に事欠くようになっていた。それは大聖人に支給される食糧はきわめて少ないうえに、「是へ流されしには一人も訪う人もあらじとこそおぼせしかども、同行七八人よりは少からず」(1132:07)と、大聖人に給仕する弟子の数が多くなっていたからである。

 こうした一谷の生活の中にあっても、実際に大聖人を預った一谷入道夫妻も内心、大聖人に帰依し、外護の任を果たすようになっていった。

 一谷入道は「久しく念仏を申しつもりぬ。其の上阿弥陀堂を造り、田畠も其の仏の物なり」(1329:06)とあるような念仏者であった。しかし「宿の入道と云ひ、妻と云ひ、つかう者と云ひ、始はおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内内不便と思ふ心付きぬ……宅主内内心あって、外にはをそるる様なれども内には不便げにありし事」(1329:01)とあるように、初めは大聖人に接するのに恐れを抱いていたようではあるが、徐々に一族皆好意をもつようになり、食糧の面でも優遇するようになっていった。しかも「入道の堂のらうにて、いのちをたびたびたすけられたりし事」(1315:03千)といわれている点からみても、たびたび大聖人を危機から護っていたようである。

 また中興(佐渡郡金井町中興)に住む中興入道の父・次郎入道も大聖人に帰依し「島にてあだむ者は多かりしかども、中興の次郎入道と申せし老人ありき。彼の人は年ふりたる上、心かしこく身もたのしくて、国の人にも人とをもはれたりし人の、此の御房はゆへある人にやと申しけるかのゆへに、子息等もいたうもにくまず。其の已下の者どもたいし彼等の人人の下人にてありしかば、内内あやまつ事もなく、唯上の御計いのままにてありし程に」(1333:10)と中興入道消息にもあるように、人望も厚く、身分のある人ではあったが、大聖人を恨む人々が鎌倉よりも多いなかにあって、大聖人に帰依し、「この御房は何かいわれのある人に違いあるまい」と子の中興入道や家族の者に厳命するなど大いに外護の任を果たしていた。

 子の中興入道もまた「故入道殿のあとをつぎ、国主も御用いなき法華経を御用いあるのみならず、法華経の行者をやしなはせ給いて」(1334:17)と父の跡を継ぎ、大聖人の生活を支えるために種々の御供養を差し上げたのである。

 こうした人々に対しても「何の世にかわすれん。我を生みておはせし父母よりも、当時は大事とこそ思いしか。何なる恩をもはげむべし。まして約束せし事たがうべしや」(1329:04)と、自分の父母よりも大事に思い、その真心に応えられたのである。

 さらに、この4月には鎌倉から四条金吾が、5月には日妙尼が幼子を連れて、はるばる御供養の品々を携えて佐渡まで大聖人を訪ねて来たし、遠近の弟子・檀那からは、種々の消息・御供養が届くようになり、生活も塚原の時と比べると徐々にではあるが安定してきた。

 しかし、念仏者の唯阿弥陀仏、持斎の生喩房、良観の弟子・道観などが相変わらず大聖人を亡き者にしようと画策し、武蔵守宣時に早く処置するようにと訴え、宣時はそれに応えて、三度も私製の御教書を出すなど、弟子檀那を近づけないようにと大聖人の身辺の厳しい取り締まりは続いていた。

 

重書の執筆

 

 日蓮大聖人は、このような佐渡の地で、日蓮仏法の骨格ともいえる重要な法門についての御抄を次々と著された。竜口法難以後、久遠の本地を顕された大聖人にとって、末法救済の大法を明確に遺すことが、単に門下のためのみならず、万年の未来までの全民衆のために、なさねばならない仕事であったからである。

 文永9年(1272)の「開目抄」「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「佐渡御書」、文永10年(1273)の「観心本尊抄」「諸法実相抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」「当体義抄」等々30数編にのぼっている。特に、文永九年二月に塚原で著された人本尊開顕の書「開目抄」と、文永104月に一谷で著された法本尊開顕の書「観心本尊抄」は、日蓮大聖人の奥義を明かす二大柱石とされている。

 しかもこうした重要な御抄が、「佐渡の国は紙候はぬ上」(0916:07)とあるように、ともすれば筆紙の窮乏の中でしたためられたのであり、「観心本尊抄」の御真筆を拝しても、紙は一様ではなく、全17紙中、前半は和紙、後半は雁皮紙が使われ、さらに表と裏にしたためられているなど、いかに物資の不足した大変な状況の中で執筆されていたかがうかがわれる。

