1419~1420 妙法比丘尼御前御返事 1419:01~1419:02 第一章 迫害に動ぜぬ尼の信心をたたえる
本文
妙法比丘尼御前御返事
明衣一つ給び畢んぬ、女人の御身・男にもをくれ親類をも・はなれ一二人ある・むすめもはかばかしからず便りなき上・法門の故に人にも・ あだまれさせ給ふ女人・さながら不軽菩薩の如し、
現代語訳
明衣一つ頂戴しました。
あなたは、女人の御身として、夫に先立たれ、親類も離れ、一人二人ある娘もあまりしっかりしていず、たよりにならないうえ、法華経の法門のゆえに人に怨まれる女人のあなたは、まるで不軽菩薩のようです。
語釈
明衣
入浴後、または夏季に着る麻の単衣のこと。明衣は明潔な衣の意で、一般には、斎戒を持つ者が沐浴の後に着る衣をさす。ここから、本抄では「ゆかたびら」と訓じられたものと思われる。「ゆかたびら」は、「ゆぐ」「ゆまき」「ゆかた」とも称する。
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。一方、不軽を軽賤・迫害した者は改悔したが、消滅しきれなかった余残によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。
講義
本抄の宛名は妙法尼となっている。妙法尼は四人いるとされる。一は、駿河国岡宮の人。二は、四条金吾の母。三は、佐渡中興に住む中興入道の母で、大聖人が佐渡御流罪中に帰依し、身延入山後もしばしば音信を寄せていたといわれる。四は、日目上人の父・新田五郎重綱の母である。本抄をいただいた妙法尼は、駿河(静岡県中央部)の岡宮に住んでいた妙法尼とされている。御真筆が残っていず、日時も記されていないが、弘安4年(1281)の御執筆であると推定されている。また、冒頭の御言葉から「明衣書」との別名がある。
内容は、女人の身として周囲の反対のなか信心を貫いている妙法尼の信心を、釈尊の姨母・摩訶波闍波提の姿と比較しつつ、賛嘆・激励され、仏の加護は間違いないことを述べられた御手紙である。
最初に妙法尼の御供養を謝されたあと、尼の境遇に触れられている。それによると、尼は夫に先立たれ、親類からも離れ、また、一人二人いる娘もたよりにならない。いずれにしてもその後に、尼が法門のゆえに人に憎まれていると仰せになっていることから拝すると、親類と疎遠になっているというのも、尼が信心をしていることと無関係ではあるまい。
こうした尼の状況はあたかも不軽菩薩のようであると仰せである。法華経常不軽菩薩品第二十で不軽菩薩は「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏(我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)」と述べ、すべての人を礼拝したが、この行為に対して、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆は杖・木・瓦・石をもって打擲したと説かれている。すべての人に仏性があるとして礼拝する不軽菩薩に対して、人々は無知の比丘であるとして誹謗・迫害したのである。妙法尼も、女性としては教養があったように考えられるが、女性の身で修行に励むなかで、無智の者と悪口罵詈されることもあったであろう。それも、世間のことで非難を浴びるのでなく、「法門の故」に人に憎まれるということは、まことに尊いことである。大聖人はさまざまな御書で、世間の浅いことに命を捨てることは数しれないが、仏法のために命を捨てることはまれであると仰せになっている。尼はまさしく仏法のために人にあだまれているのであり、その四面楚歌の状況は、まさに不軽菩薩と同じであったにちがいない。
大聖人が尼に対し、不軽菩薩と同じであると仰せになられたことには重要な意味がある。不軽菩薩が四衆から迫害を受けたのは、折伏したゆえである。すなわち、人々に仏性があるといって礼拝したのに、四衆は杖木瓦石をもって迫害した。それでも不軽菩薩はしいて礼拝の行を続けたのである。これが不軽菩薩の折伏である。尼は、本抄の後半部分に「法華経を弘め」と仰せのように、折伏を行じていた。其のゆえに人々から怨嫉されたのである。大聖人は御自身の振る舞いについて、正像の摂受と違い、末法において折伏を行じたことを述べられるにあたり、諸御抄で「日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」(0954:01)「日蓮は過去の不軽の如く」(0960:11)等と仰せである。妙法尼の折伏、それによる法難は日蓮大聖人の教えを正しく実践しているがゆえであるとのおほめの言葉として、「さながら不軽菩薩の如し」と仰せになっているのである。