 

佐渡流罪赦免

 

 こうした佐渡での生活も、文永11年(12742月、幕府の流罪赦免によって終わりを告げた。赦免状は214日に発せられ、佐渡へは38日に到着した。

 赦免の理由は「科なき事すでにあらわれて、いゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計らひばかりにて、ついにゆりて候いて」(1333:14)とあるように、無実の罪であることはすでに明らかであったし、自界叛逆、他国侵逼等の予言が的中していた。それでもなお北条一門をはじめ、諸大名はこぞって反対したが、執権・北条時宗の裁量によって赦免決定がなされたようである。

 文永11年(1274313日、真浦港を出発、信濃路を経て鎌倉へ向かった。阿仏房・国府入道・中興入道・一谷入道等の佐渡の人々にとっては、大聖人が流罪を許されて鎌倉へ帰られることは、喜ばしいことではあったが、半面、二年五か月にわたって親しく給仕してきた大聖人と別れることはとても辛いことであったであろう。

 大聖人にとっても、同様であった。「そりたるかみをうしろへひかれ、すすむあしもかへりしぞかし」(1325:06)と、その心境を述べられている。

 一方、佐渡の念仏者は、大聖人を阿弥陀仏の敵として、生きて鎌倉へは帰すまいと企んでいた。種種御振舞御書には「念仏者等・僉議して云く此れ程の阿弥陀仏の御敵・善導和尚・法然上人をのるほどの者が・たまたま御勘気を蒙りて此の島に放されたるを御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云うて、やうやうの支度あり」(0920:13)とある。

 しかし「何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五十日にもわたらず、順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ」(0920:15)と、予期せぬ順風に恵まれて対岸へ渡ることができ、そのため、念仏者は全く危害を加えることができなかったようである。

 かくして「去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉へ入り」(0322:01)とあるように、二年半ぶりで無事鎌倉へ帰られたのである。

 

二 身延入山後の佐渡の人々

 

身延入山

 

 文永11年(1274326日に日蓮大聖人は、鎌倉に着かれた。そして4月、三度目の国主諌暁をされたあと「上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(0358:04)とあるように、鎌倉を去る決意をされ、波木井郷・身延の地を選ばれて、517日入山された。

 身延の地は「北には身延の嶽・天をいただき南には鷹取が嶽・雲につづき東には天子の嶽日とたけをなじ西には又峨峨として大山つづきて・しらねの嶽にわたれり、猨のなく音天に響き蝉のさゑづり地にみてり」(1394:02)、また「このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間・山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず」(1551:04)等とあるように、周囲を険しい山に囲まれ、激しい河の流れにはさまれた奥深い所であった。

 しかし、大聖人が草庵に落ち着かれたことを知ると、各地から弟子檀那が大聖人を慕って身延の地を訪れた。そして、大聖人はこの深山で、法門の講義、弟子の育成、令法久住への戦いを展開されたのである。

 こうして大聖人のもとを訪れる弟子檀那の中に、遠く佐渡に住む阿仏房や国府入道の姿も見られた。

 

阿仏房・国府入道の身延参詣

 

 当時、佐渡から身延まで、どのような経路で行ったかは定かではないが、阿仏房は、およそ20日ほどの日数を経て身延へ着いている。その間、海を渡り、山を登り、谷を越し、文字通り険難の道であった。また当時は、山賊や海賊がしばしばあらわれ、宿泊すべき宿も少なく、食糧も持ち歩かなければならなかったであろう。

 そのうえ、文永11年(127410月には、蒙古の大軍が壱岐・対馬を侵略し、嵐による壊滅後、翌建治元年(12759月には、幕府に再度入貢をすすめにきた蒙古の使者を鎌倉で斬首している。また建治3年(1277)の秋頃より、翌弘安元年(1278)の春にかけて疫病が大いに流行している。

 このように内外が騒然とした中での長旅は、常に生命の危険にさらされることを十分覚悟の上でなければできない難事であった。

 しかし、阿仏房はこうした幾多の障害を乗り越え、貯えた銭や、千日尼が女性らしい細やかさで調えた心尽くしの干飯、また山中では得難いと思われる海苔・わかめなどの品々を携え、身延へ向かったのである。

 弘安元年(12787月、阿仏房は高齢をおして、大聖人のもとへ3回目の参詣をした。大聖人は、この老いた夫を快く送り出した妻の信心を称嘆された千日尼御前御返事の中で「人は見る眼の前には心ざし有りとも、さしはなれぬれば、心はわすれずともさでこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間、此の山中に候に、佐渡の国より三度まで夫をつかはす、いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく、大海よりもふかき御心ざしぞかし」(1314:04)と喜ばれている。

 また、この年は前述の通り疫病の流行した時でもあった。大聖人は、はるばる訪ねた阿仏房の姿を見つけ、心せくままに、佐渡の人達の状況を、まず問うておられる。

 同御返事には「七月二十七日の申の時に阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにと、まづといて候いつれば、いまだやまず、こう入道殿は同道にて候いつるが、わせはすでにちかづきぬ、こわなし、いかんがせんとてかへられ候いつるとかたり候いし時こそ、盲目の者の眼のあきたる、死し給える父母の閻魔宮より御をとづれの夢の内に有るを、ゆめにて悦ぶがごとし」(1314:12)と。

 心にかかっていた佐渡の懐かしい人々が、疫病の流行にもかかわらず、元気で信心に励んでいる様子を喜ばれ、安堵されているお気持が切々と伝わってくる御文である。この時は、国府入道も途中まで、阿仏房と同道したが、稲の刈り入れのため、やむなく引き返した。しかし、それ以前にも、数回、御供養の品を携え、身延に参詣している。

 こうして大聖人のもとを訪れた人々は、是日尼御書に「又今年来りてなつみ、水くみ、たきぎこり、だん王の阿志仙人につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ」(1335:01)とあるごとく、大聖人やお弟子達の身の回りの世話をしつつ、10日、1月と過ごしたようである。

 しかし大聖人が心にかけられたのは、現実に眼前にやってきた夫達以上に、このように夫を送り出し、留守を守っている夫人達のことである。

 千日尼御前御返事には「佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に、女人の御身として法華経を志しましますによりて、年年に夫を御使として御訪いあり。定めて法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏、其の御心をしろしめすらん……御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり」(1316:14)と。また国府尼御前御書には「又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかいにてつかはされて候。ゆめかまぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ」(1315:07)と。

 夫をはるか遠く旅立たせ、日々無事を祈りながら留守を守っていた夫人達にとって、たとえ身は遠い佐渡の地にあったとしても、その心はすでに師のもとにあるとの大聖人のお言葉に、どれ程感激したことであろうか。

 更に大聖人は、こうした夫人達に「弥信心をはげみ給うべし。仏法の道理を人に語らむ者をば、男女僧尼必ずにくむべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是れなり……此の度大願を立て、後生を願はせ給へ」(1308:04)と信心を励まされている。

 とくに千日尼は、夫の身延参詣のたびに、御供養の品に添えて、法門について種々おうかがいの手紙を託している。そして大聖人からは「尼御前の御身として謗法の罪の浅深軽重の義をとはせ給う事、まことにありがたき女人にておはすなり。竜女にあにをとるべきや」(1308:11)と賞められている。

 また国府入道夫妻に対しては「子息なき人なれば御としのすへには、これへとをぼしめすべし」(1323:08)と、老後のことにまで温かな配慮をされている。

 やがて、阿仏房は、弘安2年(1279321日、佐渡でその生涯を終えた。純真な信心を全うした阿仏房に対し、大聖人は千日尼御返事の中で「故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑うとも、法華経の明鏡をもって其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」(1319:13)とおおせられている。

 その年の7月、阿仏房の子・藤九郎は、遺骨を大聖人のもとへ納めるべく、身延を訪れた。その後、父の跡を継ぎ、法華経の行者として、佐渡・北陸方面の弘教に励んだ。

 このように、佐渡に住む人々は大聖人のもとからは、海・山をはるかに隔てた地にありながら、大聖人を心から慕い、大聖人に直結した信心を貫いていったのである。

 藤九郎は、父亡き後、母の千日尼と共に信仰を貫き、弘教に励んだ。後に出家して、自らの邸を寺とし、現在の妙宣寺の基となしたといわれる。さらにこの佐渡・北陸方面の法燈は、藤九郎の孫、そして阿仏房の曾孫である日満に続く。

 日満は幼くして富士に登り、日興上人を師として出家得度し修行に励んだ。弱年にもかかわらず、日興上人の厚い信頼を受け、北陸道の大導師と期待されている。そして興師の御遷化後、佐渡へ帰還し、妙宣寺を中心に弘教に励んだ。

 他の多くの地域では、大聖人亡きあと、五老僧の流れに染まっていったのに対し、佐渡が、日興上人に直結して、正法の伝燈を守り抜いたことは特筆すべきであろう。